【世界史】フランク王国の発展とカール大帝:ピピンの寄進からヴェルダン条約まで徹底解説

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フランク王国は、西ヨーロッパ中世史の中心に位置する国家です。

メロヴィング朝からカロリング朝へ、ピピン3世の王位簒奪、ピピンの寄進と教皇領の成立、カール大帝の戴冠、そしてヴェルダン条約による王国分裂まで──。

これらの出来事は、中世ヨーロッパ世界の形成を理解する上で欠かせません。

特に大学入試では、

  • ピピンの寄進と教皇領成立
  • カール大帝の戴冠(800年)
  • ヴェルダン条約とメルセン条約
  • 封建制度への布石

といったテーマが頻出します。

この記事では、ピピン3世の寄進を中心に、フランク王国の発展を時系列で整理し、入試で得点するための重要ポイントを徹底解説します。

【ときおぼえ世界史シーリーズ】では、大学受験世界史で頻出のポイントを押さえつつ、章末には関連する論述問題や一問一答も用意しているので、入試対策にも最適です。

また、大学入試では、用語の暗記だけでなくどのような切り口で試験に理解することが重要です。

次の【フランク王国の発展とカール大帝 総合問題演習50本勝負】では、MARCHレベル、早慶レベルの問題をこなすことができますので、この記事をお読みになった後、チャレンジをしてみてください。

目次

第1章 フランク王国の成立とカロリング朝への移行

フランク王国は5世紀末にクローヴィスが建国したメロヴィング朝から始まりました。

しかし次第に国王の権威は低下し、「怠け者の王」と揶揄されるほど政治的実権を失います。その中で台頭したのが宮宰であり、やがてカロリング家のピピン3世が王位を簒奪し、新たな時代が始まりました。

ここでは、メロヴィング朝末期からカロリング朝成立、そしてピピンの寄進による教皇領成立までを詳しく見ていきます。

用語解説:宮宰(きゅうさい)とは

フランク王国で国王に代わって政治を取り仕切った最高官職のことです。

ラテン語で「宮廷を管理する者」を意味する major domus(メジャー・ドムス) に由来します。

1. 宮宰の役割

  • 本来は王宮の家政や儀式を取り仕切る役職。
  • しかし、メロヴィング朝後期になると国王の権威が衰え、宮宰が実質的な最高権力者に
  • 軍事・財政・裁判なども事実上、宮宰が統括。

2. 代表的な宮宰

宮宰活躍ポイント
カール・マルテル732年 トゥール=ポワティエ間の戦いでイスラーム軍を撃退「キリスト教世界の守護者」として評価
ピピン3世751年 メロヴィング朝を廃してカロリング朝を開く王位承認をローマ教皇から得た

3. 受験でのポイント

  • 「宮宰=王に代わって実権を握る官職」
  • カール・マルテル・ピピン3世と絡めて覚えると出題対策になる。
  • よく問われる流れ:
    メロヴィング朝衰退 → 宮宰台頭 → ピピン3世の王位簒奪 → カロリング朝成立

一言でまとめると

宮宰=フランク王国で「王より偉い家臣」
→ メロヴィング朝後期には実質的な国王代理になった役職

1-1. メロヴィング朝からカロリング家へ

5世紀末、クローヴィス(在位481〜511)はフランク族を統一し、アタナシウス派キリスト教に改宗することでローマ教会と結びつきました。

アタナシウス派は325年のニケーア公会議で決定された「正統教義」に基づく、キリスト教三位一体説を支持する宗派です。覚えていましたか?

しかし、多くのゲルマン民族はアリウス派でした。

ゴート族・ヴァンダル族など、多くのゲルマン民族は4世紀以降にキリスト教を受容しましたが、当初はアリウス派です。そのため、ローマ帝国の正統派住民(アタナシウス派)と宗教的対立を抱えていました。

さすがに、ローマ教皇もアリウス派とは、手を結ぶことはできません。そんな背景でのクローヴィスの改宗は大きな出来事でした。

しかし7世紀以降、王権は弱体化し、地方貴族や宮宰が実権を握るようになります。

特にカロリング家出身の宮宰たち、すなわちピピン2世カール・マルテルが軍事力と財力を掌握し、メロヴィング王家は形式的存在となりました。

732年のトゥール=ポワティエ間の戦いでカール・マルテルがイスラーム勢力を撃退したことは、キリスト教世界防衛の象徴として重要です。

・ピピン2世(中ピピン):宮宰 → 実権を握る
・カール・マルテル:宮宰 → 732年イスラーム撃退
・ピピン3世(小ピピン):王 → カロリング朝創始者

カール・マルテルが撃退したイスラーム勢力は何王朝だったか分かりますか?

トゥール=ポワティエ間の戦いで、フランク王国軍と対峙したイスラーム軍は、ウマイヤ朝の軍です。

イスラーム側王朝:ウマイヤ朝(首都:ダマスクス)

指揮官:アブドゥル=ラフマーン(アンダルス総督)

アンダルスとは?

711年、ウマイヤ朝軍が西ゴート王国を滅ぼした後、イベリア半島に設置したイスラーム政権の名称です。

1-2. ピピン3世の王位簒奪と教皇との結びつき

751年、宮宰ピピン3世は、ローマ教皇ザカリアスの承認を得て、最後のメロヴィング王キルデリク3世を退位させ、カロリング朝を開くことに成功しました。

このとき、「王権は誰が与えるのか」という問題が生じますが、教皇がピピンを承認したことで、「教皇が世俗権力を承認する」という構図が生まれました。

この出来事は、後の皇帝権と教皇権の対立へとつながる重要な前提です。

1-3. ピピンの寄進と教皇領の成立

754年、教皇ステファヌス2世はランゴバルド王国に脅かされる中、ピピン3世に救援を求めます。

ピピンは2度にわたってイタリア遠征を行い、ランゴバルド人を撃退。その結果、ラヴェンナ地方をローマ教皇に寄進しました。

これを「ピピンの寄進」と呼びます。

この寄進により、ローマ教皇は初めて独自の領地、すなわち教皇領を得ることになり、教皇権の強化が進みます。

ここから、

  • 教皇とカロリング家の強固な結びつき
  • イタリア政策の始まり
  • 皇帝権と教皇権の複雑な関係

という3つの重要テーマが動き始めます。

※ピピンの寄進を受けた教皇は、一般的にはステファヌス2世とされていますが、ステファヌス3世とされる場合もあるとのことです。詳しい事情は、外部サイト世界史の窓に詳しく書かれていますが、受験的には、ステファヌス2世とだけ覚えておけば十分でしょう。

1-4. ピピン時代の意義と入試頻出点

ピピン3世の寄進は、単なる領地の移譲ではありません。

それは「世俗権力と宗教権力の相互承認」の原点であり、後の中世ヨーロッパにおける教皇と皇帝の対立構造を理解する上で欠かせません。

1-5. 入試で狙われるポイント

  • メロヴィング朝末期の王権低下と宮宰の台頭
  • ピピン3世の王位簒奪と教皇承認の関係
  • ピピンの寄進と教皇領成立の意義
  • 後の皇帝権と教皇権の対立への伏線

重要論述問題にチャレンジ

ピピン3世の寄進と教皇領の成立が、中世ヨーロッパの政治体制に与えた影響について説明せよ。(200字以内)

ピピン3世は教皇ステファヌス2世を支援し、ランゴバルド人から奪還したラヴェンナ地方を寄進した。これにより教皇領が成立し、ローマ教皇は独自の領土と強固な世俗権力を獲得した。一方で、教皇はピピンをフランク王として承認し、世俗権力と宗教権力の相互承認体制が確立した。この構造は、後の皇帝権と教皇権の対立や神聖ローマ帝国の成立に大きな影響を与えた。

一問一答+正誤問題に挑戦しよう!

第1章: 一問一答&正誤問題15問 問題演習

一問一答(10問)

問1 フランク王国を建国した人物は誰か。

解答:クローヴィス

問2 クローヴィスが改宗したキリスト教の宗派は何か。

解答:アタナシウス派

問3 732年のトゥール=ポワティエ間の戦いでイスラーム軍を撃退した宮宰は誰か。

解答:カール・マルテル

問4 カロリング朝を開いた人物は誰か。

解答:ピピン3世

問5 ピピン3世が王位に就く際、承認を与えたローマ教皇は誰か。

解答:ザカリアス

問6 ピピン3世がローマ教皇に寄進した土地を何と呼ぶか。

解答:ピピンの寄進

問7 ピピンの寄進によって成立した領地を何というか。

解答:教皇領

問8 ピピン3世の寄進で得た土地はもともとどこの王国の支配下にあったか。

解答:ランゴバルド王国

問9 ピピンの寄進で寄与を受けた教皇は誰か。

解答:ステファヌス2世

問10 ピピン3世の王位簒奪が後の皇帝と教皇の関係に与えた影響を簡潔に述べよ。

解答:教皇が世俗権力を承認する先例となり、後の皇帝権と教皇権の対立につながった。

正誤問題(5問)

問1 クローヴィスはアリウス派に改宗した。

解答:誤(正しくはアタナシウス派)

問2 トゥール=ポワティエ間の戦いで敗れたのはフランク軍であった。

解答:誤(敗れたのはイスラーム軍)

問3 ピピン3世は教皇ステファヌス2世から戴冠を受けた。

解答:正

問4 ピピンの寄進で寄与を受けたのは東ローマ皇帝である。

解答:誤(ローマ教皇である)

問5 ピピン3世の寄進により、教皇は初めて世俗的な領土を獲得した。

解答:正

第2章 カール大帝の帝国と皇帝戴冠(800年)

ピピン3世の死後、フランク王国を継承したのがその子、カール大帝(シャルルマーニュ)です。

彼は積極的な遠征と内政改革を進め、当時の西ヨーロッパで最大の領土を支配する帝国を築き上げました。

さらに800年、ローマ教皇から「西ローマ帝国皇帝」の冠を授かり、キリスト教世界の盟主としての地位を確立します。

カール大帝は大学入試で頻出する人物の一人で、

  • サクソン人征服
  • カロリング・ルネサンス
  • 800年の戴冠とその意義

といったテーマが特に狙われます。

コラム:「マホメットなくしてシャルルマーニュなし」という言葉の意味とは?

世界史を勉強し始めたばかりの頃は、カール大帝という華やかな英雄が、まるで全世界を制覇する勢いだったとイメージする学習者が多いです。

さらに、732年のトゥール=ポワティエ間の戦いでイスラーム軍を撃退したという事実が、その印象を一層強め、「当時のフランク王国はヨーロッパ最強だったに違いない!」と錯覚しがちです。

しかし、800年当時の現実を見ると、イスラーム帝国はイベリア半島から中東・北アフリカ・中央アジアにまで及ぶ広大な領域を支配していました。
それに比べると、カール大帝のフランク王国は西ヨーロッパの一角をまとめたに過ぎず、その影響力はイスラーム帝国に遠く及ばなかったのです。
むしろ、強大なイスラーム勢力という外圧があったからこそ、カール大帝は「キリスト教世界の守護者」として存在感を高めることができたと言えます。

この有名な言葉を切り口に入試問題が作成させることがあります。詳しくは次の記事をご覧ください。

2-1. カール大帝の拡大政策とサクソン人征服

カール大帝(在位768〜814)は父ピピン3世の遺領を継ぎ、積極的な遠征を行いました。
特に重要なのは以下の3点です:

2-1-1. サクソン人征服(772〜804)

  • ドイツ北部のサクソン人は異教徒であったため、キリスト教化を目的とした長期遠征を実施。
  • 30年以上にわたる戦争の末、サクソン人を服属させ、カールはキリスト教世界の防衛者としての地位を確立しました。

2-1-2. ランゴバルド王国の征服(774)

  • 父ピピンの代から続いたイタリア政策を継承。
  • ランゴバルド王国を滅ぼし、北イタリアをフランク領に組み込みました。

2-1-3. スペイン方面への進出(778)

  • イスラーム勢力の後ウマイヤ朝に対抗するため、ピレネー山脈を越えて進軍。
  • ロンスヴォーの戦いで苦戦を強いられつつも、スペイン辺境領を設置し、国境防衛を固めました。

2-2. カロリング・ルネサンスと文化政策

カール大帝は軍事面だけでなく文化政策にも力を入れました。
その中心となったのが「カロリング・ルネサンス」と呼ばれる学問復興運動です。

2-2-1. 宮廷学校とアルクィンの招聘

  • 宮廷に学問所を設け、イギリスの学僧アルクィンを招聘。
  • ラテン語の文法・神学・古典研究を奨励し、聖職者教育を整備。

2-2-2. 古典文化の継承

  • 古代ローマ・ギリシア文化の写本保存に尽力。
  • 「カロリング小文字体」と呼ばれる書体を整備し、写本文化を発展させた。

この学問復興は後の中世文化に多大な影響を与えました。

2-3. 800年の皇帝戴冠とその意義

800年12月25日、ローマのサン・ピエトロ大聖堂で、カール大帝はローマ教皇レオ3世から「ローマ皇帝」の冠を授けられました。

これにより、西ローマ帝国滅亡(476年)以来途絶えていた皇帝号が復活します。

2-3-1. 戴冠の背景

  • 教皇レオ3世はローマ市民からの反発に苦しんでおり、カールの軍事力を頼っていた。
  • 一方、カールは教皇を庇護することで、キリスト教世界の盟主としての正統性を得る狙いがあった。

2-3-2. 戴冠の意義

  • キリスト教世界の再統合を象徴。
  • 教皇が皇帝を立てる」という構図が明確化。
  • これが後の皇帝権と教皇権の対立の出発点となる。

2-4. カール大帝の帝国統治と限界

カール大帝は広大な領土を伯・伯領制で統治しました。

  • 各地に伯(カウント)を派遣し、行政・司法・軍事を委任。
  • 巡察使を派遣して伯を監督する中央集権的制度を試みた。

しかし、カール大帝の死後、帝国は急速に分裂します。

  • 広大な領域を維持する仕組みが不十分であったこと。
  • 王族間の相続争いが激化したこと。

この問題は第3章のヴェルダン条約で詳しく見ます。

2-5. 入試で狙われるポイント

  • サクソン人征服とキリスト教化政策
  • カロリング・ルネサンスとアルクィンの招聘
  • 800年のローマ皇帝戴冠とその意義
  • 皇帝権と教皇権の対立への伏線
  • カール大帝の統治制度(伯・伯領制、巡察使)

重要論述問題にチャレンジ

800年のカール大帝の皇帝戴冠が、中世ヨーロッパの権力構造に与えた影響を200字以内で説明せよ。

800年、ローマ教皇レオ3世はカール大帝にローマ皇帝の冠を授けた。これにより、西ローマ帝国滅亡後途絶えていた皇帝号が復活し、フランク王国はキリスト教世界の盟主となった。しかし同時に「教皇が皇帝を立てる」という構図が成立し、宗教権力と世俗権力の主導権を巡る対立の火種となった。この戴冠は後の神聖ローマ帝国や叙任権闘争に大きな影響を及ぼした。

一問一答+正誤問題に挑戦しよう!

第2章: 一問一答&正誤問題15問 問題演習

一問一答(10問)

問1 カール大帝の父でカロリング朝を開いた人物は誰か。

解答:ピピン3世

問2 カール大帝がサクソン人を服属させた目的は何か。

解答:キリスト教への改宗を強制するため

問3 ランゴバルド王国を滅ぼしたのは誰か。

解答:カール大帝

問4 カール大帝が設置したスペイン国境防衛地帯を何というか。

解答:スペイン辺境領

問5 カロリング・ルネサンスで招聘されたイギリス出身の学者は誰か。

解答:アルクィン

問6 カロリング小文字体とは何か。

解答:写本保存のため整備された新しい書体

問7 800年にカール大帝に皇帝冠を授けたローマ教皇は誰か。

解答:レオ3世

問8 カール大帝が地方統治のために派遣した役人を何と呼ぶか。

解答:伯(カウント)

問9 伯を監督するため中央から派遣された役人を何というか。

解答:巡察使

問10 カール大帝の死後、帝国が分裂する原因となった条約は何か。

解答:ヴェルダン条約

正誤問題(5問)

問1 カール大帝は東ローマ皇帝からローマ皇帝の冠を授けられた。

解答:誤(授けたのはローマ教皇レオ3世)

問2 サクソン人征服はキリスト教布教を目的としていた。

解答:正

問3 カロリング・ルネサンスではギリシア語文献よりラテン語文献が重視された。

解答:正

問4 カール大帝の統治は巡察使制度によって中央集権的だったが、その後も帝国は安定して維持された。

解答:誤(死後まもなく帝国は分裂した)

問5 800年の皇帝戴冠は、皇帝権と教皇権の対立の出発点となった。

解答:正

第3章 フランク王国の分裂とヴェルダン条約(843年)

カール大帝の死後、フランク王国はその広大な領土をめぐって王族間の相続争いに巻き込まれました。

その結果、843年のヴェルダン条約によって王国は3分割され、後の西ヨーロッパ諸国家の原型が形成されます。

ここでは、ヴェルダン条約とその後のメルセン条約までを詳しく解説し、世界史入試で頻出する地図問題や条約の意義を整理します。

3-1. カール大帝死後の帝国相続問題

814年にカール大帝が没すると、広大な帝国を継いだのはその息子ルートヴィヒ1世(敬虔王)でした。

しかし、ルートヴィヒ1世の死後(840年)、3人の息子たちの間で相続をめぐる争いが勃発します。

  • ロタール1世:長男、帝位継承を主張
  • ルートヴィヒ2世(ドイツ人王):次男、東部領の独立志向
  • シャルル2世(禿頭王):三男、西部領の支配を要求

この三者の対立は、皇帝権をめぐる内戦に発展しました。

3-2. ヴェルダン条約(843年)

843年、ついに内戦は終結し、ヴェルダン条約が締結されました。

この条約では、フランク王国は3つの王国に分割されます。

3-2-1. 分割領域と継承者

  • 西フランク王国(シャルル2世):現在のフランスの原型
  • 東フランク王国(ルートヴィヒ2世):現在のドイツの原型
  • 中部フランク王国(ロタール1世):イタリアから北海までの中央地域を支配

特に中部フランク王国には首都ローマとアーヘンが含まれ、ロタール1世が「ローマ皇帝」位を継承しました。

3-2-2. 条約の意義

  • 現代のフランス・ドイツの分化の起点となった。
  • 地図問題で頻出する重要条約。
  • 教皇権と皇帝権の対立を複雑化させた。

3-3. メルセン条約(870年)と中部フランクの消滅

ロタール1世の死後(855年)、中部フランク王国は分割され、やがて870年のメルセン条約で西フランクと東フランクに吸収されます。

3-3-1. 中部フランクの重要性

  • 北イタリアからロレーヌ地方にかけて、後世まで領有権争いが続いた地域。
  • 特にロレーヌ地方は、近代フランス・ドイツ戦争の火種となる。

3-4. 帝国分裂の結果と封建制度への移行

フランク王国の分裂は、中央集権的な統治の限界を示す出来事でした。
地方領主たちは自立性を強め、国王権は相対的に弱体化します。
この過程で、封建制度が発展する基盤が形成されます。

3-4-1. 分裂の影響まとめ

  • フランス・ドイツ・イタリアへの分化
  • 皇帝権と教皇権の対立激化
  • 地方分権と封建社会成立の基盤形成

3-5. 入試で狙われるポイント

  • ヴェルダン条約とメルセン条約の年号・分割領域
  • 西フランク・東フランク・中部フランクの地図問題
  • 中部フランク領域(ロレーヌ地方)の歴史的重要性
  • フランス・ドイツ・イタリアへの分化
  • 封建社会成立との関連性

重要論述問題にチャレンジ

843年のヴェルダン条約がヨーロッパ世界に与えた影響について、200字以内で説明せよ。

843年のヴェルダン条約では、フランク王国が西・中・東の3王国に分割された。これにより、西フランク王国はフランス、東フランク王国はドイツの原型となり、ヨーロッパの政治的分裂が始まった。中部フランクは後にメルセン条約で分割され、ロレーヌ地方をめぐる対立は近代まで続いた。また、帝国の分裂は国王権の弱体化を招き、地方領主の自立を促進し、封建制度の発展に大きな影響を及ぼした。

一問一答+正誤問題に挑戦しよう!

第3章: 一問一答&正誤問題15問 問題演習

一問一答(10問)

問1 カール大帝の死後に王位を継いだ人物は誰か。

解答:ルートヴィヒ1世(敬虔王)

問2 ヴェルダン条約が締結された年はいつか。

解答:843年

問3 ヴェルダン条約で西フランク王国を継承した人物は誰か。

解答:シャルル2世(禿頭王)

問4 東フランク王国を継承した人物は誰か。

解答:ルートヴィヒ2世(ドイツ人王)

問5 ヴェルダン条約で中部フランク王国を継承した人物は誰か。

解答:ロタール1世

問6 中部フランク王国の中心都市であった2つの都市はどこか。

解答:ローマとアーヘン

問7 870年に中部フランクを分割した条約は何か。

解答:メルセン条約

問8 ヴェルダン条約の結果、西フランク王国は後にどの国の原型となったか。

解答:フランス

問9 ヴェルダン条約の結果、東フランク王国は後にどの国の原型となったか。

解答:ドイツ

問10 ヴェルダン条約後の帝国分裂が促進した社会制度は何か。

解答:封建制度

正誤問題(5問)

問1 ヴェルダン条約は843年に締結された。

解答:正

問2 ヴェルダン条約でローマ皇帝号を継承したのはルートヴィヒ2世である。

解答:誤(継承したのはロタール1世)

問3 メルセン条約はヴェルダン条約の後に結ばれた。

解答:正

問4 中部フランクは最終的に独立国家として現在まで存続した。

解答:誤(870年のメルセン条約で消滅した)

問5 ヴェルダン条約はフランスとドイツの原型を形成した。

解答:正

第4章 封建制度の成立とフランク王国の遺産

ヴェルダン条約(843年)とメルセン条約(870年)によってフランク王国は分裂し、中央集権的な統治は困難になりました。

その結果、地方領主たちは自立を強め、ヨーロッパ中世社会の特徴である封建制度(feudal system)が発展します。

ここでは、フランク王国の遺産が封建制度の形成に与えた影響と、その歴史的意義を詳しく解説します。

4-1. 帝国分裂と地方分権化の進展

4-1-1. 王権の弱体化

  • フランク王国の分裂後、広大な領域を統一する権威は失われた。
  • 王は形式的権威を持つのみで、実権は各地の貴族に移行。

4-1-2. 外敵の侵入

  • 9〜10世紀には、ヴァイキング・マジャール人・イスラーム勢力が各地に侵攻。
  • 王は防衛体制を整えることができず、地方領主が自前で軍事力を整備する必要性が高まった。

4-1-3. 自給自足経済への移行

  • 地域ごとに独立性が強まり、領主の館を中心とする荘園(manor)が形成。
  • 結果として、地方領主と農民の結びつきが強まる。

4-2. 封建制度(feudalism)の成立

封建制度は、主君と家臣の相互契約関係を基盤とする中世ヨーロッパの政治体制です。

4-2-1. 封土制(feudalism in the narrow sense)

  • 王や有力貴族(主君)が土地(封土)を家臣に与える代わりに、軍事奉仕を義務付ける制度。
  • 家臣は封土から収入を得ることで騎士として活動。

4-2-2. 主従関係(vassalage)

  • 主君と家臣の間で忠誠の誓いを交わし、双務的契約が成立。
  • 家臣は軍役奉仕、主君は保護・封土の提供を約束。

4-2-3. 封建制度の二重構造

  • 政治制度としての「封土制」
  • 経済基盤としての「荘園制」
    この二つが結びつくことで、ヨーロッパ中世社会が形成されます。

4-3. フランク王国の遺産とヨーロッパ史への影響

フランク王国は短期間で分裂しましたが、後世に大きな遺産を残しました。

4-3-1. 現代ヨーロッパ国家の原型

  • 西フランク王国 → フランス
  • 東フランク王国 → ドイツ
  • 中部フランク王国 → イタリア北部・ロレーヌ地方

4-3-2. 教皇権と皇帝権の対立構造

  • ピピンの寄進以降、教皇領をめぐる関係は複雑化。
  • カール大帝の戴冠を契機に「教皇が皇帝を立てる」構図が成立し、叙任権闘争など中世ヨーロッパ史の大問題へ発展。

4-3-3. 文化的遺産

  • カロリング・ルネサンスを通じた古典文化の継承。
  • 宮廷学校や写本文化が中世ヨーロッパの知的基盤を形成。

4-4. 封建制度とフランク王国のつながり

ヴェルダン条約以降、王権の弱体化と地方領主の台頭は封建社会の直接的な要因となりました。

  • 分権化 → 地方領主が軍事力と土地支配を掌握
  • 結果として、国王は有力貴族を通じてしか支配できない構造に。

この「弱い中央と強い地方」という構造は、ヨーロッパ中世史の特徴として頻出です。

4-5. 入試で狙われるポイント

  • フランク王国分裂と封建制度成立の関連性
  • 封土制と主従関係の違い
  • 外敵侵入(ヴァイキング・マジャール人・イスラーム勢力)との関係
  • フランク王国の遺産(国家・文化・権力構造)

重要論述問題にチャレンジ

ヴェルダン条約後のフランク王国分裂が、ヨーロッパ中世の封建制度成立に与えた影響について200字以内で説明せよ。

843年のヴェルダン条約によりフランク王国は3分割され、中央集権体制は崩壊した。王権の弱体化により地方領主の自立が進み、9〜10世紀にはヴァイキングやマジャール人など外敵侵入への対応を領主が担うようになった。その結果、主君と家臣の相互契約関係を基盤とする封建制度が成立した。また、荘園制を経済基盤とした自給自足的社会が形成され、ヨーロッパ中世の政治・社会体制の特徴となった。

一問一答+正誤問題に挑戦しよう!

第4章: 一問一答&正誤問題15問 問題演習

一問一答(10問)

問1 ヴェルダン条約後のフランク王国分裂は何世紀の出来事か。

解答:9世紀

問2 外敵として北方から侵入した海賊的集団は誰か。

解答:ヴァイキング

問3 9〜10世紀にハンガリー方面から侵入した騎馬民族は誰か。

解答:マジャール人

問4 イベリア半島から侵入した勢力は何か。

解答:イスラーム勢力

問5 領主と家臣が相互契約を結ぶ封建制度における忠誠関係を何というか。

解答:主従関係(vassalage)

問6 封建制度において、主君が家臣に与えた土地を何と呼ぶか。

解答:封土(fief)

問7 封建制度の経済基盤となった土地経営制度は何か。

解答:荘園制

問8 フランク王国の分裂によって形成された現代国家の原型のうち、西フランク王国はどの国に相当するか。

解答:フランス

問9 カロリング・ルネサンスの中心となった教育機関を何というか。

解答:宮廷学校

問10 フランク王国分裂後に国王権が弱体化した理由を簡潔に述べよ。

解答:領土の分割と地方領主の台頭により中央の統制力が低下したため。

正誤問題(5問)

問1 フランク王国の分裂後、地方領主は軍事力を持ち自立を強めた。

解答:正

問2 封建制度は主君が家臣に一方的に命令を下す専制的な仕組みだった。

解答:誤(双務的契約関係に基づく)

問3 荘園制は封建制度の経済的基盤であった。

解答:正

問4 ヴァイキングは地中海方面を中心に活動した。

解答:誤(主に北海・大西洋沿岸)

問5 フランク王国の分裂はヨーロッパ中世封建社会成立の大きな要因となった。

解答:正

第5章 まとめ|ピピンの寄進から封建制度までの全体像

本記事では、フランク王国の発展とその遺産を、メロヴィング朝末期からカロリング朝、そして封建制度成立まで時系列で整理してきました。

ここでは、全体像を一目で把握できるようにまとめます。入試直前の総復習にもおすすめです。

5-1. フランク王国史の時系列まとめ

年代出来事重要人物意義
481年クローヴィスがフランク族統一クローヴィスキリスト教(アタナシウス派)への改宗でローマ教会と結びつく
732年トゥール=ポワティエ間の戦いカール・マルテルイスラーム軍を撃退し、キリスト教世界を防衛
751年カロリング朝成立ピピン3世教皇の承認を得て王位簒奪、教皇権と結びつく
754年ピピンの寄進ピピン3世教皇領成立、教皇権の強化
768年カール大帝即位カール大帝フランク王国最大版図を実現
800年皇帝戴冠カール大帝、レオ3世「教皇が皇帝を立てる」構図が成立
843年ヴェルダン条約シャルル2世、ルートヴィヒ2世、ロタール1世フランク王国を西・中・東3分割
870年メルセン条約中部フランク王国が分割・消滅
9〜10世紀外敵侵入ヴァイキング、マジャール人、イスラーム勢力地方領主の自立強化、封建制度発展
10世紀封建社会成立各地の領主・騎士主従関係+荘園制による二重構造

5-2. 学習のポイントと受験対策

5-2-1. 年代と人物のセットで覚える

  • 751年:ピピン3世 → 教皇承認による王位簒奪
  • 754年:ピピンの寄進 → 教皇領成立
  • 800年:カール大帝の戴冠 → ローマ皇帝号復活
  • 843年:ヴェルダン条約 → フランスとドイツの原型成立

5-2-2. 地図問題対策

  • ヴェルダン条約は地図とセットで出題頻度が高い。
  • 西:フランス、東:ドイツ、中部:ロレーヌ〜北イタリア。

5-2-3. 概念理解で差がつく

  • 「ピピンの寄進」=土地の寄進だけでなく、宗教権力と世俗権力の相互承認という構造を問う問題に注意。
  • 「800年の戴冠」=教皇権と皇帝権の対立の伏線であることを意識する。

5-3. フランク王国の遺産

  1. ヨーロッパ主要国家の原型
    • 西フランク → フランス
    • 東フランク → ドイツ
    • 中部フランク → イタリア北部・ロレーヌ地方
  2. 教皇権と皇帝権の対立構造
    • ピピンの寄進とカール大帝の戴冠により、宗教と世俗の権力関係が複雑化。
    • 後の叙任権闘争、十字軍、神聖ローマ帝国の形成へ直結。
  3. 文化的遺産
    • カロリング・ルネサンスによる古典文化の保存。
    • 宮廷学校と写本文化がヨーロッパの知的基盤を形成。

5-4. 本記事のまとめ

  • ピピンの寄進によって教皇領が成立し、宗教権力が強化された。
  • カール大帝の戴冠で「教皇が皇帝を立てる」という権力構造が生まれた。
  • ヴェルダン条約によりフランス・ドイツ・イタリアの原型が形成された。
  • 王権の弱体化と外敵侵入により、封建制度がヨーロッパ中世社会の基盤となった。

この流れを押さえておけば、大学入試世界史で頻出する「フランク王国史」を体系的に理解できます。

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