「マホメットなくしてシャルルマーニュなし」
マホメットとはイスラーム教の開祖ムハンマド(570〜632年)、シャルルマーニュはフランク王国の王で、後に「カール大帝」と呼ばれた人物です。
かつてローマ帝国は、地中海を「我らの湖(Mare Nostrum)」と呼び、その周囲を完全に支配していました。
地中海は、アレクサンドリアの穀物やシリアの絹、北アフリカのオリーブ油やワインを満載した船が行き交う、繁栄と交流の中心地だったのです。
しかし、7世紀以降、イスラーム帝国がシリア・エジプト・北アフリカ・イベリア半島を次々と制圧すると、地中海はイスラーム帝国の「南」と、西欧世界の「北」に分断されました。
こうして西欧は豊かな交易網から切り離され、「内陸に閉じ込められた辺境世界」へと転落します。
イスラーム帝国が地中海世界を制圧したことで、西欧は交易圏から切り離され、内陸に閉じ込められた世界となりました。
これにより、フランク王国を中心とする西欧独自の中世秩序が形成されていきます。
本記事では、
- ピレンヌ説に基づく「西欧の孤立」という視点
- 東ローマ帝国の衰退とローマ教皇庁の自立
- フランク王国と教皇庁の協力による中世秩序の形成
これらを政治史と社会史の両面から徹底解説します。
第1章 ピレンヌ説と「マホメットなくしてシャルルマーニュなし」
ローマ帝国の最盛期、東西を結ぶ交易網は豊かで活発でした。アレクサンドリアの穀物、シリアの絹織物、北アフリカのオリーブ油やワインが、広大な帝国の隅々まで行き渡り、地中海世界は一体的な経済圏を形成していたのです。
しかし、7世紀以降、イスラーム帝国の急速な拡大によってこの状況は一変します。
西ヨーロッパは豊かな地中海交易圏から切り離され、長距離交易は衰退、貨幣経済は縮小し、やがて自給自足型の封建制社会へと移行しました。
この劇的な変化を最も的確に表現したのが、ベルギーの歴史学者アンリ・ピレンヌです。
彼が著書『マホメットとシャルルマーニュ』で述べたピレンヌ説こそ、有名なフレーズ「マホメットなくしてシャルルマーニュなし」の背景なのです。
この章では、
- ピレンヌ説が示す歴史観
- 言葉の意味と由来
- 西欧が「閉じ込められた世界」へ至る構造
これらを整理し、この言葉の本質を掘り下げます。
ピレンヌ説の核心
ベルギーの歴史学者アンリ・ピレンヌは、『マホメットとシャルルマーニュ』でこう主張しました:
「古代ローマ世界を終わらせた決定打は、ゲルマン民族大移動ではなくイスラーム帝国の勃興である」
西ローマ帝国は476年に滅亡しましたが、ゲルマン諸王国はローマ的制度や貨幣経済を引き継いでおり、地中海世界は依然として一体の経済圏でした。
しかし、7世紀以降、イスラーム帝国がシリア・エジプト・北アフリカ・イベリア半島を次々と制圧すると、
西欧は豊かな地中海交易圏から切り離され、内陸に閉じ込められた世界となります。
イスラーム拡大による交易断絶は、西欧社会の構造を大きく変えました。
- 香辛料・絹・工芸品などの東方物産の流入が途絶
- 長距離交易の衰退と貨幣経済の縮小
- 都市が縮小し、地方分権的な封建制社会が形成される
このように、イスラーム拡大は単なる軍事的脅威ではなく、西欧的中世社会の成立を促した決定的要因だったのです。
この「内陸に閉じ込められた西欧」の時代は、7世紀後半からおよそ4世紀間続きます。
西欧が再び地中海世界や東方と接触を持つようになるのは、11世紀後半の十字軍遠征以降のことでした。
- 十字軍(1096年〜)
→ 東地中海との接触が再開し、香辛料・絹織物・工芸品などの需要が急増 - 商業革命(11〜13世紀)
→ イタリア諸都市(ヴェネツィア・ジェノヴァ・ピサ)が地中海貿易で台頭
→ フランドル地方やハンザ同盟都市も発展
→ 都市ブルジョワジーの形成、貨幣経済の復活
この過程を経て、西欧は再び地中海世界と結びつき、封建制社会から商業都市社会へと大きく変貌していくのです。
フローチャート|地中海世界の繁栄から西欧の孤立、そして再接続へ
【1〜2世紀:古代ローマ帝国の最盛期】
「地中海はローマの湖(Mare Nostrum)」
・東西を結ぶ交易が盛ん
・アレクサンドリアの穀物、シリアの絹、北アフリカのオリーブ油が帝国内を循環
・地中海世界は一体的な経済圏を形成
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【476年:西ローマ帝国の滅亡】
・ゲルマン諸王国が西欧各地に成立
・しかし行政制度・貨幣経済は継承され、地中海交易は維持される
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【7世紀初頭】
ムハンマドがイスラームを創始
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【7〜8世紀:イスラーム帝国の急速な拡大】
・シリア・エジプト・北アフリカ・イベリア半島を次々と制圧
・東ローマ帝国は穀倉地帯と財源を喪失し、軍事力も低下
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【地中海世界の分断】
・地中海はイスラーム帝国の「南」と西欧の「北」に二分
・西ヨーロッパは地中海交易圏から切り離される
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【7〜11世紀前半:西欧の孤立】
・長距離交易の衰退
・貨幣経済の縮小
・都市の衰退
→ 自給自足型の封建制社会へ移行
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【732年:トゥール=ポワティエ間の戦い】
・フランク王国のカール・マルテルがイスラーム軍を撃退
※局地的勝利に過ぎず、イスラーム帝国の優勢は続く
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【800年:カール大帝戴冠】
・ローマ教皇レオ3世がカール大帝に「西ローマ皇帝」の冠を授与
・教皇権+王権の協力体制
・西欧独自の中世秩序が誕生
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【11世紀後半〜:十字軍遠征開始(1096年〜)】
・西欧が再び東方と接触
・香辛料・絹・工芸品への需要が急増
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【12〜13世紀:商業革命】
・ヴェネツィア・ジェノヴァなど北イタリア諸都市が台頭
・フランドル地方やハンザ同盟都市も発展
・貨幣経済が復活し、都市ブルジョワジーが誕生
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【地中海世界との再接続】
・西欧は再び地中海経済圏へ復帰
・イスラーム世界・東方世界との交流が活発化

言葉の意味
「マホメットなくしてシャルルマーニュなし」とは、イスラーム帝国の台頭(マホメット)がなければ、フランク王国のカール大帝(シャルルマーニュ)を中心とする西欧独自の中世秩序は生まれなかったことを示す表現です。
第2章 イスラーム帝国の拡大と東ローマ帝国の弱体化
7世紀、ムハンマド(マホメット)がイスラーム教を創始すると、その教えは瞬く間にアラビア半島を越え、巨大な帝国を築き上げました。
この急速な拡大は、東ローマ帝国に決定的な打撃を与えます。
シリア・エジプト・北アフリカを次々と奪われた東ローマは、豊かな財源と軍事力を失い、地中海世界での存在感を大きく低下させました。
東ローマの衰退は、ローマ教皇庁に深刻な影響を与えます。
476年の西ローマ帝国滅亡以降、教皇庁は長らく東ローマ皇帝の庇護下にありましたが、頼るべき皇帝が弱体化したことで、新たな保護者を探さざるを得なくなったのです。
この章では、
- イスラーム帝国の版図拡大の実態
- 東ローマ帝国の弱体化の過程
- ローマ教皇庁が「自立」を模索せざるを得なかった理由
を明らかにし、次章で登場するフランク王国との接近の伏線を描きます。
イスラーム帝国の急速な拡大
7世紀初頭、ムハンマドがイスラーム教を創始し、その死後イスラーム帝国は急速に版図を拡大します。
- 636年:ヤルムークの戦い → 東ローマ帝国、シリアを失う
- 641年:エジプト喪失 → 穀倉地帯と財源を失う
- 698年:カルタゴ陥落 → 北アフリカを喪失
- 711年:イベリア半島進出 → 西ゴート王国滅亡
わずか1世紀の間に、イスラーム帝国は東地中海・北アフリカ・イベリア半島を支配し、地中海世界の主導権を完全に掌握しました。
東ローマ帝国の衰退と教皇庁への影響
イスラームの侵攻で東ローマ帝国は深刻な打撃を受けました。
- シリア・エジプトの喪失 → 財政基盤を喪失
- 北アフリカの喪失 → 軍事力低下
- 726年の聖像禁止令 → 教皇庁との対立激化
この結果、ローマ教皇庁は東ローマ皇帝の庇護に頼れなくなり、新たな庇護者を西方世界に求めざるを得なくなったのです。
ここから、フランク王国と教皇庁の接近が始まります。

第3章 教皇庁の自立とフランク王国との協力体制
東ローマ帝国の影響力低下により、ローマ教皇庁は「宗教的権威はあっても軍事力を持たない存在」という限界に直面します。
そこに現れたのが、西方で台頭していたフランク王国でした。
イスラーム拡大に対抗する強力な軍事力を持つフランク王国は、ローマ教皇庁にとって新たな庇護者となる可能性を秘めていました。
こうして両者は、イスラーム帝国という共通の脅威に対抗するために接近します。
732年のトゥール=ポワティエ間の戦いでフランク王国がウマイヤ朝を撃退すると、その地位は「キリスト教世界の守護者」として確立されました。
さらに、754年のピピンの寄進で教皇領が成立し、800年のカール大帝戴冠によって、「教皇権+王権」という新しい西欧中世秩序が誕生します。
この章では、
- フランク王国の台頭とイスラームとの対決
- ピピンの寄進と教皇領の成立
- カール大帝戴冠の意義
これらを通じて、教皇庁とフランク王国が手を結んだ必然性を明らかにします。
トゥール=ポワティエ間の戦い(732年)
732年、ウマイヤ朝はイベリア半島を制圧した勢いのまま、ピレネー山脈を越えてガリアへ侵攻しました。
これに対し、フランク王国の宮宰カール・マルテルが軍を率いて迎撃し、トゥール=ポワティエ間の戦いでイスラーム軍を撃退します。
この勝利により、フランク王国は「キリスト教世界の守護者」として評価を高めました。
しかし、この結果をもって「西欧がイスラーム帝国に対して圧倒的勝利を収めた」と考えるのは誤りです。
実際には、この戦いはイスラーム軍の一部隊を撃退したに過ぎず、イスラーム帝国全体の優勢は揺らいでいませんでした。
多くの受験生はここで誤解し、「イスラームはたいした脅威ではなかったのでは?」と首をかしげます。
しかし、これはあたかも元寇で鎌倉幕府がモンゴル軍を撃退したからといって、「鎌倉幕府はモンゴル帝国より強大だった」と誤解するのと同じです。
当時のフランク王国は、広大な版図と圧倒的な軍事力を誇ったイスラーム帝国に比べれば、辺境の小国にすぎなかったという現実を忘れてはいけません。

ピピンの寄進と教皇領の成立(754年)
カール・マルテルの子ピピン3世は、ローマ教皇ザカリアスの承認を受けて正式な王に即位。
さらにランゴバルド王国を討伐し、その領土の一部をピピンの寄進として教皇庁に贈与。
これにより、教皇領が成立し、教皇庁は東ローマ帝国の影響下から脱しました。

カール大帝戴冠(800年)
ピピンの子であるカール大帝(シャルルマーニュ)は、軍事的遠征を重ねて領土を拡大し、西欧最大の強国を築き上げました。
そして800年のクリスマスの日、ローマ教皇レオ3世から「西ローマ皇帝」の冠を授かります。
このカール大帝の戴冠は、単なる儀式ではなく、西欧世界における新たな権威構造の誕生を意味していました。
すなわち、
- 教皇権と王権が互いに支え合う協力体制
- 東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の権威からの完全な自立
- 西欧独自の中世秩序の確立
この戴冠により、ローマ教皇は「皇帝に権威を与える存在」としての立場を示し、一方のカール大帝は「キリスト教世界を統治する正統な皇帝」として認められることになりました。
こうして、ローマ教皇庁とフランク王国が築いた連携体制は、後の西欧中世世界の秩序を形づくる基盤となったのです。

まとめ:イスラーム拡大から中世西欧秩序形成まで
古代ローマ帝国の時代、地中海は「我らの湖」と呼ばれ、東西の交易路は開かれ、都市は繁栄し、地中海世界は一つの文明圏として機能していました。
しかし、7世紀以降のイスラーム帝国の拡大は、その統合された世界を分断し、西欧を「内陸に閉じ込められた辺境世界」へと変えてしまいます。
この劇的な変化の中で、ローマ教皇庁は東ローマ帝国から自立を模索し、フランク王国と手を結んで新たな秩序を築き上げました。
「マホメットなくしてシャルルマーニュなし」とは、単にフランク王国と教皇庁の協力を指すだけでなく、西欧が古代世界から切り離され、中世へと転換した大きな流れを象徴する言葉なのです。
- イスラーム帝国の拡大 → 地中海交易の断絶
- 東ローマ帝国の弱体化 → 教皇庁が新たな庇護者を模索
- フランク王国の台頭 → トゥール=ポワティエ戦いで信頼獲得
- ピピンの寄進 → 教皇領成立
- カール大帝戴冠 → 西欧中世秩序の誕生
この流れこそが、ピレンヌの言う「マホメットなくしてシャルルマーニュなし」の本質です。
イスラームの台頭は、西欧を古代地中海世界から切り離し、教皇庁とフランク王国を結びつけ、西欧独自の中世社会を形成させた決定的な要因でした。
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