ウィーン会議(1814〜15)は、ナポレオン戦争によって崩壊したヨーロッパ秩序を再建するために開かれた。
その基本理念となったのが、フランス代表タレーランが提唱した「正統主義」である。
正統主義とは、革命によって倒された旧王朝を正当な支配者として復位させるという原則であり、それまでの「人民主権」や「革命の成果」を否定する保守的秩序の回復を目指したものであった。
しかし、実際の会議では「理念どおりの復位」が貫かれたわけではない。
列強は「理念」よりも「勢力均衡」や「地政学的利益」を優先し、多くの地域で例外的措置を取ることとなった。
本記事では、正統主義の原則を確認した上で、それがどのような地域で適用され、どこで例外が生じたのかを整理する。
この「理念と現実のずれ」を理解することが、ウィーン体制の限界を読み解く第一歩となる。
第1章:正統主義とは ― 革命の混乱を収束させる理念
19世紀初頭、ナポレオン戦争によってヨーロッパの秩序は大きく揺らいでいた。
王政は崩壊し、共和・帝政など新しい政治体制が次々と登場する中で、各国は「革命の連鎖」を恐れ、安定した体制を模索する必要に迫られた。
そのなかで開催されたのが、1814〜15年のウィーン会議である。
ここでフランス代表のタレーランが提唱した理念こそ、後のヨーロッパ秩序を方向づける正統主義(レジティマシー)であった。
正統主義は、革命によって倒された旧王朝を「正当な支配者」とみなし、歴史と伝統に基づく秩序の回復を目指す考え方である。
この章では、正統主義が生まれた背景とその理念的意義を整理し、なぜこの考え方がウィーン体制の中心原理となったのかを明らかにする。
1. 正統主義の理念 ― 歴史と伝統に基づく秩序回復
正統主義とは、革命によって倒された旧王朝を復位させることが正義であるという理念である。
提唱者のタレーランは、フランス革命の混乱を経験した外交官として、ヨーロッパの安定には「人民の意思」ではなく「歴史の正統性」が必要だと考えた。
🟩 理念の核心:
- 王権の正当性は人民ではなく神と伝統に由来する。
- 革命による支配者交代は不当であり、旧王朝の復位が秩序を生む。
- 国際秩序の安定は、血統と法的正統性の尊重によってのみ達成される。
この理念は、フランス革命によって生じた「人民主権」と真っ向から対立する。
革命が民衆の意志によって新体制を築こうとしたのに対し、正統主義は「支配の正統性は民意ではなく、歴史の継承にある」と主張した。
そのため、正統主義は単なる国内政治原理ではなく、ヨーロッパ全体の秩序原理(レジティマシーの体系)として機能した。
2. 正統主義が生まれた背景 ― 革命とナポレオン支配の反動
18世紀末のフランス革命は、王政を倒し「人民主権」を掲げたが、その過程で社会は混乱し、恐怖政治・戦争が連鎖した。
その後、ナポレオンが登場して帝政を築くが、彼の支配は全ヨーロッパを戦火に巻き込み、諸国の王政を次々に崩壊させた。
🟥 歴史的文脈:
- 1789年:フランス革命により王権の崩壊
- 1792年:共和政樹立、ルイ16世処刑
- 1804年:ナポレオン帝政の成立(新たな支配の正当化)
- 1814年:ナポレオン失脚、旧秩序の再建へ
この激動の時代を経て、ヨーロッパの指導者たちは「革命の否定」と「伝統秩序の再建」を共通課題として掲げた。
その結果、ウィーン会議においてタレーランが提唱した正統主義は、革命の否定を国際原則として制度化する役割を果たした。
3. 正統主義の目的 ― 「自由の抑圧」ではなく「安定の回復」
しばしば誤解されるが、正統主義は単なる反動主義ではない。タレーランの狙いは、革命の成果を全否定することではなく、混乱の中で失われた「支配の正当性」を取り戻すことにあった。
つまり、正統主義とは「自由を否定する思想」ではなく、「秩序の回復によって自由を守る」ための原理であった。
🟦 正統主義の目的:
- 革命の連鎖を防ぎ、戦争を再発させない
- 君主の権威を再建し、社会の安定を確保
- 各国の秩序を「伝統」によって正当化
この理念は、オーストリア外相メッテルニヒら保守勢力に支持され、のちにヨーロッパ全体を覆う「メッテルニヒ体制」の思想的支柱となる。
4. 正統主義の意義 ― 革命後の秩序構築の指針
ウィーン体制は、理念的にはこの正統主義に基づいて形成された。
フランス・スペイン・ナポリなどでは、旧王朝の復位が実際に行われ、体制初期における安定をもたらした。
しかし同時に、正統主義はその適用範囲に限界を抱えていた。
ポーランド・ドイツ・イタリアのように、列強の利害が衝突する地域では理念が貫かれず、「理念と現実の乖離」が早くも現れ始めたのである。
🟨 まとめ:
正統主義は、ウィーン体制の理念的支柱でありながら、その実践は地域によって異なり、体制の根本的矛盾(理想と現実のずれ)を生み出した。
第2章:正統主義が適用された国 ― 理念が実現した事例
ウィーン会議で掲げられた「正統主義」は、革命の混乱を収束させるための指針として各国に持ち込まれた。
しかし、すべての国で理念が実現したわけではない。
まずは、旧王朝が実際に復位し、理念どおりの秩序回復が行われた国々を見ていこう。
ここでは特に、フランス・スペイン・ナポリの三国を中心に、正統主義がどのように具現化されたかを整理する。
1. フランス ― 王政復古とブルボン家の再興
ウィーン体制の象徴的な成功例が、フランスのブルボン家復位である。
ナポレオンの失脚後、ルイ18世が即位し、王政が復活した。
彼は革命の成果を一部認める「憲章(1814年)」を制定し、貴族・聖職者の特権をある程度回復しつつ、立憲的な枠組みも導入した。
🟩 ポイント:
- 革命・ナポレオン支配によって崩壊した王政を再建
- 王権の正統性を歴史と血統に求めた
- 旧貴族と新興ブルジョワジーの間で妥協
このように、フランスでは理念通りに旧王朝が復位したが、革命後の社会を完全に否定することはできず、部分的復古にとどまった。
2. スペイン ― 絶対王政の復活と自由主義の弾圧
スペインでは、ナポレオンが兄ジョゼフを王位につけていたが、ウィーン会議後、ブルボン家フェルナンド7世が王位に復帰した。
復位後、フェルナンド7世は憲法を廃止し、絶対王政を復活。
自由主義勢力を厳しく弾圧し、革命的思想を封じ込めた。
🟥 意義:
スペインの事例は、「革命の否定」と「旧秩序の回復」という正統主義の理念を最も明確に体現したものであった。
ただし、強権的な復古は国内対立を激化させ、のちの自由主義革命(1820年以降)の火種を残す結果となった。
3. ナポリ(南イタリア) ― ナポレオン派の排除とブルボン家復位
イタリア南部のナポリ王国では、ナポレオンの義弟ムラが支配していたが、ウィーン会議の決定により、ブルボン家フェルディナンド1世が復位した。
この復位は、ナポレオン的支配を完全に否定し、王朝の正統性を回復するという理念を忠実に反映していた。
一方で、ナポリ国内ではナポレオン期の行政改革を支持する勢力も強く、復古王政と市民層の間に緊張が続いた。
4. 理念の実現とその限界
これらの国々に共通するのは、「王権の正統性を回復することで秩序を取り戻す」という理念を実行した点である。
ただし、
- 革命による社会構造の変化
- 新興階級の台頭
- 民衆の自由意識
といった要因により、完全な旧体制復活は不可能だった。
🟦 まとめ:
フランス・スペイン・ナポリでは、形式上は正統主義が貫かれたが、社会の深層ではすでに「革命の影響」が残り、王政復古は理念と現実の“折衷的妥協”に過ぎなかった。
小まとめ
国名 | 復位王朝 | 内容 | 意義 |
---|---|---|---|
フランス | ブルボン家(ルイ18世) | 革命後の立憲王政。理念と現実の折衷。 | 正統主義の象徴 |
スペイン | ブルボン家(フェルナンド7世) | 絶対王政を再導入。自由主義を弾圧。 | 革命否定の典型 |
ナポリ | ブルボン家(フェルディナンド1世) | ナポレオン派を排除し復位。 | 理念の忠実適用 |
第3章:正統主義が適用されなかった国・地域 ― 理念が届かなかった現実
「正統主義」は、革命によって倒れた旧王朝を復位させるという明快な理念を掲げていた。
しかし、ウィーン会議では各国の利害が複雑に交錯し、理念がそのまま適用されなかった地域も少なくなかった。
ここでは、代表的な例外地域として、ポーランド・ドイツ・イタリアの3つを取り上げる。
これらの事例は、理念としての正統主義と、現実の国際政治(勢力均衡・安全保障)の間にあった深いギャップを象徴している。
1. ポーランド ― 名ばかりの王国とロシア支配
ポーランドは18世紀末のポーランド分割によって国家を失い、ナポレオン期には「ワルシャワ公国」として一時的に復活していた。
ウィーン会議では、ポーランド人の多くが「民族王政の再建」を望んだが、実際にはロシア皇帝アレクサンドル1世を国王とする「ポーランド王国」が創設された。
🟥 ポイント:
- 名目上は「王国」だが、実際はロシアの属国。
- ポーランド人自身の王を復位させることはなかった。
- 形式的には正統王政だが、実質的にはロシアの支配下。
🟨 意義:
「民族の王を復位させる」という正統主義の理念は形骸化し、列強の思惑による勢力均衡の道具として扱われた。
2. ドイツ地域 ― 帝国の不再建と勢力均衡の優先
ナポレオンによって解体された神聖ローマ帝国(1806年)は、ウィーン会議でも再建されることはなかった。
代わりに設立されたのが、35の君主国と4自由都市からなるドイツ連邦である。
議長国はオーストリアが務め、帝国の代替的な枠組みとして機能した。
🟦 ポイント:
- 皇帝(ハプスブルク家)の復位は行われなかった。
- 各邦の独立を尊重し、統一を避けた。
- プロイセンとオーストリアの勢力均衡を目的とした連邦体制。
🟩 意義:
ドイツ連邦は「正統王朝の復位」ではなく、「勢力均衡による安定維持」を狙った政治的折衷案だった。
結果として、正統主義の理念はドイツ地域では完全に適用されなかった。
3. イタリア半島 ― オーストリア支配の下での部分的復古
ナポレオン期の再編で、イタリア半島は多くの小国家に分割されていた。
ウィーン会議では、北イタリアをオーストリアが直接支配し、南イタリア(ナポリ)ではブルボン家が復位した。
🟥 ポイント:
- ロンバルディア・ヴェネツィア → オーストリア直轄領
- トスカーナ・パルマ → オーストリア系王族を配置
- サルデーニャ王国 → 旧領回復(部分的正統)
- ナポリ → ブルボン家復位(唯一の理念的成功)
🟧 評価:
北部ではオーストリアの勢力拡大が優先され、イタリア人による「民族王政の復位」は実現しなかった。
南部を除けば、正統主義の理念は外交戦略の犠牲となった。
4. その他の地域(補足)
地域 | 処理内容 | 正統主義との関係 |
---|---|---|
オランダ=ベルギー | 両地域を統合しネーデルラント連合王国を創設 | 宗教・文化の異なる地域を統合(人為的) |
ノルウェー | スウェーデンに割譲 | 戦勝国の勢力均衡を優先(正統性なし) |
🟦 共通点:
これらの地域でも、王統の復位ではなく、「地政学的安全保障」を優先した処理が行われた。
5. 理念が届かなかった背景
正統主義が適用されなかった背景には、列強それぞれが抱える安全保障上の思惑があった。
- ロシア:西欧進出と勢力拡大を狙い、ポーランドを掌握
- オーストリア:ドイツとイタリアを通じた中欧支配を確立
- イギリス:海上覇権と通商航路の維持を最優先
🟥 つまり:
「理念としての正統主義」は体制の理想の象徴にすぎず、実際には列強が利害調整のために使い分けた政治的ツールだった。
小まとめ
地域 | 処置内容 | 理念との関係 | 意義 |
---|---|---|---|
ポーランド | ロシア皇帝を国王に据える | 民族王政ではなく属国化 | 名ばかりの王国 |
ドイツ地域 | ドイツ連邦を設立 | 皇帝復位を行わず勢力均衡を優先 | 帝国復活の拒否 |
イタリア | 北部は墺支配、南部は部分的復位 | 理念と外交の折衷 | 部分的正統 |
オランダ・ベルギー | 統合王国創設 | 宗教・民族の異なる統合 | 人為的勢力調整 |
ノルウェー | スウェーデン割譲 | 王統復位ではない | 勢力均衡優先 |
🟩 結論:
正統主義はヨーロッパ再建の理念として掲げられたが、各国の利害や安全保障を前にして、その原則は後退した。
この「理念と現実のずれ」こそ、ウィーン体制の限界を象徴している。
第4章:理念と現実の乖離 ― 勢力均衡との衝突
ウィーン会議が掲げた「正統主義」は、革命後の秩序を回復するための理念として機能した。
しかし、ヨーロッパの安定を実際に支えたのは、理念そのものではなく、列強が自国の安全を守るために構築した勢力均衡(バランス・オブ・パワー)であった。
理念上は「正統な王の復位」が原則だったが、外交の現場では「どの国も突出しない均衡状態」が重視された。
この「理念」と「現実」のすれ違いこそ、ウィーン体制の最大の矛盾である。
ここでは、両者の衝突がどのように現れたのかを整理し、体制が抱えた構造的限界を明らかにしていく。
1. 勢力均衡とは何か ― 現実主義の外交原理
「勢力均衡(Balance of Power)」とは、いずれか一国が突出してヨーロッパを支配しないよう、他の列強が連携・調整して均衡を保つという外交原理である。
この思想は17〜18世紀の国際関係から発展し、ウィーン体制下では、戦争防止の最も現実的な仕組みとして採用された。
🟩 勢力均衡の基本原理:
- どの国も圧倒的な優位に立たせない
- 領土・影響力を調整し、列強間のバランスを維持
- 協調によって戦争を未然に防ぐ
2. 理念の相克 ― 「正統主義」vs「勢力均衡」
正統主義は、あくまで「歴史的正統性」に基づく秩序回復を目的とした。
しかし、実際の会議では「理念よりも現実的安定」が優先され、両者の間で明確な対立が生じた。
対比軸 | 正統主義 | 勢力均衡 |
---|---|---|
価値基準 | 歴史と血統の正当性 | 政治的安定と安全保障 |
目的 | 旧王朝の復位による秩序回復 | どの国も突出しない力の均衡 |
基準 | 道義的・保守的理念 | 現実的・実利的原理 |
支持層 | タレーラン(理念派) | メッテルニヒ・カスルレー(現実派) |
🟥 要点:
正統主義が“理想”の秩序回復を志向したのに対し、勢力均衡は“現実”の戦争回避を重視した。
ウィーン体制は、この二つの論理の妥協の産物であり、その不安定な共存こそが後の体制矛盾を生む。
3. 具体的衝突の事例
(1)ポーランド問題
- 理念:ポーランド人による民族王政の復位(正統主義)
- 現実:ロシアの保護国化(勢力均衡・勢力拡大)
→ 結果: 正統王政の理念は放棄され、列強間の調整が優先。
(2)ドイツ連邦の成立
- 理念:神聖ローマ帝国の復活による正統秩序の再建
- 現実:オーストリアとプロイセンの均衡維持を目的とした連邦設立
→ 結果: 皇帝復位は行われず、正統主義は形骸化。
(3)イタリア北部の処理
- 理念:旧王朝の復位
- 現実:オーストリアの直接支配(ロンバルディア・ヴェネツィア)
→ 結果: 外国勢力による支配を容認、正統王政は回復せず。
🟦 総括:
正統主義は“理念上の正しさ”を示したが、力の政治(パワーポリティクス)の前では常に後退を余儀なくされた。
4. 両原理の共存と体制の矛盾
ウィーン体制は、表向き「正統主義」を旗印としたが、実際には「勢力均衡」によって支えられていた。
理念が完全に否定されたわけではないが、その適用は「列強の都合」によって選択的に使い分けられた。
状況 | 優先された原理 | 代表例 |
---|---|---|
革命の鎮圧 | 正統主義 | スペイン・ナポリの復位 |
領土調整・国境線確定 | 勢力均衡 | ポーランド・ネーデルラント |
列強間の衝突回避 | 勢力均衡 | ドイツ連邦の設立 |
🟨 矛盾点:
理念を掲げながらも、実際には利害調整の道具として運用された。
この「理念と現実の二重構造」が、のちの体制崩壊を予告していた。
5. 理念の限界と歴史的意義
正統主義は、フランス革命によって崩壊した秩序を回復しようとする試みだったが、「革命を否定しながらも、革命後の現実に依存せざるを得なかった」。
つまり、
- 革命の遺産(立憲主義・ナショナリズム)を完全には消せなかった。
- 民衆の政治的主体化を止めることはできなかった。
- 理念は美しくても、現実の政治を動かす力にはなりえなかった。
🟥 意義:
正統主義は、近代ヨーロッパが「理念で動かない」ことを示す転換点だった。
理想と現実の乖離が、やがて1848年革命という爆発的転換を引き起こす。
小まとめ
観点 | 内容 |
---|---|
衝突の本質 | 正統主義(理念)と勢力均衡(現実)の対立 |
優先された原理 | 勢力均衡による安定 |
具体例 | ポーランド・ドイツ連邦・イタリア北部 |
矛盾 | 理念が列強の都合で選択的に適用 |
歴史的意義 | 理念の限界が、ウィーン体制の終焉を予告 |
🟩 まとめ一文:
ウィーン体制は、「理念としての正統主義」と「現実としての勢力均衡」の間で揺れ動いた体制であった。
その内部矛盾はやがて、自由主義と民族運動の台頭によって露呈していく。
第5章:ウィーン体制とメッテルニヒ体制の違い
しばしば「ウィーン体制」と「メッテルニヒ体制」は同義に扱われるが、実際にはその範囲と性格は大きく異なる。
両者は密接に結びついてはいるものの、前者が国際秩序の枠組み(外交体制)を指すのに対し、後者はその秩序を維持するための国内統治と思想統制の仕組みを意味する。
つまり、ウィーン体制が「舞台装置」だとすれば、メッテルニヒ体制はその上で行われた「政治運営」である。
この違いを整理することで、19世紀前半のヨーロッパがどのように“保守秩序”を形成し、やがてそれが崩壊していったのかをより深く理解できる。
1. 両体制の比較表
項目 | ウィーン体制 | メッテルニヒ体制 |
---|---|---|
性格 | 国際的秩序(外交体制) | 国内政治・思想統制体制 |
主導勢力 | 複数列強(墺・英・露・普・仏) | オーストリア主導(メッテルニヒ) |
原理 | 正統主義・勢力均衡 | 反自由主義・反革命 |
対象領域 | 外交・領土・国際協調 | 国内政治・思想・検閲・弾圧 |
目的 | 戦争の再発防止・安定的均衡 | 革命思想・民族運動の抑圧 |
代表的政策 | 会議外交・四国同盟・五国協調 | カルボナリ運動弾圧・警察国家化 |
期間 | 1815〜1856年(クリミア戦争まで) | 主に1820〜1848年(1848年革命で崩壊) |
2. 両体制の関係性
ウィーン体制は、理念的には「正統主義」と「勢力均衡」を柱として成立した。
しかし、自由主義や民族主義の高まりによって、この秩序は常に内部から揺さぶられる危険を抱えていた。
そのため、オーストリア外相メッテルニヒは、ウィーン体制を維持するために各国と連携し、検閲・密偵・弾圧による「保守秩序の維持」を進めた。
これがいわゆる「メッテルニヒ体制」であり、それはウィーン体制の理念を守るための政治的現実装置でもあった。
🟩 要点:
ウィーン体制が「理念と構造」を示すなら、メッテルニヒ体制は「その運用と管理」を担った。
3. 歴史的意義 ― 二重構造がもたらした安定と矛盾
この二つの体制は、表面的にはヨーロッパの安定を維持したが、同時に「自由・民族・立憲」を求める新時代の潮流を押し込め、その反動として1848年革命という巨大な爆発を招いた。
観点 | 内容 |
---|---|
安定の側面 | 革命の連鎖を一時的に封じ、平和を維持した。 |
矛盾の側面 | 民衆の自由と民族意識を抑圧し、内部不満を蓄積させた。 |
結果 | 1848年革命で体制が崩壊、近代ヨーロッパの新秩序へ。 |
🟦 まとめ:
「ウィーン体制」は理念上の枠組み、「メッテルニヒ体制」はその防衛装置である。
両者の共存は一時的な安定をもたらしたが、新しい時代の自由主義・民族主義の力を封じ込めることはできなかった。
第6章:まとめ ― 理念と現実のずれが示すウィーン体制の限界
ウィーン会議で提唱された正統主義は、フランス革命によって崩壊したヨーロッパ秩序を回復しようとする保守的理念だった。
しかし、その実践は「理念の貫徹」ではなく、列強の利害を調整するための「現実的外交」によって左右された。
フランス・スペイン・ナポリでは理念どおり王政が復位したが、ポーランドやドイツ、イタリアなどでは、勢力均衡の論理が優先された。
つまり、正統主義は理念として掲げられた理想でありながら、その適用は部分的で、体制の根本的矛盾を内包していた。
この章では、記事全体を整理しながら、入試や論述に対応できるよう、重要論点を確認していく。
1. 総まとめ ― 「原則と例外」の構造
項目 | 内容 |
---|---|
原則 | 正統主義:旧王朝の復位による秩序の回復 |
例外 | 勢力均衡:現実的安定を優先し理念を部分的適用 |
適用地域 | フランス・スペイン・ナポリなど |
例外地域 | ポーランド・ドイツ・イタリア・オランダ・ノルウェーなど |
矛盾の本質 | 理念(正統主義)と現実(勢力均衡)のすれ違い |
歴史的意義 | 理想と現実の分離が体制崩壊の起点となった |
🟩 結論:
ウィーン体制は、理念の上では「正統主義」によって秩序を再建しようとしたが、実際には「勢力均衡」に依存することでしか安定を保てなかった。
この乖離こそが、やがて1848年革命へとつながる体制の構造的限界だった。
- ウィーン会議における正統主義の理念と、その適用が部分的にとどまった理由を200字程度で説明せよ。
-
正統主義は、革命で倒れた旧王朝を正当な支配者として復位させ、秩序を回復しようとする理念であった。
しかし、ウィーン会議では列強が自国の安全保障や勢力拡大を優先したため、すべての地域で旧王朝が復位したわけではない。フランスやスペインでは復古が進んだが、ポーランドやドイツでは勢力均衡のため理念が後退し、正統主義は理念と現実の間で妥協を余儀なくされた。 - 正統主義と勢力均衡の違いを説明し、それぞれの理念がウィーン体制に与えた影響を250字程度で述べよ。
-
正統主義は、王権の正統性を歴史と伝統に求め、旧王朝を復位させることで秩序を回復しようとする理念である。一方、勢力均衡は、どの国も突出させずに力のバランスを取ることで平和を維持しようとする現実的外交原理である。ウィーン体制は、表向きには正統主義を掲げたが、実際には勢力均衡によって成り立っていた。両者の併存は体制の安定を支えたが、理念の一貫性を損ね、やがて矛盾が露呈した。
- ウィーン会議の決定において、正統主義の原則が貫かれなかった地域を挙げ、その理由を200字程度で説明せよ。
-
ポーランド・ドイツ・イタリアなどでは、正統主義の原則は貫かれなかった。ポーランドではロシア皇帝が国王を兼ね、民族王政の復位は実現しなかった。ドイツでは皇帝復位ではなく、オーストリア主導のドイツ連邦が設立された。イタリア北部はオーストリアの支配下に置かれ、旧王朝の復帰は部分的にとどまった。
いずれも理念よりも、列強間の勢力均衡が優先されたためである。
正統主義の原則と例外 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
ウィーン会議で「正統主義」を提唱した人物は誰か。
解答: タレーラン
問2
正統主義の目的を簡潔に説明せよ。
解答: 革命で倒れた旧王朝を復位させ、秩序を回復すること。
問3
正統主義の理念が完全に実現した国を1つ挙げよ。
解答: スペイン
問4
フランスで復位した王を答えよ。
解答: ルイ18世
問5
ナポリ王国で復位した王朝は何か。
解答: ブルボン家
問6
ポーランドで国王となった人物は誰か。
解答: ロシア皇帝アレクサンドル1世
問7
ドイツ地域で神聖ローマ帝国を復活させずに設立された組織は何か。
解答: ドイツ連邦
問8
イタリア北部を直接支配した国を答えよ。
解答: オーストリア
問9
勢力均衡の目的を一言で述べよ。
解答: どの国も突出させずに力の均衡を保つこと。
問10
正統主義の理念が部分的にしか適用されなかった最大の理由を答えよ。
解答: 勢力均衡を優先したため。
正誤問題(5問)
問11
正統主義は人民の意思による王政選出を重視した理念である。
解答: 誤(人民ではなく、伝統と血統に基づく王権の正統性を重視)
問12
ウィーン会議では、正統主義と勢力均衡の理念が両立していた。
解答: 正(ただし現実には勢力均衡が優先された)
問13
ポーランドは独自の王を復位させ、民族的独立を達成した。
解答: 誤(ロシア皇帝を王に据えた属国的体制)
問14
ドイツ連邦の設立は、皇帝復位を実現した正統主義の成功例である。
解答: 誤(勢力均衡のための政治的連合)
問15
正統主義は理念的には重要だったが、現実政治の原理にはなり得なかった。
解答: 正
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