ヴァレンヌ事件とは?国王逃亡がフランス革命を過激化させた転機をわかりやすく解説

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ヴァレンヌ事件は、フランス革命の流れを大きく変えた国王逃亡未遂事件(1791年6月)です。

1789年に始まった革命からわずか2年、立憲王政を模索していたフランス社会に衝撃が走りました。

国王ルイ16世と王妃マリー=アントワネットが、民衆の監視下に置かれたパリから脱出しようとしたものの、途中の町ヴァレンヌで発見・逮捕されたのです。

この逃亡未遂は、「国王が祖国を裏切った」という強い印象を国民に与え、革命と王権のあいだにあった最後の信頼の糸を断ち切りました。

以後、民衆はもはや国王を“国家の象徴”とは見なさず、「国民と王」という共存の構図は完全に崩壊していきます。

ヴァレンヌ事件は、立憲王政の理想が瓦解し、共和政への道が開かれる転機として、フランス革命史の中でも特に重要な意味をもつ出来事です。

本記事では、この事件の背景・経過・影響を整理し、なぜこの逃亡劇が革命を過激化させたのかをわかりやすく解説していきます。

目次

第1章:国王逃亡の背景 ― 革命の進行と王権の不安

ヴァレンヌ事件は突然起こった偶発的事件ではなく、1789年以降の政治的緊張と国王の恐怖が積み重なった結果でした。

まずは、なぜルイ16世が逃亡を決意したのか、その背景を見ていきましょう。

① 革命がもたらした「王の孤立」

1789年のバスティーユ牢獄襲撃以降、王権の権威は急速に失墜します。

特に「ヴェルサイユ行進(1789年10月)」でパリの群衆が国王一家を王宮から連れ出し、チュイルリー宮殿に移したことは象徴的でした。

この時点で国王は、事実上「民衆の監視下」に置かれていたのです。

さらに、教会財産の没収(1789年11月)、聖職者民事基本法(1790年7月)などによって宗教問題も深刻化。

敬虔なカトリック信徒だった王妃マリー=アントワネットやルイ16世にとって、これは信仰の否定と映りました。

② 国王と革命派のすれ違い

革命派の議会は「立憲王政」を掲げており、王を国家元首とする憲法政治を模索していました。

しかしルイ16世は、「王権神授説」に基づく絶対的主権の意識を捨てきれず、革命の方向性を理解できませんでした。

国外では、亡命貴族(エミグレ)がオーストリアなどで反革命を煽動しており、王の心は次第に「国外に助けを求める」方向へと傾いていきます。

③ 王妃マリー=アントワネットの影響

オーストリア出身の王妃マリー=アントワネットは、祖国の支援を期待していました。

彼女の兄であるレオポルト2世(神聖ローマ皇帝)がフランス情勢に介入する可能性を信じ、逃亡計画を後押ししたとも言われます。

④ 逃亡の決意

こうして1791年春、王はついに逃亡を決意。

目的地は、フランス北東部の町モンメディです。そこには、王党派の軍隊が駐留しており、国外勢力との合流を企図していました。

しかし、ルイ16世は「国王として正体を隠さない」旅を選び、豪華な馬車と大人数で出発したため、かえって人々の注目を集めることになります。

【重要論述問題にチャレンジ】

なぜルイ16世はヴァレンヌ事件で逃亡を図ったのか。その背景を、政治的・宗教的要因の両面から200字以内で説明せよ。

1789年以降の革命で、国王は権力を制限され、チュイルリー宮殿に幽閉状態となっていた。
聖職者民事基本法などにより教会と対立が深まり、信仰を重んじる国王は革命政府への不信を強めた。
さらに亡命貴族やオーストリアの支援を期待し、国外で反革命運動を指導するために逃亡を決意した。

第2章:ヴァレンヌへの逃亡 ― 捕縛と失敗の経緯

王は慎重な計画のもとに夜陰に紛れてパリを脱出しました。

しかし、皮肉にも「国王の顔」があまりに知られすぎていたため、逃亡はわずか数日で失敗に終わります。

① 逃亡計画の概要

1791年6月20日深夜、国王一家はチュイルリー宮殿を脱出。

民間人に変装し、王子王女を含む一家と側近らが大型馬車に乗り込みました。

王妃の侍女に扮した女性が道案内を務め、目的地モンメディを目指しました。

しかし、パリからの脱出自体が監視下で困難だったうえ、王家の行列は豪華すぎて目立ちました。

馬の交代や休息の遅れも重なり、予定より大幅に遅延します。

② シャンパーニュ地方ヴァレンヌでの発見

6月21日、ヴァレンヌの郵便局長ドロワが馬車の乗客に疑いを持ち、紙幣の肖像と見比べたところ国王本人であると気づきました。

国王一家は町の宿屋で拘束され、民衆に取り囲まれることになります。

彼らは罵声を浴びながら、衛兵に護送されてパリへ強制送還されました。

③ 捕縛後の民衆反応

パリではこの報せが瞬く間に広まり、民衆は激怒しました。

王を「革命の敵」とみなし、王権に対する信頼は完全に失われます。

国民議会は表面上、王を「誘拐された」として処罰を避けましたが、もはや立憲王政の理想は崩壊していたのです。

【重要論述問題にチャレンジ】

ヴァレンヌ事件の経過を簡潔に説明し、この事件が民衆に与えた心理的影響を150字程度で述べよ。

1791年6月、ルイ16世一家はパリを脱出してモンメディへ向かったが、途中ヴァレンヌで発見・逮捕された。この逃亡未遂によって国王が「革命を裏切った」と民衆は感じ、王権への信頼は完全に失われた。
以後、王と国民の協調による立憲王政の理想は崩れ、革命は急進化していった。

第3章:ヴァレンヌ事件の影響 ― 立憲王政の崩壊と民衆の急進化

ヴァレンヌ事件は単なる逃亡未遂にとどまらず、政治・思想・感情のすべての面で革命の方向を変えました。

① 王権への信頼の喪失

事件後、王は再びチュイルリー宮殿に軟禁されました。

国民議会は表面上「王は誘拐された」とする弁明を採用しましたが、民衆はもはやその説明を信じませんでした。

王は「祖国を裏切った存在」と見なされ、国民の象徴から敵へと転落します。

② 共和政思想の台頭

これまで穏健な市民たちも、「王を戴いた政治」の限界を感じ始めます。

コルドリエ派ジャコバン派など急進勢力は、王政廃止を公然と主張するようになりました。

1791年7月のシャン・ド・マルス事件では、王政廃止を求める民衆が弾圧され、以後、穏健派と急進派の対立が決定的になります。

③ 革命の過激化への道

ヴァレンヌ事件は「革命の中の信頼」を完全に破壊しました。

この出来事によって、「国王とともに改革を進める」という路線は終わり、「国王を排除して新体制を築く」という方向へと革命が進んでいきます。

これがやがて立法議会の成立(1791年10月)と、その後の国王処刑・共和政樹立へとつながる大きな転換点となるのです。

【重要論述問題にチャレンジ】

ヴァレンヌ事件がフランス革命の進行に与えた影響を100字程度で説明せよ。

ヴァレンヌ事件によって国王への信頼が失われ、立憲王政の理念は崩壊した。民衆は王を裏切り者とみなし、共和政を求める声が高まった。これにより、革命は穏健な改革から急進的な変革へと進み、王政廃止と国王処刑への道を開いた。

入試で狙われるポイント

  • 「ヴァレンヌ事件=立憲王政崩壊の契機」と整理することが最重要。
  • 逃亡の動機(宗教・政治・国外亡命貴族の影響)と、結果(信頼の喪失・共和政思想の台頭)をセットで覚える。
  • シャン・ド・マルス事件との関連(民衆の急進化→弾圧)も必ず押さえる。
  • 年号「1791年6月」を確実に記憶しておくこと。

第4章:シャン・ド・マルス事件 ― 王政廃止要求の弾圧と革命の分裂導入文

ヴァレンヌ事件で民衆の王への信頼が崩壊した後、フランス革命は急激に過激化します。

しかし、国王をめぐる意見の対立が革命勢力を分断し、流血の事件へと発展しました。

それがシャン・ド・マルス事件(1791年7月17日)です。

① 王政廃止を求める民衆のデモ

ヴァレンヌ事件のあとも、国民議会は立憲王政を維持する姿勢を崩しませんでした。

民衆はこれに反発し、「国王を退位させ、共和国を樹立せよ!」と声を上げます。

1791年7月17日、パリのシャン・ド・マルス広場に数万人の民衆が集結し、王政廃止を求める署名運動が行われました。

主導したのは、革命の急進派であるコルドリエ派ジャコバン派左派

とくに、デムーランマラーといったジャーナリストたちは、「人民の主権を守れ」と訴え、民衆の怒りを煽動しました。

② ラファイエットによる武力弾圧

しかし、国民議会はこのデモを「無秩序な暴動」とみなし、治安維持のために国民衛兵(司令官:ラファイエット)を出動させます。

やがてデモの中で石を投げた者がいたことを口実に、衛兵は群衆に発砲。

この結果、多くの死傷者を出す惨事となりました。

「自由の名のもとに始まった革命」が、「人民の血を流す革命」へと変質した瞬間でした。

③ 革命勢力の分裂

この事件を契機に、革命派の内部対立が明確になります。

  • 穏健派(立憲君主派):ラファイエットやバルナーヴら。秩序と立憲王政を維持しようとする。
  • 急進派(共和派):マラー、ダントン、ロベスピエールら。王政廃止と人民主権を主張。

これにより、ジャコバン派の内部も分裂

穏健な立憲派は離脱し、後に「フイヤン派」として別組織を形成しました。

こうして、フランス革命は「王政を守る勢力」と「王政を倒す勢力」に分かれ、やがて後者が歴史の主導権を握ることになります。

④ 事件の意義 ― 「革命の暴力化」の始まり

シャン・ド・マルス事件は、革命の流れを象徴する転換点でした。

民衆が初めて「自国の政府」によって弾圧され、政治対立が暴力を伴う段階に入ったのです。

この後、立法議会の混乱、国外との戦争(対オーストリア戦)、国王処刑といった「革命の激化」への道が開かれていきます。

【重要論述問題にチャレンジ】

シャン・ド・マルス事件の経過と意義を150字以内で説明せよ。

1791年7月、ヴァレンヌ事件後に王政廃止を求める民衆がシャン・ド・マルス広場で署名運動を行った。これを鎮圧しようとした国民衛兵が発砲し、多数の死傷者を出した。この事件は革命派の分裂を決定づけ、穏健派と急進派の対立を生んだ。また、革命が暴力を伴う新段階に入る契機となった。

入試で狙われるポイント

  • 「ヴァレンヌ事件→シャン・ド・マルス事件」という流れを必ずセットで理解。
  • シャン・ド・マルス事件は「革命内部の分裂」=フイヤン派とジャコバン派の分岐点
  • 弾圧の責任者ラファイエットの立場(穏健立憲派)を明確にする。
  • 「人民の自由のための革命が、人民を弾圧する転換点」という視点も論述で有効。

第5章:ヴァレンヌ事件の歴史的意義とまとめ

ヴァレンヌ事件は、単なる逃亡未遂事件ではなく、「国王と国民の信頼関係が完全に断絶した瞬間」でした。

この章では、事件の歴史的意義を整理し、フランス革命の中でどの位置にあるのかを年表とチャートで俯瞰します。

① 「国王と国民」の決定的断絶

それまでの革命は、「王と国民がともに憲法をつくる」という協調路線を模索していました。

しかしヴァレンヌ事件によって、「王は国民を裏切った存在」として断罪されます。

このとき生まれたのが、「人民主権=王なき政治」という新しい発想でした。

以後、革命は「改革」ではなく「体制の転覆」へと進みます。

王を軸とした政治が終わり、主権が国民に帰属するという思想が実際の政治体制に組み込まれていくのです。

② 革命の方向転換 ― 穏健から急進へ

ヴァレンヌ事件以降、穏健派の信頼は急速に失われ、ジャコバン派・コルドリエ派などの急進勢力が台頭します。

その過程で、「暴力」「恐怖」「粛清」という手段が政治を支配していきました。

この事件は、革命が理念から現実へ、理性から情念へと転じる転換点であり、「理想を掲げた市民革命」が「生存を賭けた闘争」へと変質していく出発点でもありました。

③ 外交的影響 ― ヨーロッパ諸国の警戒

ヴァレンヌ事件の報せはヨーロッパ中に衝撃を与えました。

諸国の君主たちは「革命思想が自国に波及すること」を恐れ、フランス包囲の構想が生まれます。

特にオーストリア皇帝レオポルト2世とプロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム2世が1791年8月に発したピルニッツ宣言は、「フランス王を救うために必要なら武力を行使する」と明言したものでした。

これが翌1792年の対オーストリア宣戦へとつながり、革命は国内だけでなく国際的対立へと発展していきます。

④ 「信頼の崩壊」がもたらした連鎖

ヴァレンヌ事件を理解する鍵は、「信頼の崩壊」という一語にあります。

信頼の対象崩壊の契機結果
王への信頼ヴァレンヌ事件王政廃止の機運
政府への信頼シャン・ド・マルス事件民衆の過激化
仲間への信頼議会内対立政治の暴力化

このように、ひとつの事件が連鎖的に社会秩序を崩壊させていくのが、フランス革命の特徴です。

「信頼の連鎖の崩壊」こそが、革命の本質を象徴しています。

【年表で整理:ヴァレンヌ事件前後の流れ】

年月出来事内容・意義
1789.7バスティーユ牢獄襲撃革命の始まり
1789.10ヴェルサイユ行進王一家がパリへ移送
1790.7聖職者民事基本法王・教会と革命派の対立激化
1791.6ヴァレンヌ事件国王逃亡→信頼崩壊
1791.7シャン・ド・マルス事件王政廃止要求の弾圧、革命の分裂
1791.10立法議会の成立王政維持派と共和派の対立
1792.8〜王政廃止・国王処刑へ革命の急進化

【フランス革命の流れチャート】

【フランス革命の流れ】

1789 バスティーユ襲撃 → 革命の勃発
 ↓
立憲王政の模索(国民議会の改革)
 ↓
1791 ヴァレンヌ事件:国王逃亡で信頼崩壊
 ↓
1791 シャン・ド・マルス事件:民衆弾圧で革命分裂
 ↓
1791 立法議会の成立:穏健派と急進派の対立
 ↓
1792〜 国王処刑・共和政樹立 → 革命の急進化

⑤ 歴史的意義の総括

ヴァレンヌ事件の歴史的意義を一言でまとめるなら――

それは「王権と国民主権の共存が不可能になった瞬間」です。

この事件を境に、「君主のいる近代国家」ではなく、「人民が主権を握る近代国家」への道が開かれました。

その理念は、やがて1791年憲法、1793年憲法へと受け継がれ、19世紀の自由主義・共和主義の基盤となっていきます。

【重要論述問題にチャレンジ】

ヴァレンヌ事件の歴史的意義を、フランス革命の理念との関係で120字程度で説明せよ。

ヴァレンヌ事件は、国王と国民の協調による立憲王政の理想を崩壊させた。この事件を契機に国王への信頼は失われ、主権は国民に属するという思想が強まった。以後、共和政の要求が高まり、人民主権が現実の政治体制に反映されていく契機となった。

入試で狙われるポイント

  • 「ヴァレンヌ事件=立憲王政の崩壊」を明確に書けるかが鍵。
  • 事件の**背景(宗教・政治・国外勢力)→経過→影響(信頼の崩壊)**を流れで理解。
  • ピルニッツ宣言への連鎖を問う問題に注意。
  • 思想史的には「国民主権の確立」への転換点と整理しておくと論述で有利。
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