ジャコバン派とは何か|フランス革命を急進化させた恐怖政治の担い手

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ジャコバン派とは、フランス革命期に最も急進的な路線をとった政治勢力であり、1793年から1794年にかけて実権を握り、恐怖政治を推し進めたことで知られます。

彼らは「自由・平等・博愛」という理念を徹底的に追求し、封建的特権の廃止や共和制の確立を実現しましたが、その理想は次第に暴力と粛清によって維持される体制へと変質していきました。

もともとジャコバン派は、「憲法友の会(クラブ・デ・ジャコバン)」と呼ばれる政治クラブに由来します。

ここには当初、穏健派から急進派まで幅広い政治家が参加していましたが、革命が進むにつれ分裂し、特にロベスピエールを中心とする急進的共和主義者たちが主導権を握っていきます。

彼らは王政打倒・共和制樹立・経済統制・国民皆兵などを通じて革命を徹底化させ、「人民の名において旧体制を一掃する」という使命感を持って行動しました。

しかし、理想を実現する過程で、ジャコバン派は次第に「人民の自由を守るための独裁」という矛盾を抱え込みます。

国家防衛と内部の反革命鎮圧を名目に、公共の安全委員会を中心とする統制体制を築き、疑わしき者をも処刑する恐怖政治を展開。

やがてその独裁体制は自らの内部崩壊を招き、1794年のテルミドールの反動によってロベスピエールらが失脚し、急進革命は終焉を迎えました。

本記事では、ジャコバン派の成立背景からその思想・政策、そして恐怖政治の実態と崩壊までを体系的に整理し、フランス革命の中で彼らが果たした役割とその歴史的意義を解説していきます。

あわせて、ジロンド派やフイヤン派など他派との違いや、ジャコバン派が現代政治思想に与えた影響についても触れています。

目次

第1章:ジャコバン派の成立と思想 ― 憲法友の会から急進派へ

フランス革命初期、ジャコバン派はもともと「急進派」として誕生したわけではありません。

その出発点は、1789年の革命直後に設立された憲法友の会という政治クラブでした。

このクラブは、立憲君主制の確立を支持する議員たちによる討論の場であり、当初は穏健派・改革派を中心に構成されていました。

1. 成立の背景 ― 政治クラブから生まれた新しい政治勢力

「憲法友の会」は、ヴェルサイユのジャコバン修道院を拠点としたことから「ジャコバン・クラブ」と呼ばれました。

当初は、国民議会の中でも憲法制定を目指す有力議員たちが中心であり、ミラボーやバルナーヴなど、比較的穏健な改革派が多く参加していました。

しかし、革命が進むにつれて情勢は急速に変化します。

フランス社会では貴族・聖職者の特権廃止や封建制解体が進む一方、経済危機や食糧不足により民衆の不満が爆発。

パリの民衆(サン・キュロット)や地方の農民が急進的な要求を強める中、クラブ内部でも穏健派と急進派の対立が深まっていきました。

この対立は、1791年のヴァレンヌ事件を契機に決定的となります。

国王が逃亡を図ったことで立憲君主制への信頼が崩壊し、共和主義を唱える勢力が台頭。

結果として、クラブは王政維持を主張するフイヤン派と、共和制を目指す急進派(のちのジャコバン派)に分裂しました。

2. イデオロギー ― 理性と平等の徹底

ジャコバン派を貫いた思想の核心は、「理性に基づく平等社会の実現」でした。

彼らは啓蒙思想、とりわけルソーの人民主権論に強い影響を受けており、国家の主権は国王ではなく「人民」に属すると考えました。

そのため、旧体制(アンシャン・レジーム)のすべての不平等――身分、財産、宗教的特権――を打破し、すべての市民が法のもとに平等である社会を実現しようとしました。

ただし、その「平等」は自由主義的というよりも国家による統制と道徳的秩序を伴う共同体的平等であり、やがて経済統制・価格統制などを正当化する根拠ともなっていきます。

3. 指導者ロベスピエールの登場 ― 道徳的共和国の理想

ジャコバン派の思想を体系化し、政治運動へと昇華させたのがマクシミリアン=ロベスピエールでした。

彼は貧しい出身ながら卓越した弁舌で知られ、革命議会では「不屈の徳の人」として民衆の支持を集めました。

ロベスピエールは、単なる政治的変革ではなく、「徳に基づく共和国」を理想に掲げました。

「徳なき恐怖は破壊であり、恐怖なき徳は無力である」

この言葉に象徴されるように、彼にとって「恐怖政治」とは単なる暴力支配ではなく、「徳と秩序を守るための必要悪」として位置づけられていました。

こうしてジャコバン派は、革命の理想と現実を結びつける「道徳的独裁」という特異な政治思想を形成していくのです。

第2章:ジャコバン派の台頭 ― ジロンド派との対立と権力掌握

フランス革命が進行するなかで、ジャコバン派は次第に革命運動の中心勢力へと成長していきます。

その過程で最大の転換点となったのが、穏健改革派ジロンド派との対立でした。

両派はともに共和政を掲げながらも、その進め方や社会観の違いによって決定的に対立し、やがてジャコバン派が国家権力を掌握していくことになります。

1. ジロンド派との違い ― 革命の速度と民衆観

ジロンド派は地方出身のブルジョワ層を中心とする勢力で、自由経済と法の支配を重視する立場でした。

彼らにとって革命とは「自由の保障と法の確立」を目指す理性的な改革であり、急進的な暴動や貧民による要求には慎重な態度を取っていました。

これに対してジャコバン派は、都市の民衆(サン・キュロット)との結びつきを重視し、社会的平等の実現を優先しました。

彼らは「人民の声こそが正義」であると考え、民衆の圧力を政治の原動力とみなします。

この違いは、1792年の革命戦争と王政打倒をめぐる議論で決定的に表面化しました。

2. 対外戦争をめぐる対立 ― 革命防衛か、革命輸出か

1792年、ジロンド派はヨーロッパ諸国に対して戦争を仕掛けることを主張しました。

彼らは「国外の専制を打倒し、自由の理念を広めることで革命を守る」と訴え、対外戦争による国民統合を狙いました。

しかし、ロベスピエールらジャコバン派はこの方針に反対します。

「自由は銃剣によってではなく、人民の理性によって守られる」

ロベスピエールは、戦争が国王派の陰謀を助長し、革命を内部から崩壊させると警告しました。

彼の懸念は的中し、フランス軍の敗北や国王一家のスパイ疑惑が相次いだことで、民衆の怒りは再び爆発。

こうして1792年8月10日、民衆蜂起によって王政はついに打倒され、国王ルイ16世は捕らえられました。

3. 国民公会の成立とジャコバン派の台頭

王政崩壊後、新たに成立した国民公会では、共和政樹立が宣言されました。

このとき議会は三つの勢力に分かれます。

右にフイヤン派・ジロンド派、中央に中間派(プレーニュ派)、左にジャコバン派が位置し、政治的緊張が高まっていきます。

ジャコバン派はパリの民衆組織「コミューン」やサン・キュロットの支援を受けて勢力を拡大。

やがて、ルイ16世の処刑問題(国王裁判)をめぐる論争で主導権を握ります。

ジロンド派が「亡命・追放」で妥協を模索したのに対し、ジャコバン派は「王政の根絶なくして自由なし」として処刑を主張。

1793年1月、国王が断頭台に送られたことで、ジャコバン派の政治的正統性が確立されました。

4. 1793年の政変 ― ジロンド派追放と権力掌握

しかし、戦況悪化と国内の混乱が続く中で、ジロンド派は民衆弾圧に踏み切り、ジャコバン派との対立は頂点に達します。
1793年6月、パリ民衆の蜂起によってジロンド派が追放され、国民公会の実権は完全にジャコバン派の手に渡りました。
これ以降、ロベスピエール、サン=ジュスト、ダントンらが指導する公共の安全委員会が事実上の革命政府として君臨します。

この時期から始まるのが、後世「恐怖政治」と呼ばれるジャコバン独裁の時代でした。

それは、自由の名のもとに徹底した統制を行い、革命を守るために人民をも監視する体制でもありました。

第3章:恐怖政治の実態 ― 革命の防衛と独裁のはざまで

ジャコバン派が政権を握った1793年から翌1794年にかけて、フランスは史上もっとも過酷な政治体制――恐怖政治を経験しました。

この時期の政府は、外では革命戦争、内では反乱と陰謀に直面し、「自由の名において自由を制限する」という矛盾を抱えながら、革命を守るための独裁へと突き進みました。

1. 革命の危機 ― 外敵と内乱のはざまで

1793年、フランスは周囲の君主国(オーストリア、プロイセン、イギリスなど)と戦う中で、深刻な国家的危機に陥っていました。

さらに国内では、徴兵に反発した農民の蜂起(ヴァンデ地方の反乱)や、ジロンド派支持者による地方反乱が相次ぎ、革命政府は四面楚歌の状態にありました。

このときジャコバン派は、「自由を守るためには、敵を断固として排除しなければならない」と訴えます。

こうして、非常時体制として設けられたのが「公安委員会(公共の安全委員会)」と「保安委員会」でした。

これらの機関は国民公会の権限を上回る実質的な執行権をもち、革命政府の中枢として機能します。

2. 統制政策 ― 革命を守るための国家総動員

ジャコバン派の支配下で、国家は「革命防衛のための総動員体制」に入りました。

1793年8月、「国民皆兵令(徴兵令)」が出され、フランス全土の若者が前線に送られます。

また、同年9月には「最高価格法」が制定され、食糧や生活必需品の価格上限を国家が定めることで、貧困層の生活を守ろうとしました。

さらに、キリスト教的伝統を排して理性の崇拝(最高存在の祭典)を導入するなど、社会全体を革命的理念で統制。

暦も一新され、従来のグレゴリオ暦に代わって革命暦(共和暦)が施行されました。

これらは単なる政策ではなく、「新しい市民」を創出する思想的プロジェクトでもあったのです。

3. 反対派の粛清 ― 自由の名における弾圧

こうした国家統制の裏で、ジャコバン派は次第に政治的敵対者を排除していきます。

最初の標的となったのは、かつての同士ダントン派でした。彼らは革命の熱が冷めつつあるなかで緩和政策を訴え「恐怖を終わらせよう」と主張しましたが、ロベスピエールはこれを裏切りとみなし、1794年に断頭台へと送ります。

さらに、エベール派など極左の急進勢力も「無秩序を招く」として処刑しました。

こうして、ジャコバン派内部でも中道・左派の両極が消され、ロベスピエールの独裁体制が完成していきました。

この時期の粛清の象徴が、革命裁判所による大量処刑です。

「人民の敵」とされた者は弁明の機会すらなく断罪され、わずか1年間で約1万6000人が処刑されました。

パリの広場には断頭台が常設され、「恐怖こそが徳を支える」とするロベスピエールの信念が、現実の政治を覆います。

4. 恐怖政治の意味 ― 理想と現実のねじれ

ロベスピエールが目指したのは、「徳と理性に基づく共和政」でした。

彼にとって恐怖とは暴力ではなく、「徳を維持するための正義の手段」であり、革命の純粋性を守るための道徳的必要でした。

しかし、現実にはその理念は暴走し、革命の敵=人民の敵=処刑対象という構図が生まれます。

本来「人民主権」を掲げた革命が、最終的には人民自身を監視・支配する体制に変貌したのです。

この自己矛盾が、のちに多くの思想家によって「革命の宿命」として議論されることになります。

5. 恐怖政治の終焉 ― テルミドールの反動へ

1794年7月、ロベスピエールは「最高存在の祭典」で自らを道徳的秩序の象徴として演出しましたが、これは同僚たちの警戒と反感を招きました。

「彼は神になろうとしている」と囁かれる中、7月27日(革命暦テルミドール9日)、反対派議員がクーデタを決行。

ロベスピエールは逮捕され、翌日に処刑されます。こうして恐怖政治は終焉し、革命は穏健化へと向かいました。

第4章:テルミドールの反動 ― 革命の揺り戻しとジャコバン派の遺産

1794年7月27日(革命暦テルミドール9日)、ロベスピエールが失脚・処刑されたことで、ジャコバン派による恐怖政治は終焉を迎えました。

しかしそれは単なる独裁者の転落ではなく、革命の理念が限界に達した瞬間でもありました。

ここからフランス革命は急進から穏健へと振り子を戻し、同時にジャコバン派の遺した理想と矛盾が新たな時代へと受け継がれていくことになります。

1. テルミドールの反動 ― 急進派の排除と穏健化

ロベスピエールの処刑直後、国民公会では恐怖政治の責任を問う声が高まりました。

公安委員会は権限を縮小され、ジャコバン派の残存勢力は次々と逮捕・処刑されます。

ジャコバン・クラブ自体も閉鎖され、1795年には新憲法(共和暦3年憲法)が制定され、総裁政府が誕生しました。

この政権は、恐怖政治の反省から「権力の集中を防ぐ仕組み」を重視しました。

しかし、政情は依然として不安定で、物価高騰や貧困に苦しむ民衆の不満が噴出。

かつて革命の原動力であったサン・キュロットは弾圧され、民衆の政治参加は大幅に制限されました。

つまり、恐怖政治を終わらせたはずの新体制が、今度は「民衆排除の保守的共和国」と化したのです。

2. 民衆の沈黙と政治の冷却

テルミドール以降の社会では、「もう革命はたくさんだ」という空気が広がります。

恐怖政治の記憶は、政治への参加を「危険」と感じさせ、人々の心に政治的倦怠を生み出しました。

民衆の沈黙はやがてナポレオン台頭を許す土壌となり、フランスは次第に独裁へと向かっていきます。

一方で、革命の理念――自由・平等・博愛――は完全に否定されたわけではありません。

それはむしろ、恐怖政治の過剰を反省することで、制度としての共和主義の模索へと形を変えていきました。

3. ジャコバン派の遺産 ― 理想主義とその影

ジャコバン派が遺したものは、暴力と独裁の記憶だけではありません。

彼らは封建的身分秩序を完全に否定し、教育・経済・宗教を含む社会全体を「理性」に基づいて再構築しようとした、近代的改革の先駆者でもありました。

その理念は後世の革命運動――19世紀の社会主義運動やナショナリズム――に大きな影響を与えました。

一方で、「理想のためには手段を選ばない政治」という側面は、のちの独裁体制にも影を落とします。

つまり、ジャコバン派は理想主義の光と、道徳的独裁の影という二面性をもって近代政治思想に刻まれたのです。

4. 歴史的評価 ― 理性と情熱のはざまで

歴史家の間でもジャコバン派の評価は分かれています。

ある者は彼らを「人民主権を守った革命の守護者」と讃え、別の者は「理性を失った独裁者」と非難します。

しかし確かなのは、彼らが近代民主主義の限界を最初に体現した存在であったということです。

彼らの掲げた理想――平等・徳・人民の主権――は、今なお政治思想の根幹に息づいています。

フランス革命の中で最も劇的かつ矛盾に満ちたこの時期を理解することは、「理念が現実と衝突したとき、政治はいかにあるべきか」という永遠の問いを考えることでもあるのです。

まとめ ― ジャコバン派の歴史的意義を整理する

観点内容
成立1789年の憲法友の会を起源とする政治クラブ
指導者ロベスピエール、サン=ジュスト、ダントンなど
政治理念理性・徳・人民主権・平等主義
政策国民皆兵、最高価格法、宗教改革、革命暦
支配体制公安委員会による独裁(恐怖政治)
崩壊テルミドールの反動(1794年)で指導者処刑
遺産平等の理念と国家統制型共和主義の両面性

入試で狙われるポイント

この章では、入試で頻出の正誤問題を素材に、誤答しやすいポイントをひとつひとつ丁寧に整理していきます。

問1
ジャコバン派は、もともとパリの革命広場にあった政治クラブから発展した組織である。

解答:✕ 誤り

🟦【解説】
ジャコバン派の起源は、ヴェルサイユのジャコバン修道院に設けられた「憲法友の会(クラブ・デ・ジャコバン)」です。
国民議会の議員たちが討論の場として結成し、後にパリへ移転して政治運動の拠点となりました。

📘【出題の狙い】
「革命広場」など地名を混ぜた誤答が多い。起源=修道院、名称=憲法友の会をセットで覚える。

問2
当初のジャコバン・クラブは穏健な改革派を中心に構成されていた。

解答:○ 正しい

🟦【解説】
1789年設立当初は、ミラボーやバルナーヴら立憲君主派の穏健改革派が中心でした。
革命の進展とともに急進派が台頭し、1791年にフイヤン派と分裂します。

📘【出題の狙い】
初期ジャコバン派=穏健派という点を忘れやすい。後期の急進派と区別できるかを問う。

問3
対外戦争を主張したのは、穏健派のフイヤン派である。

解答:✕ 誤り

🟦【解説】
戦争を推進したのは、ジロンド派(急進的自由主義派)です。
彼らは「国外の専制を打倒し、自由を広める」ことを目的としました。
フイヤン派は秩序維持を優先し、戦争に慎重でした。

📊【派閥構成の整理】

派閥主な立場王政への態度戦争姿勢
フイヤン派穏健・立憲王政維持協調反対
ジロンド派改革推進・地方出身不信推進
ジャコバン派急進・民衆結合打倒当初は反戦

📘【出題の狙い】
「フイヤン=穏健」「ジロンド=急進」の軸を逆に書く選択肢に注意。

問4
ロベスピエールは、対外戦争に最も積極的だったジャコバン派の指導者である。

解答:✕ 誤り

🟦【解説】
ロベスピエールは開戦に反対しました。
「自由は銃剣ではなく理性で守る」と主張し、戦争による革命崩壊を警戒しました。

📘【出題の狙い】
「ジャコバン=戦争推進」は誤り。初期は反戦→政権掌握後に防衛戦という流れで整理。

問5
ジャコバン派は、パリの民衆組織サン=キュロットと結びつきを強めていった。

解答:○ 正しい

🟦【解説】
ジャコバン派は都市下層民サン=キュロットの支持を得て、1793年のジロンド派追放を実現しました。
民衆運動と政治勢力が一体化した点が特徴です。

📘【出題の狙い】
「民衆と結合して権力掌握」が重要。サン=キュロットとの連携は頻出ワード。

問6
ルイ16世の処刑に反対したのはジャコバン派である。

解答:✕ 誤り

🟦【解説】
ルイ16世の処刑を強く主張したのがジャコバン派です。
「王政を根絶しなければ自由は守れない」として処刑に賛成しました。

📘【出題の狙い】
国王裁判の立場を混同しやすい。
→ジロンド派=処刑慎重、ジャコバン派=処刑賛成。

問7
1793年のジロンド派追放後、ジャコバン派が政権を掌握した。

解答:○ 正しい

🟦【解説】
1793年6月、パリ民衆蜂起によりジロンド派が失脚し、ジャコバン派が国民公会を支配。
ここから「恐怖政治」と呼ばれる時代が始まります。

📘【出題の狙い】
「ジロンド派追放=1793年6月蜂起」を正確に押さえる。

問8
公共の安全委員会は、フイヤン派が設立した行政機関である。

解答:✕ 誤り

🟦【解説】
ジャコバン派政権(1793)が設立した非常時体制の機関です。
国家防衛と革命監視を担い、ロベスピエールが実質的な最高権力者となりました。

📘【出題の狙い】
「公安委員会=ジャコバン派」「恐怖政治の中心」とセットで覚える。

問9
ジャコバン派は最高価格法を制定し、生活必需品の価格統制を行った。

解答:○ 正しい

🟦【解説】
1793年9月に最高価格法を制定し、食糧や燃料の高騰を抑える政策を実施。
貧困層の保護と社会平等の実現を目指しました。

📘【出題の狙い】
経済政策=統制型である点がジロンド派との対比で出やすい。

問10
国民皆兵令は、ジャコバン派が革命防衛のために発令した。

解答:○ 正しい

🟦【解説】
1793年8月、ジャコバン派政権が国民皆兵令を公布。
18〜25歳の男子を中心に徴兵を行い、国家総動員体制を確立しました。

📘【出題の狙い】
「国民皆兵=革命防衛=ジャコバン派」の三点セットで整理。

問11
ロベスピエールは「自由のために徳を強制する」という理念を掲げた。

解答:○ 正しい

🟦【解説】
ロベスピエールは「徳なき恐怖は破壊、恐怖なき徳は無力」と説き、
徳(公共の善)を守るための恐怖を政治的正義とみなしました。

📘【出題の狙い】
「恐怖政治=単なる暴力」ではなく、「徳による統治」という思想的背景を理解する。

問12
エベール派はロベスピエールの盟友として恐怖政治を支えた。

解答:✕ 誤り

🟦【解説】
エベール派はジャコバン左派の過激な民衆派で、
ロベスピエールと対立し、1794年に処刑されました。

📘【出題の狙い】
「同じ急進派でも対立・粛清された」という内部抗争の理解を確認。

問13
恐怖政治下では、宗教的寛容を重視しカトリック信仰を保護した。

解答:✕ 誤り

🟦【解説】
ジャコバン派は理性の崇拝・最高存在の祭典などを導入し、
カトリック的伝統を排除しました。革命暦の制定もその一環です。

📘【出題の狙い】
「宗教=抑圧・世俗化」「理性の神格化」をキーワードで押さえる。

問14
革命暦の導入は、宗教と王政の否定を象徴する政策である。

解答:○ 正しい

🟦【解説】
1793年施行の共和暦(革命暦)は、キリスト教暦を廃止し、年号を「共和国元年」から数えるものでした。
宗教的時間観を断ち切る象徴的改革です。

📘【出題の狙い】
「革命暦=世俗化・新秩序」の象徴として説明できるか。

問15
ダントン派は恐怖政治を強化する方向でロベスピエールと協力した。

解答:✕ 誤り

🟦【解説】
ダントン派はむしろ恐怖政治の緩和を主張し、1794年に粛清されました。
ロベスピエールは「革命の純粋性」を理由に処刑を命じました。

📘【出題の狙い】
「ダントン=緩和派」「粛清対象」という関係を整理。

問16
ロベスピエールは最高存在の祭典を開催し、徳と理性の結合を演出した。

解答:○ 正しい

🟦【解説】
1794年、ロベスピエールは国家的行事「最高存在の祭典」を主催。
「理性の宗教」を掲げ、徳による道徳国家を象徴化しました。

📘【出題の狙い】
宗教改革ではなく国家的儀礼の創出と理解できるかを問う。

問17
ロベスピエールの失脚(テルミドール9日)は、ジャコバン派支配の終焉を意味した。

解答:○ 正しい

🟦【解説】
1794年7月27日(テルミドール9日)、反ロベスピエール派のクーデタによりロベスピエールとサン=ジュストが処刑。恐怖政治が終結しました。

📘【出題の狙い】
「テルミドールの反動=1794年=恐怖政治終焉」をセットで。

問18
テルミドールの反動後、ジャコバン派は政治的影響力を維持した。

解答:✕ 誤り

🟦【解説】
反動後はジャコバン・クラブが閉鎖され、急進派は完全に排除。
民衆運動は沈静化し、総裁政府期に移行します。

📘【出題の狙い】
「反動=急進派弾圧」「民衆沈黙」へ転換する流れを確認。

問19
ジャコバン派の政策は中央集権体制の確立に寄与した。

解答:○ 正しい

🟦【解説】
公安委員会・地方監察官制度を通じて行政を一元化。
国家主導の中央集権体制は、のちのナポレオン行政にも継承されました。

📘【出題の狙い】
「独裁=悪」だけでなく、「中央集権=近代国家化」にも触れられるか。

問20
ジャコバン派の政治理念は、近代民主主義の理念を完全に否定するものであった。

解答:✕ 誤り

🟦【解説】
否定ではなく、人民主権と平等の徹底を追求したが、
その手段が暴力的独裁に変質した点に特徴があります。

📘【出題の狙い】
「理念と現実の二面性」を理解させる発展的設問。

重要論述問題にチャレンジ

ジャコバン派の恐怖政治は、革命の理念をどのように体現し、また裏切るものであったか150字程度で説明せよ。

ジャコバン派は、平等と人民主権の理念を徹底するために国民皆兵や価格統制を実施し、革命を守ろうとした。しかしその過程で言論統制と大量処刑による恐怖政治を展開し、自由の抑圧を招いた。
理想実現のための独裁は、理念の体現であると同時にその自己否定でもあった。

ジロンド派とジャコバン派の対立の背景と、その結果を150字程度で説明せよ

ジロンド派は自由経済を重視する穏健なブルジョワ勢力で、対外戦争による革命拡大を主張した。これに対しジャコバン派は民衆と結び、戦争に慎重で社会的平等を重視した。両派の対立は激化し、1793年の民衆蜂起でジロンド派が失脚、ジャコバン派独裁が成立した。

ジャコバン派の政策は、近代国家の形成にどのような影響を与えたか120字程度で説明せよ。

ジャコバン派は革命防衛のため国民皆兵制や最高価格法を導入し、国家による統制と国民の動員を実現した。その統制的政策は専制的側面をもったが、中央集権的行政制度と国民統合を進め、のちの近代的国民国家形成に重要な先例を残した。

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