ジャコバン派の恐怖政治とは何か|ロベスピエール独裁と粛清のメカニズムを徹底解説

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ジャコバン派の恐怖政治とは、1793〜1794年にフランス革命政府が実施した、反革命勢力の徹底弾圧と粛清を中心とする独裁政治のことです。

「自由・平等・博愛」を掲げた革命は、やがて内部対立と外敵の圧力のなかで、“自由のために自由を制限する”という矛盾に直面しました。

ジロンド派の恐怖政治は、民衆の暴走や戦争による混乱を恐れて抑制的であったのに対し、ジャコバン派の恐怖政治は、革命を守るために徹底的に敵を排除するという積極的な性格を持っていました。

とくにロベスピエールを中心とする公共の安全委員会は、国家の非常事態を口実に司法・立法・行政を掌握し、「徳なき自由は混乱、自由なき徳は暴政」として、恐怖による統治を正当化します。

しかしその過程で、革命の理念そのものが粛清の論理に呑み込まれていきます。

反革命容疑で断頭台に送られたのは貴族や王党派だけではなく、同じ革命仲間であったジャコバン派内部の指導者たちまでも。

理想を守るために暴力を選んだ政権は、やがて“人民の敵”という名のもとに人民を裁く体制へと変質していきました。

本記事では、ロベスピエール独裁下で行われた恐怖政治の構造を徹底的に解説します。

  • どのようにして「革命を守るための独裁」が成立したのか
  • 恐怖政治を支えた組織(公安委員会・革命裁判所・監視委員会)の役割
  • ロベスピエール体制崩壊の要因とテルミドールの反動

これらを順を追って整理し、恐怖政治のメカニズムとその歴史的意味を明らかにしていきます。

目次

第1章:恐怖政治成立の背景 ― 戦争・内乱・経済危機が生んだ非常体制

ジャコバン派の恐怖政治は、突如として始まった独裁ではありません。

その背後には、対外戦争の泥沼化、国内反乱の拡大、そして経済の崩壊という極限状況がありました。

フランス革命が「自由の祭典」から「生存をかけた戦い」へと変貌していくなかで、非常手段としての独裁が「革命を守る唯一の手段」とみなされていったのです。

ここでは、恐怖政治を生んだ4つの要因を整理していきます。

① 対外戦争の激化 ― 革命政府を包囲する「全欧の敵」

1792年のオーストリア宣戦から始まった対外戦争は、当初の「革命の防衛戦」から、やがて「生き残りをかけた総力戦」へと変化しました。

ジロンド派が主導した開戦は、国王処刑によってさらに過激化し、1793年には第1回対仏大同盟(イギリス・オーストリア・プロイセン・スペインなど)が結成されます。

国境各地での敗報、徴兵への不満、外国勢力の侵攻によって、パリでは「祖国の危機宣言」が出され、革命政府は全権を握る方向へと傾きました。

この非常事態が、のちに公共の安全委員会を誕生させる契機となります。

② 内乱の拡大 ― ヴァンデー反乱と地方の動揺

革命政府にとってより深刻だったのは、国内の反乱でした。

1793年、徴兵令に反発した西部ヴァンデー地方で農民が蜂起し、「王と聖職者を守れ」をスローガンに大規模な内戦へ発展します。

このヴァンデー反乱は王党派と反革命勢力を結集させ、共和政府にとって致命的な脅威となりました。

さらに、地方都市リヨンやマルセイユなどでもジロンド派支持の反乱が起こり、パリのジャコバン派政府は内外から包囲された孤立政権となります。

こうした状況下で、「国家を救うためには一時的な独裁が必要だ」という論理が急速に支持を集めていきました。

③ 経済危機と民衆の怒り ― 生活不安が過激化を後押し

戦争と反乱によって物流は混乱し、物価は高騰、食糧不足が深刻化しました。

貧困層はパンを求めて街頭にあふれ、サン=キュロット(都市民衆)は「投機商人の処罰」「価格統制」「富の平等」を政府に要求します。

ロベスピエールらは、民衆の圧力を利用して権力を集中させました。

その結果、最高価格令(1793年)によって食料価格の上限を定め、穀物や必需品を統制経済化する政策が進められます。

恐怖政治は、単なる弾圧体制ではなく、戦時経済と社会統制の総合システムとして成立したのです。

④ 政治的危機と「非常委員会」の台頭

国民公会(1792〜95)は、形式上は共和制の議会でしたが、実際には分裂と混乱が続いていました。

ジロンド派とジャコバン派の対立が頂点に達した1793年6月、パリの民衆蜂起によってジロンド派が追放され、ジャコバン派が政権を掌握します。

その直後に設置されたのが、公共の安全委員会(12人で構成)です。

この委員会は「革命の執行機関」として司法・行政・軍事を統合し、事実上の独裁機関となりました。

当初は緊急措置にすぎなかったこの制度が、やがて恐怖政治の中枢へと変貌していきます。

まとめ ― 「非常時の独裁」はこうして始まった

ジャコバン派の恐怖政治は、理想の裏切りではなく、非常時における合理的な選択として出発しました。

戦争・内乱・飢餓という“三重の危機”の中で、ロベスピエールらは「自由を守るには秩序が必要だ」と信じ、非常体制=革命の自己防衛として独裁を正当化したのです。

しかし、その非常体制がやがて永続化し、革命の理念そのものを破壊する――それが次章で述べる「恐怖政治のシステム化」です。

第2章:恐怖政治の仕組み ― 革命裁判所・監視委員会・公安委員会の役割

恐怖政治の本質は、単なる暴力や処刑の多発ではありません。

それは制度化された恐怖――すなわち、法と行政の仕組みを通じて国家が恐怖を生産・運用した体制でした。

この章では、ロベスピエール体制を支えた三つの柱、① 革命裁判所、② 監視委員会、③ 公共の安全委員会、の役割を整理しながら、「恐怖がいかにして国家の機能へと組み込まれたのか」を見ていきます。

① 革命裁判所 ― 「人民の名において裁く」司法の武器化

1793年3月、反革命容疑者を迅速に裁くために設置されたのが革命裁判所です。

その目的は「国家を脅かす者を速やかに処罰すること」。

しかし、その定義が曖昧だったため、“反革命”の範囲は無限に拡大していきました。

王党派や亡命貴族だけでなく、商人、農民、さらには革命に疑問を呈した者までもが次々に告発されます。

審理は極めて迅速で、弁護の機会も限定的。

陪審員と裁判官はすべてジャコバン派の支持者で構成され、「人民の敵」という烙印が下されれば、ほぼ自動的に死刑判決が下りました。

📊【特徴まとめ】

項目内容
設立1793年3月
管轄反革命容疑者の裁判
特徴弁護制限・迅速審理・死刑多数
有名な犠牲者マリー=アントワネット、ダントン、エベールなど

革命裁判所は、まさに恐怖政治の象徴的装置となり、1年間で1万6千人以上が処刑されたとされます。

② 監視委員会 ― 密告社会を支えた監視網

各コミューン(区)やセクションには、監視委員会が設けられ、市民の言動・出入り・文書などを監視しました。

委員会は「人民の敵」を見つけるために、密告制度を奨励し、隣人や家族間でさえ互いを疑う社会を作り出します。

革命政府は、恐怖を社会の隅々まで浸透させることで、反乱を防ぐと同時に、民衆自身に統制を担わせる仕組みを完成させたのです。

この“監視の共和国”という側面こそ、ロベスピエールが唱えた「徳と恐怖による統治」が現実化した形でした。

【監視委員会の機能】

  • 住民登録・旅券発行の管理
  • 反革命容疑の捜査・通報
  • 革命裁判所への送致決定
  • 密告奨励による「忠誠の証明」文化の形成

③ 公共の安全委員会 ― 革命政府の中枢権力機関

恐怖政治の頂点に立ったのが、公共の安全委員会です。

1793年4月に設置され、12名の委員によって構成。

ロベスピエール、サン=ジュスト、クートンらが主導し、軍事・外交・立法・行政すべてを統括する、事実上の革命内閣となりました。

この委員会は、単なる官僚組織ではなく、「徳に基づく共和国を実現するための政治的宗教機関」として機能しました。

ロベスピエールはここで「徳(道徳)」と「恐怖」を統治の両輪として位置づけ、国家の使命を“人民の道徳的浄化”にまで拡大します。

その結果、エベール派(急進的左派)を「無秩序の敵」として粛清、ダントン派(穏健派)を「腐敗の象徴」として断罪と、内部の異端排除が制度として組み込まれることになります。

📊【公共の安全委員会の位置づけ】

機関名主な役割性格
公共の安全委員会国家運営の最高機関(行政・軍事・外交)実質的な独裁機関
革命裁判所司法機能(処罰・粛清)恐怖の執行装置
監視委員会監視・通報(社会統制)民衆動員と情報収集

④ 「徳と恐怖」― ロベスピエールの政治哲学

ロベスピエールは議会で次のように演説しました。

「恐怖とは正義の迅速で厳格な形態にすぎない。
それは徳から生まれ、共和国を守るために必要である。」

この思想の根底には、ジャン=ジャック・ルソーの一般意志の概念があります。

つまり、個人の自由よりも「公共の善」を優先し、それに反する者は人民の敵とみなす。

この論理が、恐怖政治を「徳の実現手段」として正当化する理論的土台となったのです。

やがて恐怖は自らを養うようになり、粛清が秩序の維持装置と化していきます。

法が道徳化し、道徳が暴力を正当化する――まさに「革命が革命を食う」構造でした。

まとめ ― 恐怖が制度に変わる瞬間

ジャコバン派の恐怖政治は、単なる一時的な混乱ではなく、恐怖そのものを国家の統治手段とした制度的独裁でした。

裁判所が法の名のもとに処刑を行い、監視委員会が市民を互いに告発させ、公共の安全委員会が“徳の名”で秩序を裁定する。

こうして、法・道徳・政治が一体化した“恐怖の共和国”が誕生したのです。

次章では、この体制がどのように崩壊へ向かったのか――

「ロベスピエールの失脚とテルミドールの反動」を中心に、その結末を追っていきましょう。

第3章:ロベスピエールの失脚とテルミドールの反動 ― 恐怖政治の終焉

1794年、ジャコバン派が頂点を迎えると同時に、恐怖政治は崩壊への道を歩み始めました。革命の理念を守るために導入された独裁体制は、やがて内部粛清の連鎖によって自らを破壊していきます。

ロベスピエールが掲げた「徳による共和国」は、恐怖と猜疑の政治に変質し、その徳を体現するはずの指導者自身が“人民の敵”として断罪されるという皮肉な結末を迎えました。

① 粛清の連鎖 ― 仲間をも“敵”とした恐怖政治の暴走

恐怖政治の転機は、1794年(共和暦2年)春に訪れます。

ロベスピエールは体制内の対立派を次々と排除し、革命政府の「浄化」を進めました。

まず、急進派のエベール派を「無政府主義の扇動者」として処刑。

次に、穏健派のダントン派を「腐敗と反革命の共犯者」として断頭台に送りました。

この結果、政敵は一掃されたものの、革命の担い手だった議員・官僚・軍人たちは「明日は自分が処刑されるのでは」と恐怖に震えるようになります。

ロベスピエールはもはや「革命の守護者」ではなく、“猜疑の象徴”として孤立していきました。

📉【粛清の連鎖の流れ】

時期対象名目結果
1794年3月エベール派過激主義・無秩序左派壊滅
1794年4月ダントン派汚職・裏切り穏健派排除
1794年6月革命裁判改正弁護禁止・即日死刑法の歯止め消失

特に1794年6月のプレリアール22日法(法の改正)は、「証拠がなくても人民の道徳的確信で有罪にできる」という恐るべき内容で、司法が完全にロベスピエールの意志に従属する体制を確立しました。

しかし同時に、それは「誰もが人民の敵になりうる」という狂気の社会を生み出し、支持基盤であった議員や官僚の心を完全に離反させます。

② 民衆の離反 ― サン=キュロットの疲弊と飽和

恐怖政治のもう一つの柱、サン=キュロット(都市民衆)も次第にロベスピエールから離れていきました。

最高価格令による物資統制は短期的には効果を上げましたが、市場から商品が消え、生活物資の不足と配給の不平等が広がっていきます。

さらに、ロベスピエールが強制した最高存在の祭典(1794年6月)――

理性崇拝に代わる国家的宗教行事は、多くの民衆にとって理解不能でした。

「革命の宗教化」に違和感を抱いた人々は、やがて“徳の共和国”という抽象理念よりも、現実の生活を求めるようになります。

革命を支えてきたパリ民衆が沈黙したとき、恐怖政治を守る盾は失われました。

③ 政治的孤立 ― 公安委員会内の分裂とテルミドールの反乱

ロベスピエールの最大の誤算は、仲間を信用しなかったことです。

公共の安全委員会内部では、ビヨー=ヴァレンヌやコロー=デルボワらが「ロベスピエールは独裁者だ」と危機感を募らせていました。

1794年7月27日(共和暦テルミドール9日)、国民公会でロベスピエールが敵を名指しせずに「陰謀がある」と演説したことが決定打となります。

恐怖に駆られた議員たちは、「彼を倒さねば自分が倒される」と決起。

その日のうちにロベスピエールと側近サン=ジュスト、クートンらが逮捕され、翌日、断頭台の露と消えました。

【テルミドールの反動(1794年7月)】

日付出来事意義
7月27日国民公会でロベスピエール弾劾恐怖政治の終焉
7月28日ロベスピエールら22名処刑ジャコバン派の崩壊
8月以降革命裁判所縮小・公安委員会権限縮小反動期の始まり

これがテルミドールの反動と呼ばれる出来事で、フランス革命はここで一つの時代を終えます。

恐怖政治の終焉は、同時に「革命の熱狂」の終焉でもありました。

④ 恐怖政治の崩壊が残したもの ― 理想と現実の乖離

ロベスピエールの死後、フランスは急速に保守化します。

政治囚が解放され、ジャコバン・クラブは閉鎖、革命裁判所も権限を失いました。

しかし、恐怖政治が残した「強力な中央集権」「非常体制」「軍の政治的役割」は、のちのナポレオン体制に受け継がれていきます。

つまり、恐怖政治は暴力的な独裁であったと同時に、近代国家の統治機構を形成する転換点でもあったのです。

その意味で、テルミドールの反動は「革命の終焉」ではなく、“革命の国家化”への第一歩ともいえるでしょう。

まとめ ― 革命が革命を食った日

ロベスピエールの失脚は、単なる権力闘争の結果ではありません。

それは、理念の純粋さを追い求めるあまり、現実の社会や人間の複雑さを許容できなかった革命の限界を示しています。

「徳による共和国」という夢は、恐怖と猜疑に飲み込まれ、最も純粋な理想主義が最も過酷な独裁を生む――

それが、ジャコバン派恐怖政治の最大の教訓です。

第4章:恐怖政治の評価と歴史的意義 ― 理想主義と現実政治のはざまで

「恐怖政治=ロベスピエールの狂気」として単純に片づけるのは容易です。

しかし、その背後には、理想の共和国を実現しようとした人々の切実な信念と、極限状況の政治判断がありました。

恐怖政治は暴力の時代であると同時に、国家と民主主義がどのように“危機の中で秩序を保つか”を模索した実験でもあったのです。

この章では、恐怖政治をめぐる三つの主要な視点――
①「革命防衛論」、②「独裁批判論」、③「歴史的継承論」――を比較し、その本質的な意味を考えます。

① 革命防衛論 ― 「恐怖なくして共和国なし」

恐怖政治を肯定的に捉える立場は、主に「革命防衛論」に基づいています。

これは、「1793年当時のフランスは内外の危機にあり、非常体制はやむを得なかった」という見方です。

  • 対外的には第1回対仏大同盟による侵攻
  • 国内ではヴァンデー反乱や地方のジロンド派暴動
  • 経済はインフレと飢餓で崩壊

このような状況下で、ロベスピエールらが取った非常措置は革命の自己防衛手段であり、「恐怖政治は暴政ではなく、共和国を救うための臨時措置だった」と解釈されます。

この立場を代表するのが、マルクス主義史学者アルベール・ソブールです。

彼は、ジャコバン派を「市民革命の完成者」として高く評価し、恐怖政治をブルジョワ共和国誕生の代償と位置づけました。

🗝️キーワード:
「非常体制」「民衆動員」「国家総力戦」「革命の防衛」

② 独裁批判論 ― 「徳が暴力を正当化した悲劇」

これに対して、リベラル史観や人権思想の立場からは、恐怖政治を革命の堕落として批判します。

この立場では、ロベスピエールの「徳と恐怖の共和国」こそ、理想主義が暴力を正当化する危険を示した事例とされます。

ルソーの「一般意志」思想を極端に解釈し、「公共の善に反する者は人民の敵」という論理が、異論を許さぬ全体主義を生んだ――
というのがその中心的批判です。

この観点からは、恐怖政治はフランス革命が抱えた“自由と秩序の両立という永遠の課題”を暴き出した出来事とされ、ロベスピエールは「理想に溺れた政治家」として位置づけられます。

キーワード:
「全体主義の萌芽」「政治的宗教」「思想の暴走」「言論の封殺」

③ 歴史的継承論 ― 「恐怖政治の制度化が近代国家を生んだ」

近年の研究では、恐怖政治を国家形成の過程として捉える見方が強まっています。

つまり、恐怖政治は単なる暴力支配ではなく、のちのフランス行政制度やナポレオン体制につながる中央集権的統治の原型を作り出したという評価です。

公共の安全委員会や革命裁判所、徴兵制度などは、19世紀以降の「戦時体制国家」の原型ともいえます。

恐怖政治を通じて、国家は「法のもとで暴力を行使する能力」――すなわち主権の実体化を獲得したのです。

この観点に立つと、ロベスピエールは暴君ではなく、“国家という近代的機構を生み出した革命の設計者”として再評価されます。

【三つの主要解釈】

観点主張の内容代表的評価者評価の方向
革命防衛論非常事態下の合理的選択A.ソブール肯定的
独裁批判論理想主義の暴走と人権侵害F.フュレ否定的
歴史的継承論近代国家形成の過程現代政治史学中立的・構造的評価

④ 理想と現実のはざまで ― 「徳の政治」が突きつけた課題

ロベスピエールが追い求めた「徳の政治」は、市民が利己心を克服し、公共の善を優先する社会を夢見たものでした。

しかし、人間が完全な徳を備えていない以上、その理想は現実の政治では“恐怖による強制”に変わらざるを得なかったのです。

この構図は、のちの歴史でも繰り返されます。

20世紀の革命国家や独裁政権が「理想を守るための暴力」を正当化した構図も、まさにロベスピエールの時代に原型を見ることができます。

だからこそ恐怖政治は、単なる過去の事件ではなく、「理念と権力」「自由と秩序」をどう調和させるかという永遠の政治的課題を突きつけているのです。

まとめ ― 恐怖政治は“革命の影”にして“近代の原点”

恐怖政治は、革命の理念が制度化する過程で必然的に生じた「影」でした。

ロベスピエールは、理念を現実に移すために法と行政を駆使し、その過程で理念そのものを破壊してしまった――それがこの時代の悲劇です。

しかし、その「失敗の経験」こそが、後のフランス政治思想を鍛え上げました。

啓蒙の理想と現実政治の調和、国家権力と市民の自由の両立――

それらの課題を可視化したという点で、恐怖政治は近代民主主義の出発点でもあるのです。

入試で狙われるポイント

恐怖政治は、恐怖・暴力というイメージでの理解だけでは不十分です。

次の3つの側面の理解が必要です。

【1】恐怖政治は「革命のピーク」を示す時期

フランス革命の流れ(立法議会 → 国民公会 → 総裁政府)の中で、恐怖政治(1793〜1794)は革命の最も急進的段階にあたります。

この時期に、

  • 王政の完全な廃止(ルイ16世処刑)
  • 封建的特権の徹底的破壊
  • 普通選挙の理念(1793年憲法)

これらが実現し、革命の理想が最高潮に達しました。

つまり恐怖政治は、「自由・平等・博愛」という理念が具体的制度に変わった瞬間を示しています。

【2】理念の実現と崩壊を同時に示す

恐怖政治は、革命理念の「頂点」であると同時に、「限界」でもあります。

ロベスピエールは「徳と恐怖」によって共和国を守ろうとしましたが、その結果、自由を守るために自由を奪うという逆説に陥りました。

受験では、「恐怖政治は革命を防衛したのか、それとも理念を裏切ったのか」という二面性を説明できることが重要です。

【3】後の体制(ナポレオン体制・中央集権国家)につながる

恐怖政治で整備された非常体制(公共の安全委員会、徴兵制、統制経済)は、のちのナポレオン体制や近代国家の原型となりました。

したがって、恐怖政治は「革命の終焉」ではなく、近代国家誕生への中間段階として出題されます。

重要論述問題にチャレンジ

ジャコバン派の恐怖政治がどのような背景から生まれ、どのような理念によって正当化されたのかを120字程度で説明せよ。

対外戦争や内乱・経済混乱による国家危機の中で、ジャコバン派は革命を守るため非常体制を敷いた。ロベスピエールは「徳と恐怖」を共和国の原理とし、人民の意志を体現する名の下に、反革命勢力を徹底的に弾圧した。

🟦【解説・採点ポイント】
この問題の狙いは、恐怖政治の「原因」と「理念」を関連づけて説明できるかにあります。

  • 背景(原因)→ 戦争・内乱・経済危機などの非常事態
  • 理念(正当化の論理)→ 「徳と恐怖」または「一般意志」
  • 目的 → 革命の防衛・共和国の維持

がそろえば高得点です。

「単なる独裁」や「ロベスピエールの暴走」と書くだけでは減点対象となります。

ロベスピエールの恐怖政治は、革命の理念である「自由」「平等」「国民主権」をどのように継承し、また歪めたのか。200字程度で具体的に説明せよ。

ロベスピエールは、革命の理念を守るためには秩序と徳が必要と考え、非常体制下で人民の平等と共和の維持を追求した。しかし、自由を保障するために反革命を弾圧した結果、言論や行動の自由を奪い、平等も徳の名の下に暴力で強制される体制となった。理念の制度化が独裁に転じた点に恐怖政治の矛盾がある。

🟦【解説・採点ポイント】

この問題は、理念と現実の矛盾の分析力を問う上級論述です。

  • 「理念」→ 自由・平等・国民主権の継承を認める
  • 「矛盾」→ それらを抑圧する結果になった点を指摘
  • 「結論」→ 理想主義が独裁に転じたという評価

という三段構成で論じると満点に近づきます。

ナポレオン法典との連続性(理念の制度化)に触れるとさらに加点対象です。

恐怖政治は「革命の防衛」であったとも、「革命の否定」であったともいわれる。この二面性について、当時の政治・社会状況をふまえて200字程度で説明せよ。

1793年以降、フランスは内乱と対外戦争の危機に直面し、ジャコバン派は非常体制によって共和国を防衛しようとした。この点で恐怖政治は、革命を外敵と反革命から守るための合理的措置だったといえる。
しかし、弾圧はやがて仲間にも及び、自由や人権を奪う独裁に転じた。その結果、革命の理念は制度としては維持されたが、精神的には裏切られた。この両義性こそ恐怖政治の歴史的特徴である。

恐怖政治に関する論述は、以下のテーマと結びつけて出題されやすいです。

比較対象出題例重要キーワード
ナポレオン体制「理念の制度化」「革命の継承」法の支配・秩序の回復
1791・1793憲法「国民主権と人民主権」理念の具体化と限界
五政体史観「革命の進展と逆行」国民公会→総裁政府
ルソー思想「一般意志の危険性」公共の善と個人自由
ジャコバン派の恐怖政治とナポレオン体制の関係について、革命理念との連続性と断絶の両面から200字程度で説明せよ。

恐怖政治とナポレオン体制はいずれも、革命の理念を秩序として制度化しようとした点で連続している。
ロベスピエールは徳と恐怖による統制を掲げ、ナポレオンは法と軍事による安定を実現した。
しかし前者が道徳的理念を暴力で強制したのに対し、後者は自由を制限して現実的統治を行った。
恐怖政治が理念の純化によって崩壊したのに対し、ナポレオン体制は理念の実用化によって持続した点で対照的である。

恐怖政治期の政治体制を、1791年・1793年・1795年の各憲法と関連づけて200字程度で説明せよ。

1791年憲法が財産に基づく制限選挙を採用したのに対し、1793年憲法は人民主権と普通選挙を定め、民主的理念を明確に示した。しかし戦争と内乱の中でこの憲法は施行されず、代わりに公共の安全委員会による恐怖政治が実施された。その結果、国民主権の名の下で人民の自由が制限され、理念と現実の乖離が生じた。1795年憲法はこれを反省し、権力分立を重視する穏健な体制へと転換した。

フランス革命の五政体の流れの中で、恐怖政治の果たした役割を200字程度で説明せよ。

五政体の中で恐怖政治は、国民公会期の頂点に位置し、革命の理念を実現しようとした最も急進的段階である。ジャコバン派は内外の危機に対処するため独裁を確立し、平等と共和主義を徹底した。しかしその過程で自由を抑圧し、理念が暴力に転化した結果、テルミドールの反動を招いた。恐怖政治は革命の推進と終焉を同時に体現した過渡的政体として、次の総裁政府への橋渡しとなった。

ロベスピエールの政治思想におけるルソーの影響と、それが恐怖政治に与えた影響を200字程度で説明せよ。

ロベスピエールはルソーの「一般意志」思想に強く影響を受け、人民の意志を国家の最高原理とみなした。
彼にとって自由とは個人の意思ではなく、公共の善への服従であった。この思想は徳と恐怖の政治に理論的正当性を与え、人民の敵を排除する行為を正義とみなす根拠となった。結果として、理念的民主主義が現実には独裁と粛清を正当化する構造へと転化したのである。

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