ノルマン人の侵入とフランク王国の王権崩壊 ― 封建社会成立への序章

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ノルマン人の侵入とは、9世紀を中心に北欧のヴァイキングたちが西ヨーロッパ各地に襲撃・略奪・定住を繰り返した一連の動きを指します。

彼らはセーヌ川やロワール川を遡ってフランク王国の内陸部に侵入し、都市や修道院を次々に襲撃しました。

その結果、当時の王権は領土を守りきれず、民衆の信頼を失い、政治的権威が急速に衰退していきました。

この出来事の意義は、単なる外敵侵入ではなく、封建社会成立の直接的契機となった点にあります。

中央の王権が防衛を担えなくなったことで、地方の豪族や領主が自らの領地と農民を守るために独自の軍事力を整備し、主従関係(封建的関係)が各地で形成されました。

つまり、ノルマン人の襲撃はヨーロッパ社会を「中央集権から地方分権へ」転換させた、歴史的な分水嶺だったのです。

背景には、北欧での人口増加や土地不足、航海技術の発達など、ヴァイキングの拡大を促す経済的要因がありました。

彼らは略奪者であると同時に交易者でもあり、後にフランス・イングランド・ロシアなど各地で新しい秩序を生み出していきます。

しかし、まず最初にその影響を最も強く受けたのがフランク王国でした。

ノルマン人の侵入によって、王の統治力が崩れ、地方領主が自立することで、やがて封建社会という中世ヨーロッパの基本構造が形づくられます。

この流れを理解することは、のちの「荘園制」や「教皇権の伸長」「王権の再建」などを学ぶうえでも不可欠です。

本記事では、9〜10世紀のフランク王国を中心に、ノルマン人の侵入がどのように王権を衰退させ、封建社会の成立へと導いたのかを詳しく解説します。

【この記事の位置づけ:ノルマン人三部作の第1部】

以下の表は、ノルマン人の活動全体の中で本記事がどの部分を扱うかを示したものです。

地域時期主な活動・出来事結果・影響主な人物
西ヨーロッパ(フランク王国)9世紀・ノルマン人がライン川・セーヌ川を遡上し襲撃
・885〜886年:パリ襲撃
・911年:カール3世がロロにノルマンディー公領を与える
王が防衛できず、地方豪族が自衛を強化
→ 王権の衰退・封建制の成立へ
ロロ/カール3世(単純王)
イングランド(北海世界)9〜11世紀・デーン人が侵入し「デーンロー」支配を確立
・アルフレッド大王が抵抗・ウェセックス統一
・1066年:ウィリアム征服王によるノルマン・コンクエスト
王権の強化・中央集権化
→ ノルマン朝の成立(フランクと対照的)
アルフレッド大王/ウィリアム征服王
東欧・南欧9〜11世紀・東方:リューリクがノヴゴロド→キエフ公国の建国
・南方:ロベルト=ギスカールらが南イタリア・シチリアを征服
東欧・地中海で新国家成立
→ 文化・交易の交差点となる
リューリク/ロベルト=ギスカール

本記事はこのうち、最初の「西ヨーロッパ(フランク王国)」を中心に扱います。

西ヨーロッパにおける封建社会成立の流れ①

ローマ帝国の崩壊・ゲルマン諸王国の分立
       ↓
フランク王国の成立(クローヴィス)
       ↓
カロリング朝の形成と王権の強化
(ピピンの寄進・カール大帝の戴冠)
       ↓
カール・マルテルの軍制改革
→ 騎士を養うための土地給付が進む
       ↓
恩貸地制度の整備(カール大帝時代)
→ 土地を媒介とした主従関係の制度化
       ↓
北欧の人口増加・航海技術の発達
       ↓
ヴァイキング(ノルマン人)の活動拡大
       ↓
9世紀:フランク王国へ侵入
885〜886年:パリ襲撃
911年:ノルマンディー公領成立(ロロに授与)
       ↓
王権の衰退・地方防衛の自立化
→ 領主が自ら軍事・行政・裁判を担う
       ↓
封建制の成立
(主従関係+荘園制による分権的秩序)
       ↓
中世ヨーロッパ秩序の形成へ
(王権・教会・封建諸侯の三重構造)

西ヨーロッパにおける封建社会成立の流れ②

封建社会の成立の流れ表で一覧できます。今回の記事は、およそ⑦と⑧の段階を扱っています。

段階主な出来事・制度概要・ポイント時期(目安)
① ローマ帝国の崩壊とゲルマン諸王国の分立5世紀、西ローマ帝国が滅亡(476年)。ゲルマン人が各地で王国を建設。ローマの統一秩序が崩壊し、地方ごとの支配が始まる。キリスト教だけが共通の精神的基盤として残る。5世紀
② フランク王国の成立(クローヴィス)481年、クローヴィスがメロヴィング朝を開く。西ヨーロッパで初めて広域的な統一を実現。ローマ=カトリックを受容して教会との結びつきを強化。5〜6世紀
③ カロリング朝の形成と王権強化ピピンの寄進(教皇領の成立)・カール大帝の戴冠(800年)「神の代理人としての王権」が確立。王と教皇の協力体制(教会国家的構造)が生まれる。8〜9世紀初頭
④ カール・マルテルの軍制改革農民を兵士として動員できなくなり、代わりに騎士を養う仕組みを整備。武装と馬の維持には費用がかかるため、戦士に土地(恩貸地)を与えて奉仕させる軍事制度が発達。8世紀前半
⑤ 恩貸地制度の整備(カール大帝時代)王が家臣に土地を貸与し、忠誠と軍役を要求。「土地の代償としての忠誠」が制度化。主従関係が社会の基本単位になる。8〜9世紀初頭
⑥ 北欧の人口増加・航海技術の発達船の改良(ロングシップ)と航海技術の進歩。余剰人口の移動・交易・侵入が可能に。ノルマン人(ヴァイキング)の活動が始まる。8〜9世紀
⑦ ヴァイキング(ノルマン人)の活動拡大9世紀、北海・大西洋沿岸を広範に進出。略奪だけでなく交易・定住・国家形成を行い、ヨーロッパ全体に影響を与える。9世紀
⑧ フランク王国への侵入とノルマンディー公領の成立885〜886年パリ襲撃、911年ロロにノルマンディー公領授与。王が外敵を防げず、地方の貴族や豪族が自衛。結果的に王権が弱体化。9世紀後半〜10世紀初頭
⑨ 王権の衰退と地方防衛の自立化各地の貴族が私的軍隊・裁判権を持つ。王の命令よりも領主の保護が優先され、主従関係を軸とする分権的社会へ。10世紀
⑩ 封建制の成立主従関係(封土と忠誠)+荘園制(農民の耕作)軍事・経済・行政が領主単位で完結。王は形式的支配者にとどまる。10〜11世紀
⑪ 中世ヨーロッパ秩序の形成へ封建制・王権・教会の三重構造各領主が封建的秩序を維持しつつ、教会が精神的支柱となり、安定した中世社会が確立する。11〜12世紀(★カペー朝の王権再建期)
目次

第1章:ノルマン人の侵入とフランク王国の防衛危機

9世紀のフランク王国は、かつてカール大帝のもとでヨーロッパを統一した威光を失い、分裂と混乱の時代を迎えていました。

帝国分割後、王権は弱体化し、各地の貴族が自立する中で、外部からの侵入者たちが相次いで王国を襲います。

その中でも最も深刻だったのが、北方から来たノルマン人(ヴァイキング)による襲撃でした。

彼らは高い造船技術を誇り、川をさかのぼって内陸部の都市や修道院を襲撃しました。

フランク王国は、彼らの素早い奇襲に有効な防御手段を持たず、領内はたびたび略奪と破壊にさらされました。

この章では、ノルマン人の侵入がどのようにフランク王国を動揺させ、王権の威信を失わせていったのかを見ていきます。

1.カール大帝の死と帝国の分裂

カール大帝の死(814年)後、フランク王国はその広大な領土を維持できませんでした。

843年のヴェルダン条約によって帝国は三分割され、西フランク・中部フランク・東フランクに分裂します。

特に西フランク王国では、王権が脆弱で、地方貴族の力が増大しました。

この政治的空白を突くように、北方からノルマン人がセーヌ川を下り、沿岸部や内陸都市を襲撃します。

当時の王たちは、統一的な軍事力を持たず、各地方領主が独自に防衛を行うしかありませんでした。

つまり、王国の「守る力の喪失」こそが、侵入を許した最大の要因だったのです。

2.ノルマン人の襲撃と王権の無力化

ノルマン人は略奪だけでなく、戦略的に富裕な都市を狙いました。

最も有名なのが885〜886年のパリ包囲戦です。

セーヌ川を遡上した数千人のノルマン軍がパリを囲み、都市は一年近く包囲されました。

このとき、王であったカール3世(単純王)は有効な援軍を出せず、貴族や聖職者が自ら防衛を指揮しました。

王が民を守れない現実は、人々の信頼を大きく損ないました。

国土の安全を守る責任が地方に移り、領主が「防衛の担い手」として自立するきっかけになります。

やがて彼らは自らの領地に砦を築き、戦士を養い、王に代わって秩序を維持するようになります。

これが封建的主従関係の萌芽でした。

3.ノルマンディー公領の成立と地方分権の定着

911年、カール3世はついにノルマン人の首長ロロと講和を結び、セーヌ川下流の一帯を与えることで侵入を防ごうとしました。

こうして誕生したのがノルマンディー公領です。

ロロはキリスト教に改宗し、形式上はフランク王の臣下となりましたが、実際には独立的な支配を行い、王権の影響はほとんど及びませんでした。

これ以降、王はもはや地方を直接統治する力を失い、貴族たちはそれぞれの領地で独自の権限を確立していきます。

この構造がやがて封建制の基盤となり、「王が存在しても支配できない社会」が成立したのです。

小まとめ

ノルマン人の侵入は、フランク王国にとって単なる外敵の脅威ではなく、王権そのものを内部から崩壊させる契機となりました。

侵入を防げない王、守らざるを得ない領主、そして守られる農民――

こうして中世ヨーロッパの基本構造「封建社会」は、戦乱のなかから誕生していったのです。

第2章:封建社会の成立と王権の変質

ノルマン人の侵入によって王権が弱体化したあと、フランク王国では国家の形そのものが変わり始めました。

かつては王が全土を統治する「中央集権的秩序」が理想とされていましたが、現実には地方の領主たちが独自の防衛・支配を行うようになり、「領主のもとでの秩序=封建的秩序」が形成されていきます。

この変化は単なる政治制度の転換ではなく、社会の価値観そのものを塗り替えるものでした。

王や国家よりも、身近な主君(領主)との関係が生存の基盤となり、忠誠と保護の絆によって社会が支えられるようになります。

この章では、そうした封建社会の成立過程と、王権がどのように「象徴的存在」へと変質していったのかを見ていきます。

1.防衛から生まれた主従関係

ノルマン人やマジャール人、サラセン人といった外敵が相次いで侵入するなか、民衆が頼れるのはもはや「王」ではなく「身近な領主」でした。

領主は自らの土地と農民を守るために私兵を組織し、戦士たちに土地の一部(恩貸地)を与えて従わせました。

この「土地の代償としての忠誠」という関係が封建的主従関係(ヴァッサリ制)の始まりです。

家臣(臣下)は主君に忠誠を誓い、戦時には軍役で仕え、平時には相談役として協力しました。

こうして、武力を背景とする私的な契約関係が社会を支える基本単位となっていきます。

2.領地支配と荘園制の確立

封建社会の経済的基盤となったのが荘園制です。

領主は自らの直営地を農奴に耕作させ、農産物を得て生活しました。

これにより、中央からの徴税や統制が行き届かなくても、地方社会が自給自足的に成り立つようになります。

荘園はやがて、領主の私有領地として世襲化し、王が介入できない「独立した小社会」となりました。

その結果、王国全体は一見安定しているようでいて、実際には無数の半独立的勢力に分裂していたのです。

この「分権的安定」が、中世ヨーロッパの長い停滞と平衡を生み出しました。

3.象徴化する王権と貴族社会の自立

こうした状況の中で、王の地位は次第に「名目的存在」となります。

王は神の代理人として形式的には国家の頂点に立っていましたが、実際の政治・軍事・経済の主導権は地方貴族が握っていました。

とはいえ、王の存在が完全に無意味だったわけではありません。

王は秩序と正統性の象徴として、貴族間の紛争を調停し、また教会の後ろ盾を得て「神に選ばれた統治者」として一定の威信を保ちました。

しかしその力はもはや「統治」ではなく、「承認」へと変質していたのです。

小まとめ

封建社会の成立は、国家が崩壊した結果ではなく、むしろ「秩序を取り戻すための地域的な仕組み」でした。
ノルマン人の侵入によって王権が崩れたあとも、

人々は忠誠と土地の関係を通じて新たな安定を築きました。

しかし、その安定は中央の統制を犠牲にした分権的な秩序であり、中世ヨーロッパの特徴である「王の弱さ」と「領主の力強さ」を決定づけたのです。

第3章:王権再建への道 ― カペー朝とノルマンディー公の台頭

ノルマン人の侵入と封建社会の成立によって、フランク王国の王権は一時的に地に落ちました。

しかし、中世のヨーロッパ史は「衰退」で終わるわけではありません。

やがてその分権構造のなかから、新しい王権の形がゆっくりと再生していきます。

それが、パリを中心に勢力を広げたカペー朝の登場と、王の臣下でありながら独自の力を持ったノルマンディー公の台頭です。

この章では、10〜11世紀のフランスにおける王権再建の動きを追いながら、「封建社会のなかの王権」とは何かを考えていきます。

1.カロリング朝の断絶とカペー朝の成立

987年、カロリング朝最後の王ルイ5世が嗣子を残さずに死去すると、諸侯たちは自らの中から新しい王を選びました。

こうして誕生したのがカペー朝(初代ユーグ=カペー)です。

この新王朝は形式上フランス全土の支配者でしたが、実際に王が直接支配していたのはパリとその周辺(イル=ド=フランス)のみでした。

地方貴族の力が圧倒的で、王の命令が地方に届くことはほとんどありませんでした。

それでもカペー朝が続いたのは、血統と儀式による「正統性の演出」に成功したからです。

王位継承を円滑に行い、教会の支持を得ることで、王権の象徴性を少しずつ高めていきました。

ただし、注意して欲しいのが、カペー朝が強力な王権を持ったわけではなないということです。

カペー朝の成立は「王権が強くなった」というより、“極度に弱体化したカロリング朝から、少し持ち直しただけ”――

つまり 「極弱 → やや弱」への移行 と捉えるのが実感的に正しいです。

以下はカロリング朝末期とカペー朝初期の王権を比べた表です。

カロリング朝末期からカペー朝初期への王権の推移

観点カロリング朝末期(9〜10世紀)カペー朝初期(10〜11世紀)
王の実権ほぼ名目的。貴族・司教の支持なしでは統治不可能。名目上の王として即位したが、実際の支配はパリ周辺のみ。
地方の支配貴族が自立し、王命は地方に届かない。封建的秩序を受け入れつつ、少しずつ王領を拡大。
軍事力自軍なし。防衛は地方諸侯任せ。封臣団を組織し始めるが、まだ統一軍ではない。
王位継承王家断絶の危機(ルイ5世死去)。選挙王制的要素あり。ユーグ=カペーが貴族に推挙され即位。王位は世襲化へと進む。
教会との関係教会の支援を失い、正統性も低下。王権の正統化を再び教会に依存(戴冠による承認)。

つまり、実質的な支配力は依然として地方貴族にあったが、「王権そのものが消滅せずに形式的に継承された」ことが大きな意味を持ちます。

2.ノルマンディー公の台頭と領主勢力の再編

一方で、911年に成立したノルマンディー公領では、ロロの子孫たちが安定した支配体制を築き、封建社会のなかでも特に強力な領主へと成長していきました。

彼らは周辺の諸侯を従え、王に形式上の忠誠を誓いつつ、実質的には独立した国家のように行動しました。

中でも11世紀のウィリアム(のちの征服王)は、ノルマンディーで築いた軍事力と行政能力を武器に、やがてイングランドへと進出し、ノルマン・コンクエスト(1066)を果たします。

つまり、かつて「侵入者」として恐れられたノルマン人は、わずか150年後には王権再建の主役へと転じていたのです。

3.封建社会の中の王権 ― 「支配」から「統合」へ

中世の王は、絶対的な支配者ではありませんでした。

しかし、封建社会が安定するにつれて、王は貴族間の秩序を守り、教会と連携して国土を「統合」する存在へと変わります。

カペー朝の王たちは、直轄地を徐々に拡大しながら、婚姻・相続・戦争・教会政策を通じて貴族を統制しました。

また、聖職叙任権をめぐる争いなどを通じて、「神の秩序」と「王の秩序」を結びつけることで、王権に宗教的な正当性を与えていきました。

こうして、9〜10世紀に崩壊した王権は、11〜12世紀にかけて「封建的王権」という新しい形で再生していくのです。

小まとめ

ノルマン人の侵入で崩壊したフランク王国の王権は、分権化のなかで姿を変えながら、やがて再び中央に権威を取り戻していきました。

王はもはや全てを支配する存在ではなく、領主や教会と協調しながら「秩序を統合する存在」へと変わります。

この再建の流れは後のフランス絶対王政にもつながり、中世から近代への道を照らす第一歩となったのです。

入試で狙われるポイントと頻出問題演習

入試では知識の暗記だけでなく、因果関係や歴史的意義を論理的に説明できるかが問われます。

ここでは重要論点の整理と、論述・正誤問題に挑戦しながら理解を定着させましょう。

重要論述問題にチャレンジ

問1
ノルマン人の侵入が、フランク王国における封建制成立にどのような影響を与えたか。

解答例
ノルマン人の侵入により王が領土を守れなくなり、地方貴族が自衛のために軍事力を持ち、土地を媒介とした主従関係が発展した。これが封建制成立の直接的契機となり、王権は弱体化した。

問2
カペー朝成立の歴史的意義を説明せよ。

解答例
封建的分権が進む中で、貴族たちが合意により王を選出し、血統と儀式による正統性を確立したことは、王権の再建と「秩序の象徴」としての王の役割を再生させた点で重要である。

問3
ノルマンディー公の台頭が、ヨーロッパ世界の再編に果たした役割を述べよ。

解答例
ノルマンディー公は封建社会の中で強力な領主勢力として成長し、後にイングランドを征服することで西欧の王権を再編した。彼らの勢力拡大は、フランスとイギリスの中世政治をつなぐ契機となった。

頻出正誤問題(30問)

問1
ノルマン人はスカンディナヴィア半島を拠点に、航海技術をもとに西ヨーロッパ各地へ侵入した。
解答:〇 正しい
🟦【解説】
ノルマン人(ヴァイキング)は北欧起源で、船の技術を生かして西欧・東欧・地中海まで勢力を広げた。

問2
885〜886年のパリ包囲戦では、カール大帝がノルマン人を撃退した。
解答:✕ 誤り
🟦【解説】
この時期はカール大帝の死後であり、王はカール3世(単純王)。防衛を主導したのは現地貴族たち。

問3
911年、カール3世はロロに土地を与え、ノルマンディー公領が成立した。
解答:〇 正しい
🟦【解説】
講和の結果、ノルマン人の定住が認められ、以後王権の影響は低下した。

問4
ノルマンディー公はフランス王の直属家臣として、王領を代行統治した。
解答:✕ 誤り
🟦【解説】
ノルマンディー公は形式上家臣だが、実際には独立的な支配を行った。

問5
封建制は、王と家臣の間で土地の授与を通じて忠誠を誓う関係を指す。
解答:〇 正しい
🟦【解説】
土地(封土)と忠誠が結びつく主従関係が封建制の基本構造である。

問6
荘園制では、領主の直営地を農奴が耕作し、生産物を納めた。
解答:〇 正しい
🟦【解説】
自給自足的な農業経済が中世社会の安定を支えた。

問7
987年にカペー朝が成立し、王権は即座に中央集権を回復した。
解答:✕ 誤り
🟦【解説】
カペー朝成立当初は地方分権が続き、王権強化は12世紀以降の課題。

問8
ノルマンディー公ウィリアムはイングランドを征服し、ノルマン朝を開いた。
解答:〇 正しい
🟦【解説】
1066年のノルマン・コンクエストによる成果である。

問9
封建社会において、王は全領主の封主であったが、実際には権力が限定的だった。
解答:〇 正しい
🟦【解説】
王は形式上の頂点に立つが、地方の支配は貴族が担っていた。

問10
封建制は分権的な構造であり、国土防衛を困難にした。
解答:✕ 誤り
🟦【解説】
封建制は分権的だが、防衛の担い手が地方に分散したことで地域秩序を維持できた。

問11
ノルマン人はゲルマン系民族の一派であり、ローマ帝国滅亡期から活動していた。
解答:✕ 誤り
🟦【解説】
ノルマン人はゲルマン系だが、活動は9世紀以降のヴァイキング時代。

問12
ノルマン人の侵入に対して、教皇が軍を率いて防衛した。
解答:✕ 誤り
🟦【解説】
防衛は各地の諸侯や都市が担い、教皇は直接軍事行動を取っていない。

問13
ロロは改宗してキリスト教徒となり、フランク王への忠誠を誓った。
解答:〇 正しい
🟦【解説】
ノルマンディー公領の成立時に洗礼を受け、形式的に王の臣下となった。

問14
ノルマンディー公領は、後にフランス王国の中心地となった。
解答:✕ 誤り
🟦【解説】
ノルマンディー公はフランス王に従わず、むしろイングランド王として対立することもあった。

問15
封建制の主従関係は双務的契約であり、封土の授与と軍役奉仕が対応していた。
解答:〇 正しい
🟦【解説】
主は土地を与え、家臣は軍事奉仕を行う相互義務があった。

問16
封建制では、家臣が主君に反抗する権利は存在しなかった。
解答:✕ 誤り
🟦【解説】
主が契約を破った場合、家臣が忠誠を撤回できる権利(不忠の権)が認められた。

問17
荘園制では貨幣経済が発展し、領主の支配は次第に弱まった。
解答:✕ 誤り
🟦【解説】
貨幣経済の発展は13世紀以降。9〜11世紀はまだ自然経済中心。

問18
フランク王国の王権は、教会の支援によって初期には強化されていた。
解答:〇 正しい
🟦【解説】
クローヴィスの改宗やカール大帝の戴冠など、教会の承認が王権の基盤だった。

問19
ノルマン人の侵入後、地方貴族は軍事的指導力を背景に自立した。
解答:〇 正しい
🟦【解説】
王が防衛できないため、地方領主が独自に軍事・行政・裁判を行った。

問20
西フランクのカロリング朝は、ノルマン人の侵入以前にすでに断絶していた。
解答:✕ 誤り
🟦【解説】
ノルマン人侵入期(9世紀後半)はまだカロリング家の支配下にあった。

問21
王が弱体化した結果、領主同士の主従関係が封建社会を支えた。
解答:〇 正しい
🟦【解説】
封建社会では「王を中心とした階層」ではなく、「諸侯間の契約関係」が基本。

問22
荘園では領主裁判権が強化され、領主が自らの地内を統治した。
解答:〇 正しい
🟦【解説】
封建制と荘園制が結びつき、地方領主の自治が確立した。

問23
封建制と荘園制は、同時期に並行して発展した社会構造である。
解答:〇 正しい
🟦【解説】
主従関係(政治制度)と農民支配(経済制度)が一体化していた。

問24
ロロに授与された土地は、現在のスペイン北部に位置していた。
解答:✕ 誤り
🟦【解説】
ノルマンディーはフランス北部(セーヌ川下流域)に位置する。

問25
ノルマン人の侵入が終息すると、王権はすぐに再建された。
解答:✕ 誤り
🟦【解説】
封建的分権が定着し、王権再建は12〜13世紀以降の課題となった。

問26
ノルマン人の侵入は、フランク王国だけでなくブリテン島にも影響した。
解答:〇 正しい
🟦【解説】
デーン人がイングランドに侵入し、デーンロー地帯を形成した。

問27
カペー朝の初代ユーグ=カペーは、教皇の推挙により即位した。
解答:✕ 誤り
🟦【解説】
即位は貴族の推挙によるもので、教皇は直接関与していない。

問28
ノルマン人の侵入によって、西ヨーロッパの封建化が促進された。
解答:〇 正しい
🟦【解説】
外敵への自衛が主従関係・地方防衛を制度化する契機となった。

問29
封建制の成立は、教会権の衰退と同時期に進行した。
解答:✕ 誤り
🟦【解説】
教会権はむしろ強化され、領主制社会の精神的支柱となった。

問30
ノルマン人の活動は、ヨーロッパ世界を閉鎖的社会から交流的社会へ変化させた。
解答:〇 正しい
🟦【解説】
侵入は破壊と同時に、交易・文化伝播を促進する役割も果たした。

封建制を苦手に強いる受験生が多い理由

多くの受験生は「封建制とは何か?」を、「土地の代償として忠誠を誓う主従関係」と定義だけで暗記しています。

そのため、
「なぜそんな制度が必要になったのか?」
「誰が、何の目的で作ったのか?」

という“制度成立の背景”への意識がほとんどありません。

しかし、世界史で問われる封建制は単なる制度ではなく、「王権が機能しなくなった結果としての現実的秩序」です。

つまり「外敵侵入 → 防衛の自立化 → 封建制の成立」という因果を理解して初めて、用語が「流れの中の意味」を持ちます。

ノルマン人・マジャール人・サラセン人の侵入は、「9〜10世紀に侵入してきた三つの民族」という一問一答的暗記にとどまりがちです。

でも入試で本当に差がつくのは、それが「封建社会成立のトリガー」だったと説明できるかどうか。

つまり・・・

王が守れない → 地方が自衛 → 領主が台頭 → 主従関係が制度化 → 封建制へ
という構造的因果の理解こそが重要なのです。

たとえばMARCHクラスの正誤問題でも、「封建制の成立は、王権強化の結果である」などの選択肢に引っかかるのは、
この流れを因果で捉えていない典型例です。

もう一つ大きいのは、封建制を「政治制度」だと考え、経済構造(荘園制)や社会意識(忠誠・信仰)と結びつけて理解していないことです。

本来、封建制とは「主従関係+荘園制」の複合的な社会構造であり、外敵の脅威のもとで土地・労働・軍事が一体化したローカル社会の自立システムです。

これを分けて暗記してしまうと、封建社会の全体像が見えません。

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