封建制度の原点は、8世紀フランク王国の宮宰カール=マルテルによる軍制改革にあります。
カール=マルテルは、「カロリング家」の実力者として、王権をしのぐ政治力と軍事力を持ち、その改革はのちに王となる息子・ピピン3世、そして「ローマ皇帝」に戴冠した孫・カール大帝へと受け継がれました。
彼は、イスラーム勢力の侵攻という未曾有の危機の中で、土地(封土)を報酬として戦士に与える仕組みを整え、これが後の「主君と家臣の関係(封建的主従関係)」の基盤となりました。
732年のトゥール=ポワティエ間の戦いで、カール=マルテルはイスラーム軍を撃退し、キリスト教世界を防衛すると同時に、戦士層を中心とした新しい社会秩序を生み出します。
その背景には、財政難と傭兵依存を克服するための現実的な改革があり、軍事制度の転換が社会構造の変化をもたらしたという点で、ヨーロッパ史上の画期的な出来事でした。
このカール=マルテルの軍制改革は、単なる戦時対応策ではなく、のちの中世封建制や騎士制度の成立に直接つながる「構造的転換点」として評価されています。
本記事では、トゥール=ポワティエ間の戦いの勝利を軸に、カール=マルテルの軍制改革がいかにして封建社会の原型を生み出したかを、史実・制度・思想の3つの観点から詳しく解説します。
序章:フランク王国から封建制へ ― 中世ヨーロッパの秩序を形づくった道のり
西ローマ帝国の滅亡後、ヨーロッパ世界は政治的混乱の中にありました。
その中で、最初に安定した王国を築き、のちの中世秩序の礎をつくったのがフランク王国です。
この王国の歩みは、単なる王朝の交替ではなく、「信仰による正統性」「土地による秩序」「主従による忠誠」という
中世ヨーロッパ社会の三本柱を生み出した壮大なプロセスでした。
フランク王国の歴史は、次のような流れで展開します。
【フランク王国の歩み】
【ローマの遺産とゲルマンの再編】
476 西ローマ帝国滅亡 → ゲルマン諸王国が乱立
↓
481 クローヴィスがフランク王国を統一(メロヴィング朝成立)
↓
496 クローヴィスの改宗(アタナシウス派) → 教会と結合
↓
王権は分割相続で弱体化 → 宮宰が台頭
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・ローマの遺産とゲルマンの再編 ― 中世ヨーロッパ誕生の原点
【カロリング家の興隆とイスラーム防衛】
732 トゥール・ポワティエ間の戦い
→カール=マルテルイスラーム軍を撃退
↓
※カール=マルテルの軍制改革
土地を家臣に貸与して騎士を養成(恩貸地制度の原型)
→ 封建制の基礎を形成
↓
751 ピピン(小ピピン)が教皇の承認で王に即位 → カロリング朝誕生
↓
756 ピピンの寄進 → 教皇領成立
【カール大帝の帝国】
768〜814 カール大帝、ヨーロッパ西部を統一
↓
800 カールの戴冠(ローマ教皇レオ3世)
→ 「西ローマ帝国の復興」を象徴
↓
文化政策:カロリング=ルネサンス(古典復興・教育改革)
統治政策:伯・巡察使を派遣して地方統治を整備
・カール大帝の内政 ― 帝国統治の構想とその限界
↓
→ 「宗教・政治・文化の三位一体」体制を確立
【帝国の分裂と中世秩序の萌芽】
814 カール死去 → 後継争い
↓
843 ヴェルダン条約(帝国を3分割)
→ 西・中・東フランク王国に分裂
↓
870 メルセン条約 → 中部フランク王国の再分割
→ フランス・ドイツ・イタリアの原型形成
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・カロリング帝国の分裂と封建制の成立
【9世紀の外敵侵入と封建制への転換】
9世紀 外敵の侵入が本格化
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・西ヨーロッパ 防衛から秩序へⅠ:外敵侵入と防衛の共同体(8〜10世紀)
・西ヨーロッパ 防衛から秩序へⅡ:教会が築いた中世の平和(955〜11世紀)
・北からヴァイキング(ノルマン人)
・東からマジャール人(ハンガリー)
・南からサラセン人(イスラーム勢力)
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【外敵侵入Ⅰ】ノルマン人の侵入とフランク王国の王権崩壊 ― 封建社会成立への序章
【外敵侵入Ⅱ】マジャール人・サラセン人の脅威と西ヨーロッパの防衛
↓
→ フランク王国は防衛力を失い、地方の豪族・領主が自衛を担う
→ 恩貸地制度・従士制度が結合し、封建的主従関係が成立
この流れの中で、8世紀に登場したカール=マルテルが行った軍制改革――
すなわち恩貸地制度(ベネフィキウム制)の導入こそが、中世ヨーロッパの封建制の原点となりました。
本記事では、フランク王国の軍事・政治・社会の構造を変えたこの改革が、どのようにして土地と忠誠による秩序を生み出し、やがて中世封建社会へとつながっていったのかを解説します。
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フランク王国の興亡|クローヴィスの改宗からカール大帝、そして帝国分裂までの軌跡(基幹記事)
基幹記事では、フランク王国の全体像と王朝交代の大きな流れを扱っています。
本記事では、その中でも特にカール=マルテルの軍制改革と封建制成立の過程に焦点を当て、「土地による支配」と「忠誠による秩序」が中世の礎となった過程を掘り下げます。
第1章:イスラーム侵攻の脅威とフランク王国の危機
8世紀初頭、フランク王国は外敵と内乱の両面に揺れていました。
王権はメロヴィング朝末期の混乱で弱体化し、実際の統治を担っていたのは王に代わって政治を指揮する「宮宰」でした。
その中で台頭したのが、のちに“戦う宮宰”と呼ばれるカール=マルテルです。
1-1. 西ヨーロッパに迫るイスラーム勢力
7世紀以降、イスラーム教はアラビア半島から地中海世界へ急速に拡大していました。
ウマイヤ朝の支配のもとで、イスラーム軍は北アフリカを征服し、711年にはジブラルタル海峡を越えてイベリア半島へ侵入します。
西ゴート王国を滅ぼした彼らは、さらに北上してフランク領南部(ガリア地方)へと迫り、ヨーロッパキリスト教世界を脅かしました。
当時のイスラーム勢力は、宗教的な布教というよりも軍事的・経済的拡大を目的としており、地中海交易の要所を支配しながら進軍していました。
フランク王国にとってそれは、単なる一国の戦争ではなく、「信仰と文明の防衛戦」を意味していたのです。
1-2. メロヴィング朝の衰退と宮宰の台頭
一方、フランク王国内部では、王権の弱体化が深刻化していました。
相続制度により領土が分割されるたびに権威が低下し、地方豪族が自立する状況が続きます。
この混乱の中で、実務を担う宮宰が実質的な支配者として力を握るようになります。
カール=マルテルの父ピピン2世(中ピピン)は、王を凌ぐ政治力を発揮し、フランク全土をほぼ統一して宮宰職を世襲化しました。
カール=マルテルはその後継者として、王の名代ではなく、国家と軍を実質的に統治する“事実上の支配者”となっていきます。
1-3. 「文明の十字路」で迎えた決戦
732年、イスラーム軍はピレネー山脈を越え、トゥールとポワティエの間に進撃しました。
その先にあったのは、ヨーロッパの心臓部――ガリア地方。
この進軍を食い止めなければ、キリスト教世界の防衛線は崩壊する危険がありました。
カール=マルテルは、重装歩兵を中心にした戦術を採用し、騎兵中心のイスラーム軍を防ぎました。
この戦いでの勝利は単なる軍事的成功ではなく、「ヨーロッパをイスラーム化の波から守った分水嶺」として歴史に刻まれます。
トゥール=ポワティエ間の戦いは、ローマ以来の「ヨーロッパ共同体」の存続を決定づける一戦であり、同時にカール=マルテルが“封建制の原点”を築くきっかけともなりました。
第2章:カール=マルテルの軍制改革と恩貸地制度の確立
カール・マルテルの軍制改革と土地制度の再編は、イスラーム侵入の危機に備えるための抜本的な防衛策でした。
この新しい軍制によって、フランク王国は騎兵中心の常備軍を整備し、732年のトゥール=ポワティエ間の戦いでイスラーム軍を退けることに成功します。
この勝利は単なる戦略上の成果ではなく、中世ヨーロッパ社会の構造を変える転機となりました。
2-1. 財政難と新しい軍事体制の必要性
8世紀初頭、フランク王国は長年の内乱と外敵との戦いで深刻な財政難に陥っていました。
国家の収入源であった王領地が分割相続や貴族への恩賞で減少し、常備軍を維持するだけの資金が不足していたのです。
そこでカール=マルテルは、従来の「王の直轄軍」から脱却し、地方の有力者を軍事力の担い手として組み込む制度を導入しました。
彼は教会の保有地の一部を接収し、それを戦士や騎士に分配して軍役を課すことで、土地=軍事奉仕の見返りという新たな仕組みを整えたのです。
この制度が後の恩貸地制度(ベネフィキウム制)の原型とされ、土地を媒介とした主従関係がここから形成されていきます。
2-2. 土地と軍事奉仕の結びつき
カール=マルテルの改革の核心は、「土地をもらう者は、戦時には主君のために戦う」という原則でした。
それまでのローマ的な官僚制や傭兵制とは異なり、忠誠は貨幣ではなく「土地(封土)」によって保証され、王権と地方勢力のあいだに新しい秩序が生まれました。
この軍制改革によって、戦士階級は土地を基盤とする地方の支配層として固定化され、のちの騎士身分や封建領主層の成立へとつながっていきます。
また、土地所有の権限を教会や貴族が得ることで、王権の直接的支配は弱まりましたが、その一方で「主君と家臣の相互契約」という関係が社会の安定を支える基盤にもなりました。
2-3. 教会との関係と制度の正統化
カール=マルテルが実施した教会財産の接収は、一時的に批判を招きました。
しかし、のちに彼の息子ピピンや孫のカール大帝が教皇との関係を再構築する中で、この制度は「神に仕える王が秩序を守るための政策」として宗教的正当性を得ていきます。
こうして、戦争・政治・宗教が密接に結びつく中世的秩序が形づくられていきました。
カール=マルテルの軍制改革は、単なる軍事制度ではなく、土地所有・忠誠・信仰を結びつけた社会構造の誕生だったのです。
2-4. 恩貸地制度から封建制へ
この時代の恩貸地(ベネフィキウム)はまだ一代限りの貸与に過ぎませんでしたが、のちの9〜10世紀には世襲化が進み、完全な封建的主従関係(封土制)へと発展していきます。
つまり、カール=マルテルの改革は封建制の完成ではなく、「封建制へと至る扉を開いた」初期段階としての意味を持ちます。
中世ヨーロッパ社会の基本原理――土地による支配と忠誠の契約――は、ここから始まったのです。
第3章:封建制の社会構造と中世秩序への継承
カール=マルテルの軍制改革によって生まれた「土地と軍役の結びつき」は、やがて中世ヨーロッパの支配秩序そのものへと発展しました。
この制度が定着し、拡大していく過程で、「主君と家臣」という人間関係を中心にした社会構造――
すなわち封建制が形づくられていきます。
3-1. 恩貸地の世襲化と家臣団の固定化
9世紀に入ると、戦乱の激化と王権の弱体化により、戦士たちは安定的に土地を確保するために恩貸地の世襲化を求めました。
本来は一代限りの貸与であった土地が、世代を越えて受け継がれるようになり、封土としての性格を強めていきます。
それに伴い、家臣団(ヴァッサル)の忠誠は形式的な奉仕から永続的な主従契約へと変化し、主君は保護(保護権・裁判権)を、家臣は軍事奉仕(封建軍役)を提供する双方向の関係が成立しました。
この関係が、のちの封建的主従関係の中核となります。
3-2. 王権の分裂と地方権力の自立
封建的主従関係が広まるにつれ、中央の王権は地方豪族に依存するようになります。
土地を媒介とした契約社会では、「王が支配する」よりも「主君に仕える」という意識が強まり、
政治の重心は地方へと移りました。
この現象が進行すると、地方の有力貴族は「自分の封土を自らの領国」として支配し、
独自の軍隊や裁判権を持つようになります。
こうしてヨーロッパ各地に分権的な政治体制――封建社会が成立していきました。
この分権構造は王権の弱体化を招いた一方で、外敵(ノルマン人・マジャール人・イスラーム勢力)への迅速な防衛体制を可能にしたという側面もあり、中世初期社会の安定に一定の役割を果たしました。
3-3. 教会・修道院と封建社会
封建制の広がりは、教会の在り方にも大きな影響を与えました。
多くの修道院や司教座は、領主から与えられた土地(寄進地)を経営することで経済的に自立し、地方社会の支配者として振る舞うようになります。
一方で、王や貴族は自らの支配を宗教的に正当化するために、教会に保護を与え、「神の秩序」としての封建社会を形成していきました。
この王権と教会の結びつきが、のちのキリスト教的中世国家の基盤となります。
3-4. 封建制の意義と限界
封建制の成立は、ヨーロッパ社会に「土地による秩序」をもたらしました。
人々は土地を通じて互いに結びつき、契約による秩序が社会を安定させました。
しかしその反面、国全体を統合する政治的中心が存在しないという欠点も抱えていました。
このため、のちに中央集権を取り戻そうとする王権(カペー朝フランス・ノルマン朝イングランドなど)が現れ、
封建制の枠組みを超えて「国家」へと発展していきます。
第4章:封建制の三段階構造 ― 萌芽・成立・確立の流れをたどる
前章では、カール・マルテルの軍制改革や恩貸地制度の確立を通じて、土地と軍役の結びつきがどのように生まれたのかを見てきました。
それはまさに、のちの封建社会へとつながる「制度の萌芽」とも言えるものでした。
しかし、封建制度という言葉の中には、時代の推移とともに大きく変化する三つの段階が存在します。
単に「土地を介した主従関係」という一面だけで捉えてしまうと、なぜカロリング帝国が分裂し、なぜ教会が秩序を担うようになったのか――
その歴史的必然が見えなくなってしまいます。
そこで本章では、前章の内容を踏まえながら、封建制度がどのように形成され、どのように社会秩序として成熟していったのかを、三つの段階(萌芽期・成立期・確立期)に分けて整理していきます。
この構造を理解することは、入試の論述問題で「封建制の変化を説明せよ」と問われたときに不可欠です。
多くの受験生が「土地と忠誠の制度」とだけ答えてしまいますが、実際には、王権のもとでの制度的萌芽、地方分権の中での成立、そして教会が与えた精神的秩序としての確立――という三段階の変化があるのです。
以下の三段階の構図は、その違いを明確に示していますので、ぜひお読みください。
封建制の発展3段階(=主従関係の進化3段階)
🟦 ① フランク王国期(特にカロリング朝期)の主従関係
☞封建制度の萌芽期
第①段階は本記事がメインになりますが、次の記事もご参考にしてください。
関連記事:カール大帝の内政 ― 帝国統治の構想とその限界
性格:政治的・軍事的な“官僚的主従関係”
- 背景:王権が強く、王が直接家臣を統率していた時代。
- 根拠:「恩貸地制度」。
- 王(または宮宰)が有力家臣に土地(恩貸地)を貸与し、
家臣は軍役・行政奉仕(伯・巡察使など)で応えた。
- 王(または宮宰)が有力家臣に土地(恩貸地)を貸与し、
- 目的:王国防衛と統治の補助。
- 関係の性質:上下的で一方向的。
- 主は土地を与える側、家臣は奉仕する側。
- 契約ではなく、恩恵(beneficium)に基づく支配関係。
- 社会的基盤:公的秩序(王の支配体系の中)。
要するに:
→ 王権中心の公的主従関係。
→ 「国家的官僚制の一部」としての忠誠。
🟩 ② 外敵侵入後〜封建制確立期(10〜11世紀)の主従関係
☞封建制度の成立期
この第②段階のことを説明した次の記事をご参考にしてください。
関連記事:西ヨーロッパ 防衛から秩序へⅠ:外敵侵入と防衛の共同体(8〜10世紀)
性格:私的で相互契約的な“封建的主従関係”
- 背景:王権の弱体化・地方分権化。
- 根拠:「封土(fief)」を媒介とした相互契約。
- 領主(主君)が封土を与え、家臣(ヴァッサル)が忠誠と軍役を誓う。
- 目的:自領の防衛と地域秩序の維持。
- 関係の性質:双方向的・契約的。
- 主は保護と土地を与え、家臣は忠誠・軍役で応じる。
- 法的拘束よりも「誓約(homagium)」に基づく人格的信頼関係。
- 社会的基盤:私的秩序(封建社会)。
要するに:
→ 王の下ではなく、地方領主間での相互主従関係。
→ 「国家」ではなく「個人と個人の契約」。
🟨 ③ 教会の時代における変質(9〜11世紀)
☞封建制度の確立期
ここが本質です。
この時期、教会は「神の秩序」を盾に、主従関係そのものを道徳的・宗教的な枠組みの中で再定義しました。
- 「忠誠」は単なる契約義務ではなく、“神の前での誓い”へ。
- 戦士(騎士)は、単なる家臣ではなく、“信仰の守護者”に位置づけられた。
- 主従関係の秩序も、教会によって道徳的正当性(正義・保護・信仰)を付与された。
つまり、フランク王国では“王のために仕える忠誠”だったものが、封建社会では“主と家臣の契約”、そして教会の時代には“神のもとでの誓約”へと変質したという流れになります。
この第③段階のことを説明した次の記事をご参考にしてください。
関連記事:西ヨーロッパ 防衛から秩序へⅡ:教会が築いた中世の平和(955〜11世紀)
| 時期 | 主従関係の主体 | 媒介 | 性格 | 社会的基盤 | 教会との関係 |
|---|---|---|---|---|---|
| メロヴィング〜カロリング期 | 王と家臣(伯・巡察使) | 恩貸地(beneficium) | 公的・一方向的 | 王権による支配体系 | 王権の正統性を支援(政治的後ろ盾) |
| 外敵侵入後 | 領主と家臣 | 封土(fief) | 私的・相互契約的 | 地方分権的秩序 | 教会が誓約を宗教的に承認 |
| 教会主導の封建秩序期(11世紀) | 領主・騎士・教会 | 忠誠と信仰の誓約 | 宗教的・道徳的秩序 | 「神の秩序」と「封建秩序」の融合 | 教会が契約と秩序を正当化する理念的中心 |
上記の封建制の発展3段階を理解できれば解ける問題になっています。
問題
フランク王国の時代に始まった土地制度や主従関係が、外敵侵入後にどのように変質し、教会の関与によってどのように封建制へと発展したかを180字程度説明せよ。
解答例
フランク王国期には、王が家臣に土地を貸与し軍役を課す恩貸地制度が形成され、王権を支える公的主従関係が生まれた。しかしカロリング帝国の分裂と外敵侵入によって王権が衰退すると、領主と家臣が土地と忠誠を媒介に結ばれる私的な封建的主従関係が発展した。さらに教会は神の平和運動や修道院改革を通じてこの関係を宗教的に正当化し、信仰と封土の両面から社会を統合する封建制が確立した。
第4章:入試で狙われるポイントと演習問題
入試で狙われるポイント
- 封建制は「主君と家臣の契約関係」に基づく分権的支配体制である。
- 恩貸地(ベネフィキウム)が世襲化して「封土(フィーフ)」となった。
- 家臣団(ヴァッサル)の忠誠が制度化され、封建軍役が義務化された。
- 封建制は中央集権を弱め、地方分権的秩序を生んだ。
- 教会・修道院も領主化し、封建社会に組み込まれた。
- 「土地=権力」の原則が社会全体を支配した。
- 封建制は安全保障・防衛体制としての側面も持つ。
- 11世紀以降、封建制を基盤に中世国家が形成されていく。
- 「保護と奉仕」「相互契約」という概念をキーワードに整理。
- 「中世ヨーロッパ社会の秩序形成の出発点」としての意義を理解。
重要論述問題にチャレンジ
問1
封建制の基本的構造とその社会的意義を120字程度で説明せよ。
解答例
封建制は、主君が家臣に封土を与え、家臣が軍役で応える契約関係に基づく社会構造である。これにより土地を媒介とした支配秩序が形成され、中央権力が弱い中でも安定が保たれた。同時に、地方分権的体制のもとで貴族・教会・騎士が相互に依存し、中世ヨーロッパ特有の秩序が確立した。
問2
封建制が王権と教会の関係に与えた影響について100字程度で述べよ。
解答例
封建制のもとで王は地方貴族や教会に土地を与え、忠誠を得た。教会は封土を経営することで世俗的権力を拡大し、王権と並ぶ勢力となった。両者は相互に依存しつつも、やがて叙任権闘争などの対立を生む基盤となった。
問3
封建制の成立をカール=マルテルの軍制改革と関連づけて80字程度で説明せよ。(150字程度)
解答例
カール=マルテルが導入した恩貸地制度は、土地を与えて軍役を課す仕組みであった。これが封建制の原型となり、のちに土地の世襲化と主従契約の固定化によって中世の封建的支配秩序へと発展した。
正誤問題(10問)
問1
封建制は中央集権体制の一形態である。
解答:✕ 誤り
🟦【解説】地方分権的な支配体制が特徴で、中央集権とは対極。
問2
封建的主従関係は、土地の授与と軍役の提供を中心に成立した。
解答:〇 正しい
問3
ヴァッサルは主君から封土を受け取り、その代償として軍事奉仕を行った。
解答:〇 正しい
問4
封建制はすべての地域で同時期に成立した。
解答:✕ 誤り
🟦【解説】フランスを中心に徐々に拡大。地域差が大きい。
問5
封建社会では、土地所有権は国王にのみ集中していた。
解答:✕ 誤り
🟦【解説】地方貴族・教会・修道院なども独自に土地を支配。
問6
教会や修道院も封建社会の一部として領地を支配した。
解答:〇 正しい
問7
封建制は戦乱や外敵侵入への防衛体制としても機能した。
解答:〇 正しい
問8
ヴァッサル(家臣)は主君から土地を与えられずに軍役を果たした。
解答:✕ 誤り
🟦【解説】封土(fief)を受け取ることが前提。
問9
封建制は契約関係に基づく支配であり、血縁関係とは無関係である。
解答:〇 正しい
問10
封建制の成立において、カール=マルテルの軍制改革は無関係である。
解答:✕ 誤り
🟦【解説】彼の恩貸地制度こそ封建制の出発点。
よくある誤答・混同例(10項目)
- 「封建制=中央集権」
→ 実際は地方分権体制。 - 「ヴァッサル=農民」
→ 封建的家臣であり、騎士階級の基礎。 - 「封土=私有地」
→ 主君の土地を貸与されたもので、無条件の所有ではない。 - 「王が全国を直接統治」
→ 現実には貴族が地方を支配。 - 「封建制は国家制度」
→ 社会的契約関係の体系であって、法的国家制度ではない。 - 「教会は封建制と無関係」
→ 教会も封建的土地支配の担い手。 - 「主従関係=絶対的服従」
→ 双方の契約に基づく相互的関係。 - 「封建制=西欧全体で同一構造」
→ 地域ごとに差異あり。イギリス・フランス・ドイツで形が違う。 - 「封建制=農奴制」
→ 農奴制は荘園経済に関する制度であり、封建制とは別軸。 - 「封建制=マルクス主義的階級社会」
→ 当時は身分と忠誠を中心とした契約社会であり、経済的搾取構造ではない。
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