カロリング帝国の分裂と封建制の成立 ― 王権から領主権への転換

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カロリング帝国の分裂により、ヨーロッパは中央集権的な王権から、地方領主が実質的支配権を握る封建社会へと移行しました。

この変化は単なる王家内部の相続争いではなく、政治・社会構造そのものを転換させた出来事でした。

843年のヴェルダン条約と870年のメルセン条約によって、帝国は西・中・東の三つの王国に分割され、
カロリング家の統一支配は終焉を迎えます。

その結果、王は名目上の支配者となり、地方領主が土地と人を支配する領主権の時代が始まりました。

こうして、土地を媒介とする主従関係や保護・奉仕の契約が社会の基本原理となり、ヨーロッパは“国家”ではなく“関係”によって秩序を保つ時代――すなわち封建制の時代へと移り変わったのです。

この「王権から領主権への転換」は、のちの中世ヨーロッパ全体を支配する封建社会の基礎を築いた、歴史的な節目でした。

本記事では、カロリング帝国の分裂の経緯をたどりながら、その政治的・社会的構造の変化を通して、なぜヨーロッパが封建的秩序に収束していったのかを解き明かします。

目次

序章:カロリング帝国分裂の4つの視点から考える

カール大帝の死後、ヨーロッパを統一したカロリング帝国はわずか数十年で崩壊します。

しかし、その理由を「相続争い」で片づけてしまうと、この時代の本質を見失います。

帝国が分裂した背景には、血縁・地理・民族・封建的分権という四つの構造的要因が複雑に絡み合っていました。

この四つの切り口を意識すると、単なる出来事の暗記ではなく、入試論述で問われる「因果の整理」ができるようになります。

四つの視点で見るカロリング帝国分裂

① 血縁(相続)
フランク人社会に残った「王領の分割相続」の慣習が、後継者間の争いを絶えさせなかった。ヴェルダン条約(843年)はその帰結。

② 地理(領域)
アルプスから北海まで広がる広大な帝国を中央から統治するのは不可能に近く、地方の伯や貴族に権限を委譲せざるを得なかった。

③ 民族(文化・言語)
西のロマンス系と東のゲルマン系という言語・文化の違いが、共通の帝国意識を弱め、のちのフランスとドイツの分化を準備した。

④ 封建的分権
恩貸地制度の進展により、王は地方貴族に土地を与えて軍事力を確保したが、それが王権を弱め、地方勢力の自立を促した。

これらの四視点は、上位校の論述問題で頻出の「分裂の必然性」や「統一の限界」を説明する際に欠かせません。

まずは第1章以下で歴史の流れを確認し、そのうえで次の論述問題に挑戦してみましょう。

重要な論述問題

カロリング帝国が短期間で分裂した要因を、血縁・地理・民族・封建的分権の四つの視点から150字程度で説明せよ。

【解答例】
カロリング帝国の分裂は、分割相続という血縁的慣習による後継争いを中心に、広大な領域を中央で統治できない地理的困難が重なった。また、西のロマンス系と東のゲルマン系という民族的多様性が統一意識を弱め、恩貸地制度による封建的分権が地方貴族の自立を促した。これらの要因が相まって、帝国は843年のヴェルダン条約によって三分割された。

【フランク王国の歩み】

フランク王国の歴史は、ローマの遺産を受け継いだ最初の統一王国として始まり、やがて西ヨーロッパ全体を覆う大帝国へと発展しました。

しかし、その歩みは同時に、分裂と地域化への道でもありました。

メロヴィング朝の成立からカール大帝による統一、そしてヴェルダン条約による三分裂に至るまでの流れを整理すると、「なぜ封建的な分権体制が生まれたのか」が一目で見えてきます。

以下のチャートでは、フランク王国の統一 → 発展 → 分裂 → 封建化の過程を時系列で確認してみましょう。

【ローマの遺産とゲルマンの再編】

476 西ローマ帝国滅亡 → ゲルマン諸王国が乱立

481 クローヴィスがフランク王国を統一(メロヴィング朝成立)

496 クローヴィスの改宗(アタナシウス派) → 教会と結合

王権は分割相続で弱体化 → 宮宰が台頭

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ローマの遺産とゲルマンの再編 ― 中世ヨーロッパ誕生の原点

【カロリング家の興隆とイスラーム防衛】

732 トゥール・ポワティエ間の戦い
→カール=マルテルイスラーム軍を撃退

カール=マルテルの軍制改革
 土地を家臣に貸与して騎士を養成(恩貸地制度の原型)
 → 封建制の基礎を形成

751 ピピン(小ピピン)が教皇の承認で王に即位 → カロリング朝誕生

756 ピピンの寄進 → 教皇領成立

【カール大帝の帝国】

768〜814 カール大帝、ヨーロッパ西部を統一

800 カールの戴冠(ローマ教皇レオ3世)
→ 「西ローマ帝国の復興」を象徴

文化政策:カロリング=ルネサンス(古典復興・教育改革)
統治政策:伯・巡察使を派遣して地方統治を整備
カール大帝の内政 ― 帝国統治の構想とその限界

「宗教・政治・文化の三位一体」体制を確立

【帝国の分裂と中世秩序の萌芽】

814 カール死去 → 後継争い

843 ヴェルダン条約(帝国を3分割)
→ 西・中・東フランク王国に分裂

870 メルセン条約 → 中部フランク王国の再分割
→ フランス・ドイツ・イタリアの原型形成

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カロリング帝国の分裂と封建制の成立 

【9世紀の外敵侵入と封建制への転換】

9世紀 外敵の侵入が本格化
関連記事:
西ヨーロッパ 防衛から秩序へⅠ:外敵侵入と防衛の共同体(8〜10世紀)
西ヨーロッパ 防衛から秩序へⅡ:教会が築いた中世の平和(955〜11世紀)

・北からヴァイキングノルマン人)
・東からマジャール人(ハンガリー)
・南からサラセン人(イスラーム勢力)
関連記事:
【外敵侵入Ⅰ】ノルマン人の侵入とフランク王国の王権崩壊 ― 封建社会成立への序章
【外敵侵入Ⅱ】マジャール人・サラセン人の脅威と西ヨーロッパの防衛

→ フランク王国は防衛力を失い、地方の豪族・領主が自衛を担う
→ 恩貸地制度・従士制度が結合し、封建的主従関係が成立

第1章:カロリング帝国の分裂とヴェルダン条約

カール大帝の死後、ヨーロッパを統一したカロリング帝国は急速に亀裂を深めていきました。

その最大の原因は、「血縁による相続」というゲルマン的慣習と、「皇帝による統一支配」というローマ的理念との矛盾でした。

この相克の果てに、帝国を三分割した843年のヴェルダン条約が結ばれます。

この条約は単なる遺産分割ではなく、中世ヨーロッパの政治的地図を決定づけた歴史的転換点でした。

1. カロリング帝国の継承問題

814年、カール大帝の死後、帝位は息子のルートヴィヒ1世(敬虔王)に引き継がれました。

彼は父の遺産を「キリスト教的統一のもとに統治する」ことを理想としましたが、

ゲルマン社会の伝統に従い、死後は複数の息子に領土を分割相続させるという慣習が残っていました。

この制度は、封建的分権を助長し、帝国の一体性を根本から揺るがす要因となります。

ルートヴィヒ1世の三人の息子たち──ロタール、ルートヴィヒ(ドイツ人)、シャルル(禿頭王)──は、それぞれが独立した王国を主張し、やがて帝位継承戦争に発展しました。

2. ヴェルダン条約(843年)の成立

843年、兄弟間の争いはようやく妥協に達し、フランス北東部のヴェルダンで帝国分割の協定が成立しました。

これがヴェルダン条約です。

条約の内容は次の通りです。

継承者支配領域現在の国に相当
ロタール1世中部フランク王国(イタリア〜ローヌ川〜北海に至る帯状)イタリア・ベルギー・オランダなど
ルートヴィヒ2世(ドイツ人)東フランク王国ドイツ
シャルル2世(禿頭王)西フランク王国フランス

この分割によって、カロリング帝国は政治的統一を失い、三つの地域国家へと変貌しました。

しかし注目すべきは、この三国が後のヨーロッパ主要国の原型になった点です。

西フランクがフランスへ、東フランクがドイツへと発展し、中部フランク(ロタール領)はやがてイタリア・ロレーヌ・ブルゴーニュなどに分裂していきます。

3. 意義と影響 ― 「統一」から「分権」への時代転換

ヴェルダン条約は、表面的には相続問題の解決でしたが、歴史的に見れば「ローマ的普遍支配の終焉」と「中世的封建秩序の幕開け」を意味します。

カール大帝が築いた中央集権的統治は、地方貴族の自立と相続制度によって分解され、以後、王は「諸侯の上位者」にすぎない存在へと変化します。

この流れがやがて封建制成立の直接的な契機となり、「王権から領主権への転換」という中世ヨーロッパの基本構造が形づくられていきました。

次に進む章では、この分裂がもたらした「領主権の台頭」──

すなわち、王ではなく地方諸侯が現実の支配者となる封建制の成立の過程を見ていきます。

第2章:王権の衰退と領主権の確立 ― 封建的分権構造の誕生

カロリング帝国の分裂によって、かつてカール大帝が築いた強力な中央集権体制は崩壊しました。

統一された「帝国」という枠組みが失われると、地方では領主たちが自らの土地と武力によって支配を確立し始めます。

ここから、ヨーロッパは王権の衰退と領主権の台頭という新たな時代を迎えました。

1. 相続慣習と封建的分権の拡大

カロリング家はゲルマン社会の伝統に従い、王領を子孫に均等分割して相続させました。

この制度が続いた結果、王国の領域は代を重ねるごとに細分化され、各地の豪族や地方貴族が実質的な支配権を持つ領主として自立するようになります。

彼らは自領内で税の徴収や軍事動員を行い、しだいに「王の臣下」というよりも自立した支配者となっていきまし。

このようにして、ヨーロッパでは王権の弱体化と領主の自立化が同時に進んだのです。

2. 外敵の侵入と地方防衛の必要性

9〜10世紀のヨーロッパは、ヴァイキング・マジャール人・サラセン人など外敵の侵入が相次ぎました。

中央王権の軍事力では全土を防衛しきれず、地方の安全は在地領主の武力に依存するようになります。

領主は自らの城塞を中心に防衛体制を整え、農民たちはその保護のもとに土地を耕しました。

その代わりに農民は労働や生産物の一部を差し出すという保護と奉仕の関係が成立します。

これが後に「封建制社会の基礎」となる相互契約的主従関係です。

3. 恩貸地制と封臣関係の定着

こうした社会の中で重要な役割を果たしたのが、恩貸地制です。

王や有力貴族が忠誠の誓いを立てた家臣(封臣)に土地(恩貸地)を貸与し、その代わりに軍役や行政奉仕を課すという制度です。

この制度はカール=マルテルの時代に始まり、ピピン・カール大帝の時代を経てヨーロッパ各地に広がりました。
やがて、土地の貸与関係が世襲化・固定化することで、

封臣(vassus)と主君(dominus)の関係は個人的忠誠契約から世襲的支配構造へと変質していきます。

つまり、「土地をもつ者=支配する者」という原則が定着し、王権よりも領主権が強いという封建社会の構造が確立していったのです。

4. 領主の権限と地方支配の実態

10世紀になると、多くの領主は自領内で課税権・裁判権・軍事権を行使し、まるで小国の君主のような存在となりました。

特にフランスでは、王の権力がパリ周辺(イル=ド=フランス)に限られ、他の諸侯は実質的に独立勢力としてふるまっていました。

このような地方分権構造は、一見すると混乱を招くように見えますが、逆に封建的秩序の安定基盤ともなり、地域ごとの支配体系が長く維持されていきます。

5. 封建制の本質 ― 「関係が秩序を生む社会」

封建社会とは、中央政府が法と官僚で支配する「国家」ではなく、人と人との契約関係によって秩序が保たれる社会です。

王は「諸侯の中の第一人者」にすぎず、諸侯は封臣を従え、封臣はさらに下級騎士を抱えるというピラミッド型の主従関係が社会全体を構成しました。

この構造の原型こそ、カロリング帝国の分裂によって生まれたものであり、のちのヨーロッパ中世を通じて続く政治的・社会的枠組みの出発点となったのです。

第3章:メルセン条約と中世ヨーロッパ世界の形成 ― 西・中・東フランクのゆくえ

843年のヴェルダン条約によって三分割されたカロリング帝国は、その後も安定を保つことはできませんでした。

中部フランク王国をめぐる争いは続き、最終的に870年のメルセン条約によって再び領域が再分割されます。

この条約こそが、のちのフランス・ドイツ・イタリアという三大国家の原型を形づくった歴史的分岐点でした。

1. メルセン条約の背景 ― 中部フランクをめぐる対立

ヴェルダン条約で生まれた中部フランク王国は、ロタール1世が支配していました。

しかし、この地域は地理的にも文化的にも極めて不安定でした。

西はロマンス系住民、東はゲルマン系住民が混在し、アルプスから北海まで伸びる細長い地形は防衛にも不利だったのです。

さらに、ロタール1世の死後、その領土は息子たちに再分割され、支配の一体性は完全に崩壊しました。

こうして、西フランク王国(後のフランス)と東フランク王国(後のドイツ)は中部領をめぐって対立を深めていきます。

2. 870年メルセン条約 ― 帝国再分割の最終段階

870年、ロタール1世の死後に生じた相続問題を解決するため、

西フランク王シャルル2世(禿頭王)と東フランク王ルートヴィヒ2世(ドイツ人王)の間で結ばれたのがメルセン条約です。

この条約により、中部フランク王国は西と東に分割され、ロタール家の支配権は大きく縮小しました。

  • 西フランク王国(フランス) … 現フランス中部からブルゴーニュ、ローヌ川流域を獲得
  • 東フランク王国(ドイツ) … ローレン地方やアルザスなど、ライン川東岸を獲得
  • 中部フランク王国 … 実質的に消滅し、後にイタリア王国として再編

この再分割をもって、カロリング帝国は完全に崩壊し、ヨーロッパの地域的国家形成が本格化していきます。

3. 西フランク王国 ― フランス王権の始動

西フランク王国を継承したのは、カロリング家のシャルル2世(禿頭王)です。

彼の治世では、王権の権威はまだ弱く、地方の諸侯や伯爵たちが各地で独自の支配を行いました。

この分権的構造の中で、封建社会の典型モデルが形成されていきます。

10世紀末には、カペー朝が成立(987年)しました。

以後、フランス王は「諸侯の中の第一人者」として、徐々に王権を再建していくことになります。

こうして、西フランクの流れはフランス王国へとつながっていくのです。

4. 東フランク王国 ― ドイツ世界の胎動

一方、東フランク王国では、ルートヴィヒ2世(ドイツ人王)を継いだ子孫たちが、ゲルマン的伝統を受け継ぎながら独自の政治体制を発展させました。

特に重要なのは、10世紀に登場するオットー1世(東フランク王 → 神聖ローマ皇帝)です。

オットー1世の戴冠(962年)は、「中世ローマ帝国の再生」を象徴する出来事であり、カロリング体制の理念を継ぐ一方で、実態は封建的諸侯連合国家としての性格を強めました。

東フランクはこのようにして、のちのドイツ(神聖ローマ帝国)へと発展していきます。

5. 中部フランク ― ローマ帝国の名残とイタリアの混迷

中部フランク王国(ロタリンギア)は、ヴェルダン条約以後の政治的混乱の中で、その統一性を失い、やがて北部は東フランクへ、南部はイタリア王国として再編されました。

この地域では、古代ローマ以来の都市文化や教皇権の影響が残っており、のちの「イタリアの分裂史」「神聖ローマ帝国による干渉」の舞台ともなります。

中部フランクの崩壊は、「ローマ的統合の終焉」と「地域国家の出発」を同時に意味していました。

6. 「帝国」から「地域国家」へ ― 歴史的意義

メルセン条約によって、ヨーロッパはもはや一つの「帝国」ではなく、多様な言語・文化・政治体系を持つ地域国家の集合体へと変化しました。

カロリング家の血統とキリスト教的秩序は残ったものの、政治の重心はローマ的普遍主義から領土主権的多元世界へと移行していきます。

この過程で形成された「フランス」「ドイツ」「イタリア」の三国構造は、のちの中世・近代ヨーロッパ史の基本的な地図となりました。

7. 歴史的まとめ ― 分裂の果てに生まれたヨーロッパ

カロリング帝国の分裂は、表面的には崩壊と見えますが、その内部では、後のヨーロッパを形づくる基盤が芽生えていました。

  • 西フランク → フランス王国として封建制社会の典型を確立
  • 東フランク → 神聖ローマ帝国へと発展し、ドイツ世界の形成
  • 中部フランク → イタリア・ローマ教皇領の舞台として中世政治の中心に

つまり、「分裂」こそがヨーロッパの多様性を生んだ出発点だったのです。

カール大帝が築いた「普遍の帝国」は、その崩壊を通じて「地域と共同体による中世的秩序」へと姿を変えました。

この変化こそ、ヨーロッパが古代から中世へと歩みを進めた真の意味であり、封建社会成立の最終段階を示すものだったのです。

入試で狙われるポイントと頻出問題演習

入試では、知識の暗記だけでなく、因果関係や歴史的意義を論理的に説明できるかが問われます。
ここでは、カロリング帝国の分裂と封建制の成立をめぐる重要論点を整理し、論述問題・正誤問題に挑戦しながら理解を定着させましょう。
最後に、入試で狙われる重要ポイントをまとめます。

  • カロリング帝国が分裂した背景(相続制度・地方分権化)
  • ヴェルダン条約とメルセン条約の意義
  • ロタール・ルートヴィヒ・シャルルの三分割構造
  • 中部フランク王国が抱えた地理的・政治的問題
  • 外敵(ノルマン人・マジャール人・サラセン人)の侵入と防衛体制
  • 封建的主従関係の成立とその精神的背景(忠誠と保護)
  • 領主権(裁判権・課税権)の強化と王権の相対的弱体化
  • 封建制度の二重構造(主従関係と荘園制の結合)
  • 中世ヨーロッパの分権的政治秩序の原型形成
  • 「王から領主へ」という権力構造の変化の歴史的意義

重要論述問題にチャレンジ

論述1
カロリング帝国の分裂が中世ヨーロッパの政治構造にどのような影響を与えたか、100字程度で説明せよ。

解答例
ヴェルダン条約による分割統治は、王権の分散と地方諸侯の自立を促し、封建的秩序の成立を早めた。これにより、地域ごとに異なる支配関係が形成され、後の国家形成の多様化を生んだ。

論述2
封建的主従関係が発展した背景と、その社会的役割を80字程度で述べよ。

解答例
外敵の侵入による不安定な情勢の中で、領主と家臣が相互扶助の関係を結び、保護と忠誠を軸に社会秩序を維持した。この制度は王権の代替として安定をもたらした。

論述3
「王権から領主権へ」という転換を中世ヨーロッパ史の流れの中でどのように位置づけるか80字程度で説明せよ。

解答例
中央集権的な統治が崩れ、地方分権的な支配構造が確立する過程で、封建社会が形成された。これは、信仰と土地による支配という中世的秩序の基盤を示すものである。

間違えやすいポイント・誤答パターン集

1.「ヴェルダンとメルセンを一括で覚える」ミス
 → 目的・状況・意義を分けて覚えること。ヴェルダン=孫たちの争い/メルセン=孫の孫世代の再分割。

2.「再統一条約」と勘違い
 → 実際は分裂の決定。カール大帝の統一帝国はここで完全に崩壊。

3.「中部フランクの分割は平和的合意」と過小評価
 → 背景にはロタール家断絶による相続争い。軍事的緊張を伴った協定。

4.「メルセン=宗教的協定」とする誤り
 → 内容は政治的領土分配。宗教問題ではない。

5.「フランス・ドイツの形成はヴェルダン条約」とのみ答える誤り
 → 輪郭形成はヴェルダン、確定はメルセン。両方で一体理解。

6.「中部フランク=ローマ帝国の再興」と混同
 → 理念的継承はあったが、実態は地方国家群。

7.「封建制=荘園制」と単純化
 → 封建制は領主間の主従関係、荘園制は領主と農民の関係。

8.「ノルマン人侵入=イスラーム勢力の南下」と混同
 → 前者は北方海賊、後者は南方イスラーム勢力。経路も目的も異なる。

9.「ロタール=東フランク王」と誤記
 → ロタールは中部フランクを支配し、皇帝位を継承した。

10.「封建制の成立=王権強化」と誤解
 → むしろ領主の自立と分権化の進行を意味する。

頻出正誤問題(10問)

問1
カロリング帝国はシャルルマーニュの死後、そのまま統一を維持した。
解答:✕ 誤り
🟦【解説】
シャルルマーニュの死後、王権が弱まり、843年のヴェルダン条約によって帝国は三分割された。

問2
ヴェルダン条約は、カール大帝の死後、三人の孫によって帝国を三分割したものである。
解答:〇 正しい
🟦【解説】
ロタール、ルートヴィヒ、シャルルの三兄弟が帝国を中部・東部・西部に分割した。

問3
メルセン条約では、東フランク王国が中部フランク王国を吸収した。
解答:✕ 誤り
🟦【解説】
中部フランクの大部分は東西に分割され、ライン川を境に勢力が再構成された。

問4
ロタール1世は、ローマ皇帝として戴冠した。
解答:〇 正しい
🟦【解説】
ロタール1世はシャルルマーニュの孫であり、皇帝位を継承したが、実権は弱かった。

問5
外敵侵入の主な要因は、イスラーム勢力の勢いによるものであった。
解答:✕ 誤り
🟦【解説】
外敵は複数であり、イスラーム勢力(サラセン人)に加え、北からノルマン人、東からマジャール人も侵入した。

問6
封建的主従関係は、領主と農民の関係を指す。
解答:✕ 誤り
🟦【解説】
封建的主従関係は領主同士(君主と家臣)の関係であり、農民は荘園制に属する。

問7
封建制は、土地を媒介とした忠誠と保護の関係によって成立した。
解答:〇 正しい
🟦【解説】
封建制は領主が土地を与え、家臣が軍役で報いる相互扶助的な制度だった。

問8
封建制のもとでは、中央集権的な王権が強化された。
解答:✕ 誤り
🟦【解説】
逆に王権は弱まり、地方の領主が実質的な支配権を握った。

問9
封建制の発展は、ノルマン人の侵入が一因となった。
解答:〇 正しい
🟦【解説】
外敵侵入の脅威に対して地方の防衛体制が強化され、封建的絆が生まれた。

問10
封建制のもとでは、王と諸侯の上下関係は明確だった。
解答:✕ 誤り
🟦【解説】
主従関係は重層的で、同一人物が複数の主君に仕えることもあり、序列は曖昧だった。

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