メルセン条約とは ― ヨーロッパ分裂が確定した瞬間

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メルセン条約は、870年にカロリング帝国の残された中部領を再分割した協定です。

この条約によって、ヴェルダン条約(843年)で生じた三分体制が完全に崩れ、ヨーロッパの政治地図は、今日のフランス・ドイツ・イタリアの輪郭に近い形へと固まりました。

背景には、ヴェルダン条約で中部フランク王国を得たロタール1世の死と、その後の後継者問題があります。

この中部フランクは、イタリア・ローヌ・ラインを含む南北に細長い領域で、交通の要衝である一方、民族的・言語的に統一を欠く不安定な地域でした。

このため、ロタール家の断絶を機に、西フランク(フランス)と東フランク(ドイツ)が中部を分割することで、実質的に「帝国の再統一」という夢は完全に消滅しました。

メルセン条約の意義は、単なる領土再配分にとどまりません。

それは、“ヨーロッパの多極的国家秩序”を確定させた歴史的分水嶺であり、中世を通じて続くフランス・ドイツ間の競合関係の原点でもあります。

本記事では、まず中部フランク王国の崩壊から条約締結に至る経緯を整理し、次にこの条約がもたらした地政学的・文化的影響を明らかにしていきます。

最後の章には、ヴェルダン条約との違いとセットで理解するための入試対策ポイントをまとめます。

目次

序章 統一帝国の崩壊とヨーロッパ多極化への道 ― フランク王国の終焉を俯瞰する

西ローマ帝国の滅亡(476年)から約400年後、フランク王国はヨーロッパを再び一つにまとめ上げた最初の王国となりました。

クローヴィスの改宗によって教会と結びつき、ピピンの寄進で教皇との同盟を築き、カール大帝の戴冠によって「西ローマ帝国の復興」という理想を掲げます。

しかし、その理想は3代のうちに崩れ始めます。

あまりに広大な帝国を支える制度は未成熟で、地方ごとの文化・言語・慣習の差が、統一の理想を少しずつ侵食していきました。

そして843年のヴェルダン条約によって、帝国は三分割され、祖父カール大帝の夢は「孫たちの手」で引き裂かれることになります。

それでも、まだこの時点では「帝国理念」への未練が残っていました。

中部フランクを支配したロタール1世は皇帝号を保持し、ローマ的統一の象徴としての存在を保ち続けたのです。

しかし、その中部フランクが870年、ロタール家の断絶によって再分割されると、統一帝国の理念は完全に失われました。

この再分割――メルセン条約(870年)こそが、「ヨーロッパがひとつである時代の終わり」を告げる出来事です。

それは、統一の崩壊であると同時に、フランス・ドイツ・イタリアという三つの国家的道の出発点でもありました。

【フランク王国の歩み:481〜870年】

【ローマの遺産とゲルマンの再編】

476 西ローマ帝国滅亡 → ゲルマン諸王国が乱立

481 クローヴィスがフランク王国を統一(メロヴィング朝成立)

496 クローヴィスの改宗(アタナシウス派) → 教会と結合

王権は分割相続で弱体化 → 宮宰が台頭

【カロリング家の興隆とイスラーム防衛】

732 トゥール=ポワティエ間の戦い
→ カール=マルテルがイスラーム軍を撃退

751 ピピン(小ピピン)が教皇の承認で王に即位 → カロリング朝誕生

756 ピピンの寄進 → 教皇領成立

【カール大帝の帝国】

768〜814 カール大帝、ヨーロッパ西部を統一

800 カール戴冠(ローマ教皇レオ3世)
→ 「西ローマ帝国の復興」を象徴

カロリング=ルネサンス(文化復興・統治体制整備)

【帝国の分裂と中世秩序の萌芽】

814 カール死去 → 後継争い

843 ヴェルダン条約(帝国を三分割)
→ 西・中・東フランク王国に分裂

870 メルセン条約 → 中部フランク王国の再分割
→ フランス・ドイツ・イタリアの原型形成

このように、フランク王国の歴史は「統一」と「分裂」の往復運動でした。

本記事では、カール大帝の理想が完全に崩壊する瞬間――

メルセン条約(870年)を中心に、その背景と意義、そしてこの分裂がどのようにヨーロッパの多極的秩序を生み出したのかを見ていきます。

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第1章 中部フランク王国の崩壊 ― ロタール家の断絶と混乱

ヴェルダン条約で生まれた三王国のうち、もっとも不安定だったのが中部フランク王国でした。

この章では、その崩壊の過程と、メルセン条約の前提となる政治状況をたどります。

1. ロタールの帝国理念 ― 「統一」の最後の象徴

843年のヴェルダン条約で中部フランク王国を得たロタール1世は、「カール大帝の正統な後継者」を自任し、皇帝号を保持しました。

しかし、彼の支配下にはアルプス・イタリア北部・ロレーヌ・ブルゴーニュなど多様な地域が含まれ、民族的・言語的・宗教的に統一を欠いていました。

このため、ロタールの理想とする「普遍的帝国」は現実とは乖離しており、その死(855年)とともに中部フランクは三分割され、それぞれの息子にロタリンギア・プロヴァンス・イタリアが分与されます。

2. 相次ぐ断絶と戦乱 ― ロタリンギアをめぐる争奪

ロタール1世の息子ロタール2世が治めたロタリンギア(ロレーヌ地方)は、フランスとドイツの間に位置する戦略要地でした。

しかし彼が後継者を残さず没すると(869年)、領土の帰属をめぐって西フランク王シャルル禿頭王と東フランク王ルートヴィヒが対立します。

両国は一時は軍事衝突の危機にまで発展しましたが、最終的に870年、メルセン(現・ベルギー東部)で和平が成立します。

これが、いわゆるメルセン条約です。

3. メルセン条約の内容 ― ロタリンギアの分割

条約では、ロタリンギア(現在のベルギー・ルクセンブルク・ロレーヌ地方)を西フランクと東フランクがほぼ等分に分割しました。

分割対象割譲先現代地名の概略
西側(マース川以西)西フランク王国(シャルル禿頭王)ベルギー西部・ロレーヌ西方
東側(マース川以東)東フランク王国(ルートヴィヒ)ドイツ西部・ルクセンブルク方面

この協定により、中部フランクは完全に消滅し、ヴェルダン以来の三王国体制は事実上終焉します。

4. 統一帝国の夢の終わり

メルセン条約の意義は、単なる国境調整を超えたものでした。

それは、カール大帝の築いた「キリスト教的帝国」の理念が、もはやヨーロッパの現実に適合しなくなったことを示す出来事だったのです。

この分裂によって、フランスとドイツという二大国家の独立性が確立し、ヨーロッパの政治秩序は「多元的国家群」の形で定着しました。

後世、両国がロレーヌやアルザスをめぐって争うことになるのも、このメルセン条約の分割構造にその起源を見出すことができます。

第2章 フランス・ドイツ・イタリア ― 三つの道を歩み始めたヨーロッパ

メルセン条約(870年)によって中部フランク王国が消滅すると、ヨーロッパは明確に「西」「東」「南」の三つの地域に分かれました。

この章では、それぞれの地域がどのように独自の国家的・文化的発展を遂げたのかを見ていきます。

1. 西フランク王国 ― フランスへの長い道のり

西フランク王国(シャルル禿頭王領)は、ローマ的伝統とキリスト教文化を基盤としつつも、貴族権力の強い社会でした。

王権は地方有力者に依存し、中央集権的な支配はほとんど機能していませんでした。

  • 領主が地方の実力支配を行い、王は「第一 among equals(諸侯の筆頭)」的存在に。
  • 教会・修道院が文化の担い手として発展し、学問・芸術が教会中心に継承された。
  • 言語的にも俗ラテン語(古フランス語)が広まり、ラテン文化圏が確立。

やがて987年、ユーグ=カペーが王に選出されてカペー朝が始まり、ここで初めて「フランス王国」と呼べる形が整っていきます。

つまり、ヴェルダンとメルセンを経て、フランスは封建制のもとに国民国家の胎動を始めたのです。

2. 東フランク王国 ― ドイツ的秩序の萌芽

一方、東フランク王国(ルートヴィヒ領)は、よりゲルマン的な地方分権体制のもとで発展しました。

  • 諸侯・司教・修道院が地域ごとに強い自立性を持ち、王権は連合的性格を帯びた。
  • ライン川・ドナウ川流域を中心に経済活動が活発化。
  • ゲルマン語圏が確立し、ラテン語圏の西欧と文化的に分かれ始めた。

この地方分権構造は、後の神聖ローマ帝国(962年成立)の体制へと引き継がれていきます。

オットー1世の戴冠による“ローマの復興”は、メルセン条約で失われた帝国理念の“再構築”の試みともいえるものでした。

3. イタリア半島 ― 「分裂の地」としての宿命

中部フランクの南部を含むイタリア半島は、ロタール系の後継者たちが短期間支配したのち、独自の政治構造を形成します。

  • 北部では都市国家が自立し、ヴェネツィア・ミラノ・フィレンツェが台頭。
  • 中部では教皇領が拡大し、宗教的権威の中心としてローマが再興。
  • 南部は依然としてビザンツ帝国やイスラーム勢力の影響を受けていた。

このように、イタリアは文化的統一と政治的分裂が併存する地域となり、中世を通じて一つの国家にまとまることはありませんでした。

それでも、教皇庁を中心とした「普遍的秩序」の理念はイタリアから発信され続け、ルネサンス期に再びヨーロッパ文化の中心となる素地を育てていきます。

4. メルセン条約の意義 ― 「統一の終焉」と「多様性の始まり」

ヴェルダン条約が「分裂の始まり」だとすれば、メルセン条約は「分裂の確定」です。

ここでヨーロッパは、

  • 西(ラテン・教会文化)
  • 東(ゲルマン・地方分権)
  • 南(古代ローマ・教皇文化)

これらの三つの文明圏に分かれ、相互に競いながら中世を歩み始めました。

この「多極的ヨーロッパ」の成立こそが、のちの国民国家・宗教対立・文化的多様性のすべての出発点です。

メルセン条約は、単なる条約文ではなく、“ヨーロッパという大陸の設計図”を確定させた出来事といえるでしょう。

第3章 入試で狙われるポイントと演習問題

入試で狙われるポイント

  • ヴェルダン条約(843年)との違いを明確に答えられるか。
     → ヴェルダン=「三分割の始まり」/メルセン=「分裂の確定」
  • 中部フランク王国(ロタリンギア)の不安定さと、再分割の経緯を説明できるか。
  • メルセン条約によって形成されたフランス・ドイツの原型を把握しているか。
  • 「帝国の終焉」=「多極的ヨーロッパの誕生」という意義を理解しているか。
  • 年代(870年)・場所(メルセン)・当事者(シャルル禿頭王・ルートヴィヒ)を正確に覚える。

正誤問題(10問)

問1
メルセン条約は、843年にカロリング帝国を三分した条約である。
解答:✕ 誤り

🟦【解説】
843年はヴェルダン条約。メルセン条約は870年に中部フランク王国を再分割した。

問2
メルセン条約は、ロタリンギア(ロレーヌ地方)を西・東両フランクで分け合う協定であった。
解答:〇 正しい

問3
中部フランク王国の消滅によって、ヨーロッパの分裂が確定した。
解答:〇 正しい

🟦【解説】
これにより帝国体制は完全に崩壊し、フランスとドイツの枠組みが定着した。

問4
メルセン条約を結んだのは、ロタール1世とシャルル禿頭王である。
解答:✕ 誤り

🟦【解説】
ロタール1世はすでに死去。協定を結んだのはシャルル禿頭王とルートヴィヒ。

問5
中部フランク王国は、地理的に安定し長期に存続した。
解答:✕ 誤り

🟦【解説】
民族・言語が多様で、統治が難しく、数十年で崩壊した。

問6
メルセン条約によって、イタリア半島が東フランク領に編入された。
解答:✕ 誤り

🟦【解説】
イタリア北部はロタール系の別系統支配下で、条約の対象はロレーヌ中心。

問7
ヴェルダン条約とメルセン条約はいずれもフランク王国の分割を定めた協定である。
解答:〇 正しい

問8
メルセン条約によって、東フランクがマース川以東、西フランクがマース川以西を得た。
解答:〇 正しい

問9
メルセン条約によって中部フランク王国は強化された。
解答:✕ 誤り

🟦【解説】
むしろ完全に消滅。ロタリンギアが東西両国に吸収された。

問10
メルセン条約は、ヨーロッパにおける統一帝国の理念を再建した。
解答:✕ 誤り

🟦【解説】
理念の再建ではなく、その終焉を示す条約。後に神聖ローマ帝国で再興が試みられる。

よく出る誤答パターン・混同例

  1. ヴェルダン条約とメルセン条約の年代逆転
     → ヴェルダン(843)→メルセン(870)の順。
      ヴェルダン=始まり/メルセン=確定。
  2. ロタール1世がメルセン条約を結んだと誤記
     → 正しくは、ロタールは855年没。締結者はシャルル禿頭王とルートヴィヒ。
  3. 「中部フランクが存続した」と誤解
     → 実際は解体。ロレーヌ・ロタリンギアが両国に吸収。
  4. 「メルセン条約=イタリア分割」と混同
     → 対象はロタリンギア(北方)、イタリアは別領域。
  5. 「ヴェルダンとメルセンを一括で覚える」ミス
     → 目的・状況・意義を分けて覚えること。
      ヴェルダン=孫たちの争い/メルセン=孫の孫世代の再分割。
  6. 「再統一条約」と勘違い
     → 実際は分裂の決定。カール大帝の統一帝国はここで完全に崩壊。
  7. 「中部フランクの分割は平和的合意」と過小評価
     → 背景にはロタール家断絶による相続争い。軍事的緊張を伴った協定。
  8. 「メルセン=宗教的協定」とする誤り
     → 内容は政治的領土分配。宗教問題ではない。
  9. 「フランス・ドイツの形成はヴェルダン条約」とのみ答える誤り
     → 輪郭形成はヴェルダン、確定はメルセン。両方で一体理解。
  10. 「中部フランク=ローマ帝国の再興」と混同
     → 理念的継承はあったが、実態は地方国家群。

重要論述問題にチャレンジ

第1問(背景)
メルセン条約が結ばれた背景を、中部フランク王国の状況に触れて説明せよ。(約150字)

解答例:
ヴェルダン条約で成立した中部フランク王国は、民族・言語の多様な地域を含み統治が困難だった。ロタール1世の死後、その領土は息子たちの間で分割されたが、相次ぐ断絶によって空位となった。そのため西フランク王シャルル禿頭王と東フランク王ルートヴィヒがロタリンギアを分割する協定を結び、これがメルセン条約(870)である。

第2問(意義)
メルセン条約の歴史的意義を、ヴェルダン条約との関係から説明せよ。(約160字)

解答例:
ヴェルダン条約がカロリング帝国の分裂を「開始」したとすれば、メルセン条約はその分裂を「確定」させた出来事である。中部フランク王国の消滅により、フランス(西)とドイツ(東)の領域が明確に分かれ、ヨーロッパは多極的な国家体制へ移行した。統一帝国の理念が失われる一方で、地域的多様性が固定化された。

第3問(影響)
メルセン条約がその後のヨーロッパ政治に与えた影響を述べよ。(約180字)

解答例:
メルセン条約によって確立した西・東両フランクの枠組みは、のちのフランスとドイツの国家形成に直接つながった。
また、ロレーヌ地方の分割は両国間の争点となり、中世から近代にかけて繰り返し領有争いが起こった。この条約は、統一ヨーロッパの理想を断ち切り、「対立と競合のヨーロッパ」を生み出した転換点である。

論述のまとめ

観点キーワード書き方のコツ
背景中部フランクの不安定・ロタール家断絶・ロタリンギア争奪条約の直接的原因を説明
意義分裂の確定・領域の固定・多極的秩序ヴェルダンとの対比で書く
影響仏独の形成・ロレーヌ問題・中世秩序の原型長期的視点でまとめる
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