9〜10世紀のヨーロッパは、絶え間ない外敵の侵入によって揺れ動いていました。
北からノルマン人、東からマジャール人、そして南からサラセン人――三方向から押し寄せる脅威は、かつて繁栄を誇ったフランク王国を混乱の渦へと巻き込みます。
この外敵侵入の時代を理解するうえで忘れてはならないのが、8世紀に活躍したカール・マルテルの軍制改革です。
彼はイスラーム勢力の脅威に備えるため、土地を戦士に分与して騎士を動員する仕組みを整え、のちの恩貸地制度の原型を築きました。
フランク王国はこの防衛体制をもとに外敵に立ち向かう“防衛国家”としての性格を強めていきます。
しかし、カール大帝の死後に帝国が分裂すると、中央権は急速に弱体化しました。
マジャール人は東方から、サラセン人は南方から侵入を繰り返し、王の軍ではもはや全土を守りきれなくなっていきます。
こうして地方の領主が自らの領地を守るために城を築き、兵士を率いて戦う「地方防衛の時代」が始まりました。
マジャール人は機動力に優れた騎馬戦士としてドイツやイタリアを襲撃し、サラセン人はイスラーム勢力として地中海を支配し、南フランスやイタリア沿岸をたびたび荒らしました。
これらの侵入は単なる略奪ではなく、ヨーロッパ社会の構造を大きく変える契機となります。
本記事では、東と南から迫ったマジャール人とサラセン人の侵入を中心に、その背景・活動・影響をたどりながら、カール・マルテルの軍制改革で始まった防衛の歴史が、どのように地方的な封建社会の秩序へと変化していったのかを考えます。
第1章:マジャール人の侵入と撃退 ― 東方からの脅威と封建的防衛体制の確立
9〜10世紀の東ヨーロッパから中欧にかけて、突如として現れた遊牧民――それがマジャール人です。
彼らは高い騎馬戦術と弓術を武器に、フランク王国の東部国境を突破し、ドイツ・イタリア・フランスにまで侵入を繰り返しました。
当時の西ヨーロッパはカール大帝の死後、ヴェルダン条約によって分裂し、王権は弱体化していました。
マジャール人の急襲は、その「分権化したヨーロッパ」をさらに地方防衛体制へと追い込む要因となります。
この章では、マジャール人の出現と侵入の経緯、そして彼らの撃退がもたらした政治的・社会的変化を見ていきます。
1.マジャール人の起源と移動
マジャール人はウラル語族に属する遊牧民で、現在のロシア南部から黒海北岸にかけて移動しながら暮らしていました。
9世紀後半、アジア草原からの圧迫(ペチェネグ人などの進出)を受けて西方へ移動し、カルパティア盆地(現在のハンガリー地方)に定着します。
この移動によって、マジャール人は東フランク王国(のちのドイツ)と直接接するようになり、そこから西ヨーロッパへの侵入を開始しました。
彼らの戦術はきわめて機動的で、軽騎兵による奇襲・略奪を得意とし、従来の歩兵中心の防衛軍では対応が難しかったとされます。
2.ヨーロッパへの侵入と被害の拡大
マジャール人の侵入は9世紀末から10世紀前半にかけて激化しました。
特に東フランク王国・北イタリア・ブルゴーニュ地方が被害を受け、修道院や都市が襲われ、多くの人々が捕虜として連れ去られました。
彼らはただの略奪者ではなく、時には傭兵としても行動しました。たとえば、イタリアの諸侯や教皇勢力が内紛を抱えるとき、マジャール人を雇って敵対勢力を攻撃させることもあったのです。
しかし、彼らの活動は次第にドイツ王国の反撃を招きました。10世紀半ば、ザクセン朝のオットー1世が即位すると、王権の再建が進み、マジャール人との決戦が避けられなくなります。
3.レヒフェルトの戦いとマジャール人の定着
955年、オットー1世はアウクスブルク近郊のレヒフェルトでマジャール軍を迎え撃ち、決定的な勝利を収めました。
この「レヒフェルトの戦い」によってマジャール人の西方侵入は終息し、以後はカルパティア盆地に定住。やがてキリスト教を受け入れ、ハンガリー王国としてヨーロッパ世界に組み込まれていきます。
この勝利は、東フランク王国(ドイツ王国)の防衛力を象徴する出来事でした。オットー1世はその功績によって神聖ローマ帝国の基礎を固め、封建的軍制がヨーロッパ各地で定着していく契機となりました。
中央権力が弱まるなか、地方領主たちは自らの土地を守るために戦士を召集し、領地経営と軍事の結合――すなわち封建社会の萌芽――が生まれたのです。
第2章:サラセン人の侵入と地中海世界 ― 南からの脅威と交易の衰退
東方のマジャール人に続き、9〜10世紀のヨーロッパを脅かしたもう一つの勢力が、南から襲来したサラセン人です。
彼らはイスラーム教徒の海賊・商人・戦士として、地中海を自由に行き交いながら、時に交易、時に略奪を繰り返しました。
イスラーム帝国の拡大によって地中海は「イスラームの海」と化し、かつてローマ帝国時代に繁栄した地中海交易圏は分断され、西ヨーロッパの経済は深刻な停滞に陥ります。
この章では、サラセン人の活動の背景と侵入の実態、そしてそれが中世ヨーロッパ社会に与えた長期的な影響――特に「閉ざされた西欧世界」と封建社会の形成――について考察します。
1.イスラーム勢力の拡大とサラセン人の登場
7世紀に誕生したイスラーム教は、ムハンマドの死後まもなく急速に拡大し、ウマイヤ朝の時代には北アフリカ・イベリア半島まで支配を広げました。
この過程で、イスラーム世界の海上活動を担ったのが「サラセン人」と総称された人々です。
“サラセン”という名称はヨーロッパ側の呼称であり、アラブ人・ベルベル人・イスラーム商人など、地中海を舞台に活動する多様な勢力を含んでいました。
彼らは、地中海の交易を独占するだけでなく、沿岸都市への襲撃や奴隷狩りも行いました。西欧世界から見れば、宗教的にも経済的にも“異世界からの脅威”として恐れられる存在だったのです。
2.南フランス・イタリア沿岸への侵入
9世紀以降、サラセン人の活動は本格化します。
彼らは北アフリカやイベリア半島を拠点に、地中海を横断して南フランスやイタリア沿岸部を襲撃しました。
特にフランスのプロヴァンス地方や、イタリア南部の都市国家が大きな被害を受けました。
また、848年にはローマ郊外まで迫り、教皇領すら脅かす状況となります。
地中海の要地・シチリア島もイスラーム勢力の手に落ち、以後2世紀にわたってイスラーム文化の影響下に置かれました。
この結果、地中海交易はイスラーム側に掌握され、ヨーロッパの経済活動は内陸化・農村化の道をたどっていきます。
3.サラセン人の影響と封建社会への波及
サラセン人の侵入は、西ヨーロッパに深刻な被害を与えただけでなく、人々の生活圏と価値観を大きく変えました。
地中海交易が衰退すると、貨幣経済が停滞し、人々は自給自足の農村共同体に頼るようになります。これが荘園制の発展と封建的土地支配の拡大につながりました。
さらに、中央政府が沿岸防衛を担えなくなったことで、各地の領主が独自に城塞を築き、戦士を養うようになります。
こうして「土地を与えて守る」「忠誠を誓って戦う」という主従関係が強化され、社会の基盤が封建制へと移行していきました。
一方で、サラセン人を通じた物的な文化交流も少しずつ芽生えます。
9〜10世紀の地中海では、イスラーム商人たちが香辛料・絹織物・砂糖・紙などの交易品を運び、アラビア航海術や造船技術が西欧にも断片的に伝わりました。
この段階では、まだ知的交流というよりも「物流を通じた技術と物資の伝播」にとどまります。
しかし、11〜13世紀になると、イスラーム文明が育んだ学問的知識がスペインやシチリアを経由して本格的に流入します。
アッバース朝や後ウマイヤ朝の学者たちは、ギリシア哲学や自然科学をアラビア語で再構築し、イブン=シーナー(アヴィケンナ)やアヴェロエス(イブン=ルシュド)の著作がラテン語に翻訳されました。
こうしてアリストテレス哲学をはじめとする古代思想がヨーロッパに“再発見”され、スコラ学の形成や12世紀ルネサンスの土台となっていきます。
つまり、サラセン人の襲撃は短期的には「破壊」と「恐怖」をもたらしましたが、長期的に見れば、イスラーム世界との接点を残し、後世の知的交流を準備した出来事でもあったのです。
第3章:外敵侵入の終息と封建社会の成立 ― 自衛の秩序から封建制へ
9〜10世紀にかけてヨーロッパを覆った「外敵侵入の時代」は、ノルマン人・マジャール人・サラセン人という三つの異なる脅威がもたらした大変動の時代でした。
これらの侵入は一見、単なる破壊と混乱の連続に見えますが、実は中世ヨーロッパ社会の新たな秩序――封建社会――を生み出す原動力となりました。
中央権力が弱体化し、国王がすべての領土を守れなくなったとき、人々は自らの土地と生命を守るために結束します。
その防衛の仕組みこそが、土地を媒介とする主従関係――「封建制度」の萌芽でした。
この章では、外敵侵入の終息とともに形成された地方防衛体制の変化をたどり、どのようにしてヨーロッパが“戦乱の時代”から“秩序の時代”へと移行したのかを整理します。
1.三方からの侵入の終息と地域秩序の再建
10世紀半ば、ヨーロッパを襲った三つの外敵はほぼ同時期に沈静化します。
955年、東方から侵入したマジャール人はオットー1世にレヒフェルトの戦いで敗れ、カルパティア盆地に定住してハンガリー王国を建設。
南方のサラセン人は地中海制海権を徐々に失い、イスラーム勢力は北アフリカへと後退しました。
北方のノルマン人も、911年のロロのノルマンディー公国成立を契機にフランク王国の一部として組み込まれていきます。
こうして、三方向からの侵入が収束すると、ヨーロッパは再び内政の再建に取りかかることが可能になりました。
しかし、外敵を退けた後も、中央権力はもはや以前のような強さを取り戻すことはありませんでした。
その代わりに、各地の領主が軍事・行政・司法を掌握し、地域ごとの独立性が強まっていったのです。
2.地方防衛体制の定着と主従関係の形成
外敵侵入期に生まれた「自衛のための仕組み」は、やがて社会制度として定着します。
領主は農民から地代や労働を徴収して城塞を維持し、家臣である騎士に土地(封土)を与えて軍役を課しました。
この関係は、もともとカール・マルテルの軍制改革で整えられた恩貸地制度を基礎としており、「土地を媒介とした忠誠関係」という封建制の根幹を形づくりました。
この地方防衛体制が広がるにつれ、ヨーロッパは「王の保護」から「領主による自衛」へと社会の構造が変化します。
人々の安全はもはや中央の王ではなく、身近な領主や教会の保護に依存するようになり、地域単位で秩序と統治が行われる“分権的社会”が成立していきました。
3.封建社会の成立とその歴史的意義
こうして10世紀末には、ヨーロッパ各地で封建社会がほぼ完成します。
その特徴は、
- 政治的には 領主が行政・司法・軍事を掌握する分権的体制
- 経済的には 荘園制による自給自足の農業経済
- 社会的には 土地と身分を基盤とした固定的な身分秩序
この三層構造に集約されます。
外敵侵入の脅威がもたらした「恐怖」は、人々を自衛と結束へと導き、結果として封建的秩序の定着を促しました。
つまり、封建社会は“戦乱の副産物”としてではなく、“防衛の論理から生まれた秩序”だったのです。
さらに、この封建的枠組みの上に教会権威が重なり、精神面での秩序も形成されていきました。
聖職者は祈り、貴族は戦い、農民は働く――この「祈る者・戦う者・働く者」という三身分の観念は、まさに外敵の時代を生き抜く中で生まれた“生存の分業構造”といえるでしょう。
入試で狙われるポイントと頻出問題演習
入試では知識の暗記だけでなく、因果関係や歴史的意義を論理的に説明できるかが問われます。
ここでは重要論点の整理と、論述・正誤問題に挑戦しながら理解を定着させ、最後に入試で狙われる重要ポイントをまとめます。
入試で狙われるポイント(10項目)
- カール・マルテルの軍制改革(恩貸地制度)は封建制の原型であった。
- トゥール=ポワティエ間の戦い(732年)はイスラーム勢力の西進を阻止した。
- マジャール人はアヴァール人の後を継いで侵入し、10世紀にレヒフェルトの戦いで撃退された。
- サラセン人はアラビア・北アフリカ・シチリアを拠点に地中海を制した。
- サラセン人の侵入は地中海交易を衰退させ、西欧の自給自足化を促した。
- サラセン人を通じて紙・航海術・アラビア数字などがヨーロッパに伝わった。
- 外敵侵入の時代(9〜10世紀)は、地方防衛のための封建的主従関係が発達する契機となった。
- ノルマン人・マジャール人・サラセン人の侵入は、それぞれ北・東・南からの脅威であった。
- カール大帝の死後、フランク王国の分裂が外敵侵入を招いた。
- 外敵撃退後、王権よりも地方領主が力を持ち、分権的な封建社会が成立した。
重要論述問題にチャレンジ(3題)
問1
9〜10世紀の外敵侵入が、封建社会の成立にどのような影響を与えたか説明せよ。
解答例:
9〜10世紀、西ヨーロッパは北からノルマン人、東からマジャール人、南からサラセン人の侵入を受け、中央政府による防衛が困難となった。各地では領主が城塞を築き、戦士に土地を与えて軍事力を組織する体制が発達した。これにより土地を媒介とする主従関係が定着し、封建的分権社会が成立した。この地方防衛の仕組みこそ、後の封建制の原型となった。
問2
サラセン人の侵入が地中海世界と西ヨーロッパに与えた影響を述べよ。
解答例:
サラセン人は8〜10世紀にかけて地中海を制し、北アフリカ・シチリア・イベリア半島を支配した。その結果、西ヨーロッパは外海との交易を失い、自給自足的な経済に移行した。一方、イスラーム世界では商業と文化が発展し、紙・航海術・数学などがのちに西欧へ伝わる契機となった。サラセン人の支配は、分断と交流の双方をもたらした歴史的現象であった。
問3
マジャール人の撃退がヨーロッパの中世秩序に与えた意義を述べよ。
解答例:
10世紀、東方から侵入したマジャール人は中央ヨーロッパを脅かしたが、955年のレヒフェルトの戦いでオットー1世により撃退された。これにより東フランク王国は防衛を確立し、王権の威信が高まった。オットーは神聖ローマ帝国を創設し、教会と連携して新たな秩序を築いた。外敵撃退は、分裂した西欧に再び「秩序と信仰による統合」をもたらす転機となった。
間違えやすいポイント・誤答パターン集(10項目)
1.「サラセン人=アラブ人だけ」と考える
→ 正しくは北アフリカやシチリアのベルベル人・イスラーム化した地中海民も含む。
2.「マジャール人=モンゴル系」と混同
→ ウラル語族系の民族で、現在のハンガリー人の祖先。
3.「トゥール=ポワティエ間の戦いの相手はオスマン帝国」
→ 当時はウマイヤ朝のイスラーム軍。オスマン帝国は遥か後。
4.「外敵侵入期に王権が強化された」
→ 実際には王権が弱体化し、地方領主が自衛的権力を強めた。
5.「封建制は土地制度だけ」
→ 土地を通じて形成された社会秩序(主従関係+経済基盤)である。
6.「サラセン人の侵入で交易が完全に途絶した」
→ 実際には細い交流が残り、のちの十字軍期に再活発化。
7.「ノルマン人・マジャール人・サラセン人は同時期ではない」
→ いずれも9〜10世紀に活動しており、ほぼ同時期。
8.「恩貸地制度はフランク王国後期の制度」
→ 実際にはカール・マルテル期(8世紀前半)に起源。
9.「マジャール人侵入は西フランク中心」
→ 主に東フランク・イタリア方面が被害。
10.「外敵侵入後も中央軍が防衛を担った」
→ 実際には領主の私兵制=封建軍制に変化した。
頻出正誤問題(10問)
問1
トゥール=ポワティエ間の戦い(732年)は、フランク王国のカール・マルテルがイスラーム軍を撃退した戦いである。
解答:〇 正しい
🟦【解説】
ウマイヤ朝軍の進撃を阻止し、イスラーム勢力の西欧進出を防いだ。
問2
マジャール人はゲルマン人の一派であり、フランク王国の東方から侵入した。
解答:✕ 誤り
🟦【解説】
マジャール人はウラル語族系で、ゲルマン人ではない。ハンガリー平原を拠点とした。
問3
サラセン人の侵入によって地中海交易は完全に途絶した。
解答:✕ 誤り
🟦【解説】
衰退はしたが、細い交易路は残り、後の十字軍時代に再活発化する。
問4
オットー1世はマジャール人を撃退して神聖ローマ帝国の基礎を築いた。
解答:〇 正しい
🟦【解説】
955年レヒフェルトの戦いで勝利し、962年に皇帝戴冠。
問5
サラセン人の侵入は西ヨーロッパに文化的影響をほとんど与えなかった。
解答:✕ 誤り
🟦【解説】
アラビア科学・航海術・数学・紙などが断続的に流入した。
問6
ノルマン人、マジャール人、サラセン人の侵入はいずれも9〜10世紀に集中した。
解答:〇 正しい
🟦【解説】
三方向から同時期に侵入したため、封建社会成立の大きな契機となった。
問7
外敵侵入を通じて、フランク王国の中央集権体制は強化された。
解答:✕ 誤り
🟦【解説】
防衛の地方化により、諸侯・騎士が独自の権力を強めた。
問8
サラセン人は地中海南岸とシチリア島を拠点に活動した。
解答:〇 正しい
🟦【解説】
北アフリカ・シチリア・イベリア半島を中心に制海権を握った。
問9
マジャール人は西ヨーロッパの海上貿易に従事した民族である。
解答:✕ 誤り
🟦【解説】
マジャール人は騎馬民族で、海上ではなく陸上侵入を行った。
問10
外敵侵入後の防衛体制は、土地を媒介とした主従関係を基盤としていた。
解答:〇 正しい
🟦【解説】
恩貸地を与えて忠誠を得る封建制の起点となった。
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