プランタジネット朝の歴代国王を総まとめ

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プランタジネット朝は、12世紀半ばから15世紀末にかけてイングランドを支配した王朝であり、フランス西部に広大な領土を持つ「アンジュー帝国」の形成から、王家内部の内乱であるバラ戦争に至るまで、王権のあり方が大きく揺れ動いた時代です。

この王朝期は、強大な王権の確立とそれに対抗する貴族勢力の抵抗、さらに議会制度の発展という、イングランド政治の根幹を形づくる重要な転換点となりました。

その意義は、単なる王朝交代にとどまらず、「絶対的王権」ではなく「制限された王権」というイングランド特有の政治文化が形成されていく過程にあります。

マグナ=カルタの発布、議会の成立、百年戦争の長期化などを通じて、国王と貴族・都市との力関係は複雑化し、近代的な立憲政治の萌芽が生まれていきました。

こうした変化の背景には、ノルマン朝以来の大陸領支配とイングランド王国の統治を両立させねばならなかった構造的矛盾や、戦費負担の増大、貴族間抗争の激化がありました。

その結果、王権の強化と動揺は交互に繰り返され、最終的にはバラ戦争によって王朝は終焉を迎えることになります。

本記事では、プランタジネット朝の成立から崩壊までを俯瞰し、各国王の特徴と政策、王権と貴族の関係変化、そしてイングランド政治史に残した長期的影響をわかりやすく整理しながら、その歴史的意義を体系的に解説していきます。

目次

序章 プランタジネット朝の国王と王権の流れを俯瞰する

ここでは、プランタジネット朝の始まりから終焉までを「国王・年代・主要業績」の視点で一望できるチャートとして整理します。

アンジュー帝国の形成、マグナ=カルタによる王権制限、議会制度の成熟、百年戦争、そしてバラ戦争へと至る流れは、国王の交代とともに王権の性格がどのように変化していったかを読み解くうえで重要な手がかりとなります。

このチャートを通して、個々の国王の特徴だけでなく、「王権が強化された時代」と「動揺した時代」のリズムをつかみ、プランタジネット朝全体の構造を大づかみにしていきましょう。

プランタジネット朝 国王・年代・主要業績チャート(1154〜1485)

ヘンリ1世の娘マティルダの子
    ↓
ヘンリ2世(1154–1189)
・アンジュー帝国の形成(イングランド+仏西部の広大領)
・王権強化と司法制度整備(巡回裁判の導入)
・トマス=ベケット事件

   ↓
リチャード1世(1189–1199)
・「獅子心王」
・第3回十字軍に参加
・国内統治は不在がち

   ↓
ジョン(1199–1216)
・仏領大半を失う(フィリップ2世に敗北)
・マグナ=カルタ発布(1215)
・王権の制限が明文化

   ↓
ヘンリ3世(1216–1272)
・貴族反乱とオックスフォード条項
・シモン=ド=モンフォールによる議会運営
・議会政治の発展

   ↓
エドワード1世(1272–1307)
・「模範議会」開催(1295)
・ウェールズ征服
・スコットランド遠征開始
・議会制度の制度化

   ↓
エドワード2世(1307–1327)
・貴族との対立激化
・バノックバーンの戦いで敗北
・イザベラ王妃らにより廃位

   ↓
エドワード3世(1327–1377)
・百年戦争開始(フランス王位継承主張)
・クレシーの戦い勝利
・ガーター騎士団創設

   ↓
リチャード2世(1377–1399)
・王権強化を図るが専制化
・貴族により廃位
・ランカスター家台頭

――――プランタジネット本家断絶――――

【ランカスター朝(プランタジネット支流)】

ヘンリ4世(1399–1413)
・王権奪取による即位
・反乱鎮圧に追われる

   ↓
ヘンリ5世(1413–1422)
・百年戦争再燃
・アジャンクールの戦い勝利
・フランス王位継承権獲得

   ↓
ヘンリ6世(1422–1461 / 1470–1471)
・統治能力不足
・バラ戦争勃発

【ヨーク朝(プランタジネット支流)】

エドワード4世(1461–1483)
・ヨーク派勝利
・王権再建

   ↓
エドワード5世(1483)
・即位直後に失踪(ロンドン塔の王子)

   ↓
リチャード3世(1483–1485)
・専制的統治
・ボズワースの戦いで戦死
・テューダー朝成立

チャートから見える流れのポイント

  • 前半:
     → 強王による王権強化(ヘンリ2世〜エドワード1世)
  • 中盤:
     → 議会の発展と王権の制限(マグナ=カルタ・模範議会)
  • 後半:
     → 百年戦争の長期化と王権の動揺
     → 王位継承争いからバラ戦争へ

第1章 アンジュー帝国の成立とプランタジネット朝の出発点

この章では、プランタジネット朝がどのような経緯で成立し、なぜ「アンジュー帝国」と呼ばれる広大な勢力圏を築くに至ったのかを整理します。

単なる王朝交代ではなく、イングランド王権の性格そのものが大きく変化する起点であったことを意識しながら、成立の背景と初期の政治構造を読み解いていきます。

1.内乱の果てに生まれた新王朝

プランタジネット朝の出発点は、ノルマン朝末期の深刻な王位継承問題にあります。

ヘンリ1世の死後、正統な後継者であった娘マティルダと王位を奪ったスティーブンとの間で「無政府時代」と呼ばれる内乱が続き、王権は著しく混乱しました。

この内戦の妥協として、スティーブンはマティルダの子ヘンリを後継者として認めます。

こうして1154年、ヘンリ2世が即位し、プランタジネット朝が始まりました。彼の即位は単なる王位交代ではなく、混乱した王権を再建し、強力な中央集権体制を再構築する試みの出発点でもあったのです。

2.アンジュー帝国という特異な支配構造

ヘンリ2世はイングランド王であると同時に、フランス西部に広大な領土を有する大諸侯でもありました。

アンジュー伯、ノルマンディー公、アキテーヌ公などの称号を併せ持ち、その支配領域はイングランド王国をはるかに超える規模に達しました。

この広大な支配圏は「アンジュー帝国」と呼ばれますが、実際には統一国家ではなく、複数の領地を王の個人的権利によって束ねた連合体でした。

この構造こそが、後の王権不安定化の要因となります。

イングランド王でありながら、フランス王に臣従する大諸侯でもあるという矛盾した立場が、王権の二重性を生み出していきます。

3.ヘンリ2世の王権強化政策

ヘンリ2世は内乱で荒廃した王国を立て直すため、積極的な王権強化を進めました。その中心となったのが司法制度の改革です。

・巡回裁判制度の整備
・陪審制度の発展
・王直属の裁判権拡大

これにより、地方領主の私的裁判権は制限され、国王が「法の最終決定者」として位置づけられていきました。

この改革は、近代的司法制度の原型ともいえる重要な転換点でした。

しかし同時に、教会との対立も深刻化します。カンタベリー大司教トマス=ベケットとの衝突は象徴的事件であり、王権拡大が宗教権威との緊張関係を生むことを明確に示しました。

4.成立期に内包された矛盾

プランタジネット朝は、強大な王権を志向しながらも、その基盤は常に不安定でした。

・大陸領とイングランド本国の統治の二重負担
・貴族勢力の強さ
・王権と教会の緊張関係

これらの要素は、のちにジョン王時代のマグナ=カルタ、百年戦争、さらにはバラ戦争へと連なっていく伏線となります。

つまり、成立段階からすでに「王権の栄光と動揺」が同時に内在していたのです。

第2章 ジョン王とマグナ=カルタ ― 王権制限の転換点

この章では、プランタジネット朝の中でも決定的な分岐点となったジョン王の治世に注目し、王権が初めて明文化された形で制限された「マグナ=カルタ」の意味を整理します。

強王政治の流れから、王と貴族の力関係が制度として組み替えられていく過程をたどることで、イングランド特有の政治文化がどのように形成されたのかを読み解きます。

1.大陸領喪失と王権の動揺

ジョン王の治世における最大の転機は、フランス王フィリップ2世との抗争に敗れ、ノルマンディーをはじめとする大陸領の大半を失ったことでした。

これにより「アンジュー帝国」は事実上崩壊し、プランタジネット朝はイングランド本土に基盤を置く王権へと性格を変えていきます。

しかし、大陸領奪回のための戦費調達は国王による課税強化を招き、貴族や聖職者の不満を急速に高めました。

王権の威信が低下する一方で、支配のための負担は重くなるという矛盾が、反発の土壌を広げていったのです。

2.専断的統治と貴族の反発

ジョン王は財政難を補うため、裁判費用の増収、恣意的課税、貴族への過度な金銭要求などを繰り返しました。

さらに教皇インノケンティウス3世との対立も深まり、イングランド全土に聖務停止令が出される事態に発展します。

こうした統治は、貴族たちにとって「王権の暴走」と映りました。やがて彼らは集団で反旗を翻し、国王に対して統治の枠組みそのものを改めるよう迫ることになります。

3.マグナ=カルタの発布と歴史的意義

1215年、ジョン王は反乱貴族の圧力のもと、マグナ=カルタに署名します。

これは王の権限を制限し、貴族の権利と法の支配を認めた文書であり、以下のような内容が盛り込まれました。

・課税には貴族の同意を必要とする
・国王であっても法に従う
・不当な逮捕・拘禁の禁止
・正当な裁判の保障

この文書は直ちに完全な民主制度を生んだわけではありませんが、「王であっても法の上に立てない」という原則を明確にした点で画期的でした。

王権の正統性が、力ではなく法によって裏付けられる方向へと転換したのです。

4.制限された王権というイングランド的特徴

マグナ=カルタ以降、イングランドでは国王と貴族が対立しつつも、対話と合意によって統治の枠組みを調整していく伝統が形成されていきます。

これは後の議会制度の発展へとつながる重要な流れでした。

この時点ではまだ「近代的議会」と呼べる段階ではありませんが、課税と同意を結びつける原理が確立されたことで、王権は一方的支配ではなく、制度によって制御される存在へと変化します。

プランタジネット朝の歴史は、ここから「支配する王」から「交渉する王」への転換期に入ったといえるでしょう。

第3章 ヘンリ3世と議会の原型 ― 王権と貴族の「共同統治」への転換

この章では、ジョン王の死後に即位したヘンリ3世の治世を通して、王権と貴族の関係がどのように変化し、議会制度の原型が形づくられていったのかを整理します。

マグナ=カルタで示された王権制限が、いかにして「制度」として定着していったのかを理解するうえで、この時代は極めて重要な転換点となります。

1.若年王のもとで再燃した緊張

1216年に即位したヘンリ3世は幼少であったため、実際の政治は摂政団によって行われました。

当初はマグナ=カルタの再確認によって王国の安定が図られましたが、やがて国王が親政を開始すると、再び貴族との対立が表面化していきます。

ヘンリ3世はフランス出身の側近を重用し、財政運営でも強引な課税を行ったため、貴族たちの不満は次第に高まっていきました。

王権の再強化を志向する姿勢は、結果として「マグナ=カルタの精神に反する統治」と受け取られることになります。

2.オックスフォード条項と統治改革の要求

1258年、貴族たちは王に対して統治改革を迫り、「オックスフォード条項」を承認させます。

これは国王の専断を抑え、統治を合議制に近づける内容を持つものでした。

・王の重要決定は貴族評議会の承認を要する
・定期的な会議の開催
・統治の透明化

ここで注目すべきは、貴族たちが王を完全に排除しようとしたのではなく、「王権を監視しつつ共に統治する枠組み」を求めた点です。

この姿勢は、のちの議会制度の性格を先取りするものでした。

3.シモン=ド=モンフォールと議会の実践

貴族側の指導者として頭角を現したのがシモン=ド=モンフォールです。

彼は王権に対抗しつつ、より広範な合意形成を目指す政治を展開しました。

1265年、彼が召集した会議では、貴族だけでなく都市の代表も参加し、これが「議会の原型」と評価される重要な出来事となります。

王と貴族だけでなく、都市層が政治に関与する構造が生まれたことで、イングランドの統治は大きく性格を変えていきました。

この時点での議会はまだ限定的なものでしたが、「代表が国政に参加する」という発想が制度として実践されたことは、後世にきわめて大きな影響を与えます。

4.対立から制度へ

ヘンリ3世の時代を通じて明らかになるのは、王権と貴族の関係が対立から制度へと転化していく過程です。

武力衝突や反乱を経ながらも、最終的には「合議による統治」という方向性が定着していきます。

ここで形成された枠組みは、次代エドワード1世による議会制度の整備へと引き継がれ、イングランド政治の特徴である「法と合意に基づく王権」という構造をさらに強固なものにしていきます。

第4章 エドワード1世と議会制度の確立 ― 王権と合意の制度化

この章では、エドワード1世の治世を中心に、これまで形成されてきた「王と貴族の協議」という枠組みが、どのようにして制度として定着していったのかを整理します。

ヘンリ3世期に芽生えた合議の仕組みは、この時代において明確な形をとり、イングランド政治の大きな特徴となっていきます。

1.実務的君主エドワード1世の登場

1272年に即位したエドワード1世は、軍事と統治の両面で高い能力を示した実務型の国王でした。

彼は王権の強化を志向しながらも、貴族や都市との協調を重視し、合意に基づく政治構造の安定化を図ります。

無理な専断ではなく、法と制度を通じて統治を進めた点に特徴があり、この姿勢が議会の制度化を後押しすることとなりました。

2.「模範議会」と代表制の定着

1295年に開催された「模範議会」は、イングランド議会史における画期的出来事とされます。

この議会では、貴族・聖職者に加え、各州および都市から選出された代表が出席しました。

ここで確立されたのは、
・貴族院と庶民院の原型
・地域代表による国政参加
・課税と同意の連動

という原理です。これにより、議会は一時的な非常措置ではなく、統治の常設機関としての性格を強めていきます。

王権は依然として強力でしたが、その行使は制度的枠組みの中で行われるようになったのです。

3.領土政策と王権の拡張

エドワード1世は国内統治の整備と並行して、領土的拡張にも積極的でした。

ウェールズを征服し、スコットランドへの遠征を敢行します。これらの軍事行動は王権の威信を高める一方で、戦費調達のため議会への依存を強める要因ともなりました。

戦争と議会の関係はここで密接になることになり、王が財政面で議会の承認を求める構図が定着していきます。

つまり、軍事的強化と政治的合意が同時に進行した時代であったといえるでしょう。

4.強化された王権と制度の安定

エドワード1世の治世は、王権強化と制度的安定が両立した点に大きな特徴があります。

専制ではなく、統治の正当性を議会との協調によって支える構造が形成されました。

これにより、イングランドでは王の権力が「制度の中で機能する権力」へと成熟していきます。

この構造は後の時代にも強く影響を与え、プランタジネット朝後期における王権の動揺と対比される重要な基盤となりました。

第5章 エドワード2世と王権の動揺 ― 貴族支配への揺り戻し

この章では、エドワード1世によって安定したかに見えた王権体制が、エドワード2世の治世において再び大きく揺らぎ、貴族の影響力が強まっていく過程を整理します。

プランタジネット朝後期における「王権の不安定化」の始まりとして、この時代は極めて重要な意味を持ちます。

1.統治能力の低下と側近政治

1307年に即位したエドワード2世は、父エドワード1世のような政治的手腕を持たず、統治の多くを側近に依存する傾向が強くなりました。

特にピアーズ=ガヴェストンの寵愛は、貴族たちの強い反感を招きます。

貴族たちは、王が政治を側近に委ねていると批判し、国政への関与を強めようとしました。

この結果、王と貴族の関係は急速に悪化し、再び緊張状態に入っていきます。

2.貴族の統制と王権の制約

貴族側は1311年、「統治条例(オーディナンス)」を制定させることで、国王の権限を制限しようとしました。

これにより、

・側近の排除
・財政の統制
・国政への貴族の関与強化

が図られ、政治の主導権は王から貴族へと傾いていきます。

ここには、マグナ=カルタ以来続く「王権監視の伝統」が、より露骨な形で現れていたといえるでしょう。

3.バノックバーンの敗北と王権の失墜

この時代の象徴的事件が、1314年のバノックバーンの戦いです。

スコットランド王ロバート=ブルース率いる軍に敗北したことで、イングランド王権の威信は大きく損なわれます。

対外的な敗北は、国内の反発に拍車をかけ、王の統治能力への不信感を決定的なものにしました。

ここにおいて、王権の弱体化はもはや一時的な現象ではなく、構造的問題として露呈します。

4.廃位という前例の誕生

やがて貴族たちは、エドワード2世の統治を見限り、王妃イザベラとその支持者ロジャー=モーティマーを中心に王の排除を進めます。

1327年、エドワード2世は正式に廃位され、これはイングランド史上きわめて異例の出来事となりました。

この廃位は、
「王であっても無条件ではない」
という意識を政治文化として定着させ、王権の正統性に新たな基準を持ち込むことになります。

第6章 エドワード3世と王権の再建 ― 百年戦争がもたらした転機

この章では、エドワード2世の混乱を収束させたエドワード3世の治世に焦点を当て、王権がどのように再建され、百年戦争という対外戦争がイングランド王権の性格をどのように変化させたのかを整理します。

王権の威信回復と戦争の長期化が同時に進行したこの時代は、プランタジネット朝後期を特徴づける重要な局面です。

1.若き王による権力の奪還

1327年に即位したエドワード3世は、当初は母イザベラとモーティマーによる傀儡状態に置かれていました。

しかし1330年、自らクーデタを起こして政権を掌握し、名実ともに国王として統治を開始します。

この行動は、失われた王権の主導権を取り戻す象徴的事件であり、エドワード3世が強い意志を持つ国王であったことを示しています。

彼は父の失政によって傷ついた王権の威信を回復し、貴族との関係を再構築していきました。

2.百年戦争の勃発と王権の強化

エドワード3世はフランス王位に対する継承権を主張し、1337年に百年戦争が始まります。

この戦争は単なる領土争いではなく、王権の正統性と威信をかけた対外的挑戦でもありました。

クレシーの戦いなどでの勝利は王の名声を高め、軍事的成功は国内における王権の権威を大きく押し上げます。

一方で、戦費調達のため議会の承認を頻繁に求めるようになり、王と議会の関係はより密接になります。

ここで成立した「戦争と議会の連動」は、イングランド政治の構造をさらに深化させる結果となりました。

3.貴族統合と騎士文化の形成

エドワード3世は、戦争遂行にあたって貴族層との協調を重視しました。

ガーター騎士団の創設はその象徴であり、王への忠誠と名誉を強調することで、貴族の結束を図ります。

これにより、王は軍事的指導者としての役割を明確にし、貴族は王に従う「王国の守護者」として位置づけられていきました。

王権は武力と名誉の両面から支えられる体制へと再構築されます。

4.繁栄の裏に潜む不安定化

一見するとエドワード3世の治世は安定と隆盛の時代に見えますが、長期戦争による財政負担と社会への圧力は確実に蓄積していました。

戦争の継続は議会依存を強め、同時に国王の負担も増大していきます。

晩年には王の統治能力が低下し、側近の影響力が再び問題視されるようになります。

このことは、次代リチャード2世における王権の再不安定化へとつながっていく伏線となりました。

第7章 リチャード2世と王権の専制化 ― プランタジネット本家の終焉

この章では、エドワード3世の後を継いだリチャード2世の治世を通じて、王権が再び不安定化し、ついには廃位という形でプランタジネット本家が断絶するまでの過程を整理します。

王権の強化を目指した試みが、いかにして「専制」と受け取られ、貴族との決定的対立へと至ったのかを読み解く重要な局面です。

1.少年王の即位と統治の混乱

1377年、まだ10歳のリチャード2世が即位すると、政権は有力貴族や側近によって支えられる体制となりました。

若年統治期にはワット=タイラーの乱が発生し、社会的不安と王権への不満が一気に噴出します。

この反乱鎮圧を通じて、リチャード2世は王としての自覚を強めますが、その後の統治は次第に独断的な方向へ傾いていきました。

2.王権強化と貴族との対立

成人後のリチャード2世は、自らの権威を強く主張し、王権の絶対性を強調する政治を進めました。

しかしその過程で、王の政策に反対する有力貴族たちと深刻な対立を生みます。

彼は反対派貴族を排除し、側近政治を強めることで権力集中を図りましたが、これが「専制的統治」と受け取られるようになります。

議会との協調よりも、王の意思を優先する姿勢が目立つようになったのです。

3.ヘンリ・ボリングブルックの台頭

なかでも重要なのが、ランカスター公ヘンリ・ボリングブルックとの対立です。

王により追放された彼は、やがて支持者を集めて帰国し、王権に挑戦します。

各地の貴族はリチャード2世から離れ、ヘンリ側に傾いていきました。

ここにおいて、王権の正統性はすでに大きく揺らいでいたといえるでしょう。

4.廃位と王朝の断絶

1399年、リチャード2世はついに廃位され、ヘンリ・ボリングブルックがヘンリ4世として即位します。

これは、王位が「血統だけでなく、統治能力と支持によって左右される」時代へ移行したことを意味しました。

この出来事により、プランタジネット本家は断絶し、王朝はランカスター家という傍系に移行します。

王権の正統性は新たな段階に入り、やがてバラ戦争という長い内乱へと発展していきます。

第8章 ランカスター家とヨーク家 ― バラ戦争へ向かう王位継承の混迷

この章では、リチャード2世の廃位後に成立したランカスター朝と、それに対抗するヨーク家の対立構図を整理し、なぜプランタジネット家の内部抗争が「バラ戦争」という大規模内乱へと発展していったのかを俯瞰します。

ここで形成される王位継承の緊張は、王権の正統性という問題を決定的に不安定化させていきます。

1.ランカスター朝の成立と脆弱な正統性

1399年、ヘンリ4世の即位によってランカスター朝が誕生します。しかしその出発点は「廃位による王位奪取」であり、血統上の正統性は常に疑問視されていました。

ヘンリ4世は反乱鎮圧と王権安定に追われ、王位の基盤は決して盤石とはいえませんでした。

続くヘンリ5世の時代には百年戦争での軍事的成功により王権は一時的に強化されますが、その早すぎる死によって再び不安定な状況に戻ります。

2.ヘンリ6世の統治と権威の崩壊

ヘンリ6世は幼少で即位し、成長後も政治的手腕に乏しく、強い指導力を発揮することができませんでした。

国内では派閥抗争が激化し、貴族たちは王権ではなく自らの勢力基盤を優先するようになります。

さらに百年戦争での敗北が続き、イングランドの威信は大きく低下しました。王の権威はもはや統合の象徴として機能せず、政治は完全に混迷状態へと陥っていきます。

3.ヨーク家の主張と王位への挑戦

こうした状況の中で頭角を現したのがヨーク公リチャードです。彼はエドワード3世の血統を理由に、自らの王位継承の正当性を主張しました。

これにより、王位をめぐる争いは単なる派閥抗争を超え、「正統王家同士の対決」へと発展します。

ヨーク家は次第に支持を広げ、王位の正統性をめぐる緊張は武力衝突へと転化していきました。

4.バラ戦争の勃発

1455年、ランカスター家(赤バラ)とヨーク家(白バラ)の間でついに戦闘が開始され、これがバラ戦争の発端となります。

この内乱は単なる王位争いではなく、貴族社会全体を巻き込む長期的抗争となりました。

戦争は何度も王位が入れ替わる混乱を生み、国内の秩序は大きく揺さぶられます。

王権はもはや国家を統合する存在ではなく、争奪の対象にすぎなくなってしまったのです。

第9章 バラ戦争の帰結とプランタジネット朝の終焉 ― 王権の再編と新時代への移行

この章では、バラ戦争の展開とその最終局面を整理し、プランタジネット朝がどのようにして歴史の舞台から姿を消し、テューダー朝へと移行していったのかを俯瞰します。

王位争いがもたらした混乱の中で、王権そのものの性格が大きく変化していく流れに注目します。

1.混迷する王位と内戦の長期化

バラ戦争は一連の単発的な戦闘ではなく、断続的な権力闘争が長期にわたって続く内乱でした。

ヨーク派のエドワード4世が王位を掌握する一方で、ランカスター派は再起を図り、王位は何度も交代します。

この過程で顕著となったのは、国王という存在が国家統合の中心ではなく、有力貴族間の抗争の象徴へと変質していったことです。

政治の安定性は失われ、地方では私兵を抱える貴族による実力支配が横行しました。

2.リチャード3世と王権の孤立

エドワード4世の死後、ヨーク派の内部でも対立が激化し、弟リチャード3世が王位に就きます。

しかし彼の即位は強引な手法によるものであり、王権への信頼はさらに低下していきました。

リチャード3世は統治の正当性を確立しようと試みますが、貴族層の支持を十分に得ることはできず、王は孤立した存在となっていきます。

この状況が、最終的な王朝交代への道を開くことになります。

3.ボズワースの戦いと新王朝の誕生

1485年、ボズワースの戦いにおいて、リチャード3世はテューダー家の代表ヘンリ・テューダーに敗れて戦死します。

これによりプランタジネット朝は完全に終焉を迎え、ヘンリ7世が即位してテューダー朝が成立します。

ヘンリ7世はランカスター家の血統とヨーク家の血統を結びつけることで、内戦の終結と王権の再統合を図りました。

これにより、長く続いた貴族抗争の時代は終わりを告げ、新たな政治秩序が形成されていきます。

4.プランタジネット朝の歴史的意味

プランタジネット朝は、単なる中世王朝の一つではなく、イングランド王権の性格を決定づけた時代でした。

この王朝の歴史を通じて形成されたのは、

・王権の制限と法の支配
・議会制度の発展
・合意に基づく統治原理

といった、後の近代立憲国家へとつながる基盤です。バラ戦争による崩壊は一見すると混乱の終焉に見えますが、その背後では王権の再定義が静かに進んでいたといえるでしょう。

第10章 プランタジネット朝の長期的影響 ― 王権と政治文化の転換点

この最終章では、プランタジネット朝の歴史がイングランド、さらには近代ヨーロッパの政治にどのような遺産を残したのかを総括します。

アンジュー帝国の成立からバラ戦争による崩壊までの約3世紀は、単なる王朝史ではなく、「王権とは何か」という問いに対する試行錯誤の連続でもありました。

1.王権の絶対性から「制限された王権」へ

プランタジネット朝最大の特徴は、王権が一方的支配ではなく、制度と合意によって枠づけられていった点にあります。

マグナ=カルタを起点として、課税と同意の原理、王も法に従うという考え方が定着し、国王は「全能の支配者」ではなく、「法の枠内で統治する存在」へと変化しました。

この発想は後の清教徒革命、名誉革命、さらには立憲君主制の形成にまで連なっていく、イングランド政治文化の根幹となります。

2.議会制度の基盤形成

ヘンリ3世期の貴族会議から、エドワード1世の模範議会に至る流れは、近代議会の原型を生み出しました。

課税には代表の同意が必要であるという原理は、政治参加の正統性を制度化し、「代表制」という概念を現実の統治構造へと組み込んだのです。

この時期に形成された議会は、単なる諮問機関ではなく、国政に影響を与える恒常的身体として発展していきます。

3.王権と貴族の関係モデルの確立

プランタジネット朝の歴史は、王と貴族の対立と共存の歴史でもありました。

武力による支配ではなく、交渉と制度による調整を通じて権力関係を再編していった点は、専制国家とは異なるイングランド型の政治モデルを生みます。

このモデルは「強い王権」と「強い有力身分」の均衡によって成立しており、その緊張関係こそが政体の安定を支える構造となりました。

4.内戦の経験が生んだ国家意識

バラ戦争という深刻な内乱は、王位の不安定さが国家全体に混乱をもたらすことを人々に強く印象づけました。

この経験が、テューダー朝期における強力な王権再建を正当化する土壌となります。

すなわち、プランタジネット朝の崩壊は無秩序ではなく、次なる統治体制を準備する「歴史的な調整期間」であったともいえるでしょう。

5.プランタジネット朝の意義

プランタジネット朝は、
・中世的王権の限界
・近代的政治構造への移行
・法と制度の優位

を体現した王朝でした。その歴史は、王権の盛衰を通じて、イングランドが「力による支配」から「制度による統治」へと進んだ過程を明確に示しています。

こうして見ると、プランタジネット朝はイングランド政治の土台を築いた「構造転換の時代」だったといえるでしょう。

アンジュー帝国からバラ戦争までの王権史は、近代立憲国家への道筋を準備した重要な歴史であり、その意味は今日に至るまで深く息づいています。

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