アルフレッド大王とは、9世紀末のイングランド南部ウェセックス王で、デーン人(ヴァイキング)の侵攻に対抗し、イングランド国家の基礎を築いた人物です。
その意義は、軍事的抵抗だけでなく、防衛体制の整備、行政改革、教育振興を通じ、後の統一王国につながる政治的枠組みを形成した点にあります。
背景には、8〜9世紀にかけて北海世界で勢力を拡大したデーン人が、各地のアングロ=サクソン王国へ次々と侵入し、イングランド全体が崩壊の危機に瀕した状況がありました。
アルフレッドはこの危機に直面し、ゲリラ戦・要塞網構築・自治組織の整備など多角的な対策を実施してウェセックスを再建します。
彼の改革は、息子・孫の代に続く統一運動の礎となり、10世紀のアセルスタンによる「イングランド王国」成立へとつながりました。
さらに11世紀には、デーン人の再侵入とクヌート大王の北海帝国を経て、イングランド王権はより強固な国家への道を歩むことになります。
本記事では、デーン人の侵入の実態とアルフレッド大王の戦い・改革、そしてイングランド統一へ至る歴史の流れを、受験で問われるポイントを押さえながら体系的に解説します。
第1章 デーン人の侵入とアングロ=サクソン社会の危機
デーン人(ヴァイキング)は、8〜9世紀にかけて北海世界で急速に勢力を強め、イングランド沿岸に繰り返し襲来しました。
アングロ=サクソン諸王国は当初、局地的な略奪として対処しましたが、やがて大規模な軍団(グレート・ヒースン・アーミー)が本格的な征服活動を進めるようになると、イングランドは存亡の危機に陥ります。
本章では、アルフレッド大王が登場する前の状況を整理し、当時のアングロ=サクソン社会がどのような脅威に直面していたのかを見ていきます。
1 ヴァイキング拡大の背景とデーン人の特徴
デーン人は、ノルウェー・デンマーク・スウェーデンに住む北方系の人々のうち、主にデンマーク地域の集団を指し、9世紀には海上航行技術の発達と人口増加を背景に外部への進出を強めました。
彼らは迅速な船団行動を得意とし、略奪・交易・傭兵活動を組み合わせながら勢力を広げていきます。
特にイングランドは、豊かな農地と修道院の財宝を有していたため標的となり、デーン人の襲来は沿岸地域に大きな破壊をもたらしました。
彼らの戦法は奇襲と迅速な撤退を特徴とし、当時の小規模なアングロ=サクソン軍では対応しづらいものでした。
2 グレート・ヒースン・アーミーの到来とアングロ=サクソン王国の崩壊
865年、イングランドに大規模デーン人軍団「グレート・ヒースン・アーミー」が上陸すると、状況は一変します。
これは単なる略奪ではなく、定住と支配を目的とした組織的侵攻であり、アングロ=サクソン諸王国は次々と征服されました。
- ノーサンブリア王国:867年に陥落
- イースト・アングリア王国:869年に滅亡
- マーシア王国:875年以降、実質的にデーン人の支配下へ
このように、イングランド中部・北部の主要王国が制圧され、残された強国は南部のウェセックス王国のみとなりました。
すでにこの段階で、アングロ=サクソン世界は壊滅寸前の状況に追い込まれていたのです。
3 ウェセックスの孤立とアルフレッド大王登場前夜の情勢
ウェセックスは、アングロ=サクソン諸王国の中でも比較的安定した王統を保ち、軍事力と組織力では一定の強さをもちましたが、デーン人の大軍団に対しては決して余裕があったわけではありません。
アルフレッドが王位に就く前のウェセックスは、兄のエゼルレッド王とともに防戦を続けていたものの、決定的な勝利を得られず、デーン人と講和を繰り返す消耗戦に追い込まれていました。
デーン人は、各地を転々としながら要塞化した拠点を築き、ウェセックスの領内にも度重なる圧力を加えます。
こうして、イングランド全体がデーン人の支配に傾きつつあった中、アルフレッドは871年に王位を継ぎます。
彼の即位は、アングロ=サクソン世界の最後の防衛線であり、同時にイングランド再建の起点でもありました。
第2章 アルフレッド大王の抵抗とウェセックス再建
アルフレッド大王は、デーン人の大侵攻によって崩壊寸前となったアングロ=サクソン世界を立て直し、軍事・行政・教育の改革を通じて、後のイングランド統一を可能にした王です。
本章では、彼の即位直後の苦境から反撃、そして国家再建へと至る過程を整理し、アルフレッドの改革がどのように新しい君主像と政治秩序を生み出したのかを見ていきます。
1 即位直後の危機とアシングトンの戦い
871年に即位したアルフレッドは、王位継承の直後からデーン人軍と連戦を強いられました。
当初は講和を結びつつ辛うじて領国を維持していましたが、878年、デーン人の奇襲によってウェセックス王国全体が深刻な危機に陥ります。
アルフレッドは一時、サマセットの沼沢地エセックスに逃れ、ゲリラ戦で抵抗しながら再起の機会をうかがいました。
そして同年、軍勢を再結集し、アシングトンの戦いでデーン人を撃破します。この勝利は、ウェセックスの存続を決定づける大きな転換点となりました。
2 デーン人との講和とデーンロウの成立
アシングトンの勝利後、アルフレッドはデーン人指導者グスルムと講和を結びます。
この講和は、デーン人に対してイングランド東部の支配を認める代わりに、ウェセックスの安全を保障させるというものでした。
講和の結果、イングランド東部にはデーンロウ(Danelaw)と呼ばれるデーン人法慣習にもとづく地域が成立します。
これにより、イングランドは「デーンロウ地域」と「ウェセックス王国」という二大勢力に分かれ、安定した境界が形成されました。
この分割体制は、一見すると妥協的に見えますが、アルフレッドにとってはウェセックス再建の時間を稼ぐための戦略的講和でした。
3 要塞網(バー)と軍事制度改革
アルフレッドの最も重要な業績のひとつが、要塞網の整備です。
ウェセックス各地に防衛拠点を設置し、一定の距離ごとに要塞都市を置くことで、デーン人の襲撃への迅速な対応を可能にしました。
また、彼は兵役制度を改め、農民が交代で兵役に就く仕組みを整えました。
これにより、農耕の維持と軍事力確保を両立させ、デーン人の再侵入に対する持続的な防衛体制を確立します。
この要塞網は後の王権発展にも大きな役割を果たし、アングロ=サクソン社会の軍事組織を大きく変えた制度として高く評価されています。
4 法律・行政改革と教育復興
軍事面だけでなく、アルフレッドは法と行政の整備にも力を注ぎました。
彼は従来のアングロ=サクソン法を整理し、キリスト教倫理に基づく王の裁治権を強化した「アルフレッド法典」を編纂します。
さらに、修道院・教会を中心に荒廃していた教育制度を再生させ、学者や聖職者を招聘して学問を奨励しました。
聖書や古典の翻訳事業を推進し、ラテン語教育と行政文書の整備を通じて王国全体の知的基盤を高めた点は、近世的な統治能力の萌芽とも評価できます。
5 アルフレッドの改革の意義:統一イングランドへの基盤形成
アルフレッドの戦いと改革は、単にデーン人の侵攻からウェセックスを守るだけでなく、後の「イングランド統一」そのものを準備した点に最大の意義があります。
- 要塞網による防衛体制の確立
- 法と行政の再編
- 教育再建による王権の知的支柱
- デーンロウとの共存による安定
これらの成果は、息子エドワード長兄王や孫アセルスタンの時代に継承され、10世紀に「イングランド王国」という国家が成立する土台となりました。
第3章 イングランド統一への前進 ― エドワード長兄王からアセルスタンへ
アルフレッド大王の死後、ウェセックス王国は彼の改革を引き継ぎながら、デーンロウ地域に対して徐々に優勢を確立していきます。
本章では、アルフレッドの後継者であるエドワード長兄王と、その子アセルスタンによる統一の過程を整理し、どのようにして「イングランド王国」が誕生したのかを見ていきます。
アルフレッドの防衛と制度改革がどのように実際の統一運動へとつながったのかを理解することが、本章の中心テーマです。
1 エドワード長兄王の治世と領土回復の進展
エドワード長兄王(在位899–924)は、アルフレッド大王の改革路線を忠実に継承しながら、軍事的拡大によってデーンロウ地域へ勢力を伸ばしました。
彼は姉のアゼルフレッド(マーシアの女王)と協力して、要塞網をさらに拡大し、マーシアを実質的にウェセックスの同盟圏へ組み込みます。
エドワードの時代には、デーン人支配地域に対する組織的な反攻が進み、ノーサンブリアを除く多くの地域がウェセックスの支配下に戻りました。
この段階で、ウェセックスは単なる一王国ではなく、アングロ=サクソン世界を主導する中心政権に成長します。
2 アセルスタンの即位と「イングランド王」の誕生
エドワードの死後、その子アセルスタン(在位924–939)が王位につきます。
アセルスタンは軍事的才能に優れ、即位後すぐにノーサンブリアを制圧し、イングランド全土を初めて統一しました。
アセルスタンは925年に「全イングランドの王(King of the English)」を名乗り、これが事実上のイングランド王国の成立とされています。
政治的にも、
- 地方への王権伸張
- 法律の整備
- 交易の監督
- 通貨の統一的管理
などを進め、イングランド国家の基礎をさらに固めていきました。
3 ブリテン島全体への影響力拡大 ― ブルナンブルの戦い
アセルスタンの統一は、ブリテン島内の他勢力(スコットランド、ウェールズ、ヴァイキング勢力)にも大きな影響を与えました。
彼の治世で特に有名なのが、937年のブルナンブルの戦いです。
この戦いでは、スコットランド王やアイルランド海域のノルウェー系王国が結束してアセルスタンに挑みましたが、イングランド軍が勝利を収め、島内の覇権を確立しました。
この勝利は「イングランドの独立と統一を守った決戦」として中世史に大きな影響を与えます。
4 統一後の課題とデーン人勢力の再興
アセルスタンの統一は画期的な出来事でしたが、その後のイングランドが常に安定したわけではありません。
10世紀後半、再び北海のヴァイキング勢力が勢いを増し、デンマーク王クヌートの登場へとつながります。
統一王国は誕生したものの、
- 北海世界の勢力図の変動
- 王位継承争い
- 辺境地域(ノーサンブリア)の不安定化
などの問題を抱えており、この統一体制は11世紀初頭に大きく揺さぶられることになります。
ただし、これらの危機の中でも、アルフレッド以来の行政・軍事制度は国家の骨格として維持され、イングランド王権は外圧に耐えるだけの構造を確立していました。
5 アセルスタン統一の意義:イングランド国家の確立
アセルスタンの治世は、イングランド史の中で特に重要な転換点として位置づけられます。
● 国家としての枠組みが確立した
● 王権の島内覇権が認められた
● 統一王国としての初めての国制が整った
これらはすべて、アルフレッド大王の遺産を受け継ぎながら発展させた結果であり、デーン人の侵入という危機が、逆説的にイングランド国家の形成を促したことを示しています。
第4章 クヌート大王とデーン朝支配 ― 北海帝国の成立とそのゆくえ
10世紀末から11世紀初頭にかけて、イングランドは再び北海世界の動乱に巻き込まれます。
ヴァイキング勢力は再活発化し、デンマーク王位をめぐる争いと外征が交錯するなかで、クヌート大王がヨーロッパ北海地域の覇者として台頭しました。
本章では、クヌートのイングランド征服とその後の支配、さらに北海帝国の崩壊までを整理し、デーン朝時代がイングランド史にもたらした意味を見ていきます。
1 デーン人の再侵入とエゼルレッド無為王の動揺
10世紀後半、北海のデーン人勢力は再び外征を強め、イングランド沿岸をたびたび襲撃しました。
この時代のイングランド王エゼルレッド(通称「無為王」)は、軍事的に統制を欠き、高額の賠納金(デーンゲルト)を支払って一時的な和平を買う政策に依存しました。
こうした不安定な対応は国力の消耗を招き、イングランド内部の不満を拡大させる結果となります。
デーン人は賠納金を手にさらに攻勢を強め、再び全土が混乱状態に陥りました。
2 スヴェンの征服戦争とクヌートの台頭
デンマーク王スヴェン(スヴェン1世)は、イングランドへの大規模侵攻を指揮し、1013年にはロンドン以外のほぼ全土を制圧します。
スヴェンの死後、その跡を継いだのが息子のクヌートでした。
当初、イングランド内部ではアングロ=サクソン系の王位復活もありましたが、最終的にクヌートは1016年、王位継承戦争に勝利し、イングランド王として即位します。
クヌートは単なる征服者ではなく、イングランドを安定的に統治する意志と能力を備えた王として知られています。
3 北海帝国の形成 ― デンマーク・ノルウェー・イングランドの統合
クヌートは即位後、デンマーク王位(1019)、ノルウェー王位(1028)も掌握し、デンマーク・ノルウェー・イングランドの三王国を統合する「北海帝国」を形成しました。
この統合は、地中海を中心としたヨーロッパとは異なる北方の政治秩序を生み出し、短期間ながら広域支配のモデルとなりました。
統治政策においてクヌートは
- アングロ=サクソン貴族の登用
- 教会との協調
- 法と秩序の尊重
など、現地社会の伝統を尊重しつつ統治を行いました。
そのため、デーン朝支配は征服王朝でありながら一定の安定を保ち、イングランド内部の抵抗は限定的でした。
4 北海帝国の崩壊とデーン朝の終わり
しかし、クヌートの死(1035年)を境に北海帝国は急速に崩壊します。
後継者たちは王位争いに巻き込まれ、デンマーク・ノルウェー・イングランドの三王国を同時に統治する体制を維持できませんでした。
特にイングランドでは、
- ハロルド・ハレフット
- ハーデクヌーズ
と短命の王が続き、政治の混乱が深まりました。
最終的に1042年、アングロ=サクソン系のエドワード懺悔王が即位し、デーン朝はわずか一代で実質的に終焉します。
5 クヌート支配の意義 ― イングランド国家の成熟と外部統合の影響
クヌートの治世には、征服王朝でありながら統治の安定と行政秩序の維持が見られました。
これによりイングランドは、アングロ=サクソン王統への復帰後も、一定の王権強化と中央集権的性格を保つことができました。
また、北海世界の広域政治が展開されたことで、イングランドは大陸の政治バランスに深く関わるようになり、後のノルマン・コンクエスト(1066)への伏線ともなります。
クヌート支配は短命でしたが、その歴史的意義はイングランド国家形成の過程で無視できない位置を占めています。
第5章 ノルマン・コンクエストへの道 ― アングロ=サクソン王国の終焉
デーン朝の終焉とともにアングロ=サクソン王統が復活したものの、イングランドは内部対立と外部勢力の干渉に翻弄され続けました。
11世紀半ばには王位継承問題が深刻化し、ノルマンディー公ウィリアムがイングランド王位を主張することで、やがて1066年のノルマン・コンクエストへと進んでいきます。
本章では、エドワード懺悔王の治世からハロルド2世の即位、そしてヘイスティングズの戦いまでの道のりを整理し、アングロ=サクソン時代がどのように終焉したのかを見ていきます。
1 エドワード懺悔王の即位とアングロ=サクソン王統の復活
1042年、クヌートの死後の混乱を経て、アングロ=サクソン系のエドワード懺悔王が即位しました。
これはイングランドにおける民族王統の「復活」を意味しますが、実際の統治はそれほど安定したものではありませんでした。
エドワードはノルマンディーで育ち、ノルマン貴族とのつながりが深かったため、イングランド国内では
- ノルマン系貴族の台頭
- 在来貴族(ゴドウィン家)との対立
が激しくなり、政治基盤は弱体化していました。
この内部対立こそが、後の「王位継承問題」を複雑化させ、ウィリアムの介入を招く要因となります。
2 王位継承問題と国内の権力抗争
エドワード懺悔王には実子がいなかったため、死後の王位継承は不透明なままでした。
伝えられるところによれば、エドワードはノルマンディー公ウィリアムに王位継承を示唆したともされ、一方で国内の有力貴族であるハロルド・ゴドウィンソン(後のハロルド2世)が王位を主張しました。
この段階で、王位をめぐる争いは
- ノルマンディー公ウィリアム
- ハロルド・ゴドウィンソン
- ノルウェー王ハーラル3世
と複数勢力が絡む国際問題へと発展していきます。
3 ハロルド2世の即位と対外危機
1066年1月、エドワード懺悔王の死により、ハロルド・ゴドウィンソンがイングランド王(ハロルド2世)として即位しました。
しかしこの即位はウィリアムにとって「不当」と映り、ノルマンディーからの遠征を正当化する口実となりました。
また同年9月にはノルウェー王ハーラル3世が北部から侵入し、ハロルドはスタンフォード・ブリッジの戦いでこれを撃退します。
しかし、連戦により疲弊した状態で、次に直面するのがノルマン軍の本格的な上陸でした。
4 ヘイスティングズの戦いとアングロ=サクソン王国の崩壊
1066年10月、ウィリアム率いるノルマン軍がイングランド南部に上陸し、ハロルド2世の軍と衝突します。
これが歴史に名高いヘイスティングズの戦いです。
戦いは一日で決着し、ハロルド2世は戦死、イングランド軍は敗北しました。
勝利したウィリアムはロンドンへ進撃し、同年12月にイングランド王として戴冠します。
こうして、アングロ=サクソン時代は決定的に終わりを迎えました。
5 ノルマン・コンクエストの意義 ― イングランド国家の新たな転換点
ノルマン・コンクエストは、イングランド史上最大の転換点の一つです。
● ノルマンディー貴族の封建制度が導入され、社会構造が再編
● 王権が大陸の政治文化と結びつき、中央集権化が進展
● 土地制度・行政組織・法律などに大幅な変化
● ブリテン島と大陸ヨーロッパの関係が強固に連結
これらの変化は、アングロ=サクソン的伝統の上にノルマン要素が重なり、イングランド王国が中世ヨーロッパ世界の一員として再編される契機となりました。
第6章 デーン人の侵入がもたらした歴史的意義 ― 危機から誕生したイングランド国家
本章では、8〜11世紀のデーン人侵入からノルマン・コンクエストに至るまでの大きな流れを総括し、イングランド国家形成がどのような歴史的必然の中で進んだのかを考察します。
デーン人という外圧が、アングロ=サクソン王権の再建と変質を促し、結果として「イングランド」という国家像を形づくる契機になった点が本章の中心テーマです。
1 外圧が生んだ統治改革 ― アルフレッド大王の遺産
デーン人の侵入は、アングロ=サクソン王国にとって破滅的な危機でしたが、この外圧こそが改革を促す原動力となりました。
アルフレッド大王が実施した防衛体制(要塞網)、軍制、法と教育の整備は、単なる戦時対策にとどまらず、統治の再構築へと発展しました。
これらの制度は後継者によって継承され、ウェセックス王権が「島内で最も組織化された政権」へ成長する基盤となりました。
外敵を前にして強化された国家機構が、10世紀の統一へつながったことは、イングランド史上の重要な転換点です。
2 統一イングランドの成立と島内政治秩序の変化
エドワード長兄王からアセルスタンに至る過程で、ウェセックスを中心とする新しい権力構造が固まり、イングランド全土が統一されました。
統一王国の成立は次のような変化をもたらしました。
● 王権の地理的拡大と法的正統性の強化
● ノーサンブリアを含む島内諸勢力の統合
● 統一国家としての外交主体化
アルフレッドの改革は、この統一国家の成立を可能にした土台であり、デーン人侵入が逆説的に国家形成を加速させたと言えます。
3 北海世界との連結 ― クヌート大王と地域統合の実験
11世紀前半のクヌート大王による三王国支配は、イングランドが北海世界の広域政治に組み込まれた例として極めて重要です。
クヌートは、支配地の伝統を尊重しながら安定した統治を行い、大陸と島を跨ぐ新たな王権モデルを示しました。
北海帝国は短命に終わりましたが、イングランドはこの経験を通じて、ヨーロッパ北部政治の中心的プレイヤーとしての地位を確立し始めました。
4 ノルマン・コンクエストへの連続性 ― アングロ=サクソン国家の限界
アセルスタンの統一以降も、イングランドは王位継承問題や地方勢力の不安定さを抱えており、デーン朝崩壊後には国内の対立が再燃しました。
その結果、ノルマンディー公ウィリアムの介入が可能となり、1066年のノルマン・コンクエストが実現します。
ここには「外圧が国家形成を促す」という構図が再び現れており、デーン人侵入とノルマン征服は、どちらもイングランド社会に大きな構造変化をもたらした点で連続しています。
5 デーン人侵入の歴史的意義 ― 危機が国家を生んだ
デーン人の侵入は、破壊と混乱をもたらしただけではありません。
その背後には、次のような歴史的意義がありました。
● アルフレッド大王による「改革的君主像」の誕生
● 防衛体制の整備による王権の強化
● 統一国家への道筋の形成
● 北海世界との連結による政治的視野の拡大
● 国家構造を再編し、11世紀以降の「イングランド型王権」へつながったこと
こうした一連の変化は、危機の連続がイングランド国家を強靭にし、のちに強固な王権国家へと発展する道を開いたことを示しています。
入試で狙われるポイントと頻出問題演習
入試では、知識の暗記だけでなく因果関係や歴史的意義を論理的に説明できるかが問われます。
ここでは論述・正誤問題に挑戦しながら理解を定着させ、最後に入試で狙われる重要ポイントをまとめます。
論述問題1
デーン人の侵入がアングロ=サクソン社会に与えた影響と、アルフレッド大王が実施した改革の意義を述べよ。
【解答例】
デーン人の大規模侵入は、北部・中部の王国を崩壊させ、ウェセックスのみが抵抗可能な状況となった。アルフレッド大王はゲリラ戦で反撃し、アシングトンで勝利した後、要塞網整備や兵役制度改革、法と教育の再編を行った。これにより王権と行政組織が強化され、後のイングランド統一の基盤が形成された。
論述問題2
アセルスタンが「全イングランド王」を名乗るに至った背景と、その意義を述べよ。
【解答例】
アセルスタンは父エドワード長兄王の領土回復を継承し、ノーサンブリアを制圧することで全イングランドを統一した。その背景にはアルフレッド以来の要塞網や行政制度の整備があった。統一後、アセルスタンは法令整備や貨幣統制を進め、王権の島内覇権を確立した。この統一はイングランド国家成立の画期を示す。
論述問題3
クヌート大王の北海帝国が短命に終わった理由と、その歴史的意義を述べよ。
【解答例】
北海帝国はクヌートがデンマーク・ノルウェー・イングランドを掌握して成立したが、広域支配には複数拠点の調整と後継者の強力な統治が必要であった。クヌートの死後、後継者が相次いで短命で、内紛により帝国は維持できなかった。しかしクヌート統治によりイングランドは北海世界と連結し、王権の行政的成熟が進んだ点で大きな意義をもつ。
問1
デーン人の大侵入は8〜9世紀に活発化し、特に修道院が略奪の標的となった。
解答:〇 正しい
🟦【解説】
デーン人は富の集中する修道院を繰り返し襲撃し、沿岸社会に大きな衝撃を与えた。
問2
グレート・ヒースン・アーミーは略奪目的の小規模部隊で、定住を試みることはなかった。
解答:× 誤り
🟦【解説】
彼らは大規模な軍団で、定住と支配を目的としアングロ=サクソン諸王国を征服した。
問3
アルフレッド大王はアシングトンの戦いでデーン人を破り、ウェセックスを存続させた。
解答:〇 正しい
🟦【解説】
878年の勝利でウェセックスは消滅の危機を脱した。
問4
デーンロウはウェセックス直轄地として統治され、デーン人の法は認められなかった。
解答:× 誤り
🟦【解説】
デーンロウはデーン人法が用いられる定住地域で、ウェセックス直轄ではない。
問5
エドワード長兄王とアゼルフレッドは協力し、デーン人勢力に反攻して領土回復を進めた。
解答:〇 正しい
🟦【解説】
姉弟協力の体制が反攻成功の背景となった。
問6
アセルスタンの統一はノーサンブリア制圧により達成された。
解答:〇 正しい
🟦【解説】
ノーサンブリア服属が全イングランド支配完成の根拠となる。
問7
クヌート大王はイングランド征服後、アングロ=サクソン貴族を排除してデーン人のみを登用した。
解答:× 誤り
🟦【解説】
在来貴族を重用し安定統治を行った。
問8
北海帝国は後継者争いによって急速に崩壊した。
解答:〇 正しい
🟦【解説】
クヌートの死後、長期統合は維持できなかった。
問9
エドワード懺悔王はノルマン系貴族との関係が強く、国内政治の不安定化を招いた。
解答:〇 正しい
🟦【解説】
ノルマン派と在来派の対立が王権を揺るがせた。
問10
1066年のヘイスティングズの戦いで勝利したのはハロルド2世であり、アングロ=サクソン王統は維持された。
解答:× 誤り
🟦【解説】
勝利したのはウィリアム1世で、アングロ=サクソン時代は終焉した。
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