ランカスター朝/ランカスター家とは?

当サイト「もう一度、学ぶ」は、Amazonのアソシエイトとして、適格販売により収入を得ています。また、A8.netなど他のアフィリエイトプログラムを利用しており、当サイト内のリンクを通じて商品を購入した場合、報酬を得ることがあります。

ヨーク朝と並び、15世紀イングランド政治史の象徴ともいえるのがランカスター朝(ランカスター家)です。

エドワード3世の子孫であるジョン・オブ・ゴーントの系統から誕生したこの王朝は、百年戦争後期の混乱と財政危機、そして王権をめぐる貴族勢力とのせめぎ合いの中でイングランドを統治しました。

特に第2代ヘンリ5世はアジャンクールの戦いでフランス軍に大勝し、一時はフランス王位継承権を獲得するほどの勢力を誇りました。

しかし、その栄光は長く続かず、幼くして王位に就いたヘンリ6世の治世では王権が弱体化し、封建貴族間の対立が激化。やがてイングランドはバラ戦争という内乱へと突入していきます。

ランカスター朝の歩みは、繁栄と衰退、そして王家の正統性がいかに政治と戦争によって揺らぎうるかを示す象徴的な歴史です。

本記事では、ランカスター朝成立の背景、主要な王たちの特徴、百年戦争との関連、そしてバラ戦争への道筋を整理しながら、イングランド史におけるその役割をわかりやすく解説します。

目次

序章 ランカスター朝を俯瞰するチャート

ランカスター朝は、エドワード3世の第三王子ジョン・オブ・ゴーントの家系から成立し、百年戦争後期の栄光と衰退、さらにバラ戦争を経てテューダー朝へと受け継がれました。

以下のチャートは、王家の血統関係・治世・主要出来事を整理し、ランカスター家の歴史の流れをひと目で理解できるようにまとめています。

エドワード3世
 │
 ├── ジョン・オブ・ゴーント(ランカスター家の祖)
   │
   └── ヘンリ4世(1399-1413)
     ・リチャード2世を廃位して即位(議会承認)
     ・内乱鎮圧と財政難に苦しむ
     ↓
     ヘンリ5世(1413-1422)
     ・百年戦争後期の主導者
     ・1415 アジャンクールの戦いで大勝
     ・1420 トロワ条約→フランス王位継承権獲得
     ↓
     ヘンリ6世(1422-1461/1470-1471)
     ・幼少即位→摂政政治
     ・百年戦争で敗北(カレーのみ保持)
     ・精神不安→王権弱体化
     ↓
【バラ戦争(1455〜)】
 ・ランカスター家(赤バラ) vs ヨーク家(白バラ)
 ↓
1461 ヨーク家のエドワード4世即位→ランカスター朝崩壊
 ↓
1470 一時復位(ヘンリ6世 Readeption)
 ↓
1471 エドワード4世再奪回→ランカスター朝正式消滅
 ↓
唯一の生存者:ヘンリ・テューダー(ランカスター系)
 ↓
1485 ボズワースの戦い→リチャード3世を破り即位
 ↓
【テューダー朝成立(ヘンリ7世)】
 ・ヨーク家のエリザベスと結婚
 ・赤+白=チューダー・ローズ(和解と統合の象徴)

第1章 ランカスター朝の成立 ― 王位簒奪から始まる王朝

ランカスター朝は、正統な血統に基づく継承ではなく、政治的承認と武力によって成立した王朝でした。

そのため、誕生の瞬間から「王位の正統性」という問題を抱え続けることになります。

この章では、リチャード2世の退位とヘンリ4世の即位を軸に、王朝誕生の背景と意味を整理します。

1-1 リチャード2世の政治不安と権威低下

14世紀末、イングランド王リチャード2世は、王権強化を目指す一方で貴族層との対立を深めていきました。

専制的な政治手法、側近政治への依存、重税政策などが重なり、彼の統治はしだいに支持を失っていきます。

その結果、リチャード2世の権威は形式的には王であっても、政治的には孤立した存在となり、王位は不安定化していました。

1-2 ヘンリ・ボリングブルックの帰国と政権掌握

この状況を利用したのが、エドワード3世の第三王子ジョン・オブ・ゴーントの息子、ヘンリ・ボリングブルック(後のヘンリ4世)です。

ヘンリは亡命先から戻ると、武力と貴族層の支持を背景にリチャード2世を退位させ、議会の承認を得て即位しました。

ここで重要なのは、即位が血統順位ではなく「政治による承認」を基盤としていた点です。この出来事は、イングランド王権の性質が変わり始めたことを象徴しています。

1-3 王権正統性問題の始まり

ヘンリ4世の即位は成功のように見えましたが、その背後には常に問題が残りました。

それは、王権が「継承の権利」ではなく「奪取と承認」によって得られたという事実です。

そのため、ランカスター朝の王権には終始以下の不安定要素がつきまといました。

  • ヨーク家との継承順位問題
  • 貴族層の支持の揺らぎ
  • 王権が議会承認によって成立したという前例

これらは後に、バラ戦争へとつながる火種となります。

第2章 ヘンリ5世とランカスター朝の最盛期 ― 栄光のアジャンクール

ランカスター朝の中で、最も輝きを放った王として語られるのが第2代国王ヘンリ5世です。

彼の治世(1413〜1422)は、百年戦争後期のイングランドにとって大きな転換点となり、国内政治と対外戦争の両面で強い統率力を発揮しました。

2-1 内政の安定と王権の強化

ヘンリ5世は即位直後から王権強化に取り組み、父ヘンリ4世時代に残った反乱や内政不安を短期間で沈静化させました。

宗教面ではロラード派と呼ばれる異端思想に対して厳しい措置を取り、国内の統一を維持。さらに、議会との協調を保ちながら、戦争遂行に必要な財政基盤を整備し、貴族層からの信頼回復にも成功しました。

その統率力は、イングランドが再びフランスとの戦争に踏み切る際の大きな支えとなります。

2-2 アジャンクールの勝利

ヘンリ5世の名を世界史に刻んだ出来事が、1415年のアジャンクールの戦いです。

兵力では劣勢であったイングランド軍は、重装騎士を中心としたフランス軍に対し、ロングボウ(長弓隊)を駆使した戦術を展開して大勝。

フランス貴族社会の軍事的弱点を露呈させたこの勝利は、百年戦争史だけでなく中世軍事史全体の転換点として高く評価されています。

この勝利によって、イングランドは再びフランス領土の大部分を掌握し、外交的地位を大きく高めました。

2-3 トロワ条約とフランス王位継承権

ヘンリ5世の支配は軍事力だけではなく外交力にも裏付けられていました。

その象徴が1420年のトロワ条約です。

この条約により、イングランド王はフランス王の正式な後継者と認められ、フランス王女カトリーヌとの結婚を通じ、両国統合の可能性さえ生まれました。

つまり、この時点でランカスター朝はヨーロッパ政治の中心に位置し、「イングランドとフランスの二重王権」を実現しかけていたのです。

ヘンリ5世は在位わずか9年で死去しますが、その影響力は計り知れません。

彼の治世はランカスター朝の絶頂期であり、同時に後の混乱の伏線でもありました。

なぜなら、王権の栄光は「強い王の死後、弱い王が継ぐことで崩れる」という中世政治の典型的な危機を生むことになるためです。

第3章 ヘンリ6世の時代 ― 王権の弱体化と内乱への道

ヘンリ5世の死後、1422年に即位したヘンリ6世は幼少期に王位を継いだこともあり、政治的手腕を発揮する機会がほとんどありませんでした。

彼の治世は、ランカスター朝の栄光が崩れ去り、やがて国家が内戦へと引きずり込まれていく過程と重なります。

3-1 幼少即位と摂政政治

ヘンリ6世は即位時、生後わずか9か月。

統治は摂政によって行われましたが、宮廷内では派閥抗争が激化し、政治は安定から遠ざかっていきました。

ヘンリ6世自身は温厚で信仰心の深い人物でしたが、政治判断や軍事指導力に乏しく、王としての求心力を築けませんでした。

この弱い統治基盤は、後に諸侯間の対立を加速させる原因となります。

3-2 百年戦争の敗北と国威の失墜

ヘンリ5世が築いたトロワ条約による優位は長く維持されませんでした。

ジャンヌ=ダルクの登場を契機にフランス軍が反撃を強め、イングランドは徐々に劣勢へと追い込まれます。

最終的に1453年、フランス領はカレーを除いてすべて喪失し、百年戦争は事実上の敗北で終わりました。

この敗北は、軍事的損失だけでなく、国威の低下・財政難・貴族層の不満を一気に深刻化させました。

3-3 精神不安と政治的空白

戦争の失敗や国内混乱の中で、ヘンリ6世は精神的な疾病を発症し、一時政務不能となりました。

こうした状況のなか、国政を主導する勢力として台頭したのが、エドワード3世の四男系を継ぐヨーク家(ヨーク公リチャード)です。

ヨーク家は、ランカスター家に匹敵する王位継承権と軍事力を有しており、次第に政治主導権をめぐる対立が激化していきました。

3-4 バラ戦争の勃発

こうして、弱体化した王権を中心にランカスター家とヨーク家が対立し、1455年にバラ戦争(薔薇戦争)が始まります。

ランカスター家は赤いバラ、ヨーク家は白いバラを象徴とし、この内戦は数十年にわたってイングランドを混乱させることになります。

ヘンリ6世の時代は、王としての資質不足だけでなく、国際情勢や封建貴族の力関係など複合的な要因が重なり、王権と国家が崩れていく過程を象徴しています。

第4章 ランカスター朝の崩壊とテューダー家への継承

バラ戦争が激しさを増すなかで、ランカスター朝は次第に劣勢に立たされていきます。

政治基盤の弱さ、軍事的敗北、そして諸侯の支持喪失は、王朝崩壊への流れを止めることができませんでした。

最終的にランカスター朝は一度滅びますが、その血統はのちにテューダー朝へと受け継がれ、イングランド史に新たな時代を切り開くことになります。

4-1 ヨーク家の勝利とエドワード4世の即位

1455年に始まったバラ戦争では、初期こそランカスター派が反勢力を抑えましたが、ヘンリ6世の統治能力不足はしだいに致命的となりました。

一方、ヨーク家は軍事力と政治能力を兼ね備えた指導者を擁し、王権奪還の体制を整えます。

1461年、ヨーク派のエドワード4世がロンドンに入り即位すると、ランカスター朝は事実上崩壊しました。

ヘンリ6世は幽閉され、政権はヨーク家へ移行します。

4-2 一時的な復権 ― “ランカスターの余命”

しかし、ランカスター勢力は完全には消滅しませんでした。

1470年、かつてヨーク家を支援していた有力貴族ウォリック伯が反旗を翻し、王位は一時的にヘンリ6世へと戻ります。

この出来事は「再戴冠(Readeption)」と呼ばれ、ランカスター勢力最後の抵抗となりました。

しかしながら、この復権は長続きせず、翌年エドワード4世が巻き返し、ヨーク家が再び支配権を回復。ヘンリ6世はロンドン塔で死亡し、ここにランカスター朝は正式に滅亡しました。

4-3 ヘンリ・テューダーの生存と希望の継承

ランカスター家が滅びた後、その血統を継ぐ者がただ一人残りました。

それがウェールズに逃れて生き延びたヘンリ・テューダーです。

彼は直接の王位継承順位こそ高くありませんでしたが、ランカスター派の唯一の象徴として支持を集め、亡命先で次の機会をうかがいます。

その機会が訪れたのは1485年。

ヘンリ・テューダーは軍を率いて帰国し、ボズワースの戦いでヨーク朝のリチャード3世を討ち破りました。この勝利によって彼はヘンリ7世として即位し、テューダー朝を開きます。

さらに、ヘンリ7世はヨーク家の血統を引くエリザベスと結婚し、赤と白のバラを組み合わせた「チューダー・ローズ」を王家の象徴としました。

これは、長く続いた内乱を収め、国家統合を象徴する政策でもありました。

ランカスター朝は最終的に滅亡しましたが、その血統は新たな王朝として復活し、やがてイングランド国家の近世的統治体制へとつながっていきます。

続く章では、ランカスター朝が果たした歴史的役割と、その政治的・社会的意義を整理していきます。

第5章 ランカスター朝の歴史的意義 ― 王権・議会・戦争の転換点

ランカスター朝は約80年と決して長い王朝ではありませんでしたが、その歩みはイングランド史に大きな変化をもたらしました。

王権の正統性、議会の役割、そして戦争と国家の在り方など、多くの重要な歴史的テーマがこの時期に交差しています。

ランカスター朝の意味を整理することは、中世イングランドがどのように近世国家へ移行したかを理解することにつながります。

5-1 “血統ではなく政治による王権”という新しい基準

ヘンリ4世の即位は、血統よりも政治的承認(議会の同意と武力)が王権を形成しうることを示した出来事でした。

この点は、単純な王位簒奪ではなく、「政治的正統性の誕生」とも評価できます。

これは後のテューダー朝・ステュアート朝における王権論争、さらには17世紀のピューリタン革命へと連続する、王権の限定・議会の権威の拡大という流れの起点でもあります。

5-2 百年戦争の転換とイングランド国家意識の形成

ランカスター朝期は百年戦争の後期にあたり、ヘンリ5世によるアジャンクールの勝利は軍事的栄光として語られます。

しかしその後の敗北と撤退は、イングランドがフランス支配への野望を失い、海外領土国家から島国基盤型国家へ回帰する転換点となりました。

この経験は、外部征服よりも国内統治を優先する政治観を育て、イングランド人としてのアイデンティティ形成を進めたとも評価されています。

5-3 封建貴族社会の崩壊と中央集権への伏線

バラ戦争は単なる王家同士の争いではなく、封建貴族が各自の軍事力と私兵団を動員して戦った内乱でした。

その結果、多くの大貴族が没落し、封建的権力構造は弱体化していきます。

この「貴族の弱体化」は、のちにテューダー朝が強力な中央集権国家を築くための前提条件となりました。

つまりランカスター朝の混乱は、結果として中世封建社会の終焉を早める役割を果たしたのです。

5-4 象徴としての“赤いバラ”と記憶される王朝

ランカスター朝は国家としての統治体制だけでなく、後世の歴史文化にも強い象徴を残しました。

赤バラを紋章としたランカスター家は、白バラのヨーク家とともに「バラ戦争」という名称の由来となり、後世の文学・演劇作品(特にシェイクスピア)で 劇化され、歴史上特別な存在として記憶されています。

ランカスター朝は、繁栄と衰退、戦争と内乱、王権の確立と崩壊が凝縮された王朝でした。

その短い歴史の中で、イングランド社会は中世的王権から近世的統治体制へと向かう転換点を経験し、その後のテューダー朝・イングランド国民国家の成立へと道筋がつながっていきます。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次