ヴェルダン条約とは― カロリング帝国を三分した孫たちの争い

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ヴェルダン条約は、843年にカロリング家の三兄弟が祖父カール大帝の帝国を三分した条約です。

この出来事は、ヨーロッパ史における「統一から分裂」への転換点であり、フランク王国の終焉と中世ヨーロッパの幕開けを告げる重大な分水嶺となりました。

当時、カール大帝の死後にその広大な帝国は後継者争いによって分裂し、843年、孫たち――ロタール・ルートヴィヒ・シャルルがヴェルダンで講和に至ります。

この条約によって帝国は、西フランク・東フランク・中部フランクの三王国に分割され、それぞれが後のフランス・ドイツ・イタリアの原型となっていきました。

この分裂は単なる家族内の相続争いではなく、「ローマ的伝統」「ゲルマン的地方分権」「キリスト教的普遍主義」という三つの政治理念の対立が顕在化した結果でもありました。

それゆえヴェルダン条約は、後世のヨーロッパ秩序に長く影響を及ぼした出来事として位置づけられます。

一方、この後に結ばれるメルセン条約(870年)は、ヴェルダン条約で分けられた領土を再分割し、ヨーロッパの分裂を「確定」させたものです。

本記事では、まずヴェルダン条約の経緯とその意義を中心に整理し、次の記事でメルセン条約との違いを明確にしていきます。

目次

序章 フランク王国からヨーロッパ分立へ ― カロリング帝国の盛衰を俯瞰する

フランク王国の歩みは、ヨーロッパ中世の出発点ともいえる壮大な歴史の流れです。

西ローマ帝国滅亡後、混乱するヨーロッパにおいて、ゲルマン人の一部族にすぎなかったフランク人がやがて「ヨーロッパの秩序」を担う存在へと成長していきました。

その過程では、王と教皇の結びつき、異教からの改宗、イスラームとの対決、そして文化の復興と帝国の分裂といった、数々の歴史的転換点が重なります。

これらの出来事は、単なる年代の連なりではなく、「信仰」「権力」「文化」「領土」というテーマが交錯する壮大な歴史のドラマでした。

【フランク王国の歩み:481〜870年】

【ローマの遺産とゲルマンの再編】

476 西ローマ帝国滅亡 → ゲルマン諸王国が乱立

481 クローヴィスがフランク王国を統一(メロヴィング朝成立)

496 クローヴィスの改宗(アタナシウス派) → 教会と結合

王権は分割相続で弱体化 → 宮宰が台頭

【カロリング家の興隆とイスラーム防衛】

732 トゥール・ポワティエ間の戦い
→ カール=マルテルがイスラーム軍を撃退

751 ピピン(小ピピン)が教皇の承認で王に即位 → カロリング朝誕生

754 教皇ステファヌス2世がピピンを聖別、寄進を約束
756 ピピンの寄進 → 教皇領成立

【カール大帝の帝国】

768〜814 カール大帝、ヨーロッパ西部を統一

800 カール戴冠(ローマ教皇レオ3世)
→ 「西ローマ帝国の復興」を象徴

カロリング=ルネサンス(文化復興・統治体制整備)

【帝国の分裂と中世秩序の萌芽】

814 カール死去 → 後継争い

843 ヴェルダン条約(帝国を三分割)
→ 西・中・東フランク王国に分裂

870 メルセン条約 → 中部フランク王国の再分割
→ フランス・ドイツ・イタリアの原型形成

このように、フランク王国の歴史は「統一と分裂」の繰り返しでした。

ピピンの寄進によって教皇と王権が結びつき、カール戴冠によって帝国の威信が高まった一方で、その後のヴェルダン条約では、その帝国が孫たちの手で三つに分かれるという皮肉な結末を迎えます。

本記事では、そのヴェルダン条約(843年)を中心に、なぜ帝国が分裂へと向かったのか、そしてそれが後のヨーロッパにどんな形で受け継がれたのかを見ていきます。

🔗 関連記事:
フランク王国の興亡|クローヴィスの改宗からカール大帝、そして帝国分裂までの軌跡(基幹記事)

第1章 カロリング帝国の相続と分裂の始まり

ヴェルダン条約は、カール大帝の死後に始まった相続争いの果てに結ばれました。

当初、カロリング家は「神から与えられた統一帝国」を理念としていましたが、現実には相続慣習・領主勢力・地方文化の差異がそれを分断していきます。

この章では、三兄弟がどのようにして対立へ至ったのか、その過程をたどります。

1. カール大帝の遺産 ― あまりにも広すぎた帝国

カール大帝(在位768〜814)は、西ヨーロッパのほぼ全域を統一し、ローマ教皇から戴冠されて「西ローマ帝国の復興」を果たしました。

しかし、その死後に残されたのは、フランス・ドイツ・イタリアにまたがる広大すぎる帝国でした。

この広さが、彼の死後の最大の問題になります。

  • 地方ごとに言語・慣習・法が異なり、統一支配が困難。
  • 経済や文化の中心も分散しており、帝国を一人で治めるのは非現実的。
  • 加えて、カロリング家にはゲルマン的な「分割相続」の慣習があった。

つまりカール大帝の理想と、現実の政治構造は矛盾していたのです。

2. ルートヴィヒ敬虔王の試み ― 理想の継承と現実の壁

カール大帝の死後、814年、息子ルートヴィヒ1世(敬虔王)が帝位を継ぎます。

彼は父の遺志を継いで帝国統一を維持しようとしましたが、敬虔な性格ゆえに修道士の影響を強く受け、政治的には優柔不断でした。

さらに、ルートヴィヒは息子たちへの配慮から次々と領地を分け与え、これが家族間の不信と争いを生みます。

特に、後妻ユディトが産んだ末子シャルル(禿頭王)への領地分与が、兄たちの反発を招きました。

3. 三兄弟の対立 ― 家族の絆が帝国を裂く

ルートヴィヒの死後、帝位をめぐって争ったのが三兄弟です。

名称統治予定地のちの国特徴
ロタール1世帝国中央部(イタリアを含む)中部フランク王国皇帝位を主張し、「普遍的帝国」を維持したい立場
ルートヴィヒ2世(ドイツ人王)東部東フランク王国ドイツ系貴族と連携し、地方支配を強化
シャルル2世(禿頭王)西部西フランク王国ローマ教皇・ガリア諸侯の支持を得る

ロタールが「全帝国の正統後継者」を主張したのに対し、他の二人は「自領の独立」を目指して反発しました。

その結果、帝国は「統一の理念」vs「地方の現実」という構図で真っ二つに割れます。

4. フォンテノワの戦い(841年) ― 兄弟の内戦

843年の条約に先立ち、841年に行われたフォンテノワの戦いは、ロタール軍とシャルル・ルートヴィヒ連合軍の間で行われた悲惨な内戦でした。

この戦いは、同族同士が十数万の兵を動員し、フランク史上最も血を流した戦いといわれます。

勝利したのはシャルル・ルートヴィヒ連合側でしたが、もはや「統一帝国」の理念は完全に失われていました。

ここで兄弟たちはようやく現実を受け入れ、843年、ヴェルダンに集まって「平和的分割」を話し合うことになります。

5. 条約への道 ― 帝国統一の終焉

ヴェルダンでの会談は、事実上の帝国分割協定でした。

ロタールには中央部(イタリア・ロレーヌ)、ルートヴィヒには東部(ドイツ方面)、シャルルには西部(フランス方面)が割り当てられ、それぞれが独立王国として統治することが正式に認められました。

この決定によって、カロリング帝国は名実ともに崩壊。

フランク王国という「統一体」は失われ、ヨーロッパは三つの国家ブロックへと分かれていくことになります。

まとめ:理念から現実へ ― カロリング家の宿命

ヴェルダン条約は、「一つの帝国」という理念が、現実の政治・地理・文化的条件に押しつぶされた瞬間でした。

それは兄弟の争いであると同時に、ヨーロッパが多元的な国家群として歩み始める契機でもありました。

次章では、条約によって成立した三王国の構造と、それぞれが後のフランス・ドイツ・イタリアの形成にどうつながるのかを見ていきます。

第2章 三王国の成立とヨーロッパ分立のはじまり

843年のヴェルダン条約は、単なる相続協定ではなく、ヨーロッパの地政図を決定づける画期的な出来事でした。

この章では、三王国がどのように分割され、それが後のフランス・ドイツ・イタリアの成立にどう結びついたのかを整理します。

1. ヴェルダン条約の内容 ― 帝国を三つに裂く決定

ヴェルダン条約は、カロリング帝国を西・中・東の三部分に分ける協定でした。

この分割は単に地理的な線引きではなく、政治・文化・言語圏の分離を意味していました。

領域現代の国での位置づけ特徴
ロタール1世中部フランク王国(イタリア北部〜ローヌ・ライン間)ベネルクス・北イタリア皇帝号を保持。中間地帯での統治は困難。
ルートヴィヒ2世(ドイツ人王)東フランク王国ドイツ・オーストリア方面ゲルマン文化圏。地方諸侯が力を持つ。
シャルル2世(禿頭王)西フランク王国フランス西部ラテン文化圏。ガリア系貴族の影響大。

この分割により、帝国の中央軸が完全に分断され、三国はそれぞれ独自の政治構造・文化圏を形成していくことになります。

2. 中部フランク王国の難しさ ― 地理的にも理念的にも“挟まれた帝国”

ロタール1世の治めた中部フランク王国は、イタリア北部からローヌ・ライン流域にまたがる、南北に細長い領域でした。

この地域は「ローマの遺産」を象徴する中心地(アーヘン・ローマなど)を含んでいましたが、一方で東西からの圧力を常に受け、地理的にも政治的にも極めて不安定でした。

  • 東フランク王国(ドイツ)が軍事的優位を持つ
  • 西フランク王国(フランス)が文化・経済の中心を握る
  • 中部は交通の要衝だが、まとまった国民基盤を欠く

この「中部の不安定性」は後にロタールの死とともに顕在化し、ついに870年のメルセン条約で再分割されることになります。

こうして中部フランクは消滅し、その領土は東西に吸収されました。

3. 西フランク王国 ― フランスへの道

西フランクを治めたシャルル禿頭王は、カロリング家の中でも教皇や司教など宗教勢力との関係を重視しました。

ローマ的伝統を継ぎつつ、封建的な貴族層の力を取り込み、のちのフランス王国の原型を形づくっていきます。

  • ラテン語・俗ラテン語(ロマンス語)が定着
  • 教会文化の中心がパリ周辺へ移動
  • 封建領主の連合体として王権が限定的に存在

これが後のカペー朝国家形成への遠い出発点となります。

4. 東フランク王国 ― ドイツ国家の萌芽

一方、ルートヴィヒ2世の東フランク王国は、ゲルマン的伝統を強く残し、王権よりも地方諸侯・修道院の権力が大きな構造でした。

特にザクセン・バイエルンなどの地方勢力が台頭し、後の神聖ローマ帝国の基盤を形成します。

ルートヴィヒ以後の王たちは「ローマ皇帝」の称号を再び継承しようとし、その流れはオットー1世(962年の戴冠)へとつながります。

5. ヨーロッパ分立のはじまり ― 「国民国家」への第一歩

ヴェルダン条約は、結果的にヨーロッパを三つの文化圏へと分けました。

領域支配原理文化・言語後の展開
西フランク教会と貴族の均衡ラテン・ロマンス語フランス王国の形成
中部フランク皇帝権の名目維持多言語・混成分裂・吸収(メルセン条約)
東フランク地方諸侯の連合ゲルマン語系ドイツ・神聖ローマ帝国へ

つまりヴェルダン条約は、「統一帝国の崩壊」というよりも、多様な地域国家の誕生を意味していました。

カール大帝の築いた「普遍的帝国」は終わりましたが、その瓦解の中から、近代ヨーロッパの原型が芽生え始めたのです。

まとめ:ヴェルダン条約が残した二つの遺産

ヴェルダン条約は、

  1. 政治的にはフランク王国の分裂を確定させ、帝国の統一を終焉させた。
  2. 歴史的には、フランス・ドイツ・イタリアの起源を生んだ。

この「分裂の始まり」は同時に「国家の始まり」でもありました。

そして不安定な中部フランク王国が崩れることで、その分裂はメルセン条約(870年)によって決定的となります。

第3章 入試で狙われるポイントと正誤問題+論述問題演習

入試で狙われるポイント

  • 843年にカロリング帝国を三分した条約であること。
  • 三兄弟(ロタール・ルートヴィヒ・シャルル)の領域と特徴を正確に区別できるか。
  • 中部フランク王国(ロタール領)が不安定で、後のメルセン条約につながる点。
  • 「フランス」「ドイツ」「イタリア」の原型形成としての意義を理解しているか。
  • 「帝国の崩壊」=「ヨーロッパの多様化・地域化の始まり」という二面性。

正誤問題(10問)

問1
ヴェルダン条約は、カール大帝の子どもたちによって結ばれた。
解答:✕ 誤り

🟦【解説】
結んだのは孫たち(ロタール1世・ルートヴィヒ2世・シャルル2世)。
カール大帝の息子ルートヴィヒ敬虔王の死後に発生した相続争いの結果。

問2
ヴェルダン条約は、カロリング帝国を三分した協定である。
解答:〇 正しい

問3
西フランク王国を支配したのはロタール1世である。
解答:✕ 誤り

🟦【解説】
西フランクはシャルル(禿頭王)が統治。ロタールは中部フランク王国を得た。

問4
東フランク王国はゲルマン系諸侯を基盤とし、後にドイツへと発展した。
解答:〇 正しい

問5
ロタール1世は皇帝位を保持し、中部フランク王国を支配した。
解答:〇 正しい

🟦【解説】
彼はカール大帝の帝国理念(普遍的統一)を継承しようとした。

問6
ヴェルダン条約によってフランス・ドイツ・イタリアの原型が形成された。
解答:〇 正しい

問7
ヴェルダン条約によって、カロリング家の統一支配がいっそう強化された。
解答:✕ 誤り

🟦【解説】
むしろ統一帝国が崩壊し、分立国家の形成が始まった。

問8
中部フランク王国は地理的に安定しており、のちのイタリア王国に直接継承された。
解答:✕ 誤り

🟦【解説】
中部フランクは不安定で、870年のメルセン条約で東西に再分割された。

問9
ヴェルダン条約ののち、ロタールの死後に中部フランク王国が再分割された。
解答:〇 正しい

🟦【解説】
これがメルセン条約(870)。ヴェルダンとセットで出題されやすい。

問10
ヴェルダン条約は、封建制度の成立を直接的に定めた法令である。
解答:✕ 誤り

🟦【解説】
政治体制の変化ではなく、領土分割の協定。封建制の進行は結果的影響にすぎない。

よく出る誤答パターン・混同例

  1. 「カール大帝の子どもたち」と誤記する
     → 正しくは孫たち。息子ルートヴィヒ敬虔王の死後の争い。
  2. 「西フランク=ロタール」「東フランク=シャルル」と取り違える
     → 西=シャルル(禿頭王)、東=ルートヴィヒ(ドイツ人王)、中部=ロタール。
  3. 「三分割後も帝国は存続」と誤解
     → 名目上ロタールが皇帝を称したが、実質は独立国家体制。
  4. 「ロタールが西ヨーロッパの支配者」と誤記
     → 中部を支配。イタリア北部〜ローヌ・ライン流域を含む細長い地帯。
  5. 「ヴェルダン=分裂の確定」「メルセン=分裂の始まり」と逆に覚える
     → 正しくはヴェルダンが“分裂の始まり”、メルセンが“分裂の確定”。
  6. 「封建制成立の契機」として直接結びつける誤り
     → 分裂による地方分権の進行が後に封建制を促進したという間接的関係。
  7. 「中部フランク=安定国」とする誤解
     → 実際には不安定で、後継者の死後に崩壊。
  8. 「ヴェルダン条約=カロリング朝の終焉」と書く誤り
     → カロリング家自体はその後も西・東両フランクで存続。
  9. 「三王国は平等な関係で連携した」と誤答
     → 実際は相互に牽制・対立し、統一の理念は消失。
  10. 「メルセン条約の方が先」と年代混同
     → ヴェルダン(843)→メルセン(870)の順。

ヴェルダン条約は、「一つの帝国が三つの国家へ」というヨーロッパの分立の原点です。

条約の内容そのものよりも、誰が・どの地域を・どう統治したのかが入試の焦点になります。

とくにメルセン条約との年代・意義の区別は頻出です。

重要論述問題にチャレンジ

第1問(背景)
ヴェルダン条約が結ばれるに至った背景を、カロリング帝国の状況にふれて150字程度で説明せよ。(約150字)

解答例:
カール大帝の死後、帝国を継いだルートヴィヒ敬虔王は、息子たちに領地を分け与えたため後継争いが激化した。
広大な帝国は言語・文化・慣習の違いから統治が困難で、841年のフォンテノワの戦いなど同族間内戦が続いた。
その結果、843年に三兄弟はヴェルダンで帝国分割を協定し、内乱を終結させた。

第2問(意義)
ヴェルダン条約の意義を、ヨーロッパ史全体の流れの中で150字程度で説明せよ。

解答例:
ヴェルダン条約は、カロリング帝国を西・中・東の三王国に分割し、「統一ヨーロッパ」の理念を終わらせた一方で、地域的多様性に基づく国家形成の契機となった。この分割によって、ラテン文化圏の西フランク、ゲルマン文化圏の東フランクが形成され、のちのフランス・ドイツの原型が誕生した。ヨーロッパの地域国家体制の出発点である。

第3問(影響)
ヴェルダン条約がその後のヨーロッパ政治に与えた影響を150字程度で説明せよ。

解答例:
ヴェルダン条約によって生まれた中部フランク王国は、地理的・民族的に不安定で、ロタールの死後には分裂し、870年のメルセン条約で東西に再分割された。この過程で西フランクは封建貴族中心のフランス王国、東フランクは地方諸侯連合のドイツへと発展し、「帝国」から「国家」への移行が進んだ。ヨーロッパの分立と民族的境界形成の出発点となった。

論述のポイント整理

観点キーワード書き方のコツ
背景カール大帝の死・ルートヴィヒ敬虔王・後継争い・フォンテノワの戦い家族内戦の結果であることを明記
意義統一帝国の終焉・地域国家の誕生・文化圏分化「終焉と誕生」の二面性を対比的に書く
影響メルセン条約・中部王国の崩壊・独仏原型・封建制形成長期的展開(870年以降)まで踏み込む
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