11世紀後半、セルジューク朝の台頭によってイスラーム世界は新たな局面を迎えました。
アッバース朝の衰退後、トルコ系イスラーム勢力が急速に力を伸ばし、ビザンツ帝国や西欧世界との緊張が高まる中で、十字軍遠征という世界史的事件が勃発します。
しかし、十字軍は単なる「キリスト教世界の攻撃」ではなく、イスラーム世界の再編を加速させる引き金にもなりました。
本記事では、既存の十字軍全体像や東西教会分裂の記事と重複を避けつつ、イスラーム世界の発展と変容に焦点をあて、セルジューク朝からオスマン帝国成立前夜までを解説します。
受験生にとっては、十字軍がイスラーム世界にもたらした影響を押さえることで、複雑な時代の流れを整理しやすくなるでしょう。
【ときおぼえ世界史シーリーズ】では、大学受験世界史で頻出のポイントを押さえつつ、章末には関連する論述問題や一問一答も用意しているので、入試対策にも最適です。
大学入試では、用語の暗記だけでなくどのような切り口で試験に理解することが重要です。
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第1章 セルジューク朝の台頭とイスラーム世界の再編
10世紀後半、アッバース朝はカリフ権威の象徴的存在にとどまり、実権は地方勢力に移っていました。
この状況で登場したのが、中央アジア出身のトルコ系遊牧民によるセルジューク朝です。
彼らは11世紀半ばにイラン高原から小アジアに進出し、イスラーム世界の主導権を握るようになりました。
この新勢力の台頭は、ビザンツ帝国との衝突を招き、十字軍遠征の直接的なきっかけとなります。
1-1 セルジューク朝の起源と発展
セルジューク族は中央アジアのオグズ族に属するトルコ系遊牧民で、イスラームを受容して勢力を拡大しました。
11世紀半ば、スルタントゥグリル=ベクがバグダードに入城し、アッバース朝カリフから「スルタン(権力者)」の称号を与えられます。
これにより、宗教的権威はカリフ、政治的実権はセルジューク朝という二重構造が成立しました。
- 1055年:トゥグリル=ベク、バグダードに入城
- 1071年:マンジケルトの戦いでビザンツ帝国軍を破る
- 1077年:アナトリアにルーム=セルジューク朝成立
マンジケルトの戦いは、ビザンツ帝国の軍事的後退を決定づけ、西欧に「聖地奪回」を呼びかける十字軍運動の起爆剤となりました。
1-2 ニザーム=アル=ムルクと統治体制
セルジューク朝の発展を支えたのが宰相ニザーム=アル=ムルクです。
彼は行政改革と教育制度の整備に尽力し、イスラーム世界の安定に寄与しました。
- ニザーミーヤ学院の設立 → ウラマー(イスラーム法学者)の育成
- マドラサ制度の普及 → スンナ派正統信仰の再建
- 地方統治の効率化 → 軍事封土制を活用し、トルコ系騎士団を組織
これらの政策により、セルジューク朝は短期間で巨大な帝国へと成長しました。
1-3 ファーティマ朝・ビザンツ帝国との対立
当時のイスラーム世界は、スンナ派セルジューク朝とシーア派ファーティマ朝が対立する多極構造でした。
加えて、アナトリアをめぐってビザンツ帝国との衝突も続きます。
この三者対立が、西欧世界を巻き込む大事件=十字軍遠征を誘発しました。
1-4 入試で狙われるポイント
- セルジューク朝の起源とトゥグリル=ベクのバグダード入城
- マンジケルトの戦いとビザンツ帝国の衰退
- ニザーム=アル=ムルクとニザーミーヤ学院
- スンナ派とシーア派の対立構造
- セルジューク朝の台頭が十字軍遠征の発端に与えた影響について、100〜120字で説明せよ。
-
セルジューク朝はマンジケルトの戦いでビザンツ帝国を破り、小アジアの支配を拡大した。ビザンツはローマ教皇に救援を求め、これが1095年のクレルモン公会議を経て第1回十字軍遠征の契機となった。
第1章: イスラーム世界の発展と十字軍の影響 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
セルジューク朝の建国者で、1055年にバグダードへ入城した人物は誰か。
解答:トゥグリル=ベク
問2
トゥグリル=ベクがバグダード入城時にアッバース朝カリフから授与された称号は何か。
解答:スルタン
問3
1071年、セルジューク朝がビザンツ帝国軍を破った戦いを何というか。
解答:マンジケルトの戦い
問4
セルジューク朝が1077年に小アジアに建国した国家を何というか。
解答:ルーム=セルジューク朝
問5
セルジューク朝の宰相で、ニザーミーヤ学院を設立した人物は誰か。
解答:ニザーム=アル=ムルク
問6
ニザーミーヤ学院は何を目的として設立されたか。
解答:スンナ派法学者の養成
問7
当時、シーア派の拠点としてセルジューク朝と対立した王朝は何か。
解答:ファーティマ朝
問8
セルジューク朝とビザンツ帝国が対立した主要な地域はどこか。
解答:小アジア(アナトリア)
問9
セルジューク朝の台頭は、十字軍遠征のどのような契機となったか。
解答:ビザンツ帝国の救援要請を招き、第1回十字軍を引き起こした
問10
セルジューク朝が導入した軍事封土制度を何というか。
解答:イクター制
正誤問題(5問)
問1
セルジューク朝はシーア派を奉じた王朝である。
解答:× → スンナ派を奉じた
問2
マンジケルトの戦いで勝利したのはビザンツ帝国軍である。
解答:× → セルジューク朝軍
問3
ニザーミーヤ学院はシーア派神学者の育成を目的とした。
解答:× → スンナ派法学者の養成
問4
トゥグリル=ベクは1055年、バグダードに入城してアッバース朝カリフからスルタンの称号を得た。
解答:○
問5
ルーム=セルジューク朝は1077年に小アジアに成立した。
解答:○
よくある誤答パターンまとめ
誤答パターン | 正しい知識 |
---|---|
セルジューク朝はシーア派王朝である | × → スンナ派王朝 |
マンジケルトの戦いはビザンツの勝利 | × → セルジューク朝が勝利 |
ニザーミーヤ学院はシーア派神学者を育てた | × → スンナ派法学者を養成 |
セルジューク朝とファーティマ朝は同盟関係だった | × → シーア派とスンナ派で対立 |
十字軍はイスラーム世界に大きな影響を与えなかった | × → イスラーム世界の再編を加速させた |
第2章 十字軍後のイスラーム世界と再編の動き
十字軍遠征は西欧世界だけでなく、イスラーム世界にも大きな再編をもたらしました。
セルジューク朝は内部対立やモンゴル侵入で衰退し、その後イスラーム世界の統合を目指す新勢力が次々に登場します。
本章では、アイユーブ朝のサラーフ=アッディーンからモンゴル侵入とイル=ハン国の成立までを追い、十字軍の影響がどのようにイスラーム世界を変えたのか解説します。
2-1 アイユーブ朝とサラーフ=アッディーン
十字軍によって一時的にエルサレムが奪われた後、イスラーム世界では統一の動きが進みます。
その中心となったのが、クルド人武将**サラーフ=アッディーン(サラディン)**です。
- 1171年:ファーティマ朝を滅ぼし、エジプトにアイユーブ朝を建国
- 1187年:ヒッティーンの戦いで十字軍を破り、エルサレムを奪回
- 第三回十字軍ではリチャード1世らと対峙し、最終的に停戦協定を締結
サラーフ=アッディーンはイスラーム世界の英雄として知られ、イスラーム勢力の団結を象徴する存在となりました。
2-2 モンゴル帝国の侵入とバグダード陥落
13世紀になると、イスラーム世界は東方からの新たな脅威に直面します。
それがモンゴル帝国の西方遠征です。
- 1258年:フラグ率いるモンゴル軍がバグダードを陥落させ、アッバース朝滅亡
- イラン・イラク地域にイル=ハン国を建国
- シリア方面への侵攻は、マムルーク朝(カイロ中心)がアイン=ジャールートの戦いで撃退
モンゴルの侵入はイスラーム世界の政治的混乱を加速させ、十字軍との対抗力にも影響を与えました。
2-3 イル=ハン国とイスラーム化
イル=ハン国は当初、仏教やキリスト教を含む多宗教国家でしたが、ガザン=ハンの時代(1295年)にイスラームを受容。
これにより、中央アジア〜イラン〜アナトリアを結ぶイスラーム文化圏が再編されました。
- イル=ハン国は西方貿易を支配し、シルクロード交易を促進
- イル=ハン国とマムルーク朝は対立関係にあったが、やがてオスマン帝国の台頭により衰退
イル=ハン国のイスラーム化は、後のオスマン帝国が覇権を握る伏線となります。
2-4 入試で狙われるポイント
- アイユーブ朝とサラーフ=アッディーンの活躍
- ヒッティーンの戦いとエルサレム奪回
- モンゴル帝国の西方遠征とバグダード陥落
- イル=ハン国の成立とイスラーム化
- モンゴル侵入がイスラーム世界の再編に与えた影響
- サラーフ=アッディーンとアイユーブ朝の成立が十字軍遠征にどのような影響を与えたか、80〜120字で説明せよ。
-
サラーフ=アッディーンは1171年にアイユーブ朝を建て、1187年ヒッティーンの戦いで十字軍を破ってエルサレムを奪回した。この結果、第三回十字軍が派遣されるなど、十字軍の動向に大きな影響を与えた。
第2章: イスラーム世界の発展と十字軍の影響 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
1171年にファーティマ朝を滅ぼし、エジプトに新たな王朝を建てた人物は誰か。
解答:サラーフ=アッディーン(サラディン)
問2
サラーフ=アッディーンが建国した王朝を何というか。
解答:アイユーブ朝
問3
1187年、サラーフ=アッディーンが十字軍を破りエルサレムを奪回した戦いは何か。
解答:ヒッティーンの戦い
問4
1258年、モンゴル軍がバグダードを攻略した事件を何というか。
解答:バグダード陥落
問5
バグダード陥落によって滅亡した王朝は何か。
解答:アッバース朝
問6
モンゴル帝国がイラン・イラク地域に建国した国を何というか。
解答:イル=ハン国
問7
イル=ハン国が正式にイスラームを国教としたのは誰の時代か。
解答:ガザン=ハン
問8
1260年、マムルーク朝がモンゴル軍を撃退した戦いは何か。
解答:アイン=ジャールートの戦い
問9
イル=ハン国の成立はどのようにシルクロード貿易に影響したか。
解答:西方貿易路を掌握し、シルクロード交易が促進された
問10
イル=ハン国衰退後に台頭した新勢力は何か。
解答:オスマン帝国
正誤問題(5問)
問1
アイユーブ朝はシーア派王朝である。
解答:× → スンナ派王朝
問2
ヒッティーンの戦いで敗北したのはサラーフ=アッディーンである。
解答:× → 十字軍軍勢が敗北
問3
バグダード陥落によってアッバース朝は滅亡した。
解答:○
問4
イル=ハン国は建国当初からイスラームを国教とした。
解答:× → ガザン=ハン時代にイスラーム化
問5
アイン=ジャールートの戦いではモンゴル軍が勝利した。
解答:× → マムルーク朝が勝利
よくある誤答パターンまとめ
誤答パターン | 正しい知識 |
---|---|
アイユーブ朝はシーア派王朝 | × → スンナ派王朝 |
ヒッティーンの戦いはサラーフ=アッディーンの敗北 | × → サラーフ=アッディーンの勝利 |
イル=ハン国は建国当初からイスラーム国家 | × → ガザン=ハンの時代に改宗 |
モンゴル侵入でイスラーム世界は完全崩壊 | × → マムルーク朝など地域勢力が抵抗 |
アッバース朝は1258年以降もバグダードを中心に存続 | × → カイロで象徴的に継承されたが実権は失う |
まとめ|イスラーム世界の発展と十字軍の影響
十字軍は「西欧 vs イスラーム」だけではない
十字軍は単なる「キリスト教世界の攻撃」ではなく、イスラーム世界内部の権力構造を大きく変えた事件でもあります。
セルジューク朝の台頭でビザンツ帝国が危機に陥り、第1回十字軍が発動。
その後、サラーフ=アッディーン率いるアイユーブ朝が反攻し、モンゴル侵入やイル=ハン国の成立を経て、イスラーム世界は再び再編されていきました。
この流れを理解すると、オスマン帝国の登場が必然だったことが見えてきます。
イスラーム世界と十字軍の影響|全体フローチャート
以下のフローチャートは、セルジューク朝からオスマン帝国成立前夜までの流れを一望できるように作成しています。
【セルジューク朝からオスマン帝国成立前夜までの流れ】
【10世紀後半〜11世紀】 アッバース朝の衰退
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【1055年】トゥグリル=ベク、バグダード入城 → カリフから「スルタン」称号授与
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【1071年】マンジケルトの戦い
→ セルジューク朝がビザンツ帝国に大勝
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【1095年】クレルモン公会議 → 第1回十字軍遠征開始
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【1099年】十字軍、エルサレム占領
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【1171年】サラーフ=アッディーン、ファーティマ朝を滅ぼし
エジプトに【アイユーブ朝】建国
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【1187年】ヒッティーンの戦い → アイユーブ朝、エルサレム奪回
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【1258年】モンゴル軍、バグダード陥落 → アッバース朝滅亡
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【1260年】アイン=ジャールートの戦い
→ マムルーク朝、モンゴル軍を撃退
│
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【1258年〜1353年】イル=ハン国成立
→ ガザン=ハン(1295年)でイスラーム化
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【14世紀後半〜15世紀】オスマン帝国の台頭
まとめのポイント
- 十字軍の背景
- セルジューク朝の拡大がビザンツ帝国を圧迫し、ローマ教皇に救援要請 → 第1回十字軍遠征へ
- イスラーム世界の再編
- アイユーブ朝がエルサレムを奪回し、スンナ派勢力を再統合
- モンゴル軍の侵入でアッバース朝は滅亡するが、マムルーク朝が抵抗
- イル=ハン国のイスラーム化により、中央アジア〜中東は再び一体化
- オスマン帝国への布石
- 十字軍後の混乱とモンゴル侵入を経て、アナトリアを拠点とするオスマン帝国が台頭
学習のコツ
- セルジューク朝 → 十字軍 → アイユーブ朝 → モンゴル侵入 → イル=ハン国 → オスマン帝国
この大きな流れを一本の線でつなぐことが重要です。 - 入試では、単発の出来事よりも因果関係が問われます。
- 「なぜ第1回十字軍が起きたか」
- 「サラーフ=アッディーンがエルサレムを奪回した後の影響は何か」
- 「イル=ハン国のイスラーム化はどのような意義を持つか」

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