【徹底解説】中世フランス史 ― 最弱の王権が最強の国家になるまで

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中世フランス史は、ヨーロッパ史の中でも特に「王権の成長」と「国家形成」の劇的な物語として知られます。

10世紀末、カロリング朝が断絶し、パリ伯ユーグ=カペーが王に選ばれた時、フランス王の実権はほとんどパリ周辺にしか及びませんでした。

当時のフランスは諸侯が各地を支配する封建分権の極致にあり、王は「名ばかりの存在」にすぎなかったのです。

しかし、時を経てフランス王権は、フィリップ2世による領土回復、フィリップ4世の教皇との対立、そして百年戦争を通じた国民意識の形成を経て、やがてヨーロッパ最強の中央集権国家へと成長します。

この変化は単なる政治史ではなく、封建社会そのものが国家へと進化していく過程でした。

王が教会や諸侯を制し、「王=国家」という新しい秩序を築いたその歩みは、近代ヨーロッパの原型を示しています。

本記事では、

  • カペー朝の成立と「最弱の王権」の出発
  • フィリップ2世・4世による領土拡大と中央集権化
  • 百年戦争とジャンヌ=ダルクによる国民統合
  • ルイ11世の改革と封建制の終焉

といった流れを中心に、中世フランス史の全体像を俯瞰します。

「最弱の王権が最強の国家へと変貌する道」をたどりましょう。

目次

序章:封建の王から国家の王へ ― 中世フランス王権の歩みを俯瞰する

中世フランス史の核心は、「最弱の王権が最強の国家へと成長する道のり」です。

カペー朝の誕生(987年)当初、フランス王はパリ周辺しか支配できず、諸侯が各地を治める典型的な封建分権社会が広がっていました。

しかし、数世紀にわたる政治的・宗教的・軍事的な試練を経て、フランス王権は次第に力を蓄え、中央集権国家の核へと変貌していきます。

封建社会をまとめ上げたフィリップ2世、教皇を屈服させたフィリップ4世、百年戦争を戦い抜いたシャルル7世、そして封建制を終わらせたルイ11世――

それぞれの時代が、フランスを「領主の国」から「国家」へ導く重要な一歩でした。

以下のチャートでは、カペー朝からヴァロワ朝に至るまでの主要な国王とその業績、そして中世フランスの時代転換点を一望できます。

この流れを理解しておくことで、本文に登場する人物や出来事の位置づけが明確になり、フランス史全体を“一本の物語”として捉えることができるでしょう。

【中世フランス史:最弱の王権が最強の国家になるまで】

👑 王朝の流れ
カペー朝(987〜1328)
  ↓
ヴァロワ朝(1328〜1589)
  ↓
ブルボン朝(1589〜) ※近世以降

第Ⅰ期 封建分権の時代(10〜12世紀)
――― 最弱の王権と典型的な封建社会 ―――
(カペー朝初期)

987 ユーグ=カペー(カペー朝創始)
 ・フランス王に即位(987年)
 ・実効支配はパリ周辺のみ。
 ・諸侯が独立的に領地を支配 → 封建制が確立
 → 【転換点】王は“封建連合の代表”にすぎなかった。

第Ⅱ期 王権強化のはじまり(12〜13世紀)
――― フィリップ2世、封建の海を泳ぎきる ―――
(カペー朝中期)

1180〜1223 フィリップ2世(尊厳王)
 ・イングランド王ジョンに勝利し、ノルマンディーを奪還(1204年)
 ・バイイ・セネシャルを設置 → 王直属の行政官制度を整備
 ・パリを王国の中心として行政・司法・財政を統一
 → 【転換点】封建諸侯の力を超える中央集権化の始動。

第Ⅲ期 王権と教皇権の対立(13〜14世紀初頭)
――― フィリップ4世、神の代理人を屈服させる ―――
(カペー朝末期)

1285〜1314 フィリップ4世(端麗王)
 ・教皇ボニファティウス8世と対立 → アナーニ事件(1303年)
 ・初の三部会を招集(1302年) → 「国家意思」の誕生
 ・アヴィニョン教皇庁を設立(1309年) → 教皇を王の支配下に置く
 → 【転換点】「王=国家」の理念が芽生える。
 ※この王の死後、カペー直系が断絶 → ヴァロワ朝へ継承。

第Ⅳ期 国家の危機と再生(14〜15世紀)
――― 百年戦争とジャンヌ=ダルク ―――
(ヴァロワ朝初期)

1339〜1453 ⚔ 百年戦争(フランス vs イングランド)
 ・王位継承とフランドル経済をめぐる長期戦争
 ・序盤はフランス劣勢(クレシー・ポワティエの敗北)
 ・1429年:ジャンヌ=ダルク登場、オルレアン解放・シャルル7世戴冠
 → 民衆に“祖国フランス”という意識が芽生える。

1422〜1461 シャルル7世(ヴァロワ朝)
 ・常備軍を創設、封建軍事体制を改革
 ・ターユ税を整備 → 王室財政の安定化
 → 【転換点】王が独自の軍と財政を持つ“国家君主”となる。

📔 第Ⅴ期 封建制の終焉と近代国家の誕生(15世紀後半)
――― ルイ11世、封建を超えて国家を作る ―――
(ヴァロワ朝中期)

1461〜1483 ルイ11世(ヴァロワ朝)
 ・ブルゴーニュ公シャルル突進公を打倒(1477年)
 ・官僚・商人を登用して封建諸侯を排除
 ・通信・道路整備 → 経済・行政の一体化
 → 「王=国家」理念が完成。
 → 【転換点】封建社会の終焉、近代国家の出発。

【時代の流れ:まとめ】

カペー朝(987〜1328)
 封建分権 → 王権の基盤づくり → 教皇との対立
ヴァロワ朝(1328〜1589)
 百年戦争 → 国民意識の覚醒 → 中央集権国家の完成
ブルボン朝(1589〜)
 絶対王政の黄金期(ルイ14世へ)

【歴史の縦軸】

封建分権(ユーグ=カペー)
  ↓
王権強化の始動(フィリップ2世)
  ↓
教会権力の制圧(フィリップ4世)
  ↓
国民意識の形成(百年戦争・ジャンヌ=ダルク)
  ↓
中央集権国家の完成(シャルル7世・ルイ11世)
  ↓
☞ 絶対王政の土台が整い、近代ヨーロッパへ

中世フランス史の転換点を問う論述問題4選

本記事を読むうえで、細かな知識の習得ももちろん大切ですが、それ以上に重要なのは、中世フランス史の「転換点」がどこにあったのかを理解することです。

フランスの歴史は、単なる王の交代ではなく、封建社会から中央集権国家へと移り変わる「構造の変化」の連続でした。

これから紹介する4題の論述問題は、そうした時代の変化を見抜く力を試す典型的なテーマです。

記事を読む前に一度目を通しておくと、「なぜフィリップ2世やフィリップ4世が重要なのか」「百年戦争の本当の意味は何か」など、歴史の流れを“逆算的に”意識しながら本文を読み進めることができます。

また、受験で論述問題が出ない方にとっても、こうした転換点の理解は、正誤問題や時代整理問題を解く上で不可欠です。

中世フランス史の全体像をつかむために、まずは以下の4題を軽く読み、「どのような視点で歴史が動いたのか」を意識してみてください。

設問1:封建社会から中央集権国家への転換を、フィリップ2世の時代を中心に述べよ。

解答例:
カペー朝初期のフランスは、諸侯が各地を支配する典型的な封建分権国家であり、王はパリ周辺にしか権威を持たなかった。しかしフィリップ2世は、イングランド王ジョンに勝利してノルマンディーを奪還し、失われていた王領を回復した。また、地方行政官バイイ・セネシャルを設置して地方統治を王の直轄下に置き、王権の実効支配を拡大した。これにより、王は封建諸侯の一員ではなく、国家の中枢を担う存在へと変貌し、中央集権化への道を開いた。

🟦【狙い】
封建的主従関係の枠内で王が制度改革を進め、「封建を利用して封建を超えた」という観点が評価される。

設問2:フィリップ4世の教皇ボニファティウス8世との対立が、国家形成に与えた意義を述べよ。

解答例:
13世紀末、フィリップ4世は戦費調達のため聖職者への課税を試み、教皇ボニファティウス8世と激しく対立した。
その結果、アナーニ事件により教皇を屈服させ、王の優越を示した。また、1302年に三部会を初めて招集して王の政策を支持させ、王権を国家全体の意志として正当化した。この出来事は、王が教会権から独立して政治を行う体制を確立する契機となり、「国王=国家」という概念の萌芽を生んだ。

🟦【狙い】
単なる権力闘争ではなく、「教会支配から国家主権への移行」を論理的に説明できるかが鍵。

設問3:百年戦争がフランスの国家形成に果たした役割を述べよ。

解答例:
百年戦争は、フランスとイングランドが王位継承権と経済権益をめぐって争った長期戦争である。戦争初期、封建的軍制に頼るフランスは敗北を重ねたが、オルレアン包囲戦でジャンヌ=ダルクが登場し、民衆が国を守る主体として戦う意識が芽生えた。戦後、シャルル7世は常備軍とターユ税を整備して王権を強化し、王が独自の軍と財政を持つ体制を確立した。これにより、封建的諸侯連合としての王国は、国民と王が結びつく国家へと変化した。

🟦【狙い】
「戦争=危機」ではなく、「戦争=国家統合の契機」という発展的視点が重要。

設問4:ルイ11世の政策が、封建制から近代国家への転換に果たした役割を述べよ。

解答例:
ルイ11世は、百年戦争後の混乱を収拾し、フランスを安定した国家へと導いた。彼は常備軍と税制を基盤に、地方諸侯を抑えて中央集権化を進め、ブルゴーニュ公国を滅ぼして王領を拡大した。また、商人や官僚を登用して封建貴族に代わる支配層を形成し、通信・道路網の整備によって経済的統一を実現した。こうして、フランスは封建的秩序を超えて、法と官僚制による近代的行政国家へと発展した。

🟦【狙い】
ルイ11世を単なる“強権的支配者”としてではなく、制度改革者・国家建設者として論じると高評価。

第1章:カペー朝の誕生と“最弱の王”

10世紀末、フランク王国のカロリング朝が断絶すると、貴族たちは新たな王としてパリ伯ユーグ=カペーを選びました。

こうして誕生したカペー朝(987年)は、のちのフランス王国の礎を築くことになります。

しかし、当時のフランス王は実質的にはパリ周辺(イル=ド=フランス)しか支配しておらず、他の諸侯と比べても軍事力・財力ともに圧倒的に弱い存在でした。

この「最弱の王権」こそ、フランス中世史の出発点です。

同時に、この時代のフランス社会は封建制の典型的な姿を見せていました。

地方の伯爵・公爵・司教がそれぞれの領地を独立王国のように支配し、王に対してではなく、個々の主君との間に忠誠関係(封臣関係)を結ぶ社会が広がっていました。

カペー朝初期のフランスは、まさに「封建社会の標本」ともいえる状態だったのです。

1.王権の脆弱さと封建分権の構造

ユーグ=カペーの王位は選挙で決まり、王権は神聖性よりも合議的な性格をもっていました。

そのため、王の権威は諸侯の支持に依存し、封建的合意の上に成り立つ王権といえるものでした。

王は各地の有力貴族に対して統制権をほとんど持たず、地方の防衛・徴税・裁判・立法は諸侯の手に委ねられていました。

このような状況では、“国家”という一体性は存在せず、地域ごとの封建領主制社会がフランス全土を覆っていました。

地方の貴族は独自の軍隊を保有し、王の命令よりも自らの封建主や教会の命令を優先するのが常でした。

それゆえに、この時代のフランスは“王国”というよりも、封建的連合体に近い構造でした。

2.「王の弱さ」がもたらした安定と継続

興味深いのは、こうした脆弱な王権が、かえって王朝の長期的安定につながった点です。

カペー家は無理に諸侯を抑え込もうとせず、婚姻・教会支援・儀礼的権威の強化によって、少しずつ影響力を広げていきました。

彼らは「力で支配する王」ではなく、「儀礼と血統で尊敬される王」として地位を固めていったのです。

この穏やかな手法こそ、後の王権拡大の土台となりました。

3.カペー朝初期の意義

カペー朝の成立は、「王権の再出発」であると同時に、フランスが封建社会の極致から中央集権化へと向かう長い道の始まりを意味していました。

最弱の王が生き残るために選んだ“忍耐の統治”こそ、後のフィリップ2世やフィリップ4世による王権強化の前提条件となったのです。

第2章:フィリップ2世 ― 封建の海を泳ぎきった王

12世紀末、フランス王権はようやく「行動する王」の時代を迎えます。

登場したのが、カペー朝第7代の王、フィリップ2世(尊厳王)です。

彼は、イングランド王リチャード1世(獅子心王)やジョン王との戦いを通じて、フランス領土を拡大し、封建的な分裂状態に風穴を開けました。

それまでの王たちは、封建諸侯の中で生き延びる“弱き調停者”にすぎませんでした。

しかしフィリップ2世は、封建社会のルールを逆手に取り、王が封建社会を統べるという新しい秩序を築こうとします。

彼の治世こそが、フランスが“封建王国”から“中央集権国家”へと転じる第一歩だったのです。

1.王権強化の舞台 ― 封建社会の海での闘い

12世紀のフランスは、依然として封建諸侯が絶大な力を持つ社会でした。

特にイングランド王がフランス国内に広大な領地(ノルマンディー・アキテーヌなど)を保有しており、“フランス王より強いフランスの諸侯”という逆転現象が生じていました。

これがいわゆる「アンジュー帝国」の時代です。

フィリップ2世は、この構造的な矛盾に真正面から挑みます。

巧みな外交と婚姻、そして戦争を通じて、イングランド王家の勢力を削ぎ、失われていた王領(特にノルマンディー)を次々と回復しました。

1204年にはジョン王からノルマンディーを奪還し、王国の統一基盤を取り戻すことに成功します。

2.封建を超える仕組み ― 官僚と財政の整備

フィリップ2世の真の革新は、単なる領土拡大ではなく、封建的統治を超える新しい行政体制を整えた点にありました。

彼は地方統治のために「バイイ(Bailli)」や「セネシャル」と呼ばれる王直属の行政官を派遣し、各地の司法・徴税・軍事を監督させました。

これにより、従来は封建領主の裁量に委ねられていた統治が、徐々に“王の制度”として機能し始めたのです。

さらに、パリを中心とする財務・司法機構を整備し、後の「パルルマン(高等法院)」などの王権機関の基礎を築きました。

この制度的整備によって、フランス王権は初めて封建制の枠を超えた持続的な権力を獲得します。

3.教会・諸侯との均衡と「国王」の誕生

フィリップ2世は、教会にも巧みに接近しながら、王の正統性を「神の秩序」によって裏づけました。

彼は信仰心を示しつつも、ローマ教皇の権威に全面的に従うことはなく、フランス王が国内で最終的な権威であることを実践的に示したのです。

こうして、王は単なる封建的領主ではなく、“フランス全体を代表する存在”へと変わっていきました。

フィリップ2世の時代、王権はもはや貴族間の序列の一部ではなく、国家の中心へと位置づけられます。

この変化が、のちのフィリップ4世による「教皇を屈服させる王権」への前提となりました。

4.フィリップ2世の歴史的意義

フィリップ2世の治世は、フランス史上初めて、「王権が自らの意志で封建秩序を動かす」段階に到達した時期でした。

彼は封建制度を破壊したのではなく、封建制のルールを利用して王権を拡大したのです。

その巧妙さゆえに、彼は“封建の海を泳ぎきった王”と呼ばれます。

フィリップ2世の時代に始まった中央集権化の流れは、のちのフィリップ4世や百年戦争を経て、フランスが近代国家へ向かう礎となりました。

第3章:フィリップ4世 ― 教皇を屈服させた王

13世紀末、フランス王国はフィリップ2世の遺産を受け継ぎ、ついにヨーロッパ政治の中心へと浮上します。

その象徴が、フィリップ4世(端麗王)の登場です。

彼の時代には、王権はもはや封建諸侯と並ぶ存在ではなく、「教会」と直接衝突しうる世俗権力へと変貌していました。

当時のヨーロッパにおいて、教皇は精神的権威の頂点に立ち、国王をも支配しうる存在でした。

しかしフィリップ4世は、その秩序を根底から揺さぶります。

彼は教皇ボニファティウス8世と対立し、最終的にはアナーニ事件によって教皇を屈服させました。

この出来事は、「中世の王が神に挑んだ瞬間」として、フランス史だけでなくヨーロッパ史の転換点となりました。

1.教皇権との衝突 ― アナーニ事件の衝撃

フィリップ4世の時代、長期戦となったイングランドとの戦争により、王国の財政は逼迫していました。

そのため彼は、聖職者にも課税を行おうとします。

これに対し、ローマ教皇ボニファティウス8世は「聖職者は神に仕える者であり、国王に課税されない」として激しく反発しました。

両者の対立は次第に政治闘争へと発展しました。

1303年、フィリップ4世はついに教皇派を討伐するため、家臣ギヨーム=ド=ノガレを派遣しました。

ノガレはイタリア中部のアナーニにいたボニファティウス8世を捕らえ、教皇に屈辱を与えたとされる事件――アナーニ事件――が起こります。

これは、中世ヨーロッパにおいて「王が教皇に勝った」初めての出来事でした。


2.三部会の招集 ― 「国家」の誕生

教皇との対立の最中、フィリップ4世は自らの立場を正当化するために、1302年、フランス史上初の三部会を招集します。

この会議には、聖職者・貴族・平民の三身分が参加し、王の政策を支持する決議を行いました。

これは単なる政治的動員ではなく、「国王の意志=国家の意志」という思想の誕生を意味します。

封建諸侯が個々に主従関係を結んでいた時代から、「国民が王に代表される国家」という意識が芽生え始めたのです。

この構造は、のちの絶対王政や国民国家形成の原型となりました。

3.アヴィニョン教皇庁 ― 王が宗教を支配する時代

アナーニ事件後、教皇権は急速に衰退しました。

1309年、フィリップ4世の圧力によって新教皇クレメンス5世がフランス南部のアヴィニョンに移住します。

これが有名なアヴィニョン教皇庁(教皇のバビロン捕囚)です。

以後70年間、教皇庁はフランス王の影響下に置かれ、「神の代理人」はもはや王の支配から逃れられなくなりました。

かつてカール大帝が教皇から冠を授けられたように、中世初期には教会が王権を正統化しましたが、ここでは逆に王が教会の運命を左右する立場に立ったのです。

4.フィリップ4世の政治的遺産

フィリップ4世はしばしば「冷酷で強欲な王」と評されますが、彼の統治は明確な理念を持っていました。

それは、「国家こそが神の秩序を地上に体現する存在」という思想です。

王は神に代わって国を統べ、法と秩序を守る存在である――。

この考え方がのちにフランス絶対王政の正統性の基礎となります。

アナーニ事件、三部会、アヴィニョン教皇庁という三つの出来事は、フランスが封建秩序と宗教的支配を超え、「国王=国家」への道を歩み始めた象徴的転換点でした。

まとめ:王が神を超えた時代

フィリップ4世の時代、フランス王権はついに中世の限界を突破しました。

封建諸侯を統制したフィリップ2世の改革を基礎に、彼は宗教権力すら王の意志のもとに従える体制を築いたのです。

この「教皇を屈服させた王」の登場によって、中世フランスは「信仰による秩序」から「王による秩序」へと移行しました。

それは同時に、近代国家フランスの誕生を告げる鐘の音でもあったのです。

第4章:百年戦争とジャンヌ=ダルク ― 国民国家への目覚め

14世紀、フランスはフィリップ4世の死後、王位継承をめぐる混乱に陥りました。

その争いが、やがてイングランドとの百年戦争(1339〜1453年)へと発展します。

この戦争は単なる王位争奪戦ではなく、フランスという国家が自らの存在を意識し始めるきっかけとなりました。

当初、フランスは連戦連敗。ノルマンディー・ガスコーニュなどの地方は次々とイングランド軍に占領され、国土の半分以上が敵の手に落ちる危機を迎えます。

しかしこの苦難の中で、フランスは次第に「王を中心とした国民」という新しい一体感を育てていきました。

そして、その象徴がジャンヌ=ダルクの出現です。

彼女の登場は、封建社会の終焉と“国民国家の夜明け”を告げる出来事でした。

1.戦争の原因 ― 王位継承と領土支配の二重の争い

百年戦争の発端は、1328年にヴァロワ家が王位を継承したことにあります。

イングランド王エドワード3世は、母がカペー家の血を引いていたことから、自らこそフランス王の正統な継承者であると主張しました。

これが、フランス王位継承権をめぐる王家同士の争いの火種となります。

同時に、経済的にも対立が深まりました。

フランドル地方の毛織物産業はイングランドの羊毛供給に依存しており、その支配権をめぐる対立も、戦争を長期化させる要因となったのです。

こうして、王位・経済・外交が絡み合ったヨーロッパ規模の大戦が始まりました。

2.フランスの危機 ― 封建軍の限界と国家の脆弱さ

開戦当初、フランスは騎士を中心とした封建軍で戦いました。

しかし、イングランド軍は弓兵や傭兵を用いた機動戦を展開し、1346年のクレシーの戦いや1356年のポワティエの戦いでフランスは大敗します。

国王ジャン2世が捕虜となり、王権は一時的に崩壊しました。

この敗北は、封建社会の軍事的・政治的限界を突きつけるものでした。

領主に依存する軍制では、国全体の統率が取れず、「王の軍」ではなく「諸侯の軍」に過ぎなかったのです。

フランスが国家として立ち直るためには、常備軍と財政の再建が不可欠でした。

3.転機 ― ジャンヌ=ダルクの登場

絶望の中、フランスの希望として現れたのが、ロレーヌ地方の少女ジャンヌ=ダルクでした。

1429年、彼女は「神の啓示を受けた」としてシャルル王太子(のちのシャルル7世)のもとに現れ、オルレアンの包囲を突破し、王をランスで戴冠させます。

ジャンヌの活躍は軍事的な勝利以上に、精神的・象徴的な意味を持ちました。

彼女の行動によって、民衆は「この国は神と王が共にある国」という信念を取り戻し、封建的な忠誠関係ではなく、「祖国」への忠誠が生まれたのです。

これはまさに、国民国家意識の芽生えでした。

4.戦争の終結と王権の再建

ジャンヌの死後も、彼女の遺志を継いだシャルル7世は改革を進め、財政再建と常備軍の創設に成功します。

フランスは次第に戦況を逆転し、1453年、カスティヨンの戦いでイングランド軍を完全に撃退。

百年以上にわたる戦争に終止符を打ちました。

この勝利により、フランスは政治的にも精神的にも統一され、「フランス人によるフランス国家」が誕生します。

王は単なる封建領主の頂点ではなく、「国民を代表する王」へと変化しました。

この変化こそ、中世フランス史の最大の到達点でした。

5.百年戦争の歴史的意義

百年戦争は、フランスにとって苦難の時代であると同時に、封建制の崩壊と国家形成の契機でもありました。

封建的な軍事体制・経済構造・忠誠関係がすべて試練に晒され、その結果、新しい形の統治――すなわち中央集権的王国が誕生します。

ジャンヌ=ダルクの「神の声」は象徴的な物語でありながら、実際には“国民が自らの王を支える国家意識”を生み出した歴史的現象でした。

百年戦争は、中世的世界から近代的国家へと向かうフランスの通過儀礼だったのです。

まとめ:戦争が生んだ「フランスという国家」

百年戦争を経て、フランスは単なる封建的王国から、「王」「民」「国家」が一体となった存在へと変わりました。

カペー朝以来の“最弱の王権”は、数世紀をかけて試練に打ち勝ち、ついに最強の王国=フランスとしてヨーロッパに君臨することになります。

その歩みは、まさに中世フランス史の核心であり、「封建から国家へ」というヨーロッパ史全体の潮流を象徴しているのです。

第5章:ルイ11世 ― 封建を超えて近代国家へ

百年戦争の終結後、フランスは焦土と化していました。

長い戦乱によって経済は疲弊し、貴族の力は依然として強大でした。

しかし、この混乱の中で登場したのが、ヴァロワ朝の王ルイ11世(在位1461〜1483年)です。

ルイ11世は、父シャルル7世が築いた常備軍と財政制度を受け継ぎ、それをさらに拡充・制度化することで、封建諸侯を徹底的に抑え込みました。

彼の統治はしばしば冷酷で計算高いと評されますが、その政治手腕によってフランス王権は真に“国家を支配する王権”へと成長します。

ここに、カペー朝の「最弱の王」が歩み始めた千年の道のりは、“封建を超えた近代国家の誕生”という形で完結を迎えるのです。

1.百年戦争後の再建 ― 国家の基盤を整える

百年戦争後、フランスは荒廃した農村の復興と、失われた秩序の回復に取り組みました。

シャルル7世は戦争の最中に常備軍と税制(ターユ税)を整備し、王権が自ら兵を養う仕組みを作りました。

これによって、王は封建諸侯の軍事力に頼らず、独自の武力と財源を持つ“国家君主”となったのです。

ルイ11世はこの仕組みをさらに拡張し、地方の徴税・行政・司法を中央から監督する体制を構築しました。

その結果、フランスはヨーロッパの中で最も安定した財政国家へと成長していきます。

2.封建諸侯との最終決戦 ― ブルゴーニュ公国の屈服

ルイ11世の最大の敵は、フランス東部に勢力を持つブルゴーニュ公国でした。

特に、名将として知られるシャルル突進公は、フランスからの独立を企み、神聖ローマ帝国やイングランドと連携して王権に挑戦します。

ルイ11世は軍事力ではなく外交と謀略でこれを抑え、1477年、突進公の戦死によってブルゴーニュ公国は事実上崩壊。
その領地の多くがフランス王領に編入されました。

この勝利によって、地方諸侯が王に挑戦する時代は終焉を迎えます。

フランス王は、ついに「国内で誰よりも強い王」となったのです。

3.中央集権国家の制度化

ルイ11世の治世では、封建的特権を持つ諸侯の支配を抑え、商人・官僚・法律家などの新興階層を登用して政治を行いました。

これは、のちの絶対王政の官僚制に直結する動きです。

また、彼は道路や郵便制度を整備し、商業・通信の発展を促しました。

こうした政策により、フランスは経済的にも統一された近代的行政国家へと変貌します。

彼の治世を通じて、フランスでは「王の法(ロワ・ド・フランス)」が全国を貫き、もはや封建的領主が独自の法を定める余地はなくなりました。

4.ルイ11世の政治思想 ― 王=国家の完成

ルイ11世の政治の本質は、「国家とは王そのものである」という理念にありました。

この考え方はのちにルイ14世の「朕は国家なり」へと受け継がれます。

ルイ11世は教会にも貴族にも依存せず、王が自らの意志で法を定め、国を統治する体制を実現しました。

この時代、フランスでは「王の権力が神に由来する」という王権神授説が浸透し始め、王は宗教的・政治的に唯一無二の存在として位置づけられます。

こうして中世の“封建の王”は、“近代国家の君主”へと完全に変貌しました。

5.「最弱の王権が最強の国家へ」 ― 中世フランス史の結末

カペー朝の始まりからルイ11世の時代まで、約500年にわたるフランス史の核心は、まさに「最弱の王権が最強の国家へ変わる物語」でした。

ユーグ=カペーの時代には名ばかりの王であった王権が、
フィリップ2世の改革で封建社会を統べ、
フィリップ4世の政治で教会を制し、
百年戦争で国民を覚醒させ、
ルイ11世の時代に中央集権国家として完成します。

この過程は単なるフランス史の一章ではなく、ヨーロッパ中世全体が封建制を脱し、近代国家へと進化していく歴史の縮図でした。

まとめ:中世フランスが残した遺産

中世フランスの王権強化は、のちのヨーロッパ各国が中央集権化を進める際のモデルとなりました。

封建制の束縛を超え、教会を政治の下に置き、国民の忠誠を王に集中させたこの構造は、近代国家の誕生を告げる大きな転換点だったのです。

こうして、カペー朝に始まる“最弱の王”の物語は、ルイ11世のもとで“最強の国家”という帰結に至ります。

これこそが、中世フランス史の真の結末であり、封建ヨーロッパから近代ヨーロッパへの橋渡しだったのです。

第6章:中世の終わりと封建制度の終焉 ― そのズレを正しく理解しよう

受験生がしばしば混同してしまうのが、「中世の終わり」=「封建制度の終わり」という考え方です。

この二つは、まったくイコールではありません。

たしかに、封建社会が崩れ始めると同時に「近代国家」が登場しますが、この二つの転換点は同じではありません。

ここでは、一般的に言われる中世の終わりと、社会構造としての封建制度の終焉の違いを、フランス史を軸に整理してみましょう。

1.「中世の終わり」はいつか ― 政治的転換としての終焉

ヨーロッパ史で一般に「中世の終わり」とされるのは、15世紀前後です。

具体的には、

  • 1453年の百年戦争の終結
  • 同年の東ローマ帝国の滅亡

などが象徴的な出来事とされています。

この時期、封建諸侯の力が弱まり、国王を中心とした中央集権国家が誕生し始めました。

フランスでもルイ11世の時代に王権が確立し、封建的連合体から統一王国へと姿を変えたことが、中世の終焉を告げる大きな転換でした。

2.それでも封建制度は生き続けた

しかし、「中世が終わる=封建制度がなくなる」わけではありません。

封建制度はその後も社会の基盤として生き続け、近世においても政治・経済・身分の仕組みを支配していました。

ルイ14世の時代(17世紀後半〜18世紀初頭)には、フランスはヨーロッパ随一の中央集権国家として「近代国家」と呼ばれますが、その支配構造は依然として封建的でした。

貴族は領地を所有し、農民は領主に地代や労役を納め、聖職者は十分の一税を徴収する――。

つまり、絶対王政とは封建制度の上に築かれた“王による封建の統合”だったのです。

3.真の封建制の終焉 ― フランス革命の衝撃

封建制度が本当に終わりを迎えるのは、18世紀末のフランス革命(1789年)です。

フランス革命によって採択された「人権宣言」は、「人は生まれながらにして自由で平等である」と宣言し、封建的な身分秩序を根本から否定しました。

同年8月の「封建的特権の廃止」では、領主の裁判権・課税権、農民の地代・十分の一税、貴族・聖職者の免税特権などがすべて撤廃され、中世以来の社会構造が制度的に消滅しました。

この瞬間、フランスは封建制度を完全に脱し、法と平等に基づく近代社会へと移行したのです。

4.ヨーロッパ諸国との比較 ― 達成の早さと遅さ

封建制度からの脱却は、ヨーロッパ諸国で時期が異なります。

  • イギリスでは、名誉革命(1688年)によって議会主権が確立し、王権が封建的支配から立憲的統治へと転換しました。これは封建制を「制度の延長上で」乗り越えた穏やかな改革でした。
  • フランスでは、封建制度が長く残存し、最終的に革命という断絶的手段によって廃止されました。
  • 神聖ローマ帝国では、封建的分権構造が極端に根強く、
    その解体はナポレオンによる帝国の消滅(1806年)を待たねばなりませんでした。

このように、ヨーロッパ各国が「封建制から国家へ」と進んだ速度と形は異なります。

フランスの場合、それがもっとも劇的で、かつ社会的に根本的な変化を伴った点に特徴があるのです。

5.まとめ

観点中世の終わり封建制度の終わり
時期15世紀前後(百年戦争の終結など)1789年フランス革命
性質政治的転換(王権の統一・中央集権化)社会的転換(身分・特権の廃止)
主体王による支配の確立国民による平等社会の実現
比較イギリスは名誉革命で制度的に達成神聖ローマ帝国はナポレオンによって解体

したがって、中世の終焉とは「封建社会の上に近代国家が築かれた段階」を意味し、封建制度の終焉とは「その社会的土台が取り除かれた段階」を指します。

ルイ14世の絶対王政は近代国家のように見えても、その実態は封建制度の上に成り立つ政治でした。

真の意味で封建制が終わったのは、国王の権威が倒れ、国民が国家の主体となったフランス革命の瞬間だったのです。

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