アヴィニョン捕囚 ― 教皇権とフランス王権の対立と屈服

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アヴィニョン捕囚とは、1309年から約70年にわたってローマ教皇がフランス領アヴィニョンに移住し、教皇庁がフランス王権の支配下に置かれた出来事を指します。

中世ヨーロッパにおいて絶対的な権威を誇ったローマ教皇が、国家に従属する「捕囚」のような立場に追いやられたことから、この名で呼ばれるようになりました。

その背景には、13世紀末以降の教皇権と王権の対立激化があります。特に、フィリップ4世(フランス王)とボニファティウス8世(教皇)の衝突は、教皇権の権威失墜を象徴する事件でした。

この対立の帰結として、教皇座がローマを離れ、フランス王権の監視下に移動するという異例の事態が発生します。

アヴィニョン捕囚は、単なる教皇の移住事件にとどまりません。それは中世普遍の秩序を擬制していた「教皇権」の終焉と、近代的な「国家権力」の台頭という歴史的転換点でもありました。

また、この事態が長期化したことで、教皇庁の政治化・腐敗が進行し、のちの大シスマ(教会大分裂)や宗教改革へと連なる重要な伏線となります。

本記事では、アヴィニョン捕囚の背景から経緯、そしてその影響までを整理し、なぜこの出来事が「中世の終わり」を象徴する転換点とされるのかを解説していきます。

目次

序章:アヴィニョン捕囚とは何か ― 教皇権の「転換点」を俯瞰する

アヴィニョン捕囚(1309〜1377年)とは、ローマにあったはずの教皇庁が南フランスのアヴィニョンに移され、およそ70年にわたってそこで活動した出来事を指します。名前の印象とは異なり、教皇が力づくで「捕らわれた」のではなく、教皇自らが政治情勢と安全保障を理由にローマを離れた出来事です。

この事件は、単に教皇の居場所が変わっただけではありませんでした。中世ヨーロッパにおける教皇権と王権の関係が大きく揺らぎ始めた転換点であり、中世社会の秩序が近代へと変わっていく流れの中に位置づけられる重要な節目です。

本記事では、アヴィニョン捕囚の背景と経緯、その政治的・宗教的影響、そして後の大シスマや宗教改革へどのように連なるのかを、チャートとともにわかりやすく俯瞰します。

【アヴィニョン捕囚の全体像チャート】

【背景】
13世紀末~14世紀初頭
 ↓
① 教皇権の絶頂(インノケンティウス3世)
 ↓
② 教皇権 vs 王権(フィリップ4世 vs ボニファティウス8世)
 ↓
③ アナーニ事件(1303):教皇権の屈辱 → 権威の失墜
 ↓
【発生】
1309年
 ↓
教皇クレメンス5世、ローマからアヴィニョンへ移住
 ↓
フランス王権の監視下 → 教皇庁の「政治化・財政化」
 ↓
【展開】
1309~1377(7代の教皇がアヴィニョンに滞在)
 ↓
教皇庁の腐敗進行・反教皇運動の台頭
 ↓
【影響】
① 教皇権の威信低下
② 国家権力の台頭(王権と国民国家形成の加速)
③ 大シスマの引き金に(1378~1417)
④ 宗教改革への伏線に(16世紀)

第1章:教皇権の絶頂から転落へ ― 背景としての13世紀ヨーロッパ

アヴィニョン捕囚を理解するためには、まずその前提として、13世紀におけるローマ教皇の権威と、それに対抗した各国王権の動きを押さえることが必要です。

「普遍的な教皇権」と「領域支配に基づく王権」という、中世ヨーロッパの二重権力構造が動揺し始める時期――その構造変化こそが、アヴィニョン捕囚の伏線となりました。

1. 教皇権の絶頂期:インノケンティウス3世の普遍支配

13世紀初頭、教皇インノケンティウス3世(在位:1198〜1216年)は、教皇権の絶頂期を築きました。

彼は教皇が皇帝の上に立つ「太陽と月の理論」を掲げ、宗教的権威のみならず、政治的・外交的な調停者としてもヨーロッパの諸国家に影響力を行使しました。

従来、キリスト教世界では「教皇=宗教権威」「皇帝=世俗権威」という住み分けがあったものの、インノケンティウス3世は十字軍の推進や皇帝選出への介入を通じ、実質的にキリスト教世界の「最高指導者」として振る舞ったのです。

2. 王権の台頭と教皇権との衝突:新しい政治秩序の芽生え

しかし、13世紀を通じて、フランスやイングランドなどの王権国家の形成が進展し、教皇権と王権の利害が衝突するようになります。

特に注目すべきは、フランス国王フィリップ4世(在位:1285〜1314年)の動きです。

彼は聖職者に課税して財政基盤を拡充しようとしましたが、これに対して教皇ボニファティウス8世が「ウナム・サンクタム(1302年)」を発布し、教皇至上権を主張します。

「教皇権 vs 王権」という中世の根本的対立が、いよいよ表面化したのです。

3. アナーニ事件(1303年) ― 教皇権失墜の象徴

この対立の帰結となったのが、1303年のアナーニ事件です。

フランス王に派遣された側近ノガレによって、ボニファティウス8世はアナーニ(イタリア中部)で拘束され、その威信は大きく傷つきました。

教皇はほどなくして死去し、その後継者クレメンス5世はフランス王の影響力下に置かれることになります。

この事件は、教皇権が王権に屈した象徴的出来事とされ、教皇庁がローマを離れ、アヴィニョンへ移動する直接的な契機となりました。

このように、アヴィニョン捕囚は突然発生した事件ではなく、教皇権の絶頂と転落、さらに王権の台頭という歴史的文脈の中で準備されていた現象でした。

第2章:アヴィニョン捕囚 ― フランス王権の影響下に置かれた教皇庁

1309年、ローマを離れたローマ教皇が南フランスのアヴィニョンに移住し、そこに教皇庁が設置されました。

この「アヴィニョン捕囚」と呼ばれる時代は、教皇庁がフランス王権の支配下に置かれた象徴的期間であり、宗教的権威と政治権力の関係が転換した出来事でした。

本章では、その経緯と政治的背景、そして歴史的意義を整理します。

1. アヴィニョン移転の経緯 ― クレメンス5世とフランス王権

1309年、教皇クレメンス5世は、前教皇ボニファティウス8世がアナーニ事件で失脚したのち、混乱が続いていたローマを離れ、フランス王フィリップ4世の影響下にあるアヴィニョンへ移住することを決断しました。

ローマの治安悪化や政治不安を避ける名目ではあったものの、実際にはフランス王との強力な政治関係に基づく決定でした。

この移住を機に、約70年にわたり7代にわたる教皇がアヴィニョンに居住し続けたため、教皇庁は実質的にフランスの教会となり、ローマ・カトリック世界の中立性を失う結果となりました。

補足:アヴィニョン捕囚は“連行”ではない? ─ 名称と実態のズレに注意

「アヴィニョン捕囚」という名称から、あたかも教皇がフランス王に拘束され、力づくでアヴィニョンへ連れ去られたようなイメージを持ちやすいですが、実際にはそうではありません

この誤解は、1303年のアナーニ事件と結びつけてしまうことが原因です。

  • アナーニ事件(1303年)
    教皇ボニファティウス8世がフランス王側近に拘束される
    → 「教皇権の屈辱」の象徴となった事件
  • アヴィニョン捕囚(1309年〜)
    後継教皇クレメンス5世が、政治混乱にあるローマを離れ、自らの判断でアヴィニョンへ移住
    → 形式上の自主性は保たれつつも、実質的にはフランス王の影響下に置かれた状態

このように、アヴィニョン捕囚は「拘束」ではなく、「政治的従属」という性質を持つ出来事です。名称に引きずられず、その背景にあった“教皇の権威低下”と“政治的な支配の浸透”という構造を押さえることが大切です。

2. アヴィニョン教皇庁の性格 ― 財政化・官僚制の進行

アヴィニョン教皇庁は、従来のローマ教皇庁と比べて、財政運営と中央集権的な官僚制度が強化されました。

  • 聖職売買や免罪符発行などによる収入拡大
  • 教皇庁に財務官僚組織を整備し、中央会計制度を構築
  • 各国教会からの徴税制度が強化され、財政基盤が安定

これらは、教皇庁を“宗教的権威”から“制度としての統治機関”へと転換させる効果があり、後世の宗教改革の対立構造にも影響を残しました。

3. アヴィニョン捕囚の意義 ― 教皇権の世俗化と王権国家の台頭

アヴィニョン捕囚は、教皇権にとって深刻な打撃でしたが、それは同時にヨーロッパの政治構造を変化させる重要な契機ともなりました。

  • 教皇権の神聖不可侵性が揺らぎ、政治権力の優位が明確化
  • フランスやイングランドの王権国家形成が加速
  • 「普遍の教会」という中世的秩序が崩れ、世俗権力の時代へ移行

さらにこの事態は、教皇の正統性をめぐる分裂(大シスマ)や宗教改革という次の歴史的展開へとつながっていきました。

第3章:アヴィニョン捕囚の終焉と大シスマへの連鎖

アヴィニョン捕囚は、約70年にわたる教皇庁の「ローマ離脱」時代を意味しますが、その終わりは新たな混乱の始まりでもありました。

本章では、教皇がローマへ帰還する過程と、それが引き起こした「大シスマ(教会大分裂)」へとつながる歴史的連鎖を整理します。

1. ローマへの帰還 ─ グレゴリウス11世と教皇庁の再移動

1377年、教皇グレゴリウス11世は、カトリック信徒と修道会の強い要請によってローマへの帰還を決断しました。

特に、神秘神学者であるカタリナ(シエナ出身)の働きかけが決定を後押ししたとされます。

教皇のローマ帰還は、長きにわたるアヴィニョン時代の終結を意味しましたが、教皇庁のローマ再定着はスムーズには進みませんでした。

むしろこの決断が、教会内部に新たな混乱の火種を生むことになったのです。

2. 教皇選出をめぐる分裂 ─ ローマ派とアヴィニョン派の対立

1378年、グレゴリウス11世が死去すると、ローマで新教皇ウルバヌス6世が選出されました。しかし、枢機卿の一部はその選出を「民衆の圧力下に行われた不正選挙」として認めず、アヴィニョンで別の対立教皇クレメンス7世を立てました。

これにより、ローマ教皇とアヴィニョン教皇の「二重教皇時代」が始まり、カトリック教世界は深刻な分裂に陥ります。事態はさらに悪化し、1409年のピサ公会議では第三の教皇が選出され、三重教皇時代へと突入しました。

この教会内部の分裂が「大シスマ(1378〜1417年)」と呼ばれます。

3. アヴィニョン捕囚の「負の遺産」 ─ 教皇権の権威失墜と公会議主義の登場

アヴィニョン捕囚によって教皇権が国家に従属したこと、そしてローマ帰還後も教皇の正統性が争われたことは、中世的な「教会の普遍性」そのものを揺るがす事態となりました。

この中で注目される動きが、公会議主義です。

これは「教皇よりも公会議(教会代表が集う会議)が最高権威である」とする考え方で、分裂の収束を目的に台頭しました。公会議主義は1414〜1418年のコンスタンツ公会議で採用され、大シスマの終結をもたらします。

しかし同時に、教皇権の弱体化と教会への批判はさらに強まり、のちの宗教改革(16世紀)への道筋をつけることとなりました。

アヴィニョン捕囚は、「教皇権の政治的従属」という短期的事件で終わらず、「大シスマ」や「宗教改革」といった長期的な歴史変動の出発点となりました。

次章では、この事件が中世ヨーロッパ全体に与えた広範な影響をまとめます。

コラム:アヴィニョン捕囚は本当に“愚策”だったのか? ― 制度強化と権威失墜の二重構造を読み解く

アヴィニョン捕囚という出来事は、通常、「教皇権の弱体化」「大シスマの引き金」というマイナス面に焦点を当てて語られます。確かに、教皇権がフランス王権に事実上従属し、宗教的な普遍性を失ったという意味では痛恨の事態でした。しかし、一方でこの事件は、教皇庁という組織そのものにとっては、実は制度改革や財政強化を同時に進めた期間でもありました。

✅ 1. 「捕囚」は本当に屈辱だけだったのか?

ローマを追われた教皇がフランス領アヴィニョンへ移動し、約70年もの間そこで活動を続けたという事実は、確かに“普遍的な教会”という理念には深刻な打撃を与えました。しかし、アヴィニョンという立地は政治的にも経済的にも安定した環境であり、教皇庁はそこで中央集権的な財政制度と官僚制を整備する大きな転機を得たといえます。

教皇庁はアヴィニョン時代に以下のような改革を進めました:

  • 聖職売買や免罪符発行などを制度化し、安定財源を確保
  • 教皇庁内に財務官僚組織を整備
  • 各地の教会から十分の一税を徴収する仕組みを強化
  • 教皇庁に文官・知識人・法学者が集まり、行政能力が向上

つまり、アヴィニョンでの“捕囚”は、教皇庁が“宗教的権威”から“宗教と財政を統合した中央機関”へと変容する時期でもあったのです。

✅ 2. 宗教的正統性 vs 組織的合理化というジレンマ

教皇庁が中央集権的で合理的な運営体制を整備していった一方で、宗教的な正統性は失われていきました。

「教皇がローマから離れ、フランス王権に影響されている」という事実は、信徒の信頼を揺るがし、教会内部にも不満の火種を生むことになります。

  • 組織は強くなったが、「聖性」は弱まった
  • 財政基盤は安定したが、「普遍性」は損なわれた

こうした“制度強化”と“権威失墜”という二重構造こそ、アヴィニョン捕囚最大の特徴といえるでしょう。

そしてこの矛盾の爆発が、のちの大シスマ(教会大分裂)や宗教改革へとつながるのです。

✅ 3. 「もしアヴィニョン捕囚が成功していたら?」

仮に、教皇庁がアヴィニョン時代に信徒の支持を維持しつつ、財政強化と組織改革を両立できていたなら、後世の宗教改革はより遅れたか、あるいは別の形を取っていたかもしれません。

歴史を「たまたま起きた出来事の積み重ね」としてでなく、「選択肢のなかの一つだった結果」として見られる視点も重要です。

✅ コラムのまとめ

アヴィニョン捕囚は、「教皇権の屈辱」という負の側面と同時に、「教皇庁の制度改革・財政強化」という正の側面を併せ持つ、きわめて複雑な事件でした。

第4章:アヴィニョン捕囚の歴史的意義と中世社会の転換点

アヴィニョン捕囚は、単なる「教皇の移住」事件ではありませんでした。中世ヨーロッパを支えてきた「教皇権」と「王権」の二重構造に亀裂を入れ、宗教的権威と政治的権力の関係性を大きく変える転換点となったのです。

本章では、アヴィニョン捕囚の意義を整理し、その後の歴史とのつながりを確認します。

1. 教皇権の威信低下と宗教的権威の相対化

アヴィニョン捕囚は、ローマ教皇が特定の国家(フランス)の保護下に置かれたことで、「普遍の教会」から「国家に従属する教会」への転換を示す出来事となりました。

  • 教皇権の神聖不可侵性が揺らいだ
  • 王権との対立構造が解消し、国家形成に有利な条件が整った
  • 教皇庁内部の腐敗と財政化が進行し、宗教的信頼が低下した

このような動きは、宗教改革期の「教皇批判」やプロテスタント台頭につながる伏線となります。

2. 大シスマと公会議主義の台頭へつながる

アヴィニョン捕囚が終結し教皇がローマへ戻った後も、教皇の正統性をめぐる分裂は続き、ついには三重教皇時代(大シスマ)に至ります。

その混乱の中で、「教皇より公会議が上位に立つべき」という公会議主義の思想が台頭し、教皇・教会の統治構造改革が議論される契機となりました。

これは、教会権威が中世の不可侵的存在から「議論されうる存在」へと変容していく重要なターニングポイントでした。

3. 中世の終焉と近代国家形成への流れ

アヴィニョン捕囚を契機に、ヨーロッパの権力構造は「普遍主義」から「国家主義」へと傾斜していきます。

  • フランスやイングランドなどの王権国家形成が加速
  • 教会と国家の支配領域が明確化し、政治思想にも影響
  • 中世普遍の象徴(教皇権・聖職者特権)から、近代国家の制度へ移行する流れを促進

そのため、アヴィニョン捕囚は「中世の終わり」と「近代の胎動」の境界線に位置する出来事として位置づけられます。

アヴィニョン捕囚は、その後の大シスマや宗教改革、近代国家形成と密接に関連し、ヨーロッパ史のなかでも特に「構造転換」を象徴する事件でした。

次の章では、この事件が入試でどのように問われるのかを整理し、頻出の論述問題や正誤問題を通して理解を定着させていきます。

アヴィニョン捕囚の入試で狙われるポイントと頻出問題演習

アヴィニョン捕囚は、教皇権の弱体化と中世の普遍的秩序の動揺を示す出来事であり、その後の大シスマや宗教改革、さらには近代国家形成へとつながる重要な転換点です。

入試では背景・経緯・影響を因果関係で説明できるかが問われます。本章では、頻出の論述問題と正誤問題を通じて理解を深めましょう。

【重要論述問題にチャレンジ】

アヴィニョン捕囚が中世の教皇権と王権の関係性にどのような影響を与えたか、背景と結果を踏まえて説明せよ。

13世紀初頭、教皇インノケンティウス3世のもとで頂点に達した教皇権は、普遍的な宗教権威として国家権力を上回る存在と見なされていた。しかし、13世紀後半以降、フランス王権の強化により教皇と王権の対立が激化し、1303年のアナーニ事件を経て教皇権は弱体化した。1309年、クレメンス5世がフランス王の影響下でアヴィニョンに移住した結果、教皇庁は約70年間フランスの監視下に置かれ、宗教的権威が世俗権力に従属する形となった。この事態は教皇権の威信低下とキリスト教世界の分裂を招き、のちの大シスマや宗教改革の伏線となった。

解説
この問題では「背景(教皇権の絶頂)→転換点(アナーニ事件)→アヴィニョン移転→影響(権威低下・大シスマ)という因果関係を整理することが重要です。問題文のキーワードである“中世の権力構造”に対応し、宗教権威と国家権力の力関係の変化を軸に書くと高得点につながります。

アヴィニョン捕囚が宗教改革につながった歴史的意義を説明せよ。

アヴィニョン捕囚によって教皇庁がフランス王の影響下に置かれたことは、教皇の宗教的中立性や神聖性を損ない、「普遍の教会」という構造を弱体化させた。アヴィニョン教皇庁が財政難を補うために聖職売買や免罪符発行を強化したことも、教会への批判を招いた。こうした腐敗と権威失墜は信仰上の疑問を生み、16世紀の宗教改革においてプロテスタント諸派が教皇批判を展開する土台となった。したがって、アヴィニョン捕囚は中世教会から近代教会体制への移行の契機と評価できる。

解説
この問では、アヴィニョン捕囚を「宗教批判の引き金」として位置づける書き方がポイントです。特に、免罪符販売や教皇庁の腐敗といった“改革の直接要因”を具体的に示すことが求められます。

アヴィニョン捕囚が大シスマにつながった要因を、教皇選出の問題に着目して説明せよ。

アヴィニョン捕囚で教皇庁がローマを離れたことで、教皇の正統性が損なわれ、帰還後のローマでも教皇選出をめぐる混乱が生じた。1378年、グレゴリウス11世の死後にローマで選出されたウルバヌス6世に対し、一部の枢機卿が不正選出を主張し、アヴィニョンで対立教皇クレメンス7世を擁立したため、ローマとアヴィニョンに二人の教皇が並立する分裂状態(大シスマ)が発生した。

解説
大シスマの原因を理解するには、「アヴィニョン捕囚で生じた教皇権威の低下」がローマ帰還後の混乱を引き起こしたという因果に注目。教皇選出の正統性が争われた点が高頻度で問われます。

【頻出正誤問題に挑戦しよう!】

問1
アヴィニョン捕囚は、フランス王が教皇を強制的に連行したことで始まった。
解答:✕
【解説】アヴィニョン移転は教皇クレメンス5世が自らの判断で行ったものであり、強制連行ではない。

問2
アヴィニョン捕囚の時期、教皇庁は南フランスのアヴィニョンに拠点を置いていた。
解答:〇
【解説】1309〜1377年、教皇庁はアヴィニョンに移転し、約70年間そこに滞在していた。

問3
アヴィニョン捕囚の原因は、教皇インノケンティウス3世がローマの混乱を避けるためである。
解答:✕
【解説】アヴィニョンへの移転は、アナーニ事件後の混乱を受け、後継教皇クレメンス5世が決断したもの。

問4
アナーニ事件はアヴィニョン捕囚の直接のきっかけとなった。
解答:〇
【解説】アナーニ事件で教皇権が大きく失墜し、その影響で教皇庁がローマから離れることになった。

問5
アヴィニョン捕囚の間、教皇は完全に宗教的中立性を保っていた。
解答:✕
【解説】アヴィニョン滞在中、教皇庁はフランス王権の影響下に置かれ、中立性を損なっていた。

問6
アヴィニョン捕囚の時期に、教皇庁は財政的な強化を進めた。
解答:〇
【解説】教皇庁は聖職売買や免罪符発行などで財政基盤を強化し、官僚システムを発達させた。

問7
アヴィニョン捕囚は約50年続いた。
解答:✕
【解説】アヴィニョン捕囚は約70年間(1309〜1377年)続いた。

問8
教皇クレメンス5世はアヴィニョン捕囚を開始した人物である。
解答:〇
【解説】クレメンス5世はアナーニ事件後に教皇となり、ローマを離れてアヴィニョンを本拠地とした。

問9
アヴィニョン捕囚終了後、教皇は再びローマへ戻ったが、すぐに大シスマが発生した。
解答:〇
【解説】1377年にローマに戻った直後、教皇選出をめぐって大シスマ(1378〜1417)が発生した。

問10
アヴィニョン捕囚の期間中、フランス王は教皇を名実ともに支配していた。
解答:✕
【解説】実質的な政治的影響は強かったが、名目上は教皇の自立性が保たれていた。

問11
アヴィニョン捕囚を終わらせたのは教皇グレゴリウス11世である。
解答:〇
【解説】グレゴリウス11世は信徒の要望を受けてローマへ帰還し、アヴィニョン時代を終わらせた。

問12
アナーニ事件の中心人物にはフィリップ4世がいた。
解答:〇
【解説】フランス王フィリップ4世はボニファティウス8世と対立し、側近ノガレを送り教皇を拘束した。

問13
アヴィニョン捕囚の教皇たちは全員フランス人であった。
解答:〇
【解説】アヴィニョン滞在中の教皇は7人おり、いずれもフランス人だった。

問14
アヴィニョン捕囚は宗教改革の直接的原因となった。
解答:✕
【解説】直接の原因ではないが、権威低下と教会批判が宗教改革の背景をつくった。

問15
アヴィニョン捕囚と大シスマは同時期に起こった出来事である。
解答:✕
【解説】アヴィニョン捕囚は1309〜1377年、大シスマは1378〜1417年と連続するが別の出来事。

問16
アヴィニョン捕囚は教皇庁の制度的整備を促進する側面も持っていた。
解答:〇
【解説】財政管理や官僚制度が進み、教皇庁は制度的に強化された。

問17
アヴィニョン捕囚を終わらせたのはコンスタンツ公会議である。
解答:✕
【解説】コンスタンツ公会議は大シスマを終結させた出来事で、捕囚の終結ではない。

問18
アヴィニョン捕囚の教皇たちは、免罪符の販売を強化して財政を補った。
解答:〇
【解説】教皇庁は免罪符発行などの手段で収入を拡大した。

問19
アヴィニョン捕囚は、教皇と神聖ローマ皇帝の対立によって起こった。
解答:✕
【解説】主な対立相手はフランス王フィリップ4世で、皇帝との対立が原因ではない。

問20
アヴィニョン捕囚は、中世社会における宗教権威の限界を象徴する出来事である。
解答:〇
【解説】捕囚は教皇権の弱体化と王権国家の台頭を象徴する、時代の変化を示す事件である。

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