アングロ=サクソン社会の基礎知識 ― ゲルマン侵入から七王国時代までをわかりやすく解説

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アングロ=サクソン社会とは、5~11世紀にかけてブリテン島の大部分を支配したゲルマン系諸部族(アングル人・サクソン人・ジュート人)によって形成された社会・文化・政治体制のことです。

ローマ帝国支配が崩壊した後、彼らが定住し、複数の王国を築き上げたことで、後のイングランド国家の原型がつくられていきました。

この社会を理解する意義は、イングランドが中世・近世・近代に発展させた「慣習法」「議会政治」「地方行政」などの基盤が、すでにアングロ=サクソン時代に形成されていた点にあります。

今日のイギリス史だけでなく、世界史全体でも重要な“国家形成の過程”を知ることができます。

背景には、5世紀初頭のローマ軍の撤退による防衛力の低下がありました。

その空白を突く形で、ゲルマン人がブリテン島へ侵入し、在地ブリトン人社会と衝突しつつ定住を拡大していきます。

やがて各地に王国が成立し、七王国(ヘプターキー)と呼ばれる多王国体制が出現しました。

アングロ=サクソン社会が残した影響は非常に大きく、英語の起源(古英語), シェアする法慣習, 土地制度, 村落共同体, 王権のあり方など、後の国家形成に長期的な影響を及ぼしました。

さらには、ヴァイキング侵入やノルマン=コンクエストに際しても、アングロ=サクソン社会の枠組みが重要な対抗基盤となりました。

本記事では、ローマ撤退後の混乱、ゲルマン諸部族の侵入、アングロ=サクソン社会の特徴、七王国時代の展開までを体系的に整理し、イングランド成立の核心をわかりやすく解説します。

目次

【序章】アングロ=サクソン社会の全体像チャート

アングロ=サクソン社会がどのように誕生し、どのように七王国時代へ発展したのかを、ローマ撤退からノルマン征服前夜まで一気に俯瞰できるチャートです。

【ローマ支配の終焉(5世紀初頭)】
 └ ローマ軍がブリテン島から撤退
  └ 防衛力の崩壊・政治空白が発生

【ゲルマン諸部族の侵入(5世紀)】
 └ アングル人・サクソン人・ジュート人が渡来
   └ 在地ブリトン人との衝突・勢力拡大

【アングロ=サクソンの定住と王国形成(5〜6世紀)】
 └ 農耕共同体(ヴィレ)の形成
 └ 首長(チーフテン)→王(king)へ権威集中
   └ 地域ごとに複数の小王国が成立

【七王国(ヘプターキー)の成立(6〜8世紀)】
 └ ノーサンブリア
 └ マーシア
 └ ウェセックス
 └ ケント
 └ エセックス
 └ サセックス
 └ イースト・アングリア
   └ 地域ごとの王権競争と覇権争いが進行

【アングロ=サクソン社会の成熟(7〜9世紀)】
 └ キリスト教化(ローマ系宣教団・ケルト系修道院)
 └ 各王国で法典・貨幣・行政制度が整備
   └ 古英語文化の成立

【ヴァイキング(デーン人)侵入(8〜9世紀)】
 └ 北海世界の海賊勢力が来襲
   └ 王国の再編とウェセックスの台頭へ

【イングランド統合への道(9〜10世紀)】
 └ アルフレッド大王が防衛改革
 └ アセルスタン王が初の「イングランド王」へ
   └ 七王国の枠組みはここで終焉

【ノルマン征服前夜(11世紀)】
 └ アングロ=サクソン王国は高度に組織化
   └ 1066年 ノルマン・コンクエストへつながる

第1章 ローマ撤退とゲルマン侵入 ― ブリテン島の空白と新たな勢力の到来

アングロ=サクソン社会が成立する前段階として、4~5世紀にかけてブリテン島がどのようにローマの支配から離れ、ゲルマン系諸部族の侵入を受けたのかを見ていきます。

ローマ帝国の崩壊過程はヨーロッパ全体に大きな影響を与えましたが、ブリテン島では特に政権の空白が深刻で、外来勢力が大規模に定住する土壌が生まれました。

この政治的・軍事的な空白こそが、アングル人・サクソン人・ジュート人の定住につながり、後の七王国時代の出発点となります。

1 ローマ支配の終焉とブリテン島の不安定化

ローマ帝国は1世紀から4世紀にかけてブリテン島を属州として統治し、軍事・行政・都市文化を広げていきました。

しかし4世紀末になると、帝国はゲルマン諸部族の圧力と内乱に苦しみ、西方の防衛線を維持する余力が徐々に失われていきます。

5世紀初頭、ローマ軍は本土防衛を優先するためブリテン島から撤退し、現地のブリトン人社会は突如として軍事的後ろ盾を失いました。

これにより、外敵への防御体制は崩れ、各地で小首長が自力救済に頼る状況が生まれ、政治的な統一も失われていきます。

2 ゲルマン系諸部族の渡来と侵入

ローマ撤退後の不安定な情勢に乗じて、北海沿岸に住むゲルマン系諸部族がブリテン島へ渡来し始めます。

主な部族はアングル人・サクソン人・ジュート人で、いずれも農耕と戦士文化を持つ集団でした。

中にはブリトン人の要請で傭兵として招聘された集団もいましたが、次第に自立し、沿岸部を中心に勢力を拡大していきます。

彼らは武力衝突を繰り返しながら定住地を築き、ローマ化都市の多くが廃れ、ブリテン島の政治地図は大きく書き換えられていきました。

3 定住の進展と社会構造の形成

ゲルマン諸部族は6世紀までにブリテン島各地へ広がり、地域ごとに首長を中心とした小王国を形成していきます。これは後の七王国時代につながる重要な動きでした。

彼らは農耕を基盤とする村落共同体を作り、血縁的な結びつきを重視しつつ、戦士層を中心とした社会階層を築きました。

この段階で徐々に、アングロ=サクソン社会の基本的な枠組みが固まっていきます。

第2章 アングロ=サクソン社会の構造と特色 ― 村落・法・王権のかたち

ゲルマン諸部族がブリテン島に定着して形成したアングロ=サクソン社会の内部構造を整理します。

この社会は、農村共同体を基盤にした素朴な社会に見える一方で、王権・法・自治の仕組みが早い段階で整い、後のイングランド国家の原点となりました。

慣習法の発達や陪審制度の萌芽、村落共同体の自治など、のちのイギリス史の基盤となる制度がこの時期に形づくられていきます。

ここでは、農耕社会の姿から王国統治の仕組みまで、多面的に見ていきます。

1 農耕共同体と家族・血縁の重視

アングロ=サクソン社会の基盤は農耕共同体でした。人々は村落単位で生活し、家族や血縁を中心とした結びつきが強く、戦士層を含む家長制的な社会秩序を維持していました。

この共同体では、土地の耕作・防衛・宗教儀礼などが共同作業として行われ、社会の安定と連帯を形づける役割を果たしました。

土地制度も特徴的で、個人所有と共同利用が混在していました。

耕地の再分配や境界の管理などは、共同体の合議によって決められ、地域のまとまりを重視した仕組みがみられます。

2 慣習法の発達と法典化

アングロ=サクソン社会では、武力だけでなく、早くから慣習に基づく法秩序が尊重されていました。

争いの解決には賠償金(ウィーアギルド)が用いられ、個人の身分に応じて賠償額が異なる仕組みが整備されていました。

また、7世紀にはケント王国のエゼルベルト王が最初の法典を編纂し、以降も多くの王が法を整備していきます。

これにより、慣習法は「国王の法」として体系化され、イングランド法の発達に大きく貢献しました。

法の運用には地域ごとの集会(民会)が重要な役割を果たし、自由農民の参加が認められるなど、一定の自治的性格を持つことも注目されます。

これは後の地方行政や議会的要素の起源として評価されています。

3 王権の成立と統治組織の発展

アングロ=サクソン社会では、当初は首長が共同体の長として権威を持っていましたが、戦争や防衛の必要性が高まる中で王権が強まり、6〜7世紀には明確に国家的な王国が成立するようになります。

王は軍事的指導者であると同時に、法の制定者として権威を持ち、貴族層(イールドリング)や有力戦士層とともに統治を行いました。

領域内には行政区画(シャイア)が形成され、さらにシャイアを細分化したハンドレッドが地域統治の基本単位となりました。

これらの行政区画は後のイングランド王国にも引き継がれ、国家的な統治の基盤として長期的に機能していきます。

4 キリスト教化と文化的発展

7世紀以降、ローマ系宣教団(ケントのアウグスティヌス)とケルト系修道院(アイオナ島など)の二つの系統がアングロ=サクソン王国にキリスト教を広めました。

これにより、宗教生活が整備され、修道院を中心に学問・文書文化が発展していきます。

なかでもノーサンブリア地方は文化的中心地となり、ベーダによる『英国民教会史』が編纂されるなど、イングランド史上重要な知的伝統が形づくられました。

古英語文学もこの時期に始まり、民族的アイデンティティの形成に寄与しました。

第3章 七王国時代(ヘプターキー)の形成と覇権争い

アングロ=サクソン社会が発達し、複数の王国が並立した「七王国時代」(ヘプターキー)を見ていきます。

この時代は、単なる多王国時代ではなく、各王国が軍事力や文化的影響力で覇権を競い合い、イングランド統合への下地をつくった重要な過程です。

とくにノーサンブリア・マーシア・ウェセックスの三大勢力が入れ替わる形で優位に立ち、宗教・文化・行政の発展にも大きな役割を果たしました。

ここでは七王国の特徴と覇権争い、そして統合への流れを整理します。

1 七王国(ヘプターキー)とは何か

七王国とは、6〜8世紀にブリテン島の主にイングランド地域で成立した主要な王国群を指す歴史用語です。

実際には七つに厳密に限定されていたわけではありませんが、重要王国としてノーサンブリア、マーシア、ウェセックス、ケント、エセックス、サセックス、イースト・アングリアの七つがあげられます。

これらの王国はそれぞれ独自の伝統や法制度を持っていましたが、人口・軍事力・地理的条件により勢力が大きく異なり、時期ごとに覇権を握る王国が変わるのが特徴でした。

2 初期の覇権:ノーサンブリアの文化的黄金期

7世紀前半には、ブリテン島北部のノーサンブリアが軍事的・文化的に最も優勢でした。

ベーダの活動や修道院文化の発展により、ノーサンブリアは学問と宗教の中心地として知られます。

キリスト教の影響力もこの地域で強まり、外交的にも大陸と積極的に交流しました。

軍事的にもノーサンブリアは一時的に広い支配圏を築きましたが、内部対立や周辺王国の反発から長期の覇権維持には至らず、8世紀以降は衰退に向かいます。

3 中期の覇権:マーシアの台頭

8世紀に入ると、中央部に位置するマーシアが勢力を強めます。とくにオファ王の時代にはマーシアは最盛期を迎え、外交的にも大陸のカール大帝と接触し、王権の威信を確立しました。

オファの築いた「オファ堤」はウェールズとの境界を象徴する事業であり、マーシアの支配力の大きさを示します。

マーシアの覇権は一時的に広い地域へ及びましたが、周辺国との抗争や王権の継承問題などから安定せず、9世紀には勢いを失っていきます。

4 後期の覇権:ウェセックスの興隆と統合の準備

9世紀に入ると、後のイングランド統合につながるウェセックスが台頭します。

ウェセックスは南部の豊かな農地を背景に安定した王権を維持し、ヴァイキング侵入に対して巧みな防衛政策を展開しました。

とくにアルフレッド大王は、軍制改革・要塞化・法整備・教育振興を進め、王国の防衛と再建に大きく貢献します。

彼の政策はウェセックスを中心とした統一王国の形成へ向けた足場となり、アセルスタンの時代に最初の「イングランド王」への道が開かれていきました。

5 七王国時代の終わりとイングランド統合への道

七王国という枠組みは9〜10世紀に徐々に解体され、ウェセックス主導の統一が進みます。

ヴァイキングの圧力が王国間の結束を促し、ウェセックスの軍事的優勢が決定的となりました。

この過程を経て、アセルスタン王の時代(10世紀前半)には初めて全イングランドが一つの支配領域として統合され、七王国時代は歴史的役割を終えます。

第4章 ヴァイキング侵入とアングロ=サクソン再統合 ― 危機から生まれた国家形成

8〜9世紀に本格化したヴァイキング(デーン人)侵入と、それに対抗する中でアングロ=サクソン王国がどのように再編され、統合の基盤を固めたのかを見ていきます。

北海世界の海賊・商人として知られるヴァイキングは、略奪だけでなく、定住や政治的支配にも関わり、ブリテン島の勢力図を大きく変えました。

この危機に対して、ウェセックスを中心とするアングロ=サクソン諸王国がどのように制度を整備し、軍事改革を進め、ついには「イングランド王国」への道を開いたのかが本章のテーマです。

1 北海世界の活発化とヴァイキングの来襲

8世紀末から、北海を拠点とするヴァイキングの活動が活発になります。

技術の発達したロングシップを使い、沿岸部の修道院や商業地を襲撃し、各地に甚大な被害をもたらしました。

ブリテン島では、当初は略奪が中心でしたが、9世紀に入ると大規模な軍勢が来襲し、征服と定住を狙う動きが強まります。

とくにデーン人の攻勢は激しく、東部には広大なデーン人支配地域(デーンロー)が形成されるなど、アングロ=サクソン王国の存続を揺るがす事態となりました。

2 アングロ=サクソン諸王国の危機とウェセックスの台頭

ヴァイキングの攻撃は七王国の均衡を崩し、いくつかの王国は急速に勢力を失いました。この危機に際して、南部のウェセックスが最も強固に抵抗し、主導権を握っていきます。

ウェセックスは地理的強みだけでなく、王権の安定や農地の豊かさを背景に、軍事力・行政力を強め、他王国よりも有利な体制を整えていました。こうした条件が、のちのイングランド統一を担う原動力となります。

3 アルフレッド大王の防衛改革と文化事業

ウェセックスの中興の祖とされるアルフレッド大王は、ヴァイキングの大軍に対してたびたび苦戦しつつも、最終的には持久戦によって防衛体制を整えました。

彼は要塞(バー)の建設や、軍役制度の再編、海軍の創設など、徹底した軍事改革を実施し、王国の防衛力を飛躍させました。

また、戦乱で衰えつつあった学問・教育の振興にも力を注ぎ、ラテン語文献の翻訳や学者の招聘など文化政策も進めています。

これらの政策はウェセックスを強固な王国として再建し、アングロ=サクソン全体の精神的・文化的な結束を促しました。

4 デーンロー支配と対外関係の変化

デーン人が支配したデーンロー地域では、独自の法や慣習が維持され、アングロ=サクソン社会とは異なる文化要素が持ち込まれました。

しかし、対立だけでなく、貿易や交流を通じて両者は徐々に関係を深め、同化も進みました。

ヴァイキング系の王がイングランドの王として即位する時期もありますが、この混合的な状況が結果として王権の一元化を促す面もありました。

5 アセルスタンによる統一と新たな王国の誕生

アルフレッドの改革を受け継いだウェセックス王家は、デーン人支配地域を徐々に奪回していきました。

10世紀前半、アセルスタン王のもとでついに全イングランドが軍事的・政治的に統合され、アングロ=サクソン王国は一つの国家としての姿を整えます。

これが七王国時代の終焉であり、のちのイングランド王国の出発点となりました。

第5章 ノルマン征服前夜のアングロ=サクソン国家 ― 成熟した王国とその限界

10〜11世紀のアングロ=サクソン王国がどのように成熟し、どのような統治体制を築いていったのかを見ていきます。

この時代のイングランドは、地方行政・租税制度・法制度が高度に整備され、ヨーロッパでも安定した国家として知られていました。

一方で、ヴァイキング系支配者の登場や王位継承問題、諸侯勢力との緊張など、内部には構造的な弱点も抱えていました。

最終的にノルマン征服へと至る背景を理解するためにも、この時期の国家像を丁寧に整理しておくことが重要です。

1 全国統治の完成:シャイア制度と地方行政

アングロ=サクソン王国では、地域統治の枠組みとしてシャイア(州)が全土に設けられ、それを細分したハンドレッドが行政・司法の基本単位となりました。

シャイアには王の代理人である代官が派遣され、徴税・治安維持・軍役の管理などを担当しました。

この地方行政制度は、後のイングランド王国にもほぼそのまま継承され、強固な王権を支える柱となりました。

2 法制度の整備と統治の「ルール化」

アングロ=サクソン王は、慣習法を基盤としながらも、自ら法典を編纂し、王国の統治に必要な規律を整えていきました。

アセルスタン以降、治安の維持や賠償制度、労働や土地に関する規定などが体系化され、社会全体が統一的な法秩序に組み込まれていきます。

また、民会(フォークモート)と呼ばれる地域集会が司法判断に関わるなど、地域共同体の参加が制度化され、イングランド特有の「議論による合意形成」の流れがここで形成されました。

後世の議会政治の基層にあたる部分です。

3 経済発展と貨幣制度の確立

10〜11世紀のイングランドは、農業を中心とする経済が安定し、王権によって貨幣の鋳造権が一元化されていました。

貨幣発行は国家財政を支えるだけでなく、交易や租税の整備に寄与し、王国の経済的まとまりを強める役割を果たしました。

海上交易や都市の発展も進み、北海貿易圏のなかで重要な地位を占めるようになっていきます。

4 ヴァイキング系国王と統合国家の脆さ

この時期の特徴として、デーン人の影響が国家レベルにまで及んだ点があげられます。11世紀前半にはデンマーク王がイングランド王位を獲得し、北海帝国と呼ばれる勢力圏が形成されました。

しかし、ヴァイキング系国王の統治は一時的なもので、在地貴族との関係は緊張をはらんでおり、王権の安定には限界がありました。

王位継承の混乱は政治的な脆弱性を生み、外部勢力が介入する余地を残したままとなっていました。

これは後にノルマン征服を許す背景の一つとなります。

5 エドワード懺悔王とノルマン勢力の影響力拡大

エドワード懺悔王の統治期(11世紀中頃)には、王が若い頃にノルマンディーで育った影響もあり、宮廷にノルマン人が多く登用されました。

このことが在地アングロ=サクソン貴族との対立を招き、政治的な亀裂を深めていきます。

また、エドワード懺悔王に男子継承者がいなかったため、王位継承をめぐる国内の対立が激化し、ノルマンディー公ウィリアムが継承権を主張する大きな契機となりました。

6 ノルマン征服へ:王位継承争いと国家の転機

1066年、エドワードの死後にハロルドが即位すると、これに反発したウィリアムがイングランドに侵攻し、ヘースティングズの戦いに勝利して新たな支配者となります。

アングロ=サクソン王国は強固な制度を整えていましたが、王位継承問題と貴族層との対立を解消できず、外部の強力な軍事勢力の介入を防ぎきれませんでした。

ここに、500年以上続いたアングロ=サクソン支配の時代は幕を閉じ、イングランドはノルマン系の新しい王朝へと大きく転換していきます。

第6章 ノルマン征服とアングロ=サクソン社会の継承 ― 断絶と連続のイングランド史

第6章では、1066年のノルマン征服がイングランドにもたらした変化を整理します。

ノルマン征服は、アングロ=サクソン社会が完全に終わった「断絶」の出来事として語られがちですが、実際には多くの制度・文化が存続し、ノルマン体制に受け継がれました。

征服は急激な転換を生む一方で、それ以前に整っていた行政制度・租税・地方組織などは新王朝の統治にも不可欠な基盤として残りました。

本章では、この「断絶と連続」の視点から、アングロ=サクソンの遺産がどのようにノルマン時代へ引き継がれたのかを明らかにします。

1 ノルマン征服の衝撃と支配体制の再編

ノルマン征服は、イングランドの支配層を大きく入れ替える出来事でした。

ウィリアムはハロルドを破って王位に就き、アングロ=サクソン系貴族の多くを解任し、ノルマン系騎士たちに土地を再分配しました。

これにより封建的な土地所有関係が強化され、王への忠誠を基礎とする軍事・行政体系が整えられました。

さらに、城郭建設の推進、ノルマン式の軍制導入、教会の改革など、支配の枠組みは大きく変わりました。

しかし、この再編が円滑に進んだ背景には、アングロ=サクソン時代の行政制度の整備が影響していました。

2 アングロ=サクソン行政制度の継承

ノルマン王権が高度な統治を行えたのは、前時代から続く行政制度をそのまま活用できたためです。

とくにシャイア制度やハンドレッドは、ウィリアム征服後も継続され、在地の代官(シャイアリーフ)も存続しました。

この地方行政機構は、王の命令を地方へ円滑に届けるための重要な装置であり、ノルマン朝の支配を支える不可欠な基盤でした。

統治の「連続性」に着目することで、ノルマン征服が単なる支配者交代ではなく、「既存の目に見えない制度の上に築かれた新体制」であったことが理解しやすくなります。

3 土地制度・封建化の進展とその背景

ノルマン朝は大規模な土地再配分を行い、封建的主従関係を明確に構築しましたが、これも全くの新制度ではありませんでした。

アングロ=サクソン時代にはすでに領主と農民の関係が成立しており、土地共同体を基盤とする社会構造が存在していたため、ノルマン式封建制は比較的スムーズに受け入れられました。

ただし、封建制の「君主→大領主→下級騎士」という階層的構造はノルマン色が強く、これによりイングランドの領主構造はより中央集権的かつ軍事的な組織へと変わっていきました。

4 文化と宗教の変化:ノルマン化と多層文化の融合

ノルマン人は大陸文化を積極的に持ち込み、建築様式、修道院制度、奉献儀礼など、多方面で文化的刷新を進めました。

ロマネスク建築の教会建設、修道院改革、聖職者の人事改革などが行われ、イングランド教会は大陸の改革運動と連動するようになりました。

一方で、古英語文化や在地の伝統は完全に失われたわけではなく、民間伝承や法律用語の一部などにアングロ=サクソン期の要素が残りました。

言語についてはノルマンの影響で上層文化はフランス語化したものの、庶民の話す英語は存続し、のちに中英語へ発展していきます。

5 統治の中央集権化とドゥームズデー・ブック

ノルマン朝の最大の特徴の一つは、徹底した国家調査の実施です。

1086年に編纂されたドゥームズデー・ブックは、土地・人口・課税の全体像を把握するための詳細な調査台帳であり、国家権力の把握を制度化する画期的な事業でした。

この調査が可能であったのは、アングロ=サクソン時代にすでに租税制度と行政区画が整備されていたためで、前時代の制度の上にノルマン朝の中央集権化が成立したことを示しています。

6 アングロ=サクソン期の遺産とノルマン朝以降の展開

ノルマン征服は大規模な変化をもたらしましたが、その一方でアングロ=サクソン期の行政・法・社会構造が基盤として残り、ノルマン朝・プランタジネット朝の統治を支えました。

こうした連続性があったからこそ、イングランドは比較的早期に中央集権化を達成し、後の議会政治、法体系、王国統治へとつながっていきます。

ノルマン征服は「断絶」と「継承」が交錯する転換点であり、この二面性を理解することがイギリス史全体を読み解く鍵となります。

入試で狙われるポイントと頻出問題演習

入試では知識の暗記だけでなく因果関係や歴史的意義を論理的に説明できるかが問われます。

ここでは重要論点の整理と、論述・正誤問題に挑戦しながら理解を定着させ、最後に入試で狙われる重要ポイントをまとめます。

入試で狙われるポイント(10項目)

  1. ローマ撤退とブリトン人社会の不安定化が、ゲルマン諸部族定住の契機となった点
  2. アングル人・サクソン人・ジュート人による侵入が七王国成立の出発点であること
  3. 村落共同体・血縁社会を基盤としたアングロ=サクソン社会の構造
  4. 慣習法・賠償金制度(ウィーアギルド)の発達と早期の法典化
  5. シャイア・ハンドレッドなど地方行政区画が早期から整っていた点
  6. 七王国時代におけるノーサンブリア→マーシア→ウェセックスの覇権交代
  7. アルフレッド大王の軍事改革・学芸振興が統一への礎となったこと
  8. デーンローの形成とヴァイキング系勢力との共存・対立
  9. アセルスタンによる初のイングランド統一の意義
  10. ノルマン征服後もアングロ=サクソン期の行政制度が継承された点

重要論述問題にチャレンジ(3題)

論述問題1

ローマ撤退後、なぜゲルマン諸部族がブリテン島へ大規模に定住することになったのか、背景と社会構造の変化を含めて述べよ。

解答例
ローマ軍撤退でブリテン島の防衛力が失われ、在地勢力が分裂して外部勢力の侵入を防げなくなったためである。アングル人・サクソン人・ジュート人らは傭兵として招かれた集団も自立し、沿岸部から定住地を拡大した。農耕共同体を基盤とする社会を築き、小王国が各地で形成されたことが七王国時代の始まりとなった。

論述問題2

七王国時代にノーサンブリア・マーシア・ウェセックスの覇権が次々と交代した歴史的要因を述べよ。

解答例
覇権交代は地理条件・指導者の力量・外敵の圧力の差によって生じた。ノーサンブリアは学問・宗教を背景に初期に優位に立ったが、内部対立と周辺国の抵抗で衰退した。マーシアは中央の地理的利点から勢力を拡大したが、王権の継承問題で不安定化した。最終的にウェセックスが防衛力と行政力を整備し、ヴァイキングに対抗できたことで統一の主導権を握った。

論述問題3

ノルマン征服が「断絶」と「連続」の両側面を持つと評価される理由を、行政・社会・文化の観点から述べよ。

解答例
ノルマン征服は支配層をノルマン人に入れ替え、土地制度や軍制、城郭政策、教会改革などで大陸的要素を導入したため「断絶」となる。一方で行政区画のシャイア・ハンドレッドや課税制度、慣習法などアングロ=サクソン期の制度は継続され、国家運営の枠組みとして活用された。また庶民の言語や農村共同体も持続し、中英語文化を形成する基盤となった。このため征服は制度刷新と伝統継承が共存する転換点と評価される。

頻出正誤問題(10問)

問1
ローマ軍撤退後、ブリテン島では在地ブリトン勢力が統一王国を建設し、ゲルマン侵入を防ぎきった。

解答:× 誤り
🟦【解説】
統一は成立せず、分裂が侵入を招いた。

問2
アングル人・サクソン人・ジュート人は、主に北海沿岸部からブリテン島へ移動した。

解答:〇 正しい
🟦【解説】
出自は北海沿岸で、海上移動が中心。

問3
アングロ=サクソン社会では賠償金制度が発達し、法典の編纂も7世紀に始まっていた。

解答:〇 正しい
🟦【解説】
エゼルベルト王の法典が有名。

問4
ノーサンブリアは七王国時代の末期に統一を主導し、イングランド王国を成立させた。解答:× 誤り

🟦【解説】
統一を主導したのはウェセックス。

問5
マーシアのオファ王は、大陸のカール大帝と関係を持ち、対ウェールズ政策にも積極的であった。

解答:〇 正しい
🟦【解説】
オファ堤はその象徴。

問6
デーンローとは、アングロ=サクソン王国全域をデーン人が支配した地域を指す。

解答:× 誤り
🟦【解説】
支配地域は東部中心で全域ではない。

問7
アルフレッド大王は軍事改革だけでなく、教育振興や学問の再建にも取り組んだ。

解答:〇 正しい
🟦【解説】
文化政策も大きな評価点。

問8
アセルスタン王の時代に、初めてイングランド全土が単一の支配領域となった。

解答:〇 正しい
🟦【解説】
彼は初の「イングランド王」。

問9
ノルマン征服後、シャイアやハンドレッドなどの地方行政区画は廃止された。

解答:× 誤り
🟦【解説】
継続され、ノルマン朝の統治基盤に。

問10
ノルマン征服はアングロ=サクソン社会に完全な断絶をもたらし、文化・制度の継承はほぼみられなかった。

解答:× 誤り
🟦【解説】
制度・行政・言語など、多くは連続する。

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