ヨルダンを知る ― 世界史から読み解く、パレスチナ問題の狭間で生き残った王国

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ヨルダンという国は、中東問題を学ぶ中で何度も名前が出てきます。

第一次中東戦争ではヨルダン川西岸を占領し、1970年にはPLOとの衝突で「黒い九月」を経験し、現在もパレスチナ問題と切り離せない存在です。

しかし、こうした重要な局面で登場するにもかかわらず、「ヨルダンそのものがどんな国なのか」は、あまり体系的に習うことがありません。

実はヨルダンは、もともと強固な民族国家として成立した国ではありません。

第一次世界大戦後、列強の思惑とアラブ民族運動の妥協の産物として誕生し、その後はパレスチナ問題という巨大な火種を抱え込みながら国家を維持してきました。

革命やクーデタが相次いだ中東において、王制を守り続けた点でも、ヨルダンはきわめて特異な存在です。

本記事では、ヨルダンを「中東問題の脇役」ではなく、自らの選択と戦略によって生き残ってきた国家として捉え直します。まず第1章では、ヨルダンがどのようにして国家として誕生したのか、その出発点を第一次世界大戦後の国際秩序から整理していきます。

ヨルダン現代史 俯瞰チャート

― パレスチナ問題と王制存続の100年

【出発点】国家なき地域からの出発

【第一次世界大戦前】
オスマン帝国の一地方

明確な国境・民族国家意識なし

【国家の誕生】列強と妥協の産物

【第一次世界大戦後】
英委任統治下で中東再編

1921年
トランスヨルダン首長国成立
(ハーシム家による統治)

✔ 民族国家ではなく
✔ 「安定装置」として誕生した国家

【転換点①】パレスチナ問題の内部化

【1948年 第一次中東戦争】

ヨルダン川西岸を占領・併合

パレスチナ系住民が人口多数派に

✔ 国家の中に民族問題を抱え込む
✔ 王制の正統性と民族自決が衝突

【構造的矛盾】二重国家化

国家の構造
・軍・治安・王制 → トランスヨルダン系
・都市・経済・人口 → パレスチナ系

「個人の権利は認めるが民族としての主権は認めない」
という不安定な均衡

【転換点②】PLO流入と国家主権の危機

【1960年代後半】
PLOの台頭

第三次中東戦争(1967)後
西岸喪失 → PLOが国内で活動拡大

「国家の中の国家」状態

✔ 王制 vs 民族代表
✔ 正統性の正面衝突

【爆発】黒い九月(1970)

ヨルダン軍がPLOを排除

王制の存続を最優先

PLOはレバノンへ移動

✔ 国家主権は回復
✔ 代償としてパレスチナ問題の中心から後退

【転換点③】生存戦略としての穏健路線

黒い九月後

武装闘争と距離を取る

イスラエルと「敵でも同盟国でもない」関係を維持

非公式接触・衝突回避を重視

【到達点】調停国家ヨルダン

【1994年】イスラエル=ヨルダン平和条約

長年の非公式関係を公式化

✔ 革命を起こさない
✔ 戦争を拡大させない
✔ 王制を維持

【現在】ヨルダンという国家の位置

・パレスチナ問題の当事者
・イスラエルとも対話可能
・アラブ世界とも断絶しない

「理想」ではなく
「国家の存続」を選び続けた結果

中東問題を最も現実的に体現した国家

このチャートが示しているのは、ヨルダンの歩みが場当たり的な選択の連続ではなく、国家の存続を最優先した一貫した判断の積み重ねだったという点です。ヨルダンは、強大な理想や民族主義を掲げることで国をまとめたのではなく、むしろ自らの弱さと限界を受け入れながら、衝突を最小限に抑える道を選び続けてきました。

以下では、この流れを一つずつ具体的な歴史の場面に落とし込みながら、ヨルダンがどのようにしてパレスチナ問題と向き合い、王制国家として生き残ってきたのかを詳しく見ていきます。まず第1章では、ヨルダンという国家がどのような条件のもとで誕生したのか、その出発点から確認していきましょう。

【この記事を3行でまとめると!】
ヨルダンは、第一次世界大戦後に列強の思惑の中で誕生した、もともと脆弱な国家でした。パレスチナ問題を内部に抱え込みながらも、民族主義や武装闘争に全面的には乗らず、王制の存続を最優先してきました。その結果ヨルダンは、理想ではなく現実を選ぶことで、中東における「生き残った王国」となったのです。

目次

第1章 ヨルダンという国家はどのように生まれたのか

― 第一次世界大戦後の中東再編とトランスヨルダン

ヨルダンの歴史を理解するうえで最も重要なのは、「この国は自然発生的に生まれた国家ではない」という点です。ヨルダンは、第一次世界大戦後の中東再編の中で、列強とアラブ勢力の妥協によって形作られた国家でした。

1.第一次世界大戦前、この地に「ヨルダン国家」は存在しなかった

第一次世界大戦以前、現在のヨルダン地域は、オスマン帝国の一地方にすぎませんでした。

この地域は明確な国境を持つ政治単位ではなく、遊牧民や農耕民が暮らす周縁地域として扱われていました。つまり、「ヨルダン人」という国民意識や、独立国家としての伝統は存在していなかったのです。

この状況を大きく変えたのが、第一次世界大戦とその後の国際秩序の再編でした。

2.戦後処理とイギリスの委任統治構想

第一次世界大戦でオスマン帝国が敗北すると、中東地域は英仏を中心とする列強の管理下に置かれることになります。
イギリスは、パレスチナを含む地域に対して委任統治を行い、自国の影響力を維持しようとしました。

しかしイギリスは同時に、アラブ人にも独立の期待を抱かせていました。戦時中、アラブ側と協力関係を結んだイギリスは、戦後に完全な植民地支配を行うことが難しい立場に置かれていたのです。

そこでイギリスが選んだのが、「形式上はアラブ人による統治、実質はイギリスの影響下」という折衷案でした。

3.ハーシム家とトランスヨルダン首長国の成立(1921年)

この折衷案の象徴が、トランスヨルダン首長国の成立です。

1921年、イギリスは現在のヨルダン地域をパレスチナ委任統治領の東側として切り分け、アラブ系名門であるハーシム家の一員に統治を任せました。

この国家は、完全な独立国ではなく、軍事・外交の主導権はイギリスが握っていました。それでも、アラブ人による統治という形を取ることで、地域の反発を抑える狙いがありました。

ここで重要なのは、トランスヨルダンが「民族国家としての必然」から生まれたのではなく、列強の都合と現地安定のための政治的産物だったという点です。

4.国家誕生の時点で抱えていた構造的弱さ

トランスヨルダン首長国は、成立当初からいくつもの弱点を抱えていました。

  • 人口が少なく、経済基盤が乏しい
  • 明確な民族的一体感がない
  • 周囲をより強力なアラブ諸国と英委任統治領に囲まれている

こうした条件は、本来であれば国家としての存続を難しくします。それでもヨルダンは、この脆弱な出発点を受け入れたうえで、「大国と衝突しない」「生き残ることを最優先する」国家戦略を選び取っていくことになります。

この姿勢は、後のパレスチナ問題やPLOとの関係、さらにはイスラエルとの微妙な距離感にも一貫して表れていきます。

第2章 パレスチナ問題とヨルダン

― 第一次中東戦争と「ヨルダン川西岸」の獲得

ヨルダンという国家の性格を決定づけたのが、1948年の第一次中東戦争と、その結果として生じたパレスチナ問題への深い関与です。ヨルダンはこの戦争を通じて領土を拡大しますが、それは同時に、将来にわたる大きな矛盾を抱え込むことを意味していました。この章では、ヨルダンがなぜパレスチナ問題の当事者になったのかを、戦争の経緯と戦後処理から整理します。

1.第一次中東戦争への参戦とヨルダンの立場(1948年)

1948年、イスラエルの建国をきっかけに、周辺アラブ諸国が新生イスラエルに攻撃を仕掛け、第一次中東戦争が勃発します。ヨルダンもこの戦争に参戦しましたが、その動機は、他のアラブ諸国とはやや異なるものでした。

エジプトやシリアが「イスラエル建国そのものの否定」を前面に掲げていたのに対し、ヨルダンの最大の関心は、パレスチナ全域の奪回ではなく、ヨルダン川西岸の確保にありました。

ヨルダン王制にとって重要だったのは、過激な民族主義や革命思想が拡散することを防ぎ、自国の安全保障を確保することだったのです。

2.ヨルダン川西岸の占領と併合という選択

戦争の結果、ヨルダン軍はヨルダン川西岸を占領することに成功します。

この地域には、東エルサレムを含む重要な都市が存在し、宗教的・政治的にも大きな意味を持っていました。

ヨルダンはこの占領地を単なる軍事占領地として扱うのではなく、後に併合という形を取ります。これは、難民化したパレスチナ人を自国民として受け入れ、統治下に組み込むという決断でした。

一見すると、この行動は「パレスチナ人保護」のようにも見えます。しかし実際には、独立したパレスチナ国家が誕生するよりも、ヨルダン王制の枠内に取り込む方が安定すると判断した結果でした。

3.人口構成の激変と「二重国家」の誕生

ヨルダン川西岸を獲得したことで、ヨルダンの人口構成は大きく変化します。パレスチナ系住民が急増し、やがてヨルダン国内で多数派を占めるようになっていきました。

この時点で、ヨルダンは事実上、「トランスヨルダン系住民」と「パレスチナ系住民」を抱える二重構造の国家となります。

王制を支える軍や官僚機構の中核はトランスヨルダン系が握り、都市部や経済活動ではパレスチナ系が存在感を高めるという、微妙なバランスが形成されていきました。

この構造は、短期的には国家の安定に寄与しましたが、同時に深刻な緊張の種を内包することになります。

4.「パレスチナの代理国家」という曖昧な立場

第一次中東戦争後、パレスチナ国家は実現せず、ガザ地区はエジプト、ヨルダン川西岸はヨルダンが管理するという状況が続きました。このため、国際社会の一部では、ヨルダンが事実上「パレスチナ人を代表する国家」とみなされることもありました。

しかし、ヨルダン王制にとって、これはきわめて危うい立場でした。パレスチナ人の民族的要求を全面的に認めれば王制の存立が揺らぎ、逆に抑え込みすぎれば反発が強まるからです。

この矛盾は、後にPLOの台頭とともに一気に噴き出すことになります。ヨルダンが抱え込んだパレスチナ問題は、もはや「隣国の問題」ではなく、国家の内部問題へと変質していたのです。

【コラム】パレスチナ人の民族的要求を全面的に認めれば王制の存立が揺らぐのはなぜか?

一見すると、ヨルダンがパレスチナ人の民族的要求を全面的に認めることは、道義的にも自然な選択に見えます。しかし、ヨルダン王制にとってそれは、単なる「寛容な政策」では済みませんでした。それは国家の前提そのものを変えてしまう選択だったのです。

パレスチナ人の民族的要求とは、「権利の拡大」ではなく、「民族としての自己決定」を意味します。すなわち、パレスチナ人が自らの代表を選び、自らの国家のあり方を決める権利を持つという主張です。これは、王による世襲統治を前提とする王制国家の論理とは根本的に異なります。

ヨルダン王制の正統性は、「民族の代表」であることではなく、「秩序と安定を提供する調停者」であることにありました。ハーシム家は、パレスチナ民族を代表する存在として王位に就いたわけではありません。もしパレスチナ人の民族的自決を全面的に認めれば、「なぜ多数派であるパレスチナ人が国家の主導権を握らないのか」という問いが正当なものとして浮上します。

さらに深刻なのは、人口構成の問題です。第一次中東戦争後、ヨルダンではパレスチナ系住民が多数派を占めるようになりました。この状況で民族自決を認めれば、「ヨルダンという国家そのものをパレスチナ国家に転換すべきだ」という主張が強まります。それは、王制国家としてのヨルダンの消滅を意味します。

ヨルダン王制は、こうした事態を避けるために、個人としての市民権は与えつつも、民族としての主権は認めないという危うい妥協を選びました。この矛盾こそが、後にPLOの台頭や黒い九月という形で噴き出すことになります。

つまり、パレスチナ人の民族的要求を全面的に認めることは、ヨルダンにとって「理想的な解決」ではなく、国家の枠組みを根底から揺るがす選択だったのです。

第3章 PLOの流入とヨルダン国家の危機

― 「黒い九月」はなぜ避けられなかったのか

ヨルダンが抱え込んだパレスチナ問題は、1960年代後半になると質的に変化します。それは単なる人口問題や難民問題ではなく、国家主権そのものを脅かす政治問題へと変貌していきました。その転換点となったのが、PLOの本格的な流入と、それに続く1970年の「黒い九月」です。この章では、なぜヨルダンがPLOと衝突せざるを得なかったのかを、段階的に整理します。

1.PLOの台頭とヨルダンへの流入

1960年代後半、パレスチナ解放運動は新たな局面を迎えます。

武装闘争を掲げるパレスチナ解放機構(PLO)が勢力を拡大し、パレスチナ人自身による解放闘争が前面に押し出されるようになりました。

特に1967年の第三次中東戦争後、イスラエルがヨルダン川西岸を占領すると、PLOは活動拠点をヨルダン国内に移していきます。

難民キャンプを基盤に支持を広げたPLOは、次第に「亡命政府」のような性格を帯びるようになりました。

2.「国家の中の国家」と化したPLO

PLOの存在がヨルダン王制にとって深刻だったのは、単に武装組織だったからではありません。PLOは、ヨルダン国内で次第に次のような行動を取るようになります。

  • 独自の武装部隊を保持
  • 難民キャンプでの独自統治
  • 国境を越えた武装闘争の実行

これは事実上、ヨルダン国家の主権が及ばない空間が国内に生まれたことを意味しました。ヨルダンは名目上の主権国家でありながら、国内に別の「政治主体」を抱え込む状態に陥ったのです。

3.王制とPLOの正統性は両立しなかった

ここで決定的だったのは、王制とPLOが同時に正統性を主張できない存在だったという点です。

ヨルダン王制は、「秩序と安定を提供する統治者」として国家を維持してきました。一方PLOは、「パレスチナ民族の正統な代表」として、民族自決を掲げます。

この二つは、妥協しうる政治路線ではありませんでした。

PLOの正統性を認めるほど、王制の統治権は空洞化し、逆にPLOを抑え込むほど、パレスチナ系住民の反発は激化していきます。

4.緊張の激化と1970年「黒い九月」

1970年に入ると、両者の緊張は臨界点を超えます。

PLOの武装行動がエスカレートし、ヨルダン国内の治安は急速に悪化しました。もはや王制にとって、これは「パレスチナ問題」ではなく、国家存亡の問題でした。

同年9月、ヨルダン軍はPLOの拠点に対して大規模な軍事行動を開始します。これが、後に黒い九月と呼ばれる内戦的衝突です。

この戦いは、王制がPLOを国内から排除するという明確な意思表示でした。結果としてPLOはヨルダンを追われ、活動拠点をレバノンへ移すことになります。

5.勝利と引き換えに失ったもの

黒い九月によって、ヨルダン王制は短期的には国家の主権を回復しました。しかしその代償は小さくありません。

  • ヨルダンは「パレスチナの代弁者」という立場を失った
  • パレスチナ人社会との深い亀裂が残った
  • パレスチナ問題は周辺国へ拡散した

つまり、ヨルダンは国家として生き残ることには成功したが、パレスチナ問題の中心からは後退したのです。

この選択は、冷酷で現実的でしたが、同時に中東問題の構造をさらに複雑化させる結果にもなりました。

第4章 ヨルダンとイスラエル

― 敵でも同盟国でもない、危うい共存関係

黒い九月を経て、ヨルダンは国内の主権を回復しました。しかし同時に、パレスチナ解放闘争の前線からは後退し、外交の軸足を「国家の生存」に明確に移していきます。

その中で最も重要だった相手が、イスラエルでした。ヨルダンはイスラエルと敵対関係にありながらも、全面対決を避け、独特の距離感を保ち続けます。この章では、その微妙な関係の意味を整理します。

1.ヨルダンにとってのイスラエルは「倒すべき敵」ではなかった

表面的には、ヨルダンとイスラエルは敵対関係にありました。

第一次中東戦争では交戦国であり、第三次中東戦争ではヨルダン川西岸を失っています。

しかしヨルダン王制にとって、イスラエルは「絶対に打倒すべき存在」ではありませんでした。なぜなら、イスラエルの消滅や大規模戦争は、ヨルダンにとって利益よりもリスクが大きすぎたからです。

  • 戦争が拡大すれば、国内のパレスチナ系住民が再び過激化する
  • 国家基盤の弱いヨルダンは長期戦に耐えられない
  • 周辺大国(シリアやイラク)の影響力が強まる

ヨルダンにとって最大の脅威は、イスラエルそのものよりも、自国が戦場や革命の舞台になることでした。

2.黒い九月後に確立された「非公式接触」という選択

1970年の黒い九月以降、ヨルダンは対外政策を大きく転換します。

それは、イスラエルと正面から対立しない一方で、公式な同盟関係も結ばないという路線でした。

実際には、ヨルダン王制とイスラエル指導部の間では、早い段階から非公式な接触や情報交換が行われていました。これは公表できる関係ではありませんでしたが、互いに「これ以上踏み込まないための安全装置」として機能していました。

ヨルダンは、イスラエルにとっても都合のよい存在でした。

ヨルダンが安定している限り、イスラエル東部戦線は比較的静穏に保たれたからです。

3.ヨルダン川西岸を失った後の現実的選択

1967年の第三次中東戦争で、ヨルダンはヨルダン川西岸を失いました。

この敗北は、領土的には大きな打撃でしたが、国家戦略の面では一つの転換点でもありました。

西岸を失ったことで、ヨルダンは「パレスチナ国家の代理」という曖昧な立場から距離を取り、自国の存続に専念する余地を得たのです。

これ以降、ヨルダン王制は、パレスチナ問題を「自国内で抱え込む問題」から「外交上の重要課題」へと位置づけ直していきます。

この現実的な転換があったからこそ、ヨルダンはイスラエルとの全面対決を避け続けることができました。

4.「敵対しないが、信頼もしない」という均衡

ヨルダンとイスラエルの関係は、友好とも敵対とも言い切れない状態が長く続きました。

ヨルダンはイスラエルの存在を公式に承認しつつも、アラブ世界との関係を考慮し、過度な接近は避けます。

この姿勢は、しばしば「日和見」や「消極的」と批判されました。しかし実際には、これは弱小国家が生き残るための高度な均衡戦略でした。

  • イスラエルと戦争しない
  • しかしイスラエルの代理国家にもならない
  • アラブ世界との断絶も避ける

この三つを同時に満たす選択肢は、極めて限られていたのです。

5.後の和平への伏線としてのヨルダン路線

この「敵でも同盟国でもない」関係は、後にヨルダンがイスラエルと正式な和平関係を結ぶ際の重要な土台となります。

ヨルダンは、エジプトほど劇的な転換をせず、長年積み重ねてきた実務的関係を段階的に表に出していく道を選びました。

つまりヨルダンの対イスラエル政策は、理念ではなく、国家の生存を最優先した結果の積み重ねだったのです。

第5章 穏健国家ヨルダンの成立と現代中東での役割

― 王制の存続と「調停者」という生存戦略

黒い九月を経て、ヨルダンはパレスチナ解放闘争の前線から距離を取り、国家の生存を最優先する路線を明確にしました。その結果形成されたのが、「穏健国家ヨルダン」という立ち位置です。

この章では、ヨルダンがどのようにしてその役割を確立し、現代中東においてどんな存在になったのかを整理します。

1.武装闘争から距離を取るという決断

1970年代以降、ヨルダンはパレスチナ問題に対して一貫して慎重な姿勢を取るようになります。

それは、パレスチナ人を切り捨てたというよりも、武装闘争の主導権を握らないという選択でした。

ヨルダン王制は、PLOを追放した後も、パレスチナ人の存在自体を否定したわけではありません。難民の受け入れや市民権付与を続ける一方で、武装組織が国家の内部に根を張ることだけは断固として拒否しました。

この姿勢は、革命やクーデタが連鎖していた中東世界では、きわめて異例でした。ヨルダンは、「革命の担い手」ではなく「秩序の維持者」になる道を選んだのです。

2.王制の維持と「強すぎない国家」

ヨルダンが王制を維持できた理由は、決して強権的だったからではありません。むしろヨルダン国家は、軍事的にも経済的にも脆弱でした。

しかしその弱さは、逆に次のような利点を生みました。

  • 周辺国から「覇権を狙う国家」と見なされない
  • 列強にとって管理しやすい安定装置となる
  • 国内で過度な動員政治が起きにくい

ヨルダン王制は、国民を過度に動員しない代わりに、国家を破綻させないことを最優先にしました。この「強すぎない国家」という性格が、長期的な安定につながっていきます。

3.イスラエルとの和平とその意味(1994年)

こうした路線の延長線上にあったのが、1994年のイスラエルとの和平です。ヨルダンは、エジプトに続く2番目のアラブ和平国として、イスラエル=ヨルダン平和条約を締結します。

この和平は、劇的な和解というよりも、長年の非公式関係を公式化したものでした。

ヨルダンにとって重要だったのは、イスラエルを全面的に肯定することではなく、戦争状態を終わらせることで国家の存続をより確実なものにすることでした。

この決断を主導したのが、国王フセイン1世です。彼は、アラブ世界からの批判を承知のうえで、ヨルダンの将来を優先しました。

4.調停者としてのヨルダンの役割

和平以降、ヨルダンは中東において独特の立場を占めるようになります。

それは、イスラエルとも対話でき、同時にパレスチナ側とも深い関係を保つ国家という位置づけです。

ヨルダンは、パレスチナ自治政府との関係を維持しつつ、暴力的衝突の拡大を抑える役割を果たしてきました。

表舞台に立つことは少なくても、水面下での調整役として、ヨルダンは欠かせない存在となっています。

5.成功だったのか、それとも妥協だったのか

ヨルダンの歩みは、しばしば「消極的」「妥協的」と評価されます。確かに、民族主義や革命の理想を前面に掲げた国ではありません。

しかし視点を変えれば、ヨルダンは次の問いに答え続けてきた国家でもあります。

国家は、理想のために崩壊してよいのか。
それとも、不完全でも存続することに意味があるのか。

ヨルダンは一貫して後者を選びました。

その選択は、中東という不安定な地域において、国家が生き残るための一つの現実的モデルを示していると言えるでしょう。

まとめ ヨルダンという国家が示す「中東問題のもう一つの答え」

ヨルダンの歴史を振り返ると、この国が常に「理想」ではなく「生存」を選び続けてきた国家であることが見えてきます。ヨルダンは、強大な軍事力や豊富な資源を持つ国ではありません。むしろ、国家としての出発点から、脆弱さと矛盾を抱え込んでいました。

第一次世界大戦後、ヨルダンは民族的必然から生まれた国家ではなく、列強とアラブ勢力の妥協の産物として誕生しました。その時点で、明確な国民統合の基盤は存在していませんでした。にもかかわらず、この国家は百年近く存続し続けています。

その最大の理由は、自らの限界を正確に理解していたことにあります。

ヨルダンは、パレスチナ問題を抱えながらも、それを民族国家として全面的に引き受ける道を選びませんでした。もしそうしていれば、王制は正統性を失い、国家そのものが瓦解していた可能性が高いからです。

1970年の黒い九月は、その選択の残酷さを最も象徴する出来事でした。ヨルダンは、パレスチナ解放運動を全面的に否定したわけではありませんが、武装組織が国家主権を侵食することだけは許しませんでした。ここでヨルダンは、「理念の代表」ではなく「国家の管理者」であることを選び取ったのです。

イスラエルとの関係においても、ヨルダンの姿勢は一貫しています。

敵対はするが、全面対決は避ける。
和平は結ぶが、同盟国にはならない。

この曖昧さは、優柔不断さではなく、弱小国家が生き残るための現実的な均衡でした。

結果としてヨルダンは、革命や内戦に飲み込まれることなく、王制を維持し続け、現代中東において「調停者」としての役割を担うに至ります。これは、民族主義や武装闘争を正面から掲げた国家とは、まったく異なる中東史の一つの到達点です。

ヨルダンの歩みが示しているのは、中東問題において「正しさ」だけが国家を救うわけではない、という現実です。

理想を掲げ続けた結果、国家が崩壊した例は数多くあります。一方でヨルダンは、不完全であっても国家を存続させるという選択を積み重ねてきました。

だからこそヨルダンは、中東問題の主役として語られることは少なくても、中東という地域の現実を最も体現した国家の一つだと言えるでしょう。

パレスチナ問題を理解するためにも、また中東における国家のあり方を考えるためにも、ヨルダンという存在は欠かせない視点なのです。

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