イラン=イラク戦争を詳しく解説

当サイト「もう一度、学ぶ」は、Amazonのアソシエイトとして、適格販売により収入を得ています。また、A8.netなど他のアフィリエイトプログラムを利用しており、当サイト内のリンクを通じて商品を購入した場合、報酬を得ることがあります。

イラン・イラク戦争(1980〜1988年)は、20世紀後半の中東で最も長く、最も犠牲者を出した戦争の一つです。

しかしその一方で、「どちらが勝ったのか分かりにくい」「なぜ8年も続いたのか理解しづらい」という印象を持たれやすい戦争でもあります。

その背景には、イラン革命による体制転換、宗派と政治体制の違い、石油と国境をめぐる利害対立、そして冷戦下の国際政治が複雑に絡み合っていました。とりわけ、革命直後で混乱するイランを好機と見たサダム・フセイン政権の判断が、戦争の引き金となります。

当初、イラクは短期決戦を想定していました。しかし戦争は予想に反して長期化し、塹壕戦、都市攻撃、さらには化学兵器の使用まで含む消耗戦へと変質していきます。

国際社会もこの戦争を止めるどころか、結果的に双方を支援する形となり、戦争は「終わらせられない戦争」へと陥っていきました。

本記事では、イラン=イラク戦争を「なぜ始まったのか」「なぜ長期化したのか」「何を残したのか」という三つの視点から整理し、現代中東問題につながる意味をわかりやすく解説していきます。

この戦争を理解することは、イランと周辺諸国の不信構造、さらにはその後の湾岸戦争や地域不安定化を読み解くための重要な手がかりとなります。

イラン=イラク戦争を俯瞰するチャート
― 革命・開戦・泥沼化・戦後不満から湾岸戦争へ

【1979年 イラン革命】
・王制の崩壊
・反米・イスラーム体制の成立
・革命思想が周辺国へ波及する懸念

【周辺国の危機感】
・イラクは体制動揺を強く警戒
・革命直後のイランは政治・軍事ともに不安定

【1980年 イラクの開戦】
・短期決戦を想定
・国境問題の解決
・革命イランの封じ込めを狙う

【短期決戦の誤算】
・イランが急速に体制を立て直す
・宗教と祖国防衛を結びつけた大規模動員

【戦線の膠着と塹壕戦化】
・決定的勝利を得られない両国
・人的・経済的消耗戦が常態化

【戦争のエスカレート】
・化学兵器の使用
・都市攻撃の拡大
・タンカー戦争による海上の緊張

【国際社会の関与】
・反イランを優先する大国の姿勢
・双方支援による戦争の長期化
・実効性を欠く停戦努力

【1988年 停戦】
・国境線はほぼ開戦前に戻る
・明確な勝者のいない終結

【戦後のイラク】
・莫大な戦費と対外債務
・体制は維持するが国力は低下

【イラクの不満と孤立感】
・「スンニ派・アラブ世界を代表して戦った」という自己認識
・他のスンニ派諸国は軍事的に深入りせず
・戦後も十分な見返りは得られず

【湾岸諸国との対立】
・借金免除をめぐる不満
・石油政策への反発
・とくにクウェートとの関係悪化

【1990年 クウェート侵攻】
・戦後処理への不満が強硬行動へ転化

【湾岸戦争へ】

イラン=イラク戦争は、8年にわたる消耗戦として終結したが、その戦後に生まれた不満と孤立は解消されなかった。とりわけイラクにとって、この戦争の「意味」が共有されなかったことは、次の行動を正当化する心理的土台となり、やがて湾岸戦争へと連なっていきます。

【この記事を3行にまとめると!】
イラン=イラク戦争は、1979年のイラン革命による体制転換への恐怖から、イラクが短期決戦を想定して開戦した戦争でした。しかしイランの動員によって戦争は長期の消耗戦に陥り、化学兵器使用や国際介入を伴いながらも、明確な勝者のないまま終結します。戦後、スンニ派世界を代表して戦ったというイラクの自己認識が報われなかった不満が、やがてクウェート侵攻と湾岸戦争へとつながりました。

目次

第1章 イラン革命後の中東とイラクの開戦判断


1979年のイラン革命は、イラン一国の体制転換にとどまらず、中東全体の力関係を大きく揺さぶる出来事でした。

親米的な王制国家が崩壊し、反米・反西側を掲げるイスラーム体制が誕生したことで、地域秩序そのものが不安定化します。とりわけこの変化を深刻に受け止めたのが、隣国イラクでした。

1.革命直後のイランが抱えていた不安定要因

イラン革命後の国内は、決して「強い革命国家」ではありませんでした。王制を支えていた軍の幹部は追放・処刑され、軍の統制は大きく乱れます。

新体制の中枢では、革命理念を重視する宗教指導者と、国家運営を担う実務官僚との間で緊張関係が続いていました。さらに、アメリカとの国交断絶によって国際的に孤立し、経済制裁も重なります。

外から見れば、イランは「革命の熱気はあるが、国家としては脆弱な状態」に映っていました。この認識が、周辺国に誤った期待を抱かせることになります。

2.イラクが感じた脅威と好機

イラクは、体制としては世俗的な軍事独裁国家でしたが、国民の多数派はシーア派です。イラン革命が掲げた「イスラームによる政治支配」という思想は、イラク国内のシーア派を刺激しかねないものでした。

革命思想が国境を越えれば、自国の支配体制が揺らぐ可能性がある――これがイラク指導部の最大の懸念でした。

同時に、革命直後のイランは軍事的に混乱しており、「今なら主導権を握れる」という判断も生まれます。こうして、脅威と好機が同時に存在する状況が、イラクを開戦へと傾かせていきました。

3.サダム・フセインの計算

開戦を最終的に決断したのは、イラク大統領のサダム・フセインでした。彼はこの戦争を、長期消耗戦ではなく「短期間で勝利を収める限定戦争」と想定していました。イラン南西部の石油地帯を制圧し、国境問題を解決し、地域大国としての地位を確立する――それが戦争の狙いでした。

また、イラン革命に警戒する湾岸諸国や西側諸国が、少なくとも黙認するだろうという読みもありました。イラクは自らを「革命拡大を食い止める防波堤」と位置づけ、国際的孤立を避けられると考えていたのです。

4.1980年、戦争への突入

こうした判断のもと、1980年9月、イラクはイランへの侵攻を開始します。名目は国境問題の是正でしたが、実際には革命直後の混乱に乗じた先制攻撃でした。しかしこの決断は、結果的に大きな誤算となります。イランは急速に体制を立て直し、「祖国防衛」を掲げて国民を動員し始めたのです。

イラン=イラク戦争は、こうして「短期決戦のつもりで始まった戦争」が、誰も想定しなかった長期消耗戦へと変質していく入口に立ちました。

第2章 短期決戦の誤算と戦争の長期化

イラクは、革命直後で混乱するイランに対し、軍事的優位を背景に短期間で決着をつけるつもりでした。

しかし開戦から数か月も経たないうちに、その想定は大きく崩れていきます。イラン=イラク戦争は、この段階で「勝敗を決める戦争」から「耐え続ける戦争」へと性格を変えていきました。

1.イランの急速な立て直しと「祖国防衛」の動員

開戦当初、イラン軍は確かに混乱していました。革命によって旧王制時代の軍幹部が排除され、指揮系統は不安定でした。

しかし、イラクの侵攻はイラン社会に強烈な危機意識をもたらします。戦争は体制内部の対立を一時的に棚上げさせ、「祖国と革命を守る戦い」という大義のもとで国民を結束させました。

とくに重要だったのが、革命防衛隊や民兵組織の大量動員です。装備や訓練の面では劣っていたものの、イラン側は圧倒的な人的資源と宗教的情熱を背景に前線へ人員を送り込みました。

この段階で、戦争は単なる国家間戦争ではなく、体制の存亡をかけた戦争へと位置づけ直されます。

2.イラクの進撃停止と戦線の固定化

一方のイラクは、開戦直後こそ国境地帯で一定の成果を挙げましたが、決定的な勝利には至りませんでした。イラン南西部の要衝を完全に制圧することができず、前線は次第に膠着します。短期で講和に持ち込むという構想は現実味を失い、イラクも撤退できない状況に追い込まれていきました。

戦線が固定化すると、両国は防御を固め、塹壕を掘り、砲撃と消耗戦を繰り返すようになります。この構図は、第一次世界大戦を思わせるものであり、近代戦でありながら極めて旧式な戦争形態が中東で再現されることになりました。

3.「勝てないが、負けられない」戦争へ

戦争が長期化するにつれ、両国とも決定的勝利を収める力を欠いていることが明らかになります。しかし同時に、簡単に戦争を終わらせることもできませんでした。イラクにとっては、ここで撤退すれば体制の威信が失われます。イランにとっても、侵略を受けたまま妥協すれば革命体制の正統性が揺らぎかねません。

こうして戦争は、「勝つための戦争」ではなく、「負けを認めないための戦争」へと変質していきます。前線では小規模な攻勢と反攻が繰り返される一方、戦局を根本から変える決定打は生まれませんでした。

4.消耗戦が生み出した新たな段階

この段階で、イラン=イラク戦争は人的・経済的消耗を前提とする戦争となります。都市へのミサイル攻撃、石油施設への打撃、補給路の妨害など、戦場は前線から後方へと広がっていきました。戦争はもはや兵士だけのものではなく、両国の社会全体を巻き込む長期戦へと突入していきます。

短期決戦の誤算は、結果として8年に及ぶ消耗戦への入口となりました。この時点で、イラン=イラク戦争は「終わらせる方法が見えない戦争」へと姿を変えていたのです。

第3章 消耗戦の激化と国際社会の関与

戦線が膠着し、決定的な勝敗が見えなくなる中で、イラン=イラク戦争は新たな段階へと進みます。

それは、戦場の拡大と戦争手段のエスカレート、そして国際社会の本格的な巻き込みでした。この戦争は、もはや両国だけの問題ではなく、中東全体、さらには世界経済に影響を及ぼす存在になっていきます。

1.化学兵器の使用と戦争の倫理的崩壊

戦争が長期化するにつれ、イラクは通常兵器だけでは戦局を打開できないと判断し、化学兵器の使用に踏み切ります。毒ガスは前線のイラン兵士に対してだけでなく、イラク国内の反体制勢力にも用いられ、多数の犠牲者を出しました。

これは明確な国際法違反でしたが、当時の国際社会は決定的な制裁を科すことができませんでした。

この事実は、イラン=イラク戦争が「止められない戦争」へと転落していく象徴的な出来事でした。倫理的な一線を越えてもなお、戦争を継続することが黙認されたことで、戦争終結への圧力は一層弱まっていきます。

2.タンカー戦争と世界経済への波及

1980年代半ばになると、戦争の影響は戦場から海へと広がります。両国は相手国の経済基盤を狙い、ペルシア湾を航行する石油タンカーや港湾施設への攻撃を繰り返しました。いわゆる「タンカー戦争」です。

この局面で問題となったのは、戦争が石油供給の不安定化を通じて、世界経済に直接影響を与え始めた点でした。湾岸諸国の安全確保が国際的な関心事となり、アメリカをはじめとする大国が軍事的プレゼンスを強めていきます。戦争は「地域紛争」の枠を越え、国際政治の舞台へと押し出されていきました。

3.大国と周辺国の思惑

冷戦下において、この戦争は極めて扱いづらい存在でした。イランは反米・反西側の姿勢を鮮明にし、一方のイラクは「革命の拡大を防ぐ存在」として見なされます。その結果、アメリカやソ連、湾岸諸国、欧州諸国は、立場の違いはあれど、事実上イラクを支援する構図が生まれました。

ただし、その目的は「イラクを勝たせること」ではありませんでした。むしろ重要だったのは、イランを封じ込めつつ、どちらか一方が決定的勝利を収める事態を避けることでした。この曖昧な関与が、戦争の長期化を結果的に後押しすることになります。

4.国連の限界と停戦への遠い道

国際社会は和平仲介を試みましたが、実効性のある解決策を提示することはできませんでした。

停戦案は提示されても、両国が受け入れる条件にはならず、戦争は惰性のように続いていきます。ここに、冷戦期の国際秩序が抱えていた限界がはっきりと現れました。

イラン=イラク戦争は、国際社会が関与すればするほど複雑化し、「誰も止められない戦争」へと変質していったのです。

第4章 戦争の終結と「勝者なき結末」

8年に及んだイラン=イラク戦争は、劇的な決戦や明確な勝敗を伴うことなく終結しました。

その結末は、勝利でも敗北でもなく、両国が疲弊しきった末の停戦でした。この「勝者なき結末」こそが、この戦争の本質を最もよく表しています。

1.イランが停戦を受け入れた理由

長期にわたる消耗戦の中で、イランは人的資源を動員し続けてきましたが、次第に限界が明らかになっていきます。経済制裁と戦費負担によって国内経済は疲弊し、戦争への支持も一様ではなくなっていました。さらに、国際的孤立の中で戦争を続けることの現実的な見通しが失われていきます。

こうした状況の中、1988年、イランは国連の停戦決議を受け入れました。これは革命体制にとって苦渋の決断でしたが、戦争を続けることで得られるものがほとんど残されていないことを認めざるを得なかったのです。

2.イラクにとっての「引き分け」の意味

一方、イラクは「革命イランの封じ込め」という当初の目的を完全に達成したわけではありませんでした。戦争によってイラン体制が崩壊することはなく、地域秩序が安定したとも言い難い状況でした。それでも、イラク政権はこの戦争を「侵略を阻止した防衛戦争」と位置づけ、体制の正統性を保とうとします。

しかし現実には、イラクもまた莫大な戦費と犠牲を背負い、深刻な財政難に陥っていました。この戦後の負担が、後に湾岸地域の新たな緊張を生み出す要因となっていきます。

3.国境は変わらず、犠牲だけが残った

停戦後、両国の国境線はほぼ開戦前の状態に戻りました。戦争の名目となった領土問題は、結局のところ解決されなかったのです。その一方で、数十万とも言われる死者、膨大な難民、破壊された都市とインフラが残されました。

この点において、イラン=イラク戦争は「目的と成果が極端に乖離した戦争」だったと言えます。国家の威信や体制の存続を賭けた戦争は、結果的に両国を弱体化させただけでした。

4.戦後に生まれたイラクの不満と孤立感

イラン=イラク戦争の終結は、軍事的には引き分けに近い形でしたが、イラク側には強い不満と被害者意識が残りました。イラク指導部はこの戦争を、単なる国境紛争ではなく、シーア派革命の拡大を阻止するために、アラブ・スンニ派世界を代表して戦った戦争と位置づけていたからです。

しかし、その自己認識とは裏腹に、戦後の現実は厳しいものでした。湾岸諸国は戦時中、資金面でイラクを支援しましたが、軍事的に直接参戦することはなく、戦後もイラクに特別な政治的配慮を示すことはありませんでした。戦時中の支援は「連帯」ではなく「貸し付け」として扱われ、イラクは巨額の対外債務を一国で背負うことになります。

とりわけ、クウェートとの関係悪化は象徴的でした。イラク側には、「革命イランから湾岸諸国を守ったのは自分たちだ」という意識がありましたが、その評価は共有されませんでした。石油政策や債務問題をめぐる対立は、単なる経済摩擦ではなく、戦争の意味を否定されたという感情的反発を伴うものとなっていきます。

このように、イラン=イラク戦争は終結したものの、イラクには「犠牲を払ったのに報われなかった」という強い孤立感が残されました。この戦後の不満と行き詰まりこそが、後にイラクをより強硬な行動へと向かわせる心理的・政治的土壌となっていきます。

5.戦争が中東にもたらした影響

この戦争は、中東全体に長期的な影響を残します。イランとアラブ諸国の不信感は固定化され、地域の分断はより深まりました。また、イラクが抱えた戦後の財政的・政治的行き詰まりは、後の湾岸戦争へとつながる一因となります。

イラン=イラク戦争は終結しましたが、そこで生まれた対立や不信、暴力の連鎖は、形を変えながら現代中東に引き継がれていきました。戦争は終わっても、その影は消えなかったのです。

まとめ イラン=イラク戦争は何を残したのか

イラン=イラク戦争は、8年という長期にわたって続いたにもかかわらず、明確な勝者も敗者も生まないまま終結しました。しかし、その影響は決して曖昧なものではありませんでした。

この戦争は、中東の政治構造と不信の連鎖を固定化し、現在にまで続く地域不安定化の重要な出発点となったのです。

1.「体制防衛の戦争」が残した不信構造

この戦争は、領土や国境をめぐる争いとして始まりましたが、実際には両国にとって「体制を守るための戦争」でした。

イランは革命体制の正統性を、イラクは独裁体制の存続を、それぞれ戦争によって支えようとしました。その結果、妥協は裏切りと見なされ、戦争は容易に終わらせられなくなります。

この構図は、戦後も中東各地で繰り返されることになります。政権の存続と国家安全が直結する状況では、対話や妥協は選択肢になりにくく、武力衝突が長期化しやすいのです。

2.国際社会が「止められなかった戦争」

イラン=イラク戦争は、冷戦下の国際秩序の限界をはっきりと示しました。大国や周辺国は戦争を止めるよりも、「どちらかが勝ちすぎない」状態を維持することを優先しました。

その結果、武器供与や資金援助が断続的に行われ、戦争は消耗戦として延命されます。

この経験は、国際社会が関与しても必ずしも紛争が解決に向かうとは限らないことを示しています。むしろ、利害が交錯するほど、戦争は複雑化し、終結の糸口を失うことがあります。

3.湾岸戦争への連続性

この戦争の最大の「後遺症」は、イラクが背負った戦後の行き詰まりでした。莫大な戦費と負債、地域での地位低下は、イラクを新たな行動へと駆り立てます。その延長線上にあったのが、1990年のクウェート侵攻と湾岸戦争でした。

つまり、イラン=イラク戦争は単独の歴史的事件ではなく、その後の中東戦争を連鎖的に生み出す起点だったと言えます。

4.現代中東を理解するための視点

イラン=イラク戦争を理解する最大の意義は、現代中東における「疑心暗鬼の政治文化」を読み解ける点にあります。体制崩壊への恐怖、宗派対立の政治利用、国際社会への不信――これらはすべて、この戦争の過程で強化されました。

現在のイラン観や湾岸諸国の安全保障政策を理解するうえでも、この戦争は避けて通れません。イラン=イラク戦争は、過去の戦争ではなく、今なお中東の政治を規定し続ける「現在進行形の歴史」なのです。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次