イル=ハン国をわかりやすく解説|成立・イスラーム化・滅亡までを整理

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イル=ハン国は、13世紀半ばにチンギス=ハンの孫フレグがイラン高原に建てたモンゴル系国家です。

モンゴル帝国の西方遠征によって成立したこの政権は、「フレグ=ウルス」とも呼ばれ、イラン・イラクを中心とする西アジア世界を支配しました。

首都はタブリーズに置かれ、名目上は元朝を宗主と認めていましたが、実際には西アジアに根ざした独自の統治を行っていきます。

イル=ハン国の支配地域には、古くからイスラーム文明が発展してきた地域が多く含まれ、住民の圧倒的多数はムスリムでした。

そのため、モンゴル的な征服政権として出発したイル=ハン国は、現地社会との関係調整を避けて通ることができず、その転換点となったのが、ガザン=ハンの時代に行われたイスラーム教の国教化でした。

さらに重要なのは、イル=ハン国が単なる一時的な征服国家にとどまらず、後のティムール朝やウズベク系諸国家につながる政治的・社会的基盤を形成した点です。

モンゴル的軍事支配とペルシア官僚制、イスラーム的正統性が結びついたこの統治モデルは、王朝の滅亡後も継承され、中央アジアから西アジアにかけての国家形成に大きな影響を与えました。

このようにイル=ハン国は、モンゴル帝国の拡張によって成立した国家であると同時に、モンゴル世界からイスラーム世界、さらにティムール朝・ウズベク系国家へと連なる歴史の中継点として位置づけることができます。

意外に重要イル=ハン国!

一見すると「モンゴル帝国の一地方政権」に見えるイル=ハン国ですが、実は世界史の流れを大きく転換させた、きわめて重要な王朝です。ポイントを整理すると、次の3点に集約できます。

  • 中世イスラーム世界を終わらせた
    • バグダード攻略によってアッバース朝を滅ぼし、カリフを中心とする中世イスラーム世界の政治秩序に決定的な終止符を打った。
  • 近世イスラーム国家(ティムール朝・サファヴィー朝)を準備した
    • モンゴル的軍事支配、ペルシア官僚制、イスラーム的正統性を結びつけた統治モデルを形成し、後の近世イスラーム国家が成立するための政治的・社会的基盤を整えた。
  • 「征服 → イスラーム化 → 国家化」の典型例
    • 征服王朝として成立した後、イスラームに改宗し、単なる征服政権から安定した統治国家へと転換したプロセスを最も分かりやすく示す事例。

☞ イル=ハン国は、「中世の終わり」と「近世の始まり」をつなぐ転換点の王朝として理解すると、その重要性が一気に見えてきます。

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目次

イル=ハン国の成立と支配地域

イル=ハン国は、モンゴル帝国の拡大過程で西アジアに成立した国家です。

この章では、イル=ハン国がどのような経緯で誕生し、どの地域を支配したのかを整理し、その後の展開を理解する前提を確認します。

1.フレグの西方遠征と国家の成立

イル=ハン国成立の直接的な契機となったのは、チンギス=ハンの孫フレグによる西方遠征です。

フレグはモンゴル皇帝の命を受けて西進し、イラン高原からメソポタミアにかけての地域を制圧しました。

1258年にはバグダードを攻略してアッバース朝を滅ぼし、イスラーム世界の政治的中心を崩壊させます。この征服地を基盤として、西アジアに成立した政権がイル=ハン国です。

【正誤問題】
イル=ハン国は、モンゴル帝国の皇帝(大ハン)から派遣されたフレグによって、西アジアに成立した。
解答:〇
☞ モンゴル帝国の西方支配国家という位置づけが重要。

2.イル=ハン国の支配地域と地理的特徴

イル=ハン国の支配地域は、イラン高原とイラクを中心とする西アジア一帯に広がっていました。

現在のイラン、イラク、アゼルバイジャン、アルメニアなどを含むこの地域は、農業生産力の高い地域と東西交通の要衝を併せ持つ戦略的な空間でした。

中央アジアを主な舞台としたチャガタイ=ハン国とは異なり、イル=ハン国は古くからイスラーム文明が発展してきた地域を直接支配した点に大きな特徴があります。

【正誤問題】
問① イル=ハン国の支配地域には、イラン高原やイラク地方が含まれていた。
解答:〇
☞ 「中央アジア」ではなく西アジア・イラン世界

問② イル=ハン国は、チャガタイ=ハン国と同様に、中央アジアを主な支配領域とした国家である。
解答:✕
☞ イル=ハン国:西アジア(イラン・イラク)、チャガタイ=ハン国:中央アジア

論述問題にチャレンジ

イル=ハン国とチャガタイ=ハン国を比較し、両者の共通点と相違点を一つずつ挙げて説明せよ。

両国はいずれもモンゴル帝国分裂後に成立し、次第にイスラーム化が進んだ点で共通する。一方、イル=ハン国はイラン官僚制を取り込み国家統治を制度化したのに対し、チャガタイ=ハン国は分裂が進み、ティムールの台頭を招く不安定な政治状況が続いた点で異なる。

3.モンゴル帝国との関係と位置づけ

イル=ハン国は、名目上はモンゴル皇帝(大ハン)に従属する立場にあり、モンゴル帝国を構成する一政権として成立しました。

しかし、地理的距離の大きさや帝国中枢の変化により、次第に独立性を強めていきます。

その結果、イル=ハン国はモンゴル帝国の一部でありながら、西アジアに根ざした地域国家として独自の発展を遂げることになります。

論述問題にチャレンジ

イル=ハン国を、モンゴル帝国分裂後の諸国家の中でどのように位置づけるべきか説明せよ。

イル=ハン国は、モンゴル帝国分裂後に成立した四大ハン国の一つであり、西アジアを支配した国家である。軍事支配を担うモンゴル系支配層と、行政を担うペルシア系官僚制を融合させ、後のティムール朝やサファヴィー朝につながる統治モデルを形成した点に特徴がある。

第2章 イスラーム化と統治体制の完成(ガザン=ハン)

イル=ハン国は、成立当初はモンゴル的な軍事支配を基盤とする征服政権でした。しかし、支配地域の大半がイスラーム社会であったことから、単なる軍事力だけでは統治の安定を維持できませんでした。

この章では、ガザン=ハンの時代に進められたイスラーム化と、それに伴う統治体制の整備を通じて、イル=ハン国がどのように「国家」として完成していったのかを整理します。

1.ガザン=ハンの即位とイスラーム化

イル=ハン国の歴史における大きな転換点が、ガザン=ハンの即位です。

1295年、ガザン=ハンはイスラームに改宗し、これを国家としても公認しました。これにより、イル=ハン国は名実ともにイスラーム国家へと転換します。

この改宗は、突発的な宗教選択ではありませんでした。イル=ハン国は、成立過程においてモンゴル帝国の征服活動の一環としてアッバース朝を滅ぼし、その結果、イスラーム世界の中枢地域を直接支配する立場に立ちました。

征服者として外部から支配する段階では問題とならなかった宗教的正統性は、ムスリム住民が圧倒的多数を占める社会を恒常的に統治する段階に入ると、避けて通れない課題となります。

こうしてイル=ハン国は、軍事力だけでは支配を正当化できない状況に直面し、初めてイスラーム社会からの支持を必要とするようになりました。

ガザン=ハンの改宗は、まさにこの統治上の要請に応えるものであり、アッバース朝滅亡後の「カリフなきイスラーム世界」において、支配者自身が宗教的正統性を引き受ける選択だったと位置づけることができます。

このイスラーム化は、宗教政策の変更にとどまりませんでした。ムスリム住民が多数を占める社会において、支配者自身がイスラームを受容したことは、統治の正統性を大きく高める効果を持ちました。

以後、イル=ハン国はウラマーとの協調を進め、宗教的権威を統治の基盤に取り込みながら、征服政権から安定的なイスラーム国家へと性格を転換していきます。

【混同注意!】
フレグ アッバース朝を滅ぼした(1258年)
ガザン=ハンイスラームに改宗した(1295年)

2.制度改革と統治体制の整備

ガザン=ハンの時代には、宗教面の転換と並行して、統治制度の整備が進められました。財政改革や徴税制度の再編が行われ、モンゴル的な軍事支配と、イラン系官僚制を基盤とする行政機構が結びつけられていきます。

この結果、イル=ハン国は、征服によって成立した政権から、安定的に地域を支配する国家へと変化しました。ここにおいて、イル=ハン国は単なるモンゴルの遠征政権ではなく、西アジア社会に適応した統治国家としての性格を明確にします。

3.ラシード=アッディーンと『集史』|統治を支えた知の政策

この統治体制の完成を支えた存在が、宰相を務めた ラシード=アッディーン です。彼はガザン=ハンおよびその後継者に仕え、財政や行政の実務を担うと同時に、国家事業として大規模な歴史編纂を主導しました。

その成果が、歴史書 集史 です。『集史』は、モンゴルの歴史のみならず、中国・イスラーム世界・ヨーロッパにまで視野を広げた普遍史として構想され、当時のユーラシア世界を横断的に描いた点に特徴があります。

この編纂事業は、単なる学術活動ではありませんでした。多民族・多宗教を支配するイル=ハン国にとって、歴史を体系化し、モンゴル支配を世界史の流れの中に位置づけることは、支配の正統性を補強する重要な政治的意味を持っていました。

ラシード=アッディーンと『集史』は、イル=ハン国が武力だけでなく、制度と知によって統治を安定させようとした国家であったことを示しています。

第3章 周辺イスラーム国家との対峙とイル=ハン国の限界

第2章で見たように、イル=ハン国はガザン=ハンの時代にイスラーム化と統治体制の整備を進め、国家としての安定を獲得しました。

しかしその一方で、対外関係においては、モンゴル帝国期のような無制限の拡張を続けることはできませんでした。

この章では、マムルーク朝およびルーム=セルジューク朝との関係を通じて、イル=ハン国がどのような国際環境の中に位置づけられていたのかを整理します。

1.マムルーク朝との抗争|モンゴル進出の限界

イル=ハン国は、フレグの西征によってイラン・イラクを制圧した後、さらにシリア方面へ進出し、エジプトを拠点とする マムルーク朝 と対峙することになります。両者の衝突を決定づけたのが、1260年の アイン=ジャールートの戦い です。

この戦いでモンゴル軍はマムルーク軍に敗北し、以後、モンゴル勢力がエジプトへ進出する道は断たれました。この敗北は単なる一戦の失敗ではなく、統一的なモンゴル帝国による西方拡張が、初めて軍事的に明確な限界を示した出来事として世界史的に重要です。

イル=ハン国はその後もシリアをめぐってマムルーク朝と抗争を続けましたが、決定的な勝利を得ることはできませんでした。

その結果、イル=ハン国の勢力圏はイラン・イラク方面に限定され、エジプト・シリアを含むイスラーム世界全体を制圧する構想は実現しませんでした。

ここに、イル=ハン国が「イスラーム世界を完全に征服する帝国」ではなく、既存のイスラーム国家と並立する一国家へと位置づけ直される転換点を見ることができます。

2.ルーム=セルジューク朝との関係|従属とアナトリアの再編

一方、アナトリアでは、イル=ハン国は ルーム=セルジューク朝 と関係を持ちました。ルーム=セルジューク朝はすでにモンゴルの侵攻によって弱体化しており、イル=ハン国の成立後は、その宗主権下に置かれる形となります。

この関係は、マムルーク朝との関係とは異なり、全面的な抗争ではなく、従属と間接支配という形を取りました。ルーム=セルジューク朝は形式的には存続したものの、実質的な主導権はイル=ハン国が握り、アナトリアはモンゴル勢力圏の一部として組み込まれていきます。

この結果、アナトリアではセルジューク朝の権威が低下し、地方のトルコ系有力者が自立する余地が拡大しました。これは後に、オスマン帝国をはじめとするトルコ系国家が台頭する土壌を形成することになります。

3.対外関係から見たイル=ハン国の歴史的位置

マムルーク朝との抗争と、ルーム=セルジューク朝の従属という二つの事例は、イル=ハン国の対外関係の性格をよく示しています。イル=ハン国は、無差別に征服を続ける存在ではなく、地域ごとに異なる形で支配や関係調整を行う国家でした。

マムルーク朝に対しては軍事的拡張の限界を突きつけられ、ルーム=セルジューク朝に対しては間接支配を通じて秩序再編を進める。

この対照的な関係性こそが、イル=ハン国が「モンゴル帝国の延長」から「西アジア国際秩序の一構成要素」へと変化したことを示しています。

第4章 衰退と滅亡、そして後代への継承

第3章で見たように、イル=ハン国は周辺イスラーム国家と並立する一国家として国際秩序の中に位置づけられていました。

しかし、14世紀に入ると、その体制は次第に動揺し、王朝としての統一を維持できなくなっていきます。

この章では、イル=ハン国がどのように衰退し、滅亡したのか、そして何が後の時代に受け継がれたのかを整理します。

1.後継者争いと中央権力の弱体化

ガザン=ハンの時代に完成された統治体制は、その後も一定期間は機能しましたが、強力な指導者を欠くようになると急速に不安定化します。とくに14世紀前半には、後継者争いが激化し、中央権力は有力諸将や地方勢力によって分断されていきました。

この過程で、イル=ハン国は名目上は存続しながらも、実質的な統治力を失い、各地で自立的な支配が進むようになります。もはやガザン=ハン期のような統一的国家運営を行うことは困難となっていました。

2.王朝の解体と国家としての終焉

1335年、最後の有力な君主が死去すると、フレグ家の王統は断絶し、イル=ハン国は国家としての統一を完全に失います。これにより、イル=ハン国は王朝国家としては終焉を迎えました。

ただし、この滅亡は、外敵による急激な征服ではなく、内部の分裂と権力構造の崩壊によって進んだ「解体型の滅亡」でした。この点は、イル=ハン国を理解するうえで重要です。

3.王朝は滅び、仕組みは残る

イル=ハン国が滅亡した後も、その影響が消え去ったわけではありません。モンゴル的軍事支配とペルシア官僚制、そしてイスラーム的正統性を組み合わせた統治モデルは、後代の国家形成に大きな影響を与えました。

とくに、イラン高原や中央アジアでは、イル=ハン国期に整えられた行政慣行や支配構造が引き継がれ、やがて ティムール朝 や、さらに後の サファヴィー朝 へと受け継がれていきます。また、中央アジア方面では、ウズベク系諸国家の形成にも間接的な影響を与えました。

このように、イル=ハン国は王朝としては短命に終わりましたが、その統治の枠組みは広い地域に残り、モンゴル支配後のイスラーム世界再編を支える基盤となったのです。

最終章 イル=ハン国の歴史的意義|征服から再編へ

この章では、これまで見てきた成立・統治・対外関係・滅亡の流れを踏まえ、イル=ハン国を世界史全体の中でどのように位置づけるべきかを整理します。

1.アッバース朝滅亡がもたらした歴史的転換

イル=ハン国は、モンゴル帝国の拡張によって西アジアに成立し、バグダード攻略によってアッバース朝を滅ぼしました。

これは、イスラーム世界における従来の政治的中心が崩壊したことを意味し、長く続いた秩序に終止符を打つ出来事でした。この点において、イル=ハン国は「破壊者」としての側面を強く持つ国家であったと言えます。

【正誤問題】
1258年のバグダード攻略により、アッバース朝カリフは殺害され、アッバース朝は実質的に滅亡した。
解答:〇
☞ イスラーム史の大転換点。年代と結果は超頻出。

2.征服国家から統治国家への転換

しかし、イル=ハン国の歴史的役割は破壊にとどまりません。

ガザン=ハンの時代に進められたイスラーム化と統治体制の整備、さらにラシード=アッディーンらによる行政・知の政策を通じて、イル=ハン国は次第に現地社会へ適応していきました。

モンゴル的軍事支配、ペルシア官僚制、イスラーム的正統性が結びついた統治モデルは、征服国家から安定的な支配国家への転換を示しています。

3.対外関係が示す国家としての限界

マムルーク朝との抗争は、モンゴル勢力の拡張に明確な限界を示しました。

一方で、ルーム=セルジューク朝の従属は、アナトリア世界の政治的再編を促します。これらの対外関係を通じて、イル=ハン国は無限に拡張する帝国ではなく、既存のイスラーム諸国家と並立する一国家として国際秩序の中に組み込まれていきました。

4.王朝の終焉と統治モデルの継承

14世紀に入ると、イル=ハン国は内部の分裂によって王朝としては滅亡しました。

しかし、そこで築かれた統治の枠組みが消滅したわけではありません。

モンゴル支配とイスラーム的統治を結びつけた発想は、後のティムール朝やウズベク系諸国家、さらにはサファヴィー朝へと受け継がれ、モンゴル支配後のイスラーム世界再編の基盤となりました。

5.イル=ハン国の最終的な位置づけ

以上を踏まえると、イル=ハン国は、モンゴル帝国による征服の終着点であると同時に、イスラーム世界が再構築されていく出発点でもあった国家と位置づけることができます。

「破壊」と「再編」をつなぐ存在として理解することで、イル=ハン国の歴史的意義はより立体的に見えてくるでしょう。

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