パフラヴィー朝イランの成立と終焉を詳しく解説― 王制国家はなぜ革命に倒れたのか

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パフラヴィー朝とは、20世紀のイランで成立した王制国家であり、急速な近代化と強権的な統治を通じて国家改造を進めた体制でした。

1925年、軍人出身のレザー・シャーによって成立したこの王朝は、世俗化・中央集権化・西欧化を柱に「近代国家イラン」の建設を目指します。しかし、その体制は1979年のイラン革命によって崩壊し、王制は歴史の舞台から姿を消しました。

パフラヴィー朝の歩みは、伝統的な宗教社会の上に、国家主導で近代化を押し進めた結果、社会の内部に深刻な緊張と断絶を生み出していった過程でもありました。特に後継者であるモハンマド・レザー・シャーの時代には、石油収入を背景に経済成長と軍事力強化が進む一方で、政治的自由の抑圧や宗教勢力との対立が深まっていきます。

この王制国家の崩壊は、イラン一国にとどまらず、中東全体、さらには冷戦期の国際政治にも大きな衝撃を与えました。親米体制として位置づけられていたパフラヴィー朝の崩壊は、宗教を基盤とする新たな政治体制の登場を意味し、現代中東を理解するうえで欠かせない転換点となっています。

本記事では、パフラヴィー朝がどのような背景のもとで成立し、どのように近代化を進め、そしてなぜ革命によって倒れなければならなかったのかを、政治・社会・宗教の構造に注目しながら体系的に解説します。

王制国家イランの実験と挫折をたどることで、イラン革命の本質と、現代イランにつながる歴史的連続性を明らかにしていきます。

パフラヴィー朝イランの成立と終焉|全体俯瞰チャート

【前提】
カージャール朝末期
・中央統治の崩壊
・列強(英・露)の介入
・国家主権の弱体化

【成立】1925年
パフラヴィー朝の成立
・軍人レザー・シャーが即位
・中央集権化と国家再建
・「強い国家」による近代化の開始

【第2章】レザー・シャーの国家改造
・常備軍・官僚制の整備
・世俗化政策と宗教勢力の排除
・上からの近代化が定着

【転換】戦後体制
モハンマド・レザー・シャー即位
・冷戦下で親米体制を確立
・王制の国際的安定

【第3章】白色革命(1963年〜)
・土地改革・女性参政権・教育拡充
・社会構造の急激な変化
・政治改革を伴わない社会改革

【結果①】社会の動揺
・農村崩壊と都市流入
・格差拡大と生活不安
・近代化への違和感

【結果②】政治的閉塞
・政治参加の欠如
・反対意見の抑圧
・不満の地下化

【第4章】革命前夜(1970年代後半)
・経済不満+政治的疎外+文化的反発
・宗教勢力が不満を言語化
・社会集団の横断的結集

【第5章】イラン革命(1979年)
・抗議運動の連鎖
・国王の求心力喪失
・国王出国
・王制の崩壊

【最終章】歴史的帰結
・上からの近代化モデルの限界
・王制イランの終焉
・白色革命=体制崩壊への分岐点

パフラヴィー朝の歴史は、近代化によって国家を強化しながら、社会との合意形成に失敗した結果、革命によって自らの存在理由を失っていった過程でした。

【この記事を3行でまとめると!】
パフラヴィー朝は、列強支配と国家崩壊の危機の中で成立し、上からの近代化によって「強い国家」イランを築こうとしました。しかし白色革命を分水嶺として、社会改革と政治的閉塞の矛盾が拡大し、体制は急速に支持を失っていきます。その結果、1979年のイラン革命によって王制は崩壊し、イランにおける「王が治める国家」の歴史は終焉を迎えました。

目次

第1章 パフラヴィー朝成立の背景

― カージャール朝の衰退と「近代国家」への渇望

20世紀初頭のイランでは、旧来の王制国家が急速に統治能力を失い、国家としての存立そのものが危機にさらされていました。

パフラヴィー朝の成立は、突発的なクーデタや個人の野心だけで説明できるものではなく、長年にわたって蓄積されてきた政治的混乱と社会的閉塞の帰結として理解する必要があります。

1.カージャール朝の統治崩壊と列強の介入

パフラヴィー朝成立以前、イランを支配していたのはカージャール朝でした。しかし19世紀後半以降、この王朝は有効な統治能力をほとんど失っていました。

中央政府は地方を統制できず、財政基盤も脆弱で、近代的な軍隊や官僚制度を整備することができなかったのです。

この統治の空白を突いたのが、ロシアとイギリスという列強でした。両国はイランを直接植民地化することは避けつつも、鉄道敷設権や石油利権、金融支配などを通じて事実上の影響圏としました。

特に1907年の英露協商によって、イランは両国の勢力圏に分割され、主権国家としての自立性は大きく損なわれます。

この状況は、王朝の権威失墜を決定的なものにしました。国民の目には、カージャール朝は「国を守れない王朝」「列強に屈する無力な支配者」と映るようになっていったのです。

2.立憲革命と「改革への期待」の挫折

1905年から1906年にかけて起こった立憲革命は、こうした閉塞状況を打破しようとする試みでした。商人層、知識人、宗教指導者の一部が結集し、専制王権を制限し、議会を持つ立憲国家を目指したのです。

しかし、この改革は十分に定着しませんでした。議会は権限を持ちながらも実効的に機能せず、王権・宗教勢力・列強の思惑が錯綜する中で、政治は不安定さを増していきます。結果として、立憲革命は「制度だけが導入され、国家を支える実力が伴わなかった改革」として挫折しました。

この失敗は、イラン社会に重要な教訓を残します。すなわち、自由や立憲主義だけでは国家は再建できず、まずは秩序と統一、強い統治が必要なのではないか、という認識です。この意識が後の強権的近代化を受け入れる土壌となっていきました。

3.軍の台頭とレザー・ハーンの登場

こうした混乱の中で存在感を高めたのが軍でした。特に、ロシアの影響下で編成されたコサック旅団は、当時のイランで最も組織化された武装集団でした。その中から頭角を現したのが、後にパフラヴィー朝を開くことになるレザー・ハーンです。

1921年、彼はクーデタによって首都テヘランを制圧し、政治の実権を掌握します。この行動は、混乱に疲弊していた人々から一定の支持を受けました。治安の回復、税制の整備、地方勢力の抑制など、彼の政策は「秩序を取り戻す存在」として評価されたのです。

やがて1925年、カージャール朝は廃され、レザー・ハーンは国王に即位します。こうして成立したパフラヴィー朝は、列強の影響を排し、中央集権的な近代国家を建設することを最大の目標としました。しかしその道は、自由よりも統制を、合意よりも命令を重視する体制へとつながっていきます。

この時点で、パフラヴィー朝の基本的な性格はすでに形づくられていました。

「外圧に対抗するための強い国家」
「伝統社会を上から作り替える近代化」

この選択こそが、後に革命によって否定されることになる、王制国家イランの出発点だったのです。

コラム|イラン王朝史を一気に俯瞰する

― アケメネス朝からパフラヴィー朝まで

イランの歴史は、しばしば「1979年のイラン革命」から語られがちですが、その背景には2500年以上にわたる王朝の連続と断絶があります。パフラヴィー朝の崩壊は、単なる現代史の事件ではなく、イランにおける「王による支配」の最終章という位置づけで理解することができます。

イラン最初の大帝国とされるのが、紀元前6世紀に成立したアケメネス朝です。広大な領域を統治し、多民族・多宗教を包摂する統治体制を築いたこの王朝は、「皇帝による普遍的支配」というイラン的政治観の原型を形づくりました。その後、ヘレニズム王朝を経て、パルティア朝、ササン朝といったイラン系王朝が続き、王を中心とする国家像は長く維持されていきます。

7世紀のイスラーム勢力の拡大によって、古代イランの王朝は一度断絶しますが、イランそのものが消えたわけではありません。イスラーム化の中でもペルシア文化は生き残り、16世紀のサファヴィー朝ではシーア派を国教とする国家が成立します。ここで形成された宗教的アイデンティティは、現代イランにも直結しています。

一方、近代に入ると、カージャール朝のもとで王権は弱体化し、列強の干渉を受けるようになります。この混乱を収拾し、「強い王による近代国家」を再建しようとしたのがパフラヴィー朝でした。つまりパフラヴィー朝は、古代から続く王制の伝統を、20世紀的な形で再構築しようとした最後の試みだったのです。

しかしその試みは、1979年の革命によって否定されました。イラン革命とは、単なる政権交代ではなく、アケメネス朝以来続いてきた「王が治めるイラン」という歴史そのものに終止符を打つ出来事だったと言えるでしょう。

① アケメネス朝(紀元前6世紀〜前4世紀)

  • キュロス2世が建国
  • オリエントから小アジアまで支配した最初の大帝国
  • ダレイオス1世による行政制度が有名
  • → アレクサンドロス大王に滅ぼされる

② セレウコス朝(前4世紀〜前1世紀)

  • アレクサンドロス死後の後継国家
  • ギリシア系王朝で、イラン的伝統は弱い
  • → イラン系勢力に押され衰退

③ パルティア(アルサケス)朝(前3世紀〜3世紀)

  • イラン系王朝が復活
  • ローマ帝国と対抗
  • 地方分権的でゆるい統治

④ ササン朝(3世紀〜7世紀)

  • 強力な中央集権国家
  • ゾロアスター教を国教化
  • ローマ・ビザンツと抗争
  • → 7世紀のイスラーム勢力の侵入で滅亡

⑤ イスラーム時代(7世紀〜16世紀)

  • アラブ→トルコ→モンゴル系王朝が交代
  • イランはイスラーム世界の一部に
  • ペルシア文化は存続

⑥ サファヴィー朝(16〜18世紀)

  • シーア派を国教化(←ここ超重要)
  • 現代イランの宗教的アイデンティティの原点

⑦ カージャール朝(18世紀末〜1925年)

  • 王権が弱く、列強(英・露)の干渉が強い
  • 立憲革命は起きたが安定せず

⑧ パフラヴィー朝(1925〜1979年)

  • 軍人レザー・シャーが建国
  • 上からの近代化・世俗化
  • 1979年イラン革命で崩壊

⑨ イラン・イスラーム共和国(1979年〜)

  • 王制廃止
  • 宗教指導者が政治の中枢を担う体制

第2章 レザー・シャーによる国家改造

― 上から進められた近代化とその代償

1925年に成立したパフラヴィー朝は、誕生と同時に「近代国家の建設」という明確な目標を掲げました。その中心にいたのが初代国王のレザー・シャーです。

彼の統治は、イラン史上かつてないほど急進的で、国家主導による上からの改革が一気に進められました。

1.中央集権化と国家権力の強化

レザー・シャーがまず着手したのは、国家の統治能力そのものを強化することでした。地方部族の自立性は軍事力によって抑え込まれ、徴税・司法・治安は中央政府の管理下に置かれていきます。

これまで分散していた権力を一元化し、「国王と国家が社会を統制する体制」を築くことが最優先されたのです。

この過程で、近代的な官僚制度や常備軍が整備されました。部族的忠誠や宗教的権威よりも、国家への忠誠が重視されるようになり、イランは形式上、主権国家としての骨格を獲得していきました。

2.世俗化政策と宗教勢力の排除

国家改造の中でも、とりわけ社会に大きな衝撃を与えたのが世俗化政策です。レザー・シャーは、宗教が政治や司法に強い影響力を持つ状態を、近代化の障害と見なしました。

宗教学校や宗教裁判所の権限は制限され、世俗的な法律と教育制度が導入されます。さらに、服装規制などを通じて、日常生活のレベルにまで国家が介入しました。これらの改革は、表面的には「近代的」「合理的」に見えるものでしたが、宗教的慣習や価値観を軽視する側面も強く、宗教指導者層との深刻な対立を生み出します。

重要なのは、これらの改革が社会的合意を経ず、命令として実施された点です。宗教勢力は政治の表舞台から排除されましたが、不満や反発が消えたわけではありませんでした。

3.国民国家の創出とナショナリズム

レザー・シャーは、近代国家にふさわしい「国民意識」の形成にも力を入れました。国名の正式表記を「ペルシア」から「イラン」へと改めたことは、その象徴的な例です。これは、民族的・歴史的連続性を強調し、古代イラン帝国の栄光と近代国家を結びつける試みでした。

教育制度の整備やインフラ建設も進められ、都市部を中心に近代的生活様式が広がっていきます。しかしこのナショナリズムは、民衆の自発的な参加によって形成されたものではなく、国家が上から与える形で押し付けられた側面が強いものでした。

4.「強い国家」の完成と内在する矛盾

レザー・シャーの改革によって、イランは確かに以前よりも統一され、秩序だった国家へと変貌しました。列強の影響力は一定程度排除され、国家の自立性も回復します。その意味で、彼の国家改造は成功だったと言えます。

しかし同時に、この体制は重大な矛盾を内包していました。政治参加の道は閉ざされ、反対意見は抑圧され、宗教や社会の多様性は国家目標の名のもとに切り捨てられていったのです。

この「強い国家」は、安定と引き換えに不満を蓄積する構造を持っていました。レザー・シャーの統治が終わった後も、この統治スタイルは引き継がれ、やがてパフラヴィー朝全体を揺るがす危機へとつながっていきます。
次章では、後継者の時代にこの矛盾がどのように拡大していったのかを見ていきます。

第3章 モハンマド・レザー・シャー体制と白色革命

― 体制安定を目指した改革が生んだ新たな矛盾

第二次世界大戦後、パフラヴィー朝イランは冷戦構造の中で再出発します。初代国王の後を継いだモハンマド・レザー・シャーは、親米体制を基盤に国家の安定と近代化を進めました。その象徴が1960年代に実施された白色革命です。しかしこの改革は、王制体制を強化するはずが、結果的には革命への道を早めることになります。

1.冷戦下の親米体制と王制の再強化

戦後のイランは、ソ連と国境を接する地政学的要衝でした。そのためアメリカにとって、イランは中東における反共の要として位置づけられます。モハンマド・レザー・シャーはこの状況を巧みに利用し、軍事・経済両面でアメリカの支援を取り付けました。

この支援によって王制体制は国際的な後ろ盾を得ますが、同時に体制の正統性は国内ではなく、外部に依存する形で支えられるようになります。ここに、後の不安定さの芽がすでに存在していました。

2.白色革命の構想と目的

1963年、国王は大規模な社会改革である白色革命を打ち出します。その狙いは、地主層の力を削ぎ、農民や新興中間層を体制支持に取り込むことで、王制を長期的に安定させることでした。

改革の内容には、土地改革、教育の普及、女性参政権の拡大、産業の国有化などが含まれていました。これらは表面的には進歩的で、「近代的国家イラン」を内外に示す政策でもありました。白色革命は、革命を防ぐための改革、いわば「王制による予防的近代化」だったのです。

3.改革が生んだ社会の動揺

しかし白色革命は、社会の期待通りには機能しませんでした。土地改革は農村を安定させるどころか、多くの農民を都市へと流出させ、失業やスラム化を招きます。急速な都市化は生活環境を悪化させ、経済成長の恩恵を受けられない層の不満を拡大させました。

また、女性参政権の導入や世俗化政策は、宗教指導者層にとって「国家が宗教的秩序に踏み込む行為」と映りました。改革の是非以前に、「誰が社会を変える権限を持つのか」という問題が、正面から突きつけられたのです。

4.政治改革なき社会改革という矛盾

白色革命の最大の問題は、社会改革が進められた一方で、政治的自由が拡大されなかった点にありました。議会や政党は依然として形式的な存在にとどまり、反対意見は体制内で表現される余地を持ちませんでした。

治安維持の名の下で、秘密警察であるサヴァクが反体制勢力を監視・弾圧し、社会には沈黙が広がっていきます。改革によって人々の生活は変わりましたが、その変化を政治的に調整する仕組みは存在しなかったのです。

5.白色革命が残したもの

白色革命は、パフラヴィー朝の近代化政策を象徴する出来事でした。それは、王制国家が社会を主導して変革しようとした最大の試みであり、同時にその限界を露呈させた政策でもあります。

改革は王制への支持を広げるどころか、経済的不満、文化的反発、政治的疎外感を同時に増幅させました。こうして白色革命は、体制安定のための改革でありながら、宗教勢力や都市下層を中心とする反王制運動を組織化する土台となっていきます。

この章で見たように、白色革命は「安定の時代」の核心であり、同時に革命前夜への分岐点でもありました。次章では、この改革によって拡大した不満が、どのようにして王制そのものを否定する運動へと転化していったのかを詳しく見ていきます。

第4章 体制への不満と革命前夜

― 白色革命後、なぜ王制は支持を失っていったのか

1960年代に実施された白色革命以後、パフラヴィー朝イランは外から見れば安定した近代国家として映っていました。

しかし社会の内部では、改革によって生じた不満や違和感が次第に結びつき、体制そのものを否定するエネルギーへと変化していきます。

革命は突発的に起きたのではなく、白色革命を分水嶺として蓄積された矛盾が、1970年代後半に一気に表面化した結果でした。

1.白色革命後の経済変動と生活不安

白色革命とその後の石油収入増大は、イラン社会に急激な変化をもたらしました。都市部では開発が進み、近代的な消費文化が広がる一方で、農村から都市へ流入した人々は、安定した雇用や生活基盤を得られず、周縁的な存在として取り残されていきます。

物価の上昇や住宅不足は、経済成長の実感を薄れさせました。豊かさが強調されればされるほど、「自分たちはその恩恵から排除されている」という感覚が広がり、経済問題は単なる生活苦ではなく、体制への不信へと転化していきます。

2.政治的閉塞と不満の地下化

社会が大きく動く一方で、政治の仕組みはほとんど変わりませんでした。白色革命は社会改革を進めましたが、政治参加の拡大を伴わず、王制の枠組みそのものは維持されたままでした。

反対意見は制度の中で表明される場を持たず、監視と抑圧によって沈黙を強いられます。その結果、不満は可視化されることなく地下に蓄積され、体制に対する批判は「改革要求」ではなく「体制否定」へと性格を変えていきました。政治的閉塞は、王制への信頼を静かに蝕んでいったのです。

3.宗教勢力の復権と反体制の言語化

こうした状況の中で、社会的不満を束ねる役割を果たしたのが宗教勢力でした。世俗化政策によって政治の周縁に追いやられていた宗教指導者たちは、国家から独立したネットワークと道徳的権威を維持しており、人々の不満を共有し、意味づける力を持っていました。

とりわけ重要なのが、亡命先から王制を批判し続けたルーホッラー・ホメイニの存在です。彼は白色革命を、社会改革ではなく「王制による支配の正当化」と捉え、王制そのものの否定を訴えました。この主張は、経済的不満や政治的疎外感を抱える人々に、共通の言語と方向性を与えることになります。

4.異なる不満の結集と革命前夜の社会

1970年代後半になると、学生、知識人、商人層、宗教勢力といった異なる集団が、共通して王制への違和感を抱くようになります。彼らの要求や理想は一致していませんでしたが、「この体制の下では問題は解決しない」という認識が共有されていきました。

ここで重要なのは、革命が特定の階層や思想だけによって起こったのではないという点です。白色革命後の社会変動によって生じた経済的不満、政治的閉塞、文化的反発が一本の線で結ばれたとき、王制国家は急速に正統性を失っていきました。

パフラヴィー朝は、強力な国家装置を持ちながらも、社会との結びつきを回復することができませんでした。こうして王制は、外から見える安定とは裏腹に、内側から崩壊へと向かっていきます。
次章では、この不満がどのように具体的な革命運動へと転化し、王制国家が終焉を迎えたのかを見ていきます。

第5章 イラン革命とパフラヴィー朝の終焉

― 白色革命後の矛盾は、いかにして王制を崩壊させたのか

1979年に起きたイラン革命は、白色革命以後に蓄積されてきた経済的不満、政治的閉塞、宗教的反発が一つに結びつき、王制国家の正統性そのものを否定する運動へと転化した結果でした。

この章では、王制がどのように統治不能に陥り、最終的に崩壊へと至ったのかを整理します。

1.抗議運動の連鎖と国家の統治不能

1970年代後半、各地で抗議運動が断続的に発生するようになります。当初は限定的だった抗議は、治安部隊による弾圧をきっかけに拡大し、犠牲者の追悼集会が新たな抗議を呼ぶという連鎖を生みました。

この過程で、抗議はもはや個別の要求ではなく、「王制そのもの」への否定として共有されていきます。

国家は依然として軍や警察といった強力な装置を保持していましたが、それらを行使する正当性が急速に失われていきました。命令は出せても、社会がそれを受け入れなくなったのです。

2.国王の動揺と体制の求心力喪失

抗議運動の拡大に直面した国王モハンマド・レザー・シャーは、強硬路線と融和策の間で揺れ動きます。改革の約束と弾圧を繰り返す対応は、体制支持層には不安を与え、反体制側には「王はもはや決断できない」という印象を強める結果となりました。

この優柔不断さは、王制の象徴的権威を大きく損ないます。王が国家を導く存在として信頼されなくなったとき、王制体制は急速に空洞化していきました。

3.国王出国と権力の空白

1979年1月、国王は国外へ出国します。これは形式的には一時的措置と説明されましたが、社会に与えた意味は決定的でした。王が不在となったことで、王制国家としての統治の前提そのものが崩れたのです。

この時点で、パフラヴィー朝は実質的に終焉を迎えていました。国家機構は残っていても、それを統合する象徴的存在が失われたことで、体制は急速に機能不全に陥ります。

4.ホメイニの帰国と革命の成立

国王出国後、革命の主導権を握ったのが、亡命先から帰国したルーホッラー・ホメイニでした。彼は革命を単なる政権交代ではなく、「不正な王制体制の全面否定」と位置づけ、新たな政治秩序の構築を進めていきます。

ここで重要なのは、革命が明確な終点を持たず、体制転換の過程へと移行した点です。王制の廃止は出発点に過ぎず、その後、国家の理念や統治原理そのものが再定義されていくことになります。

5.王制崩壊の歴史的意味

パフラヴィー朝の崩壊は、20世紀的な「上からの近代化モデル」の限界を示しました。経済成長や軍事力、国際的支援があっても、社会との合意が失われれば体制は維持できない。その現実を、イラン革命は明確に突きつけています。

同時にこの革命は、アケメネス朝以来続いてきた「王が治めるイラン」という政治的伝統に終止符を打つ出来事でもありました。白色革命によって可視化された矛盾は、最終的に王制そのものを否定する形で解決されることになります。

こうしてパフラヴィー朝は、近代国家建設という大きな役割を果たしながらも、その方法と構造ゆえに革命へと至った王制国家として歴史に刻まれました。
次章(最終章)では、この王朝の歴史を総括し、パフラヴィー朝とは何だったのかを改めて整理します。

最終章 パフラヴィー朝とは何だったのか

― 白色革命を分水嶺として崩壊へ向かった王制国家

パフラヴィー朝の歴史は、イランが近代国家として生き残ろうとした20世紀の試行錯誤そのものでした。その成立から崩壊までを振り返ると、この王制国家は偶然や失策によって倒れたのではなく、一定の必然性をもって革命へと至ったことが見えてきます。

特に白色革命は、体制を安定させるための改革でありながら、結果的に王制崩壊への決定的な分岐点となりました。

1.パフラヴィー朝成立の歴史的意義

パフラヴィー朝は、列強の介入と統治崩壊に苦しんだイランを再統合し、「強い主権国家」を再建するために成立しました。軍事力と官僚制を基盤とする中央集権国家の構築は、当時のイランにとって現実的かつ切迫した課題だったと言えます。

初代国王の下で進められた国家改造は、治安の回復と国家統一を実現し、イランを形式的にではあれ近代国家として成立させました。この意味で、パフラヴィー朝は「失敗した王朝」ではなく、近代国家形成に一定の成果を残した体制でした。

2.白色革命という転換点

しかし、王制国家としての安定を長期化させるために実施された白色革命は、体制の性格を大きく変えていきます。土地改革や女性参政権、教育の拡充といった改革は、社会構造を変える力を持っていましたが、それは同時に国家が人々の生活や価値観に深く介入することを意味していました。

問題は、これらの社会改革が政治的参加の拡大を伴わなかった点にあります。改革は国王の主導によって進められ、社会の合意形成や調整の仕組みは用意されませんでした。

その結果、白色革命は体制支持を広げるどころか、経済的不満、文化的反発、政治的疎外感を同時に可視化する装置となっていきます。

3.なぜ王制は修正できなかったのか

白色革命以後、パフラヴィー朝は体制の修正を試みる余地を次第に失っていきました。強権的統治によって築かれた国家は、批判を制度内で吸収する回路を持たず、改革も反省も「上から与えられるもの」にとどまりました。

その結果、社会の不満は改革要求として表出することなく、王制そのものを否定する形へと変質します。体制が柔軟に変化できない以上、社会の側が体制を根本から変えるしか選択肢がなくなっていったのです。

4.王制崩壊の意味とその後

1979年の革命によって、パフラヴィー朝は崩壊し、イランにおける王制の歴史は終わりを告げました。これは単なる政権交代ではなく、アケメネス朝以来続いてきた「王が治めるイラン」という政治的伝統が、現代において通用しなくなったことを示す出来事でした。

重要なのは、革命が近代化そのものを否定したわけではない点です。否定されたのは、「社会との合意を欠いた上からの近代化」であり、「王制による国家主導改革」という統治モデルでした。この意味で、パフラヴィー朝の崩壊は、近代国家が抱える普遍的な課題を浮き彫りにしています。

5.パフラヴィー朝の歴史的位置づけ

パフラヴィー朝は、近代国家建設を成し遂げながらも、その方法ゆえに革命へと至った王制国家でした。白色革命は、その矛盾を最も端的に示す政策であり、体制の安定と崩壊を同時に準備した分岐点だったと言えるでしょう。

この王朝の歴史を理解することは、イラン革命の本質を知るためだけでなく、近代化と政治参加、国家と社会の関係を考える上でも重要です。パフラヴィー朝は終焉を迎えましたが、その問いは、現在のイラン、さらには現代世界にも引き継がれています。

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