大食(タージ)とは、唐から宋にかけての中国が、イスラーム帝国およびイスラーム教徒のアラブ人を指して用いた呼称です。
もともとは西方から到来したアラブ系ムスリムを意味しましたが、時代が下るにつれて、中央アジアのイスラーム化したイラン系住民なども含むようになり、「イスラーム世界全体」を指す広い概念へと変化していきました。
本記事では、大食という呼び名が生まれた背景と、中国とイスラーム世界の接触の実態、そして後代における意味の拡張について整理します。
第1章 唐代中国と大食 ― シルクロードを通じた最初の接触
唐の時代、中国は東アジア最大の国際国家として、シルクロードと海上交易の両面で西方世界と結ばれていました。
7世紀以降、西アジアで成立したイスラーム勢力は急速に拡大し、中央アジアにも進出します。これにより、中国は初めて本格的にイスラーム世界と向き合うことになります。
唐の史書では、この新興勢力を「大食」と記録しました。初期の大食は、主としてアラブ人を中心とするイスラーム帝国を意味しています。
唐は外交使節の往来や商人の活動を通じて彼らの存在を認識し、長安には大食の商人が居住する区画も形成されました。
また、中央アジアをめぐる勢力争いの中で、唐と大食は軍事的にも接触します。8世紀半ばには、現在のキルギス付近で両者が衝突し、唐が後退する結果となりました。
この出来事以降、中国の西域支配は次第に弱まり、大食を含むイスラーム勢力が中央アジアで優位に立つようになります。
こうして唐代の中国にとって大食とは、遠い西方から現れた新しい宗教国家であり、交易相手であると同時に、中央アジアの覇権を争う存在でもありました。
第2章 宋代以降の大食 ― アラブからイスラーム世界全体へ
宋代に入ると、中国と西方世界の関係は、陸路よりも海上交易が中心となります。
広州や泉州などの港市にはムスリム商人が定住し、香辛料や宝石、織物などが盛んに輸入されました。
この時代になると、「大食」という呼称は、純粋なアラブ人だけでなく、中央アジアやイラン方面のイスラーム教徒も含むようになります。
つまり大食は、特定の民族名というよりも、「イスラームを信仰する西方の人々」をまとめて表す中国側の概念へと変化しました。
後代の史料では、西域のイスラーム化したイラン系住民なども大食の範疇に含められるようになります。
この変化は、中国から見た世界認識の特徴をよく示しています。唐宋の中国にとって重要だったのは細かな民族区分ではなく、「西方から来るイスラーム勢力」という大きな枠組みでした。大食という呼称は、その象徴的な表現だったのです。
大食という言葉は、中国史の中でイスラーム世界がどのように認識されていたかを示す貴重な手がかりです。それは単なる外名ではなく、シルクロードと海上交易を通じて結ばれたユーラシア交流の記憶でもあります。
コメント