【詳細解説】ユグノー戦争とサン=バルテルミの虐殺|フランス宗教戦争の流れ

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ユグノー戦争とは、16世紀後半のフランスにおいて、カトリックと新教徒(カルヴァン派=ユグノー)が衝突した一連の宗教戦争の総称です。

1562年にヴァシーの虐殺をきっかけに勃発し、1598年のナントの勅令による宗教的寛容の宣言まで、約36年間にわたって断続的に内戦が続きました。

この戦争の意義は、単なる宗教対立を超えて、フランス国家のあり方そのものが問われた点にあります。

王権・貴族・都市・宗教勢力が錯綜し、宗教と政治が密接に結びついたことで、フランス国内の権力構造や社会秩序が激変した時代でした。

背景には、宗教改革による信仰の分裂がありましたが、それに加えて次期フランス王位をめぐる王家の分裂、諸侯や貴族勢力の台頭も絡み、宗教戦争という名の権力闘争へと発展していきます。

その影響は、フランス国内にとどまりません。ユグノー戦争の帰結であるナントの勅令は、宗教的寛容と国家統合を同時に実現し、その後の絶対王政確立へとつながる重要な転換点となりました。

また、国外にもプロテスタント勢力との同盟や国際関係の変化をもたらし、ヨーロッパ全体の宗教戦争の構図に影響を及ぼしました。

本記事では、ユグノー戦争を「なぜ起きたのか」「どのように展開したのか」「何をもたらしたのか」の3段階で整理し、入試で問われるポイントも交えて解説します。

背景から終結、そしてナントの勅令による宗教政策の転換までを流れで理解し、宗教戦争期のフランス史を立体的につかみましょう。

目次

序章:ユグノー戦争の全体像を俯瞰しよう

ユグノー戦争は、16世紀後半のフランスを約36年にわたって揺るがした宗教戦争です。単なる信仰対立にとどまらず、王位継承問題や貴族間の権力闘争、そして国際的な宗教連携が複雑に絡み合い、「内戦」と「政治闘争」と「国際戦争」が三位一体になった歴史的事件でした。

この戦争を正しく理解するためには、「なぜ起きたのか(背景)」「どのように展開したのか(経緯)」「何をもたらしたのか(影響・意義)」という3つの視点を押さえることが欠かせません。

そこで本章では、ユグノー戦争に関する歴史の流れを、背景から終結後の影響までを俯瞰できるチャートにまとめました。まずは全体像をつかみ、重要なポイントを頭に入れたうえで、次章以降で詳細を理解していきましょう。

【ユグノー戦争の全体像チャート】

【背景】
宗教改革の波及(1550年代)
 ↓
カルヴァン派(ユグノー)の拡大
 ↓
カトリック王権・旧来貴族と対立
 ↓
王位継承問題の深刻化
(ヴァロワ朝 → ブルボン家/ギーズ家)

───────────── 〈1562年:国内宗教戦争が勃発〉 ─────────────

【経緯】
1562 ヴァシーの虐殺(ギーズ公がユグノー弾圧)→ 第1次ユグノー戦争へ
 ↓
1560〜70年代 国内で8回にわたる内戦(断続)
         ↓
       宗教+貴族権力争い化
         ↓
1572 サン・バルテルミの虐殺(パリでユグノー大量殺害)
         ↓
1570〜80年代 国際戦争の様相へ
(英・独のプロテスタント勢力など支援)
         ↓
1589 ヴァロワ朝断絶 → ブルボン家アンリ4世即位(旧ユグノー派)

───────────── 〈1598年:ナントの勅令で終結〉 ─────────────

【影響・意義】
1598 ナントの勅令
 └ カトリックを国教としつつ、ユグノーの信仰を一定範囲で容認
 ↓
宗教的混乱の終息 → 絶対王政再建の基盤形成
 ↓
国家主導の宗教政策へ移行(宗教的寛容の先駆)
 ↓
1685 ルイ14世によるナントの勅令廃止(宗教寛容の後退)
 ↓
ユグノー国外流出 → 商工業の担い手がオランダ・イギリスなどへ

【総合的意義】
・宗教戦争を通じた王権と貴族勢力の再編
・宗教的寛容の試み → 近代国家の原理の萌芽
・プロテスタント勢力の国内統合と国外流動化

ユグノー戦争は、一連の内戦として年代順に事件を追っていくだけでは、その本質が見えにくいという特徴があります。

たしかにヴァシーの虐殺やサン・バルテルミの虐殺といった個別の出来事は重要ですが、これらは単独で起こったものではなく、宗教・政治・社会の対立が重層的に絡み合って発生した結果でもあります。

そのため、勢力図を踏まえた「対立の構図」を理解しておかないと、歴史の流れが単なる事件の羅列として処理されてしまい、全体像がぼやけてしまいます。

とくに入試では、「どの勢力が、何を主張し、どのような背景のもとで衝突したのか」を整理できるかどうかが問われます。

そこで、次に ユグノー戦争を動かした主要勢力と思想的対立を一覧できるチャートを示し、戦争の構造そのものを立体的にとらえてみましょう。

スクロールできます
【ユグノー戦争の対立構図チャート】
           【対立激化の根本要因】
ヴァロワ朝王位の不安定化(継承危機)
 ↓
幼王・病弱・継承者不在の連続
 ↓
次期国王をめぐる「ギーズ家 vs ブルボン家」の対立(宗教×王権)
          
           【フランス国内の対立軸】
───────────────────────────────────
      【カトリック陣営】       【ユグノー(新教)陣営】
───────────────────────────────────
勢力→ ギーズ家(貴族)          ブルボン家(貴族/王位継承権)
    パリ市民(都市下層民)       商工業者・知識層(都市中間層)
    教皇・スペイン(国外支援)     イングランド・プロテスタント諸侯(国外支援)

統治→ 王権神授説             抵抗権思想・信仰自由

政策→ カトリックを国教として維持     信仰の自由・自治権を要求

価値→ 秩序の維持・伝統の正統化      宗教改革・自己救済の強調
───────────────────────────────────
  【中間勢力】 カトリーヌ・ド・メディシス(王母・調停者/策謀者)
          │
          │(調停と権力操作)
          ↓
───〈1562-1598:内戦・虐殺・王権再編〉 ─────────────
          ↓
      【最終的な再統合】 アンリ4世(ブルボン家)

→ カトリック改宗 → ナントの勅令(1598)

※補足1
ヴァロワ朝は本来カトリック王家だったが、宗教対立期には調停者として中立的な姿勢を取らざるを得ませんでした。この「政治的中立性」がカトリック強硬派とユグノー双方の不信を招き、王権弱体化の一因となりました。

※補足2
カトリック陣営(ギーズ家など)が王権神授説を支持した理由は何でしょうか?

カトリック陣営が王権神授説を支持したのは、「カトリックこそ国家の正統な信仰であり、王権もそれを守るべきである」という信念に基づくものでした。

つまり、カトリック陣営にとっては、
✅ 王がカトリックを保護する
✅ 異端(=ユグノー)を抑える
という体制こそ望ましく、それを正当化するためが王権神授説の支持だったのです。

第1章:ユグノー戦争の背景 ― 信仰・権力・社会の三重対立

ユグノー戦争が勃発した16世紀後半のフランスは、宗教改革による信仰の分裂だけでなく、国家体制の揺らぎや貴族層の対立が深刻化した時代でした。

表面的にはカトリックとプロテスタント(ユグノー)の宗教対立に見えますが、その背後には次期フランス王をめぐる王家内部の継承争い、また国内各勢力の利害関係が絡み合っていました。

とくに、国王の急死により摂政や貴族たちが王権を私物化する状態が続いたことで、宗教勢力と政治勢力が結びつき、対立は「信仰の問題」から「国家の問題」へと発展します。

宗教改革の波がヨーロッパ各地に広がるなか、フランスではそれが内戦レベルの社会混乱となって噴出したのです。

この章では、ユグノー戦争の背景を理解するために、宗教・王権・貴族勢力の三つの視点から戦争前夜の状況を整理し、なぜこの戦争が避けられなかったのかを見ていきます。

重要な論述問題にチャレンジ

ユグノー戦争の背景における宗教、政治、社会の要因を整理しつつ、戦争が長期化した理由を述べよ。

16世紀後半のフランスでは、宗教改革の影響でカルヴァン派(ユグノー)が台頭し、伝統的なカトリックと鋭く対立した。その背景には、都市商工業者を中心とした社会経済層の変化があり、新興勢力の自立志向が影響していた。一方、政治的にはヴァロワ朝の王位継承が相次ぐ急死と未成年継承により不安定化し、宮廷を実効支配した有力貴族、特にカトリック強硬派ギーズ家とユグノー寄りのブルボン家が権力を争った。さらに、宗教的対立に加えて、王位継承をめぐる政治的混乱と、都市商工業者の台頭に代表される社会経済的変動が複雑に絡み合い、内戦は単なる宗教問題ではなく、国家の統治体制と社会秩序を揺るがす総合的危機へと転化した。そのため、戦争は36年にわたり長期化した。

1.宗教改革の波及とユグノーの台頭

16世紀のフランス社会では、ルター派に続いてカルヴァン派(ユグノー)が急速に広まりました。

とくに都市の商工業者や一部の貴族層に支持され、人口の約1割を占めるほどの大きな勢力に成長します。

一方で、フランス王家と多くの民衆は伝統的なカトリックを支持しており、宗教的分裂が社会の深層で拡大していきました。

2.王位継承問題と国内の権力構造の変化

ヴァロワ朝末期、フランス王家では相次ぐ国王の急死により王位継承が不安定化していました。

この隙に乗じて、カトリック強硬派のギーズ家、ユグノー支持のブルボン家など有力貴族が政治的主導権を争い、宗教対立がそのまま権力闘争へと直結しました。

3.国際的宗教対立との連動

フランス国内の緊張は、国際政治とも密接に関わっていました。

スペインや神聖ローマ帝国などカトリック勢力と、イングランドやネーデルラントのプロテスタント勢力がそれぞれ支援を与え、フランスは宗教戦争の渦中で「内政問題が国際問題化する」典型例となりました。

第2章:ユグノー戦争の展開 ― 宗教内乱から王権再編への転換

ユグノー戦争は、宗教対立の名のもとに勃発したものの、実態は「宗教 × 政治 × 社会構造」が複雑に絡み合った内戦でした。

とくに、王権の弱体化に乗じて台頭した有力貴族や宗教勢力が、国家支配と王権神授説をめぐって思想的にも対立したことは、この戦争に特有の歴史的特徴です。

36年にわたる内戦の展開を見るうえで重要なのは、戦争の背後で国家の意思を方向づけた人物や思想の存在です。

本章では「勃発→激化→終結」の時系列に加え、「サン・バルテルミの虐殺の真相」や「王権神授説とユグノー抵抗思想」の対立を軸に、ユグノー戦争の本質を立体的に捉えます。

1.【戦争の勃発】カトリーヌ・ド・メディシスと分裂する王権

1560年代、相次ぐ国王の死や摂政政治によってフランス王権は弱体化していました。

実権を握ったのは、若きシャルル9世の母カトリーヌ・ド・メディシスで、彼女は表向き宗教融和を図る一方、国内の権力バランスを調整すべく、カトリック強硬派のギーズ家とユグノー支持のブルボン家を巧妙に操りました。

こうした政治的操作の中、1562年にギーズ公がユグノー集団礼拝を襲撃した「ヴァシーの虐殺」が発生。これが「第1次ユグノー戦争」の火種となり、宗教対立から直接的な武力衝突へ発展しました。

2.【最大の転機】1572年 サン・バルテルミの虐殺 ― 国家の名による“宗教的粛清”

1572年、カトリーヌはフランス王家とユグノー支持勢力の和解を演出するため、ユグノーの指導者アンリ・ド・ナヴァル(のちのアンリ4世)と王女マルグリットの結婚を主導しました。

しかしその直後、カトリックのギーズ家と結託して、パリに集まっていた多くのユグノー指導者を一斉に暗殺されました。これが「サン・バルテルミの虐殺」と呼ばれる事件です。

この虐殺は数千〜1万人規模に及び、国内に猛反発と報復を引き起こしました。フランス全土で内戦が激化し、国家権威そのものが揺らぐ状況に陥ります。

【思想面での意味づけ】王権神授説 vs 抵抗権思想

この事件は、単なる虐殺以上の思想的意味を持っていました。

王権神授説(カトリック・王権側)抵抗権思想(ユグノー側)
王権は神から授かった正当な権威である不当な暴政に抵抗する権利が人民にある
→ 王が宗教統制を行う正統性を主張→ 信仰の自由と自治を求め、政治的抵抗を正当化

サン・バルテルミの虐殺は、この思想的対立を如実に表す事件であり、「信仰を口実にした王権による粛清」という論点から入試でも頻出です。

重要な論述問題にチャレンジ

サン・バルテルミの虐殺がユグノー戦争に与えた影響を、王権の正統性と思想的対立の観点から説明せよ。

1572年のサン・バルテルミの虐殺は、王母カトリーヌ・ド・メディシスがカトリック強硬派ギーズ家と結託し、ユグノー指導者を一斉に殺害した事件であり、信仰対立が「王権による宗教粛清」へと転化した点に意義がある。この事件によって「王は神から正統性を授かる」とする王権神授説のもと、カトリックを守る王権が正統であるという主張が強まる一方、暴政に対する抵抗権思想を掲げるユグノー勢力は、国家への忠誠より信仰と自治を優先する方向へ動いた。結果として、宗教戦争は単なる信仰対立ではなく、王権の正統性と人民の権利をめぐる思想闘争に発展し、内戦の激化と長期化を招いた。

3.【終結への道】ヴァロワ朝断絶とアンリ4世の即位(1589-1598)

1589年、ヴァロワ朝最後の国王アンリ3世が暗殺されると、ブルボン家のアンリ・ド・ナヴァルがアンリ4世として即位します。

当初はユグノー派だったアンリ4世ですが、国内統一のため1593年にカトリックに改宗します。「パリはミサに値する」と述べて国民統合を優先しました。

そして1598年、アンリ4世は「ナントの勅令」を発布し、カトリックを国教としながらもユグノーに一定の信仰の自由を認め、長年の内戦に終止符を打ちました。

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補足チャート:ユグノー戦争期の政治勢力と思想対立
   【フランス国内勢力図】

  (王権弱体化)
         ↓
  ────────────────
│               │
 カトリック勢力        ユグノー勢力
 (ギーズ家/パリ民衆)    (ブルボン家/商工業者)
  │               │
 王権神授説 ← 対立 → 抵抗権思想(信仰と自治)
  │               │
  ────────────────
      国内の信仰と権力の分裂
          ↓
 【1572 サン・バルテルミの虐殺】
    (王権による宗教的粛清)
          ↓
    国内統治の危機 → 王権再編へ
【参考】パリ市民がカトリックを強く支持した理由

✅1.宗教的同質性と伝統的信仰

パリは中世以来、カトリック信仰が市民生活と密接に結びついた地域でした。多数の修道院や教会が存在し、聖職者は教育・福祉・署名制度を担っていたため、日常生活全体がカトリックによって支えられていたと言えます。

そのため、宗教改革によって持ち込まれたプロテスタント(ユグノー)の新しい信仰形式は、市民にとって「外来の脅威」と感じられる面が強かったのです。

✅2.ユグノー(プロテスタント)の社会的イメージ

ユグノーは都市部の商工業者や一部貴族層に強く支持されましたが、「改革派」として既存の教会や社会秩序を批判する立場にあり、パリ市民の多くは彼らを「伝統の破壊者」「社会不安の元凶」と見ていました。

また、ユグノーの多くが当時の商人階級や有力貴族だったため、労働者や手工業者には「上からの改革」という警戒心が働き、対立が深まりました。

✅3.政治的な王権支持と反動意識

パリは「王権の拠点」としての性格も強く、市民はしばしば王権と結びついて自治を維持してきました。そのため、王権と対立することの多かったユグノーには反感を抱きやすく、カトリック側のギーズ家など貴族勢力の宣伝・扇動にも影響されやすい層でした。

特にサン・バルテルミの虐殺前後には、「国家を揺るがすユグノーを排除するべき」というプロパガンダが高まり、パリ市民は熱狂的な反ユグノー感情に動員されました。

✅4.経済と治安の問題

内戦期のパリは失業・物価高騰・食糧難など深刻な社会不安に見舞われていました。そのため、「異端者であるユグノーの排除こそが秩序回復の手段」という見方が広まり、経済・治安の危機を“宗教敵対心”と結びつける形で暴力的な支持が生まれたのです。

✅5.宗教的な排他意識と都市共同体の論理

パリは当時、フランス国内でも特に宗教的正統性を主張する都市で、「カトリックこそフランスの本来の信仰」という意識が強かった地域でした。そのため、宗教改革=「外部の異端」に対して共同体を守るという感覚が働き、市民の集団的行動(暴徒行為など)に結びつきました。

重要な論述問題にチャレンジ

アンリ4世の即位と「パリはミサに値する」という発言が、フランス国家にとってどのような転換を意味したか述べよ。

ユグノー戦争末期、ユグノー派指導者アンリ・ド・ナヴァルが1589年にアンリ4世として即位したことは、新教徒が王に就くという前例のない事態であり、フランス王権の宗教的基盤を揺るがした。しかし彼は1593年にカトリックへ改宗し、「パリはミサに値する」と述べて国家統合を優先した。この発言は、宗教的信条よりも現実的な国民統合の必要性を強調したものであり、戦争を収束させるための政治的妥協であった。これによりナントの勅令発布に至り、宗教戦争は終結し、絶対王政の基盤が整えられた点にフランス国家の転換が見られる。

第3章:ナントの勅令と宗教的寛容 ― 対立から共存へ

ユグノー戦争の終結を告げた「ナントの勅令」(1598年)は、単なる休戦協定ではありませんでした。

それは、異なる宗教勢力が国内で共存するという新たな国家のあり方を提示した、ヨーロッパ史上でも画期的な政策だったのです。

この勅令により、カトリックを国教としつつも、一定範囲でユグノーに信仰の自由・地方ごとの自治・公職への就任権などが認められました。

これは中世以来の「宗教=国家の中心的秩序」という考え方を揺るがし、宗教と政治を切り離して統治を再構築する近代国家への布石となりました。

本章では、ナントの勅令がどのような背景のもとで発布され、どのような社会的・政治的影響をもたらしたのかを整理します。そして、古代以来の「単一信仰国家」から「寛容による社会統合」へと転換した意義について考えていきます。

重要な論述問題にチャレンジ

ナントの勅令を、近代国家成立の視点から評価しなさい。

ナントの勅令(1598年)は、カトリックを国教としながらも、ユグノーに一定の信仰の自由と公的権利を認めた点で画期的であった。それは宗教的統一を前提とした中世国家観を揺るがし、異なる信仰を持つ国民を制度の枠内で統合しようとする近代的統治原理の萌芽を示している。この勅令により、宗教戦争は終結し、アンリ4世のもとで絶対王政の再建と財政・産業政策の安定が可能となった。一方、1685年にルイ14世が同勅令を廃止すると、ユグノーの大量亡命が起こり、産業・人口流出を招いた。そのため、ナントの勅令は近代国家形成に向けた先駆であると同時に、宗教的寛容の不安定性も示した政策として評価される。

1.ナントの勅令の内容 ― 「寛容」の条件付き制度化

1598年、フランス国王アンリ4世はナントの勅令を発布しました。この勅令は、カトリックを国教としながらも、ユグノーに対して次のような自由を認めるものでした。

  • 私邸や一部地域での礼拝の容認
  • 公職への就任の保障
  • 司法面でのユグノー特別裁判所の設置
  • 一定の拠点都市(要塞都市)の保持権

このように、完全な自由ではなく「限定的な信仰の自由」でしたが、それまで国家内での“異端排除”が原則だった時代において、宗教的寛容の制度化という点で大きな一歩でした。

2.「新教側の実質的勝利」とは? ― 国家の中に認められた存在

ナントの勅令は、ユグノーに特権を与えたわけではありませんが、国家内に宗教的マイノリティとしての存在を公認し、法の枠内で信仰の自由/社会的地位の保証を得たという点では、ユグノー側にとって「制度上の勝利」を意味しました。

これは同時に、宗教的統一(カトリック一色)という中世的国家観への決別でもありました。

3.新たな政治理念の萌芽とその帰結

ナントの勅令により、フランスは宗教勢力間の対立を抑えこみ、国家再建(特に内政・産業振興)の体制に移行します。

また、勅令の実現を通じてアンリ4世の治世は安定期に入り、フランス絶対王政の基礎が築かれました。

一方で、宗教的寛容は永続したわけではありません。

1685年、ルイ14世はこの勅令を廃止し、ユグノーは再び迫害/国外流出(亡命)を強いられることになります。その結果、多くの技術者・商工業者が外国へ移住し、産業的後退を招いた点も見逃せません。

ナントの勅令の意義

宗教戦争を終結させた政策
→ 36年に及んだユグノー戦争に終止符を打ち、国内の安定と再建を可能にした。

フランス国内における宗教的寛容の制度化
→ カトリックを国教としつつ、ユグノーに限定的な信仰の自由を保障(公職就任権・礼拝権など)。

王権による宗教政策の転換
→ 「宗教統一=国家の安定」という中世的発想からの転換。「信仰の多様性と国家統合」を模索した近代的政策。

ユグノー(新教)の法的・社会的地位の承認
→ 異端視されていたユグノーが、国家の枠内で公認され、存在が制度的に保証された。

アンリ4世による絶対王政の基盤形成
→ 宗教対立の収束により、財政再建や中央集権化政策の推進が可能となり、ブルボン王朝の統治が安定。

宗教と国家の関係への先駆的な示唆
→ 「国家が宗教を完全には支配しない」という原則の萌芽となり、近代的国家像への一歩となった。

次世代への影響(ナントの勅令廃止)にもつながる歴史的背景
→ この寛容政策が後にルイ14世によって1685年に廃止され、結果としてユグノー国外流出とフランスの産業基盤の弱体化を招いたことも重要。

第4章:ユグノー戦争の歴史的意義と入試で狙われる視点

ユグノー戦争は「宗教戦争」という枠組みの中で語られることが多いですが、その本質は、“信仰の対立” を超えて “国家と社会の再編” にまで影響を与えた重大な歴史的転換点でした。

本章では、この戦争がフランス史・ヨーロッパ史において果たした役割を整理しながら、入試で狙われるポイントと関連事項をまとめていきます。

1.ユグノー戦争がもたらした歴史的意義

  • 絶対王政成立への布石を築いた戦争だった
    → 宗教対立に翻弄されたヴァロワ朝の崩壊、アンリ4世の即位とナントの勅令により、国家権力は新たに再集中へ向かう。
  • 「宗教的寛容」への制度的先駆けを提示
    → 中世的な「単一信仰国家」の原則から離れ、近代社会における「信仰の多様性と国家統合」という課題に挑んだ。
  • 国家の統合における“思想対立”の重要性を示した
    → 王権神授説(カトリック) vs 抵抗権思想(ユグノー)という構図は、宗教戦争期のみならず、市民革命や立憲主義の思想史にもつながる。
  • 王家と貴族・宗教勢力の政治的力関係を劇的に変化させた
    → ギーズ家の退場、ブルボン家の王位獲得に象徴されるように、戦争は「王家の再編」という構造変化をもたらした。

2.入試で狙われるポイント整理

  • ナントの勅令の内容と意義
    → 限定的な新教徒の信仰の自由が、フランス史上初めて制度化された点が重要。
  • 対立構図と思想的背景の理解
    → 宗教対立と貴族間の権力争いが重なったため、宗教・政治・社会の3つの視点で説明できるかどうかが問われる。
  • アンリ4世の即位と改宗(パリはミサに値する)
    → 新教徒の王が即位し、国家統合のために改宗したことは、政治的 pragmatism(現実主義)の代表例。
  • ナントの勅令廃止(1685年)もセットで問われる
    → 宗教寛容の撤回→ユグノー国外流出→産業人材の喪失→フランスの長期的経済的後退という流れにも注意。

3.次の学習ステップ:他国の宗教戦争や宗教寛容との比較へ

ユグノー戦争の理解は、以下のテーマと関連させると視野が広がります:

  • オランダ独立戦争(同時期のカルヴァン派運動)
  • 三十年戦争(宗教戦争の国際化)
  • イギリスの清教徒革命(抵抗権思想の結実)

これらと比較することで、「宗教改革後の国家と社会の形成」という大きな流れを俯瞰でき、入試でも十分に応用が可能となります。

ユグノー戦争とオランダ独立戦争を比較し、カルヴァン派が果たした役割の類似点と相違点を論ぜよ。

ユグノー戦争(1562〜98年)とオランダ独立戦争(1568〜1648年)は、いずれもカルヴァン派を中心としたプロテスタント勢力が、既存の支配体制に対抗した点で共通している。両者においてカルヴァン派は都市の商工業者や新興市民層に支持され、信仰の自由と自治の獲得を旗印として政治的抵抗運動を担った。しかしその性格には相違があり、ユグノー戦争はフランス内部の宗教・貴族・王権の対立に基づく内戦であったのに対し、オランダ独立戦争はスペイン(カトリック王政)からの政治的・宗教的独立を求めた対外戦争であった。また、ユグノー戦争は新教徒が王位に就くことで「国家内共存」を目指したのに対し、オランダではカルヴァン派が独立共和国の建設に寄与し、国家の宗教アイデンティティ自体を形成した点にも違いが見られる。

まとめ

ユグノー戦争は「宗教 × 政治 × 社会」が交錯した内戦であり、近代国家の形成へとつながる大きな思想的・制度的発展を生んだ歴史的転換点でした。

ナントの勅令を中心に、国家と宗教の関係の変化、その後の絶対王政成立という長期的な帰結までを押さえることが重要です。

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