フランスの16世紀後半は、宗教対立が王国を二分する混乱の時代でした。
カトリックとカルヴァン派(ユグノー)の衝突は「ユグノー戦争」と呼ばれ、約30年にわたり断続的に続きました。
その中でも特に象徴的な事件が、1572年の「サン=バルテルミの虐殺」です。
これらは単なる宗教対立にとどまらず、王権の行方や絶対王政成立に直結する重要な要素であり、大学受験世界史でも頻出テーマです。
この記事では、ユグノー戦争の背景から経過、そしてその歴史的意義までをわかりやすく整理していきます。
第1章 ユグノー戦争の背景と勃発導入文
ユグノー戦争は、フランス国内における宗教改革の浸透と、それに伴う王権と貴族勢力の対立から始まりました。
カトリックとカルヴァン派の対立は、単なる信仰上の違いではなく、政治・経済的利害と結びついて大規模な内戦へと発展していきます。
1. 宗教改革とカルヴァン派の広がり
フランスでは16世紀半ば以降、ジュネーヴのカルヴァン思想が急速に浸透しました。
信徒は「ユグノー」と呼ばれ、主に都市の商工業者や一部の貴族に支持を得ました。
一方、伝統的なカトリックを支持する王室や貴族層との溝は深まり、社会不安が拡大していきました。

2. 王権の動揺と有力貴族の対立
ヴァロワ朝末期、フランス王権は弱体化していました。
幼少のシャルル9世を補佐する王母カトリーヌ=ド=メディシスは、宗教対立の調停を試みる一方で、実際には貴族間の抗争に振り回されました。
特に、カトリック側のギーズ公と、ユグノー派を支持するブルボン家・コリニー提督らが激しく対立しました。
3. ユグノー戦争の勃発(1562年)
1562年、ヴァシーでギーズ公の軍がユグノーを虐殺した「ヴァシーの虐殺」が発端となり、両派は武力衝突へと突入しました。
これが「ユグノー戦争」の始まりであり、以後30年近くにわたり戦闘と和睦が繰り返されることになります。
入試で狙われるポイント
- ユグノーとはフランスのカルヴァン派信徒を指す。
- 宗教対立は貴族間の権力争いと結びつき、王権の弱体化を招いた。
- 勃発の契機は1562年の「ヴァシーの虐殺」である。
第1章: ユグノー戦争の背景と勃発 一問一答&正誤問題15問 問題演習
- ユグノー戦争の勃発背景を、宗教改革と貴族対立の関係に着目して200字程度で説明せよ。
-
フランスでは16世紀半ば以降、カルヴァン派(ユグノー)が都市や一部貴族に広まり、カトリックと鋭く対立した。ヴァロワ朝末期は王権が弱体化し、幼少のシャルル9世を補佐するカトリーヌ=ド=メディシスは調停を試みたが、ギーズ家らカトリック派とブルボン家らユグノー派の争いは激化した。1562年のヴァシーの虐殺を契機に両派は武力衝突し、以後約30年に及ぶ内戦(ユグノー戦争)が始まった。
第1章: ユグノー戦争とサン=バルテルミの虐殺 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
フランスに広がったカルヴァン派信徒を何と呼ぶか。
解答:ユグノー
問2
ユグノー戦争が勃発したのは西暦何年か。
解答:1562年
問3
ユグノー戦争勃発の直接的契機となった事件を何というか。
解答:ヴァシーの虐殺
問4
ヴァシーの虐殺を指揮したカトリック派の有力貴族は誰か。
解答:ギーズ公
問5
シャルル9世を補佐した王母は誰か。
解答:カトリーヌ=ド=メディシス
問6
ユグノー派を支持した有力家門は何家か。
解答:ブルボン家
問7
ユグノー戦争において指導的役割を果たしたユグノー派の提督は誰か。
解答:コリニー提督
問8
当時のフランス王朝名を答えよ。
解答:ヴァロワ朝
問9
カルヴァン派の思想的中心地となった都市はどこか。
解答:ジュネーヴ
問10
カトリックとユグノーの対立が激化した最大の背景は何か。
解答:宗教改革の影響
正誤問題(5問)
問11
ユグノーとはルター派信徒を指す。
解答:誤(カルヴァン派信徒)
問12
ユグノー戦争は30年戦争の一部として位置づけられる。
解答:誤(フランス国内の宗教戦争)
問13
ヴァシーの虐殺がユグノー戦争の勃発契機であった。
解答:正
問14
カトリーヌ=ド=メディシスは当初、宗教的融和を図ろうとした。
解答:正
問15
ユグノー戦争の対立は単なる宗教的対立にとどまらず、貴族の権力闘争とも深く結びついていた。
解答:正
第2章 サン=バルテルミの虐殺とユグノー戦争の激化
ユグノー戦争の最中、和平の試みとしてカトリック派とユグノー派を結ぶ婚姻が計画されました。
しかし、その直後に起こったのが「サン=バルテルミの虐殺」(1572年)です。
これはフランス史における最大級の宗教虐殺事件であり、ユグノー戦争を一層深刻化させる契機となりました。
1. 和平の試みと王室の思惑
1572年、カトリックの王女マルグリットと、ユグノー派の指導者アンリ(後のアンリ4世=ブルボン家)が結婚することになりました。
この政略結婚は宗教融和を象徴する出来事と期待されました。
2. サン=バルテルミの虐殺(1572年)
しかし結婚式直後、カトリック側のギーズ公らはユグノーの指導者コリニー提督を暗殺し、さらにユグノー信徒を大規模に襲撃しました。
これが「サン=バルテルミの虐殺」であり、数千〜数万人が犠牲になったとされます。
3. 内戦の再燃
虐殺によって和平は完全に崩壊し、ユグノー戦争は再び激化しました。
ユグノー派の求心力は低下したものの、ブルボン家のアンリは生き延び、のちにフランス王アンリ4世として歴史の表舞台に立つことになります。
入試で狙われるポイント
- サン=バルテルミの虐殺は1572年に発生した。
- コリニー提督の暗殺が事件の発端となった。
- 婚姻による宗教融和の試みは失敗し、内戦が激化した。
- サン=バルテルミの虐殺がフランスの宗教戦争に与えた影響を200字以内で説明せよ。
-
1572年、カトリックの王女とユグノー派アンリの婚姻による和平の試みが行われたが、直後にカトリック派のギーズ公がコリニー提督を暗殺し、ユグノー信徒を大量虐殺した。これがサン=バルテルミの虐殺である。和平は崩壊し、国内の宗教対立は一層激化した。ユグノー派は大打撃を受けたが、ブルボン家のアンリは生き残り、後に王位につくことで宗教戦争の終結に繋がった。
第2章: ユグノー戦争とサン=バルテルミの虐殺 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
サン=バルテルミの虐殺が起きたのは西暦何年か。
解答:1572年
問2
サン=バルテルミの虐殺を引き起こした中心人物は誰か。
解答:ギーズ公
問3
虐殺の直接の発端となった暗殺対象は誰か。
解答:コリニー提督
問4
事件直前に行われた政略結婚で、カトリック側の王女は誰か。
解答:マルグリット
問5
ユグノー派のアンリ(後のアンリ4世)は何家の出身か。
解答:ブルボン家
問6
サン=バルテルミの虐殺で犠牲になったのは主にどの宗派か。
解答:カルヴァン派(ユグノー)
問7
虐殺が行われた都市を答えよ。
解答:パリ
問8
サン=バルテルミの虐殺によって崩壊した試みは何か。
解答:カトリックとユグノーの融和政策
問9
虐殺によってフランスの宗教戦争はどうなったか。
解答:内戦が再燃・激化した
問10
後にフランス王となったブルボン家の人物は誰か。
解答:アンリ4世
正誤問題(5問)
問11
サン=バルテルミの虐殺は、カトリックとユグノーの和平を象徴する出来事である。
解答:誤(和平は崩壊し、戦争が激化した)
問12
サン=バルテルミの虐殺は王女マルグリットの結婚式直後に発生した。
解答:正
問13
虐殺の発端はユグノー派のコリニー提督の暗殺であった。
解答:正
問14
サン=バルテルミの虐殺により、ブルボン家のアンリも殺害された。
解答:誤(アンリは生き残り、後にフランス王アンリ4世となった)
問15
サン=バルテルミの虐殺によってユグノー戦争は沈静化した。
解答:誤(戦争は激化した)
第3章 ユグノー戦争の終結とナントの勅令
長期にわたったユグノー戦争は、ブルボン家のアンリが王位につくことで収束へ向かいました。
彼はカトリックに改宗して「アンリ4世」となり、1598年に「ナントの勅令」を発布して宗教的寛容を認めました。
これによってフランスはようやく宗教戦争の混乱を脱し、絶対王政への道を歩み始めることになります。
1. アンリ4世の即位とカトリック改宗
1589年、ヴァロワ朝が断絶すると、ブルボン家のアンリが王位継承者として浮上しました。
当初ユグノー派であったアンリは、国民の大多数を占めるカトリックと対立しましたが、王権の安定を優先してカトリックへ改宗し、王位を確立しました。
この決断は「パリは一つのミサに値する」という言葉で象徴されます。
2. ナントの勅令(1598年)
アンリ4世は宗教対立を沈静化するため、1598年に「ナントの勅令」を発布しました。
この勅令により、カトリックを国教としつつ、ユグノーに一定の信仰・集会の自由を認めました。
完全な宗教平等ではなかったものの、宗教的寛容の原則を掲げた画期的な政策でした。
3. フランス絶対王政への道
ナントの勅令によってフランスは国内の安定を取り戻し、国家統合が進みました。
その後、ルイ13世・ルイ14世の時代に絶対王政が確立していく基盤が整えられたのです。
ユグノー戦争は単なる宗教戦争にとどまらず、フランス近代国家形成の重要な転機となりました。

入試で狙われるポイント
- ヴァロワ朝断絶後、ブルボン家のアンリが王位につきアンリ4世となった。
- アンリ4世はカトリックに改宗し、王権を安定させた。
- 1598年のナントの勅令でユグノーに一定の信仰の自由が与えられた。
- ユグノー戦争の収束は絶対王政成立への布石となった。
- ナントの勅令の意義を、フランス絶対王政との関連で200字程度にまとめよ。
-
ユグノー戦争で宗教的分裂に苦しんだフランスは、ブルボン家のアンリ4世の即位で安定へ向かった。アンリはカトリックに改宗して王権を強化し、1598年にナントの勅令を発布してユグノーに一定の信仰の自由を与えた。この勅令は宗教的寛容を示し、国内の宗教対立を緩和することで国家の統合を進めた。その結果、後のルイ13世・ルイ14世による絶対王政確立の基盤が整えられた。
第3章: ユグノー戦争とサン=バルテルミの虐殺 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
ヴァロワ朝断絶後に即位した王家は何家か。
解答:ブルボン家
問2
ブルボン家のアンリがフランス王として即位したときの王名は何か。
解答:アンリ4世
問3
アンリ4世がカトリックに改宗したことを象徴する言葉は何か。
解答:「パリは一つのミサに値する」
問4
ナントの勅令が発布されたのは西暦何年か。
解答:1598年
問5
ナントの勅令を発布した国王は誰か。
解答:アンリ4世
問6
ナントの勅令で国教とされた宗派は何か。
解答:カトリック
問7
ナントの勅令で一定の信仰の自由を認められた宗派は何か。
解答:カルヴァン派(ユグノー)
問8
ナントの勅令によってフランスが得た大きな成果は何か。
解答:国内の安定・宗教戦争の終結
問9
ナントの勅令が整えた体制の先に成立した政治形態は何か。
解答:絶対王政
問10
アンリ4世が即位したのは何年か。
解答:1589年
正誤問題(5問)
問11
アンリ4世はルター派に改宗して王権を安定させた。
解答:誤(カトリックに改宗した)
問12
「パリは一つのミサに値する」という言葉は、アンリ4世のカトリック改宗を表す。
解答:正
問13
ナントの勅令はユグノーに完全な平等を与えた。
解答:誤(一定の自由のみを認めた)
問14
ナントの勅令によってフランスは宗教的安定を回復した。
解答:正
問15
ユグノー戦争の終結は、フランス絶対王政の基盤形成につながった。
解答:正
ユグノー戦争 年表
年 | 出来事 |
---|---|
1562 | ヴァシーの虐殺 → ユグノー戦争勃発 |
1572 | サン=バルテルミの虐殺 |
1589 | ブルボン家のアンリが王位継承(アンリ4世即位) |
1598 | ナントの勅令発布 → 宗教戦争終結 |
ユグノー戦争の流れ(フローチャート)
ヴァシーの虐殺(1562)
↓
ユグノー戦争勃発
↓
政略婚姻で和平模索(1572)
↓
サン=バルテルミの虐殺(1572)
↓
内戦再燃・長期化
↓
ヴァロワ朝断絶(1589)
↓
ブルボン家アンリ即位(アンリ4世)
↓
カトリック改宗
↓
ナントの勅令(1598)
↓
宗教戦争終結 → 絶対王政への基盤
学習のポイントまとめ
- 原因:カルヴァン派(ユグノー)の広がりと貴族勢力の対立。
- 象徴的事件:ヴァシーの虐殺・サン=バルテルミの虐殺。
- 結果:ナントの勅令による宗教的寛容と国内安定。
- 意義:フランス絶対王政の成立を準備した歴史的転換点。
コメント