イギリス東インド会社は、近世から近代にかけての世界史において、商業資本主義と帝国主義をつなぐ架け橋となった存在です。
1600年に設立された当初は、インド航路をめぐる貿易独占を目的とする株式会社にすぎませんでした。
しかし、18世紀以降のプラッシーの戦いを皮切りにインド支配を拡大し、やがて「会社」が現地統治を担うという異例の存在へと変貌していきます。
大学受験世界史では、単なる貿易組織にとどまらないその役割の変化が頻出テーマです。
本記事では、イギリス東インド会社の設立からインド統治への転換までを体系的に解説し、受験での得点力アップにつながる視点を提供します。
第1章 イギリス東インド会社の設立と初期の活動
まずは、イギリス東インド会社がどのような経緯で誕生し、初期にどのような活動を行ったのかを押さえておきましょう。
ここでは、背景にある大航海時代の国際情勢や、オランダとの競合について整理します。
1. 大航海時代とイギリスの出遅れ
15〜16世紀の大航海時代、アジアとの香辛料貿易をめぐって先行したのはポルトガルとスペインでした。
イギリスは内政不安や財政問題もあり、参入が遅れました。
しかしエリザベス1世の時代に国家財政が安定すると、民間の出資による海外進出の機運が高まりました。
2. 1600年の設立
1600年、エリザベス1世は東インド会社に勅許を与えました。これは 株式会社 の形をとり、株主がリスクを分担する仕組みを採用。
これにより大規模な資金調達が可能となり、インド洋進出が本格化しました。
3. 初期の拠点形成と競合
当初、イギリス東インド会社はモルッカ諸島の香辛料貿易を狙いましたが、ここではすでにオランダ東インド会社(VOC)が優位を確立していました。
そのためイギリスは次第にインドの綿織物に注目し、17世紀半ばには スラト・マドラス・ボンベイ・カルカッタ などに拠点を設立。
オランダとの競争を避けつつ、インド市場に活路を見出しました。
入試で狙われるポイント
- 設立年は 1600年(エリザベス1世の勅許)
- 株式会社という仕組みがポイント
- 初期は香辛料貿易に狙いを定めるも、オランダに敗れて インドの綿織物貿易へ転換
- 拠点は スラト・マドラス・ボンベイ・カルカッタ(地名問題で頻出!)
- イギリス東インド会社の設立背景と初期の活動について、オランダ東インド会社との比較を交えて200字程度で説明せよ。
-
16世紀後半、アジア貿易を独占していたポルトガル・スペインに対抗して、オランダ・イギリスが進出を開始した。オランダはVOCを通じて香辛料貿易を支配したが、イギリス東インド会社は1600年エリザベス1世の勅許で設立され、株式会社方式を導入した。当初は香辛料を狙ったが敗れ、代わりにインドの綿織物に注目し、スラト・マドラス・ボンベイ・カルカッタを拠点に交易を展開した。
第1章: イギリス東インド会社 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
イギリス東インド会社が設立されたのは西暦何年か。
解答:1600年
問2
イギリス東インド会社に勅許を与えた国王(女王)は誰か。
解答:エリザベス1世
問3
イギリス東インド会社が採用した出資制度の仕組みを何というか。
解答:株式会社(joint-stock company)
問4
当初、イギリス東インド会社が狙ったアジアの貿易商品は何か。
解答:香辛料
問5
香辛料貿易でイギリスが競合したのはどの国の東インド会社か。
解答:オランダ
問6
イギリス東インド会社が次第に注目したインドの主な貿易品は何か。
解答:綿織物
問7
イギリス東インド会社がインドに築いた最初期の拠点の一つで、ムガル帝国の港市はどこか。
解答:スラト
問8
マドラスに築かれたイギリスの要塞は何か。
解答:セント=ジョージ要塞
問9
後にボンベイはどの国からイギリス領となったか。
解答:ポルトガル
問10
カルカッタに築かれた要塞を何というか。
解答:フォート=ウィリアム要塞
正誤問題(5問)
問11
イギリス東インド会社は1520年に設立され、スペイン王カルロス1世の勅許を受けた。
解答:誤(→1600年、エリザベス1世の勅許)
問12
イギリス東インド会社は株式会社制度を採用し、出資者がリスクを分担した。
解答:正
問13
イギリス東インド会社は当初からインドの綿織物貿易に注目し、オランダとの競争を避けて活動した。
解答:誤(→当初は香辛料貿易を狙ったが失敗し、その後綿織物に注目)
問14
ボンベイはもともとポルトガル領だったが、王室の婚資としてイギリスに譲渡された。
解答:正
問15
カルカッタに築かれた要塞はセント=ジョージ要塞である。
解答:誤(→カルカッタはフォート=ウィリアム要塞)
第2章 イギリス東インド会社とインド支配の拡大
17世紀までは貿易会社に過ぎなかったイギリス東インド会社ですが、18世紀に入るとインド情勢の変化を背景に軍事力を強め、現地支配に踏み込みます。
ここでは、ムガル帝国の衰退やフランスとの対立を軸に、イギリスがどのようにインドにおける覇権を確立していったのかを見ていきましょう。
1. ムガル帝国の衰退と権力の空白
アウラングゼーブ帝の死後(1707年)、ムガル帝国は急速に衰退しました。
地方政権や有力藩王が台頭し、インドは分裂状態に陥ります。この権力の空白を埋めようと、イギリスとフランスがインドで影響力を拡大していきました。
2. カーナティック戦争(1744〜1763年)
南インドのカーナティック地方を舞台に、イギリス東インド会社とフランス東インド会社が三度にわたって戦争を繰り広げました。
最終的には七年戦争の結果、1763年のパリ条約でフランスはインドでの拠点を大幅に縮小し、イギリスの優位が決定づけられました。
3. プラッシーの戦い(1757年)
転機となったのが1757年の プラッシーの戦い です。イギリス東インド会社の軍を率いたクライヴは、ベンガル太守とフランス勢力を打ち破り、ベンガル地方の支配権を掌握しました。
これにより、会社が単なる商人組織ではなく、軍事力を伴った支配者へと変貌したのです。
4. ディーワーニー権の獲得(1765年)
さらに1765年、ムガル皇帝からベンガルの「ディーワーニー権」(徴税権)を獲得。
これによりイギリス東インド会社は、現地統治の財政基盤を手に入れ、事実上の植民地支配へと移行しました。
入試で狙われるポイント
- ムガル帝国の衰退(1707年以降) が背景
- カーナティック戦争(1744〜1763) → 七年戦争と結びつけて出題されやすい
- プラッシーの戦い(1757)=大転換点
- ディーワーニー権(1765) は頻出用語(インド統治の始まり)
- 18世紀のイギリス東インド会社によるインド支配の始まりについて、フランスとの対立とプラッシーの戦いを中心に200字程度で説明せよ。
-
アウラングゼーブ帝死後のムガル帝国の衰退により、インドは地方分裂が進んだ。この中でイギリスとフランスが南インドのカーナティック戦争を通じて抗争した。七年戦争後、フランスは拠点を縮小し、イギリスが優位を確立。さらに1757年のプラッシーの戦いでクライヴがベンガル太守軍とフランス勢力を撃破し、1765年にディーワーニー権を獲得することで、会社は事実上のインド統治を開始した。
第2章: イギリス東インド会社 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
アウラングゼーブ帝の死去は西暦何年か。
解答:1707年
問2
ムガル帝国の衰退後、南インドでイギリスとフランスが争った戦争を何というか。
解答:カーナティック戦争
問3
カーナティック戦争は何回行われたか。
解答:3回
問4
カーナティック戦争と同時期に展開したヨーロッパ本国での戦争は何か。
解答:七年戦争
問5
1763年のパリ条約でインドにおける勢力を後退させた国はどこか。
解答:フランス
問6
1757年、イギリス東インド会社のクライヴが勝利した戦いは何か。
解答:プラッシーの戦い
問7
プラッシーの戦いでイギリスが支配権を確立した地方はどこか。
解答:ベンガル地方
問8
1765年にムガル皇帝からイギリス東インド会社が獲得した徴税権を何というか。
解答:ディーワーニー権
問9
プラッシーの戦いで敗れたベンガル太守は誰か。
解答:スラージ=ウッダウラ
問10
インド支配の基盤となった要素を一つ挙げよ。
解答:ディーワーニー権(徴税権)
正誤問題(5問)
問11
アウラングゼーブ帝の死後、ムガル帝国は一層中央集権を強めた。
解答:誤(→地方分裂が進んだ)
問12
カーナティック戦争はイギリスとフランスが南インドで覇権を争った戦争である。
解答:正
問13
プラッシーの戦いで勝利したイギリスは、デカン高原全体を直ちに支配下に置いた。
解答:誤(→ベンガル支配が中心)
問14
1763年のパリ条約により、フランスはインドの拠点を縮小した。
解答:正
問15
ディーワーニー権とは、ベンガル地方の司法権を指す。
解答:誤(→徴税権のこと)
第3章 イギリス東インド会社のインド統治と反乱
18世紀後半から19世紀にかけて、イギリス東インド会社は単なる貿易会社を超えて「統治機関」としての性格を強めました。
しかし、経済搾取や宗教・文化への干渉は現地社会の反発を招き、やがて大規模な反乱へと発展します。
ここでは、会社の統治の仕組みとその限界、そして1857年のセポイの反乱を中心に解説します。
1. ベンガル支配の強化と経済的影響
ディーワーニー権を得た会社はベンガル地方の徴税を掌握し、現地農民に過酷な負担を課しました。
インドの経済はイギリスへの綿織物輸出に組み込まれ、伝統的な産業は衰退。
結果として、インドは「原料供給地」としての性格を強めていきました。
2. 会社による行政と司法
18世紀末から19世紀初頭にかけて、イギリス東インド会社は行政・司法機能を整備し、事実上の植民地政府として機能しました。
総督が任命され、軍事力を背景にインド各地の藩王国に影響を及ぼしました。
3. セポイの反乱(1857年)
1857年、インド兵(セポイ)を中心とした反乱が勃発しました。
きっかけは新型銃の薬包に牛・豚の脂が塗られているという宗教的禁忌の問題でしたが、その背景には経済的搾取と政治的支配への不満がありました。
反乱は北インド各地に広がったものの、イギリス軍に鎮圧されます。
4. 東インド会社の解散とインド直接統治
セポイの反乱を契機に、イギリス政府は1858年に東インド会社を解散し、インド統治を王室直轄としました。
ここに「会社の時代」は終わりを告げ、「インド帝国」時代が始まります。
入試で狙われるポイント
- ディーワーニー権以降、会社は統治機能を担った
- インド経済=原料供給地化・産業衰退
- セポイの反乱(1857)=最大の山場
- 1858年:会社解散 → インド直接統治(インド帝国成立)
- イギリス東インド会社が統治機関化していく過程と、その限界を示したセポイの反乱について200字程度で説明せよ。
-
1765年にディーワーニー権を獲得したイギリス東インド会社は、徴税を通じて現地社会を支配し、行政・司法制度を整備して事実上の植民地政府となった。しかし経済的搾取と宗教的干渉は反発を招き、1857年セポイの反乱が発生した。反乱は鎮圧されたが、これを契機に会社は解散し、インドは王室直轄の統治下に置かれることとなった。
第3章: イギリス東インド会社 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
1765年にイギリス東インド会社が獲得した徴税権を何というか。
解答:ディーワーニー権
問2
ディーワーニー権を与えたのは誰か。
解答:ムガル皇帝
問3
イギリス東インド会社が徴税を掌握した地方はどこか。
解答:ベンガル地方
問4
イギリス東インド会社のインドにおける総督を何と呼ぶか。
解答:Governor-General(総督)
問5
インド産業の衰退は何の商品との関係で特に顕著だったか。
解答:綿織物
問6
1857年に起きたインド兵中心の反乱を何というか。
解答:セポイの反乱
問7
セポイの反乱の直接のきっかけとなった武器は何か。
解答:新型銃の薬包(牛・豚の脂使用)
問8
セポイの反乱が発生した地域の一つで、旧ムガル皇帝が担ぎ出された都市はどこか。
解答:デリー
問9
セポイの反乱の結果、イギリス政府が1858年に出した法は何か。
解答:インド統治法
問10
1858年以降、インドを統治する体制は何と呼ばれるか。
解答:インド帝国
正誤問題(5問)
問11
ディーワーニー権とは、インドにおける司法権を指す。
解答:誤(→徴税権のこと)
問12
イギリス東インド会社は総督を中心に行政・司法制度を整備した。
解答:正
問13
セポイの反乱は経済的搾取だけが原因であり、宗教的要素は含まれなかった。
解答:誤(→宗教的禁忌が直接のきっかけ)
問14
セポイの反乱は北インドを中心に広がったが、最終的にイギリス軍に鎮圧された。
解答:正
問15
セポイの反乱後もイギリス東インド会社はインド統治を継続した。
解答:誤(→1858年に会社は解散し、王室直轄となった)
第4章 まとめ:イギリス東インド会社の歩みと歴史的意義
イギリス東インド会社は、単なる株式会社として始まりながら、次第に軍事・統治機能を担う存在へと変貌し、ついにはインドを直接支配する道を開きました。
この過程は「商業資本主義から帝国主義への転換」を象徴する事例であり、大学受験でも頻出のテーマです。ここでは、年表とフローチャートでその流れを整理しておきましょう。
イギリス東インド会社の重要年表
年代 | 出来事 |
---|---|
1600年 | エリザベス1世が勅許、イギリス東インド会社設立 |
17世紀前半 | 香辛料貿易でオランダ東インド会社に敗北 |
17世紀後半 | インド綿織物貿易へ転換、スラト・マドラス・ボンベイ・カルカッタに拠点形成 |
1707年 | アウラングゼーブ帝死去、ムガル帝国の衰退開始 |
1744〜1763年 | カーナティック戦争(イギリス vs フランス) |
1757年 | プラッシーの戦い、ベンガル支配開始 |
1765年 | ディーワーニー権(徴税権)獲得 |
18〜19世紀 | インド経済を原料供給地化、行政・司法制度整備 |
1857年 | セポイの反乱(インド大反乱) |
1858年 | 東インド会社解散、イギリス本国によるインド直接統治開始(インド帝国) |
イギリス東インド会社の流れ(フローチャート)
1600 イギリス東インド会社 設立
↓
香辛料で失敗 → インド綿織物へ転換
↓
拠点形成:スラト/マドラス/ボンベイ/カルカッタ
↓
1707 ムガル帝国の衰退(権力の空白)
↓
1744–1763 カーナティック戦争 → イギリス優位
↓
1757 プラッシーの戦い(ベンガル支配)
↓
1765 ディーワーニー権(徴税権)獲得
↓
18–19世紀 原料供給地化・統治機能の強化
↓
1857 セポイの反乱
↓
1858 会社解散 → インド帝国(王室直轄)
まとめ
イギリス東インド会社の歴史は、
- 株式会社としての商業活動の始まり
- 軍事力を背景にした現地支配への移行
- 経済的搾取と統治の限界(セポイの反乱)
- 会社の終焉と帝国主義の幕開け
という4つのステージで理解すると整理しやすいです。
受験では特に 設立(1600)、プラッシーの戦い(1757)、ディーワーニー権(1765)、セポイの反乱(1857)、会社解散(1858) が狙われるので要チェックです。
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