ヴァルミーの戦いとは、1792年9月20日、フランス北東部シャンパーニュ地方で行われたフランス軍とプロイセン軍の戦いを指します。
この戦いで、革命直後の混乱に揺れるフランス共和国軍は、国王ルイ16世の処刑を阻止しようと侵攻したプロイセン軍を撃退し、フランス革命の存続を決定づける歴史的勝利を収めました。
その意義は、単なる軍事的勝利にとどまりません。
国王を中心とした旧体制の軍ではなく、市民が自らの意思で祖国を守る「国民軍」が、封建的な王制国家の連合軍に勝利したという点で、「国民国家」の夜明けを告げる象徴的な戦いと位置づけられます。
この日以降、「自由と祖国のために戦う市民兵」という理念がヨーロッパ全土に広まり、のちのナショナリズム運動の原点ともなりました。
背景には、国王の逃亡未遂(ヴァレンヌ事件)や、オーストリア・プロイセンの干渉(ピルニッツ宣言)、さらに立法議会によるオーストリア宣戦布告(1792年4月)など、革命の理念と外敵の脅威が交錯する緊迫した情勢がありました。
フランス軍は混乱と士気低下に苦しみましたが、ドゥムーリエやケルマン将軍の指揮のもと、砲撃戦で持ちこたえ、結果的にプロイセン軍を撤退に追い込みます。
この戦いの影響は計り知れません。
戦勝の翌日、国民公会が招集され、王政廃止と共和政の成立(第一共和政)が宣言されました。
つまり、ヴァルミーの勝利はフランス革命を軍事的にも政治的にも守り抜いた分水嶺であり、「近代戦の始まり」とも称されます。
本記事では、
- 第1章でヴァルミーの戦いの背景と経過を整理し、
- 第2章で勝利の要因とその軍事的特徴を分析し、
- 第3章でこの戦いがフランス革命およびヨーロッパ史全体に与えた影響を考察します。
第1章:ヴァルミーの戦いの背景と経過
ヴァルミーの戦いは突発的な戦闘ではなく、フランス革命の理念を守ろうとする国内外の力のぶつかり合いの中で必然的に起こった出来事でした。
この章では、戦いに至るまでの政治的・外交的経緯と、実際の戦闘の流れを整理します。
1. 革命とヨーロッパ列強の対立
1789年のフランス革命は、自由・平等・人権という理念を掲げて絶対王政を打倒しましたが、その動きはヨーロッパの君主たちにとって大きな脅威でした。
革命の波が自国に及ぶことを恐れたオーストリア皇帝レオポルト2世とプロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム2世は、1791年にピルニッツ宣言を発し、ルイ16世の安全を保障しつつ、革命への干渉姿勢を示します。
この干渉宣言は、革命政府にとって「外敵からの挑戦状」と受け取られ、国内の対外政策論争を激化させました。
やがて、立法議会ではジロンド派(急進的自由主義派)が台頭し、「革命を守るための戦争」を主張します。
2. オーストリアへの宣戦布告と祖国の危機
1792年4月、立法議会はオーストリアに宣戦布告し、革命戦争(対仏第一次同盟戦争)が始まりました。
しかし、旧貴族出身の将校が次々と亡命したため、軍は混乱。士気は低く、補給も不足しており、最初の戦いでは連敗を喫しました。
その後、プロイセン軍が参戦し、連合軍はヴェルダン要塞を突破してパリに迫る勢いを見せます。
このとき、国民議会は「祖国の危機宣言」(1792年7月)を発し、国民全体の蜂起と義勇兵の募集を呼びかけました。
まさに、国民の手で祖国を守るという理念が現実の戦場へと広がったのです。
3. ヴァルミーの戦い ―「国民軍」の初勝利
1792年9月20日、フランス北東部ヴァルミーの丘陵地帯で、ケルマン将軍・ドゥムーリエ将軍率いるフランス軍(約5万)と、プロイセン軍(約3.5万)が対峙しました。
泥濘地での砲撃戦の末、プロイセン軍は進撃を断念し撤退します。
この戦いの特徴は、戦死者が少なかったにもかかわらず、心理的な勝利が極めて大きかったことです。
革命軍の兵士たちは「祖国のために戦う」という理念に支えられ、貴族のためではなく自らの意志で銃を取った市民軍が初めて伝統的な王制軍を退けました。
ヴァルミーの勝利は、まさに「革命の理念が現実を動かした瞬間」でした。
4. 勝利の直後 ― 王政廃止と共和国宣言へ
ヴァルミーの戦いの翌日、1792年9月21日、国民公会が招集され、王政廃止と共和政(第一共和政)の成立が宣言されました。
軍事的勝利と政治的変革が連動したこのタイミングこそ、ヴァルミーが歴史上の転換点とされる所以です。
以後、戦いは「祖国防衛の戦争」から「革命を輸出する戦争」へと性格を変えていき、ヨーロッパの秩序全体を揺るがすナポレオン時代への扉を開くこととなります。
【ヴァルミーの戦いまでの流れチャート】
1789年 フランス革命勃発
↓
1791年 ヴァレンヌ事件 → ピルニッツ宣言(革命干渉の予告)
↓
1792年4月 立法議会、オーストリアへ宣戦布告
↓
1792年7月 祖国の危機宣言 → 義勇兵の蜂起
↓
1792年9月20日 ヴァルミーの戦い(フランス軍がプロイセン軍を撃退)
↓
1792年9月21日 国民公会召集 → 王政廃止・共和政成立
第2章:ヴァルミーの戦いの勝利とその意義
ヴァルミーの勝利は、単なる一戦の勝敗を超えて、フランス革命そのものの存続を決定づけた歴史的転換点でした。
戦闘の規模は小さく、死者も少なかったにもかかわらず、その影響は政治・思想・軍事のあらゆる側面に及びます。
この章では、まず王政廃止との関係を整理し、続いて「国民軍の誕生」「理念の勝利」という観点から、その意義を明らかにします。
1. 王政廃止との関係 ―「翌日」の真実
ヴァルミーの戦いが行われたのは1792年9月20日。
その翌日9月21日、国民公会が初めて開かれ、王政の廃止と共和政の成立(第一共和政)が宣言されました。
この日付の近さから、「勝利の翌日に王政が倒された」と説明されることが多いですが、実際にはもう少し複雑です。
実際、王政はすでに8月10日のチュイルリー宮襲撃事件で事実上崩壊していました。
国王ルイ16世は捕えられ、立憲王政は機能を失っていたため、9月21日の宣言は王政廃止の「法的確認」にすぎません。
したがって、ヴァルミーの勝利が直接の引き金になったわけではないのです。
しかし、ヴァルミーの報は議会に届き、「外敵を退けた」という高揚感と自信が共和政の決定を後押ししたのは間違いありません。
もしこの時期に戦いが敗北に終わっていれば、国民公会の雰囲気は一変し、共和政は先送りになっていた可能性もあります。
すなわち、ヴァルミーの勝利は王政廃止を心理的に確定させた政治的勝利だったのです。
2. 国民軍の誕生 ―「祖国防衛」から「市民の軍隊」へ
ヴァルミーで戦った兵士たちは、従来の常備軍とは異なり、祖国を守るという理念に基づいて志願した市民兵でした。
「祖国の危機宣言」に呼応して集まった義勇兵や民兵たちは、身分を超えて戦場に立ち、革命を守る主体となりました。
このことは、ヨーロッパの軍事史における大きな転換点でした。
それまでの戦争は「王のための戦い」でしたが、ヴァルミー以降の戦争は「国民のための戦い」へと変わっていきます。
つまりここで、「国民国家の軍隊」=国民軍という新しい形が生まれたのです。
この新しい軍事理念は、後の徴兵制(1793年:総動員令=ラ・レヴェ・アン・マス)につながり、ナポレオン時代のヨーロッパを席巻する「国民戦争」の原型となっていきます。
3. 「理念の勝利」としてのヴァルミー
軍事的に見れば、ヴァルミーの戦いは決定的な撃滅戦ではありませんでした。
プロイセン軍は大きな損害を受けずに撤退し、フランス側も追撃を行っていません。
しかし、真の勝利は戦場の結果ではなく、理念の力が恐怖と混乱を克服したことにありました。
詩人ゲーテは、この戦場を目撃してこう語ったと伝えられます。
「この日から新しい時代が始まる。世界史において、これまでのすべてとは異なる時代が。」
彼の言葉が示す通り、ヴァルミーは封建制と絶対王政の時代の終焉を象徴する戦いでした。
それはまた、自由・平等・国民主権という理念が、初めて武力をもって現実を変えた瞬間でもあります。
この戦いを契機に、「祖国」「自由」「共和国」といった言葉が政治的スローガンから国民的情熱へと変わり、革命は防衛から拡張へ、そして「世界史的運動」へと発展していきました。
4. ヴァルミーの勝利がもたらした三つの意義(まとめ)
| 観点 | 内容 |
|---|---|
| 政治的意義 | 王政廃止と共和政宣言を後押しし、革命の正当性を確立した。 |
| 社会的意義 | 身分や特権に基づかない「国民軍」の誕生により、国民意識の形成を促した。 |
| 思想的意義 | 「自由と祖国のために戦う」という理念が、ヨーロッパ全土に広まった。 |
5. 入試でも問われる「ヴァルミー=理念の勝利」
大学入試では、「ヴァルミーの戦いの意義を説明せよ」という問題が頻出です。このとき注意すべきなのは、「軍事的勝利」ではなく「理念の勝利」として答えることです。
キーワード例:
- 国民軍の誕生
- 革命防衛戦争
- 祖国の危機宣言
- 王政廃止・共和政成立への契機
- 自由と祖国のための戦い
これらを結びつけて説明できれば、十分に高得点が狙えます。
【ヴァルミー勝利と共和政成立の関係チャート】
8月10日 チュイルリー宮襲撃 → 王政崩壊(実質的)
↓
9月20日 ヴァルミーの戦い(外敵を撃退)
↓
勝利による士気回復・革命の正当化
↓
9月21日 国民公会、王政廃止・共和政を宣言(第一共和政成立)
第3章:ヴァルミーの戦いの影響と歴史的意義の広がり
ヴァルミーの勝利は、フランス国内だけでなく、ヨーロッパ全体の政治構造と思想の流れを変える契機となりました。
この戦いによって革命は防衛段階を終え、「理念を輸出する時代」へと進みます。
ここでは、ヴァルミーの戦いがもたらした三つの歴史的影響――共和政の確立・ナショナリズムの形成・近代戦の幕開け――を軸に見ていきます。
1. 共和政の確立 ― 革命の制度化へ
ヴァルミーの勝利によって、国民公会は王政を廃止し、共和政を宣言しました(1792年9月21日)。
これは単なる政体の転換ではなく、革命の理念を国家の制度として定着させる第一歩となりました。
国民公会は「自由・平等・博愛」を国家理念とし、市民による政治=国民主権の実践を掲げます。
同時に、革命裁判所の設置や徴兵制の導入など、非常時体制が整えられ、これ以降のフランスは「革命を守るために闘う国家」へと変貌していきました。
つまり、ヴァルミーの勝利は共和政の誕生を可能にした軍事的保証であり、「革命が一時の激情ではなく、制度として定着する転換点」だったのです。
2. ナショナリズムの高揚 ― 「祖国のために戦う」という意識の拡大
ヴァルミーの戦いは、ナショナリズム(国民意識)を具体的に形にした初めての戦争でもありました。
「祖国の危機宣言」で呼びかけられた義勇兵たちは、封建的主従関係ではなく、“祖国を守る義務”と“自由を守る誇り”によって戦場に立ちました。
この「市民=兵士」という構図は、のちの総動員令(1793)につながり、「人民の軍隊(ラ・ナシオン・アン・アーム)」という発想をヨーロッパに広めます。
その精神は19世紀のナポレオン軍にも受け継がれ、さらにドイツ・イタリア・ポーランドなどの民族独立運動へと波及しました。
すなわちヴァルミーの勝利は、単にフランスを救っただけでなく、“国民が自らの国家を作る”という近代政治の原理を世界に広めた出発点だったのです。
3. 革命の国際化 ― 対仏同盟と「理念の戦争」の始まり
ヴァルミーの勝利により、フランス革命は守勢から攻勢へと転じました。
敗退したプロイセン軍は休戦に入り、フランスは逆にベルギー・オランダ方面へ侵攻を開始。
こうして、戦争の性格は「祖国防衛」から「革命の拡大」へと変わります。
これに危機感を覚えたヨーロッパ諸国は、1793年に第1回対仏同盟を結成。イギリス、オーストリア、プロイセン、スペインなどが共同でフランス革命政府と対峙します。
こうしてヴァルミー以降の戦争は、旧体制(君主制)vs 革命(共和制)という「理念の戦争」となり、19世紀ヨーロッパの政治地図を大きく塗り替えていくことになります。
4. 「近代戦」の幕開け ― 市民と国家が一体化する戦争
ヴァルミー以降のフランス軍は、徴兵制と士官登用の平等化によって、身分に関係なく能力で昇進できる軍隊へと変わりました。
これがのちのナポレオン軍の強さの源泉となります。
つまりヴァルミーの戦いは、軍事史的にも“近代戦の始まり”と評価されます。
戦争が「王の道具」から「国民の総力戦」へと変わり、政治・経済・教育までもが戦争に動員される社会構造の原型がここに生まれました。
5. ヨーロッパへの思想的波及 ― 「自由の理念」の拡散
ヴァルミーの勝利は、思想面でも深い影響を残しました。
それはヨーロッパの人々に、「王を倒し、自分たちの力で社会を変えられる」という確信を与えたからです。
各国の知識人はこの戦いを“人類の希望”と見なし、革命の理念――自由・平等・国民主権――を自国の文脈に取り入れ始めます。
一方で、保守的な君主たちはこの流れを危険視し、19世紀前半のウィーン体制による反動・弾圧政策(メッテルニヒ体制)へと向かいました。
つまりヴァルミーは、「革命の時代」と「反動の時代」の分水嶺でもあったのです。
【ヴァルミーの戦いがもたらした波及効果チャート】
1792年 ヴァルミーの勝利
↓
共和政成立(国内)
↓
祖国防衛 → 革命輸出へ(戦争の性格変化)
↓
ナショナリズムの形成・徴兵制の普及
↓
第1回対仏同盟成立 → ナポレオン戦争へ
↓
ヨーロッパに自由・平等・国民主権の理念が拡散
6. 歴史的評価 ― 「革命の理念を現実に変えた戦い」
総じて、ヴァルミーの戦いは「小規模な戦闘で世界史を変えた戦い」と評されます。
そこには、兵力や武器の差ではなく、“理念の力”が現実の歴史を動かす瞬間がありました。
この勝利によって、
- 「自由と祖国を守る市民軍」
- 「国民主権を掲げる共和国」
- 「理念を世界へ伝播させる革命」
が一つに結びつき、19世紀ヨーロッパの原動力となっていったのです。
入試で狙われるポイント
この章では、これまでの内容を整理しながら、入試で問われやすい視点を確認していきます。
世界史の論述・正誤問題では、事実の暗記だけでなく、「なぜそうなったのか」「何を意味するのか」を説明できる力が求められます。
以下の演習を通して、重要な流れや意義を自分の言葉で説明できるようにしましょう。
- ヴァルミーの戦いがフランス革命の転換点とされるのはなぜか。100字程度で説明せよ。
-
ヴァルミーの戦いでフランス軍は外敵プロイセン軍を撃退し、革命の存続を確保した。市民が祖国防衛の理念のもとに結束し、王政廃止と共和政成立を後押ししたことから、革命の防衛が理念の勝利に転じた転換点とされた。
- ヴァルミーの戦いにおいて「国民軍」の誕生がもつ歴史的意義を説明せよ。120字程度で述べよ。
-
ヴァルミーでは、身分にとらわれず義勇兵として参加した市民が「祖国のため」に戦い、旧体制的な常備軍とは異なる国民軍が誕生した。この理念は徴兵制の導入へ発展し、以後のフランス軍を「国民国家の軍隊」へと変化させ、ナショナリズムの形成を促す契機となった。
- ヴァルミーの戦いがヨーロッパに与えた政治的・思想的影響について、150字程度で説明せよ。
-
ヴァルミーの勝利は、王政打倒後の共和政を正当化し、革命の理念が現実の力となることを示した。この勝利はヨーロッパ諸国に衝撃を与え、自由・平等・国民主権の理念を拡散させた。一方で、旧体制諸国は危機感を強め、第1回対仏同盟を結成して反革命戦争を開始するなど、革命と反動の時代を招いた。
補足:論述で狙われる3つの観点(整理表)
| 観点 | キーワード | 説明のポイント |
|---|---|---|
| 思想的側面 | 理念の勝利・自由・平等・国民主権 | 革命の理念が軍事的に実証された |
| 政治的側面 | 王政廃止・共和政成立 | 勝利が共和制確立の心理的後押しに |
| 社会的・軍事的側面 | 国民軍・徴兵制・ナショナリズム | 市民が国家を支える仕組みの原型 |
問1
ヴァルミーの戦いは、1792年にフランス軍がオーストリア軍を撃退した戦いである。
解答:✕ 誤り
🟦【解説】
ヴァルミーの戦いでフランス軍が撃退したのはプロイセン軍である。
オーストリアとの戦闘は同時期に展開されていたが、ヴァルミーの直接の敵ではない。
問2
ヴァルミーの戦いは、フランス革命の理念を守った国民軍の初勝利である。
解答:〇 正しい
🟦【解説】
祖国防衛を掲げた義勇兵と正規軍が協力して戦い、「市民が祖国を守る」という革命理念を体現した戦いだった。
問3
ヴァルミーの戦いの翌日、国民公会が王政廃止を宣言した。
解答:〇 正しい
🟦【解説】
1792年9月20日に戦闘が行われ、翌21日に国民公会が共和政の成立を宣言した。
直接の因果ではないが、勝利が政治的決断を後押しした。
問4
ヴァルミーの戦いの勝利によって、立憲王政が成立した。
解答:✕ 誤り
🟦【解説】
立憲王政はすでに1791年憲法で成立していたが、1792年8月10日の蜂起で崩壊しており、ヴァルミーの勝利後は共和政へ移行した。
問5
ヴァルミーの戦いは、ドゥムーリエ将軍とケルマン将軍の指揮下で行われた。
解答:〇 正しい
🟦【解説】
両将軍の協力により、連合軍を砲撃で撃退した。
特にケルマンは士気維持に努め、指揮の安定が勝利の要因となった。
問6
ヴァルミーの戦いは、フランス軍がプロイセン軍に大勝し、壊滅させた戦いである。
解答:✕ 誤り
🟦【解説】
実際の戦闘は小規模で、プロイセン軍が戦意を失い撤退した。
戦術的勝利ではなく、士気・理念面での勝利だった。
問7
ヴァルミーの戦いで活躍したフランス軍は、すべて職業軍人で構成されていた。
解答:✕ 誤り
🟦【解説】
旧軍の残存兵と市民義勇兵が混在した「国民軍」だった。
市民が祖国を守るという意識が士気を高めた。
問8
ヴァルミーの戦いは、詩人ゲーテが「この日から新しい時代が始まる」と評した戦いである。
解答:〇 正しい
🟦【解説】
ゲーテはプロイセン軍に随行しており、戦場で革命の力を実感してこの言葉を残した。
問9
ヴァルミーの戦いの背景には、ピルニッツ宣言とオーストリアへの宣戦布告がある。
解答:〇 正しい
🟦【解説】
1791年のピルニッツ宣言で革命干渉が示唆され、翌1792年、立法議会がオーストリアに宣戦布告した流れが発端となった。
問10
ヴァルミーの戦いの勝利後、フランスは祖国防衛のために戦争を終結させた。
解答:✕ 誤り
🟦【解説】
ヴァルミー以降、フランスは逆に戦争を拡大し、ベルギーやオランダ方面への進軍を開始した。
問11
ヴァルミーの戦いは、革命戦争(対仏第一次同盟戦争)の一部である。
解答:〇 正しい
🟦【解説】
1792年に始まった第一次対仏同盟戦争(革命戦争)の初期に行われた戦闘で、フランス革命政府が外敵に初勝利を収めた。
問12
ヴァルミーの戦いによって、ナポレオンが初めて頭角を現した。
解答:✕ 誤り
🟦【解説】
ナポレオンが活躍するのは1796年以降のイタリア遠征であり、ヴァルミー当時はまだ無名の下級士官だった。
問13
ヴァルミーの戦いは、戦死者が非常に多く、ヨーロッパ最大級の激戦となった。
解答:✕ 誤り
🟦【解説】
戦死者は数百人程度で、激戦ではなかった。
勝利の意義は戦果ではなく象徴性にあった。
問14
ヴァルミーの勝利は、「祖国の危機宣言」に呼応した市民の蜂起によって支えられた。
解答:〇 正しい
🟦【解説】
1792年7月の祖国の危機宣言によって義勇兵が集まり、その士気がヴァルミーの勝利を支えた。
問15
ヴァルミーの勝利後、フランスは対外戦争から撤退し、国内統治に専念した。
解答:✕ 誤り
🟦【解説】
むしろ勝利によって勢いづき、革命を輸出する形で周辺国への進攻を強めた。
問16
ヴァルミーの勝利は、近代的な「国民戦争」の始まりを象徴している。
解答:〇 正しい
🟦【解説】
身分を問わず市民が祖国のために戦うという構図は、後の徴兵制・総力戦の原型となった。
問17
ヴァルミーの勝利は、ヨーロッパの自由主義・民族運動の先駆けとなった。
解答:〇 正しい
🟦【解説】
フランス革命の理念が他国に伝わり、19世紀の民族独立運動の思想的源流となった。
問18
ヴァルミーの戦いの勝利によって、第1回対仏同盟が結成された。
解答:✕ 誤り
🟦【解説】
同盟結成は翌1793年のことで、ヴァルミー後にフランスが戦争を拡大した結果、各国が連携して結成した。
問19
ヴァルミーの勝利は、王政廃止と共和政成立を正当化する象徴となった。
解答:〇 正しい
🟦【解説】
外敵を退けたことで、革命政府は国民の支持を得て、「王なき国家」の正統性を確立できた。
問20
ヴァルミーの戦いでの勝利は、理念ではなく偶然の天候や地形に左右された。
解答:✕ 誤り
🟦【解説】
確かに地形や天候も影響したが、核心は「理念の力による士気の高さ」にあり、思想的勝利として歴史に残った。
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