8月10日事件とは? ― チュイルリー宮殿襲撃とフランス王政崩壊の決定的瞬間

当サイト「もう一度、学ぶ」は、Amazonのアソシエイトとして、適格販売により収入を得ています。また、A8.netなど他のアフィリエイトプログラムを利用しており、当サイト内のリンクを通じて商品を購入した場合、報酬を得ることがあります。

8月10日事件(1792年)とは、フランス革命中にパリ民衆と義勇兵が国王ルイ16世の居住地であったチュイルリー宮殿を襲撃し、王政を事実上崩壊させた出来事です。

この事件によって、立憲王政は完全に終焉し、共和政への道が開かれました。

この事件の意義は、革命の主導権がブルジョワジーから民衆(サン=キュロット)と急進派(ジャコバン派)へと移った点にあります。

それまで国王と議会の共存を目指した「穏健な革命」は、ここで終わりを告げ、「王なしの国家」という新たな政治秩序が現実化しました。

一方、その背景には、1791年のヴァレンヌ事件以降、ルイ16世への信頼が完全に失われたことがありました。

さらに、1792年春のオーストリア・プロイセンとの戦争(対仏干渉戦争)が勃発し、敗戦の危機が迫る中
で、国民の間に「王が敵と通じているのではないか」という不信と怒りが広がっていったのです。

事件の影響としては、立法議会が国王を停止し、新たに国民公会の召集を決定したことが挙げられます。

この決定が、後の王政廃止(1792年9月)第一共和政の成立へと直結しました。

本記事では、8月10日事件がどのような経緯で起こり、なぜフランス王政が崩壊に至ったのかを、当時の政治・社会状況とともに解説します。

目次

第1章:8月10日事件の勃発 ― チュイルリー宮殿襲撃の瞬間

1792年8月10日、パリは夜明け前から異様な熱気に包まれていました。

連日の敗戦と経済不安、そして国王の裏切り疑惑が民衆の怒りを爆発させ、パリ市民や義勇兵が武装して宮殿に向かいます。

それは、もはや単なる抗議ではなく、「王権そのものを打倒する」行動へと変わっていきました。

1. 蜂起の始まり ― サン=キュロットと義勇兵の行進

午前5時、サン=キュロット(労働者・職人層)や各地から集まった義勇兵がパリ市庁舎前に結集し、革命の象徴である三色旗を掲げてチュイルリー宮殿へ行進を開始しました。

彼らのスローガンはただ一つ――「王を倒せ!」

2. チュイルリー宮殿の戦闘 ― 王の守護者スイス傭兵の壊滅

宮殿には、国王を守るために約900名のスイス傭兵が配置されていましたが、民衆の数は数万に及び、勢いを止めることはできませんでした。

午前10時頃、宮殿前で銃撃戦が発生し、凄惨な市街戦が始まります。

最終的にスイス傭兵隊は壊滅し、チュイルリー宮殿は完全に占拠されました。

3. 王の避難と王権停止 ― 王政崩壊の瞬間

ルイ16世一家は、もはや安全を失い、国民議会(立法議会)の議場へ避難します。

しかし、もはや国王に味方する勢力はほとんどなく、議会は王の権限停止を決定しました。

これにより、フランスの立憲王政は名実ともに崩壊しました。

4. 民衆政権の誕生 ― 共和政への序章

この日以降、パリの実権は事実上、民衆とパリ・コミューン(市政委員会)が握ることになります。

議会の権威は後退し、街頭の力が政治を左右する時代が幕を開けました。

革命は新たな段階――共和政への突入前夜を迎えたのです。

第2章:事件の背景 ― 対外戦争と王政への不信

8月10日事件は、突発的な暴動ではありません。

その根底には、革命の理想と現実の乖離、戦争による危機、そして「国王への裏切りの疑念」が積み重なっていました。

この章では、国内外の政治情勢がどのように民衆蜂起を生み出したのかをたどります。

1. ヴァレンヌ事件で失われた王の信頼

1791年6月、ルイ16世一家はオーストリアへの逃亡を試み、ヴァレンヌ事件が発生します。

この出来事によって、「国王は革命を裏切った」という疑念が国民の間に広がりました。

民衆の信頼を回復するために制定された1791年憲法によって立憲王政が発足しましたが、その「共存体制」はもはや空洞化していたのです。

表面上は「国王は憲法を尊重する」としていましたが、裏では国外の王侯貴族と連絡を取り、亡命貴族を支援していたとされます。

この二重の態度が、「王はフランスの敵である」という世論を生み出しました。

2. 戦争の勃発と祖国の危機

1792年4月、フランスはオーストリアに宣戦布告し、対外戦争(第一次対仏同盟戦争)が始まりました。

開戦当初、戦況は圧倒的に不利で、フランス軍は連戦連敗。将軍の中には王党派も多く、敗北の原因を「軍内部に潜む裏切り」とする声が高まりました。

さらに、7月にはオーストリア・プロイセン連合軍が侵攻を開始し、ブランズウィック公の宣言(いわゆる「ブラウンシュヴァイク宣言」)がフランス国内に衝撃を与えます。

宣言では「国王一家に危害を加えれば、パリを焼き払う」と警告が出され、国民は激怒。

「王と敵国が手を結んだ」と確信したパリ市民は、もはや王政を容認できなくなりました。

このような危機的状況の中、立法議会は7月11日に祖国の危機宣言を発令。

全国から義勇兵がパリへ集まり、革命防衛のための「戦う民衆」が誕生します。

その中心にいたのが、後にジャコバン派を支えるサン=キュロット層でした。

3. パリ・コミューンの成立と急進派の台頭

戦争と経済不安が重なり、パンの値上がりや失業が広がる中、民衆の怒りは日に日に高まりました。

こうした状況の中で、パリ市民の代表機関としてパリ・コミューン(市政委員会)が結成されます。

コミューンは議会や国王をもはや信用せず、「革命の名において」自ら行動する道を選びます。

その政治的後ろ盾となったのが、ジャコバン派(急進共和主義者)でした。

ロベスピエールらは演説で民衆を鼓舞し、「国家の敵は王である」と訴え、蜂起の正当性を理論づけました。

このようにして、民衆の怒りと政治的思想が結びつき、8月10日の蜂起へと突き進んでいったのです。

まとめ:革命の第二幕へ

1792年夏、フランスは内外の危機に包まれ、もはや王政の維持は不可能な状態にありました。

ヴァレンヌ事件による不信、戦争による動揺、コミューンの台頭という三重の要因が重なり、革命は「国王を倒す革命」へと転じます。

8月10日事件は、この流れの必然的な帰結であり、同時に革命の質的転換点でもありました。

第3章:事件の意義と影響 ― 王政廃止と共和政への道

8月10日事件は、単なる民衆暴動ではなく、フランス革命の構造そのものを変えた転換点でした。

それまで「国王のもとでの改革」を目指していた革命が、ここから「国王なき国家=共和国」へと明確に舵を切るのです。

この章では、事件がどのように新しい政治体制を生み出し、思想的にも国民主権を具体化させたのかを解説します。

1. 王権停止と立憲王政の終焉

チュイルリー宮殿襲撃の直後、立法議会は国王ルイ16世の職務停止を決定しました。

これは、もはや国王がフランス国家の象徴であることを否定した瞬間でした。

同時に、議会は王家をタンプル塔に幽閉し、王権の一時停止を宣言。

これにより、1791年憲法に基づく「立憲王政」はわずか1年で崩壊しました。

この決定は、「憲法に忠実な王政」という近代国家の実験が失敗に終わったことを意味します。

フランスはここで、王の存在そのものを再検討する段階に入りました。

2. 国民公会の召集と共和政の胎動

立法議会は、暫定的な政府を設けるとともに、新たな憲法制定議会=国民公会の選挙を決定しました。

選挙権は拡大され、財産制限を撤廃した男子普通選挙が初めて導入されます。

これにより、政治の主導権がブルジョワ層から民衆へと移行する契機となりました。

国民公会は1792年9月に開会し、王政の廃止と共和政の樹立を宣言します。

この流れは、まさに8月10日事件によって切り開かれた政治的帰結でした。

事件がなければ、国民公会も、第一共和政も存在しなかったのです。

3. 主権の所在の転換 ― 「国王」から「国民」へ

8月10日事件の最も根本的な意義は、主権の所在が国王から国民へと完全に移行したことです。

テニスコートの誓いが「理念としての国民主権」を掲げたのに対し、8月10日事件はそれを現実の政治構造として実現しました。

つまり、この事件こそが「国民主権の制度化」への決定的な一歩だったのです。

以後、国家権力は「王の恩寵」ではなく、「人民の意志」に基づくものとされるようになります。

この思想的転換は、のちに人権宣言第3条に記された「すべての主権は本質的に国民に存する」という理念を実体化させました。

4. 過激化する革命 ― 九月虐殺への道

しかし、8月10日事件がもたらしたのは、希望だけではありませんでした。

王権崩壊後の政治的空白と戦争の危機が重なり、パリでは暴力が急速にエスカレートします。

「革命を守るためには敵を排除せねばならない」という心理が広まり、9月には王党派や聖職者に対する九月虐殺が発生しました。

つまり、8月10日事件は「民衆が権力を握る」ことを可能にした一方で、暴力と恐怖の政治への入口でもあったのです。

その延長線上に、ロベスピエールのジャコバン独裁恐怖政治が生まれていきます。

まとめ:革命の第二段階へ

8月10日事件は、フランス革命を「改革の段階」から「体制転換の段階」へと押し上げた出来事でした。

王を打倒し、国民が主権を握るという構造がここで初めて制度として現れます。

しかしその代償として、秩序と暴力の間の緊張が高まり、革命はより過激な局面へと突入していきました。

第4章:民衆と議会 ― パリ・コミューンとジャコバン派の台頭

8月10日事件の表舞台に立ったのは、軍でもなく議会でもなく、パリの民衆(サン=キュロット)でした。

彼らは飢えと戦争の中で、王政を倒す“革命の実行者”として歴史に登場します。

同時に、議会の中では急進派のジャコバン派が発言力を増し、穏健派(ジロンド派)との対立が深まっていきました。

この章では、事件後の権力構造の変化を追いながら、「民衆の力が政治を動かす」という革命の新しい段階を見ていきます。

1. パリ・コミューンの実権掌握

8月10日事件直後、パリの行政機構は大きく揺らぎました。

既存の市政委員会は解体され、民衆代表による新しい革命的パリ・コミューンが誕生します。

コミューンは議会や国王の命令を無視し、独自に逮捕・検閲・徴発を行うなど、実質的な地方政府=革命政府として行動しました。

特に注目すべきは、彼らが「民衆の正義」を名目に暴力を正当化したことです。

たとえば、宮殿襲撃後にスイス傭兵を虐殺した事件も、「人民の怒りの当然の報い」として称賛されました。

この“革命的正義”の感覚は、のちの恐怖政治の源流となっていきます。

2. ジャコバン派の思想的指導

民衆蜂起を理論的に支えたのが、ジャコバン派(山岳派)でした。

彼らは新聞や演説を通じて、「王政は自由の敵」「主権は国民にあり、国民の意志は絶対である」と訴えます。

ロベスピエールは特にこの時期、「人民主権」の理念を鮮明に打ち出し、王政廃止の理論的根拠を提供しました。

一方、同じ革命派でも穏健なジロンド派は、民衆の暴力に警戒心を抱いていました。

彼らは議会主導の秩序を重視し、「暴力による革命の拡大は国家の破滅を招く」と主張。

こうして、民衆と急進派ジャコバン対、穏健派ジロンドという対立構図が明確化していきます。

3. 立法議会の動揺と妥協

議会内部では、8月10日事件後に急進派が優勢となる一方で、混乱を収拾する能力は限られていました。

議員の多くは、国王の廃位に賛成しながらも、暴力を伴う民衆運動には不安を抱えていました。

そのため、議会は民衆の要求を一部受け入れながら、表向きは法的手続きを守るという微妙な妥協を続けます。

8月11日には、「王権停止」「国民公会選挙の実施」「普通選挙の導入」が決定されました。

これは一見すると民主的改革の進展ですが、実際には議会が民衆の圧力に屈した結果でもありました。

こうしてフランス政治は、法と暴力、議会と街頭、秩序と革命という二重構造のもとに動き出します。

4. 民衆運動の拡大と地方への波及

8月10日の勝利は、パリにとどまらず地方にも広がりました。

各地で「地方コミューン」が誕生し、地方自治体が王党派を追放したり、教会財産を押収したりといった行動が相次ぎます。

こうした“地方の革命”は、中央の立法議会の権威をさらに弱めました。

フランス全土が、いわば「民衆の自治」と「国家の統一」の間で引き裂かれていったのです。

一方、義勇兵の中には熱烈な革命家が多く、彼らの中から「革命軍」と呼ばれる組織が生まれ、やがて国民公会でも大きな役割を果たすようになります。

革命のエネルギーは、すでに制御不能なほどに拡大していたのです。

まとめ:民衆の力が国家を動かす

8月10日事件を経て、政治の中心は議会から街頭へと移りました。
革命の正統性を主張するのは、もはや選挙で選ばれた議員ではなく、武装した民衆と彼らを理論的に導く急進派でした。
この「人民の力による政治」は、フランス革命の新しい形――すなわちジャコバン主導の共和政へと直結します。

しかし同時に、それは暴力の連鎖を制度化する危険な道でもありました。

この民衆の力が、のちの恐怖政治へと転化していく過程を理解するには、まさにこの8月10日事件後の政治構造を押さえることが不可欠です。

第5章:国民公会と王政廃止 ― 共和政の幕開け

8月10日事件によって、フランスの立憲王政は名実ともに崩壊しました。

だが、それは同時に「王を失った国家」が新しい統治の形を模索し始めた瞬間でもありました。

ここから生まれた国民公会は、国王を廃止し、世界史上初の近代的共和制を打ち立てます。

本章では、事件後の政治過程をたどりながら、王政廃止の決断とその思想的意味を解説します。

1. 国民公会の成立と男子普通選挙の実現

8月10日事件の翌月、立法議会は国民公会選挙の実施を決定しました。

この選挙では、財産制限を撤廃した男子普通選挙が初めて採用されます。

革命当初の「限られた市民の政治参加」から、「すべての男性市民が主権者である」という思想が制度として実現したのです。

これは、国民主権の原則が法的に形を持った初めての瞬間でした。

国民公会は1792年9月21日に開会し、その翌日、全会一致で王政廃止を宣言。

ここに、フランス第一共和政が正式に成立します。

これは単なる政体変更ではなく、「王のいない政治共同体=主権の担い手が国民そのものである社会」への移行を意味していました。

2. 王政廃止と“国民”の誕生

王政の廃止は、同時に「国民」という政治主体の誕生を意味しました。

革命以前のフランスでは、人々は「国王の臣民(subjects)」であり、政治に参加する権利を持ちませんでした。

しかし、8月10日事件を経て国王が排除されると、政治的正統性は「血統」から「人民の意志」へと移行します。

つまり、ここで初めて「フランス国民」という概念が現実の政治的存在となったのです。

国民公会の冒頭で採択された宣言文には、「主権はもはや王にではなく、国民全体に属する」と記されました。

この思想は、ルソーの社会契約論で示された「人民主権」の具現化であり、以後の近代民主主義の基礎となります。

3. ルイ16世の裁判と処刑 ― 主権の所在を問う裁き

王政廃止の次に直面したのは、ルイ16世をどう扱うかという問題でした。

「処刑すべきか否か」をめぐって、国民公会は激しく対立します。

ジロンド派は処刑に慎重で、「国民の寛容」を訴えたのに対し、ジャコバン派は「国王は祖国への裏切り者」として死刑を主張しました。

最終的に、わずか一票差で死刑が可決

1793年1月21日、ルイ16世は断頭台に送られます。

この瞬間、フランスは神聖な王権を法の名のもとに処刑する国家となりました。

それはまさに、「主権が国民にある」ことを世界に示す歴史的な宣言でもありました。

4. 共和政の理想と現実 ― 統一と分裂のはざまで

王を失ったフランスは、名実ともに「共和国」となりました。

しかし同時に、国家の統一を支えてきた象徴を失い、政治の軸を見失います。

ジロンド派とジャコバン派の対立は激化し、内戦と反乱が各地で勃発。

対外的には列強が連合してフランスに侵攻し、第一共和政は誕生直後から危機に直面します。

この不安定な状況の中で、「革命を守るためには自由を一時的に制限せねばならない」という発想が生まれ、それがやがて公安委員会とロベスピエールによる恐怖政治へと発展していきます。

つまり、8月10日事件によって誕生した共和政は、同時にその限界と矛盾をも内包していたのです。

まとめ:8月10日事件の歴史的意義

8月10日事件から王政廃止、第一共和政の成立に至る一連の流れは、「国民主権の理念を制度として実現した過程」でした。

テニスコートの誓いが理念的な出発点であったのに対し、8月10日事件はそれを現実に変えた政治的決定点だったのです。

そして、ルイ16世の処刑によって、フランス革命は「人民が国家を構成し、法をつくり、秩序を決める」時代へと突入しました。

この一連の出来事は、単にフランス国内の政変にとどまらず、近代民主主義の誕生を告げる世界史的事件として記憶されています。

入試で狙われるポイント

重要論述問題にチャレンジ

8月10日事件の背景を100字程度で説明しなさい。

1791年のヴァレンヌ事件以降、国王への不信が高まる中、対外戦争の敗北やブラウンシュヴァイク宣言によって「王が敵と通じている」との疑念が広がった。この危機感から、パリ民衆と義勇兵が蜂起し、チュイルリー宮殿を襲撃した。

8月10日事件がフランス革命においてどのような転換点となったのかを述べなさい。

8月10日事件により立憲王政が崩壊し、国王ルイ16世は職務を停止された。これにより「王の下の革命」から「王なき革命」への転換が起こり、主権が国王から国民へと移行した。さらに、国民公会の召集と共和政樹立の道が開かれ、革命の性格が一変した。

8月10日事件が国民主権や人民主権の発展に果たした役割を150字程度で説明しなさい。

8月10日事件は、国王を打倒して政治的主権を国民が握った出来事であり、理念としての国民主権を現実の制度に転換した。国民公会の男子普通選挙導入によって、人民が国家の意思を直接表明する政治体制が実現し、人民主権の具体化が進んだ。その後の共和政体制は、この事件の延長線上に成立した。

8月10日事件後にパリ・コミューンやジャコバン派が果たした役割を150字程度で述べなさい。

事件後、パリ・コミューンは民衆を代表して議会を圧迫し、事実上の革命政府となった。ジャコバン派はこの民衆運動を思想的に指導し、「人民の名による政治」の正当性を訴えた。これにより、政治の主導権がブルジョワ議会から民衆へと移行し、革命は急進化した。

8月10日事件以後の政治的展開を、国民公会の成立からルイ16世処刑に至る過程と関連づけて200字程度で説明しなさい。

8月10日事件により王権が停止され、立法議会は男子普通選挙による国民公会の召集を決定した。1792年9月の国民公会は王政廃止と共和政樹立を宣言し、国王の存在を否定した。その後、ルイ16世は「祖国への裏切り」の罪で裁判にかけられ、1793年に処刑された。この一連の過程は、主権が国王から国民へと完全に移行したことを示す画期的な出来事であった。

テニスコートの誓いと8月10日事件を比較し、それぞれの歴史的意義を120字程度で述べなさい。

テニスコートの誓いは、「国民が主権を持つ」という理念を宣言した象徴的な出発点であった。これに対し8月10日事件は、その理念を現実の政治体制に転換した実践的な転換点である。前者が理論上の国民主権の主張であったのに対し、後者は王権を実際に倒すことで国民主権を制度として実現し、共和政樹立への道を切り開いた。

ルソーの「人民主権」と8月10日事件との関係を説明しなさい。

ルソーの人民主権論は、政治の正統性を人民の一般意志に置く思想であり、王権を否定する理論的根拠を与えた。8月10日事件は、この思想を現実の政治行動として具現化し、国民が自らの手で主権を行使して国家を再構築した事例であった。

8月10日事件を「革命の大衆化」という観点から120字程度で説明しなさい。

8月10日事件では、労働者や職人などのサン=キュロットが革命の主役として登場した。それまで議会主導であった革命が、初めて民衆の直接行動によって政治を変える段階に入った点で、革命の大衆化を象徴する。この流れは、のちのジャコバン独裁にもつながっていく。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次