イギリスの封建社会とは、王が全国の土地と封臣を直接支配した、中央集権的な封建制度を指します。
同じヨーロッパの封建制でも、フランスが地方から自然発生的に形成された“王権の弱い封建制”だったのに対し、イギリスでは、1066年のノルマン征服を契機に、王が自ら制度を上から整備した“王権の強い封建制”が成立しました。
イギリス封建制の最大の特徴は、「全封臣が王に直接忠誠を誓う」点にあります。
これは土地と忠誠の関係を王のもとに一元化する仕組みであり、地方分権的だった大陸型封建制と比べて、はるかに統制の取れた体制でした。
しかし、皮肉なことに、王の権力が強すぎたことが後に貴族や都市の反発を呼び、マグナ=カルタや議会制度など、王権を制限する制度が生まれることになります。
つまりイギリスの歴史は、「強い王が制限されていく過程」の物語でもあったのです。
本記事では、ノルマン征服から議会制度の誕生まで、イギリス封建社会の仕組みと変化をたどりながら、「王の強さがなぜ立憲政治を生んだのか」を明らかにします。
第0章:封建制とは何か ― ヨーロッパ中世の秩序の仕組み
中世ヨーロッパを理解するうえで欠かせないのが、「封建制(feudalism)」という社会の仕組みです。
それは、王・貴族・農民・教会が土地を仲立ちに結びつく秩序であり、中央集権ではなく、分権的な安定によって維持された社会構造でした。
封建制は単に政治制度ではなく、土地(経済)・身分(社会)・信仰(宗教)という三要素が絡み合う包括的なシステムです。
国王は名目的存在にとどまり、地方領主が実質的な権力を持つ一方、教会がその秩序を「神の定め」として正当化しました。
この体制は9世紀のカロリング朝の分裂から始まり、12〜13世紀には十字軍とともに最盛期を迎えます。
しかし、13世紀後半以降、商業の発展や貨幣経済の浸透によってその基盤が揺らぎ、14〜15世紀の百年戦争を契機に、封建制は次第に中央集権国家へと変化していきました。
本章では、フランスを中心としたヨーロッパ封建社会の全体像を俯瞰し、「封建制がどのように成立し、どのように崩壊したのか」を政治・社会・宗教の三つの視点から整理します。
1. 封建制の構造 ― 社会・経済・宗教の三層からなる秩序
封建制は、主従関係(政治)・荘園制(経済)・教会権威(宗教)の三要素が組み合わさって成り立っていました。
- 主従関係(政治):
王・貴族・騎士が土地(封土)を媒介に忠誠と軍役を交換する契約関係。
王の権力は形式的で、地方領主が実際の支配権を持つ。 - 荘園制(経済):
領主が支配する土地(荘園)で農民が年貢と労役を提供し、生活を営む体制。
自給自足的な経済構造で、貨幣経済の影響は限定的。 - 教会権威(宗教):
すべての秩序を「神の意志」として正当化し、社会を精神的に統合。
教会の価値観が「忠誠」「服従」「救済」の意味づけを与えた。
この三層のバランスによって、中央権力が弱くても社会が安定する――これが封建社会の核心でした。
フランス封建制の成立から崩壊までの流れ(概略)
時期 | 世紀 | 段階 | 主な出来事・特徴 | 王朝 |
---|---|---|---|---|
成立期 | 9〜10世紀 | 中央権力の崩壊と封建関係の発生 | カロリング朝の分裂(ヴェルダン条約843年)→地方諸侯の自立化 | カロリング朝 |
確立期 | 10〜11世紀 | 地方諸侯による実質支配/王権の名目化 | 987年ユーグ=カペー即位(カペー朝の始まり)/王権はパリ周辺のみ | カペー朝初期 |
成熟期 | 12〜13世紀 | 領主制・荘園制の安定/教会権威の全盛 | フィリップ2世(オーギュスト)による王権回復の始まり/ルイ9世の聖王政治 | カペー朝中期 |
動揺期 | 11〜13世紀 | 十字軍遠征・貨幣経済の発展・都市成長 | 封建秩序が内側から変化/貴族の遠征・商業の台頭 | カペー朝中〜後期 |
衰退期 | 14〜15世紀 | 百年戦争による封建秩序の崩壊 | 領主制・農奴制の弱体化/貨幣経済と都市の発展 | ヴァロワ朝初期 |
崩壊・転換期 | 15〜16世紀 | 王権の再建→中央集権化の進行 | ルイ11世による貴族抑圧/常備軍・官僚制の整備 | ヴァロワ朝中期 |
完全な終焉 | 17世紀 | 封建制の制度的終焉/絶対王政の確立 | ルイ14世「朕は国家なり」/貴族の政治的権限消滅 | ブルボン朝 |
2. 十字軍と封建社会の変化 ― 「神の戦い」から商業革命へ
11〜13世紀の十字軍運動は、封建制の成熟と動揺が交錯した時代を象徴します。
諸侯や騎士が「神の戦い」に参加することで信仰と忠誠を実践し、封建的価値観は頂点に達しました。
しかし、遠征を通じて東方との交易が拡大し、貨幣経済や商業都市が成長すると、土地を基盤とする封建的社会は徐々に変質していきます。
信仰が社会を統一した時代は、同時に封建的秩序を内部から変え始めた時代でもありました。
3. 百年戦争と中央集権化 ― 封建制の崩壊と国家の誕生
14〜15世紀の百年戦争は、フランス封建制の転換点でした。
長期戦争によって貴族の力が衰え、王は常備軍・官僚制・課税制度を整備し、「国家」としてのフランスが生まれます。
王の力が「名目」から「現実」へと変わったことで、封建制の終焉とともに絶対王政の基盤が築かれました。
補足:もう一つの封建社会の軸 ― 教会権威の変遷
時期 | 教会の動き | 封建社会との関係 |
---|---|---|
9〜10世紀:形成期 | 修道院運動の拡大/教皇権は世俗権力に依存 | 封建諸侯の保護下にあり、精神的支柱としての基盤を形成 |
11世紀:叙任権闘争 | グレゴリウス7世改革/皇帝派との対立 | 教会が封建秩序の上位原理として自立、「神の秩序」理念を確立 |
12〜13世紀:極盛期 | インノケンティウス3世による普遍的教皇権の確立/十字軍主導 | 教会が封建社会の精神的統一者となる |
14世紀:衰退の兆し | アヴィニョン捕囚・教会大分裂/信仰の形骸化 | 百年戦争と同時期に権威が失墜、秩序維持力が低下 |
15〜16世紀:崩壊と再編 | ルネサンス・宗教改革へ | 教会は王権の支配下に入り、精神的統一の時代が終わる |
封建制は、王・貴族・教会・農民が互いに依存する中世ヨーロッパの秩序の骨格でした。
その安定は、「弱い王と強い教会」の共存によって維持されていましたが、十字軍と百年戦争を経て、経済・信仰・政治の均衡が崩れ、最終的には近代国家の誕生へとつながっていきます。
封建制の崩壊とは、単なる中世の終わりではなく、「王の名目」から「国家の現実」への転換だったのです。
第1章:ノルマン征服と封建制の確立 ― 王がすべての封臣の主君となる
イギリスの封建社会は、フランスのように自然発生的に広がったものではなく、征服によって“上から導入された封建制”として始まりました。
その出発点が、1066年のノルマン征服です。
ノルマンディー公ウィリアムがイングランドを征服すると、土地支配と忠誠関係を王の下で再構成し、全国の封臣が直接王に従うという異例の「中央集権的封建制」を確立しました。
この章では、ノルマン征服を起点に、ウィリアム1世が築いた新たな支配構造をたどり、イギリス封建制の制度的な強さと、その“相対的な王権の力”を明らかにします。
1. ノルマン征服(1066年) ― 上から導入された封建制度
1066年、ノルマンディー公ウィリアム(のちのウィリアム1世)は、ヘイスティングズの戦いでアングロ=サクソン王ハロルド2世を破り、イングランド王に即位した。
この“ノルマン征服”は、イギリスに上から与えられた封建制をもたらしました。
王は全国の土地を没収し、それらを封臣に再分配することで、全国の土地支配を王の掌中に収めたのです。
2. ドゥームズデイ=ブック ― 封建社会の“土地台帳”
ウィリアム1世は、全国の土地・人口・資産を詳細に調査し、1086年に『ドゥームズデイ=ブック』を編纂しました。
これは王が国家全体を把握し、徴税・軍役を中央で管理するための“土地台帳”でした。
この徹底的な調査により、王は封臣の土地・人数・収穫量まですべて掌握し、封建制のもとにありながら、実質的に国家的統治を実現しました。
つまり、イギリスの封建制は「中央集権的封建制」です。とはいえ、王権が絶対的だったわけではなく、あくまで“他の封建国家と比べれば異例に強かった”という段階です。
3. 「二重忠誠」を排した単層構造 ― 王への直接忠誠
フランスでは封臣が複数の主君に仕える「二重忠誠」が一般的で、命令系統が錯綜し、王の力が地方に及びませんでした。
イギリスではそれを排除し、すべての封臣が王に直接忠誠を誓うという単層的主従関係を築きました。
この制度により、封建制の中では異例の統一性と安定がもたらされたのです。
4. 中央集権的封建制の安定と限界
この体制のもとで、イギリスは中世ヨーロッパの中でも、例外的に行政・軍事・司法が中央で統制された国となりました。
王の命令が全国に届く――
それは「封建制の中での最も強い王権」でしたが、まだ“国家=王”という近代的段階には至っていません。
ジョン王の専制が批判されて1215年にマグナ=カルタが発布されると、この強い王権も法によって制限され始めます。
📘 まとめ
観点 | フランス | イギリス |
---|---|---|
封建制の形成 | 自然発生的(下から) | 制度的(上から) |
王権の性格 | 弱い(名目のみ) | 封建制の中では強い(制度的統制) |
主従関係 | 多層構造(分権的) | 単層構造(中央集権的) |
結果 | 王の再統合→絶対王政 | 王の制限→議会政治 |
第2章:マグナ=カルタと議会政治の誕生 ― 強い王が制限される時代
封建制の枠の中で最も強い王権を誇ったイギリスですが、その“強さ”はやがて社会の均衡を崩す要因となりました。
王の専制に対する貴族の反発から、「法による王権の制限」という新しい原理が生まれます。
この時代、ジョン王の重税政策と教皇との対立をきっかけに、1215年、貴族たちは「マグナ=カルタ(大憲章)」を国王に認めさせました。
それは、「王も法に従う」という中世ヨーロッパでは革新的な理念でした。
この章では、強い王権が制限されていく過程を通して、イギリスにおける法と議会の原型がどのように誕生したのかを見ていきます。
1. ジョン王の専制と貴族の反発 ― 強い王の危うさ
ウィリアム1世以来、イギリス王は封建制の枠内で強い支配権を保っていました。
しかし、封建制の“相対的強さ”が限界を超えると、その力は貴族の抵抗を呼び起こす要因となります。
ジョン王(在位1199〜1216)は、重税と軍役の強制を通じて国家運営を行い、諸侯や都市に大きな不満を生じさせました。
さらに教皇との対立(カンタベリ大司教任命問題)に敗れ、イングランドが一時ローマ教皇庁の支配下に置かれる屈辱を経験します。
王の威信は地に落ち、貴族たちは団結して国王に抵抗。
1215年、ついにロンドン近郊のランニミードで王に対して文書を提出します。
それが、歴史に名高いマグナ=カルタ(大憲章)です。
2. マグナ=カルタの意義 ― 「法の下の王」の誕生
マグナ=カルタの中核となる思想は、「王も法に従う」という原則でした。
封建社会において、王は本来“法の制定者”と見なされていました。
しかしこの憲章によって、王の権力が初めて法によって制限され、諸侯・聖職者・都市の権利が保障されるようになります。
3. 「同意なき課税なし」 ― 議会政治の原点
マグナ=カルタの中で、特に後世に影響を与えた条項が次の一文です。
「国王は、貴族・聖職者の同意なしに課税してはならない。」
この原則は、「同意なき課税なし」として、のちのイギリス議会政治の根幹をなす思想となります。
この時点では、貴族や聖職者の合意を得る「会議」が開かれる程度でしたが、13世紀になるとエドワード1世の時代に模範議会(1295)が召集され、貴族・聖職者・都市代表がそろう形で議会制度が確立しました。
4. 議会の発展 ― 王と社会の「合意の政治」
こうして誕生したイギリスの議会は、王と社会の間に「協議」という新たな秩序を生み出しました。
この「話し合いによる支配」は、中世ヨーロッパの中でも極めて先進的な政治文化です。
5. 「強い王が制限される」構造の意義
イギリスにおける封建制の発展は、一見すると王権の強化の物語のように見えます。
しかしその本質は、強い王が制限されることで秩序が保たれる構造にあります。
封建制というのは、主と従の契約に基づく社会です。その契約の精神が、イギリスでは「王と臣民の契約」へと拡張され、やがて法と議会による政治へ発展していきました。
📘 まとめ
観点 | 内容 |
---|---|
王権の強さ | 封建制の中では最も強いが、絶対的ではない |
マグナ=カルタの意義 | 王権が法に制限される原則の確立 |
議会の成立 | 「同意なき課税なし」に基づく協議制度 |
発展方向 | 王と社会の合意による政治(議会制) |
フランスとの違い | 弱い王が再統合する国 vs 強い王が制限される国 |
イギリスの封建社会は、王が封建制の中で最も強い存在として始まり、その強さが社会の制限を呼び、
ついには「法と合意の政治」を生み出した。
封建制の枠内における“相対的な強さ”が、近代的な自由を生む最初のきっかけとなったのである。
第3章:封建制から立憲政治へ ― 王権と自由のせめぎあい
封建社会から立憲政治への転換は、イギリス史の核心をなすテーマです。
ここでは、封建制が単に崩壊したのではなく、「契約と合意の精神」を受け継ぎながら国家制度へと発展していった点に注目します。
百年戦争での国民統合、チューダー朝による宗教改革、そして清教徒革命と名誉革命――
これらの一連の出来事は、すべて「強い王」と「法の支配」のせめぎあいの中で進みました。
この章では、封建制の延長としての王権強化から、議会主権・法の支配・立憲政治の成立へと至る道筋をたどります。
1. 封建制の延長としての王権強化 ― 百年戦争と国民統合
13〜15世紀にかけて、イギリスはフランスとの百年戦争(1339〜1453)を通じて、国家意識を徐々に育てていきました。
戦争はフランス領内での領土紛争として始まりましたが、やがて「イングランド人」と「フランス人」という民族意識を形成する契機となりました。
この過程で、王は戦時徴税のために議会を召集するようになります。
つまり、「課税には同意が必要」という封建制の原則が、戦争によって制度的に定着していったのです。
ここで重要なのは、封建制が“消滅”したのではなく、“国家的制度”に組み込まれていった点です。
王権の強化と議会の発展が並行して進む――
それがイギリス封建社会の進化の特徴でした。
2. チューダー朝の中央集権 ― 強い王が再び登場する
16世紀、チューダー朝(1485〜1603)が成立すると、イギリスは再び王権が強まる時代を迎えます。
ヘンリ8世は宗教改革を断行し、ローマ教皇からの離脱によって国王至上法(1534)を制定。これにより「王=国家の首長」という近代的統治の原型が確立されました。
エリザベス1世の時代には、議会と王権のバランスの上で安定した統治が実現し、国民統合が進みました。
しかし、王権が強まるほど、再び「自由と法の原理」との緊張関係が生まれていきます。
この構図はフランス絶対王政と似ていますが、イギリスでは封建制以来の「法の支配」「議会同意」という枠組みが生きており、王の権力は常に“合意の限界”で制御されていました。
3. 清教徒革命 ― 封建制の契約精神が生んだ革命
17世紀、スチュアート朝のもとで王権は再び強化され、ジェームズ1世やチャールズ1世が「王権神授説」を唱えました。
しかし、議会はこれに対抗して課税権の独立を主張。
1642年、ついに清教徒革命(ピューリタン革命)が勃発します。
この革命は、単なる権力闘争ではなく、封建制以来の「契約の原理」をめぐる戦いでした。
議会側は、王も神ではなく法と契約に従う存在であると主張。
その結果、チャールズ1世は1649年に処刑され、世界で初めて国王が「法」によって裁かれました。
4. 名誉革命と立憲政治の確立 ― 封建制の最終形
1688年、議会がウィリアム3世とメアリ2世を迎えて名誉革命が成立します。
翌年の「権利の宣言(Bill of Rights, 1689)」によって、議会主権・法の支配・国王の責任が制度として明文化されました。
このとき、イギリス社会の土台にはすでに封建制の「契約」「合意」「法の原理」が存在していました。
つまり、立憲政治とはまったく新しい制度ではなく、封建制の契約精神が成熟した最終形だったのです。
このように見れば、イギリスの近代化は“断絶”ではなく“連続”の上に成り立っている。
封建制がもたらした「合意の政治」が、やがて自由と立憲主義の社会を生み出した――
まさにヨーロッパ史の中でも異例の発展でした。
5. フランスとの対照 ― 同じ封建制、逆の近代
観点 | フランス | イギリス |
---|---|---|
王権の出発点 | 弱い(地方諸侯が強い) | 強い(王が全国を支配) |
封建制の発展 | 王の再統合 → 絶対王政 | 王の制限 → 立憲政治 |
権力と法の関係 | 王が法を作る | 王も法に従う |
結果 | 国家主権(王=国家) | 議会主権(法=国家) |
同じ封建制でも、フランスは「弱さの克服」から国家を作り、イギリスは「強さの抑制」から自由を作った。
封建制の二つの矛盾が、二つの近代国家を生んだのです。
イギリスの封建社会は、王が強く制度を整えた社会として始まり、その強さが制限を呼び、やがて法と議会による政治へと進化した。
封建制とは、単なる中世の遺物ではなく、「法と契約に基づく統治」の出発点だったのである。
フランスが絶対王政を生んだのに対し、イギリスは封建制の内部から立憲政治を育てた――
それがイギリス史最大の逆説であり、近代世界の原点でもあった。
第4章:封建制が生んだ二つの近代 ― 絶対王政と立憲政治
同じ封建制を母胎としながら、フランスとイギリスはまったく逆の近代国家を生み出しました。
フランスでは、地方分権の克服から王権の集中へと進み、絶対王政が成立。
イギリスでは、王権の制限から立憲政治が確立しました。
この最終章では、両国の封建制を比較し、それぞれの社会がどのように「国家の統合」と「自由の制度化」という異なる近代を実現したのかを整理します。
封建制を「終わった制度」ではなく、ヨーロッパ近代を準備した土台としてとらえ直します。
1. 同じ出発点、正反対の結末
中世ヨーロッパの政治体制は、どの国も封建制を基盤としていました。
しかし、フランスとイギリスはその同じ出発点から、まったく異なる歴史的帰結をたどります。
- フランス:弱い王権から出発 → 再統合によって絶対王政へ
- イギリス:強い王権から出発 → 制限によって立憲政治へ
封建制という制度が、同時に中央集権の芽と分権の原理を内包していたため、両国はそのどちらを強調するかによって、異なる近代を生み出したのです。
2. フランス ― 弱い王が国家を生んだ
フランスでは、王が弱く、地方諸侯が自立していたため、国家の統一は長らく進みませんでした。
しかし、フィリップ2世以降、王が戦争と婚姻政策で領土を拡大し、やがて封建制を再統合する形で国家を築き上げました。
百年戦争を経て「国民」と「国家」の観念が芽生え、ルイ14世の絶対王政によって「王=国家」という理念が完成します。
フランスでは、封建制の“分裂”があったからこそ、その克服としての“統一”が強烈な国家主義を生みました。
弱さを起点に、国家が形成されたのです。
3. イギリス ― 強い王が自由を生んだ
イギリスでは、封建制が王によって上から整備されたため、王権が封建社会の中で相対的に強く、統一的な支配が早く実現しました。
しかしその強さが、貴族・都市・議会による抵抗を呼び起こします。
マグナ=カルタ、清教徒革命、名誉革命を経て、「王も法に従う」という原則が確立され、やがて立憲政治が完成しました。
4. 二つの近代の対照
観点 | フランス | イギリス |
---|---|---|
封建制の出発点 | 王権が弱い | 王権が強い |
封建制の性格 | 地方分権的・自然発生的 | 中央集権的・制度的 |
変化の方向 | 分権の統合 → 絶対王政 | 強権の制限 → 立憲政治 |
権力の正統性 | 王の意思(国家主権) | 法と合意(議会主権) |
最終形態 | 絶対王政(ルイ14世) | 立憲政治(名誉革命) |
フランスでは「王のための秩序」が、イギリスでは「社会のための秩序」が形成された。
同じ封建制の矛盾が、二つの異なる秩序を生み出したのです。
5. 封建制の遺産 ― 近代を準備した中世
封建制はしばしば「中世的遺物」として語られますが、実際にはヨーロッパ近代を準備した土台そのものでした。
- フランスでは、主従関係の秩序化 → 国家権力の集中へ
- イギリスでは、契約関係の重視 → 法の支配・議会制度へ
どちらも、封建制に内在していた“契約の精神”を出発点として、異なる方向へ発展した結果にほかなりません。
第5章:入試で狙われるポイント
問1:イギリスの封建制の特徴を100字程度で説明せよ。
解答例:
イギリスの封建制は、1066年のノルマン征服により王が上から制度的に整えた中央集権的封建制である。
全封臣が国王に直接忠誠を誓う単層的主従関係をもち、封建制の中では例外的に王権が強かった。
問2:イギリスの王権が「相対的に強い」とされる理由を100字程度で説明せよ。
ウィリアム1世が全国の土地を没収・再分配して封臣を直接支配したため、王の命令が全国に及ぶ体制が成立した。
ただし、これは封建制の枠内での相対的な強さに過ぎず、貴族や教会の権力が依然として王権を制限していた。
問3:マグナ=カルタの意義を120字程度で述べよ。
1215年、ジョン王の専制に対して貴族が提出したマグナ=カルタは、「王も法に従う」という原則を初めて明文化した。この憲章により、課税には貴族や聖職者の同意が必要とされ、王権が法の支配のもとに置かれた。封建制の契約精神を政治制度として発展させた点で画期的である。
問4:イギリスの封建制が議会政治へ発展した過程を150字程度で説明せよ。
封建制の契約精神が「課税には同意が必要」という原則を生み、マグナ=カルタ以後、王は課税や戦争のたびに貴族・聖職者の合意を求めた。これがエドワード1世の模範議会(1295)につながり、貴族・聖職者・都市代表が参加する協議機関として議会が成立した。封建制の合意原理が制度化され、のちの立憲政治の土台となった。
問5:フランスとイギリスの封建制の違いを180字程度で説明せよ。
フランスでは封建制が地方から自然発生的に形成され、王権が弱く諸侯が自立する分権的体制となった。そのため、後に王が再統合して絶対王政が成立した。一方イギリスでは、ノルマン征服によって王が全国を制度的に支配し、封建制の中では相対的に強い王権が確立された。その強さが貴族の反発を招き、マグナ=カルタや議会の発展を通じて王権が制限され、立憲政治が生まれた。
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