百年戦争(1337〜1453年)は、フランスとイギリスの間で行われたおよそ116年にわたる長期戦争です。直接のきっかけはフランス王位継承問題でしたが、背後には領土問題や経済的利害、さらにはヨーロッパ全体の封建制度の変容といった大きな背景が存在しました。
世界史の学習では、百年戦争は単なる「英仏戦争」ではなく、「中世ヨーロッパの終焉と近代国家への萌芽」 を象徴する重要な出来事として位置づけられます。
高校世界史の流れの中では、十字軍(11〜13世紀)から百年戦争(14〜15世紀)へ、そしてルネサンスや宗教改革、大航海時代へと移っていく「橋渡し的な存在」として覚えておくと理解が深まります。
世界史は、頻出問題をたくさん解くことでメキメキ実力がつきます。この記事では、百年戦争に関する頻出問題も100題以上を用意していますので、知識をインプットしながら同時にアウトプットの練習ができます。
(※この学習法の考え方については、別記事「ときおぼえ世界史」でも詳しくまとめています。気になる方はあわせて読んでみてください。)
十字軍と百年戦争の違いから見る時代の流れ
中世ヨーロッパの盛期と末期を象徴する出来事
十字軍は、11〜13世紀にかけて行われたキリスト教徒の大遠征であり、「キリスト教世界が一体となって異教徒に立ち向かう」という普遍的な理念のもとで行動した点が特徴です。教皇は精神的指導者として絶大な権威を持ち、ヨーロッパ諸国の人々を統合する役割を果たしました。
それに対して百年戦争は、14〜15世紀に起きたフランスとイギリスという特定の国同士の争いであり、教皇の権威ではなく、王権や国家意識が中心となりました。つまり、十字軍が「中世ヨーロッパの盛期の象徴」であるなら、百年戦争は「中世ヨーロッパの末期を示す象徴」といえるのです。
十字軍=普遍的秩序
百年戦争=国民国家の秩序
【もっと詳しく!】普遍的秩序とはどんな意味が込められるいるの?
「普遍的秩序(universitas, universale)」という表現は、中世ヨーロッパを理解する上でとても大切なキーワードです。
「普遍的秩序」とは?
中世ヨーロッパは、世界を一つの普遍的な共同体とみなす思想を基盤にしていました。
その中心には次の二つがあります。
- 普遍的教会(カトリック教会)
ローマ教皇が全キリスト教徒を導くという観念。信仰は国境を越えて「普遍的」であるとされた。 - 普遍的帝国(神聖ローマ帝国)
神聖ローマ皇帝が「全キリスト教世界を守護する支配者」として想定された。
古代ローマ帝国の後継者という意識があり、キリスト教世界を統合する「普遍の君主」と考えられた。
この 「教皇権+皇帝権」 の二本柱が、中世の「普遍的秩序」です。
十字軍との関係
十字軍は、この「普遍的秩序」が最も力を発揮した場面です。
- 教皇が「全キリスト教徒に呼びかけ」、国王・諸侯・庶民を越えて人々が集結した。
- 皇帝や諸侯の領土を越え、「キリスト教世界」全体として聖地奪還に動いた。
つまり十字軍は、宗教的な統合(教会)と政治的な統合(帝国)の両面から「キリスト教世界は一つ」という観念が現実に行動となった象徴なのです。
百年戦争との対比
ところが、百年戦争(14~15世紀)はこの「普遍的秩序」が崩れていく契機になります。
- 「キリスト教徒同士が戦う」
- 「国民的意識」が芽生える
- 「王権の強化」により、普遍的な権威(教皇・皇帝)ではなく、各国の主権が重視される
こうして「普遍的秩序 → 国民国家」という歴史の流れが見えてきます。
騎士の役割の変化
十字軍の時代、騎士は「信仰の戦士」として大きな役割を担いました。聖地エルサレムを奪還するために戦い、騎士道の理想が形づくられたのもこの時期です。
しかし百年戦争では状況が一変します。イギリス軍が用いたロングボウ(長弓)や、戦争後期に登場した火砲によって、重装備の騎士たちは次々と打ち破られていきました。
かつて戦場の主役であった騎士階級は没落し、代わって常備軍や火器の発展が進みます。これは、封建制度の象徴であった騎士制の衰退を意味し、近代的な軍事システムの出発点ともなりました。
十字軍=騎士の黄金時代
百年戦争=騎士の衰退、中世的秩序の崩壊
経済・社会構造のつながり
十字軍は戦争そのものでは大きな成果を挙げられませんでしたが、東方貿易の活発化をもたらし、貨幣経済の浸透や都市の発展を促しました。これにより、ヨーロッパ社会に徐々に市場経済の芽が広がっていきます。
一方で百年戦争は、フランス国内に深刻な荒廃をもたらしました。農村は荒れ、農民は疲弊し、一時的には経済が停滞します。しかしその一方で、イギリスでは羊毛輸出が伸び、のちのエンクロージャー(囲い込み運動)へとつながっていきました。
教皇権から王権へのシフト
十字軍の失敗、とりわけ第4回十字軍以降の混乱は、教皇権の威信を大きく傷つけました。ヨーロッパ全体を精神的に統合する力は次第に失われ、各国が自立的な動きを強めていきます。
百年戦争では、その流れがさらに顕著になります。戦争を遂行するためには、国王が直接軍事や財政を管理する必要があり、結果的に王権の強化と国民統合が進みました。
十字軍=教皇権の頂点と失墜のきっかけ
百年戦争=王権強化と国民国家形成
百年戦争の背景 ― 4つの大きな要因
百年戦争(1339〜1453年)は、単なるフランスとイギリスの王位継承争いや領土戦争にとどまらず、中世から近代への転換を映し出す大事件です。その背景を理解することは、戦争の長期化や結果の意義を正しくつかむうえで不可欠です。
特に受験では、「なぜ戦争が起こったのか」を問う設問や、「十字軍との比較」「国王権の強化との関係」といった応用的な問題で差がつきます。したがって、百年戦争の原因を4つの大きな要因に整理して覚えることが重要です。
- 王位継承問題
- アキテーヌ領をめぐる領土対立
- 羊毛交易とフランドル地方をめぐる経済的利害
- ヨーロッパの他の勢力も巻き込んだ国際関係
この4点を押さえることで、単なる暗記ではなく「中世の普遍的秩序から近代的秩序への移行」という流れの中で百年戦争を理解でき、論述や正誤問題にも対応しやすくなります。
また、教皇権の衰退と王権の伸張という時代背景にも注意が必要です。
1. 王位継承問題
1337年、フランスでカペー朝が断絶し、王位継承問題が発生しました。
フランスの有力貴族たちは、従来の慣習に従ってヴァロワ家のフィリップ6世を国王に選出しましたが、イギリス王エドワード3世は自らが母を通じてカペー家の血を引くとして王位継承権を主張しました。
つまり、「フランス王を誰が継ぐか」という争いが、両国の対立を決定的なものとしたのです。
2. 領土問題
当時のイギリス王は、単なる「イギリス王」であるだけでなく、フランス国内にも領地を持つ大領主でもありました。
特に南西部のギュイエンヌ地方(アキテーヌ地方)は、イギリス王の直轄地でありながら、形式的にはフランス王に臣従する立場にありました。
この曖昧な主従関係は、両国間に常に緊張を生み出していました。フランス王がイギリス王に臣従を迫ろうとする一方、イギリス王は独立した支配権を主張し、衝突は避けられませんでした。
3. 経済的要因
戦争の背景には経済的利害も深く関わっていました。
とりわけフランドル地方(現在のベルギー西部)は、当時ヨーロッパ有数の毛織物産業の中心地であり、その原料である羊毛はイギリスから大量に輸入されていました。
イギリスは羊毛輸出を通じてフランドル経済を支配しようとし、フランスはフランドル地方を自国の影響下に置こうとしました。この経済的な争奪戦は、百年戦争を長引かせる大きな要因となりました。
4. 国際関係
百年戦争は単なる「英仏二国間の戦い」ではありませんでした。ヨーロッパの他の勢力も巻き込み、国際的な広がりを見せました。
フランスに敵対するイギリスは、フランスと対立していたブルゴーニュ公国を味方につけ、さらに伝統的にフランスと敵対していたスコットランドとも同盟を結びました。
一方フランスは、国内の諸侯の支持を固めながら、時には内部での分裂に苦しむこともありました。こうした複雑な国際関係が戦争をより長期化させ、単純な二国間戦争ではなく「ヨーロッパ全体の権力関係をめぐる戦い」となったのです。
背景のまとめ
このように、百年戦争は
- 王位継承問題(フランス王位をめぐる争い)
- 領土問題(フランス国内のイギリス領)
- 経済的要因(フランドル地方と羊毛貿易)
- 国際関係(ブルゴーニュ公国やスコットランドの関与)
という4つの背景が複雑に絡み合って勃発しました。
受験的には「王位継承問題」を中心に理解しつつ、他の要因も組み合わせて説明できると論述対策にも強くなります。
百年戦争の流れ
百年戦争は約116年にわたって断続的に続いたため、細かい戦いの名前や年号をすべて覚えようとすると膨大で混乱しがちです。
受験で重要なのは、戦争を4つの時期に区切り、それぞれの特徴をつかむことです。例えば、「前期=イギリス優勢(黒太子の活躍)」「後期=フランス勝利(ジャンヌ・ダルク)」と整理しておけば、長大な戦争の流れもスッキリ理解できます。
また、単なる勝敗の暗記ではなく、なぜ戦況が逆転したのか・その結果どんな変化が起こったのかを意識すると、論述や正誤問題にも対応できる実力がつきます。
① 前期(1337〜1360年)
- クレシーの戦い(1346年):イギリス軍がロングボウでフランス騎士軍を撃破。
- ポワティエの戦い(1356年):イギリスのエドワード黒太子が大勝し、フランス王ヨハネ2世を捕虜に。
- ブレティニー条約(1360年):イギリスがフランス南西部の広大な領土を獲得。
【もっと詳しく!】ポワティエの戦いが騎士制の没落」を象徴するものとはどういうこと?
ポワティエの戦い(1356年)をはじめとする百年戦争前期の戦いが 「騎士制の没落を象徴する」 と言われるのは、戦争のあり方そのものが変わったことを示しているからです。
騎士制の伝統
- 中世ヨーロッパでは、戦争の主力は重装騎士でした。
- 領主(封建貴族)が騎士を率いて戦場に立ち、勇猛さ・騎士道精神を示すことが戦いの「理想」とされていました。
- 鎧と馬に守られた騎士は非常に強力で、農民や歩兵では太刀打ちできませんでした。
百年戦争における現実
しかし百年戦争では、その「常識」が覆されます。
クレシーの戦い(1346年)とポワティエの戦い(1356年)
- イギリス軍はロングボウ(長弓)部隊を主力とし、遠距離から矢の雨を降らせました。
- 重装備の騎士は矢に倒れ、突撃はことごとく失敗しました。
- ポワティエでは、イギリスのエドワード黒太子が少数の兵でフランス軍を撃破し、ついにはフランス王ヨハネ2世までも捕虜にしました。
戦いの意味
- 「栄誉ある騎士の突撃」はもはや通用しないことが明らかになった。
- 大量の歩兵や弓兵、さらには後期には火砲のような新しい兵器が戦争の主役に。
- 封建領主の私兵(騎士)に依存する軍事体制は限界を迎え、王が徴税で組織する常備軍へ移行していく。
まとめ
つまり、
- 騎士制の戦い方(名誉・突撃・近接戦)が通用しなくなり、
- 歩兵・弓兵・火砲といった「兵器と集団戦術」が主役になり、
- 戦争は貴族の武勇の場から、国家が組織する近代的軍隊の時代へ移行していった、
これが「騎士制の没落を象徴する」という意味です。
十字軍時代と百年戦争時代の比較を表にしてまとめす。
視点 | 十字軍時代(11〜13世紀) | 百年戦争時代(14〜15世紀) |
---|---|---|
位置づけ | 「信仰の戦士」=神のために戦う存在。教皇の号令で聖地へ遠征。 | 軍事的主役の座を失い、象徴的存在に転落。国家軍の時代へ移行。 |
戦い方 | 重装騎士の突撃が戦場を支配。個々の勇気と名誉が重視。 | ロングボウ・火砲・常備軍に敗北。個人の武勇より集団戦術が重要。 |
社会的役割 | 封建制度の中核。主君に忠誠を誓い、軍役で仕える。 | 領主の私兵では戦争に対応できず、王の徴税と常備軍が主流に。 |
文学・文化 | 騎士道文学が隆盛。『ローランの歌』(勇敢な騎士の殉死)、『アーサー王物語』(円卓の騎士の理想)、宮廷風恋愛(fin’amor)の発展。 | 騎士道文学は依然人気だが、現実の戦争では通用せず。『ドン・キホーテ』(16〜17世紀、セルバンテス)では、騎士道が風刺の対象に。 |
象徴的出来事 | 第1回十字軍(1096〜99年):騎士がエルサレム奪還、理想の時代。 | クレシー(1346)、ポワティエ(1356):弓兵に敗北。王までも捕虜に。 |
歴史的意義 | 騎士=「中世普遍キリスト教世界」の支柱。 | 騎士制の没落=封建制崩壊 → 国民国家と近代軍隊の誕生。 |
十字軍期の騎士道文学
十字軍の時代は、騎士が「信仰の戦士」として理想化され、文学にもその姿が反映されました。
- 『ローランの歌』(フランス叙事詩):イスラム軍との戦いで殉死する騎士の勇気を讃える。
- 『アーサー王物語』(ブリテン伝説):円卓の騎士の理想像、騎士道と忠誠・友情・愛の融合。
- 宮廷風恋愛(fin’amor):高貴な女性に仕えることを通じて騎士道精神を表現。
☞ 騎士は「戦士」であると同時に「文化的理想像」として描かれました。
百年戦争期の現実
しかし、百年戦争では弓兵・火砲に敗北し、騎士の戦闘的優位は崩壊しました。
騎士道文学は依然として貴族社会で愛されましたが、現実の戦場では騎士の役割は小さくなり、理想と現実の乖離が広がりました。
近世における騎士像
その後、近世にはセルバンテスの『ドン・キホーテ』(1605〜1615年)に代表されるように、騎士道は風刺の対象となります。中世の騎士的理想はすでに過去の遺物とされ、笑いのネタに変わったのです。
☞「十字軍期=理想の騎士」 → 「百年戦争=現実の没落」 → 「近世文学=風刺対象」
という流れを意識すると、文化史と政治史を結びつけて理解できます。
論述問題
- 中世ヨーロッパにおける騎士の役割とその変化について、文学との関わりも含めて200字程度で説明せよ。
-
中世ヨーロッパで騎士は、十字軍遠征において「信仰の戦士」として活躍し、封建社会の軍事的中核を担った。その理想像は『ローランの歌』や『アーサー王物語』などの騎士道文学に描かれ、勇気や忠誠、宮廷風恋愛と結びついた。しかし百年戦争では、クレシーやポワティエの戦いでロングボウや火砲に敗北し、騎士の軍事的優位は崩壊した。その結果、騎士は現実には没落しつつも、文化的には理想化され続け、近世には『ドン・キホーテ』で風刺の対象ともなった。
騎士の役割の変化 ― 十字軍から百年戦争へ
- 十字軍=騎士の黄金時代
- 百年戦争=騎士の没落・中世秩序の崩壊
② 中期(1360〜1415年)
- フランス王シャルル5世と名将デュ・ゲクランの活躍で失地回復。
- イギリスは国内の混乱もあり劣勢へ。
③ 転換期(1415〜1429年)
- アジャンクールの戦い(1415年):イギリス王ヘンリ5世が大勝。
- トロワ条約(1420年):イギリス王がフランス王位継承者とされる。
アジャンクールの戦い(1415年)は、百年戦争を象徴する大戦のひとつで、特に「騎士制の没落」を示す戦いとして世界史受験では超頻出です。
① 概要
- 年号:1415年
- 場所:フランス北部のアジャンクール(Agincourt)
- 当事者:イギリス王 ヘンリ5世 vs フランス軍
- 結果:イギリス軍の大勝
② 戦いの特徴
- 兵力差
- フランス軍はイギリス軍の約3倍の兵力を擁していた。
- しかし大半は重装騎士。
- 戦術差
- イギリス軍は少数精鋭の長弓兵(ロングボウ)を主力に戦った。
- 泥濘の戦場で重装騎士は機動力を失い、次々に射倒された。
- 結果
- フランス貴族・騎士層に壊滅的打撃。
- 捕虜・戦死者に多数の有力諸侯。
③ 意義(世界史的なポイント)
- 騎士制の没落
→ 重装備で名誉を重んじた中世騎士は、火砲や弓兵に脆弱であることが明らかになった。 - 兵農分離・職業軍人化の進展
→ 騎士が軍事の主役から退き、国王の常備軍や弓兵・火砲兵が中心へ。 - イギリス優勢期の象徴
→ この勝利により、イギリスはフランス北部を掌握し、一時はフランス王位継承権をも手にした。
④ 受験での狙われ方
- 年号暗記(1415年)
- 人物名(イギリス=ヘンリ5世、フランス=騎士層)
- 意義(騎士制没落を象徴)
- 戦術の違い(ロングボウ vs 重装騎士)
まとめると、アジャンクールの戦いは
「百年戦争=中世騎士の黄金期の終焉」を象徴する戦い と理解すると受験では非常に強いです。
また、「クレシーの戦い(1346)」と「ポワティエの戦い(1356)」も、アジャンクールの戦い(1415)と並んで、百年戦争前半期における「騎士制没落」を象徴する決定的な戦いです。
・クレシー・ポワティエ → 百年戦争前半のイギリス圧倒的優勢期。
・アジャンクール → 一時的にイギリスが再び優勢となった後期の戦い。
そして、百年戦争における騎士の没落と、長篠の戦い(1575)での武田騎馬軍団の敗北は、直接の歴史的つながりはありませんが、軍事史的にはよく比較される事例です。
共通点:戦術革新による「旧来の精鋭」の敗北
- 百年戦争(クレシー・ポワティエ・アジャンクール)
- フランスの重装騎士が、イギリス歩兵(特にロングボウ兵)に完敗。
- 「勇猛果敢な騎士の突撃」が、組織化された弓兵・歩兵戦術の前に無力化。
- 騎士=中世封建社会の象徴 → 没落。
- 長篠の戦い(1575)
- 武田勝頼率いる騎馬隊が、織田・徳川連合軍の鉄砲三段撃ちに敗北。
- 日本戦国の「最強戦力」だった騎馬武士が、火器戦術により無力化。
- 騎馬武士=中世的軍制の象徴 → 没落。
どちらも「時代を画する敗北」として捉えられます。
違い:背景と展開の差
- 百年戦争
- 長期的な変化 → ロングボウ、火砲、常備軍の発展。
- 騎士は徐々に没落し、封建軍制から王権主導の常備軍体制へ。
- 約100年のスパンで進んだ「構造変化」。
- 長篠の戦い
- 一戦で劇的に変化を象徴。
- 鉄砲の戦術的運用(織田信長の合理的軍制改革)が決定打。
- その後、鉄砲・足軽中心の戦術が日本戦国の主流に。
歴史学的な評価
- 百年戦争 → 「軍事革命の萌芽」(近代的軍制への移行)
- 長篠の戦い → 「鉄砲伝来後の戦術革新の象徴」
つまり、両者ともに「旧来のエリート兵種(騎士・騎馬武士)が新技術に敗れる象徴的事件」として理解できます。
ただし、百年戦争は100年以上の漸進的過程、長篠は一戦での劇的変化、という違いがポイントです。
④ 後期(1429〜1453年)
- ジャンヌ・ダルク登場(1429年):オルレアン解放、シャルル7世の戴冠を支援。
- 彼女の殉教はフランス人の国民意識を強化。
- カスティヨンの戦い(1453年):フランスが火砲で決定的勝利、イギリスはカレーを除き大陸領土を喪失。
しかし、ジャンヌ・ダルクには受験生が間違いやすい点があります。
理由を整理すると:
- ジャンヌ・ダルクは1412年頃に生まれ、1429年のオルレアン包囲戦でフランス軍を鼓舞し、イギリス軍を撃退することに成功しました。
- しかし、ジャンヌは「個人でイギリスを破った」わけではなく、あくまでフランス軍を率いるシャルル王太子(後のシャルル7世)を支援し、国民的抵抗を象徴した人物です。
- 戦争そのものは長期にわたり、最終的に1453年のカスティヨンの戦いでフランスが勝利して終結しました。
正誤問題の例
Q:ジャンヌ・ダルクは百年戦争においてイギリスを破り、戦争を終結させた。
A:✕(正しくは、ジャンヌは1429年のオルレアン包囲戦でフランス軍を勝利に導き、シャルル7世の戴冠を実現させる役割を果たしたが、戦争そのものを終結させたわけではない)
ジャンヌ・ダルクは、百年戦争で問われやすい人名ですが、上記を読んでいただくと分かる通り、ただ名前だけを覚えても、問われるポイントを知らないと、用語を知ってても得点にならないという世界史受験あるあるになります。
出題パターンを他にも紹介します。
固有名詞の穴埋め・選択問題
最も多いのがこのパターンです。
「百年戦争の際、オルレアンを解放し、シャルル7世の戴冠を助けた人物は誰か?」
☞ 答え:ジャンヌ・ダルク
「ジャンヌ・ダルクが火刑に処された都市はどこか?」
☞ 答え:ルーアン
共通テスト・私大の基本問題でよく出ます。
出来事との関連付け
ジャンヌの登場を「戦局の転換点」として問う形式。
「ジャンヌ・ダルクの活躍は百年戦争にどのような影響を与えたか?」
☞ 答え:オルレアン解放を契機にフランス国民意識を高め、シャルル7世の戴冠を実現させた。
記述問題・論述問題で狙われます。
意義や象徴性の理解
ジャンヌは単なる軍事的英雄ではなく、国民意識形成の象徴として出題されます。
「ジャンヌ・ダルクがフランス史において持つ意義を述べよ」
☞ 解答例:農民出身の彼女の活躍は、身分を超えた国民的団結を促し、フランスの勝利を精神的に支えた点で重要。
正誤問題でのひっかけ
- 「ジャンヌ・ダルクはアジャンクールの戦いでイギリス軍を破った」 → ✕(実際はオルレアン解放)
- 「ジャンヌ・ダルクはフランス王シャルル7世を擁立した」 → ○
「戦いの名前」との取り違えが典型的な出題。
発展的出題(難関大)
- 文化史や宗教との絡み
「ジャンヌ・ダルクの殉教はどのようにフランス人の国民意識に影響したか?」 - 近代史との比較
フランス革命期にジャンヌが「国民的英雄」として再評価されたことを問う場合もある。
百年戦争の流れを問う問題を50題用意しました。
百年戦争の流れを問う50題
百年戦争の流れ 基本問題30問(Q&A形式)
前期(1337〜1360年)
Q:百年戦争が始まったのは西暦何年か。
A:1337年
Q:百年戦争が終結したのは西暦何年か。
A:1453年
Q:百年戦争の発端となったのは、フランスでどの王朝が断絶したことか。
A:カペー朝
Q:フランス王位継承を主張したイギリス王は誰か。
A:エドワード3世
Q:クレシーの戦い(1346年)でイギリス軍が使用してフランス騎士を破った武器は何か。
A:ロングボウ(長弓)
Q:ポワティエの戦い(1356年)でフランス王ヨハネ2世を捕虜にしたイギリス王子は誰か。
A:エドワード黒太子
Q:1360年に結ばれた、イギリスに有利な講和条約を何というか。
A:ブレティニー条約
中期(1360〜1415年)
Q:この時期に即位し、フランスの巻き返しを主導した王は誰か。
A:シャルル5世
Q:シャルル5世を支え、持久戦でイギリスを苦しめた名将は誰か。
A:デュ・ゲクラン
Q:この時期、戦局はフランスとイギリスのどちらが優勢になったか。
A:フランス
転換期(1415〜1429年)
Q:1415年、アジャンクールの戦いで大勝したイギリス王は誰か。
A:ヘンリ5世
Q:アジャンクールの戦いでイギリス軍が優位に立った要因は何か。
A:ロングボウによる弓兵戦術
Q:1420年、イギリス王がフランス王位継承者とされた条約は何か。
A:トロワ条約
Q:この時期、フランス国内で続いていた二大派閥の対立は何と何か。
A:アルマニャック派とブルゴーニュ派
Q:この時期、戦況はフランスに有利であったかイギリスに有利であったか。
A:イギリス
後期(1429〜1453年)
Q:1429年、オルレアンの包囲を解放したのは誰か。
A:ジャンヌ・ダルク
Q:ジャンヌ・ダルクが支援し、ランスで戴冠したフランス王は誰か。
A:シャルル7世
Q:ジャンヌ・ダルクは最終的にどこの都市で火刑に処されたか。
A:ルーアン
Q:百年戦争最後の決戦である1453年の戦いを何というか。
A:カスティヨンの戦い
Q:戦争後、イギリスがフランスに保持し続けた唯一の都市はどこか。
A:カレー
戦争の結果と影響
Q:百年戦争後、フランスでは王権が強化され、どのような意識が芽生えたか。
A:国民意識(民族意識)
Q:百年戦争後、イギリスでは大陸領土をほとんど失った結果、何という内乱が起こったか。
A:バラ戦争
Q:百年戦争は騎士制の何を象徴する戦争といわれるか。
A:没落(衰退)
Q:百年戦争後にフランスで導入が進んだ新しい軍事制度は何か。
A:常備軍
Q:百年戦争で導入され、戦争の行方を左右した新兵器は何か。
A:火砲(大砲)
Q:フランス農村が荒廃する一方で成長した社会的存在は何か。
A:都市(商業都市)
Q:イギリスで発展し、のちのエンクロージャーへとつながる経済活動は何か。
A:羊毛輸出(牧羊)
Q:百年戦争の結果、フランスは大陸における何としての地位を固めたか。
A:強国(大国)
Q:百年戦争の歴史的意義を一言で表すと「中世の終焉と____」である。
A:近世(国民国家)への移行
Q:十字軍と百年戦争を比較したとき、前者は「普遍的秩序」、後者は「____の萌芽」を示す。
A:国民国家
百年戦争 応用問題セット(論述+正誤 全20問)
論述問題(10問)
- 問題
百年戦争におけるイギリス軍の戦術的優位を説明し、その意義を述べよ(120字程度)。
模範解答
イギリス軍はロングボウを用いた弓兵戦術で重装騎士を破り、クレシーやポワティエの戦いで大勝した。これは従来の騎士突撃が無力化されたことを示し、騎士制の没落と近代的軍事体制の萌芽を象徴した。
- 問題
百年戦争におけるフランスの巻き返しを可能にした要因を述べよ(150字程度)。
模範解答
ブレティニー条約後のフランスはシャルル5世と将軍デュ・ゲクランの指導で失地回復に成功した。正面決戦を避けた持久戦によりイギリス軍を消耗させ、さらに国内の統制を強めたことで一時的に優勢に立ち、フランスの反撃の基盤が整った。
- 問題
トロワ条約の内容と、その歴史的意味を説明せよ(120字程度)。
模範解答
1420年のトロワ条約では、フランス王シャルル6世が娘をイギリス王ヘンリ5世に嫁がせ、イギリス王をフランス王位継承者と認めた。これはフランスの王位が外部勢力に奪われる危機を示し、国民意識形成の契機となった。
- 問題
ジャンヌ・ダルクの歴史的意義を、軍事的成果と象徴的役割の両面から述べよ(150字程度)。
模範解答
ジャンヌ・ダルクは1429年にオルレアンを解放し、シャルル7世の戴冠を実現させた軍事的功績を持つ。さらに農民出身の彼女が神の使命を掲げて戦ったことは、身分を超えたフランス人の団結を促し、国民意識の形成を強めた点で重要である。
- 問題
百年戦争がフランスの王権強化につながった理由を説明せよ(150字程度)。
模範解答
戦争遂行のためにフランス王は徴税権と常備軍を整備し、諸侯の軍事力に依存しなくなった。またジャンヌ・ダルクの象徴的存在により国民意識が形成され、国王を中心とした統合が進んだ。これらは中央集権化を促し、絶対王政への基盤を築いた。
- 問題
百年戦争後のイギリスでバラ戦争が起きた要因を説明せよ(100字程度)。
模範解答
大陸領土喪失と財政難で王権が弱体化し、ランカスター家とヨーク家が王位をめぐって対立したため。戦後の混乱は内乱へと拡大し、イギリス社会を不安定化させた。
- 問題
百年戦争を「騎士制没落の象徴」と呼ぶ理由を述べよ(120字程度)。
模範解答
戦争では重装騎士がロングボウや火砲に敗れ、従来の戦術が無力化した。以後、戦争は常備軍や兵器を中心に展開され、領主の私兵に依存する封建的軍事体制は衰退し、近代的軍隊の萌芽が現れた。
- 問題
百年戦争が国民国家形成の契機となった点を述べよ(150字程度)。
模範解答
戦争は単なる王位争いではなく、長期化により「フランス人」「イギリス人」という意識を強めた。ジャンヌ・ダルクの象徴的役割も相まって、王を中心とする国民的団結が生まれた。これは封建制を超えた国民国家形成の第一歩となった。
- 問題
百年戦争が経済に与えた影響を、フランスとイギリスで対比して述べよ(150字程度)。
模範解答
フランスでは農村が荒廃し、農民反乱が相次ぐ一方、都市の自治と商業が発展した。イギリスでは羊毛輸出が重要となり、農業構造が牧羊中心に変化、のちのエンクロージャー運動につながった。両国とも社会経済の変動を経験した。
- 問題
百年戦争の歴史的意義を、中世から近世への転換という観点で述べよ(200字程度)。
模範解答
百年戦争は、中世的秩序の崩壊と近世的秩序の萌芽を示した。騎士制は衰退し、火砲や常備軍が登場して軍事革命が進んだ。フランスでは王権が強化され、国民意識が芽生えて絶対王政の基盤となった。イギリスでは大陸領土喪失からバラ戦争を経て、議会政治への流れが強まった。こうして戦争は、中世的普遍秩序から国民国家への移行を象徴する世界史的転換点となった。
正誤問題(10問)
- 百年戦争の原因には、フランス王位継承問題に加え、フランドル地方の毛織物産業をめぐる経済的対立があった。〔正〕
- クレシーの戦い(1346年)ではフランス王が捕虜となった。
〔誤:捕虜になったのはポワティエの戦い(1356年)〕 - エドワード黒太子はアジャンクールの戦いでフランス軍を破った。
〔誤:彼はポワティエで活躍〕 - ブレティニー条約(1360年)はフランスに有利な条件で結ばれた。
〔誤:イギリス有利〕 - シャルル5世とデュ・ゲクランの活躍は、フランスの巻き返しにつながった。〔正〕
- トロワ条約(1420年)では、イギリス王がフランス王位継承者とされた。〔正〕
- ジャンヌ・ダルクはオルレアン解放後、シャルル7世の戴冠を支援した。〔正〕
- ジャンヌ・ダルクはアジャンクールで捕らえられ、処刑された。
〔誤:ルーアンで火刑〕 - 百年戦争終結後、イギリスは大陸領土のほとんどを失い、唯一カレーを保持した。〔正〕
- 百年戦争は「中世の普遍的秩序の象徴」とされる。
〔誤:それは十字軍。百年戦争は国民国家の萌芽を象徴〕
百年戦争の流れの整理(人物を含めて)
- 前期=イギリス優勢(エドワード黒太子の活躍)
- 中期=フランス巻き返し(シャルル5世・デュ・ゲクラン)
- 転換期=イギリス再優勢(ヘンリ5世)
- 後期=フランス勝利(ジャンヌ・ダルク・シャルル7世)
百年戦争の結果と影響
百年戦争は、単にイギリスとフランスの長期的な抗争にとどまらず、中世ヨーロッパの秩序を大きく変えた戦争でした。
戦争の過程で「騎士制の衰退」「常備軍と火砲の導入」といった軍事面の変化が生じただけでなく、フランスでは王権強化と国民意識の芽生えが進み、イギリスでは大陸領土喪失から内乱(バラ戦争)を経て議会政治への布石が築かれました。
フランスへの影響 ― 勝者としての変化
百年戦争の勝利によって、フランスは広大な国土を回復し、王権の基盤を強化しました。戦争の過程でフランス王は、徴税を通じて軍事費を調達し、常備軍を整備するなど、封建諸侯に依存しない統治の仕組みを築いていきました。
また、ジャンヌ・ダルクの活躍が象徴するように、農民や都市民を含めた「フランス人」という意識が芽生え、国民国家形成への第一歩が踏み出されました。これ以後、フランスはヨーロッパ大陸における強国としての地位を確立していきます。
イギリスへの影響 ― 敗北から内乱へ
一方のイギリスは、大陸領土をほとんど失い、フランス支配の夢は完全に潰えました。唯一残された拠点は港湾都市カレーのみで、イギリスの大陸進出は終わりを迎えます。
さらに戦争の長期化は国庫を疲弊させ、貴族間の対立を激化させました。その結果、戦後すぐにバラ戦争(1455〜1485年)が勃発し、イングランドは内乱の時代へ突入します。
軍事の変化 ― 騎士から火器・常備軍へ
百年戦争は、軍事史の上でも大きな転換点となりました。
戦争初期にはイギリスのロングボウがフランス騎士を圧倒し、後期にはフランスが火砲を用いて勝利を収めています。これにより、戦場の主役は「武勇ある騎士」から「歩兵・火器・常備軍」へと移り変わりました。
これは封建領主の私兵に依存する体制から、国王が直接管理する軍隊へと移行することを意味し、封建制崩壊の契機ともなりました。
社会・経済の変化 ― 荒廃と再生
長期戦争はフランスの農村を荒廃させ、多くの農民反乱(例:ジャックリーの乱、1358年)を引き起こしました。一方で都市は自衛のために自治を強化し、商業活動が伸展しました。
イギリスでは羊毛輸出の重要性が高まり、やがて農村構造を大きく変える**囲い込み運動(エンクロージャー)**へとつながっていきます。
思想・文化の影響 ― ジャンヌ・ダルクと民族意識
ジャンヌ・ダルクは捕らえられて火刑に処されましたが、その殉教はフランス人の心に強烈な印象を残しました。彼女の存在は「身分を超えた国民的団結」の象徴となり、のちのフランス史においても国民統合のシンボルとして再評価されました。
また、この時代を境に「普遍的キリスト教世界」から「各国のアイデンティティ」へと意識が移っていくのも特徴です。
百年戦争の結果と影響のまとめ
百年戦争は、単なる英仏の戦争にとどまらず、
- フランスの王権強化と国民意識の芽生え
- イギリスの大陸喪失と内乱(バラ戦争)
- 軍事革命(騎士制衰退・火砲と常備軍の登場)
- 農村の荒廃と都市の台頭、羊毛経済の発展
- ジャンヌ・ダルクによる国民統合の象徴化
といった多方面に影響を及ぼしました。
すなわち百年戦争は、「中世の終焉と近世の幕開けを告げる戦争」として世界史的に大きな意義を持つのです。
百年戦争の結果と影響を問う問題を50題用意しました。
百年戦争の結果と影響を問う50題
百年戦争の結果と影響 ― 基本問題30問
フランス王権の強化
Q1:百年戦争の勝者はどちらの国か。
A1:フランス
Q2:百年戦争後、フランス国王が整備した常備軍は何と呼ばれるか。
A2:シャルル7世の常備軍
Q3:百年戦争を通じて強化されたフランスの政治体制は何か。
A3:中央集権的王権
Q4:百年戦争後、フランスで進展した「国民のまとまり」を何というか。
A4:国民意識(国民国家の萌芽)
Q5:フランス王権の強化は、後の絶対王政を確立した誰につながるか。
A5:ルイ14世
Q6:百年戦争での勝利により、フランスはどのような領土的状況を得たか。
A6:大陸領土のほぼ完全な回復(カレーを除く)
イギリスの内政不安
Q7:百年戦争後のイギリスで起きた内乱は何か。
A7:バラ戦争
Q8:バラ戦争で対立した二つの王家は何か。
A8:ランカスター家とヨーク家
Q9:バラ戦争を終結させた新王朝は何か。
A9:テューダー朝
Q10:百年戦争後、イギリスが大陸領土をほぼ失った結果、政治的に強まったものは何か。
A10:議会の役割
Q11:百年戦争後のイギリスで発展した農業経営は何か。
A11:牧羊中心の農業(羊毛生産拡大)
Q12:百年戦争の敗北はイギリスにとってどのような精神的影響を与えたか。
A12:大陸支配の挫折 → 海洋進出への方向転換の契機
社会経済の変化
Q13:百年戦争により荒廃したフランス農村で起きた反乱は何か。
A13:ジャックリーの乱
Q14:百年戦争により農村が荒廃した結果、農民に課された負担は何か。
A14:重税・労役の増加
Q15:イギリスでは戦争の影響でどの産業が重要になったか。
A15:毛織物産業
Q16:百年戦争後のイギリス農業で拡大した囲い込み運動を何というか。
A16:エンクロージャー
Q17:戦争の長期化は両国でどのような財政上の影響を及ぼしたか。
A17:国王による課税権強化
Q18:戦争とペストの影響でヨーロッパの人口はどう変化したか。
A18:激減した
軍事・封建制の変容
Q19:百年戦争で活躍したイギリスの新兵器は何か。
A19:ロングボウ
Q20:百年戦争で発展した新しい武器は何か。
A20:火砲
Q21:百年戦争は中世のどの軍事制度の衰退を示したか。
A21:騎士制
Q22:封建的な諸侯の軍事力よりも国王の常備軍が重視されるようになった。この変化は何を象徴するか。
A22:封建制の衰退・中央集権化
Q23:百年戦争での戦いのあり方は、中世からどのような転換を示したか。
A23:中世的騎士戦から近代的戦争への転換
Q24:百年戦争が示した軍事的変化を一言でまとめると何か。
A24:軍事革命の始まり
世界史的意義
Q25:百年戦争はどのような国家の形成を促したか。
A25:国民国家
Q26:フランスにおける国民的団結を象徴した人物は誰か。
A26:ジャンヌ・ダルク
Q27:ジャンヌ・ダルクの活躍がもたらしたフランス側の成果は何か。
A27:オルレアン解放とシャルル7世の戴冠
Q28:百年戦争はヨーロッパの歴史的区分においてどのような意味を持つか。
A28:中世から近世への転換点
Q29:百年戦争後、フランスでは王権とともに強化されたものは何か。
A29:常備軍と課税権
Q30:百年戦争の総合的意義を一言で述べよ。
A30:封建制から国民国家への移行を象徴した戦争
【論述問題 10題】
Q1:百年戦争がフランスの王権強化に与えた影響を、常備軍の整備に触れつつ述べよ。
A1:シャルル7世は戦争の勝利を背景に常備軍を創設し、諸侯の軍事力に依存しない体制を確立した。これにより王権は強化され、後の絶対王政へとつながった。
Q2:百年戦争がイギリスの政治体制に及ぼした影響を、バラ戦争と議会の役割の観点から説明せよ。
A2:敗北後のイギリスではバラ戦争が勃発し王権が弱体化した。その一方で戦費調達を通じて議会の発言力が強まり、後の議会政治発展の基盤が形成された。
Q3:ジャンヌ・ダルクの登場がフランス社会に与えた意義を述べよ。
A3:ジャンヌ・ダルクは神の声を掲げてオルレアンを解放し、国王シャルル7世の戴冠を実現した。彼女の活躍はフランス国民に強い団結心を与え、国民国家形成の契機となった。
Q4:百年戦争が封建制度に及ぼした影響を述べよ。
A4:長期戦争と火砲・ロングボウの発展により騎士の軍事的役割が低下した。諸侯の軍事的独立性は弱まり、王権による常備軍体制が進み、封建制の衰退が促進された。
Q5:百年戦争の影響を「経済的視点」から説明せよ。
A5:フランスは農村が荒廃し農民反乱が発生した。一方イギリスは大陸領土喪失により羊毛輸出に依存し、エンクロージャーと毛織物産業の発展が進んだ。
Q6:百年戦争の敗北がイギリスの対外政策に及ぼした影響を述べよ。
A6:大陸支配の挫折によりイギリスは海外領土獲得を断念し、後には大西洋進出や海外植民へと方向を転換した。
Q7:百年戦争の長期化がヨーロッパの財政制度に与えた影響を述べよ。
A7:戦費調達のため王権が課税権を強化した。これにより国家財政の制度化が進み、近代国家の基盤が整えられた。
Q8:百年戦争の勝敗を分けた要因を軍事技術の面から説明せよ。
A8:当初はイギリスがロングボウで優勢を誇ったが、フランスは火砲の導入と常備軍の整備で挽回し、戦局を逆転した。
Q9:百年戦争を中世から近世への転換点として説明せよ。
A9:戦争は封建制と騎士制を衰退させ、国民意識・王権強化・常備軍整備を促した。これは中世的秩序から近世的国民国家への移行を象徴する出来事であった。
Q10:百年戦争の結果、フランスとイギリスがたどった異なる歴史的方向性を比較して述べよ。
A10:フランスでは王権強化から絶対王政へ進んだ。一方イギリスでは内乱と敗北から議会の発言力が増し、立憲政治への布石が築かれた。
【正誤問題 10題】
以下の記述が正しければ「正」、誤っていれば「誤」と答えよ。
Q11:百年戦争の勝利により、イギリス王権は大陸領土を完全に回復した。
A11:誤(勝利したのはフランスであり、イギリスは大陸領土をほぼ失った)
Q12:ジャンヌ・ダルクはオルレアン解放に成功した後、シャルル7世の戴冠を実現した。
A12:正
Q13:百年戦争後、フランスでは常備軍が整備され、諸侯の軍事的自立は弱まった。
A13:正
Q14:百年戦争後のイギリスでは、バラ戦争を通じてヨーク家とランカスター家が王位をめぐって争った。
A14:正
Q15:百年戦争によりイギリスの農村は荒廃したが、フランスは毛織物産業の発展で繁栄した。
A15:誤(逆。フランスが農村荒廃、イギリスが毛織物産業発展)
Q16:百年戦争はロングボウや火砲の導入によって騎士制の没落を促した。
A16:正
Q17:百年戦争の長期化により、両国で課税権が強化され、国家財政の基盤が整えられた。
A17:正
Q18:百年戦争後、イギリスでは絶対王政がすぐに確立した。
A18:誤(バラ戦争と議会強化 → 立憲政治への道)
Q19:百年戦争は中世ヨーロッパの「普遍的秩序」から国民国家への移行を示す戦争である。
A19:正
Q20:フランスにおける百年戦争の勝利は、後のブルボン朝絶対王政への流れを準備した。
A20:正
【重要視点】なぜ百年戦争は世界史で重要なのか
一見すると百年戦争は「英仏間の地味な戦争」に思われるかもしれません。しかし、その意義は世界史的に極めて大きいのです。
- 中世から近世への橋渡し
- 教皇権による普遍的秩序 → 国王中心の国民国家へ
- 軍事革命の起点
- 騎士制の衰退 → 火器と常備軍による近代的軍事体制へ
- 近代ヨーロッパの序章
- フランス王権の強化 → ルイ14世の絶対王政へ
- イギリスの内政不安 → バラ戦争 → テューダー朝 → 議会政治への布石
問題
百年戦争後のフランスにおける王権の強化が、のちの絶対王政にどのようにつながったかを200字程度で説明せよ。
模範解答(200字)
百年戦争の勝利によりフランスは大陸領土を回復し、王権の権威を高めた。戦争遂行の過程で徴税や常備軍の制度が整えられ、封建諸侯の軍事力に依存しない体制が確立された。さらにジャンヌ・ダルクの象徴的存在を通じて国民意識が形成され、国王を中心にした統合が進んだ。このような中央集権化の基盤は、その後のヴァロワ朝・ブルボン朝へと継承され、最終的にはルイ14世のもとで絶対王政として完成を迎えることになった。
(199字)
問題
百年戦争後のイギリスが大陸領土を喪失し、内政不安から議会政治の発展へ至る過程を200字程度で説明せよ。
模範解答(200字)
百年戦争の敗北によってイギリスはフランスの大陸領土をほぼ失い、国庫は疲弊した。戦争の長期化で貴族間の対立も激化し、1455年にはランカスター家とヨーク家が王位を争うバラ戦争が勃発した。この内乱を収束させたのはテューダー朝の成立であり、王権は一時的に強化されたが、財政的に議会に依存する体制が残された。そのためイギリスでは国王と議会の関係が重視され、のちにピューリタン革命や名誉革命を経て、立憲的な議会政治が確立していく基盤が形づくられた。
近代を準備したその他の戦争
百年戦争(14〜15世紀)が「近代を準備した戦争」とされるのは有名ですが、世界史的にはそれ以外にも「中世と近代を分ける転換点」として評価される戦争があります。整理すると次のようになります。
百年戦争(1339–1453)
- 意義:騎士制の没落、火砲やロングボウの登場、王権と国民統合の進展
- 近代への準備性:封建制から国民国家への移行を促した。
イタリア戦争(1494–1559)
- 背景:フランス王家とハプスブルク家(スペイン=神聖ローマ帝国)がイタリアをめぐって争った。
- 軍事革命の文脈:「火砲の本格的導入」「常備軍の登場」「要塞建築の発展」などが進んだ。
- 近代への準備性:近代戦争=火砲+常備軍+国家財政の関係が明確化。
三十年戦争(1618–1648)
- 背景:宗教改革後の新旧両派の対立+ハプスブルク家とフランスの覇権争い。
- 軍事革命との関係:大規模常備軍の維持が国家財政と直結、徴税制度・官僚制の発展を促した。
- 近代への準備性:ウェストファリア条約(1648)により「主権国家体制」が成立 → 近代国際秩序の始まり。
その他
- バラ戦争(1455–1485):百年戦争後のイギリス内乱 → テューダー朝成立 → 中央集権国家への基盤。
- オスマン帝国の征服戦争(例:1453コンスタンティノープル陥落) → 火砲戦術の象徴、ヨーロッパ世界秩序に衝撃。
百年戦争とイタリア戦争の比較
「軍事革命(Military Revolution)」の議論では、百年戦争とイタリア戦争はどちらも重要な転換点とされます。ですが、性格と意味するところが異なります。整理してみましょう。
百年戦争と軍事革命
時期:14〜15世紀(1339〜1453年)
特徴:
- イギリス軍のロングボウ(長弓兵)の活躍
→ 騎士階級(重装騎兵)の戦術的優位が崩壊。 - 火砲(大砲)の登場
→ 城塞戦において、石の城壁が大砲に破壊されるようになった。 - 傭兵の活用
→ 封建的な騎士の軍役義務ではなく、王権が財政を握って雇う傭兵軍が中心になっていく。
意義:
- 「騎士制の没落」と「封建制の解体」が進んだ。
- 国家が軍事を直接組織する仕組み(王権の常備軍)が芽生えた。
- 中世的秩序の崩壊 → 近代的な軍事・政治体制への移行のきっかけ。
イタリア戦争と軍事革命
時期:1494〜1559年(フランス・ハプスブルクを中心とする戦争)
特徴:
- 火器の本格的普及
→ 小銃(火縄銃)や大砲の大規模利用が戦術を一変。 - 城塞建築の革新
→ 火砲に耐える「星形要塞(trace italienne)」が生まれ、防衛戦術が近代化。 - 大規模常備軍
→ 数万人規模の常備軍が編成され、補給・財政管理が国家レベルで必須に。 - 海戦・新大陸争奪とリンク
→ 地中海・大西洋の覇権をめぐる世界規模の軍事に接続。
意義:
- 「近代戦争の始まり」とされ、軍事革命の中心と位置づけられる。
- 技術(火器・要塞)と制度(常備軍・財政)が一体化し、近代的な軍事国家の形成につながった。
違いのまとめ
観点 | 百年戦争 | イタリア戦争 |
---|---|---|
軍事的特徴 | 騎士制の没落、弓兵と火砲の登場 | 火器の本格化、星形要塞、常備軍 |
社会的意味 | 封建制の解体、国民国家の萌芽 | 国家財政・軍事の近代化(官僚制と常備軍) |
位置づけ | 中世から近世への移行の象徴 | 本格的な「軍事革命」の段階 |
- 百年戦争:中世的軍事秩序(騎士制)が崩れ、「国民国家」の萌芽を生んだ戦争。
- イタリア戦争:火器・要塞・常備軍の本格導入により、近代的軍事システムが完成した戦争。
つまり、百年戦争は「軍事革命の入り口」、イタリア戦争は「軍事革命の本格化」と言えます。
論述問題(例)
Q:百年戦争とイタリア戦争を「軍事革命」の観点から比較し、それぞれがどのように中世的軍事から近代的軍事への移行に寄与したかを、120〜150字で説明せよ。
模範解答例
A:百年戦争ではロングボウや火砲の登場により騎士の軍事的優位が崩れ、封建的軍制が揺らぎ「軍事革命の入り口」となった。一方イタリア戦争では大規模な火砲・傭兵軍の運用が進み、攻城戦術や常備軍体制が確立して「軍事革命の本格化」を示した。
まとめ(試験対策的ポイント)
- 百年戦争=騎士制崩壊・国民国家の萌芽
- イタリア戦争=火砲と常備軍の本格導入(軍事革命)
- 三十年戦争=主権国家体制の成立(ウェストファリア条約)
つまり、「近代を準備した戦争」は百年戦争だけでなく、イタリア戦争と三十年戦争も必ずセットで押さえると受験的に強いです。
百年戦争の受験対策ポイント
- 頻出用語の暗記:「ジャンヌ・ダルク」「アジャンクールの戦い」「ブレティニー条約」
- 論述対策:「百年戦争の意義=国民国家形成と封建制の崩壊」
- 正誤問題:十字軍と百年戦争の位置づけの違いが狙われやすい
まとめ:百年戦争は「地味」ではなく、時代を変えた戦争
百年戦争は単なる英仏の抗争ではなく、「中世の終わりと近世の始まりを告げる戦争」です。
- 十字軍=中世盛期の普遍的秩序→ヨーロッパはキリスト教世界として一体
- 百年戦争=中世末期の国民国家への移行→ヨーロッパは国民国家として分裂
世界史全体の流れを学ぶうえで、百年戦争を 「近代を準備した世界史的ターニングポイント」 として理解することが、受験勉強においても強力な武器になります。
コメント