【徹底解説】中世イギリス史 ― 強い王権から議会政治へ

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中世イギリス史は、11世紀のノルマン征服から15世紀の百年戦争終結までの時代を指し、イングランドが強力な王権のもとで統一国家を築き、やがて議会政治を発展させていく過程を描いています。

ヨーロッパ各国の中でも、イギリスは特に「法の支配」と「代表制」という近代的政治原理を早期に確立した国として注目されています。

その意義は、封建制の枠組みを保ちながらも、王と臣下、そして市民の関係を「契約」と「合意」によって調整しようとした点にあります。

強すぎる王権に対して貴族や市民が団結し、法による制約を設けた結果、立憲主義の萌芽が生まれたのです。

この動きはやがて、「王の下の臣民」から「国家を構成する国民」への意識の変化を促しました。

背景には、ノルマン征服による統治体制の整備と、13世紀以降の課税・戦争政策をめぐる王権と貴族の対立がありました。

封建制のもとで王が諸侯を従えた時代から、議会が王の行動を法的に監視する時代へと変わる過程は、ヨーロッパ史全体の中でも特異な進化を遂げています。

この変化は近世以降の宗教改革や名誉革命に連なり、「法の支配」「議会主権」「国民主権」という現代政治の柱を生み出しました。

中世イギリスの政治発展を理解することは、単なる史実の暗記ではなく、近代国家の原型を読み解く鍵となるのです。

本記事では、ノルマン征服による中央集権の始まりから、マグナ=カルタ・議会成立・百年戦争による国民意識の形成までをたどり、イギリスがどのようにして「封建社会を超えて国民国家へ」歩み出したのかを解説していきます。

目次

序章:強い王権から議会政治へ ― イギリス中世の千年の歩み

中世イギリス史では、ノルマン征服から名誉革命まで、多くの事件・王朝・制度が登場します。

初めて学ぶ人にとっては、法や議会の名前が次々に出てきて混乱しがちです。

しかし、見失ってはいけないのは、一貫した一本道があるということです。

それは――

「強すぎた王権が法を整備し、その法が王を縛る結果になった」

という、イギリス史特有の逆説の歩みです。

この一本の筋を意識すれば、どんな事件も「王と法と議会の関係」という軸で整理できます。

以下のチャートで、その道筋を時代ごとに俯瞰してみましょう。

第Ⅰ期 中央集権の確立期(11〜12世紀) ― ノルマン朝(1066〜1154)
――― 強すぎる王権と単層的封建制の誕生 ―――

1066 ウィリアム1世(征服王)/ノルマン征服
 ・ヘースティングズの戦いでハロルド2世を破る。
 ・ノルマン朝(1066〜1154)を創始。
 ・全国を王の直轄地とし、土地台帳『ドゥームズデー=ブック』を編纂。
 ・地方ごとの封建主が王に直接臣従する「単層的封建制」を確立。
 → 【転換点】イギリスは早くも中央集権的封建国家として出発。

第Ⅱ期 法と行政による統治の時代(12世紀後半) ― プランタジネット朝(1154〜1399)
――― 王が法の支配を整える“統治の制度化” ―――

1154 ヘンリ2世(プランタジネット朝)即位
 ・アンジュー帝国を支配し、王権を再建。
 ・陪審制度と巡回裁判を導入、コモン・ローを整備。
 ・トマス=ベケット事件で教会裁判権を制限。
 → 【転換点】「法に基づく王権」=“法の支配”の萌芽が誕生。

第Ⅲ期 王権制限と議会の萌芽(13世紀) ― プランタジネット朝(続)
――― 貴族と市民が王を縛る法を要求 ―――

1215 ジョン王/マグナ=カルタ(大憲章)
 ・重税と失政に反発した貴族が王に署名を迫る。
 ・「国王も法の下にある」原理を確認。
 ・課税には“諸侯の同意”が必要と明記。

1265 シモン=ド=モンフォールの議会召集(ヘンリ3世期)
 ・聖職者・貴族・都市代表を招集(史上初の“代表制”)。
 ・王権に対する共同の統制機構が誕生。

1295 エドワード1世/模範議会の成立
 ・貴族・聖職者・都市代表による全国会議を開催。
 → 【転換点】“課税と代表”の原則が制度化され、議会の原型が完成。

第Ⅳ期 封建制の崩壊と議会国家の成長(14〜15世紀) ― プランタジネット朝末期〜ランカスター朝・ヨーク朝(1399〜1485)
――― 百年戦争を経て国民国家の芽生え ―――

1339〜1453 百年戦争(対フランス)
 ・戦費調達のため、王は頻繁に議会を召集。
 ・課税と政策決定が議会承認制に移行。
 ・長期戦争を通じて「イングランド人」意識が形成。

1455〜1485 バラ戦争(内乱)/ランカスター家 vs ヨーク家
 ・封建貴族の没落により、王権が再集中。
 ・封建的分権が終焉し、中央集権国家へ。
 → 【転換点】議会は王権の支え手として定着。

第Ⅴ期 議会を持つ絶対王政の時代(16世紀) ― チューダー朝(1485〜1603)
――― 宗教改革とともに主権国家へ ―――

1509〜1547 ヘンリ8世/宗教改革(首長法)
 ・ローマ教皇から離脱し、国教会(イングランド国教会)を創設。
 ・「王が教会の頂点に立つ」体制を確立。
 ・宗教と政治が統合された主権国家の形成。

1558〜1603 エリザベス1世/海洋国家の確立
 ・スペイン無敵艦隊を撃破し、国威を高める。
 ・議会を形式的に尊重し、協調的統治を維持。
 → 【転換点】絶対王政でありながら、議会を否定しない“イギリス型統治”。

第Ⅵ期 王権と議会の対立・調和(17世紀) ― スチュアート朝(1603〜1688)
――― 封建の終焉から立憲君主制の成立へ ―――

1642〜1649 ピューリタン革命(清教徒革命)/チャールズ1世の処刑
 ・チャールズ1世の専制に議会が反発。
 ・クロムウェルの指導で共和政を樹立。

1688〜1689 名誉革命と権利章典の制定/ウィリアム3世・メアリ2世即位
 ・ジェームズ2世を追放し、立憲王政を確立。
 ・「議会主権」「法の支配」「国民の権利」を保障。
 → 【最終転換点】“中世の法と契約の伝統”が結実し、立憲君主制が確立。

第Ⅶ期 立憲王政の定着 ― ハノーヴァー朝(1714〜)以降
――― 中世的秩序の完全な終焉 ―――

1689年の権利章典によって中世は幕を閉じ、
以後のイギリスは「議会主権の国家」として近代へ。
貴族的秩序に代わり、市民階級が政治の主導権を握る時代が始まる。

中世イギリス史の「4つの転換点」

時期出来事転換の内容
11世紀ノルマン征服封建国家の中央集権化
12世紀ヘンリ2世の法整備法の支配の成立
13世紀マグナ=カルタ王を縛る法の確立
14〜15世紀百年戦争・バラ戦争封建社会の崩壊と議会国家の形成

第1問 ノルマン征服の意義を、中世イギリス国家の形成過程と関連づけて説明せよ。

狙い:
中世イギリスの出発点として、ウィリアム1世が導入した「中央集権的封建制」の特徴を理解しているかを問う。
単なる征服ではなく、“制度としての統一”を意識することが重要。

解答例:
1066年のノルマン征服により、ウィリアム1世は全国の土地を王の直轄地とし、諸侯を直接支配下に置く中央集権的封建制を確立した。土地台帳『ドゥームズデー=ブック』を編纂し、課税・軍役の把握を徹底したことで、イングランドは早くから封建的分権を抑えた統一国家として出発した。この構造は後の王権強化と行政制度発展の基盤となった。

第2問 ヘンリ2世の統治改革を「法の支配」の成立という観点から論ぜよ。

狙い:
封建的慣習法が王法へと統合されていく過程を通じて、イギリスにおける「法による支配」の萌芽を理解できるかを問う。

解答例:
ヘンリ2世は陪審制度や巡回裁判を導入し、全国に共通する慣習法=コモン・ローを整備した。これにより、地方の領主裁判に代わって王の裁判権が全国に及び、「法に基づく王権」が確立した。さらに教会裁判権を制限して聖俗の二元体制を整理し、封建的特権の上に立つ国家的法秩序を形成した点に意義がある。

第3問 マグナ=カルタの歴史的意義を、封建制から法治国家への転換という観点から説明せよ。

狙い:
王を制限する憲章としての性格を、単なる貴族の要求にとどめず、「法の支配」への発展として位置づけられるかを問う。

解答例:
ジョン王の専制に反発した貴族は1215年、マグナ=カルタを認めさせ、「国王も法の下にある」原理を明文化した。これは当初は貴族の特権確認に過ぎなかったが、後に議会制度や近代立憲主義の基礎理念へと発展した。封建的忠誠関係の上に、契約と法による政治秩序を築いた点に歴史的意義がある。

第4問 百年戦争とバラ戦争を通じて、イギリス社会がどのように封建制を脱却していったかを説明せよ。

狙い:
封建制の「精神的崩壊」(国民意識の形成)と「社会的崩壊」(貴族の没落)の二段階を整理できるかを問う。

解答例:
百年戦争では、戦費調達のため王が議会を召集し、課税承認権を通じて議会の地位が高まった。同時に対仏戦争を通じて国民意識が芽生え、封建的主従関係が相対化された。続くバラ戦争で貴族勢力が没落すると、王権と議会が協働する中央集権国家が形成され、封建社会は実質的に終焉した。

第1章:ノルマン征服 ― 強い王権の誕生と中央集権のはじまり

中世イギリスの物語は、1066年のノルマン征服(ヘースティングズの戦い)から始まります。

それ以前のイングランドは、アングロ=サクソン王国が支配していましたが、王権は地方的で、統一的な支配体制には欠けていました。

ここに、ノルマンディー公ウィリアム(のちのウィリアム1世)が上陸し、中央集権的な統治を築いたことが、イギリス史の分岐点となります。

この征服は単なる外国勢力による侵略ではなく、「封建制の再編」と「法的支配の確立」という、中世政治の根本構造を変える転機でした。

1.ヘースティングズの戦いとノルマン朝の成立

1066年、アングロ=サクソン王エドワードが後継者を定めずに没すると、王位継承をめぐって内乱が起こります。

これに乗じてノルマンディー公ウィリアムが「王位継承の正統性」を主張し、軍を率いてイングランドへ上陸しました。

同年のヘースティングズの戦いでウィリアムはハロルド2世を破り、ノルマン朝(1066〜1154)を開きます。

これが、イギリス史上初の「外来王朝」であり、同時に「封建的支配を中央から統制する国家」の出発点でもありました。

2.土地支配と封臣制度 ― 王の直轄的封建制

ウィリアム1世は征服後、全イングランドの土地を「王の所有」と宣言しました。

そのうえで、戦功のあったノルマン貴族に土地を与え、封臣関係を築きましたが、彼らは王と直接の主従関係を結ぶ点で、フランスのような重層的な封建制とは異なっていました。

つまり、イギリスでは王を頂点とする単層的な封建制(中央集権的封建制)が成立したのです。

これを支えたのが、1086年に完成した土地台帳――ドゥームズデー=ブック(Domesday Book)です。

全国の土地と人口、収穫高を詳細に記録し、租税と軍役の基盤としました。

この制度的整備によって、ウィリアム1世の王権はヨーロッパでも類を見ない強さを発揮しました。

正誤問題
ウィリアム1世(征服王)は、封建領主を階層的に組織し、フランスのような多層的封建制を築いた。
→ ✕ 誤り
🟦【解説】イギリスでは王に直接臣従する「単層的封建制」を採用。王権が極めて強力だった。

3.ノルマン朝の統治構造 ― 教会・貴族・法の均衡

ノルマン朝の支配は、単なる軍事的支配ではなく、宗教と法の制度的支配を特徴としていました。

ウィリアムはローマ教皇の承認を得て王位についたため、教会との関係は密接でしたが、教会を王権の統治下に置く方針をとり、「王が教会を支配する」原型を作りました。

さらに、王直轄の行政官(シャイア=リーヴ、のちのシェリフ)を全国に配置し、地方統治を監視しました。

これにより、イングランドは中世ヨーロッパの中でも最も早く「法と行政による統治」が行われた国家となったのです。

4.ノルマン征服の意義 ― イギリス史における二重構造

ノルマン征服は、イギリスをフランス文化圏に結びつける一方で、“二重支配構造”という新たな課題を生み出しました。

ウィリアム1世はイングランド王であると同時に、フランス王に臣従するノルマンディー公でもあったため、王権はしばしばフランス王国との緊張関係を抱えました。

この構造はのちの百年戦争(1339〜1453)の遠因となり、イギリス王権の性格を長く規定していきます。

しかし、この矛盾を抱えながらも、ノルマン征服によってイングランドは封建的分裂を克服した初の中央集権国家となり、のちの「法の支配」や「議会政治」の土台を築きました。

中世イギリス史において、この出来事はまさに“原点”と言えるのです。

⚠️ウィリアム1世をめぐる頻出正誤問題5選

問1
ウィリアム1世は、ヘースティングズの戦いでフランク王国軍を破り、イングランド王に即位した。
→ ✕ 誤り
🟦【解説】相手はフランク王国軍ではなく、アングロ=サクソン王ハロルド2世軍
フランク王国はすでに存在していない。

問2
ウィリアム1世は、アングロ=サクソン人の支配を尊重し、従来の地方貴族をそのまま封建領主として任命した。
→ ✕ 誤り
🟦【解説】ウィリアム1世は征服後、アングロ=サクソン人貴族を徹底的に排除し、
その代わりにノルマン人家臣を全国に配置した。
これにより、イングランドは完全にノルマン支配体制へ転換した。

問3
ウィリアム1世は、ローマ教皇の許可を得てイングランドを征服し、カトリックの支配を排除した。
→ ✕ 誤り
🟦【解説】ローマ教皇の支援を受けて征服したが、教皇権を排除したわけではない
征服後も教会制度を維持しつつ、王が司教任命権などを握って統制した。

問4
ウィリアム1世は、全国の土地と人口を調査した『ドゥームズデー=ブック』を編纂した。
→ 〇 正しい
🟦【解説】1086年に土地台帳を作成し、課税・軍役を正確に把握。
中央集権的統治の象徴であり、「単層的封建制」と並ぶ彼の最大の業績。

問5
ウィリアム1世の死後、イングランドでは王位継承をめぐる内乱が起こり、ノルマン朝は即座に滅亡した。
→ ✕ 誤り
🟦【解説】ウィリアム1世の死後もノルマン朝は継続し、ウィリアム2世・ヘンリ1世が続いた。
内乱で王朝が崩壊するのは12世紀中葉(スティーヴン王期)。

5.まとめ ― ノルマン征服が残した政治文化

ノルマン征服によって、イギリスはヨーロッパの中で最も早く「行政国家」への道を歩みました。

しかしその強すぎる王権は、やがて貴族や市民の反発を呼び、「王を縛る法」「王を制限する議会」という新たな原理を育てることになります。

この逆説――強い王権が、法と議会を生む母体になる――こそ、中世イギリス史の最大の特徴であり、後世の立憲主義へとつながる道筋でした。

次章では、プランタジネット朝のもとでどのように「法の支配」が整えられ、封建的支配から「契約と裁判による秩序」へと変わっていくのかを見ていきます。

イギリス政治の中枢を形づくる「ヘンリ2世の改革」と「コモン・ロー」の誕生が、次の主題となります。

第2章:プランタジネット朝 ― 法の支配と封建社会の再構築

ノルマン朝の中央集権体制を受け継いだのが、12世紀に成立したプランタジネット朝(アンジュー朝)です。

この王朝は、封建社会の秩序を保ちながらも、“法と行政による統治”を国家運営の中心に据えた点で画期的でした。

中でもヘンリ2世(在位1154〜1189)は、法制度・裁判制度・財政機構の整備を進め、イギリスに「法の支配」という理念を根づかせました。

この章では、封建制の枠組みを活かしつつ、王権を“制度化”していったイギリス独自の進化をたどります。

1.ヘンリ2世の登場 ― 強力な王権の再建

プランタジネット家はフランス西部アンジュー地方の出身で、ノルマン朝が断絶した後にイングランド王位を継承しました。

初代のヘンリ2世は、父アンジュー伯ジョフロワと母マティルダ(ヘンリ1世の娘)の血を引く王であり、広大な領土(アンジュー帝国)を支配しました。

彼は内乱で疲弊した王権を立て直すため、地方行政官を派遣して王の裁判権・租税権を全国に拡大します。

封建貴族が地方で行っていた独自の裁判や課税を制限し、「法と命令が全国で統一される王国」を築きました。

ここでイギリスは、単なる封建国家から、“法による統治国家”へと進化を遂げたのです。

⚠️ヘンリ2世をめぐる頻出正誤問題5選

問1
ヘンリ2世は、王権を教会に従属させることで国内統一を図った。
→ ✕ 誤り
🟦【解説】逆に、教会裁判権を制限して王の法(王権)を強化した。
この政策がカンタベリ大司教トマス=ベケットとの対立を生んだ。

問2
ヘンリ2世は、王の裁判権を地方領主に委譲し、封建的分権体制を確立した。
→ ✕ 誤り
🟦【解説】むしろ地方の領主裁判を王の巡回裁判に統一。
地方司法を中央が掌握し、「法の支配」の基礎を築いた。

問3
ヘンリ2世は、フランスとの戦争に敗れてイングランド王位を失った。
→ ✕ 誤り
🟦【解説】王位を失っていない。
確かにフランス王と対立したが、イングランド領を保持したまま死去。
領土紛争は後のジョン王・百年戦争期に続く。

問4
ヘンリ2世の法整備により、全国共通の慣習法であるコモン・ローが確立された。
→ 〇 正しい
🟦【解説】陪審制度と巡回裁判を導入し、地方慣習を王の裁判体系に統合。
このコモン・ロー(Common Law)が、後の「法の支配」理念の礎となった。

問5
ヘンリ2世は、ローマ教皇の命によりカンタベリ大司教を暗殺した。
→ ✕ 誤り
🟦【解説】暗殺は教皇の命ではない。
トマス=ベケットは、王の政策に反対したため、王の側近兵が独断で殺害した事件。
王はのちに公的に悔悛している。

2.陪審制度とコモン・ローの確立

ヘンリ2世の最大の功績は、陪審制度の導入コモン・ローの整備です。

陪審制度は、地元住民による宣誓と証言をもとに真実を明らかにする仕組みで、王の裁判官が巡回して訴訟を扱いました。

これにより、王の裁判所が全国を統一的に監督し、地域差のない「共通の法(common law)」が成立します。

コモン・ローは、判例を基礎とする実践的な法体系であり、神学やローマ法に依存せず、「慣習」と「合理性」を重視する点で独自の発展を遂げました。

この法体系が、のちに英米法の原型となり、「法の支配」という理念の源流となります。

正誤問題
ヘンリ2世は巡回裁判を廃止し、封建領主の裁判権を強化した。
→ ✕ 誤り
🟦【解説】逆に王の巡回裁判を導入し、地方支配を中央が掌握した。

ヘンリ2世の時代、陪審制度が始まり、コモン・ロー(慣習法)が整備された。
→ 〇 正しい
🟦【解説】全国共通の慣習法を体系化し、「法の支配」の基礎を築いた。

3.トマス=ベケット事件 ― 王権と教会の対立

しかし、ヘンリ2世の改革はすべてが円滑に進んだわけではありません。

彼が教会裁判権の制限を図ったことにより、カンタベリ大司教トマス=ベケットと激しく対立しました。

1170年、王の怒りを受けた騎士たちがベケットを暗殺してしまい、世論は王を非難します。

最終的にヘンリ2世は教皇に謝罪し、一定の譲歩を余儀なくされました。

この事件は、「教会と国家の境界」をめぐるイギリス史上の重要な転換点であり、「王が法によっても制約を受ける存在」であるという原理を国民に意識させる契機となりました。

正誤問題
トマス=ベケット事件は、国王が教会の裁判権を守ろうとしたために起こった。
→ ✕ 誤り
🟦【解説】国王ヘンリ2世が教会裁判権を制限しようとしたことに対し、ベケットが抵抗した。

4.王権の限界とマグナ=カルタへの道

ヘンリ2世の改革で一時的に強化された王権は、その息子ジョン王の時代に揺らぎます。

ジョンは重税と失政によって諸侯の反乱を招き、1215年、ついにロンドン近郊ラニーミードでマグナ=カルタ(大憲章)を承認します。

そこには「国王も法の下にある(the King is under the law)」という理念が明文化されていました。

マグナ=カルタは当初、貴族の権利を守る文書にすぎませんでしたが、やがて「人民の自由」「議会の承認なしの課税禁止」など、普遍的な政治原理へと発展します。

このとき芽生えた“法の支配の原理”こそ、後のイギリス政治の心臓部となりました。

マグナ=カルタは、最初から市民階層の権利を保障した。
→ ✕ 誤り
🟦【解説】当初は貴族の特権確認に過ぎず、後に市民的権利へ発展した。

⚠️マグナ=カルタをめぐる頻出正誤問題5選

問1
マグナ=カルタは、エドワード1世が制定した封建諸侯の権利章典である。
→ ✕ 誤り
🟦【解説】制定したのはジョン王(在位1199〜1216)
エドワード1世(在位1272〜1307)は「模範議会」の開催者。王の時代を取り違える誤答が頻発。

問2
マグナ=カルタは、国王の専制を支持し、王権を強化する目的で出された。
→ ✕ 誤り
🟦【解説】むしろ王権を制限するための憲章。
重税と専制に反発した貴族がジョン王に署名を迫り、国王を「法の下」に置いた。

問3
マグナ=カルタによって、イギリスで二院制議会が成立した。
→ ✕ 誤り
🟦【解説】二院制は14世紀に確立。1215年時点は議会制度そのものが未整備。

問4
マグナ=カルタには、「課税は議会の同意を得て行う」と明記された。
→ ✕ 誤り
🟦【解説】当時はまだ議会が存在しない(議会制度成立前)
「課税は諸侯の同意を得て行う」と定められており、後の議会制へ発展する。

問5
マグナ=カルタは、短期間で国王の拒否により無効とされたため、後世への影響はほとんどなかった。
→ ✕ 誤り
🟦【解説】一時無効化されたが、のちに再確認を繰り返し、イギリス憲法やアメリカ独立宣言などの原理的基礎となった。
「法の支配」・「権利の保障」の源流として極めて重要。

5.法と王の関係が生んだ「契約国家」の原型

プランタジネット朝の時代、イギリスでは王権と封建勢力の対立を通じて、「王と臣民は契約で結ばれる」という思想が生まれました。

これは封建的主従関係を超えた、政治的・法的な合意による国家運営の始まりです。

この契約思想は、のちの「社会契約論」や「議会主権」につながり、イギリスを“革命ではなく法の積み重ねで近代化した国”へ導きました。

中世の枠内でありながら、イギリスはすでに近代国家の原理を内包していたのです。

第3章:議会の誕生 ― 王を支え、王を縛る制度の成立

マグナ=カルタによって「王も法の下にある」という原理が示された後、イギリスでは、法と政治の関係が次の段階へ進みます。

それが、議会の成立でした。

当初は封建貴族と聖職者の会議にすぎなかった議会が、次第に都市代表や商人をも巻き込み、国家の意思を決める代表制機関へと成長していきます。

その過程こそが、封建社会から国民国家へと移行していくイギリス史の核心です。

1.ヘンリ3世の専制と貴族の反乱

13世紀前半、ジョン王の死後に即位したヘンリ3世は、十字軍遠征や宮廷建設のために重税を課し、再び貴族や都市の不満を買いました。

王の独断的な政治に対して貴族たちは反乱を起こし、その中心となったのがシモン=ド=モンフォールです。

1264年に彼が起こした反乱ののち、翌年開かれた議会――モンフォール議会(1265年)では、史上初めて聖職者・貴族・都市代表が同時に召集されました。

これは単なる諮問会議ではなく、「課税と政策を王に承認する」権限を持つ代表制議会として機能し、
後の模範議会(1295年)の原型となりました。

つまり、王権と封建貴族の対立が、結果的に“共同統治”という新しい政治原理――王と国民が協議によって統治する国家――を生み出したのです。

正誤問題
シモン=ド=モンフォールは、都市代表を含む議会を初めて召集した。
→ 〇 正しい
🟦【解説】1265年、聖職者・貴族・市民代表を招集し、代表制の萌芽を作った。

⚠️モンフォール議会をめぐる正誤問題5選

問1
モンフォール議会は、エドワード1世が全国から代表を招集して開いた。
→ ✕ 誤り
🟦【解説】開いたのはシモン=ド=モンフォール
国王エドワード1世によるものは1295年の模範議会
人物と年代の混同は非常に頻出。

問2
モンフォール議会では、王権を強化するために都市代表が排除された。
→ ✕ 誤り
🟦【解説】逆に、都市代表を初めて招集したのが特徴。
王権の強化ではなく、王に対抗するための「反乱軍主導の代表制」だった。

問3
モンフォール議会は、上院と下院から成る二院制を正式に確立した。
→ ✕ 誤り
🟦【解説】二院制はまだ成立していない。
14世紀以降、貴族・聖職者が上院、市民が下院として分化する。

問4
モンフォール議会は、ジョン王の専制に対して貴族が起こした反乱の結果として開かれた。
→ ✕ 誤り
🟦【解説】ジョン王ではなく、その子ヘンリ3世の時代の出来事。
マグナ=カルタ(1215)とは約50年の時代差がある。

問5
モンフォール議会は、イギリスで初めて課税と立法を議会が単独で決定した例である。
→ ✕ 誤り
🟦【解説】当時は王権との「協議」による課税承認が目的。
議会が単独で決定権を持つようになるのは、後の模範議会・名誉革命以降。

2.エドワード1世と「模範議会」の成立

シモン=ド=モンフォールの流れを制度化したのが、エドワード1世(在位1272〜1307)です。

彼は1295年、貴族・聖職者・各都市代表を正式に召集し、国家的な課税と政策協議を行いました。

これが一般に模範議会と呼ばれ、イギリス議会制度の起点となります。

この議会では、「王に税を納めるなら、われわれの代表が意見を述べる権利がある」という原理が確認されました。

この思想は後に「代表なくして課税なし(No taxation without representation)」という近代的理念へ発展し、イギリスだけでなくアメリカ独立の思想的基盤にもなります。

【参考】モンフォール議会と模範議会の違い

比較項目モンフォール議会模範議会
開催年1265年1295年
主催者シモン=ド=モンフォール(ヘンリ3世に反乱)エドワード1世
背景ジョン王の専制→マグナ=カルタ→貴族反乱の流れ国王が課税承認を得るため代表を招集
性格反乱軍による臨時的・試験的な代表制議会王権公認の恒常的な全国議会
参加構成聖職者・貴族・都市代表(市民)聖職者・貴族・都市代表(市民)
重要性初の「代表制」議会(実験段階)「課税と代表」の原則を制度化=議会制度の確立
歴史的位置代表制議会の始まり近代議会制度の原型

正誤問題
エドワード1世の「模範議会」では、貴族・聖職者・都市代表が招かれた。
→ 〇 正しい
🟦【解説】これが近代議会制度の原型となった。

⚠️模範議会をめぐる誤答頻出問題5選

問1
エドワード1世の「模範議会」では、貴族・聖職者・農民代表が招かれた。
→ ✕ 誤り
🟦【解説】正しくは「貴族・聖職者・都市代表」。
農民(自由農民・農奴)は政治的代表権を持たず、議会には参加していない。

問2
「模範議会」は、国王の権威を高めるために開かれた王権強化の会議であった。
→ ✕ 誤り
🟦【解説】目的は王権強化ではなく、課税の同意を得るための代表招集
結果的に王の課税権が制限され、議会が政治参加の道を開いた。

問3
模範議会は、ジョン王の時代にマグナ=カルタとともに制定された。
→ ✕ 誤り
🟦【解説】ジョン王(在位1199〜1216)ではなく、エドワード1世(在位1272〜1307)の時代。
両者を混同する問題は頻出。約80年の開きがある。

問4
模範議会は、上院・下院の二院制を正式に確立した会議である。
→ ✕ 誤り
🟦【解説】模範議会ではまだ二院制は未成立
14世紀初頭、貴族・聖職者が「上院」、都市代表が「下院」として分離したのが後の発展段階。

問5
模範議会は、フランスの三部会を模倣して成立したものである。
→ ✕ 誤り
🟦【解説】フランスの三部会(1302年)はむしろ模範議会より
イギリスの方が先行しており、ヨーロッパ最初の代表制議会の原型となった。

3.二院制の確立と議会の定着

14世紀初頭になると、議会は構成員の違いにより、上層貴族・高位聖職者が集まる貴族院と都市代表・地方騎士が集まる庶民院の二院に分かれました。

庶民院は当初、単に課税承認の場にすぎませんでしたが、国王の政策を審議し、王の失政を批判する機能を徐々に強めていきます。

こうして、議会は王を支えると同時に、王を制限する政治機関としての性格を持つようになりました。

4.百年戦争と「国家意識」の芽生え

14世紀に入ると、フランスとの長期戦争――百年戦争(1339〜1453)が始まります。

この戦争は、課税と軍事動員を通じて王と議会の関係をさらに密接にしました。

戦費の承認を得るため、王は議会を頻繁に召集し、政策を協議せざるを得ませんでした。

その結果、議会の存在は恒常化し、戦争を通じて「イングランド人」という国民意識が育っていきます。

つまり、外敵との戦いが、王権と議会、そして国民を結びつける契機となったのです。

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5.議会政治の確立と封建制の終焉

百年戦争の終結とともに、中世イギリスの政治体制は大きな転換点を迎えます。

封建貴族の没落と都市経済の発展により、国家の主導権は次第に王と議会に集中しました。

議会はもはや封建的特権のためではなく、国家運営のために機能する制度へと変わります。

ここに、イギリスは「封建国家」から「近代的国民国家」へと一歩を踏み出しました。

王権と議会が互いに制約しながら協調するという政治文化は、のちの立憲君主制の原型となります。

まとめ ― 強い王権が生んだ「議会」という抑制装置

イギリスにおける議会の誕生は、単なる民主化の結果ではありません。

むしろ、強大な王権に対する現実的な防衛手段として発展したものです。

そしてその制度が成熟するにつれ、王を支える機関から、王を制限する制度へと変化しました。

この「王を支えながら王を縛る」構造こそ、イギリス史における最大の特徴であり、のちの立憲政治・国民国家の礎となる思想的枠組みでした。

第4章:バラ戦争とチューダー朝 ― 封建制の崩壊と「議会を持つ絶対王政」

百年戦争が終わると、イギリスは深刻な内乱に突入しました。

それがバラ戦争(1455〜1485)です。

この内戦はランカスター家とヨーク家という王族同士の争いでしたが、実際には封建貴族が自立的な軍事力を保持していたことに起因します。

戦争の果てに多くの貴族が没落し、封建社会の基盤は崩壊しました。

そしてこの混乱の中から登場したチューダー朝が、イギリスを再統一し、強力な中央集権国家を築きます。

しかしその王権は、フランスのような専制的な絶対王政とは異なり、議会を統治の一部として活かす“イギリス型絶対王政”として発展しました。

百年戦争をめぐる頻出正誤問題5選

問1
百年戦争は、イギリス王エドワード3世がフランス王の王位継承権を認めず、領土防衛のために開戦した。
→ ✕ 誤り
🟦【解説】逆である。
エドワード3世がフランス王位を主張して開戦した。
母がカペー朝の血統であったことから、自らが王位継承者と主張したのが発端。

問2
百年戦争では、序盤から終盤までイギリスが優勢を保ち、最終的にフランスを従属させた。
→ ✕ 誤り
🟦【解説】序盤はイギリス優勢(クレシー・ポワティエなど)だったが、
後半はジャンヌ=ダルクの活躍以降、フランスが反攻し勝利した。
戦争の帰結は「イギリスの敗北・フランスの勝利」。

問3
百年戦争の主戦場はイギリス本土であり、ロンドン周辺の都市が多く破壊された。
→ ✕ 誤り
🟦【解説】主戦場はフランス国内
イギリスは遠征軍として戦い、イングランド本土はほぼ戦禍を受けなかった。

問4
百年戦争の結果、イギリスでは議会が衰退し、王権が強化された。
→ ✕ 誤り
🟦【解説】逆である。
戦費調達のために王が議会を頻繁に召集したことで、議会が発言力を高めた
議会の「課税承認権」が確立し、後の立憲政治の基盤となる。

問5
百年戦争は単なる領土争いであり、国民的意識やナショナリズムの形成には影響を与えなかった。
→ ✕ 誤り
🟦【解説】むしろ逆に、長期戦争の中で「イングランド人」「フランス人」という国家的アイデンティティ(国民意識)が形成された。
戦争は封建的主従関係を超え、国民国家の誕生を促した。

バラ戦争をめぐる頻出正誤問題5選

問1
バラ戦争は、フランスとイギリスの王位継承をめぐって勃発した戦争である。
→ ✕ 誤り
🟦【解説】それは「百年戦争」。
バラ戦争はイギリス国内で起きた王位継承をめぐる内乱であり、フランスは関与しない。

問2
バラ戦争の原因は、議会と王権の対立による宗教的分裂にあった。
→ ✕ 誤り
🟦【解説】宗教ではなく、王位継承権をめぐる貴族間の対立が原因。
ランカスター家とヨーク家という同じ王家の分派が争った。

問3
バラ戦争は、イギリスにおける最初の共和政の成立をもたらした。
→ ✕ 誤り
🟦【解説】共和政が成立したのは17世紀のピューリタン革命
バラ戦争後は王政が継続し、新王朝(チューダー朝)が成立した。

問4
バラ戦争の結果、貴族勢力が没落し、中央集権的な王権が確立した。
→ 〇 正しい
🟦【解説】長期の内乱で多くの封建貴族が滅び、
ヘンリ7世(ランカスター家系)が勝利してチューダー朝(1485〜1603)を開いた。
封建制は事実上崩壊し、王権中心の統一国家が誕生した。

問5
バラ戦争後、勝利したヨーク家がイングランド国教会を創設し、王権を強化した。
→ ✕ 誤り
🟦【解説】イングランド国教会を創設したのはヘンリ8世(チューダー朝)
ヨーク家は内戦で滅びた側であり、勝利したのはランカスター家の流れをくむヘンリ7世

1.バラ戦争 ― 封建社会の終焉

百年戦争後、国庫は疲弊し、王権の権威も揺らぎました。

諸侯は私兵を抱えて勢力を拡大し、国王の統制が届かなくなります。

このような状況の中、王位継承をめぐって勃発したのがランカスター家(赤バラ)とヨーク家(白バラ)の対立です。

30年以上にわたる内戦の結果、封建諸侯はほとんど滅亡し、貴族階級は大打撃を受けました。

この没落が、国王の直接支配と官僚制の発達を促し、イギリスを中世から近世へと導く転換点となります。

百年戦争とバラ戦争のうち、封建制度からの脱却により大きな役割を果たしたのはどちらなの?

「封建制度からの脱却」そのものにおける意義は、バラ戦争の方が大きい。ただし、「国家意識(ナショナル・アイデンティティ)」の形成という点では百年戦争が重要。ちなみに、フランスの場合は「百年戦争」こそが、封建制度からの脱却と国家意識の形成の両方を担った決定的契機でした。

コラム:バラ戦争と名誉革命 ― 封建制の終焉はどっち?

イギリス史では、封建制度の終焉を象徴する出来事としてしばしば「バラ戦争」と「名誉革命」の二つが並び称されます。

どちらも古い秩序を壊した転換点ですが、その意味はまったく同じではありません。

一方は封建社会の構造を崩壊させた内乱であり、もう一方は封建的王権観を超えて近代的主権国家を確立した革命でした。

では、イギリスが真に“封建制を終えた”のはどちらだったのでしょうか。

🏰 バラ戦争(1455〜1485)― 封建社会の構造的崩壊

性格:社会経済的・軍事的な「封建制の終焉」

  • 戦ったのはランカスター家とヨーク家という封建貴族勢力同士の内乱
  • 長期の内戦で多くの貴族が没落し、王が封建的家臣団に依存せずに統治できるようになりました。
  • 結果として、王権は封建領主から独立し、中央集権的な国家が確立。
  • つまり、「封建制の制度的崩壊」=社会構造としての脱却がバラ戦争の意義です。

🟩 バラ戦争=封建的貴族秩序の終焉 → 王権中心の近世国家へ

👑 名誉革命(1688〜1689)― 封建的政治文化の思想的終焉

性格:政治思想・法制度の「封建原理の克服」

  • 対立したのは王(ジェームズ2世)と議会=国民代表。
  • ここで問われたのは「誰が主権を持つか」という近代的政治理念の確立でした。
  • 権利章典によって「王も法に従う」「課税は議会の同意を要す」と明文化され、
    封建的な“王の特権”が最終的に否定されます。
  • これは、社会構造の変化ではなく、政治原理の転換(主権の所在の移行)

🟦 名誉革命=封建的君主原理の終焉 → 立憲君主制と法治主義の確立

2.チューダー朝の成立 ― 統一と秩序の回復

1485年、ヘンリ7世がボズワースの戦いでヨーク家のリチャード3世を破り、ランカスター系の血統からチューダー朝(1485〜1603)を開きました。

ヘンリ7世は、戦乱で弱体化した貴族に代わって中産階級(ジェントリ)を登用し、王権を支える新しい行政機構を整えました。

彼は貴族の私兵を禁止し、租税制度を整備して王の財政基盤を強化

封建的支配を排し、官僚的統治による安定した王政を築いたのです。

イギリスにおける「絶対王政」は、このヘンリ7世の改革から始まりました。

3.ヘンリ8世と宗教改革 ― 「王が教会の頂点に立つ」

ヘンリ7世の子、ヘンリ8世(在位1509〜1547)は、宗教問題を通じて国家統合をさらに進めました。

教皇に離婚を拒否されたことをきっかけに、1534年、彼は首長法(国王至上法)を発布し、「国王をイングランド国教会の首長」と定めます。

これにより、イギリスはローマ教会から独立し、教皇権の束縛を断ち切った最初のヨーロッパ国家となりました。

宗教改革は単なる宗教運動ではなく、王権の主権化=主権国家への第一歩でした。

ここに、イギリスは中世的秩序を完全に超え、“神の下の王”から“法の下の主権者”へと進化します。

4.エリザベス1世 ― 「議会を活かす絶対王政」

チューダー朝の絶頂期を築いたのが、エリザベス1世(在位1558〜1603)です。

彼女は宗教対立を調停し、イングランド国教会(プロテスタント)を国家の中心に据えました。

また、商業・海運を奨励して国家財政を充実させ、スペイン無敵艦隊を撃破して海洋国家イギリスの基盤を築きます。

しかし、エリザベス1世の統治の最大の特徴は、絶対王政でありながら議会を否定しなかったことにあります。

彼女は重要政策を議会に諮問し、課税や宗教政策で形式的な合意を得ることで、政治的正統性を確保しました。

この「協調型絶対王政」こそが、後の立憲君主制へと連続的につながる、イギリス独自の政治文化です。

問16
エリザベス1世は議会を軽視して絶対王政を行った。
→ ✕ 誤り
🟦【解説】絶対王政の枠内で議会と協調し、安定した政治を維持した。

エリザベス1世をめぐる頻出の正誤問題5選

問1
エリザベス1世は、スペイン国王フェリペ2世と結婚してイングランド・スペインの同君連合を形成した。
→ ✕ 誤り
🟦【解説】フェリペ2世と結婚したのはエリザベスの異母姉メアリ1世
エリザベス1世は生涯独身を貫き、「ヴァージン・クイーン(処女王)」と呼ばれた。

問2
エリザベス1世は、ローマ教皇に再び服従してカトリック信仰を国教とした。
→ ✕ 誤り
🟦【解説】エリザベスは首長法を復活し、ローマ教会から離脱。
イングランド国教会(プロテスタント)を再確立した。
ただし過激なプロテスタントを抑え、穏健な信仰統一を保った。

問3
エリザベス1世は、アイルランドを独立王国として承認し、自治を認めた。
→ ✕ 誤り
🟦【解説】アイルランドはむしろ徹底的に支配下に置かれた
プロテスタント化を強制し、のちに民族対立の火種となる。

問4
エリザベス1世は、商業と海洋進出を奨励し、ドレークなどの私掠船を用いてスペインと対抗した。
→ 〇 正しい
🟦【解説】海賊行為を事実上黙認し、スペイン無敵艦隊を撃破(1588年)。
この勝利でイギリスは海洋国家として台頭し、海外進出の基盤を築いた。

問5
エリザベス1世は、清教徒を弾圧してフランスへ亡命させたため、国内の宗教対立は解消された。
→ ✕ 誤り
🟦【解説】清教徒(ピューリタン)を完全に排除したわけではない。
穏健な国教体制を保ちつつ、国内には依然として宗教対立が残った。
のちにこの不満がピューリタン革命(17世紀)へつながる。

5.封建の終焉と近代の胎動

チューダー朝の統治下で、封建的な身分秩序は急速に崩壊し、ジェントリ層や商人層が新たな社会の担い手として台頭します。

王権・議会・市民社会という三つの力が、互いに拮抗しながら国家を形づくる構造が生まれました。

そのため、イギリスでは絶対王政が議会を完全には排除できず、王の専制が限界を超えたとき、やがて「議会主権」を掲げたピューリタン革命へと発展していきます。

まとめ ― 「封建の終わり」と「近代のはじまり」の重なり

バラ戦争で貴族の力が衰え、チューダー朝で中央集権が完成する過程は、単なる政治変化ではなく、社会構造そのものの転換でした。

王が教会を支配し、国家を統一する一方で、議会は制度として残り、「王と国民がともに法を共有する国家」へと発展します。

この時期のイギリスは、“議会を持つ絶対王政”という独特の形で封建社会を乗り越え、のちのピューリタン革命・名誉革命による立憲主義国家の成立へと道を開いたのです。

第5章:スチュアート朝と名誉革命 ― 「法の支配」から「立憲主義」へ

チューダー朝の終焉とともに、16世紀末のイギリスは宗教的・政治的に新たな試練を迎えます。

1603年、エリザベス1世の死後、スコットランド王ジェームズ6世がジェームズ1世として即位し、スチュアート朝が始まりました。

この時代、王は「王権神授説」に基づいて絶対的な権威を主張しましたが、すでにイギリスでは「法と議会による政治」が社会に根づいていました。

こうして、王権と議会の衝突が不可避となり、ついに中世以来の政治的枠組みが試されることになります。

1.王権神授説と議会の反発

スチュアート朝初代のジェームズ1世は、「国王の権威は神から授けられた」と主張し、議会の干渉を拒む姿勢をとりました。

しかし、課税や宗教政策の実行には議会の承認が不可欠であり、王の独断的政治は次第に批判を浴びます。

このころ議会を支えたのは、地方地主層(ジェントリ)と新興商人層で、彼らは中世的貴族とは異なり、法と財産の保護を重視する現実的な層でした。

こうして「議会=国民の代表」という意識が高まり、王の神聖性を超える“市民の政治的自覚”が形成されていきます。

2.チャールズ1世とピューリタン革命 ― 王を裁く議会

ジェームズ1世の子、チャールズ1世の専制政治は、ついに内戦を引き起こします。

彼は議会を無視して課税や宗教統制を強行し、反発した議会がピューリタン革命(清教徒革命)を起こしました(1642〜1649)。

革命の指導者クロムウェル率いる議会軍が勝利し、チャールズ1世は処刑されます。

この出来事は世界史上初の「国王を法によって裁いた事件」であり、中世以来の“王は法の上に立つ”という考えを完全に否定しました。

イギリスは一時的に共和政(イングランド共和国)となり、封建的秩序は事実上、歴史の幕を閉じます。

3.王政復古と再び訪れる緊張

クロムウェル死後、共和政は短命に終わり、1660年にチャールズ2世が即位して王政が復活します。

しかし、王政復古後も宗教・議会・王権の対立は解決されませんでした。

とくにカトリックの影響力拡大が懸念され、再び「議会による監視」が強まりました。

この緊張のなか、次のジェームズ2世が公然とカトリック政策を進めたことで、国民と議会の不安は頂点に達します。

4.名誉革命 ― 流血なき立憲革命

1688年、議会はオランダ総督ウィレム(ウィリアム3世)と王妃メアリ2世を迎え入れ、ジェームズ2世を国外追放しました。

この出来事が、近代史上有名な名誉革命です。

翌年発布された権利章典(Bill of Rights, 1689)では、①王は議会の同意なしに法を停止・制定できない、②課税・軍隊常備には議会の承認が必要、③国民には請願・言論・信仰の自由が保障されることが明文化されました。

この革命によって、イギリスでは立憲君主制が確立し、「議会主権」「法の支配」「国民主権」という三原則が制度として定着します。

5.「法の支配」から「立憲主義」へ

ここに至って、イギリスは中世的封建秩序を完全に脱し、国民の合意によって統治される国家=近代的国民国家へと到達しました。

中世以来の「王を縛る法」「王と国民を結ぶ契約」という伝統が、名誉革命によって制度として完成したのです。

この過程は、他国のように流血革命を経てではなく、「法と議会による漸進的な改革」で達成された点に大きな意義があります。

イギリス史はまさに、“中世の法が近代の自由を生んだ”という稀有な歴史の証です。

まとめ ― 中世イギリス史の帰結

転換点内容歴史的意義
ノルマン征服王を頂点とする中央集権的封建制の確立強い王権の出発点
マグナ=カルタ「王も法の下にある」原理の確立法の支配の萌芽
模範議会代表制の成立封建社会から契約国家へ
バラ戦争封建貴族の没落絶対王政への道
チューダー朝「議会を持つ絶対王政」封建制の克服
名誉革命権利章典と立憲主義の確立国民国家の完成

イギリスはこのように、封建社会の内部から法と議会を育て、王を超える統治原理としての「法の支配」を築き上げました。

中世の遺産を近代の原理に変えたその歩みは、ヨーロッパ史における最も独自で持続的な革命だったのです。

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