ルター派とは、16世紀にマルティン・ルターを中心にドイツで広がったキリスト教の改革派です。
最大の特徴は、救いは「信仰によってのみ達成される」とする「信仰義認」の考え方で、これはカトリック教会が主張していた「行い」による救済や教会の権威を根本から否定するものでした。
ルター派の意義は、単なる宗教上の分派にとどまらず、個人の宗教的自律を認めた点や、聖書中心主義によって教会の特権を解体しようとした姿勢にあります。
その結果、人々は教会や聖職者に依存しない信仰を持つことが可能になり、その後のヨーロッパにおける思想的・政治的な自立にも影響を与えました。
ルター派の成立背景としては、腐敗が進んだカトリック教会への批判や、印刷技術を通じた思想伝播、ドイツ諸侯の政治的事情などが挙げられます。
特に、ルターが提唱した思想は多くのドイツ諸侯によって支持され、宗教改革はやがて神聖ローマ帝国内部の政治戦争や社会変動の引き金ともなりました。
ルター派の影響は信仰面だけにとどまらず、ドイツの都市や農民、諸侯、そして国際関係の中で大規模な諍いや体制再編を生み出し、最終的には「アウクスブルクの和議」や「ウェストファリア条約」といったヨーロッパの秩序再構築につながっていきます。
本記事では、ルター派の教義とその歴史的背景、ドイツ社会への影響をわかりやすく整理し、入試対策として押さえておくべきポイントも解説します。
序章:ルター派とカルヴァン派を比較する全体像チャート
宗教改革期におけるルター派とカルヴァン派は、教義・社会的展開・政治的影響といった複数の軸で共通点と相違点を持っていました。
しかし、両派の特徴を正確に理解するためには、それぞれを単にカトリック批判の立場として捉えるのではなく、教義から社会・国家・思想への広がりを比較軸で整理することが重要です。
この序章では、ルター派とカルヴァン派を複数の観点から比較した全体像チャートを提示し、両派の違いを一目で把握できるようにします。
詳細な解説は第1章以降で展開していきますが、まずは本チャートによって、記事全体の理解の土台を作っていきましょう。
【ルター派の全体像チャート】
【教義の中心】
└ 信仰義認(行いではなく「信仰」によって救済される)
└ 聖書中心主義(聖書のみが信仰の拠り所)
└ 万人司祭主義(信徒全員が神と直接つながる)
↓(教会権威の相対化)
【成立の背景】
└ 教会批判(贖宥状販売・聖職者の腐敗)
└ 活版印刷技術による思想の普及
└ ドイツ諸侯の政治的利害(教皇権・皇帝権からの自立)
↓(宗教改革が拡大)
【支持基盤の広がり】
└ 都市市民(教会特権への不満)
└ ドイツ諸侯(政治的自立の道具として)
└ 一部の農民(解放思想に共鳴→しかしルターはこれに反対)
↓(支援者間の矛盾)
【歴史的展開】
└ 95か条の論題(1517年)
└ 農民戦争(1524-25年)→ 信徒と諸侯の亀裂
└ シュマルカルデン戦争(ルター派諸侯 vs 皇帝)
└ アウクスブルクの和議(1555年)=「領主の宗教、領民の宗教」
↓(ドイツ宗教問題の半解決)
【宗教と国家の構造変化】
└ 教会の普遍的権威から国家単位の宗教へ
└ ルター派は「ドイツ地域のキリスト教」として確立
└ 宗教対立は続き、三十年戦争→ウェストファリア条約へ
この記事の目標は、次のような論述問題を理解できるようになることです。最終章にも論述問題と正誤問題があります。
問1
ルター派の特徴である「信仰義認」と「聖書中心主義」が16世紀ドイツ社会にどのような影響を与えたか説明せよ。
解答例
ルター派の核心教義である「信仰義認」は、贖宥状販売に象徴されるカトリック教会の権威と儀式中心の救済観を否定し、神への信仰のみが救いの条件とされた。この教義は教会制度の相対化をもたらすとともに、信徒の信仰を「個人化」する思想的基盤となった。また、「聖書中心主義」は信徒が自ら聖書を読み、神と直接の関係を築くことを促し、ルターのドイツ語訳聖書を通じて識字の普及や教育制度整備へと波及した。これらの動きは都市市民や諸侯の支持を得る一方で、農民戦争や宗教戦争の背景ともなり、16世紀のドイツ社会に宗教と政治の両面で深刻な変動を引き起こした。
第1章:ルター派の教義 ― 信仰義認と聖書中心主義の核心
ルター派を理解するうえで欠かせないのが、その独自の教義体系です。
ルターは、教会の制度や権威に依存して人々を救おうとしていたカトリック教会に対し、「救いとは人間の行いではなく、ただ神への信仰によって与えられるものである」と主張しました。
この主張は、教会のあり方や信徒の位置づけを根底から揺さぶり、ヨーロッパ社会に宗教観と人間観の大きな転換をもたらしました。
この章では、ルター派の根幹となる三つの教義――「信仰義認」「聖書中心主義」「万人司祭主義」について詳しく見ていきます。
それぞれがどのようにカトリック教会の教えと異なり、どのように社会へ影響を与えたのかを整理することで、ルター派がなぜ歴史的に重要視されるのかが理解しやすくなるはずです。
1.「信仰義認」― 救いは神の恩寵と信仰のみで与えられる
ルター派の中心教義である「信仰義認(しんこうぎにん)」は、「人間は神への真摯な信仰によってのみ義(正しい者)とされ、救われる」という考えです。
これは、それまでカトリック教会が強調していた「善行」や「教会儀式」が救いの条件であるという教えに対する根本的な批判を含んでいます。
この教義が打ち出された背景には、1517年の「贖宥状(免罪符)」販売に見られるような、教会が救済を事実上“商品化”していたことに対するルターの強い反発がありました。
「信仰と神の恩寵こそが救いの源泉である」というルターの主張は、教会の権威と経済的基盤を揺るがし、多くの信徒の心を動かしました。
2.「聖書中心主義」― 教義の権威は教会ではなく聖書にある
ルターはまた、「救いの根拠は聖書にこそある」とする「聖書中心主義」を提唱しました。これは、教皇や聖職者の解釈が絶対的であるとするカトリックの立場とは真っ向から対立するものでした。
この教義は、信徒が聖書を自分で読み、神との関係を直接築くことを肯定した点で、信仰の「個人化」を促進しました。その結果、信徒は教会という仲介機関から自由になり、教会の権威は衰退していくことになります。
同時に、この考え方は「聖書を誰もが読めるようにしなければならない」という動きを生み、ルター自身も聖書のドイツ語訳を行いました。
これは宗教改革の普及に決定的な役割を果たし、識字率の向上にもつながる大きな文化的影響を持ちます。
3.「万人司祭主義」― すべての信徒が神と直接つながる
ルター派は「万人司祭主義」という考えも重視しました。これは、「信徒であれば誰もが神に直接祈り、信仰を行うことができる」という思想です。
それ以前のカトリック教会では、神と人間のあいだには聖職者が立ちはだかるという構造があり、信徒は教会制度に依存していました。
万人司祭主義は、この聖職階級制を相対化し、信仰における「平等性」を実現しようとする考え方でもありました。
この考えは、後にプロテスタント諸派における教会制度の変化や信徒の主体性の高まりにつながり、さらに近代の民主主義的価値観にも影響を与えたとされます。
この章では、ルター派を特徴づける三つの教義を解説してきました。次章では、これらの教義がどのようにドイツ社会の中で受け止められ、宗教改革運動に影響を与えていったかを見ていきます。
第2章:ルター派とドイツ社会 ― 支持基盤と宗教改革の広がり
ルター派の教義は、単なる宗教思想の革新にとどまらず、ドイツ社会の各階層に深い影響を与えました。
ルター派の主張が都市、市民階級、農民、そして諸侯にどのように受け止められたのかを見ていくと、宗教改革がドイツという政治的に分裂した地域でどのように展開し、最終的に「宗教改革」という社会運動になっていったのかが浮かび上がります。
この章では、ルター派の受容と対立の両面を踏まえながら、ドイツ社会との関係を整理していきます。
宗教が政治や経済、社会意識とどのように結びついていったのかを理解することで、後の神聖ローマ帝国の政治構造の変化や三十年戦争などへのつながりも見えてきます。
1.都市市民の支持 ― 教会批判と自立性への希求
ルター派の思想は、まず都市の市民層に広く受け入れられました。
当時、都市商人や手工業者などは、教会に多額の税や献金を課され、また経済活動にも宗教的規制がかかっていました。
ルターの主張する「信仰における自由」や「教会の権威の否定」は、こうした市民の現状に共感を呼び起こし、教会の制度に縛られない社会的自立の精神を後押ししたのです。
またルターが聖書をドイツ語に翻訳したことで、市民は自ら聖書を読み、信仰と社会参加を結びつけることが可能になりました。
これは教育・識字率の向上にも寄与し、文化的な側面でも都市社会に大きな影響を与えました。
2.諸侯の政治的支持 ― 宗教改革と地域自立の結びつき
ルター派を支えた強力な基盤として、ドイツ諸侯の政治的利害関係が挙げられます。
当時の神聖ローマ帝国内では、皇帝と諸侯とのあいだで権力関係が緊張しており、特に皇帝カール5世とそれに従属する教会権力への対抗は重要な課題でした。
ルター派の宗教思想を支持することで、諸侯たちは教会財産の没収や宗教権威からの自立が可能となり、結果的に自らの領地支配を強化する手段となりました。
宗教改革はこうして、宗教と政治の解放運動が一致する現象となり、その後のドイツの地域分裂を固定化する一因ともなったのです。
3.農民戦争とルター派の限界 ― 社会層の対立点
1524年から1525年にかけて発生した農民戦争では、一部の農民たちがルターの教義を社会解放の根拠とし、「キリスト教的自由」の名の下に封建制の廃止を求めて反乱を起こしました。
しかし、ルター自身は当時の体制を急激に変えることを望まず、反乱を鎮圧する側に回ったため、彼と農民との間で決定的な断絶が生まれました。
この事件は、ルター派が必ずしも「社会革命」を意図していなかったことを示しており、教義が「信仰の自由」を称えながらも、社会的階層に対して一様に適用されるものではなかったことを浮き彫りにしています。
宗教改革が全ての人々にとっての「解放」ではなかったという複雑さも、宗教史を学ぶ際の重要な視点になります。
次章では、ルター派とカトリック勢力、あるいは他の新教勢力との政治的・軍事的対立について整理し、「宗教戦争」という歴史的な事象をどのように生み出したのかを解説していきます。
第3章:ルター派と宗教戦争 ― カトリック勢力・皇帝との対立とその帰結
ルター派が教義と社会的支持を獲得していくなかで、その存在は神聖ローマ帝国における従来の宗教秩序を大きく揺るがしました。
教皇と皇帝による普遍的な権威を基盤とした支配は、ルター派の急速な広がりによって挑戦され、やがてドイツ全土を巻き込む政治・軍事的対立へと発展していきます。
特に1540年代以降、ルター派が中心となる諸侯連合「シュマルカルデン同盟」とカトリック側との対立は決定的な局面を迎え、宗教と政治が複雑に絡み合う「宗教戦争」と呼ばれる争いへと発展しました。
本章では、この対立の構造、主な戦闘とその帰結としてのアウクスブルクの和議までの流れを整理し、「宗教改革が戦争につながった理由」を丁寧に見ていきます。
1.カトリック側の対応 ― 教皇と皇帝の危機感と防御策
ルター派の広まりに対し、教皇レオ10世や皇帝カール5世は当初から危機感を持っていました。
カトリック教会にとっては教義の否定であり、神聖ローマ帝国にとっては皇帝権の弱体化につながる危険な動きだったからです。
1521年のヴォルムス帝国議会において、ルターは異端として追放されましたが、すでに諸侯の庇護を受けたルター派の広がりを止めることはできませんでした。
結果として、教皇権・皇帝権 vs 新教諸侯という構図が定着し、宗教問題は政治問題として紛争の火種となっていきました。
2.シュマルカルデン戦争 ― 新教諸侯連合と皇帝軍の対決
1546年から1547年にかけてのシュマルカルデン戦争は、この宗教対立が武力衝突へと発展した最初の大きな戦争でした。
ルター派諸侯は「シュマルカルデン同盟」を結成し、皇帝カール5世に対抗しますが、最終的には皇帝側が勝利を収め、同盟は一時的に解体されました。
しかし、この勝利も決定的なものでなく、宗教対立の根本的な解決には至りませんでした。
実際には、皇帝側も国内統治の安定を維持する必要から、宗教問題に対して妥協的な対応を迫られることになります。
3.アウクスブルクの和議 ― 「領主の宗教、領民の宗教」の原則とその限界
1555年に結ばれたアウクスブルクの和議は、ルター派とカトリックのあいだで暫定的な妥協を成立させたもので、「領主の宗教、領民の宗教」という原則が定められました。
これは、領主が自らの領地の宗教を選択でき、その選択に領民が従うという形式でありますが、信仰の自由が個人レベルでは認められていないという重大な限界がありました。
また、急速に勢力を広めていたカルヴァン派はこのとき公認されず、宗教問題は「半解決」にとどまりました。
この和議が示したことは、宗教が国家や領地レベルで選択されるという政治化・地域化の流れであり、これが後の「主権国家体制」の萌芽ともなる一方で、宗教をめぐる対立はむしろ長期化・複雑化していきました。
この章では、ルター派とカトリック側との対立と、その政治的・軍事的帰結を整理しました。次に続く第4章では、「アウクスブルクの和議後の展開と、ルター派が近代国家形成にどのような影響を与えたか」というテーマで進めていく予定です。
第4章:アウクスブルクの和議後の展開とルター派の歴史的意義
1555年のアウクスブルクの和議によって、ルター派とカトリックの対立は一時的に政治的な停戦状態となりました。
しかし、この和議が宗教的な平和をもたらしたわけではなく、新たな対立の火種を残しながらヨーロッパ史は次の局面へと進んでいきます。
ルター派の存在は、その後の国家体制や宗教政策にも深く影響を与えました。
特に「宗教の選択が国家単位に委ねられる」という発想は、宗教的多様性を基盤にしない近代国家の形成につながる一方で、宗教的緊張や分断をもたらし続けることにもなりました。
この章では、アウクスブルクの和議以後の動きを整理しながら、ルター派がヨーロッパの政治構造と思想に与えた影響を考えます。さらに、「信仰の自由」や「主権国家」の成立といった近代への扉を開いた存在としてのルター派の意義についても触れていきます。
1.宗教対立の継続と三十年戦争への道
アウクスブルクの和議では、ルター派とカトリック間の対立は一定の妥協が成立したものの、カルヴァン派は認められず、宗教的な不満は残されました。
特に、16世紀後半から17世紀初頭にかけて、カルヴァン派の広がりは顕著であり、これを恐れたカトリックやルター派諸侯との緊張が高まりました。
この状況が最終的に三十年戦争(1618–1648年)へとつながります。この戦争は「宗教戦争」として始まりましたが、やがて複数の国際勢力が関与する「国際戦争」の様相を呈し、ドイツを中心に甚大な被害をもたらしました。
三十年戦争の終結をもたらしたウェストファリア条約(1648年)では、カルヴァン派が正式に容認され、同時に「主権国家体制」の原則が確立します。この流れを見ても分かるように、ルター派の宗教改革はその後のヨーロッパ国際秩序の形成に深く関わっていたのです。
2.主権国家体制への影響 ― 宗教と政治の分離
アウクスブルクの和議では、「領主の宗教、領民の宗教」という原則が定められました。
この原則は、宗教と政治を同一の枠組みで扱いながらも、宗教選択を「国家(領地)単位」に委ねた点で、従来の普遍的宗教支配を否定するものでした。
結果として、宗教権威からの独立した国家の統治という理念が徐々に定着し、近代的な主権国家体制への道筋が作られました。
この過程は、宗教戦争の悲惨な結果と裏腹に、「宗教と国家の不可分な関係」から「国家が統治の主体となる時代」への転換を意味していたのです。
3.ルター派の思想的レガシーと近代への架け橋
ルター派は、宗教改革の一派としてだけでなく、ヨーロッパ思想史における大きな転換点を象徴します。特に以下の点において、のちの近代思想へ重要な影響を与えました:
- 信仰の個人化 → 啓蒙思想・市民社会の源流に
- 聖書中心主義と教育の普及 → プロテスタント地域での識字率向上と教育制度の整備
- 宗教権威の相対化 → 教会 vs 国家権力の再編、政教分離の思想基盤
これらの点から見ても、ルター派は単に宗派の一つではなく、近代ヨーロッパの精神的・制度的土台を作った存在と言えます。
第5章:ルターはどこに行った?宗教改革の“その後”を理解する
世界史の学習で宗教改革を勉強していると、こんな疑問を持ったことはありませんか?
「宗教改革の前半ではルターの名前はよく出てくるのに、ユグノー戦争や三十年戦争を習い始めたら、ルターの名前が全然出てこない…?」
そう、宗教改革の前半の主役だったルターは、なぜ後半になると“影が薄くなる”のでしょうか?
このモヤモヤは、宗教改革の全体像をつかむ重要な入口です。
この章では、ルターの宗教改革がどこで終わり、なぜ名前が出てこなくなるのか をわかりやすく整理します。
① ルターは「宗教改革の起点」にすぎない
1517年の「95か条の論題」発表からはじまる宗教改革は、ルターが教会批判と教義改革を提示した段階で一度“思想として完成” します。
- 「信仰義認説」
- 「聖書中心主義」
- 「万人祭司説」
宗教改革という火種はここで生まれましたが、ルター自身の影響力は主にドイツと北欧に限定されました。
② 宗教改革は「教義の改革」から「国家を巻き込む対立」へ
宗教改革は“信仰のあり方”から始まりつつ、やがてヨーロッパ全体に広がり、宗教問題を超えて、政治・経済・外交が入り混じる時代の大問題になっていきます。
つまり、宗教改革の後半はもはや、
✖️「ルターが教会に反抗した話」
◎「国家間の宗教対立と国制改革の時代」
に突入しているのです。
③ ルター派 vs カルヴァン派 ― 歴史の“主役交代”が起きた
| 派閥 | 主な地域 | 特徴 |
|---|---|---|
| ルター派 | ドイツ・北欧中心 | 教義確立 → 領邦国家と結びつき“地域化” |
| カルヴァン派 | フランス・ネーデルラント・スイス・スコットランド・イングランドなど | 「予定説」×「信徒自治」で広域的に拡大 |
カルヴァン派が国家形成・宗教戦争と結びつきながら広がったのに対し、ルター派はドイツと北欧に定着し、「ドイツ領邦の国教」に吸収されていきました。
そのため、以下の流れで「ルターの名前」は前面に出にくくなるのです:
ルターの宗教改革(思想の確立)
↓
カルヴァン派の国際的拡大と宗教戦争
↓
国家体制の再編(イギリス・フランス・オランダなど)
④ さらに決定的だった「アウクスブルクの宗教和議」
1555年の宗教和議は、
「領主の宗教がその領邦の宗教となる(領邦教会制)」
という原則を採用。
これにより、ルター派は“領邦に組み込まれた教会”となり、その外へ広がる余地を失いました。
その後の三十年戦争や国際政治で主役になるのは、カルヴァン派 or カトリック or 国家権力です。
ルター派の舞台は事実上「ドイツ国内」に限定されていきます。
まとめ:ルターが「消えた」のではなく、役割を終えた
- ルターは宗教改革の“火をつけた”存在
- だが宗教改革の本番は「国家×宗教×国際関係」の対立へ拡大
- カルヴァン派が広く展開し、歴史叙述の中心に移る
- ルター派はドイツ・北欧の領邦に定着し“地域宗派”となる
学習ポイント:
「ルター派=限定的」「カルヴァン派=広域的」
入試で狙われるポイントと頻出問題演習
入試では知識の暗記だけでなく、宗教改革の背景や教義の違いがどのように社会・政治の変化と結びついたのかを、論理的に説明できる力が求められます。
ここでは、本記事で扱ったルター派に関する内容を整理し、「宗教改革と社会変動」「教義と政治の関係」などの重要論点に基づき、論述・正誤問題を通じて理解を定着させます。
特に狙われやすい「ポイントの要約」も掲載しています。
◆入試で狙われるポイント(10項目)
- 「信仰義認」と「贖宥状批判」によるルター派教義の独自性
- 「聖書中心主義」と近代的識字・教育制度の起点
- 諸侯支持の背景:皇帝権・教皇権からの自立と領地支配の強化
- 「農民戦争」へのルターの立場・限界と宗教的平等観
- 宗教と政治が結びつく「宗教戦争」の構造
- アウクスブルクの和議:「領主の宗教、領民の宗教」の原則
- 和議の限界:個人の信仰選択不在・カルヴァン派の除外
- ルター派と主権国家体制の萌芽(ウェストファリア条約への流れ)
- カトリックの対抗宗教改革との比較(トリエント公会議など)
- ルター派とカルヴァン派の違い(教義・地理・社会基盤)
✅ 論述問題①
問題
ルター派が掲げた「信仰義認」と「聖書中心主義」の意義を説明し、それが当時のカトリック教会制度にどのような影響を与えたか述べよ。
解答例
ルター派は「信仰義認」、すなわち救いは神への信仰によってのみ得られると主張し、カトリック教会が強調していた「善行」や「儀式」による救済観を否定した。この考えは、教会の権威と救済独占という従来の構造を根本から揺るがすものであった。また「聖書中心主義」により、宗教的真理の源泉を聖書のみに求め、教皇や公会議の教義解釈を相対化した。ルターによるドイツ語訳聖書の普及は、信徒が直接聖書を読むことで信仰の個人化を促し、教会制度への依存を弱めた。この動きは、教会の経済的・精神的支配力を低下させ、宗教改革を引き起こす契機となった。
✅ 論述問題②
問題
ルター派が16世紀のドイツ諸侯と結びついていった背景と、その歴史的意義を述べよ。
解答例
ルター派がドイツ諸侯に支持された背景には、宗教改革が教皇権や皇帝権からの政治的自立を正当化する手段となった点が挙げられる。ルター派を採用した諸侯は、教会財産の没収や領内教会の統制を行い、教皇・皇帝に代わって宗教政策を掌握し得た。これは領邦国家形成に寄与し、「領主の宗教、領民の宗教」を定めたアウクスブルクの和議へと結びついた。このようにルター派は宗教改革運動であると同時に、ドイツにおける政治的分権化と国家構造の再編をもたらす契機となり、宗教と国家権力の結合という歴史的特徴を持った。
✅ 論述問題③
問題
農民戦争(1524–25年)に対するルターの態度とその背景、及び社会的影響について述べよ。
解答例
農民戦争は、一部農民が「キリスト教的自由」という宗教改革の理念を社会解放と結びつけ、封建制打破を求めて蜂起したものである。しかしルターは、農民側の要求を過激として批判し、領主側に立って農民反乱の鎮圧を容認した。ルターは信仰の自由を重視しつつも、社会秩序の維持を重視し、急進的な変革に反対する姿勢を示した。この態度は農民層の失望を招いた一方で、ルター派が諸侯や都市の政治的支持を得る契機ともなり、宗教改革が社会革命ではなく国家権力と結びついた制度変革として進む方向を決定づけた。農民戦争への対応は、ルター派の社会的限界と政治的現実主義を象徴する事件であった。
間違えやすいポイント・誤答パターン集
- 「信仰義認」=善行不要と誤解する
→ 行いを否定したのではなく、救いの根拠としての「信仰の優先」を示した。 - 「万人司祭主義」=聖職者不要と断定する
→ 教職制度は維持されるが、信仰面での中間者的役割が否定された点が重要。 - アウクスブルクの和議=宗教問題が完全に解決したと誤解
→ カルヴァン派が除外されており、「半解決」にとどまることがポイント。 - ルター派=農民に全面支持と考える
→ 農民戦争ではルターは体制側に立ち、農民側を批判した。 - 「領主の宗教、領民の宗教」=個人の信仰選択の自由と混同
→ あくまで領主選択であり、個人の宗教自由は認められていない。
頻出正誤問題(10問)
問1
ルターの「信仰義認説」は、カトリック教会が強調していた「行いによる救済」を否定したものである。
解答:〇 正しい
🟦【解説】信仰を救済の唯一の根拠とした点で、当時の教会制度を批判した。
問2
アウクスブルクの和議では、ルター派とカルヴァン派の信仰が公認された。
解答:✕ 誤り
🟥【解説】カルヴァン派はこのとき公認されず、17世紀のウェストファリア条約まで待つことになる。
問3
「万人司祭主義」は、信徒全員が教会を通さずに神と直接向き合うことができるという考え方である。
解答:〇 正しい
問4
シュマルカルデン戦争はルター派都市と農民が皇帝軍に対抗した戦いである。
解答:✕ 誤り
🟥【解説】ルター派諸侯連合 vs 皇帝カール5世の戦い。農民は関与していない。
問5
ウェストファリア条約によって初めてカルヴァン派が容認された。
解答:〇 正しい
問6
ドイツ語訳聖書の普及は市民に新たな信仰選択を保障し、識字率向上にも寄与した。
解答:〇 正しい
問7
ルターは農民戦争の際、農民側に立って封建制廃止を支持した。
解答:✕ 誤り
🟥【解説】ルターは反乱を批判し、体制側に協力した。
問8
ルター派が広まった地域の多くは帝国都市や商業都市である。
解答:〇 正しい
問9
ルター派とカトリックの対立は1555年のアウクスブルクの和議で完全に終結した。
解答:✕ 誤り
問10
ルター派の思想は後に近代的国家観や市民社会の精神を育む基盤ともなった。
解答:〇 正しい
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