― 中東問題を生んだ「三つの約束」
第一次世界大戦期の中東史を語るとき、しばしば登場するのが「イギリスの二枚舌外交」という言葉です。近年では、アラブ人・フランス・ユダヤ人という三者に異なる約束を与えた実態から、「三枚舌外交」と表現されることもあります。いずれの言葉も、イギリスが同時期に複数の、しかも相互に両立しない将来像を提示していた点を指摘するための比喩です。
この外交姿勢は、とくにパレスチナ問題をはじめとする中東問題の「出発点」として語られることが多く、日本の世界史教育でも「列強による裏切り外交」の象徴として扱われてきました。確かに、三つの約束が重なったことで、戦後の中東には深刻な矛盾と対立が持ち込まれたのは事実です。
しかし同時に、イギリスの二枚舌外交を単純に「悪意ある裏切り」として断罪する見方に対して、欧米では慎重な議論も積み重ねられてきました。戦時外交としては例外的ではなかった、約束は法的に限定的だった、中東問題の原因を一国に帰すのは単純化だ――こうした反論もまた、一定の説得力を持っています。
本記事では、まず前半で、イギリスの二枚舌外交(あるいは三枚舌外交)がどのような三つの約束から成り、それがなぜパレスチナ問題の起点とみなされるのかを整理します。そのうえで後半では、イギリス側の論拠や擁護論を紹介し、両者を踏まえた構造的理解へと進んでいきます。
第1章 二枚舌外交(三枚舌外交)とは何を指すのか
「二枚舌外交」とは、同一の国家が、同じ時期に、異なる相手に対して矛盾する約束を与える外交姿勢を指す表現です。これは当時の公式用語ではなく、後世の歴史理解のために用いられる評価語です。
第一次世界大戦期の中東において、イギリスは、
- アラブ人
- フランス
- ユダヤ人
という三者に対して、それぞれ異なる将来像を提示しました。この点から、近年では「実態としては三枚舌外交だった」と説明されることもあります。
重要なのは、「二枚」「三枚」という数の問題ではなく、約束同士が同時に成立しえなかったことにあります。
三つの約束の全体像(ここが出発点)
イギリスの二枚舌外交は、次の三つの約束によって構成されていました。
- アラブ人への独立の約束
→ オスマン帝国に対する反乱の見返り - フランスとの中東分割協定
→ 戦後処理をめぐる同盟国間の利害調整 - ユダヤ人への国家的支持の表明
→ パレスチナにおける民族的郷土の建設支持
これらは、それぞれ個別に見れば、戦時外交として一定の合理性を持っていました。しかし問題は、同じ中東地域、とくにパレスチナを対象にしていた点にあります。
なぜ「三つ」が同時に成立しなかったのか
三つの約束は、想定している未来像が根本的に異なっていました。
- アラブ人にとっての未来:
→ アラブ人主体の独立国家 - 英仏にとっての未来:
→ 列強による分割・管理 - ユダヤ人にとっての未来:
→ パレスチナを中心とする民族的郷土
これらは、一つの地域に同時に実現できる構想ではありません。イギリスは戦時中、この矛盾を「後で調整できる問題」として先送りしました。しかし戦争が終わり、実際に国境線や統治制度を決める段階で、その矛盾は一気に噴き出すことになります。
なぜ中東、とくにパレスチナで深刻化したのか
ヨーロッパでも秘密外交や矛盾した約束は存在しました。それにもかかわらず、中東で問題が深刻化した理由は、
- 国民国家の枠組みが未成熟だった
- 宗教・民族・部族が複雑に重なっていた
- 国境線を外部が引く余地が大きかった
といった条件が重なっていたためです。
こうして二枚舌外交(実態としての三つの約束)は、単なる外交上の行き違いではなく、中東問題の「起点」として歴史に刻まれることになりました。
第2章 バルフォア宣言 ― パレスチナ問題の核心となった約束
三つの約束の中で、現在に至るまで最も直接的に影響を及ぼしているのが、バルフォア宣言です。
この宣言は、イギリスの二枚舌外交(実態としての三枚舌外交)が、理念の表明から現実の民族対立へと転化していく決定的な転換点となりました。
バルフォア宣言とは何だったのか
バルフォア宣言とは、1917年、第一次世界大戦の最中に、イギリス外相バルフォアがユダヤ人指導者宛に送った書簡です。
その内容は、パレスチナにおける「ユダヤ人の民族的郷土(national home)」の建設を支持するというものでした。
ここでまず押さえておくべきポイントは二つあります。
- 「国家(state)」という言葉は使われていない
- 既存住民の「市民的・宗教的権利を害してはならない」と付記されている
つまりバルフォア宣言は、表面的には両立を意識した慎重な文言で書かれていました。しかし、この慎重さこそが、後に深刻な解釈対立を生む原因となります。
なぜパレスチナが問題の中心になったのか
バルフォア宣言の舞台となったパレスチナは、当時、
- ユダヤ人が多数派ではなかった
- すでにアラブ人が長く居住していた
- 明確な国民国家としての枠組みが存在しなかった
地域でした。
そのため、同じ土地に対して
- ユダヤ人には「民族的郷土」
- アラブ人には「独立国家」
という異なる将来像が重ねられることになります。ここに、後のパレスチナ問題の原型が現れます。
なぜイギリスはユダヤ人に約束したのか
バルフォア宣言は、単なる人道的配慮や理想主義から生まれたものではありません。背景には、第一次世界大戦末期の国際政治があります。
- 戦争の長期化による支持基盤拡大の必要
- 国際世論、とくにアメリカを意識した外交判断
- 戦後の中東統治を正当化するための政治的布石
イギリスにとって、ユダヤ人への支持表明は、戦時外交として「合理的に見えた選択」でした。重要なのは、この時点でイギリスが、すでに他の約束(アラブ独立構想)を抱えていた点です。
アラブ側から見たバルフォア宣言
アラブ側の視点に立つと、バルフォア宣言の意味はまったく異なって見えます。
- すでに独立が約束されていた
- しかもその約束は、戦争協力の見返りだった
- にもかかわらず、同じ土地に別の民族的構想が示された
この宣言は、アラブ人にとって「約束の上書き」あるいは「独立構想の否定」として受け止められました。
ここで重要なのは、対立が単なる領土問題ではなく、「どの約束が正当だったのか」という歴史認識の問題へと変わっていった点です。
委任統治下で現実化する矛盾
戦後、パレスチナは国際連盟の委任統治制度のもとで、イギリスが統治することになります。この過程で、バルフォア宣言は理念ではなく、実際の政策の根拠として用いられました。
- ユダヤ人移民の進展
- アラブ人の政治的自己決定の停滞
- 両民族の対立の激化
イギリスは秩序維持と調停を担う立場でありながら、同時に問題の設計者でもあるという矛盾した立場に立たされます。
なぜバルフォア宣言は「核心」なのか
サイクス=ピコ協定が国境線の問題を生み、アラブ独立構想が期待と挫折の記憶を残したとすれば、バルフォア宣言が生んだのは、民族的正当性をめぐる対立でした。
- 誰にこの土地を約束する権利があったのか
- どの約束が優先されるべきだったのか
これらの問いは、現在に至るまで明確な答えを持たないまま引き継がれています。
その意味で、バルフォア宣言は、イギリスの二枚舌外交の中でも、最も深い亀裂を残した約束だったといえるでしょう。
第3章 サイクス・ピコ協定 ― 秘密外交と「暴露」が生んだ決定的な不信
三つの約束の中で、「列強の本音」が最も露骨に表れていたのが、サイクス・ピコ協定です。
この協定は、二枚舌外交(実態としての三枚舌外交)が、単なる矛盾した約束ではなく、意図的に隠された秘密外交だったことを示しています。そしてこの秘密が、後に「暴露」されたことが、中東世界に決定的な不信を刻み込むことになりました。
サイクス・ピコ協定とは何か
サイクス・ピコ協定は、1916年、第一次世界大戦のさなかに、イギリスとフランスの間で結ばれた秘密協定です。協定名は、交渉を担当したイギリスのサイクスと、フランスのピコに由来します。
この協定の目的は明確でした。
オスマン帝国が敗北した後の中東を、あらかじめ英仏で分割しておくことです。
協定では、おおまかに次のような構想が示されました。
- フランス:シリア・レバノン方面を勢力圏
- イギリス:イラク方面を勢力圏
- パレスチナ:国際管理
ここで重要なのは、この構想が現地のアラブ人には一切知らされていなかったという点です。
アラブ独立構想との決定的な食い違い
この協定が問題視される最大の理由は、すでに見たアラブ人への独立の約束と正面から矛盾していたことにあります。
- 表向き:
→ アラブ人の独立を支持する姿勢 - 裏側:
→ 列強による分割支配の準備
サイクス・ピコ協定は、イギリスが「独立を認めるかもしれない相手の土地を、同盟国と分け合う」という行為を行っていたことを示す、決定的な証拠でした。
なぜ英仏は分割を選んだのか
英仏にとって、この協定は特別に悪意ある計画というより、当時の列強外交の常識に基づくものでした。
- 同盟国同士で戦後利権を事前調整する必要
- 中東の戦略的重要性(交通路・資源)
- オスマン帝国解体を既定路線とみなす発想
ヨーロッパの視点では、「勝った側が秩序を設計する」のは当然の行為でした。しかし問題は、その秩序が中東の社会構造や政治的成熟度と噛み合っていなかった点にあります。
レーニンによる「秘密外交の暴露」
サイクス・ピコ協定が歴史的に特別な意味を持つのは、その秘密が暴露されたことにあります。
1917年のロシア革命後、ボリシェヴィキ政権を率いたレーニンは、帝政ロシア時代に結ばれていた列強間の秘密外交文書を次々と公開しました。その中に、サイクス・ピコ協定も含まれていました。
この暴露は、世界に強い衝撃を与えます。
- 列強は裏で中東を分割していた
- 表向きの「解放」や「独立支援」は建前だった
- アラブ人は利用されていた
と受け止められたのです。
「裏切り」が事実として可視化された瞬間
バルフォア宣言やアラブ独立の約束は、解釈の余地が残る文書でした。しかしサイクス・ピコ協定は、
- 地図
- 線引き
- 勢力圏
という形で、列強の本音を視覚化していました。
しかも、それがレーニンによって公にされたことで、
「列強は信用できない」
という認識が、推測ではなく事実として共有されることになります。この点で、サイクス・ピコ協定は、二枚舌外交の中でも心理的打撃が最も大きかった約束だといえます。
協定はそのまま実現したのか
注意すべき点として、サイクス・ピコ協定は、地図どおり完全に実現したわけではありません。戦後には修正が加えられ、委任統治体制のもとで再構成されました。
しかし、
- 「外部が線を引いた」という発想
- 「秘密裏に将来が決められていた」という記憶
は消えませんでした。
ここで中東に刻まれたのは、単なる国境線ではなく、外部秩序への根源的な不信だったのです。
サイクス・ピコ協定の位置づけ
整理すると、この協定が果たした役割は明確です。
- バルフォア宣言:
→ 民族的正当性をめぐる対立を生んだ - アラブ独立構想:
→ 期待と挫折の記憶を残した - サイクス・ピコ協定:
→ 列強不信を決定的にした
三つの約束の中で、サイクス・ピコ協定は、二枚舌外交が「偶然」ではなく「構造」だったことを示す存在でした。
つまり、サイクス・ピコ協定は、その場しのぎの判断ではなく、矛盾を承知のうえで中東の将来を設計していたことを示している点で、二枚舌外交が偶発的な失敗ではなく、列強外交の「やり方」そのものだったことを明らかにしています。
第4章 フサイン=マクマホン協定 ― 約束された「独立」はなぜ実現しなかったのか
三つの約束の中で、最も早く提示され、アラブ側に最大の期待を抱かせたのが、フサイン=マクマホン協定です。
この協定は、イギリスの二枚舌外交(実態としての三枚舌外交)が、単なる政策矛盾ではなく、「裏切られた」という感情と記憶を中東に残した核心部分でもありました。
フサイン=マクマホン協定とは何か
フサイン=マクマホン協定とは、1915年から1916年にかけて、メッカの有力指導者フサインと、エジプト駐在のイギリス高等弁務官マクマホンとの間で交わされた一連の書簡を指します。
この書簡の中でイギリスは、
アラブ人がオスマン帝国に対して蜂起するならば、戦後、アラブ人の独立を支持する
という趣旨の約束を示しました。
重要なのは、これが正式な条約ではなく、書簡という曖昧な形式で交わされた点です。この曖昧さが、後の深刻な解釈対立を生むことになります。
アラブ側が理解した「独立の約束」
アラブ側にとって、この協定の意味はきわめて明確でした。
- オスマン帝国支配からの解放
- アラブ人主体の統一国家の建設
- 戦争協力に対する正当な見返り
とくに重要なのは、この独立構想が、アラブ反乱の直接的な動機になったという点です。1916年に始まるアラブ反乱は、まさにこの約束を前提として展開されました。
アラブ側は、イギリスを単なる同盟国ではなく、解放のパートナーとして認識していたのです。
イギリス側の認識 ― あいまいさの温存
一方、イギリス側の認識は、アラブ側とは大きく異なっていました。
- 目的はあくまで戦時協力の確保
- 戦後の具体的な国境や統治形態は未定
- フランスとの関係調整も必要
そのためイギリスは、書簡の中で意図的に、
- 地域の範囲を曖昧にする
- 条件付きの表現を用いる
といった対応をとります。
イギリスは後に、
「完全な独立を約束したわけではない」
「一部地域は除外されていた」
と解釈できる余地を、この段階で残していました。
なぜ約束は実現しなかったのか
第一次世界大戦が終結すると、戦時の約束は戦後秩序の中で再評価されます。ここでアラブ独立構想は、次第に後景へと追いやられていきました。
- サイクス・ピコ協定に基づく分割構想
- 委任統治体制の導入
- バルフォア宣言による別の国家構想
これらが重なり、フサイン=マクマホン協定は、
- 「限定的な約束だった」
- 「誤解に基づく期待だった」
として事実上履行されませんでした。
「期待と現実の落差」が残したもの
この協定が中東史に残した影響は、領土や制度以上に、政治的・感情的な記憶にありました。
- 約束されたはずの独立が実現しなかった
- 列強は信用できないという認識
- 自決権を奪われたという被害意識
フサイン=マクマホン協定は、アラブ世界において「失われた可能性」として語り継がれ、後の民族主義運動の精神的基盤となっていきます。
三つの約束の中での位置づけ
整理すると、三つの約束はそれぞれ異なる性格を持っていました。
- バルフォア宣言:
→ 民族的正当性をめぐる対立を生んだ - サイクス・ピコ協定:
→ 列強不信を決定的にした - フサイン=マクマホン協定:
→ 裏切られたという感情を残した
フサイン=マクマホン協定は、二枚舌外交が「感情」として中東社会に根を下ろす契機だったといえます。
第5章 イギリスは本当に「悪玉」だったのか ― 擁護論から見た二枚舌外交
ここまでの章では、イギリスの二枚舌外交(実態としての三枚舌外交)が、パレスチナ問題をはじめとする中東問題の起点となったことを、主に結果の側から見てきました。前半だけを読めば、「やはりイギリスが元凶ではないか」という印象を持つ読者も多いでしょう。
しかし、歴史研究や英米の議論では、こうした見方に対して一定の留保や反論が提示されてきました。この章では視点を切り替え、イギリス側の論拠・擁護論を整理します。これはイギリスを免罪するためではなく、問題の構造をより立体的に理解するために不可欠な作業です。
「二枚舌外交」は後世の評価語にすぎない、という主張
まず押さえておくべきなのは、「二枚舌外交」という言葉そのものが、当時の外交用語ではないという点です。
第一次世界大戦期の列強外交では、
- 秘密協定
- 曖昧な文言による合意
- 条件付きの約束
は珍しいものではありませんでした。サイクス・ピコ協定のような秘密外交も、特別に異常だったわけではなく、当時の国際政治の常識の範囲内とされます。
この立場からは、
現代の価値観で「裏切り」や「不誠実」と断罪するのは、後知恵による評価だ
と主張されます。
三つの約束は「論理的には両立可能」だったという見方
イギリス側が一貫して強調してきたのが、約束は必ずしも明確に矛盾していなかったという点です。
- フサイン=マクマホン協定
→ 独立の範囲は厳密に特定されていない - バルフォア宣言
→ 「国家」ではなく「民族的郷土」にとどまっている - サイクス・ピコ協定
→ あくまで勢力圏の想定で、最終決定ではない
この解釈に立てば、
三つの約束は「調整の余地を残した政治的表現」であり、最初から破綻していたわけではない
という結論になります。
中東問題は「多原因」であるという整理
擁護論のもう一つの柱は、中東問題をイギリス一国の責任に帰すのは単純化だという主張です。
実際には、
- オスマン帝国の崩壊という構造的問題
- フランスの中東政策
- 国際連盟による委任統治制度
- 現地エリートや部族間の対立
- その後の冷戦構造と大国介入
といった複数の要因が重なっています。
この視点から見ると、イギリスの二枚舌外交は、中東問題を生んだ「唯一の原因」ではなく、数ある要因の一つにすぎないと位置づけられます。
「結果責任」と「意図責任」を分ける考え方
英米の外交史研究で重視されるのが、結果責任と意図責任の区別です。
- 結果として中東が不安定化した
- しかし、それを意図的に引き起こしたわけではない
イギリスは、戦争を有利に進めるため、その時点で最善と思われる選択を重ねただけであり、
後の悲劇を予見し、意図して生み出したわけではない
というのが、この立場の基本的な主張です。
なぜ欧米ではこの見方が根強いのか
この擁護論が英米で広く共有されている背景には、歴史認識だけでなく、現代政治との関係もあります。
- 帝国主義を全面的に否定することへの慎重さ
- 現代の国際介入を正当化する余地
- 過去の責任を全面的に認めた場合の政治的影響
つまりこの議論は、純粋な過去の評価であると同時に、現在の国際秩序をどう理解するかという問題とも結びついているのです。
擁護論の限界 ― それでも残る「構造的責任」
ただし、こうした擁護論を踏まえても、なお消えない問題があります。それは、
- 約束の非対称性(決定権は列強側にあった)
- 調整が行われないまま制度化された事実
- 不信と被害意識が世代を超えて継承されたこと
です。
たとえ悪意がなかったとしても、矛盾を整理せずに戦後秩序へ組み込んだ責任は免れません。この点で、イギリスの二枚舌外交は、「意図の問題」を超えて、構造的な責任を負っていたといえます。
まとめ なぜイギリスの二枚舌外交は「元凶」と呼ばれ続けるのか
本記事では、イギリスの二枚舌外交(実態としての三枚舌外交)について、前半でその影響と問題性を、後半でイギリス側の擁護論を整理してきました。ここでは最後に、それらを踏まえて、この外交がどのように理解されるべきなのかを総合的にまとめます。
三つの約束は、なぜ「起点」になったのか
まず確認すべきなのは、イギリスの二枚舌外交が、中東問題の「唯一の原因」ではないという点です。
オスマン帝国の崩壊、列強の利害、国際連盟の委任統治、冷戦期の介入など、多くの要因が重なって現在の中東は形作られています。この点について、イギリス擁護論は正当な指摘を含んでいます。
それでもなお、三つの約束――
- バルフォア宣言
- サイクス・ピコ協定
- フサイン=マクマホン協定
が特別な意味を持つのは、それらが戦後中東秩序の出発点として機能してしまったからです。
問題は「悪意」ではなく「整理されなかったこと」
重要なのは、イギリスが最初から中東を混乱させようと意図していたわけではない、という点です。多くの約束は、戦時という非常事態の中で、短期的合理性に基づいて行われました。
しかし問題は、
- 互いに両立しない約束を
- 誰が最終的にどう調整するのか決めないまま
- 戦後秩序へと持ち込んだ
ことにありました。
この「未整理の矛盾」が、制度や国境線として固定化された点に、二枚舌外交の本質があります。
なぜパレスチナ問題として凝縮されたのか
三つの約束の矛盾は、中東全域に影響しましたが、とりわけパレスチナで最も深刻な形を取りました。
同一地域にアラブ人の独立構想、列強による管理構想、ユダヤ人の民族的郷土構想が重なりました。しかも、それぞれが「正当な約束」として記憶されたのです。
この結果、パレスチナ問題は単なる領土紛争ではなく、「誰の約束が正しかったのか」という正当性の争いとして固定化されます。
これこそが、現在に至るまで解決が困難である最大の理由です。
イギリスの責任はどこにあるのか
本記事の結論は、単純なイギリス悪玉論ではありません。
- 悪意や陰謀があったと断定することはできない
- しかし、決定権を持つ立場にありながら
- 矛盾を調整しないまま秩序を設計した
という点で、イギリスは構造的責任を負っていたといえます。
これは「意図責任」ではなく、結果と構造に対する責任です。
二枚舌外交とは何だったのか
以上を踏まえると、イギリスの二枚舌外交(あるいは三枚舌外交)とは、
戦時の合理的判断が、
戦後に修正されないまま制度化された結果、
対立を長期化させる構造を生んだ過程
だったと整理できます。
それは過去の一事件ではなく、現在の中東問題を理解するための思考の出発点でもあります。
が、より立体的に見えてくるはずです。
イギリスの二枚舌外交は、過去を断罪するための言葉ではなく、歴史を通して「秩序とは何か」を考えるための問いとして、今なお私たちに重い示唆を与えています。
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