1956年に勃発した第二次中東戦争(スエズ危機)は、単なる地域紛争ではありません。
この戦争は、第一次中東戦争後に形成された中東の国際秩序が、大国間関係の変化と新興諸国の台頭によって根底から揺さぶられた転換点でした。イスラエル建国をめぐるアラブ諸国との対立という連続線上にありながら、その性格は明らかに異なります。
最大の特徴は、エジプトの指導者 ガマール・アブドゥル・ナセル が掲げた民族主義と非同盟路線が、冷戦構造の只中で国際政治を動かした点にあります。アスワン・ハイ・ダム建設をめぐる資金融資撤回をきっかけに、ナセルはスエズ運河国有化を宣言し、旧宗主国である英仏と真正面から対立しました。ここに、イスラエルを加えた三国の軍事行動が引き起こされます。
しかし、この戦争の帰結を決定づけたのは戦場の勝敗ではありませんでした。国連緊急総会において、対立関係にあった米ソが異例の協調を見せ、英仏とイスラエルが国際的に孤立したのです。アメリカは中東への影響力拡大を狙い、ドワイト・D・アイゼンハワー の下で新たな中東政策(後のアイゼンハワー・ドクトリン)を模索します。一方、ソ連も反帝国主義を掲げてアラブ諸国への接近を強めていきました。
同時に、バグダード条約機構の成立や、アラブ10か国による決議案、アジア・アフリカ諸国の連帯といった動きは、中東問題がもはや「欧州列強の管理下」にないことを明確に示しました。第二次中東戦争は、英仏の影響力低下と第三世界の台頭を世界に印象づけ、ナセルを象徴的指導者として押し上げる結果をもたらしたのです。
本記事では、第一次中東戦争からの連続性を踏まえつつ、エジプトの対外政策転換、米ソ協調の背景、国連と新興独立国の役割に注目しながら、第二次中東戦争が持つ歴史的意味を多角的に読み解いていきます。
第1章 第一次中東戦争後の中東と冷戦構造の変化
第一次中東戦争(1948〜49年)の結果、中東には「イスラエル建国」という新たな現実と、それを受け入れないアラブ諸国との対立構造が固定化されました。
しかし、この時点ではまだ、イギリス・フランスといった旧宗主国が中東秩序の重要なプレイヤーであり、アメリカとソ連は間接的に関与する立場にとどまっていました。
ところが1950年代に入ると、中東を取り巻く国際環境は急速に変化します。その最大の要因が、冷戦の本格化と植民地帝国の動揺でした。
1.旧宗主国の影響力低下と「空白地帯」としての中東
第二次世界大戦後、イギリスとフランスは経済的・軍事的に大きく疲弊していました。形式上は中東への影響力を維持していたものの、実態としては単独で地域秩序を管理する力を失いつつありました。
この「影響力の空白」を、アメリカとソ連がどのように埋めるかが、1950年代中東政治の最大の焦点となります。中東は石油資源と地政学的要衝を併せ持つ地域であり、どちらの陣営に組み込まれるかは冷戦全体の行方にも直結していました。
2.エジプトの台頭とナセル政権の登場
こうした状況の中で登場したのが、エジプトの指導者 ガマール・アブドゥル・ナセル です。1952年の自由将校団クーデタによって王制を倒したナセルは、反帝国主義・民族主義を掲げ、旧宗主国からの完全な自立を目指しました。
ナセルは当初、アメリカとの協調も模索していました。象徴的なのが、ナイル川流域の開発を目的とするアスワン・ハイ・ダム建設計画です。しかし、エジプトが中国(中華人民共和国)を承認し、また東側諸国との関係を深めたことを警戒したアメリカとイギリスは、融資を撤回します。
この出来事を転機として、エジプトはソ連への接近を強めていきました。
3.バグダード条約機構と中東の陣営化
一方、アメリカは中東を反共陣営に組み込むため、1955年に成立したバグダード条約機構を支持します。これは、トルコ・イラク・イラン・パキスタンなどを結び、ソ連の南下を封じ込めることを目的とした集団安全保障体制でした。
しかし、この枠組みはアラブ世界の分断を招きます。エジプトを中心とする民族主義国家は、バグダード条約機構を「新たな帝国主義的枠組み」と批判し、これに強く反発しました。中東は、単純な親米・親ソ対立ではなく、「民族主義 vs 旧宗主国的秩序」という軸でも分裂していくことになります。
4.なぜアメリカは英仏ではなくソ連と協調したのか
第二次中東戦争において、最も理解しづらい点が、アメリカが英仏の軍事行動を支持せず、むしろソ連と協調して停戦を主導した理由です。
その最大の理由は、アラブ世界全体を敵に回すことをアメリカが恐れた点にあります。もし英仏の武力行使を黙認すれば、中東の民族主義勢力は一斉に反米に傾き、ソ連の影響力が一気に拡大しかねませんでした。
また、アメリカにとって、英仏が旧宗主国として独自に軍事行動を行うこと自体が問題でした。中東秩序を管理する「主役」はもはや欧州列強ではなく、アメリカ自身であるという認識が強まっていたからです。
このため、ドワイト・D・アイゼンハワー 政権は、国連という多国間の枠組みを通じて英仏・イスラエルを抑え込み、同時にソ連とも利害を一致させるという選択を取ったのです。
5.第二次中東戦争前夜の構図
こうして1956年直前の中東は、
- 旧宗主国の影響力低下
- ナセル率いるエジプトの民族主義的台頭
- バグダード条約機構による陣営化
- 米ソが中東をめぐって主導権を争う冷戦構造
という複数の力が交錯する不安定な状態にありました。
第二次中東戦争は、こうした緊張が一気に噴出した結果として発生したのであり、次章で見るスエズ運河国有化は、その象徴的な引き金となります。
第2章 スエズ運河国有化と英仏・イスラエルの軍事行動
1956年の第二次中東戦争は、エジプトによるスエズ運河国有化宣言を直接のきっかけとして勃発しました。
しかしこの出来事は突発的な挑発ではなく、第一次中東戦争後に積み重なってきた不満と国際政治の変化が一気に表面化した結果でした。
1.アスワン・ハイ・ダム問題と国有化決断
エジプトの指導者 ガマール・アブドゥル・ナセル にとって、アスワン・ハイ・ダム建設は単なる経済開発計画ではありませんでした。それは、ナイル川を制御し、農業と工業を近代化することで、エジプトが真の独立国家として自立する象徴的事業だったのです。
当初、ナセル政権はアメリカ・イギリスからの融資を期待していました。しかし、
- エジプトが中国(中華人民共和国)を承認したこと
- チェコスロヴァキアを通じてソ連製武器を導入したこと
などを理由に、西側諸国は融資を撤回します。これに対しナセルが選んだ手段が、スエズ運河の国有化でした。
スエズ運河は依然として英仏資本が強い影響力を持つ存在であり、その通行料収入をダム建設資金に充てるという決断は、経済的合理性と政治的メッセージを兼ね備えた行動でした。
2.英仏にとってのスエズ運河の意味
イギリスとフランスにとって、スエズ運河は単なる国際水路ではありません。イギリスにとっては、インドやアジアへの生命線であり、帝国の象徴でもありました。フランスにとっても、アルジェリアを含む北アフリカ支配と密接に結びつく重要拠点でした。
そのため、ナセルによる国有化は、
- 経済的利益の喪失
- 国際的威信の失墜
- 植民地支配体制の動揺
を同時にもたらすものと受け止められます。英仏は、外交交渉ではなく武力行使によってこの事態を覆そうと考えるようになりました。
3.イスラエルの参加と三国の利害一致
ここで重要なのが、イスラエルの立場です。
イスラエルはスエズ運河そのものよりも、
- エジプトによるティラン海峡封鎖
- パレスチナ問題をめぐる軍事的緊張
- ナセル政権の影響力拡大への警戒
といった安全保障上の理由から、エジプトとの対決を望んでいました。
英仏とイスラエルは利害を調整し、イスラエルがシナイ半島に侵攻し、それを口実に英仏が「停戦監督」を名目として介入するという密約を結びます。こうして1956年10月、三国による軍事行動が開始されました。
4.国際世論の逆流と国連の介入
しかし、この軍事行動は当事者である英仏・イスラエルの想定とはまったく異なる反応を国際社会にもたらしました。その背景には、1955年に開催されたバンドン会議があります。ここでアジア・アフリカ諸国は、反帝国主義と主権尊重、そして非同盟を共通理念として確認し、旧宗主国による武力介入に強い警戒感を共有していました。
こうした認識が共有された直後に起きたのが、1956年のスエズ危機でした。英仏による軍事介入は、多くの新興独立国にとって、植民地支配の復活を想起させる行動として受け止められます。その結果、アジア・アフリカ諸国を中心に、英仏の行動に対する強い反発が一気に広がっていきました。
この反発が具体的な政治行動として表れたのが、国連緊急総会の開催です。安全保障理事会が機能不全に陥る中、国連総会ではアラブ諸国に加え、バンドン会議を経験したアジア・アフリカ諸国が結束し、英仏・イスラエルの軍事行動を非難する決議案を支持しました。
この一連の動きは、中東問題がもはや欧州列強の管理下にはなく、「第三世界」が国際政治の重要な発言主体として登場しつつあることを鮮明に示しています。
5.軍事的勝利と政治的敗北
軍事的に見れば、英仏・イスラエルは短期間で優位に立ちました。しかし、政治的には完全な敗北でした。国際世論と米ソの圧力により、三国は撤退を余儀なくされます。
この結果、
- 英仏は中東における影響力を決定的に失い
- イスラエルは安全保障上の一時的成果を得たものの孤立を経験し
- エジプトとナセルは「帝国主義に勝利した指導者」として名声を高める
という、戦場とは逆の評価が国際社会で定着しました。
第二次中東戦争は、スエズ運河という一点をめぐる紛争でありながら、旧宗主国の時代の終焉と、新しい国際秩序の始まりを世界に示した事件だったのです。
第3章 国連緊急総会と米ソ協調 ― 英仏が孤立した理由
第二次中東戦争(スエズ危機)の最大の特徴は、冷戦下にもかかわらず、アメリカとソ連が国連で協調し、英仏・イスラエルを撤退に追い込んだ点にあります。
この展開は一見すると異例ですが、実は当時の国際環境を踏まえると、極めて合理的な選択でした。
1.国連緊急総会という「舞台」
スエズ危機では、通常の安全保障理事会が機能しませんでした。英仏が常任理事国であり、拒否権を持っていたためです。そこで活用されたのが、国連緊急総会という枠組みでした。
ここでは、英仏の拒否権は通用せず、加盟国全体の意思が直接反映されます。この制度的特徴が、英仏にとって極めて不利に働きました。
2.アメリカの計算 ―「英仏を守らない」という選択
通常であれば、アメリカが英仏を支持しても不思議ではありません。しかし、ドワイト・D・アイゼンハワー 政権は、あえて距離を取りました。
その理由は三つあります。
第一に、アラブ世界全体を敵に回すリスクです。英仏の武力行使を支持すれば、中東の民族主義勢力は一斉に反米化し、結果的にソ連の影響力拡大を招く可能性が高まりました。
第二に、旧宗主国による独自行動への警戒です。英仏がアメリカの事前了承なく軍事介入したこと自体が、アメリカの中東主導権を脅かす行為でした。アメリカは、もはや欧州列強が世界秩序を主導する時代ではないことを示す必要があったのです。
第三に、国際秩序の正統性です。国連を無視した軍事行動を黙認すれば、アメリカ自身が掲げる「法と国際協調」の理念が揺らいでしまいます。
3.ソ連の思惑 ― 反帝国主義の旗印
一方、ソ連にとってスエズ危機は、絶好の政治的機会でした。英仏を「帝国主義国家」として非難し、エジプトを支援する姿勢を示すことで、アラブ世界と第三世界への影響力を一気に拡大できたからです。
ソ連は軍事介入の可能性を示唆しつつ、国連ではアメリカと足並みをそろえて停戦と撤退を主張しました。これは、直接衝突を避けながら、外交的に最大の成果を得るための戦略でした。
4.利害が一致した瞬間 ― 米ソ協調の本質
このように、アメリカとソ連は理念的に一致していたわけではありません。しかし、
- 英仏の影響力低下を望むアメリカ
- 反帝国主義を掲げて第三世界に食い込みたいソ連
という利害が、この局面に限って一致しました。その結果、冷戦下としては異例の協調が成立したのです。
重要なのは、この協調が一時的かつ限定的であった点です。米ソ対立そのものが緩和されたわけではなく、「英仏を排除する」という一点においてのみ手を結んだにすぎません。
5.英仏・イスラエルの孤立と撤退
国連緊急総会では、アジア・アフリカ諸国を中心に英仏非難の声が圧倒的多数を占めました。米ソ両国からの圧力、国際世論の高まり、そして経済的制裁の可能性を前に、英仏は撤退を受け入れざるを得なくなります。
イスラエルもまた、軍事的成果を得ながらも、国際的孤立を回避するため撤退に応じました。こうして、戦場では勝っていた三国が、外交の場で敗北するという結果が確定したのです。
第4章 アラブ10か国決議とアジア・アフリカ諸国の台頭
第二次中東戦争(スエズ危機)は、英仏・イスラエルとエジプトの対立にとどまらず、国連の場でアラブ諸国とアジア・アフリカ諸国が集団として発言力を示した点に大きな歴史的意味があります。
この戦争は、「第三世界」が国際政治の受け身の存在ではなくなったことを象徴する出来事でした。
1.アラブ10か国決議案の意味
国連緊急総会では、エジプトを支持するアラブ諸国が結束し、英仏・イスラエルの軍事行動を非難する決議案を提出しました。いわゆる「アラブ10か国決議案」は、単なる地域的抗議ではありません。
この決議は、
- 植民地主義の否定
- 主権国家による資源・インフラ管理の正当性
- 国際紛争は武力ではなく国連を通じて解決すべきだという原則
を前面に押し出したものでした。第一次中東戦争では、アラブ諸国は軍事的にも外交的にも分断されていましたが、この時は「反帝国主義」という共通の立場で足並みをそろえた点が決定的に異なります。
2.アジア・アフリカ諸国の支持とバンドン精神
アラブ諸国の動きを後押ししたのが、アジア・アフリカ諸国の存在でした。1955年のバンドン会議以降、これらの国々は「どの陣営にも属さず、植民地主義に反対する」という共通理念を持つようになります。
スエズ危機において、英仏の行動は、
- 植民地支配の復活を連想させる
- 新興独立国の主権を踏みにじる行為
として強く批判されました。アジア・アフリカ諸国が英仏非難に回ったことで、国連緊急総会の空気は一気に三国包囲網へと傾いていきます。
この点は、第二次中東戦争が「中東問題」であると同時に、「脱植民地化の象徴的事件」であったことを示しています。
3.英仏の孤立が決定的になった理由
英仏は当初、自らの行動が西側諸国から一定の理解を得られると期待していました。しかし実際には、
- アメリカが距離を置いたこと
- ソ連が反帝国主義を掲げてエジプトを支持したこと
- アジア・アフリカ諸国が圧倒的多数を形成したこと
により、国際社会で完全に孤立します。
この構図は、第一次中東戦争時とは明確に異なります。1948年には、国際秩序の中心は依然として欧米列強でしたが、1956年にはその前提自体が崩れていたのです。
4.ナセルの名声と象徴的勝利
この国際的流れの中で、最大の政治的勝者となったのがエジプトの ガマール・アブドゥル・ナセル でした。軍事的にはエジプトは劣勢でしたが、
- スエズ運河国有化の正当性が国際的に承認され
- 英仏を撤退に追い込み
- アラブ世界と第三世界の支持を集めた
ことで、ナセルは「帝国主義に屈しなかった指導者」として神話化されていきます。
この名声は、エジプト一国を超えて、アラブ民族主義全体の高揚へとつながりました。第二次中東戦争は、ナセルを地域指導者から国際的象徴へと押し上げた事件だったのです。
5.第三世界が示した新しい国際秩序
アラブ10か国決議とアジア・アフリカ諸国の結束は、国際政治の構図が
- 欧州列強中心
から - 米ソ+第三世界が影響力を持つ多極的構造
へと移行しつつあることを明確に示しました。
第二次中東戦争は、軍事衝突そのものよりも、「誰が世界の声を代表するのか」という問いに対する答えを変えた点で、極めて重要な意味を持つ戦争だったといえます。
第5章 アイゼンハワー・ドクトリンと第二次中東戦争の歴史的意義
第二次中東戦争(スエズ危機)は、英仏・イスラエルの撤退によって一応の終結を迎えました。
しかし、この戦争の本当の意味は、停戦後に形成された新しい中東秩序の中にあります。その象徴が、アメリカによる中東政策の転換、すなわちアイゼンハワー・ドクトリンの登場でした。
1.「欧州の時代」から「アメリカの時代」へ
スエズ危機が明らかにした最大の事実は、中東における主導権が完全に欧州列強からアメリカへ移行したという点です。
イギリスとフランスは、軍事力を行使しても国際社会を動かせず、むしろ孤立を深めました。一方でアメリカは、武力を用いず、国連と経済・外交圧力を通じて事態を収束させることに成功します。
この経験は、アメリカに次の確信を与えました。
「中東の不安定化を放置すれば、そこにソ連が入り込む」という認識です。
2.アイゼンハワー・ドクトリンの登場
こうした危機感のもと、アメリカは1957年、中東諸国が共産主義の侵略を受けた場合、軍事・経済援助を行うという新たな方針を打ち出します。これがアイゼンハワー・ドクトリンです。
この政策の本質は二重構造にありました。
- 表向きは「共産主義拡大への対抗」
- 実際には「旧宗主国に代わってアメリカが中東秩序を管理する宣言」
つまり第二次中東戦争は、アメリカが中東に本格的に介入する正当性を与えた戦争だったのです。
3.ナセルの成功とその限界
一方、エジプトの ガマール・アブドゥル・ナセル は、スエズ危機を通じてアラブ世界の英雄となりました。スエズ運河国有化を維持し、英仏を撤退に追い込んだことは、反帝国主義の象徴的勝利として語られます。
しかし、この成功は同時に新たな緊張も生みました。
- ナセルの影響力拡大を恐れる保守的アラブ政権
- アラブ民族主義の高揚に警戒するイスラエル
- 中東での主導権をめぐる米ソの競合
第二次中東戦争は問題を解決したのではなく、次の対立の舞台装置を整えたにすぎなかったのです。
4.第一次・第三次中東戦争との接続点
ここで、第一次中東戦争との違いを整理しておくことは重要です。
- 第一次中東戦争
→ イスラエル建国をめぐる地域紛争 - 第二次中東戦争
→ 冷戦・脱植民地化・第三世界の台頭が交錯する国際政治事件
この変化によって、以後の中東戦争は単なる国境紛争ではなく、「大国の戦略と地域秩序が衝突する場」となります。
実際、第三次中東戦争では、アメリカとソ連の関与はさらに直接的になり、中東は冷戦の最前線の一つへと変貌していきました。その意味で第二次中東戦争は、現代中東紛争の性格を決定づけた転換点だったといえます。
5.第二次中東戦争の歴史的位置づけ
第二次中東戦争は、
- 英仏の没落を決定づけ
- アメリカの中東介入を正当化し
- ナセルとアラブ民族主義を国際舞台に押し上げ
- アジア・アフリカ諸国が発言力を持つ時代の到来を示した
という点で、20世紀後半の国際秩序を象徴する事件でした。
この戦争を理解することは、第三次・第四次中東戦争、さらには現在の中東問題を読み解くための前提条件でもあります。スエズ危機は「短い戦争」でしたが、その影響は極めて長く、深いものでした。
まとめ 第二次中東戦争とは何だったのか
第二次中東戦争(スエズ危機)は、わずか数週間で終結した短期的な軍事衝突でした。しかしその歴史的意義は、戦場の勝敗ではなく、戦後に確定した国際秩序の変化にこそあります。
1.「イスラエル建国問題」から「国際政治の舞台」へ
第一次中東戦争が、イスラエル建国をめぐる地域紛争だったのに対し、第二次中東戦争は、冷戦・脱植民地化・第三世界の台頭が交錯する国際政治事件でした。
スエズ運河という一点をめぐる衝突は、もはや中東だけの問題ではなく、世界秩序そのものを映し出す鏡となったのです。
2.旧宗主国の没落と新たな主役の登場
この戦争によって、イギリスとフランスは中東の管理者としての地位を完全に失いました。軍事的に行動できても、国際社会を動かす力はもはや持っていなかったのです。
その一方で、アメリカとソ連が国連の場で主導権を握り、さらにアジア・アフリカ諸国が集団として発言力を示しました。
第二次中東戦争は、「欧州列強中心の世界」から「米ソ+第三世界が関与する多極的世界」への転換点だったといえます。
3.米ソ協調という例外的現象
冷戦下において、アメリカとソ連が協調したことは極めて異例でした。しかしそれは、理念の一致ではなく、利害の一致によるものでした。
- アメリカは旧宗主国の独自行動を抑え、中東の主導権を確立したかった
- ソ連は反帝国主義を掲げ、第三世界への影響力を拡大したかった
この一時的協調は、以後の中東が「大国政治の交差点」となることを予告する出来事でもありました。
4.ナセルの象徴的勝利とアラブ民族主義
軍事的には劣勢だったエジプトが、政治的勝者となった点も、この戦争の重要な特徴です。
ガマール・アブドゥル・ナセル は、スエズ運河国有化を維持し、英仏を撤退に追い込んだことで、反帝国主義の象徴としてアラブ世界の支持を集めました。
第二次中東戦争は、ナセル個人の名声を高めただけでなく、アラブ民族主義そのものを国際政治の主役へと押し上げた戦争でもありました。
5.次の戦争への布石
もっとも、スエズ危機は中東問題を解決したわけではありません。
むしろ、
- アメリカの本格的中東介入(アイゼンハワー・ドクトリン)
- 米ソの影響力競争の激化
- イスラエルとアラブ諸国の対立構造の固定化
といった新たな緊張を生み出しました。
その意味で第二次中東戦争は、第三次中東戦争以降の「冷戦下の中東紛争」を準備した戦争だったと位置づけることができます。
6.第二次中東戦争の本質
第二次中東戦争とは、
- 帝国主義の終焉
- 冷戦の論理の中東への本格的流入
- 第三世界の政治的台頭
が一つの事件として可視化された歴史的転換点でした。
この戦争を理解することは、第三次・第四次中東戦争、さらには現在の中東問題を考える上でも欠かせない視座を与えてくれます。
スエズ危機は、短い戦争でありながら、現代中東史の方向性を決定づけた出来事だったのです。
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