第三次中東戦争(1967年、六日戦争)は、中東戦争の中でもとりわけ国際政治への衝撃が大きかった戦争です。
わずか6日間で決着がついたこの戦争は、イスラエルの圧倒的勝利という軍事的側面だけでなく、その後の中東情勢を根底から変える「占領」と「抵抗」の時代を本格的に生み出しました。
第二次中東戦争後、中東は一時的な均衡状態に見えましたが、その裏では冷戦構造がより鮮明になっていました。アメリカはベトナム戦争への深い関与によって中東への直接介入を抑え、代わってソ連がエジプトやシリアに対して大規模な軍事援助を行います。
ナセル率いるエジプトはアラブ民族主義の象徴として影響力を拡大し、周辺アラブ諸国との連携を強めていきました。
しかし1967年、こうしたアラブ側の軍備拡張と緊張の高まりに対し、イスラエルは先制攻撃に踏み切ります。その結果、イスラエルはシナイ半島、ガザ地区、ヨルダン川西岸、東エルサレム、ゴラン高原を占領し、戦争は短期間で決着しました。この「圧勝」と引き換えに生まれた占領地問題は、後のパレスチナ問題を一気に深刻化させることになります。
戦後、中東では武力衝突の形が変化していきます。アラブ諸国はOPECを通じて「石油」という新たなカードを手にし、パレスチナ人自身もPLOのもとで民族運動を本格化させました。
アラファト議長の登場は、パレスチナ問題が国家間戦争から民族解放運動へと移行していく転換点でもあります。また、戦争から3年後にナセルが急死したことは、アラブ民族主義の時代の一区切りを象徴する出来事でした。
第三次中東戦争は、冷戦下の大国の関与、イスラエルの占領政策、石油と民族運動の台頭という複数の要素が交錯し、以後の第四次中東戦争、さらには現在に至る中東問題の構造を決定づけた分岐点だったのです。
第1章 戦争前夜の中東 ― 冷戦構造の変化とアラブ世界の高揚
第三次中東戦争は突発的に起こった戦争ではなく、第二次中東戦争後に形成された国際環境と中東内部の緊張が積み重なった結果として発生しました。
この時期の最大の特徴は、冷戦下における大国の関与の質が変化したこと、そしてアラブ民族主義が最高潮に達していたことです。
1.アメリカの関与低下とベトナム戦争
第二次中東戦争(スエズ危機)では、アメリカは英仏を抑え込む形で中東への影響力を示しました。しかし1960年代後半になると、アメリカはベトナム戦争への本格介入により、外交・軍事資源の多くを東南アジアに割かれる状況になります。
このためアメリカは、中東で新たな大規模軍事衝突が起きることを警戒しつつも、直接的な軍事介入には慎重にならざるを得ませんでした。イスラエルへの支持は維持しながらも、1950年代のように強く調停役を果たす余力は低下していたのです。
2.ソ連の軍事支援とアラブ諸国の自信
このアメリカの相対的後退と入れ替わるように、中東で存在感を高めたのがソビエト連邦でした。ソ連はエジプトやシリアに対し、大量の兵器供与と軍事顧問団の派遣を行い、アラブ側の軍事力は急速に強化されていきます。
特にエジプトは、第二次中東戦争後もソ連との関係を深め、最新鋭の戦車・戦闘機・防空兵器を導入しました。これにより、アラブ諸国の間では「イスラエルに対抗できる軍事的条件が整いつつある」という認識が広がっていきます。
3.ナセル体制とアラブ民族主義の高揚
この時代の中東を語る上で欠かせない存在が、エジプト大統領のガマール・アブドゥル・ナセルです。ナセルはスエズ危機で英仏と渡り合った指導者として、アラブ世界全体の英雄的存在となっていました。
ナセルの掲げたアラブ民族主義は、単なる外交理念にとどまらず、「イスラエルを打倒し、アラブの尊厳を回復する」という強い感情と結びついていました。エジプトを中心に、シリアやヨルダンもイスラエル包囲の構えを強め、軍事演習や強硬な発言が繰り返されるようになります。
4.緊張の連鎖と戦争への道
1967年に入ると、シナイ半島へのエジプト軍進駐、国連平和維持部隊の撤退要請、ティラン海峡の封鎖など、緊張は急速に高まっていきました。これらの動きはアラブ側にとっては「正当な防衛措置」でしたが、イスラエルにとっては国家存亡に関わる重大な脅威と映ります。
アメリカは事態の沈静化を望み、ソ連も全面戦争は回避したいという立場でした。しかし現場レベルでの緊張は制御不能となり、イスラエルは「待つよりも先に打つ」という選択を下します。こうして1967年6月、第三次中東戦争(六日戦争)が勃発したのです。
第2章 六日戦争の展開 ― イスラエル圧勝はなぜ起きたのか
第三次中東戦争(六日戦争)は、1967年6月5日から10日までの、わずか6日間で決着しました。
しかしその短期間の戦闘がもたらした結果は、中東の地図と国際政治の構造を一変させるほど重大なものでした。本章では、戦争の基本的な展開を押さえつつ、なぜイスラエルが圧倒的勝利を収めることができたのかを整理します。
1.イスラエルの先制攻撃 ― 空軍力による主導権掌握
1967年6月5日早朝、イスラエルはエジプト空軍基地に対して大規模な先制空爆を実施しました。これにより、エジプト空軍の主力戦闘機の多くが地上で破壊され、制空権は開戦初日でほぼイスラエル側に握られます。
この先制攻撃は、単なる奇襲ではなく、周到な情報収集と作戦計画に基づくものでした。アラブ側が数と装備で優位に立っている状況では、長期戦になればイスラエルが不利になるという判断が背景にあります。
「短期決戦で主導権を握る」というイスラエルの戦略は、ここで決定的に成功しました。
2.三正面作戦の成功 ― エジプト・ヨルダン・シリアとの戦闘
空軍力で優位に立ったイスラエルは、同時に三つの戦線で地上戦を展開します。
南ではエジプト軍と戦い、シナイ半島を急速に制圧しました。西ではヨルダン軍との戦闘により、ヨルダン川西岸と東エルサレムを占領します。さらに北ではシリア軍と交戦し、ゴラン高原を制圧しました。
本来、三正面作戦は防御側にとって極めて不利ですが、制空権を握ったことでイスラエル軍は機動力を最大限に発揮できます。一方、アラブ側は各国軍の連携が十分に取れず、指揮系統の混乱も深刻でした。
3.ソ連の軍事支援とアラブ側の誤算
アラブ諸国は、ソビエト連邦から大量の兵器供与を受けていました。装備の数だけを見れば、イスラエルに対抗できるように見えたのも事実です。
しかし、近代兵器は「持っていること」よりも「使いこなせること」が重要です。訓練や即応体制、部隊間の連携において、イスラエル軍はアラブ側を大きく上回っていました。ソ連製兵器に依存したアラブ諸国は、装備の優位がそのまま戦力になると誤認していたと言えます。
4.アメリカの立場 ― 不介入と結果としてのイスラエル勝利
この戦争で注目すべき点は、アメリカが直接軍事介入を行わなかったことです。アメリカはベトナム戦争で手一杯の状況にあり、中東で米ソが直接衝突する事態を強く避けていました。
結果として、アメリカはイスラエルの行動を事前に強く制止することも、戦争中に停戦を主導することもできませんでした。この「不介入」は、意図せずしてイスラエルの短期決戦戦略を後押しする形となります。
5.圧勝の意味 ― 軍事的成功と新たな問題の誕生
こうして六日戦争は、イスラエルの圧倒的勝利に終わりました。しかしこの勝利は、単なる軍事的成功にとどまりませんでした。イスラエルは広大な占領地を獲得し、戦略的安全保障を手に入れた一方で、新たな政治的・民族的問題を抱え込むことになります。
この「圧勝の代償」として生まれた占領地問題こそが、第三次中東戦争を中東史の大きな転換点とする最大の理由でした。次章では、戦後の占領政策と、それがパレスチナ問題や中東全体に与えた影響を詳しく見ていきます。
第3章 戦後の占領と問題の変質 ―「領土獲得」から「占領統治」へ
第三次中東戦争は、短期決戦という軍事的成功とは裏腹に、戦後処理の段階で中東に新たな深刻な課題を残しました。
それが、イスラエルによる広大な占領地の管理です。本章では、占領の実態と、それが中東問題の性格をどのように変えたのかを整理します。
1.六日戦争後に生まれた占領地
六日戦争の結果、イスラエルは、以下の地域を占領しました。
- エジプトから:シナイ半島、ガザ地区
- ヨルダンから:ヨルダン川西岸、東エルサレム
- シリアから:ゴラン高原
これにより、イスラエルの支配地域は一気に拡大し、地理的・軍事的な安全保障は大きく向上しました。特に東エルサレムの占領は、宗教的・歴史的意味を伴うため、単なる領土問題にとどまらない深刻な火種を生み出します。
2.占領は「一時的措置」だったのか
イスラエル側は当初、これらの占領地を恒久的に保持するかどうかは未定とし、周辺アラブ諸国との交渉材料として利用する構想も持っていました。実際、戦後には「領土と平和の交換」という発想が国際社会で議論されるようになります。
しかし現実には、占領は短期間で終わることはありませんでした。軍事的理由、安全保障上の判断、宗教的・歴史的意識が絡み合い、イスラエルは占領地の統治を継続していきます。この時点で、中東問題は「国家間戦争」から「占領と被占領」の構図へと性格を変え始めました。
3.パレスチナ人の立場の変化
占領によって最も大きな影響を受けたのが、パレスチナ人でした。ヨルダン川西岸やガザ地区に暮らすパレスチナ人は、直接的なイスラエル軍政のもとに置かれ、移動の制限や土地問題、生活基盤の不安定化に直面します。
第一次・第二次中東戦争の段階では、パレスチナ問題は主にアラブ諸国とイスラエルの対立の中に埋め込まれていました。しかし六日戦争後、パレスチナ人自身が占領下の当事者として前面に現れるようになり、問題の焦点は明確に変化します。
4.国際社会の反応と限界
国連は戦後、安保理決議242を採択し、「占領地からの撤退」と「すべての国の安全保障」の両立をうたいました。しかし、この決議は意図的に曖昧な表現を含んでおり、イスラエルとアラブ側で解釈が分かれます。
結果として、国際社会は問題の枠組みを示すことはできても、占領を実際に解消する力を持ちませんでした。この「国際的合意はあるが、現実は動かない」という状況が、以後の中東問題の常態となっていきます。
5.占領がもたらした長期的影響
六日戦争後の占領は、単なる領土拡大ではありませんでした。それは、
- イスラエルにとっては「安全保障と統治のジレンマ」
- パレスチナ人にとっては「国家なき民としての現実の固定化」
を意味していました。
この構造の中で、次第に注目されるようになるのが、パレスチナ人自身による民族運動の組織化です。次章では、OPECの登場によるアラブ側の戦略転換とともに、PLOとアラファト議長が前面に出てくる背景を見ていきます。
第4章 OPECとPLOの台頭 ― 国家戦争から「石油」と「民族運動」の時代へ
第三次中東戦争後、中東情勢はそれまでの「国家対国家の全面戦争」から、より複合的で長期化する対立構造へと移行しました。
その転換を象徴するのが、OPECによる石油戦略の浮上と、PLOを中心とするパレスチナ民族運動の本格化です。
さらに、アラブ民族主義の象徴であったナセルの急死は、この時代の終わりと新たな局面の始まりを告げる出来事でした。
1.OPECの存在感拡大 ― 石油が武器になる
六日戦争で軍事的敗北を喫したアラブ諸国は、「軍事力だけではイスラエルとその後ろ盾である西側諸国に対抗できない」という現実を突きつけられました。その中で注目されたのが、石油という経済資源です。
石油輸出国機構であるOPECは、1960年代後半から次第に結束を強め、石油価格や供給量を通じて国際政治に影響を与える可能性を持ち始めます。第三次中東戦争直後の段階ではまだ限定的でしたが、「石油は武器になり得る」という発想は、この時期に明確に意識されるようになりました。
この流れは、のちの第四次中東戦争(1973年)における石油戦略へと直結していきます。
2.PLOの台頭 ― パレスチナ人自身が主役へ
占領の長期化によって、パレスチナ問題はもはや周辺アラブ諸国の「代理戦争」では解決できない段階に入ります。ここで存在感を高めたのが、PLO(パレスチナ解放機構)でした。
PLOは1960年代半ばから活動していましたが、六日戦争後、難民や占領地の現実を背景に支持を急速に拡大します。パレスチナ人自身が「民族としての権利回復」を掲げ、独自の主体として国際政治の舞台に登場したことは、中東問題の性格を大きく変えました。
3.アラファト議長の登場と象徴性
PLOの顔として国際的に知られるようになったのが、ヤーセル・アラファトです。アラファトはPLO議長として、武装闘争を通じてパレスチナ問題を世界に訴え、国際社会の注目を集めました。
彼の登場によって、パレスチナ問題は「アラブ諸国対イスラエル」という枠組みを超え、「民族自決」という普遍的なテーマとして認識されるようになります。一方で、武装闘争や越境攻撃は新たな暴力の連鎖を生み、問題の解決をより複雑にしていく側面も持っていました。
4.ナセルの急死 ― アラブ民族主義の転換点
第三次中東戦争の衝撃から立ち直れないまま、1970年、エジプト大統領のガマール・アブドゥル・ナセルが急死します。ナセルはスエズ危機以来、アラブ民族主義の象徴的存在であり、その死はアラブ世界に大きな空白をもたらしました。
ナセルの死は、アラブ民族主義が掲げてきた「統一と対イスラエル闘争」という理想が、現実の政治・軍事の壁に直面していたことを示す出来事でもあります。以後、アラブ諸国はより現実的・国益重視の路線へと傾き、石油戦略や外交交渉が前面に出ていくことになります。
5.第三次中東戦争の本当の転換点
第三次中東戦争は、イスラエルの軍事的圧勝という結果だけで評価されがちです。しかし本質的な転換点は、
- 石油を通じた経済戦略の台頭
- パレスチナ民族運動の前面化
- アラブ民族主義の象徴的終焉
が同時に進行した点にあります。これらの変化は、次に起こる第四次中東戦争、そして現在まで続く中東問題の構造を決定づける重要な布石となりました。
第5章 第三次中東戦争の歴史的意義 ― 第四次中東戦争へつながる「構造の固定化」
第三次中東戦争は、わずか6日間で終結した軍事衝突でありながら、その後の中東情勢を半世紀以上にわたって規定する「構造」を生み出しました。
本章では、この戦争が何を決定づけ、なぜ第四次中東戦争へと不可避的につながっていったのかを整理します。
1.「イスラエル優位」という軍事バランスの確定
六日戦争の最大の帰結は、イスラエルが中東における圧倒的な軍事優位を確立したことでした。周辺アラブ諸国は、ソ連の軍事援助を受けて装備を近代化していたにもかかわらず、短期間で敗北します。
この結果、
- アラブ側は「通常戦力による全面戦争では勝てない」
- イスラエル側は「先制攻撃と短期決戦が有効」
という認識を固定化させました。これは、以後の中東紛争において、抑止と緊張が常態化する原因となります。
2.占領地の固定化と和平の難化
第三次中東戦争によって生まれた占領地は、イスラエルにとっては安全保障上の緩衝地帯であり、アラブ側・パレスチナ側にとっては屈辱と不正義の象徴でした。
ここで重要なのは、占領が「一時的措置」ではなく、交渉が進まない限り続く現実として固定化された点です。国連決議は存在したものの、強制力はなく、占領と抵抗の構図が日常化していきます。
この段階で、中東問題は
- 戦争 → 停戦 → 戦争
という循環から、 - 占領 → 抵抗 → 報復
という長期的対立構造へと移行しました。
3.アラブ諸国の戦略転換 ― 軍事から外交・石油へ
軍事的敗北を経験したアラブ諸国は、次第に戦略を修正していきます。正面からの全面戦争ではなく、
- 石油を通じた経済的圧力
- 国際世論を意識した外交戦
が重視されるようになりました。
この流れは、OPECの結束強化へとつながり、第四次中東戦争での石油戦略の伏線となります。第三次中東戦争は、「石油が国際政治の武器になる時代」の準備段階でもあったのです。
4.パレスチナ問題の前面化と国家間戦争の終焉
第三次中東戦争以降、中東問題の中心は次第にパレスチナ問題へと収斂していきます。PLOとヤーセル・アラファトの存在は、問題の主体が国家から民族へ移行したことを象徴しています。
これにより、以後の紛争は
- 明確な開戦・終戦を持つ戦争
ではなく、 - 低強度で継続する紛争とテロ、報復の連鎖
という形を帯びるようになります。第三次中東戦争は、国家間中東戦争の最終局面への入口でもありました。
5.第四次中東戦争は「修正戦争」だった
1973年に勃発する第四次中東戦争は、第三次中東戦争の結果を「修正」しようとする戦争でした。エジプトとシリアは、失われた領土と名誉を回復し、交渉の主導権を取り戻すために戦争を選択します。
つまり第四次中東戦争は、
- 第三次中東戦争で確定した軍事・政治構造
- 占領地問題の行き詰まり
- 石油と外交を組み合わせた新戦略
これらが交差した必然的帰結でした。第三次中東戦争を理解せずに、第四次中東戦争を理解することはできません。
6.第三次中東戦争の位置づけ
第三次中東戦争は、
- イスラエルの圧勝
- アラブ側の屈辱
- パレスチナ問題の本格化
- 石油と国際政治の結合
という複数の要素が同時に進行した、中東史の決定的転換点でした。この戦争によって形成された構造は、第四次中東戦争、和平交渉、さらには現在の中東問題にまで連続しています。
まとめ章 第三次中東戦争とは何だったのか ― 中東問題を固定化した「分岐点」
第三次中東戦争(六日戦争)では、第一次・第二次中東戦争を通じて蓄積されてきた矛盾が一気に噴出し、その後の中東問題の基本構造を不可逆的に固定化した分岐点だったと言えます。
1.「短期決戦の圧勝」が生んだ長期不安定
イスラエルは、先制攻撃と機動戦によって圧倒的勝利を収めました。しかし、その勝利は中東に安定をもたらすものではありませんでした。
むしろ、
- イスラエルにとっては「占領をどう維持するか」という新たな課題
- アラブ側・パレスチナ側にとっては「敗北をどう克服するか」という屈辱
を生み、対立は一層深刻化します。
六日戦争は「勝った側も、負けた側も、問題から逃れられない戦争」だったのです。
2.国家間戦争から「占領と抵抗」の構図へ
第一次・第二次中東戦争では、対立の中心はアラブ諸国とイスラエルという国家間戦争でした。しかし第三次中東戦争後、その性格は明確に変化します。
占領地の出現によって、
- 問題の焦点はパレスチナ人の生活と権利へ移行
- 戦争は明確な終戦を持たない「継続的対立」へ転換
しました。これ以降の中東問題は、軍事力だけで解決できない段階に入ったと言えます。
3.冷戦構造の中での「大国の限界」
第三次中東戦争は、冷戦下における大国の限界も浮き彫りにしました。
アメリカはベトナム戦争で余力を失い、ソ連は兵器援助はできても勝利を保証することはできませんでした。
その結果、
- 米ソは全面衝突を避けつつ
- 地域紛争の「結果」だけを追認する
という形に陥ります。中東は、冷戦の舞台でありながら、同時に大国が完全には制御できない地域となっていきました。
4.石油と民族運動という新しいカード
軍事的敗北を経験したアラブ側は、戦い方を変えます。
石油を通じた経済的影響力、そしてパレスチナ民族運動の前面化は、その象徴でした。
ここで重要なのは、
- 石油が国際政治の武器として自覚的に使われ始めたこと
- パレスチナ問題が「国家の代理問題」ではなく「民族自決の問題」として認識され始めたこと
です。この流れは、次の第四次中東戦争、さらには和平交渉とテロの時代へと直結していきます。
5.第三次中東戦争の歴史的位置づけ
第三次中東戦争は、
- イスラエル建国をめぐる初期の戦争段階
- アラブ民族主義が前面に出た時代
から、 - 占領と抵抗が固定化する長期対立の時代
への移行点でした。
この戦争を境に、中東問題は「いつか終わる戦争」ではなく、「解決の枠組み自体を探し続ける問題」へと姿を変えます。
第三次中東戦争を理解することは、第四次中東戦争、和平交渉、そして現在の中東問題を理解するための不可欠な前提です。
六日間で終わった戦争が、なぜ半世紀以上にわたる影響を持ち続けているのか。
その答えは、この戦争が生み出した構造そのものにあるのです。
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