PLOはなぜヨルダンに入り、なぜ追い出されたのか?― 1970年黒い九月の全体像

当サイト「もう一度、学ぶ」は、Amazonのアソシエイトとして、適格販売により収入を得ています。また、A8.netなど他のアフィリエイトプログラムを利用しており、当サイト内のリンクを通じて商品を購入した場合、報酬を得ることがあります。

PLOはなぜヨルダンに入り、なぜ追い出されたのか?

1970年に起きた「黒い九月事件」は、この問いに対する答えを最も象徴的に示す出来事です。パレスチナ問題の渦中で生まれたPLOは、イスラエルとの対立だけでなく、受け入れ国であったヨルダンとの間でも深刻な衝突を引き起こしました。

第一次中東戦争以降、多数のパレスチナ難民を抱えたヨルダンは、PLOにとって地理的にも政治的にも活動しやすい拠点でした。イスラエルに近接し、アラブ世界の一員でもあるヨルダンは、PLOの武装闘争を支える「前線基地」として重要な役割を果たしていきます。しかしその一方で、PLOの軍事行動や自治的な振る舞いは、次第にヨルダン王政の主権を脅かす存在へと変わっていきました。

やがて、国家を維持しようとするヨルダン王政と、武装闘争を続けるPLOのあいだには決定的な亀裂が生まれます。その帰結が、1970年の黒い九月事件でした。これは単なる治安事件や内戦ではなく、「国家」と「国家を持たない民族運動」が正面から衝突した歴史的転換点といえます。

本記事では、PLOがなぜヨルダンに拠点を築いたのか、そしてなぜ武力によって追放されるに至ったのかを、具体的な出来事を追いながら整理します。黒い九月事件を通して、パレスチナ問題が周辺国を巻き込みながら拡大していく構造と、その後のレバノン拠点化へつながる意味を、全体像として読み解いていきます。

目次

第1章 PLOはなぜヨルダンに入ったのか

1970年の黒い九月事件は突然起きたわけではありません。その前提には、1948年以降のパレスチナ問題の推移と、ヨルダンという国家の特殊な立場がありました。

この章では、PLOがヨルダンに拠点を築くに至った背景を、年代を追いながら整理します。

1.ヨルダンとパレスチナ難民(1948年)

1948年の第一次中東戦争は、パレスチナ問題の出発点となりました。
この戦争の結果、多数のパレスチナ人が故郷を追われ、周辺諸国へ難民として流入します。

とくにヨルダンは、

  • ヨルダン川西岸を実効支配(のちに併合)
  • 多数のパレスチナ難民を受け入れ
  • 国民の相当数がパレスチナ系住民

という状況に置かれました。

この時点でヨルダンは、すでに「パレスチナ問題を国内に抱え込む国家」となっていたのです。

2.PLOの成立と武装闘争路線(1964年)

1964年、アラブ連盟の主導のもとでPLO(パレスチナ解放機構)が結成されます。

当初のPLOは、

  • アラブ諸国の影響下にある組織
  • イスラエルとの直接対決には慎重

という性格を持っていました。しかし次第に、パレスチナ人自身による主体的な武装闘争を掲げる路線が強まっていきます。

3.第三次中東戦争と拠点化の決定(1967年)

PLOが本格的にヨルダンへ入り込む決定的契機となったのが、1967年の第三次中東戦争(六日戦争)です。

この戦争で、ヨルダンはヨルダン川西岸を失い、イスラエルが占領地を大幅に拡大し、多数のパレスチナ人が再び難民化します。

結果として、イスラエル支配下では武装活動が困難、国境を接するヨルダンが最前線基地になり、PLOの活動拠点は急速にヨルダン国内へ集中していきました。

4.カラメの戦いとPLOの影響力拡大(1968年)

1968年、ヨルダン領内で起きたカラメの戦いは、PLOとヨルダンの関係を大きく変えます。

  • イスラエル軍がPLO拠点を攻撃
  • PLOとヨルダン軍が共同で抵抗
  • イスラエル軍は作戦後に撤退

軍事的には決定的勝利ではありませんでしたが、この戦闘は「イスラエル軍を退けた象徴的勝利」としてアラブ世界で喧伝されました。

これにより、

  • PLOの名声と支持が急上昇
  • 若者や難民が大量に参加
  • ヨルダン国内での発言力が急拡大

していきます。

5.「国家の中の国家」へ(1969年)

1969年頃になると、PLOはヨルダン国内で半ば自治的な存在となっていました。

  • 武装した戦闘員が公然と活動
  • 検問や徴税のような行為
  • 王政の治安権限を事実上無視

この状況は、PLO側には「解放闘争の正当な拠点」、ヨルダン王政には「主権を侵す存在」として映ります。

この時点で、PLOとヨルダンの関係は、「保護と共存」から「緊張と対立」へ明確に移行していました。

このように、PLOがヨルダンに入ったのは偶然ではなく、1948年の難民問題、1967年の領土喪失、1968年の象徴的成功という積み重ねの結果でした。

第2章 共存から武力衝突へ ― 黒い九月事件(1970年)

1960年代後半、ヨルダン国内で影響力を急拡大させたPLOは、やがて国家権力と正面から衝突する段階へと進みます。

1970年に起きた「黒い九月事件」は、偶発的な流血ではなく、主権国家と武装民族運動の緊張が臨界点を超えた結果でした。この章では、衝突に至る過程と決定的出来事を年号とともに整理します。

1.王政とPLOの緊張激化(1969〜1970年)

1969年以降、PLOはヨルダン国内で事実上の自治権を行使するようになります。

  • 武装隊員が市街地を自由に移動
  • 検問・徴税・治安活動を独自に実施
  • 王政の命令や警察権を無視する行為が頻発

ヨルダン王政、とくに国王フセイン国王にとって、これは単なる治安問題ではなく、国家主権そのものへの挑戦でした。

一方、PLO側は、王政はイスラエルに妥協的、パレスチナ解放の足かせになっていると見なし、対立姿勢を強めていきます。

2.象徴的事件の連鎖(1970年前半)

緊張を決定的に高めたのが、1970年前半に相次いだ象徴的事件です。

  • 1970年6月:フセイン国王暗殺未遂事件
  • 王政側はPLO関係者の関与を疑う
  • ヨルダン軍とパレスチナ武装勢力の小規模衝突が頻発

これにより、王政内部では「もはや共存は不可能」という認識が強まっていきました。

3.航空機ハイジャック事件(1970年9月)

事態を一気に国際問題へ押し上げたのが、1970年9月の航空機ハイジャック事件です。

  • PLO系過激派が国際線航空機を相次いでハイジャック
  • 旅客機をヨルダン領内(ドーソン・フィールド)に着陸
  • 世界の注目がヨルダンに集中

この行動は、国際社会からの強い非難、ヨルダン王政の威信失墜、「国家がテロの温床になっている」という印象を決定づけました。

王政にとって、これは PLO排除を正当化する決定的口実となります。

4.黒い九月事件の勃発(1970年9月)

1970年9月、ヨルダン軍はついに全面的な武力行使に踏み切ります。

  • 首都アンマンを中心に激しい市街戦
  • 砲撃・戦車投入による大規模制圧
  • パレスチナ武装勢力に多数の死傷者

この一連の戦闘が、後に「黒い九月事件」と呼ばれるようになりました。

短期間ながら戦闘は極めて苛烈で、多数の民間人が巻き込まれる、アラブ諸国からの介入圧力、シリア軍の一時的越境など、事態は地域紛争へ拡大する危険性もはらんでいました。

5.PLOの敗北と追放(1970〜1971年)

最終的に、ヨルダン軍は主導権を掌握します。

  • 1970年末:PLOは事実上壊滅
  • 1971年:残存勢力がヨルダンから完全撤退
  • PLO指導部はレバノンへ移動

こうして、PLOは、最初の主要拠点国家から武力によって追放されることになりました。

この追放は、PLOの活動拠点がヨルダンからレバノンへと移る決定的転換点となります。

黒い九月事件は、

  • ヨルダン王政にとっては「国家存続のための選択」
  • PLOにとっては「武装闘争路線の限界を示す敗北」

という、双方にとって重い意味を持つ出来事でした。

第3章 アラブ諸国はPLOを支持していたのか

黒い九月事件(1970年)では、「アラブ諸国からの介入圧力」や「シリア軍の越境」といった動きが見られました。このため、アラブ諸国が一斉にPLOを支援したかのような印象を持たれがちです。

しかし実際には、そこには大きな温度差と計算がありました。この章では、アラブ諸国の本音と行動を整理し、なぜPLOが最終的に孤立したのかを解き明かします。

1.理念としてのPLO支持

1970年前後、PLOは、「祖国を失ったパレスチナ人の解放運動」という位置づけで、アラブ世界の世論から強い共感を集めていました。

  • パレスチナ問題は「アラブ全体の大義」
  • イスラエルへの抵抗を掲げるPLOを公然と否定しにくい
  • 王政・共和政を問わず、名目的な支持表明が常態化

そのため、ヨルダン王政がPLOを武力で制圧する動きは、「パレスチナの大義を裏切る行為」と映る危険性がありました。これが、アラブ諸国からヨルダンに対して「自制」を求める圧力がかかった背景です。

2.各国政府の本音:PLOは「危険な存在」

一方で、アラブ諸国の政府指導者たちは、PLOを無条件で支持していたわけではありません。

  • 武装組織が国家内で独自に行動する前例を作りたくない
  • PLOが成功すれば、自国でも同様の不安定化が起こり得る
  • とくに王政国家にとっては、体制転覆の連鎖が最大の脅威

つまり各国政府は、「パレスチナの大義」は守りたいが、「PLOという武装組織」は警戒したい
という矛盾した立場に立っていました。

この点で、ヨルダン王政の危機は、他のアラブ諸国にとっても他人事ではなかったのです。

3.シリア軍越境の実像(1970年)

黒い九月の最中、1970年9月シリア軍(実際には親PLO部隊)がヨルダン北部へ一時的に越境しました。

この行動は、PLOを全面的に救援するため、ヨルダン王政を打倒するためといった本格介入ではありませんでした。

  • 越境は限定的かつ短期間
  • 正規軍による総力戦には踏み込まず
  • イスラエルやアメリカの軍事介入を強く警戒

当時のシリアは政権基盤が不安定で、地域戦争へ拡大する余力はありません。この越境は、「PLOを見捨てていない」という姿勢を示す象徴的行動に近いものでした。

4.エジプトなど主要国は調停役に回った

当時のエジプトでは、ナセル政権が健在でした。

エジプトの立場は明確で、ヨルダン王政の崩壊は望まない。しかしPLOを切り捨てたとも見られたくない。

そのため、軍事介入ではなく、停戦仲介・調停に力を注ぎます。

実際、1970年のアラブ首脳会議では、戦闘停止が合意され、PLOはヨルダン国内での立場を急速に失っていきました。

5.なぜPLOは孤立したのか

最終的に、黒い九月事件で明らかになったのは次の現実です。

  • 世論レベルではPLOは支持された
  • しかし国家は、自国の安定を最優先した
  • 本気でヨルダンと戦うアラブ国家は現れなかった

その結果、PLOは理念としては支持され、現実には守られなかったという形で敗北します。これは、「国家を持たない武装運動の限界」を示した決定的瞬間でした。この経験は、PLOにとって重大な教訓となります。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次