PLO(パレスチナ解放機構)とは?

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パレスチナ解放機構(PLO)は、1964年に設立された、パレスチナ人を代表する政治組織です。

その歴史は、単なる一団体の歩みではなく、パレスチナ人が「周辺国に委ねられた存在」から「自らの運命を主張する主体」へと変化していく過程そのものでもありました。

第三次中東戦争後、PLOは武装闘争を通じて急速に存在感を高め、1970年代には国連で演説を行うなど、国際政治の表舞台に登場します。

一方で、その活動はヨルダンやレバノンにおいて「国家の中の国家」と化し、主権国家との深刻な衝突を引き起こしました。

PLOは英雄視される存在であると同時に、各国にとって扱いきれない不安定要因でもあったのです。

こうした経験を通じて、PLOは次第に武装闘争の限界を悟り、1980年代後半には外交と交渉を軸とする路線へと大きく転換します。

その到達点が、1993年のオスロ合意でした。この合意によってPLOは正式な交渉主体として承認され、革命組織から政治組織へと決定的に性格を変えていきます。

しかし、2004年にヤーセル・アラファト議長が死去すると、PLOは国際的な「代表性」を維持しながらも、現地政治における影響力を徐々に失っていきました。ファタハとハマスの対立、ガザとヨルダン川西岸の分断の中で、PLOはかつての中心的地位を保てなくなっていきます。

この記事では、PLOの成立背景から、武装闘争による名声の時代、周辺国との衝突、和平路線への転換、そして現在の位置づけに至るまでを、中東戦争の時代感覚と年号の流れを意識しながら、通史的に整理します。

PLOとは何だったのか。そして、なぜその影響力は変質し、低下していったのか。

その答えを、歴史の流れの中から読み解いていきます。

一目で理解するPLOの歴史】

【1948年】
第一次中東戦争

パレスチナ国家は成立せず
パレスチナ問題は周辺アラブ諸国が管理
(=パレスチナ人不在のパレスチナ問題)

【1964年】
PLO設立(アラブ連盟主導)

・初代議長:アフマド・シュケイリ
・政治的主張が中心
・アラブ諸国の影響が強い
→「公式代表組織」だが主体性は弱い

【1967年】
第三次中東戦争(六日戦争)

ヨルダン川西岸・東エルサレム・ガザ地区が占領下に
→ 周辺国任せの限界が明確化
→ パレスチナ人の主体化が進む

【1969年】
アラファトがPLO議長に就任


PLOの性格が一変
・武装闘争路線を明確化
・ファタハ主導の解放運動へ
→ 「革命組織」としてのPLO

【1970年代前半】
抵抗の象徴としての名声
<光>

・カラメの戦い(1968)で象徴化
・アラブ世論・若者の支持を獲得
・1974年 国連総会で演説
→ 国際政治のアクターへ

制御不能の時代<影>

・組織統制の弱体化
・テロと結びついたイメージ
・受け入れ国との摩擦

【1970年】
ヨルダン内戦(黒い九月)


PLO、ヨルダンから追放

【1982年】
イスラエルのレバノン侵攻


PLO、レバノンからも事実上追放
→ 武装闘争の拠点喪失

【1987年】
第一次インティファーダ


現地住民主体の抵抗運動
→ PLOは「外部指導組織」から
 「政治的代表機関」への転換を迫られる

【1988年】
武装闘争中心 → 交渉・外交中心への転換


・拠点喪失(ヨルダン・レバノン)
・第一次インティファーダ(住民主体の抵抗)
・国際承認なしに国家は成立しないという認識

国連決議242・338を受け入れ
二国家共存を事実上承認
→ 外交・交渉路線の本格化

【1993年】
オスロ合意


・イスラエルとPLOが相互承認
・暫定自治開始
→ 革命組織から政治組織へ

【2004年】
アラファト死去


PLOの求心力低下

【現在】
形式的代表性の時代


・国際社会では「正統な代表」
・現地政治では影響力低下
・ファタハとハマスの対立
→ 形式的正統性と現実政治の乖離

目次

第1章 PLO成立以前の背景

なぜ「パレスチナ人自身の代表組織」が必要とされたのか

PLOは、ある日突然誕生した組織ではありません。その成立の背景には、1948年の第一次中東戦争以後に固定化した、「当事者であるパレスチナ人が意思決定から排除されたパレスチナ問題」という構造的矛盾がありました。

1.「パレスチナ人不在」で処理されたパレスチナ問題

第一次中東戦争の結果、パレスチナの主要地域はイスラエルの手を離れ、ヨルダン川西岸はヨルダンが併合し、ガザ地区はエジプトが管理する体制が成立しました。

この段階で、パレスチナ人自身の国家も、統一的な代表組織も存在していませんでした。パレスチナ問題は、エジプト・ヨルダン・シリアなど周辺アラブ諸国の対イスラエル政策の一部として扱われ、当事者であるパレスチナ人は「守られる対象」ではあっても、「意思を表明する主体」ではなかったのです。

難民キャンプに暮らすパレスチナ人の多くは、政治的決定から切り離されたまま、自分たちの将来が他国の外交判断によって左右される現実を受け入れざるを得ませんでした。

2.難民社会に蓄積した不満と主体化への芽生え

しかし1950年代後半になると、この構造に対する不満が、難民キャンプを中心に徐々に蓄積していきます。

「なぜ自分たちの土地の行方を、他国が決めるのか」
「アラブ諸国は本当に、パレスチナ国家の樹立を最優先しているのか」

こうした疑問は、単なる感情的反発ではなく、政治的意識の芽生えでした。

パレスチナ問題を「アラブ世界の一部」として処理する枠組みそのものに限界がある――

この認識が、後に「パレスチナ人自身の代表組織」を求める動きへとつながっていきます。

3.アラブ民族主義の高揚とPLOの誕生

1960年代初頭、アラブ世界では、ガマール・アブドゥル・ナセルに象徴されるアラブ民族主義が最高潮を迎えていました。この潮流の中で、パレスチナ問題もまた、アラブ世界全体の課題として再編されていきます。

1964年、アラブ連盟主導のもと、パレスチナ民族評議会が開催され、パレスチナ解放機構(PLO)が正式に発足しました。

初代議長に就任したのは、アフマド・シュケイリです。ただし、この時点のPLOは、後に知られる姿とは大きく異なっていました。

PLOは依然としてアラブ諸国の影響下にあり、武装闘争よりも政治的主張や外交的アピールが中心でした。つまりこの段階のPLOは、「パレスチナ人自身の組織」でありながら、完全に主体化した存在ではなかったのです。

第2章 PLOの成立と初期の性格(1964年)

アラブ連盟主導で生まれた「公式組織」

PLOは、武装闘争から出発した組織ではありません。1964年の成立当初、その性格はむしろ外交的・制度的なものであり、アラブ諸国の枠組みの中で管理された「公式の代表組織」でした。

この章では、PLOがどのような意図と制約のもとで誕生したのかを整理します。

1.アラブ連盟主導によるPLOの設立

1964年、アラブ連盟の主導により、パレスチナ民族評議会が開催され、パレスチナ解放機構(PLO)が正式に設立されました。

この設立の背景には、パレスチナ問題を「アラブ世界全体の管理下」に置こうとする意図がありました。パレスチナ人自身の代表組織を認めつつも、その行動が各国の対イスラエル政策を逸脱しないよう、制度的に枠をはめる必要があったのです。

初代議長に就任したのは、アフマド・シュケイリでした。彼は外交官出身であり、急進的な武装闘争よりも、国際社会への訴えや政治的正統性の確立を重視する人物でした。

2.成立当初のPLOの性格

1964年当時のPLOは、後に知られる「アラファトのPLO」とは大きく異なる組織でした。その主な特徴は、武装闘争を前面に出す革命組織ではなく、アラブ諸国の合意のもとで活動する政治的代表機関だった点にあります。

PLOは独自の軍事行動をほとんど行わず、主な活動は声明の発表や国際社会へのアピールでした。また、意思決定においてもアラブ諸国、とくにエジプトやヨルダンの影響力が強く、パレスチナ人自身が自由に路線を決められる状況ではありませんでした。

この段階のPLOは、「パレスチナ人の組織」ではあっても、まだ主体的な解放運動とは言えない存在だったのです。

3.初期PLOの限界とその後への伏線

こうした性格は、一定の安定をもたらす一方で、深刻な限界も抱えていました。難民キャンプを中心に高まりつつあった不満や焦燥感に対して、PLOは十分に応えることができなかったからです。

「なぜ我々は自分たちで闘えないのか」
「なぜアラブ諸国の判断に従わなければならないのか」

こうした疑問が、PLOの外部、そして内部から噴き出していきます。この不満こそが、後にファタハの台頭と主導権交代を引き起こす土壌となりました。

4.PLO歴代議長一覧(成立期〜現在)

ここで、PLOの性格変化を理解するために、歴代議長を整理しておきます。

議長在任期間時代的特徴
初代アフマド・シュケイリ1964〜1967年アラブ連盟主導期・政治組織としてのPLO
第2代ヤヒヤ・ハムダ1967〜1969年第三次中東戦争後の過渡期
第3代ヤーセル・アラファト1969〜2004年武装闘争から和平交渉までを主導
第4代マフムード・アッバス2004年〜交渉路線・PLOの影響力低下期

この表からも分かるように、1969年のアラファト就任がPLOの決定的転換点でした。

次章で扱う第三次中東戦争は、この主導権交代を引き起こす直接的な契機となります。

第3章 第三次中東戦争とPLOの転換

1967年の第三次中東戦争(六日戦争)は、パレスチナ問題の構造を根本から変えました。

この敗戦によって、パレスチナ人は「アラブ諸国に委ねる時代」の終わりを悟り、PLOは名目的な組織から、主体的な解放運動へと姿を変えていくことになります。

1.第三次中東戦争が突きつけた現実

1967年6月、イスラエルは周辺アラブ諸国を圧倒し、わずか6日間で決定的な勝利を収めました。この結果、ヨルダン川西岸・東エルサレム、ガザ地区がイスラエルの占領下に置かれます。

この敗北は、単なる領土喪失にとどまりませんでした。

それまでパレスチナ人の多くは、エジプトやヨルダンといったアラブ諸国がイスラエルと戦い、最終的に祖国を取り戻してくれると期待していました。しかし、その前提が完全に崩れ去ったのです。

アラブ諸国は自国の体制維持や国益を優先し、パレスチナ人の国家建設を最優先課題として行動しているわけではない

――この冷酷な現実が、第三次中東戦争によって可視化されました。

2.「敗戦」が生んだパレスチナ人の主体化

第三次中東戦争後、パレスチナ人の意識には決定的な変化が生まれます。それは、「他者に任せる解放」から「自ら担う解放」への転換でした。

占領下に置かれたヨルダン川西岸やガザ地区では、日常的な軍事支配や検問、土地没収が現実となり、抽象的だった「民族問題」は、生活そのものの問題として体験されるようになります。

この経験が、パレスチナ人を単なる「難民」や「被害者」から、政治的主体へと押し出していきました。

こうしてPLOは、アラブ諸国の代理組織ではなく、「パレスチナ人自身の解放運動」を体現する存在であるべきだ、という考え方が急速に広がっていきます。

3.ファタハの台頭とアラファトの指導力

この流れの中で急速に存在感を高めたのが、ファタハです。ファタハは、特定のアラブ国家に依存せず、パレスチナ人自身による武装闘争を掲げる組織でした。

その指導者として頭角を現したのが、ヤーセル・アラファトです。彼はカリスマ的指導力と政治的柔軟性を併せ持ち、分散していたパレスチナ人の不満と希望を一つの運動へと束ねていきました。

1969年、アラファトはパレスチナ解放機構(PLO)の議長に就任します。

これによりPLOは、従来の名目的な解放機関から、明確な意思と行動を持つ武装解放組織へと転換しました。

ただし、この時点でのPLOの武装闘争路線は、「勝利のための現実的戦略」というよりも、「存在を世界に示すための手段」という側面が強かった点も重要です。

この選択が、後にヨルダンやレバノンとの深刻な摩擦を生み、PLO自身の立場をさらに複雑化させていくことになります。

第4章 名声の時代――英雄としてのPLO

1970年代前半、PLOはアラブ世界と国際社会の注目を一身に集め、その存在感は最高潮に達しました。

武装闘争を前面に掲げながらも、「抑圧に抵抗する民族運動」として語られたこの時代は、PLOが“英雄”として語られた数少ない局面でもあります。

1.1968年「カラメの戦い」という神話の誕生

カラメの戦いは、PLOの名声を決定づけた象徴的出来事でした。

1968年、ヨルダン領内のカラメ村で、イスラエル軍はPLO拠点への越境攻撃を行います。軍事的に見れば、この戦闘はイスラエル側が大きな損害を被ることなく撤退したもので、決定的勝利とは言えませんでした。

しかし重要なのは、「イスラエル軍に真正面から抵抗したパレスチナ人」という物語が生まれたことです。

第三次中東戦争で完敗した直後のアラブ世界において、この出来事は象徴的な意味を持ちました。敗北の連鎖の中で、初めて示された「抵抗の成功例」として、カラメの戦いは急速に神話化されていきます。

この結果、PLOはアラブ諸国の若者から圧倒的な支持を集め、民族解放の最前線に立つ存在として語られるようになりました。

2.英雄であるがゆえの「厄介者」

一方で、PLOの名声は周辺諸国にとって深刻なジレンマをもたらしました。

PLOを支持すればアラブ世論の喝采を得られますが、国内にPLO拠点を抱え込むことは、主権の侵食やイスラエルからの報復を招く危険を意味します。

逆に、PLOの活動を抑え込めば、「パレスチナの大義を裏切る政権」として非難されかねませんでした。こうしてPLOは、「アラブ世界の英雄」であると同時に、「国家秩序を揺るがす存在」へと変わっていきます。

この二面性は、後にヨルダンでの武力衝突や、レバノン内戦への深い関与へとつながっていきます。PLOの名声は、同時に不安定さと危険性を内包したものであり、この時点ですでに「栄光と破綻の芽」は同時に育っていたのです。

3.1974年、国際政治の舞台へ

1974年は、PLOが国際的な正統性を獲得した画期的な年でした。

この年、アラブ連盟は、PLOを「パレスチナ人の唯一の正統な代表」と公式に認定します。これによりPLOは、単なる武装組織ではなく、パレスチナ民族を代表する政治主体として位置づけられました。

同年、ヤーセル・アラファトは国連総会で歴史的な演説を行います。そこで彼が語った「片手にオリーブの枝、もう片手に銃を持っている」という言葉は、PLOの立場を象徴的に表現したものでした。

オリーブの枝は和平と対話の意思を、銃は武装抵抗の継続を意味します。つまりこの比喩は、「我々は和平を望んでいるが、抑圧が続く限り武装闘争を放棄しない」という二重のメッセージでした。これは国際社会への呼びかけであると同時に、支持基盤である武装勢力への配慮でもあったのです。

この瞬間、PLOは世界の注目を浴び、国際政治の正式なアクターとして認知されるに至りました。しかし同時に、武装闘争を正当化し続けるという選択は、次第に国際的な批判と孤立を招いていくことになります。

第5章 制御不能化するPLO

名声の裏で拡大した「統制不能」と国際的反発

1970年代に入ると、PLOはアラブ世界と国際社会の注目を集める一方で、深刻な矛盾を抱え込むようになります。

武装闘争の象徴性が組織統制を上回り、さらに国際世論、とりわけ西側諸国が急速にPLOから距離を取り始めたことが、その後の運命を大きく左右しました。

1.「象徴としての武装闘争」が統制を超えた瞬間

第三次中東戦争以降、パレスチナ解放機構(PLO)は、「抵抗の象徴」として強い影響力を持つようになりました。

しかし、この象徴性は、必ずしも組織の一体性や統制力を意味するものではありませんでした。

PLOは複数の武装組織や政治派閥の連合体であり、指導部がすべての行動を完全に掌握していたわけではありません。

とくに若い戦闘員や急進派の間では、「大胆な行動こそが世界の注目を集め、パレスチナ問題を忘れさせない」という意識が強まり、中央指導部の方針よりも象徴的インパクトが優先される傾向が強まっていきました。

この時点でPLOは、政治組織でありながら、同時に制御の難しい武装ネットワークという二重の性格を帯びるようになります。

2.1972年ミュンヘン五輪事件と国際世論の転換

1972年に起きたミュンヘン五輪事件は、この矛盾を一気に表面化させました。

この事件によって、世界中の注目は一気にパレスチナ問題へ集まりましたが、その文脈はそれまでとは大きく異なるものでした。

それまで「民族解放運動」として一定の理解を得ていたPLOは、この事件を境に、「国際テロ」という枠組みで語られる場面が急増します。

PLO指導部は事件への直接関与を否定しましたが、傘組織という性格上、完全な統制を示すことはできませんでした。

その結果、「関与していない」という主張は、かえって「制御できていない組織」「暴力を黙認している可能性」という疑念を国際社会に抱かせることになります。

この時期から、西側諸国の世論は急速に冷え込み、PLOは支持と共感を失い始めていきました。

3.PLO内部で深まる路線対立

国際的反発の高まりは、PLO内部の亀裂も鮮明にしました。

一方では、「過激な行動こそが世界の注目を集め、パレスチナ問題を可視化する」という主張があり、他方では、「外交的正統性を失えば、将来的な国家建設は不可能になる」という現実的な見方が存在しました。

この対立は、単なる戦術論争ではありませんでした。

それは、PLOが象徴的抵抗運動であり続けるのか、それとも国家を目指す政治主体へ移行するのかという、組織の根幹をめぐる選択だったのです。

しかし1970年代のPLOは、この二つを同時に満たそうとし、結果としてどちらも中途半端な形で抱え込むことになります。この曖昧さが、後の路線転換をさらに困難なものにしていきました。

4.受け入れ国にとっての「制御不能な存在」

PLOの不安定さは、組織内部だけの問題ではありませんでした。PLOを受け入れていた周辺アラブ諸国にとっても、それは次第に深刻な負担となっていきます。

PLOの存在は国内世論の支持を集める一方で、イスラエルからの報復や国際的圧力を招く要因ともなりました。

さらに、武装勢力が国家の枠を超えて行動する状況は、主権国家にとって看過できない問題でした。

こうしてPLOは、「支持すれば危険」「抑え込めば裏切り者と見なされる」という、極めて扱いづらい存在へと変わっていきます。

この矛盾はやがて、ヨルダンやレバノンとの深刻な衝突として噴出し、PLOが活動拠点を追われていく過程へとつながっていくことになります。

第6章 ヨルダンとレバノンからの追放

なぜPLOは居場所を失ったのか

PLOが1980年代後半に和平路線へ転換していく背景には、「武装闘争の限界」を痛感させられた一連の経験があります。

その核心にあるのが、ヨルダンレバノンという二つの拠点からの追放でした。ここは、PLOの戦略が根本的に揺らいだ決定的な局面です。

1.ヨルダンで生じた「国家の中の国家」

第三次中東戦争後、PLOはヨルダン国内に活動拠点を広げていきました。

ヨルダン川西岸を失ったことで、多数のパレスチナ難民と武装組織が国内に集中し、PLOは事実上、ヨルダンを対イスラエル闘争の前線基地として利用するようになります。

しかし時間が経つにつれ、PLOの行動は単なるゲリラ活動の域を超えていきました。

独自の検問、武装部隊による治安維持、さらには国外への攻撃作戦など、PLOは国家機能の一部を代替する存在となっていきます。

これはヨルダンにとって、「同盟関係」ではなく、主権の侵食を意味しました。ヨルダン国王であるフセイン1世にとって、PLOの存在はイスラエルとの戦争リスクを高めるだけでなく、王制そのものを脅かす要因となっていったのです。

2.1970年「黒い九月」とPLOの排除

1970年、ヨルダン政府はついに軍を動かし、PLOの武装勢力を一斉に排除します。この内戦的衝突は、後に黒い九月と呼ばれるようになります。

この出来事は、PLOにとって大きな衝撃でした。アラブ国家の内部に拠点を置きながら、武装闘争を続けることは、最終的に「国家との正面衝突」を避けられないことを意味していたからです。

PLOはヨルダンから追放され、拠点をレバノンへと移します。しかし、この移動は問題の解決ではなく、むしろ新たな矛盾の始まりでした。

3.レバノン内戦とPLOの再浮上

レバノンは、ヨルダン以上に複雑な国家でした。

キリスト教徒、スンナ派、シーア派、ドゥルーズ派など、多宗派が微妙な均衡の上に国家を成り立たせており、中央政府の統制力は決して強くありませんでした。

PLOはこの脆弱な構造の中で、再び「準国家的存在」として行動範囲を広げていきます。イスラエルへの攻撃拠点となる一方で、レバノン内戦の各勢力とも深く関わり、PLOの存在は内戦構造そのものと絡み合っていきました。

この結果、PLOは単なる「パレスチナ解放運動」ではなく、レバノン情勢を不安定化させる一因として国際的にも認識されるようになります。

4.1982年レバノン侵攻と壊滅的打撃

1982年、イスラエルはレバノン侵攻を実施し、PLO拠点を徹底的に攻撃します。ベイルートは包囲され、PLOの軍事基盤と指導部は壊滅的な打撃を受けました。

この侵攻により、PLOはレバノンからも事実上追放され、指導部はチュニジアなど国外へ移転せざるを得なくなります。

もはや、どのアラブ国家にも「恒常的な拠点」を持つことは不可能であることが明らかになりました。

5.追放が突きつけた厳しい現実

ヨルダン、レバノンという二つの経験が、PLOに突きつけた結論は明確でした。それは、「武装闘争を続ける限り、いかなる主権国家もPLOを内部に抱え込むことはできない」という現実です。

国家の外から戦うゲリラ組織であることは可能でも、国家の内側に拠点を持ち続けることは許されない――

この構造的限界こそが、PLOを次の段階へと押し出しました。

こうしてPLOは、武装闘争一本では生き残れないことを悟り、やがて「交渉」と「外交」を軸とする路線転換へと踏み出していくことになります。

この転換は理想の選択ではなく、追放の積み重ねがもたらした必然だったのです。

第7章 1980年代後半の路線転換

武装闘争を続ければ、国家は永遠に生まれない

1980年代後半、PLOは創設以来もっとも根本的な選択を迫られました。それは、武装闘争を解放の中心に据え続けるのか、それとも国家建設を現実の目標として戦略を転換するのか、という問いでした。

この転換は理想主義の放棄ではなく、生存と国家形成のための必然的な決断でした。

1.拠点喪失が突きつけた戦略的限界

1982年のレバノン侵攻以降、パレスチナ解放機構(PLO)は、安定した活動拠点を完全に失いました。

ヨルダン、レバノンという二つの拠点から追放された経験は、武装闘争を継続するための地理的・軍事的基盤が、もはや存在しないことを意味していました。

さらに重要なのは、軍事バランスの現実です。イスラエルを軍事的に打倒する可能性は極めて低く、仮に周辺国の支援を得たとしても、主権国家としてPLOを内部に抱え込む国は存在しない

――この認識が、指導部の間で共有されるようになります。

武装闘争は象徴としては有効でも、国家を生み出す手段としては限界に達していました。

2.第一次インティファーダが示した「主役の交代」

1987年に始まった第一次インティファーダは、PLOの立場をさらに揺さぶります。

この蜂起の特徴は、国外にいるPLO指導部ではなく、ヨルダン川西岸やガザ地区の住民自身が主体となって抵抗を展開した点にありました。

石を投げる少年や、市民による抗議行動は、武装組織主導の闘争とは異なる形で国際社会の共感を集めました。

この現実は、PLOにとって重い意味を持ちます。もはや「外部から革命を指導する組織」ではなく、「現地住民の意思を代表する政治的存在」へと役割を変えなければ、正統性を維持できなくなったからです。

インティファーダは、PLOの路線転換を後押ししたというよりも、「転換を避けられなくした出来事」でした。

3.1988年の決断と二国家共存の受容

こうした状況を受け、1988年、PLOは歴史的な決断を下します。国連の停戦と和平を定めた決議を受け入れ、事実上、イスラエルの存在と二国家共存の枠組みを承認したのです。

この選択は、しばしば「敗北」や「妥協」として語られます。しかし実態は、武装闘争では到達できない目標――国際的に承認された国家の樹立――へ向かうための戦略転換でした。

国際社会、とりわけ国際連合の枠組みの中で正統性を獲得しなければ、国家は誕生しえないという現実を、PLOは受け入れたのです。

この時点でPLOは、解放運動の象徴から、交渉と外交を通じて国家を目指す政治主体へと性格を大きく変えていきます。

4.路線転換の意味とその代償

1980年代後半の路線転換は、PLOに新たな可能性を開く一方で、内部の分裂や支持基盤の動揺も引き起こしました。

武装闘争を信じてきた人々にとって、この決断は裏切りにも映ったからです。それでもPLOは、はっきりとした結論に到達していました。

武装闘争を続ける限り、国家は永遠に生まれない。

この認識こそが、後の和平交渉、そしてオスロ合意へと続く道を切り開いていくことになります。

第8章 オスロ合意とPLOの到達点と限界

革命組織から交渉主体へ

1993年のオスロ合意は、PLOの歴史における最大の転換点でした。

それは単なる和平合意ではなく、PLOが「革命的解放組織」から「交渉と統治を担う政治主体」へと性格を根本的に変えた瞬間だったのです。

1.相互承認という歴史的転換

1993年、オスロ合意によって、イスラエルとパレスチナ解放機構(PLO)は相互承認に踏み切りました。

イスラエルはPLOをパレスチナ人の正当な代表として認め、PLOはイスラエルの存在を公式に承認します。

これは、長年「存在そのものを否定する関係」にあった両者にとって、画期的な変化でした。

とくにPLOにとって重要だったのは、国際社会の枠組みの中で、初めて正式な交渉主体として認められた点です。ここに至って、PLOはもはや地下的な革命組織ではなく、外交と合意を通じて未来を切り開く存在へと位置づけられました。

2.政治組織への変貌と新たな役割

オスロ合意以降、PLOは大きくその性格を変えていきます。

それまで中心だった武装闘争や象徴的抵抗は後景に退き、行政・外交・統治という現実的な役割が前面に出るようになりました。

暫定自治の枠組みの中で、PLOは治安維持や行政運営を担い、住民の生活と直接向き合う存在になります。

これは、国家建設への具体的な第一歩であると同時に、PLOにとって未知の領域への挑戦でもありました。

革命を掲げる組織が、日常的な行政や妥協を引き受ける政治主体へ変わる――

この転換は、PLOが長年目指してきた「国家への道」が、理想ではなく現実の問題として立ち現れたことを意味していました。

3.「到達点」としてのオスロ合意

オスロ合意は、PLOにとって一つの到達点でした。

武装闘争では決して得られなかった国際的承認と、限定的ではあれ自治の枠組みを獲得したからです。

PLOはこの時点で、「パレスチナ人を代表する存在として国際的に認められる」という、創設当初からの目標を部分的に実現しました。

この意味で、オスロ合意はPLOの歴史的成果と位置づけることができます。

4.同時に露わになった限界

しかし、オスロ合意は同時に深刻な限界も露呈させました。

妥協、段階的自治、交渉の積み重ねというプロセスは、即時的な解放や主権国家の樹立をもたらすものではありませんでした。

この現実は、かつてPLOを「抵抗の象徴」として支持してきた人々の失望を招きます。

革命的イメージを失ったPLOは、次第に官僚的で妥協的な存在として見られるようになり、支持の一部はより急進的な勢力へと流れていきました。

さらに、自治の枠組みはイスラエルの軍事的・政治的優位の下で運用され、PLOが自由に国家建設を進められる環境ではありませんでした。PLOは「交渉主体」にはなれたものの、「完全な主権国家の担い手」には至らなかったのです。

5.革命の終焉か、新たな段階か

オスロ合意は、PLOの革命が終わったことを意味したのでしょうか。

むしろそれは、革命を掲げる組織が、現実政治の中で国家を目指す段階へ移行したことを示していたと言えます。

ただし、その道は困難で、矛盾と妥協に満ちたものでした。PLOはここで、「象徴としての正しさ」と「政治としての現実」の間に立たされ続ける存在となったのです。

第9章 アラファト死後のPLOと影響力の低下

影響力はどこへ消えたのか

2004年のアラファト死去は、PLOにとって一つの時代の終わりを意味しました。

それ以降、PLOは形式上は存続し続けているものの、かつてのようにパレスチナ問題の中心に立つ存在ではなくなっていきます。この章では、アラファト死後のPLOが直面した変化と、その影響力低下の理由を整理します。

1.アラファトという「象徴」の喪失

ヤーセル・アラファトは、PLOそのものでした。彼は革命の象徴であり、外交交渉の顔であり、分裂しがちな組織をまとめ上げる調整者でもありました。

そのアラファトが死去すると、PLOは急速に求心力を失います。後継指導部は制度的には正統性を持っていましたが、アラファトのように「抵抗と交渉の両方を体現する象徴性」を持つことはできませんでした。

この時点でPLOは、革命を語る存在でもなく、交渉を主導する唯一の主体でもない、中途半端な位置に置かれることになります。

2.「PLO」と「パレスチナ自治政府」のねじれ

オスロ合意以降、PLOは次第に、パレスチナ自治政府の背後に退いていきます。

実際の行政や治安、住民生活と直接向き合うのは自治政府であり、PLOは対外的な代表機関としての役割に限定されていきました。

この役割分担は、国家建設の過程としては合理的でしたが、同時にPLOの存在感を薄める結果にもなります。人々の不満や期待は自治政府に向けられ、PLOは「何をしている組織なのか分かりにくい存在」へと変わっていきました。

PLOは依然としてパレスチナ人全体の代表という建前を持ちながらも、実際の政治の重心は別の場所へ移っていったのです。

3.ファタハとハマスの対立構造

アラファト死後のパレスチナ政治を決定づけたのが、ファタハとハマスの対立です。

ファタハはPLOの中核として、交渉路線と国際協調を重視してきました。一方、ハマスはオスロ体制そのものを否定し、武装抵抗を正当化する立場を取ります。

この対立の中で、PLOは決定的に不利な立場に置かれました。なぜなら、ハマスはPLOの正式メンバーではなく、PLOはもはや「すべてのパレスチナ勢力を包含する組織」ではなくなったからです。

パレスチナ政治の主戦場が、PLO内部ではなく、ファタハとハマスの権力闘争へと移行したことで、PLOの存在感は急速に後景化していきました。

4.ガザとヨルダン川西岸の分断

2000年代後半以降、ガザ地区とヨルダン川西岸は事実上分断された政治空間となります。

ガザではハマスが実効支配を行い、ヨルダン川西岸ではファタハ主導の自治政府が統治を続ける体制が固定化しました。

この分断は、PLOの役割をさらに曖昧にします。本来、全パレスチナ人を代表するはずのPLOが、実際には分断された現実を統合する力を持たなくなったからです。

PLOは国際社会との窓口としては存続しているものの、現地の政治動態を左右する主体ではなくなっていきました。

5.現在のPLOが置かれている位置

現在のPLOは、解体されたわけでも、完全に消滅したわけでもありません。しかしその役割は、かつてとは大きく異なります。

PLOはもはや、武装闘争を指導する革命組織でもなく、パレスチナ政治を一元的に統合する中心でもありません。

それでもなお、PLOは国際社会において「パレスチナ人の正統な代表」として扱われ続けています。この形式的正統性と、現実政治での影響力の乖離こそが、アラファト死後のPLOを特徴づける最大のポイントです。

PLOは今、歴史的役割を終えた組織なのか、それとも再編の可能性を残す存在なのか――

その答えは、パレスチナ問題そのものがどの方向へ向かうのかと、深く結びついています。

第10章 PLOとは何だったのか

成立・転換・衰退から見える歴史的教訓

PLOの歴史は、単なる一組織の興亡ではありません。

それは、祖国を持たない民族が、武装闘争・国際政治・国家建設という三つの段階を模索し続けた過程そのものでした。ここでは、PLOの歩みを総括し、その歴史的意味を整理します。

1.「代理解放」から「主体的解放」への転換点

PLOの最大の歴史的意義は、パレスチナ問題を「周辺アラブ諸国の問題」から、「パレスチナ人自身の問題」へと転換させた点にあります。

第三次中東戦争以前、パレスチナ解放はアラブ諸国の軍事行動に委ねられていました。しかし敗戦を経て、PLOは「自ら闘わなければ何も始まらない」という認識を前面に押し出します。

この意味でPLOは、パレスチナ人を国際政治の客体から主体へと押し上げた存在でした。その象徴が、ヤーセル・アラファトの登場と、PLOが民族全体を代表する組織として承認されていく過程です。

2.武装闘争がもたらした成果と限界

PLOは、武装闘争によって世界の注目を集め、パレスチナ問題を国際政治の議題に押し上げました。この点で、武装闘争は一定の成果を上げたと言えます。

しかし同時に、武装闘争は組織統制の困難さと国際的孤立を招きました。ヨルダンやレバノンからの追放が示したように、主権国家の内部に拠点を持つゲリラ組織は、必然的に国家と衝突します。

武装闘争は「抵抗の象徴」にはなれても、「国家建設の手段」にはなりえなかったのです。

この矛盾は、PLOがどこかで路線転換を迫られる運命にあったことを示しています。

3.交渉主体への転換と到達点

1980年代後半以降、PLOは武装闘争の限界を認め、外交と交渉を軸とする路線へと転換しました。

その到達点が、1993年のオスロ合意です。

この合意によって、PLOは国際社会に正式な交渉主体として承認され、限定的とはいえ自治への道を切り開きました。

これは、創設当初には想像し得なかった成果であり、PLOが掲げてきた「国家への道」が初めて具体的な形を取った瞬間でもありました。

一方で、交渉主体になることは、革命組織としての象徴性を失うことでもありました。PLOはここで、「闘う正しさ」よりも「妥協する現実」を引き受ける存在へと変わっていきます。

4.アラファト死後に露わになった脆さ

アラファト死後、PLOは急速に影響力を低下させました。それは、PLOが制度として完成していなかったこと、そしてカリスマ的指導者の調整力に大きく依存していたことを意味します。

ファタハとハマスの対立、ガザとヨルダン川西岸の分断は、PLOが「全パレスチナ人を代表する組織」であり続けることの難しさを浮き彫りにしました。

形式的な正統性は残ったものの、現実政治を動かす力は別の場所へ移っていったのです。

5.PLOの歴史が示す教訓

PLOの歴史が示す最大の教訓は、次の点にあります。

民族解放運動は、象徴としては成立しても、国家を生み出すためには別の論理が必要だということです。

武装闘争、国際承認、統治能力――

これらは同時に満たすことが極めて難しく、どこかで必ず緊張関係を生みます。PLOはその矛盾を一身に引き受けた存在でした。

だからこそ、PLOは単なる「成功」や「失敗」で評価できる組織ではありません。それは、現代中東において、国家なき民族が直面した可能性と限界を最も端的に体現した存在だったのです。

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