インティファーダとは、アラビア語で「蜂起」「立ち上がり」を意味し、イスラエル占領下に置かれたパレスチナ地域で起きた大規模な民衆抵抗運動を指します。
このインティファーダは、1987年に始まった第一次と、2000年に始まった第二次の二度にわたって発生しましたが、両者は同じ名称で呼ばれながらも、その性格と歴史的意味は大きく異なっていました。
第一次インティファーダは、占領下の住民が主体となった社会運動型の抵抗であり、武装闘争中心だったパレスチナ解放運動の在り方を根本から問い直す契機となりました。
一方、第二次インティファーダは、武装化と暴力の連鎖が前面に出た衝突へと変質し、和平プロセスの崩壊とパレスチナ政治の分断を決定づける出来事となります。
この二つのインティファーダを分けて理解することは、パレスチナ闘争が「住民主体の抵抗」から「武装化と分断の時代」へどのように転換していったのかを読み解く鍵になります。
本記事では、インティファーダとは何だったのかを整理したうえで、第一次と第二次の違いに焦点を当て、パレスチナ闘争とPLOの立場がどのように変化していったのかを、歴史の流れの中で解説します。
第1章 インティファーダ以前のパレスチナ闘争の構造
「占領」と「外部指導」による行き詰まり
インティファーダは、突発的な暴動や感情的反発として起きたものではありません。それは、長期化する占領体制と、国外に拠点を置く解放運動とのあいだに生じたズレが、限界点に達した結果でした。
ここでは、インティファーダ以前のパレスチナ闘争が抱えていた構造的特徴を整理します。
1.1967年以降に固定化した「占領の現実」
1967年の第三次中東戦争以降、ヨルダン川西岸、東エルサレム、ガザ地区はイスラエルの占領下に置かれました。この占領は一時的措置ではなく、数十年にわたって日常化していきます。
検問、移動制限、土地収用、入植地の拡大といった状況は、パレスチナ人にとって「戦争」ではなく「生活の条件」となりました。
占領は、銃声が鳴らない日にも続く統治の仕組みであり、住民は日々その影響を直接受ける存在だったのです。
この「慢性的な占領」が、後のインティファーダの最大の前提条件でした。
2.国外拠点型の闘争と現地社会の乖離
1960〜70年代のパレスチナ解放運動は、主にパレスチナ解放機構(PLO)を中心に展開されました。PLOは武装闘争を通じて国際的な注目を集め、パレスチナ問題を世界政治の議題へ押し上げることに成功します。
しかしその活動拠点は、ヨルダンやレバノンなどパレスチナ地域の外部にありました。その結果、闘争の主導権は国外指導部が握り、占領下で生活する住民の日常的な不満や要求とは、次第に距離が生まれていきます。
PLOは「民族の代表」であり続けましたが、占領下社会の具体的な現実を直接動かす存在ではなくなっていったのです。
3.追放と停滞が生んだ行き詰まり
1970年のヨルダンでの衝突、1982年のレバノン侵攻によって、PLOは主要な活動拠点を相次いで失いました。この過程で、武装闘争を継続するための軍事的・地理的基盤は大きく弱体化します。
一方で、占領地の内部では状況が改善されることはなく、住民の不満は蓄積し続けていました。
「誰がこの現実を変えるのか」
「国外の指導部は、私たちの生活を本当に代表しているのか」
こうした疑問が、難民キャンプや都市部の若者を中心に広がっていきます。インティファーダとは、この問いに対する現地社会からの直接的な回答だったのです。
4.インティファーダが意味する転換点
このように見ると、インティファーダは、パレスチナ闘争の重心が「国外拠点の武装闘争」から「占領下住民による集団的抵抗」へ移行したことを示す転換点でした。
次章では、この転換が具体的にどのような形で現れたのかを、第一次インティファーダの展開を通して詳しく見ていきます。
そこでは、なぜ第一次インティファーダがPLOの路線転換とオスロ合意へ直結したのかが、よりはっきりと見えてくるはずです。
5.エジプト=イスラエル和平がもたらした衝撃
1970年代後半、パレスチナ解放運動にとって大きな転換点となったのが、エジプトとイスラエルの和平でした。
1978年のキャンプ・デービッド合意、1979年の平和条約によって、アラブ世界の中心的国家であったエジプトは、イスラエルとの二国間和平を選択します。
この決断は、PLOに深刻な衝撃を与えました。それまでパレスチナ問題は「アラブ全体の課題」として語られてきましたが、エジプトは自国の国益を優先し、パレスチナ問題を事実上棚上げしたからです。
この和平によって、アラブ諸国が軍事的にイスラエルと対峙し、その中でパレスチナが解放されるという構図は崩れました。PLOは、周辺国に依存する戦略がもはや機能しないという現実を突きつけられ、次第に孤立を深めていきます。
この孤立こそが、後に続く追放や武装闘争の限界、そして現地住民主体の抵抗へとつながる重要な前提条件でした。
第2章 第一次インティファーダ(1987〜1993年)
住民主体の抵抗がもたらした闘争の転換
第一次インティファーダは、パレスチナ闘争の歴史において決定的な意味を持つ出来事でした。
それは武装組織が主導する闘争ではなく、占領下で暮らす住民自身が主体となって展開した抵抗運動であり、闘争のあり方そのものを変えていきます。
1.1987年、占領下社会から始まった蜂起
第一次インティファーダは1987年、ガザ地区で発生した交通事故をきっかけに急速に拡大しました。
しかし重要なのは、単一の事件が原因だったのではなく、長年にわたる占領への不満が、すでに社会全体に蓄積していた点です。
若者による投石、住民によるデモやストライキ、商店の一斉閉鎖といった行動は、自然発生的に各地へ広がっていきました。これらは中央から命令された軍事作戦ではなく、地域社会が自ら判断し、連帯して行動する形で進められた抵抗でした。
ここに、従来の武装闘争とは質的に異なる特徴がありました。
2.「武装闘争」ではなく「社会運動」としての抵抗
第一次インティファーダの最大の特徴は、その非軍事的性格にあります。銃や爆発物を用いた戦闘ではなく、日常生活の中で占領に抵抗する行為が積み重ねられました。
税の支払い拒否、学校や商店の閉鎖、ボイコットといった行動は、占領統治を機能不全に陥らせることを狙ったものでした。これは、軍事的勝利ではなく、政治的圧力を生み出すことを目的とした抵抗だったと言えます。
その結果、パレスチナ人は「武装勢力」ではなく、「占領下で生活する市民」として国際社会に認識されるようになります。この変化は、国際世論において非常に大きな意味を持ちました。
3.PLOに突きつけられた役割変更
第一次インティファーダは、パレスチナ解放機構(PLO)にとっても転機となりました。それまでPLOは、国外拠点から武装闘争を主導する「革命組織」として存在感を示してきました。
しかし、闘争の主役が現地住民に移ったことで、PLOの役割は根本的に問い直されます。もはや外部から闘争を指導するだけでは不十分であり、住民の意思を国際政治の場で代表し、具体的な成果につなげる存在であることが求められました。
この圧力の下で、PLOは「象徴としての抵抗組織」から、「政治的代表機関」へと役割を変えざるを得なくなっていきます。
4.路線転換への直接的な影響
第一次インティファーダがもたらした現実は明確でした。武装闘争だけでは占領は終わらず、国家建設にもつながらないという認識が、指導部の中で共有されるようになります。
この流れの中で、PLOは1988年に国連決議242・338を受け入れ、二国家共存を事実上承認しました。これは理念の放棄ではなく、住民主体の抵抗を国際政治の枠組みへと接続するための戦略的転換でした。
第一次インティファーダは、オスロ合意への「直接の原因」ではありません。しかし、オスロ合意が成立するための条件を整えたという点で、決定的な前提となった出来事だったのです。
5.第一次インティファーダの歴史的意義
第一次インティファーダの意義は、短期的な成果よりも、闘争の構造を変えた点にあります。
それは、パレスチナ闘争を武装組織中心の抵抗から、社会全体による政治的抵抗へと転換させました。
この転換があったからこそ、PLOは交渉主体として認められ、和平プロセスが現実の選択肢として浮上します。同時に、この動きは、後に別の路線を掲げる勢力が台頭する土壌も生み出していきました。
次章では、この第一次インティファーダがどのような成果と限界を残したのか、そしてそれが第二次インティファーダへどのようにつながっていくのかを検討します。
第3章 第一次インティファーダの成果と限界
オスロ合意は何をもたらし、何を残したのか
第一次インティファーダは、パレスチナ闘争の流れを大きく変えました。しかしその成果は恒久的な解決ではなく、むしろ新たな緊張と失望を内包するものでした。
この章では、第一次インティファーダがもたらした到達点と、そこに潜んでいた限界を整理します。
1.交渉の扉を開いたという「成果」
第一次インティファーダの最大の成果は、パレスチナ問題を国際政治の中心議題へ押し上げたことにあります。住民主体の抵抗運動は、武装闘争中心だった従来の闘争像を覆し、「占領と住民の権利」という枠組みで問題を捉え直す契機となりました。
この流れの中で、パレスチナ解放機構(PLO)は交渉主体としての正統性を強め、1993年のオスロ合意へとつながっていきます。
オスロ合意は、イスラエルとPLOが相互承認に踏み切った点で画期的でした。それは、パレスチナ闘争が武装闘争一辺倒ではなく、外交と交渉によって前進しうることを初めて示した合意だったのです。
2.「段階的自治」という不完全な到達点
一方で、オスロ合意がもたらしたのは完全な独立ではありませんでした。合意の枠組みは暫定自治にとどまり、最終的な地位問題(国境、エルサレム、難民、入植地)は先送りされます。
この段階的アプローチは、現実的な妥協であると同時に、住民の期待とのズレを生みました。占領の終結や国家樹立を早期に期待していた人々にとって、自治の拡大は「前進」であると同時に「停滞」にも映ったのです。
第一次インティファーダによって高まった希望は、十分に回収されないまま宙に浮くことになります。
3.現地社会に広がった失望と不信
オスロ体制下でも、検問や移動制限、入植地の拡大は完全には止まりませんでした。占領の実感が日常から消えなかったことで、住民の間には次第に不満が蓄積していきます。
この過程で、PLO主導の交渉路線に対する信頼は揺らぎ始めました。
「交渉は本当に現実を変えているのか」
「妥協ばかりが積み重なっていないか」
こうした疑問は、特に若い世代やガザ地区で強く意識されるようになります。
4.第一次インティファーダが残した「二つの遺産」
第一次インティファーダは、相反する二つの遺産を残しました。
一つは、交渉と国際承認への道を開いたという積極的な遺産です。もう一つは、期待が裏切られたときの失望が、より過激な方向へ転じうるという負の遺産でした。
この後者の側面が、2000年以降の展開に大きな影響を与えます。交渉が行き詰まり、成果が実感できなくなったとき、再び「力による抵抗」が選択肢として浮上していくのです。
5.第二次インティファーダへの伏線
こうして第一次インティファーダは、和平への道を開くと同時に、次なる衝突の条件も整えてしまいました。
希望と失望が交錯する中で、パレスチナ社会は次の局面へと進んでいきます。
次章では、こうした状況の中で勃発した第二次インティファーダを取り上げ、なぜ闘争は再び武装化し、第一次とはまったく異なる性格を帯びることになったのかを検討します。
第4章 第二次インティファーダ(2000年〜)
武装化と和平プロセスの崩壊
第二次インティファーダは、第一次とは性格を大きく異にする闘争でした。
それは住民主体の社会運動ではなく、武装化と軍事衝突が前面に出た抵抗であり、オスロ合意以後に積み重なった失望が、暴力的な形で噴き出した出来事だったのです。
1.勃発の背景―和平への期待が崩れた瞬間
第二次インティファーダは2000年、アリエル・シャロンによるエルサレム旧市街の神殿の丘(ハラム・アッシャリーフ)訪問をきっかけに始まりました。ただし、この出来事は「引き金」にすぎません。
本質的な背景には、オスロ合意以降も占領の実感が薄れなかった現実があります。検問や移動制限、入植地の拡大が続く中で、交渉による改善を信じてきた人々の期待は次第に失われていきました。
和平プロセスが進まないという認識が広がったとき、社会に蓄積していた不満は、より急進的な形で噴出することになります。
2.第一次との決定的な違い―武装化した抵抗
第二次インティファーダの最大の特徴は、その武装化にあります。投石やデモが象徴だった第一次とは異なり、銃撃や爆弾攻撃が闘争の中心となりました。
この変化は、闘争の主体と組織構造の変化を反映しています。現地住民の自発的行動よりも、武装勢力の作戦が前面に出るようになり、抵抗は社会運動から軍事衝突へと性格を変えていきました。
その結果、イスラエル側の軍事的対応も一層強硬になり、暴力の連鎖が拡大していきます。
3.PLOと自治政府の立場の弱体化
第二次インティファーダは、パレスチナ解放機構(PLO)および自治政府にとって、極めて困難な局面でした。交渉路線を掲げてきたPLOは、武装化した抵抗を完全に統制することができず、和平の担い手としての信頼を失っていきます。
一方で、交渉の成果を実感できない状況の中、PLO主導の路線は現地社会からも支持を失い始めました。ここでPLOは、「代表性はあるが、現実を動かせない存在」という評価を強められていきます。
第二次インティファーダは、PLOがすでに闘争の中心的主体ではなくなっていたことを、はっきりと示す出来事でもありました。
4.武装路線の台頭と政治的分断
この時期、交渉を否定する立場を取る武装勢力が存在感を増していきます。
武装抵抗は、即効性のある「行動」として支持を集めやすく、和平路線への失望と結びついて急速に広がりました。
その結果、パレスチナ政治は次第に分断され、交渉を重視する勢力と、武装抵抗を正当化する勢力の対立が深刻化していきます。
この分断は、後のガザとヨルダン川西岸の分離支配へとつながり、PLOが全体を統合することをさらに困難にしました。
5.第二次インティファーダの歴史的意味
第二次インティファーダの歴史的意味は、和平プロセスが不可逆的に後退した点にあります。それは、交渉による解決が信頼を失ったとき、闘争はより過激な形で再燃しうることを示しました。
第一次インティファーダが「交渉への道」を開いた出来事だったとすれば、第二次インティファーダは「その道が閉ざされた瞬間」を象徴しています。
次章では、第一次と第二次のインティファーダを直接比較し、なぜ同じ「蜂起」がまったく異なる結果を生んだのかを整理します。
第5章 第一次と第二次インティファーダの決定的な違い
なぜ同じ「蜂起」が逆の結果を生んだのか
第一次と第二次のインティファーダは、同じ言葉で呼ばれながら、その性格も帰結も大きく異なっていました。
この違いを整理することは、パレスチナ闘争の転換点を理解するうえで不可欠です。
1.闘争の主体の違い
第一次インティファーダでは、占領下の住民社会そのものが闘争の主体でした。若者、労働者、商店主、家族単位の連帯が抵抗の基盤となり、行動は地域社会に根差していました。
これに対し、第二次インティファーダでは、武装勢力が前面に出ます。闘争は住民の日常から切り離され、組織的・軍事的な作戦が中心となっていきました。
主体が「社会」から「武装組織」へ移ったことが、両者の性格を決定づけました。
2.抵抗の方法と国際的な受け止め方
第一次インティファーダは、投石やストライキ、ボイコットといった非軍事的行動が象徴でした。
このため国際社会では、パレスチナ人は「占領下で抵抗する市民」として認識されやすく、同情と理解を集めました。
一方、第二次インティファーダでは、銃撃や爆弾攻撃が目立つようになります。その結果、国際世論は急速に冷え込み、パレスチナ闘争は「暴力の連鎖」として警戒されるようになりました。
同じ抵抗でも、手段の違いが評価を大きく左右したのです。
3.PLOと政治構造への影響
第一次インティファーダは、パレスチナ解放機構(PLO)の代表性を強めました。現地住民の抵抗を国際政治の場で代弁できる存在として、PLOは交渉主体へと押し上げられたのです。
しかし第二次インティファーダでは、その逆が起こります。PLOは武装化した闘争を統制できず、交渉路線の正当性も失っていきました。
この結果、PLOは「代表性はあるが現実を動かせない存在」へと後退し、政治的影響力を弱めていきます。
4.結果として生まれた歴史的帰結
第一次インティファーダは、1993年のオスロ合意へとつながり、交渉と和平が現実的な選択肢として浮上する結果をもたらしました。
一方、第二次インティファーダは、和平プロセスの崩壊と政治的分断を決定づけました。ガザとヨルダン川西岸の分断、武装路線の台頭は、この時期に固定化していきます。
つまり、第一次は「交渉への道を開き」、第二次は「その道を閉ざした」のです。
5.比較で見る第一次・第二次インティファーダ
| 観点 | 第一次インティファーダ | 第二次インティファーダ |
|---|---|---|
| 開始時期 | 1987年 | 2000年 |
| 主体 | 占領下の住民社会 | 武装勢力中心 |
| 抵抗の形 | 社会運動・非軍事的 | 武装闘争・軍事衝突 |
| 国際世論 | 同情・理解 | 警戒・批判 |
| PLOへの影響 | 代表性の強化 | 影響力の低下 |
| 歴史的帰結 | オスロ合意へ | 和平崩壊と分断 |
6.「二つのインティファーダ」が示す教訓
二つのインティファーダの比較から見えてくるのは、抵抗の正当性は「目的」だけでなく、「主体」と「方法」によって大きく左右されるという事実です。
第一次と第二次は、パレスチナ闘争の可能性と限界を、それぞれ別の形で示しました。この対照があるからこそ、インティファーダは単なる蜂起ではなく、現代中東史の重要な転換点として位置づけられるのです。
第6章 インティファーダは何を変え、何を残した
パレスチナ闘争の到達点と現在地
二度のインティファーダは、同じ「蜂起」という言葉で括られながら、パレスチナ闘争にまったく異なる結果をもたらしました。
この章では、第一次と第二次の経験を踏まえ、インティファーダが何を変え、何を解決できずに残したのかを整理します。
1.インティファーダが「変えたもの」
インティファーダが最も大きく変えたのは、パレスチナ闘争の位置づけでした。
第一次インティファーダによって、問題は「武装組織とイスラエルの軍事衝突」から、「占領下に生きる住民の政治的権利」という枠組みで理解されるようになります。
この変化は、パレスチナ解放機構(PLO)に交渉主体としての正統性を与え、1993年のオスロ合意を可能にしました。
交渉と外交によって状況を前進させるという発想は、第一次インティファーダなしには生まれなかったと言えます。
つまりインティファーダは、武装闘争以外の選択肢が存在することを、歴史的に示しました。
2.インティファーダが「解決できなかったもの」
一方で、インティファーダは占領そのものを終わらせたわけではありません。オスロ合意後も、国境、エルサレム、難民、入植地といった核心的問題は解決されず、暫定自治という不完全な状態が長期化しました。
第二次インティファーダは、この未解決性が暴力的な形で噴き出した結果でした。和平への期待が裏切られたと感じた人々にとって、交渉路線は「現実を変えない空約束」と映るようになったのです。
インティファーダは、闘争の方向性を変えることはできても、最終的な解決を保証するものではなかったという限界を残しました。
3.PLOの位置づけの変化と分断の固定化
二度のインティファーダを通じて、PLOの立場も大きく変化しました。
第一次では、PLOは住民の抵抗を代表する存在として評価を高めましたが、第二次では、武装化した闘争を統制できず、影響力を低下させていきます。
この過程で、パレスチナ政治は次第に分断され、交渉を軸とする勢力と、武装抵抗を正当化する勢力の対立が固定化しました。
現在のガザとヨルダン川西岸の分断は、第二次インティファーダ期の延長線上にあります。
PLOは今なお国際社会で「正統な代表」として認識されていますが、現地政治を一体的に主導する力は大きく制約されています。
4.現在に続くインティファーダの遺産
今日、インティファーダは過去の出来事として語られることが多くなりました。しかしその遺産は、今も中東情勢の中に生き続けています。
第一次インティファーダは、「住民主体の抵抗は国際政治を動かしうる」という可能性を示しました。
第二次インティファーダは、「暴力の連鎖は分断と孤立を深める」という現実を突きつけました。
この二つの教訓は、現在のパレスチナ問題を考えるうえでも避けて通れません。
5.インティファーダとは何だったのか
最終的に、インティファーダとは単なる暴動や蜂起ではありません。それは、占領下で生きる人々が、自らの置かれた状況に対して示した集団的な政治的意思表示でした。
同時に、その形と方向性を誤れば、解放への道を開くことも、閉ざすこともあり得る――
その両義性を、二度のインティファーダははっきりと示しています。
インティファーダを理解することは、パレスチナ闘争の過去を知るだけでなく、現在と未来を考えるための出発点でもあるのです。
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