レバノンの歴史を分かりやすく解説― 宗派国家・内戦・周辺国介入の全体像

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レバノンは、中東の中でも特に「複雑な国家」として知られています。

国土は小さく、資源にも恵まれているとは言えませんが、その歴史をたどると、宗教・民族・国際政治が幾重にも絡み合う、きわめて重層的な歩みが見えてきます。

レバノンがなぜ宗派国家として成立し、なぜ内戦に突入し、なぜ周辺国の介入を受け続けてきたのかを、歴史の流れから整理します。

レバノンは、フランス委任統治期に形成された国家であり、独立後はキリスト教徒とイスラーム教徒の勢力均衡を前提とする「宗派配分体制」によって国家運営が行われてきました。

しかし、この体制は安定をもたらす一方で、人口構成の変化や地域情勢の変動に対応できない脆弱性も抱えていました。その歪みが噴出したのが、1975年に始まる長期のレバノン内戦です。

さらにレバノンは、パレスチナ問題の影響を強く受けた国でもあります。パレスチナ難民の流入とパレスチナ解放機構(PLO)の拠点化は、国内の宗派バランスを大きく揺るがし、内戦の激化を招きました。

そこへイスラエルやシリアといった周辺国が軍事的・政治的に介入し、レバノンは「内戦の当事者」であると同時に「地域紛争の舞台」へと変貌していきます。

この記事では、オスマン帝国支配から委任統治、独立、宗派体制の成立、内戦、そして周辺国介入に至るまでのレバノンの歴史を俯瞰し、1982年のイスラエル侵攻やヒズボラの台頭といった出来事が、どのような歴史的文脈の中で生じたのかをわかりやすく解説します。

レバノン史を知ることは、中東問題の複雑さを理解するための重要な手がかりとなるはずです。

レバノンの歴史を俯瞰するチャート
― 宗派国家・内戦・周辺国介入の流れ

【オスマン帝国支配期】
・レバノン山地に宗派ごとの共同体が並存
・山岳地帯を中心に自治的統治

【19世紀】
・宗派対立が顕在化
・欧州列強(仏・英)が宗派を後援
→ 宗派均衡を意識した統治の原型が形成

【第一次世界大戦後】
・オスマン帝国崩壊
・フランス委任統治下で「大レバノン」成立
→ 異なる宗派・地域を一つの国家に編成

【1943年 独立】
・宗派配分体制(大統領=マロン派など)で国家運営
・表面的安定と制度的脆弱性が併存

【1960年代以降】
・人口構成の変化
・パレスチナ難民流入
・PLOが拠点化
→ 宗派間バランスが崩壊

【1975年 レバノン内戦勃発】
・宗派民兵・左派・PLOが錯綜
・国家統治の崩壊

【周辺国の介入】
・シリア軍介入(影響力拡大)
・イスラエルの越境攻撃と1982年侵攻
→ 内戦の国際化

【1980年代】
・PLOの後退
・シーア派を基盤にヒズボラ台頭
→ 新たな武装勢力の定着

【1990年 内戦終結】
・国家再建
・宗派配分体制は維持
・ヒズボラは武装を保持

【2000年代以降】
・イスラエル撤退と武力衝突
・周辺地域の不安定化(シリア内戦など)

【現在】
・宗派国家の構造は継続
・武装勢力と国家が並存
・レバノンは「内戦と介入の記憶」を抱えた不安定国家

このチャートが示すように、レバノンの歴史は、宗派の共存を前提にした国家構造が、地域紛争と外部介入によって繰り返し揺さぶられてきた過程として理解できます。

1982年のイスラエル侵攻も、この長い歴史の連続線上に位置づけられます。

【この記事を3行でまとめると!】
レバノンは、フランス委任統治期に形成された宗派配分体制のもとで独立したが、人口変化や地域情勢に対応できず内戦へと崩れていった。内戦はパレスチナ問題の流入とシリア・イスラエルなど周辺国の介入によって国際化し、レバノンは「地域紛争の舞台」となった。内戦後も宗派国家の構造と武装勢力の並存は続き、レバノンは現在も不安定さを抱え続けている。

目次

第1章 オスマン帝国支配から「レバノン国家」の誕生

レバノンという国家は、古代から続く「自然発生的な国」ではありません。現在の国境と政治体制は、オスマン帝国の崩壊と第一次世界大戦後の国際秩序の中で形づくられました。

この章では、レバノンがどのような歴史的条件のもとで成立し、なぜ宗派構造を内包した国家として出発したのかを整理します。

1.オスマン帝国支配下のレバノン山地

中世から近代初頭にかけて、現在のレバノン地域はオスマン帝国の支配下にありました。ただし、レバノン全域が一体的に統治されていたわけではありません。

特に重要なのが、地中海沿岸部と内陸の山岳地帯(レバノン山地)の違いです。

レバノン山地には、マロン派キリスト教徒やドルーズ派など、オスマン帝国の主流派イスラームとは異なる宗派が多く居住していました。

山岳地帯という地理的条件もあり、これらの集団は一定の自治を認められ、地方有力者を通じた間接統治が行われていました。この段階では、「宗派の違い」は存在していたものの、それが直ちに国家対立を生む構造ではありませんでした。

2.宗派対立の顕在化と欧州列強の介入

19世紀に入ると、状況は大きく変化します。オスマン帝国の衰退にともない、帝国内部の宗派間緊張が高まると同時に、ヨーロッパ列強が「保護」を名目に介入を強めていきました。

とくに、フランスはマロン派キリスト教徒を後援し、イギリスはドルーズ派に影響力を及ぼしました。この外部介入は、宗派間の不信感を拡大させ、1860年にはマロン派とドルーズ派の間で大規模な流血衝突が発生します。

この事件をきっかけに、オスマン帝国は列強の圧力のもと、レバノン山地を特別行政区として再編し、宗派均衡を意識した統治を行うようになります。ここに、後の「宗派配分政治」の原型が見られます。

3.第一次世界大戦とフランス委任統治

第一次世界大戦でオスマン帝国が崩壊すると、中東地域は列強による再編の時代に入ります。戦後、現在のレバノンはフランスの委任統治領となり、1920年に「大レバノン」が創設されました。

このときフランスは、山岳部だけでなく、ベイルートなどの沿岸都市や内陸部を含めた形でレバノンを設計します。

これにより、キリスト教徒が相対的に多数派だった山地と、イスラーム教徒が多い都市・農村部が一つの国家に組み込まれました。

この構成は、経済的・地理的には一定の合理性があった一方で、宗派構成の複雑化という大きな課題を抱え込むことになります。

4.独立と「宗派国家」としての出発

レバノンは第二次世界大戦中の1943年に独立を達成します。独立に際して採用されたのが、宗派ごとに政治権力を分配する体制でした。

大統領はマロン派、首相はスンナ派、国会議長はシーア派が担うという取り決めは、宗派間の妥協として機能しました。

しかしこの体制は、宗派間の協調を前提とする一方で、人口動態の変化や地域情勢の激変に柔軟に対応できない構造も内包していました。

こうしてレバノンは、独立の時点からすでに「安定」と「不安定」を同時に抱えた宗派国家として歩み始めたのです。

第2章 宗派配分体制の限界と内戦への道

独立後のレバノンは、一見すると中東でも例外的な「安定国家」に見えていました。

しかしその安定は、宗派間の微妙な均衡の上に成り立つものであり、社会の変化や地域情勢の激動に耐えられるものではありませんでした。

この章では、宗派配分体制がどのように行き詰まり、内戦へと向かっていったのかを整理します。

1.独立後レバノンの「繁栄」とその前提

1943年の独立以降、レバノンは中東有数の商業・金融国家として発展します。首都ベイルートは「中東のパリ」とも呼ばれ、観光業、銀行業、貿易を中心に経済的繁栄を享受しました。

この繁栄を支えたのが、宗派間の政治的妥協と、周辺国に比べて比較的自由度の高い経済体制でした。

しかし、この安定は固定化された宗派配分を前提としていました。大統領・首相・国会議長といった要職だけでなく、議席配分や官僚ポストも宗派ごとに割り当てられ、政治は「国民」ではなく「宗派」を単位として運営されていきます。

その結果、政治的対立は政策論争ではなく、宗派間の利害対立として蓄積されていきました。

2.人口構成の変化と体制の硬直化

宗派配分体制の最大の問題は、人口構成の変化を制度に反映できなかった点にあります。独立当初、マロン派キリスト教徒は有力な政治的地位を占めていましたが、次第にイスラーム教徒、とりわけシーア派の人口が増加していきました。

それにもかかわらず、政治制度は独立時の人口比を前提としたまま維持されます。宗派ごとの不満は徐々に拡大し、「不公平な国家」という認識が社会に広がっていきました。

ここで重要なのは、対立が個々の政治家への不満ではなく、「国家の仕組みそのもの」への不信へと転化していった点です。

3.パレスチナ問題の流入と国内バランスの崩壊

1960年代以降、レバノン社会を決定的に不安定化させたのが、パレスチナ問題の影響でした。1948年の第一次中東戦争以降、レバノンには多数のパレスチナ難民が流入し、さらに1960年代後半にはパレスチナ解放機構(PLO)が活動拠点を築きます。

PLOの武装闘争は、イスラエルとの衝突をレバノン国内に引き込みました。キリスト教系勢力はこれを「国家主権の侵害」と受け止めた一方、ムスリム系勢力の一部はパレスチナ闘争に連帯します。

こうして、もともと脆弱だった宗派間の均衡は、対外紛争の流入によって決定的に揺さぶられていきました。

4.1975年、レバノン内戦の勃発

1975年、宗派間の緊張と武装衝突がついに全面的な内戦へと発展します。内戦は単なる二項対立ではなく、キリスト教系民兵、ムスリム系勢力、左派勢力、パレスチナ武装組織などが錯綜する多層的な紛争となりました。

国家は統治能力を急速に失い、治安は民兵組織に委ねられます。内戦は国内問題にとどまらず、周辺国が介入する余地を広げていきました。

レバノンはここから、「内戦の当事者」であると同時に「地域紛争の舞台」へと変貌していくのです。

第3章 周辺国の介入とレバノン内戦の国際化

レバノン内戦は、国内の宗派対立だけで完結する紛争ではありませんでした。

国家の統治力が崩れるにつれ、周辺国はそれぞれの安全保障や地域戦略を理由に介入を深め、内戦は急速に国際化していきます。

この章では、内戦期における主要な外部介入の構図を整理します。

1.シリアの介入――「安定化」と影響力拡大

内戦が始まると、最初に本格的な軍事介入を行ったのはシリアでした。シリアは1976年、内戦の沈静化を名目に軍を派遣します。

その背景には、レバノン情勢の不安定化が自国の安全保障に直結するという判断と、レバノンを自国の影響圏に置こうとする戦略的意図がありました。

シリア軍は当初、特定宗派に肩入れするのではなく、勢力均衡を保つ調停者として振る舞います。

しかし、長期駐留が続くにつれて、レバノン政治への影響力は制度化され、内戦は「レバノン国内問題」であると同時に「シリア主導の地域秩序」の一部となっていきました。

2.イスラエルの関与――安全保障と侵攻

一方、南部レバノンでは、イスラエルとの緊張が常に存在していました。PLOがレバノン南部を拠点にイスラエルへ攻撃を行うようになると、イスラエルはこれを自国の安全保障上の重大な脅威と見なします。

イスラエルは限定的な越境攻撃や緩衝地帯の設置を繰り返したのち、1982年に大規模な軍事侵攻を実施しました。この侵攻は、PLOの排除を直接的な目的としつつ、レバノン内戦の勢力図を大きく塗り替える結果をもたらします。

こうしてレバノンは、イスラエルにとって「国境防衛の前線」となり、内戦はさらに激化していきました。

3.多国籍軍と国際社会の関与

内戦の長期化と民間人被害の拡大を受け、国際社会も介入を試みます。停戦監視や治安維持を目的として、多国籍軍がレバノンに派遣されましたが、宗派対立と外部勢力の思惑が交錯する状況の中で、決定的な安定をもたらすことはできませんでした。

むしろ、国際部隊の存在そのものが新たな緊張を生み、レバノンが「大国と地域勢力の思惑が交差する場」であることを浮き彫りにします。レバノン内戦は、冷戦期の中東情勢を映す鏡とも言える存在になっていきました。

4.内戦の変質――国内紛争から地域紛争へ

この段階で、レバノン内戦はもはや国内政治の延長ではなくなります。宗派民兵、パレスチナ武装組織、周辺国軍、国際部隊が同時に存在する複雑な戦場となり、紛争の論理は一層不透明になっていきました。

国家は主権を失い、治安と統治は断片化します。この「空白」が、後に新たな武装勢力が台頭する土壌となりました。

次章では、こうした内戦と外部介入の中からどのように新勢力が登場し、レバノンの政治と安全保障を再編していくのかを見ていきます。

第4章 ヒズボラの台頭と内戦後レバノンの再編

レバノン内戦と周辺国の介入は、単に国家を疲弊させただけでなく、新たな政治・軍事主体を生み出しました。

その代表例が、1980年代に台頭したヒズボラです。この章では、ヒズボラが誕生した背景と、内戦終結後のレバノン国家がどのように再編されたのかを整理します。

1.内戦と占領が生んだ新勢力

1982年のイスラエル侵攻は、PLOをレバノンから排除する一方で、別の空白を生みました。南部レバノンでは、長期にわたる占領と治安の不安定化が続き、とくに社会的に周縁化されてきたシーア派住民の不満が高まります。

この不満と動員を背景に、シーア派を基盤とする武装・政治組織としてヒズボラが登場しました。ヒズボラは、単なる民兵組織ではなく、宗教的理念、社会福祉活動、武装闘争を組み合わせた存在として急速に支持を拡大していきます。

2.イラン・シリアとの関係

ヒズボラの成長には、外部支援の存在も欠かせませんでした。とくにイランは、革命後の対外戦略の一環としてヒズボラを支援し、思想面・軍事面の両方で影響を与えました。

また、シリアも、レバノン支配を維持するための重要なカードとしてヒズボラの存在を黙認・活用します。

こうしてヒズボラは、レバノン国内勢力であると同時に、地域政治と結びついた存在となり、内戦後のレバノン政治において独特の位置を占めるようになりました。

3.内戦終結と「不完全な国家再建」

1990年、内戦は形式的に終結します。国家機構は再建され、統一政府が成立しましたが、これは武装勢力の完全な解体を意味するものではありませんでした。多くの民兵組織が解散する一方で、ヒズボラは「対イスラエル抵抗」を理由に武装を保持し続けます。

この結果、レバノン国家は、主権国家でありながら、武装組織が並存するという特殊な構造を抱え込むことになります。内戦後の安定は、国家の完全な統合によってではなく、妥協と力の均衡によって維持されるものとなりました。

4.内戦後レバノンの構造的課題

内戦後のレバノンは、復興と表面的な安定を達成する一方で、宗派配分体制そのものは維持されました。これは短期的には再衝突を防ぐ効果を持ちましたが、政治改革の停滞や腐敗の温床ともなります。

こうしてレバノンは、

  • 宗派国家としての制度的制約
  • 周辺国の影響力
  • 武装勢力の存在

という三重の課題を抱えたまま、現代へと進んでいくことになります。

第5章 内戦後から現代へ――不安定さを抱え続けるレバノン

内戦終結後のレバノンは、国家としての再出発を果たした一方で、内戦期に形成された構造を完全には克服できませんでした。

この章では、1990年代以降のレバノンが直面してきた課題と、現在に至る不安定さの背景を整理します。

1.イスラエルとの緊張の継続

内戦後も、南部レバノンは緊張地帯であり続けました。イスラエルは安全保障上の理由から南部に影響力を残し、これに対抗する形でヒズボラは「抵抗運動」を継続します。

2000年にイスラエル軍が南部から撤退すると、ヒズボラはこれを自らの勝利として位置づけ、国内外で影響力をさらに高めました。

しかし、この構図は平和を意味するものではありませんでした。2006年にはイスラエルとヒズボラの間で大規模な武力衝突が発生し、レバノン全土が再び戦火に巻き込まれます。

ここでもレバノン国家は、戦争を選択した主体ではなく、「戦場」となった存在でした。

2.宗派政治の固定化と国家機能の弱体化

内戦後の政治体制は、表向きには安定を保っていましたが、宗派配分体制はむしろ固定化されていきました。政治指導者は宗派代表として振る舞い、国家全体の政策よりも宗派の利害が優先される傾向が強まります。

その結果、行政の非効率化や腐敗が慢性化し、国家機能は次第に弱体化していきました。経済的繁栄を取り戻すことはできず、社会不安は蓄積されていきます。

内戦の「終結」は、必ずしも「国家の再統合」を意味しなかったのです。

3.地域情勢の激変とレバノンへの波及

2010年代に入ると、中東全体が再び大きく揺れ動きます。特にシリア内戦の勃発は、レバノンに深刻な影響を与えました。難民の流入、治安不安、政治的緊張の高まりは、脆弱な国家構造をさらに圧迫します。

また、地域対立の激化により、レバノンは再び代理戦争の舞台となる危険性を抱えることになります。国内の意思決定が、周辺国や地域勢力の動向に大きく左右される構造は、内戦期と本質的に変わっていませんでした。

4.現代レバノンの位置づけ

現在のレバノンは、

  • 宗派国家という制度的制約
  • 武装勢力の並存
  • 周辺国・地域対立の影響

という複合的な問題を抱え続けています。国家としての主権は形式上維持されているものの、その実態はきわめて不安定です。

レバノンの歴史を振り返ると、この国は一貫して「内側の分裂」と「外部からの介入」が交差する地点に置かれてきました。1982年のイスラエル侵攻も、その例外ではありません。

レバノンを理解することは、中東問題がなぜこれほど解決困難なのかを知るための重要な手がかりとなるのです。

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