パレスチナ問題とは、中東問題の中核をなすテーマとして、20世紀に生まれた国家建設と民族対立が、戦争・大衆蜂起・和平交渉を繰り返しながら、現在まで解決されずに続いている国際問題です。
その中心には、イスラエル建国をめぐる対立、四度にわたる中東戦争、占領下で起きたインティファーダ、パレスチナ人の国家なき状態、そして今なお続くパレスチナ難民問題があります。
こうした歴史の積み重ねの中で、パレスチナ問題は「戦争で解決する問題」から「交渉による解決が模索される問題」へと姿を変えてきましたが、現在もなお明確な解決には至っていません。
では、そもそも「パレスチナ」とは、どのような地域を指すのでしょうか?
「パレスチナ」とは、地中海東岸に位置する地域で、現在の イスラエル、ヨルダン川西岸、ガザ地区を含みます。この地域には長い間、イスラム教やキリスト教を信じるアラブ人が暮らしてきました。
では、なぜ、すでにアラブ人が住んでいたこの地域に、ユダヤ人が移住し、イスラエルという国家が建設されることになったのでしょうか?
その出発点にあるのが、第一次世界大戦とイギリスの中東支配です。
第一次世界大戦中、イギリスはオスマン帝国と戦うため、パレスチナをめぐって異なる勢力に矛盾した約束を行いました。
ヨーロッパで迫害を受け、祖国を持たなかったユダヤ人には、将来この地に国家を建設することを支持すると表明しました。一方で、パレスチナ周辺に住むアラブ人にも、独立を認めるかのような約束を与えました。
このいわゆる「二枚舌外交」が、後の深刻な対立の土台となります。
戦後、パレスチナはイギリスの委任統治下に置かれ、ユダヤ人移民は急増します。そして1948年、国連分割決議を経て イスラエル が建国されました。
これに対し、もともとその地に住んでいたパレスチナ人は、自分たちの土地に新たな国家がつくられることを強く拒否しました。
イスラエル建国は、パレスチナ人だけでなく周辺のアラブ諸国にとっても大きな衝撃でした。宗教的対立に加え、「欧米主導でアラブ人の土地が奪われた」という認識が広がり、周辺国が介入する形で第一次中東戦争が始まります。
その後、中東では第四次までの中東戦争が繰り返されますが、いずれの戦争も根本的な解決には至りませんでした。むしろ戦争を重ねるたびに、イスラエルの軍事的優位が明確となり、パレスチナ人の置かれた立場はより厳しいものになっていきます。
これらの戦争は、単なる地域紛争ではありませんでした。
冷戦下において、中東はアメリカとソ連という大国が影響力を競い合う舞台となり、イスラエルはアメリカ陣営、アラブ諸国はソ連や非同盟圏と結びつきながら対立を深めていきました。
中東戦争は、第三世界の独立と冷戦構造が交差する国際政治の一部でもあったのです。こうした中で、「戦争では問題は解決しない」という認識が徐々に広がっていきます。
その象徴が、1970年代後半のエジプトとイスラエルの和平です。
アラブ諸国の中心的存在だったエジプトが、戦争ではなく交渉によってイスラエルと国交を正常化したことは、中東全体に大きな衝撃を与えました。
一方、パレスチナ人自身も、武装闘争だけでは展望が開けない現実に直面します。
1960年代以降、パレスチナ民族運動の中心となったのが PLO(パレスチナ解放機構)です。その主流派を担ったのが、ファタハでした。
PLOはパレスチナ人の「正統な代表」として国際社会での地位を確立しますが、その存在は周辺国との軋轢も生みました。
ヨルダンでは王制との対立が激化し、レバノンでは内戦に巻き込まれ、結果としてPLOは拠点を転々とせざるを得なくなります。この経験は、武装闘争一辺倒の限界をPLO自身に強く意識させることになりました。
冷戦終結が近づく中、こうした流れは和平交渉への転換として結実します。1993年、イスラエルとPLOの間でオスロ合意が成立し、ヨルダン川西岸とガザ地区でパレスチナ自治が暫定的に始まりました。
これは、パレスチナ問題が初めて「交渉によって解決されうる問題」として国際的に認識された瞬間でした。
しかし、オスロ合意は最終的な国家承認や難民問題を先送りしたものであり、和平は次第に行き詰まります。
その後、ガザ地区では ハマス が実効支配を強め、ヨルダン川西岸を拠点とする PLO(主流派ファタハ)との対立が深まり、パレスチナ社会は大きく分断されていきます。
国際社会が交渉主体と認めるのはPLOである一方、ガザの現実を動かす力を持つのはハマスという「正統性と実効支配の乖離」が固定化しました。
この分断は和平交渉を著しく困難にし、イスラエルとの対立も再び激化します。とくに2023年、ハマスがイスラエルに対して大規模な奇襲攻撃を行ったことで、イスラエル側では交渉路線そのものが大きく後退しました。
その結果、現在のパレスチナ問題は、国家承認や最終和平を語れる主体と、停戦や戦闘を左右する主体が一致しないという構造的矛盾を、これまで以上に深刻な形で抱えることになっています。
現在のパレスチナ問題は、イスラエル建国の歴史、四度の中東戦争、冷戦と大国介入、交渉路線への転換、そして今も解決されない難民と国家の問題が重なり合った結果です。
本記事では、歴史的背景 → イスラエル建国 → 中東戦争 → 戦争から交渉への転換 → 和平の難航 → 現在の構図という流れを軸に、パレスチナ問題の全体像を整理します。
個別のテーマ(難民問題、PLO・ファタハ、ハマス、中東戦争、周辺国の動き)については、すでに用意している詳細記事へのリンクを通じて、理解を深められる構成としています。
まずはこの導入文で、「なぜ始まり、なぜ戦争では終わらず、なぜ今も続いているのか」をつかんでください。
パレスチナ問題 俯瞰チャート
― 中東問題の中核にある歴史の流れ
【19世紀末〜第一次世界大戦】
・ヨーロッパで反ユダヤ主義が拡大
・シオニズム運動の登場
・第一次世界大戦とイギリスの中東支配
・矛盾した約束(ユダヤ人とアラブ人双方)
↓
【イギリス委任統治期(1920年代〜1947年)】
・ユダヤ人移民の増加
・アラブ人との対立激化
・パレスチナ社会の緊張拡大
↓
【イスラエル建国と第一次中東戦争(1948年)】
・イスラエル建国
・周辺アラブ諸国との戦争
・イスラエルの勝利
・大量のパレスチナ難民発生
↓
【中東戦争の時代(1950〜70年代)】
・第二次〜第四次中東戦争
・イスラエルの占領地拡大
・パレスチナ問題が「中東問題の中心」に固定化
・周辺国依存の「代理戦争」構造
↓
【パレスチナ民族運動の主体化】
・PLOの結成
・武装闘争路線の模索
・周辺国との軋轢と拠点喪失
・武装闘争の限界が明確化
↓
【第一次インティファーダ(1987年)】
・占領下パレスチナ人の大衆蜂起
・国家間戦争 → 占領と統治の問題へ転換
・交渉路線が不可避に
↓
【戦争から交渉へ】
・冷戦終結
・中東戦争の終焉
・マドリード和平会議(1991年)
・PLOが交渉主体として登場
↓
【オスロ合意(1993年)】
・イスラエルとPLOの相互承認
・パレスチナ自治政府の設立
・核心問題(国境・難民・エルサレム)は先送り
↓
【和平の停滞と挫折】
・占領の実態は大きく変わらず
・相互不信の拡大
・第二次インティファーダ(2000年)
・和平プロセスの事実上の崩壊
↓
【パレスチナ社会の分断】
・ヨルダン川西岸:PLO(ファタハ)主導
・ガザ地区:ハマス台頭・実効支配
・交渉主体と現実のねじれ
↓
【現在のパレスチナ問題】
・イスラエル:強い安全保障優先
・PLO:正統な交渉主体だが影響力低下
・ハマス:軍事的影響力は大きいが交渉不可
・2023年 ハマス奇襲とガザ戦争
・和平は停滞、問題は長期固定化
このようにパレスチナ問題は、イスラエル建国という一つの出来事から始まった単純な対立ではありません。
中東戦争の時代、パレスチナ民族運動の主体化、インティファーダによる転換、交渉路線への移行、そして和平の挫折と社会の分断というように、歴史の段階ごとに姿を変えながら現在まで続いてきました。
その結果として生まれたのが、交渉主体と現実の力関係が一致しない現在の構図であり、これこそがパレスチナ問題を中東問題の中核として固定化させている最大の要因です。
以下では、この全体像を踏まえながら、それぞれの段階で何が起こり、なぜ解決が難しくなっていったのかを、順を追って詳しく見ていきます。
【この記事を3行でまとめると!】
パレスチナ問題は、中東問題の中核として、イスラエル建国と四度の中東戦争を経て形成されてきました。第一次・第二次インティファーダを通じて、戦争から交渉へと模索が進みましたが、オスロ合意は和平を定着させるには至りませんでした。現在はPLOとハマスの分断と安全保障を優先するイスラエルの姿勢が重なり、問題は長期化しています。
第1章 第一次世界大戦とパレスチナ問題の出発点
― なぜ「約束された土地」が衝突の舞台になったのか
パレスチナ問題の出発点にあるのは、第一次世界大戦期に行われた列強主導の中東再編でした。とくに重要なのが、オスマン帝国崩壊後の中東を主導したイギリスの支配と外交です。
この章では、なぜパレスチナが「誰のものでもあり、誰のものでもない土地」になったのかを、時系列で整理します。
1.オスマン帝国支配下のパレスチナ
第一次世界大戦前、パレスチナ地域は オスマン帝国 の一部でした。この時代、パレスチナは独立した国家ではなく、行政的にはシリア地方の一部として扱われていました。
住民の大多数は、
- イスラム教徒のアラブ人
- キリスト教徒のアラブ人
であり、ユダヤ人も一定数暮らしてはいましたが、少数派でした。少なくともこの時点では、「国家をめぐる民族対立」が前面に出る状況ではありませんでした。
2.第一次世界大戦とイギリスの中東戦略
状況を一変させたのが、第一次世界大戦です。オスマン帝国と敵対したイギリスは、中東での戦争を有利に進めるため、パレスチナを含む地域を将来どう扱うかについて、複数の勢力に異なる約束を行いました。
ここで重要なのは、イギリスが一貫した中東構想を持っていたわけではないという点です。
戦争に勝つため、その場その場で最も有利な約束を重ねた結果、後に回収不能な矛盾を生み出しました。
3.矛盾する約束① アラブ人への独立示唆
イギリスは、オスマン帝国支配に反発していたアラブ人勢力に対し、戦後に独立を認めるかのような約束を行いました。
これに応じ、アラブ人は反乱を起こし、イギリス側に協力します。
パレスチナのアラブ人もまた、「戦後は自分たちの土地に、自分たちの国家ができる」という期待を抱くようになりました。
4.矛盾する約束② ユダヤ人への建国支持
一方でイギリスは、ヨーロッパで長く迫害を受けてきたユダヤ人に対し、パレスチナにおける「民族的郷土」の建設を支持する立場を表明します。
これが、いわゆるバルフォア宣言です。
当時、ユダヤ人の間では、「民族として安全に暮らせる祖国を持つべきだ」という考え(シオニズム)が広がっており、パレスチナはその有力候補地とされていました。
つまりイギリスは、
- アラブ人には独立を
- ユダヤ人には建国の支持を
同じ土地について同時に約束してしまったのです。
5.委任統治とユダヤ人移民の増加
第一次世界大戦後、パレスチナは 国際連盟 の下で、イギリスの委任統治領となります。
イギリスは建前上、「住民の自治を育成する立場」でしたが、実際にはユダヤ人移民を抑制しませんでした。
その結果、1920年代から1930年代にかけて、ヨーロッパから多くのユダヤ人がパレスチナへ移住します。
この時点で初めて、「すでに住んでいるアラブ人」と「新たに移住してきたユダヤ人」という構図が明確になり、土地や政治をめぐる対立が深刻化していきました。
6.「パレスチナ問題」が生まれた瞬間
こうしてパレスチナは、
- 明確な国家が存在せず
- 住民の間で将来像が食い違い
- 列強が最終責任を負わない
という、極めて不安定な状態に置かれます。
この段階で生まれたのが、「誰がこの土地の正当な主なのか」という問いでした。
この問いは、
- イスラエル建国
- 中東戦争
- パレスチナ難民問題
- 和平交渉の難航
へと連鎖し、現在まで続くパレスチナ問題の原点となります。
第1章のまとめ
パレスチナ問題は、「宗教の違い」や「民族感情」から自然に生まれたものではありません。第一次世界大戦とイギリスの中東支配の中で、人為的につくられた問題でした。
次章では、この不安定な状況の上に誕生した イスラエル建国と、それがどのようにして戦争へと発展したのかを見ていきます。
第2章 イスラエル建国と四度の中東戦争
― 戦争・石油・冷戦が交錯した時代
第一次世界大戦後、イギリスの委任統治下に置かれたパレスチナでは、ユダヤ人移民の増加とともにアラブ人との対立が深まっていきました。
この緊張は、第二次世界大戦後、国家建設という形で一気に噴き出します。
1.国連分割決議とイスラエル建国
第二次世界大戦後、ホロコーストの反省を背景に、ユダヤ人国家建設への国際的支持が高まります。イギリスはパレスチナ統治の継続を断念し、問題を国連に委ねました。
1947年、国連はパレスチナをユダヤ人国家とアラブ人国家に分割する決議を採択します。ユダヤ人側はこれを受け入れ、1948年、イスラエル の建国を宣言しました。
一方、パレスチナ人と周辺のアラブ諸国は、この決定を強く拒否します。
「自分たちが多数派として暮らしてきた土地が、国際社会の判断によって分割された」という不満が広がったためです。
2.第一次中東戦争とパレスチナ難民の発生
イスラエル建国直後、エジプト、ヨルダン、シリアなどのアラブ諸国が介入し、第一次中東戦争が勃発します。
結果はイスラエルの勝利に終わり、イスラエルは国家として生き残ることに成功しました。
しかしこの戦争の過程で、多数のパレスチナ人が村や町を追われ、故郷に戻れないまま難民となります。こうして、現在まで続くパレスチナ難民問題が生まれました。
この時点で、イスラエルは国家として存続し、パレスチナ人は国家を持たないまま周辺地域へ分散するという基本構図が確立します。
3.冷戦構造と中東戦争の国際化
1950年代以降、中東は冷戦構造の中に組み込まれていきます。イスラエルはアメリカを中心とする西側陣営と結びつき、アラブ諸国の多くはソ連や非同盟圏との関係を強めました。
1956年の第二次中東戦争、1967年の第三次中東戦争では、イスラエルが軍事的優位を確立し、ガザ地区やヨルダン川西岸などを占領します。
これにより、パレスチナ人は難民として国外に暮らす人々と、占領下で生活する人々に分断されることになりました。
中東戦争は、単なる地域紛争ではなく、大国の介入と第三世界の政治的緊張が交差する国際問題へと変化していきます。
4.第四次中東戦争と石油戦略の登場
1973年の第四次中東戦争は、軍事的には決定的な勝敗をもたらしませんでした。
しかしこの戦争は、別の意味で中東問題の転換点となります。
アラブ諸国は、「戦場でイスラエルを打倒することは困難である」という現実を改めて突きつけられました。
そこで注目されたのが、石油です。アラブ産油国は、イスラエルを支持する国々に対し、石油供給の制限や価格引き上げを行い、経済的圧力を通じてパレスチナ問題への関与を迫りました。
この石油戦略は、イスラエルそのものよりも、イスラエルを支える欧米諸国、とくにアメリカや西ヨーロッパに強い衝撃を与えます。
中東戦争は、世界経済を揺るがす問題として認識されるようになりました。
5.戦争の限界と交渉路線への転換
石油戦略は、イスラエルを直接屈服させることには成功しませんでした。
しかし、戦争を繰り返すことが中東だけでなく世界全体の不安定要因になるという認識を国際社会に広く共有させました。
この流れの中で、「戦争よりも交渉によって現実的な成果を得るべきだ」という考えが、アラブ諸国の中でも強まっていきます。
その象徴が、エジプトとイスラエルの和平です。
アラブ諸国の中心的存在だったエジプトが、戦争ではなく外交によってイスラエルと国交を正常化したことは、
中東の対立構造を大きく変える出来事でした。
一方で、この和平はパレスチナ問題そのものを解決するものではなく、パレスチナ人が取り残されたという新たな不満も生みました。
第2章のまとめ
四度にわたる中東戦争は、イスラエルを軍事的に消滅させることが不可能であるという現実と、戦争ではパレスチナ問題が解決しないという限界を明らかにしました。
その結果、問題の焦点は、国家間戦争から、パレスチナ人自身の民族運動と交渉主体をめぐる政治へと移っていきます。
次章では、この流れの中で登場した PLO とファタハが、どのように国際社会で交渉主体として位置づけられていったのかを見ていきます。
第3章 パレスチナ民族運動とPLOの台頭
―「代理の問題」から「自分たちの問題」へ
四度にわたる中東戦争を経て、パレスチナ問題は大きな転換点を迎えます。
それまでこの問題は、イスラエルと周辺アラブ諸国による国家間対立として扱われてきました。しかし戦争の結果、パレスチナ人自身は国家を持たないまま、難民や占領下住民として取り残されてしまいます。
この現実が、「パレスチナの運命を決めるのは周辺国ではなく、パレスチナ人自身でなければならない」という意識を生み、パレスチナ民族運動が本格化していきました。
1.PLOの成立と「パレスチナ人の代表」という位置づけ
1960年代、パレスチナ民族運動を組織化する枠組みとして誕生したのがPLO(パレスチナ解放機構)です。
PLOは当初、周辺アラブ諸国の影響を強く受ける組織でしたが、次第に「パレスチナ人自身の代表組織」としての性格を強めていきます。
この変化は重要でした。それまでパレスチナ問題は、アラブ諸国がイスラエルと戦うための「大義」として扱われる側面が強く、パレスチナ人自身の政治的意思は後回しにされがちだったからです。
2.ファタハの台頭と武装闘争路線
PLO内部で主導権を握るようになったのが、ファタハです。ファタハは、パレスチナ人自身による武装闘争を重視し、
「周辺国に依存せず、自ら行動する」という姿勢を打ち出しました。
この路線は、多くのパレスチナ人の支持を集め、PLOは次第に民族解放運動の象徴的存在となっていきます。
一方で、武装闘争路線は、イスラエルだけでなく、PLOを受け入れていた周辺国との摩擦も生みました。
3.周辺諸国との軋轢とPLOの漂流
PLOは活動拠点をヨルダンやレバノンに置きましたが、次第に受け入れ国の主権や治安と衝突するようになります。
ヨルダンでは、PLOの影響力拡大が王制を脅かす存在と見なされ、武力衝突の末にPLOは追放されました。レバノンでも、内戦の混乱の中でPLOは戦闘に巻き込まれ、拠点を失っていきます。
この過程で、PLOは「武装闘争を続けるほど、居場所を失っていく」という現実に直面しました。
4.国際社会への進出と交渉主体への変化
1970年代以降、PLOは路線を徐々に修正していきます。武装闘争一辺倒から、国際社会での政治的承認を重視する戦略へと軸足を移していきました。
この転換によって、PLOは
- 国連での発言権を獲得
- 国際社会から「パレスチナ人の正統な代表」として扱われる
ようになります。
ここで重要なのは、PLOが「交渉の当事者」として初めて国際的に認識されたという点です。
パレスチナ問題は、国家間戦争の「付随的問題」から、民族の自己決定をめぐる政治問題として扱われるようになりました。
5.武装闘争の限界と和平路線への布石
とはいえ、PLO は、すぐに和平路線へ転じたわけではありません。
イスラエルとの対立は続き、PLO内部にも武装闘争を重視する強硬派と、政治交渉を模索する穏健派の対立が存在しました。
しかし、周辺国との軋轢による活動制約や拠点の喪失に加え、1970年代後半に起きたエジプトとイスラエルの和平は、PLOに大きな衝撃を与えます。
中東戦争の主役であったエジプトが、エジプト=イスラエル和平によって戦争路線から離脱したことで、「アラブ諸国が一体となってイスラエルと戦う」という前提は事実上崩れました。
この出来事は、パレスチナ問題がもはや周辺国に委ねられるものではなく、パレスチナ人自身が主体となって解決の道を模索せざるを得ない段階に入ったことを意味していました。
武装闘争を続けても、周辺国が全面的に支える時代は終わったという現実が、PLO内部でも強く意識されるようになります。
さらに、1987年に始まった 第一次インティファーダ は、占領下の一般市民による大衆的蜂起として、パレスチナ問題が「国家間戦争」ではなく占領と統治の問題であることを国際社会に突きつけました。
この蜂起は、武装闘争の限界を日常の現実としてPLOに突きつけ、「国家を持つためには、交渉を避けて通れない」という認識を不可逆的なものにしていきます。
こうした認識の積み重ねが、後のマドリード和平会議、そしてオスロ合意へとつながる重要な土台となりました。
ここで中東問題の難しさを象徴する出来事として、アンワル・サダトの暗殺に触れておきます。
サダトは、エジプト=イスラエル和平を実現し、中東戦争の時代に終止符を打った指導者でした。
この和平は国際社会からは高く評価されましたが、アラブ民族主義の立場から見れば、「イスラエルと妥協した裏切り」と受け取られる側面もありました。
1981年、サダトは国内の強い反発の中で暗殺されます。この事件は、パレスチナ問題を含む中東問題において、交渉による解決が理屈としては正しくても、アラブ民族主義や宗教的感情、地域社会の政治意識とは必ずしも一致しないことを示しています。
戦争をやめること、敵と交渉すること、現実的な妥協を選ぶこと――
それらは中東ではしばしば「合理的な選択」であると同時に、アラブ民族主義の高揚や対イスラエル感情と衝突する選択でもあります。
サダト暗殺は、パレスチナ問題をめぐる和平がなぜこれほど困難なのかを理解するための、象徴的な出来事と言えるでしょう。
第3章のまとめ
パレスチナ民族運動は、周辺アラブ諸国に依存して戦争が行われる「代理の問題」から、占領下に置かれたパレスチナ人自身が主体となる政治運動へと変化しました。
その転換点となったのが、1987年に始まった 第一次インティファーダ です。
これは正規軍同士の戦争ではなく、占領下に暮らす一般市民による大衆的蜂起であり、パレスチナ問題が「国家間戦争」ではなく占領と統治の問題であることを国際社会に突きつけました。
この蜂起を通じて、武力だけでは問題を解決できないという認識が、イスラエル側・パレスチナ側の双方に広がっていきます。
こうした状況の中で、PLO と主流派のファタハは、武装闘争と政治交渉の間で揺れ動きながらも、第一次インティファーダを契機に、国際社会の場で交渉主体として承認される道を選ばざるを得なくなりました。
この流れは、1991年の マドリード和平会議 において初めて公式の交渉枠組みとして現れ、1993年の オスロ合意 によって具体的な形を取ります。
次章では、第一次インティファーダによって不可避となったこの交渉路線が、なぜオスロ合意という歴史的合意に至り、それでもなお和平が定着しなかったのかを詳しく見ていきます。
第4章 マドリード和平会議からオスロ合意へ
― 交渉による解決は、なぜ定着しなかったのか
冷戦の終結と湾岸戦争を経て、パレスチナ問題は再び大きな転換点を迎えます。
四度にわたる中東戦争が終わり、アラブ諸国も戦争路線から距離を取る中で、問題の焦点はイスラエルとパレスチナ人自身の関係へと収束していきました。
この「戦争から交渉へ」という流れを、国際社会が公式に形にした最初の試みが、**マドリード和平会議**です。
1.マドリード和平会議とは何だったのか
1991年、冷戦終結直後の国際環境のもとで開かれたマドリード和平会議は、イスラエルとアラブ諸国、そしてパレスチナ側が同じ交渉の場に初めて公式に集まった会議でした。
ここで重要なのは、パレスチナ側が独立した代表としてではなく、ヨルダン代表団の一部として参加した点です。これは当時、イスラエルが PLO を交渉相手として認めていなかったためでした。
それでもマドリード和平会議は、「武力ではなく交渉によってパレスチナ問題を扱う」という原則を国際社会が共有したという点で、画期的な意味を持ちます。
2.マドリードからオスロへ ― 水面下で進んだ転換
マドリード和平会議そのものは、具体的な合意を生み出したわけではありません。しかし、この会議をきっかけに、公式交渉とは別の水面下の接触が進みます。
その結果として成立したのが、1993年の オスロ合意 です。
オスロ合意の最大の特徴は、イスラエルとPLOが初めて相互承認した点にあります。
- イスラエルはPLOをパレスチナ人の代表と認め
- PLOはイスラエルの生存権を認める
という、歴史的な相互承認が実現しました。
3.パレスチナ自治の開始と「先送りされた問題」
オスロ合意に基づき、ヨルダン川西岸とガザ地区の一部では、パレスチナ人による限定的な自治が始まります。
そのために設立されたのが、パレスチナ自治政府です。自治政府は、将来的なパレスチナ国家樹立への暫定段階と位置づけられていました。
しかし、この合意は意図的に、
- 国境の確定
- エルサレムの帰属
- パレスチナ難民の帰還
といった核心問題を先送りしていました。
まずは信頼関係を築き、その後に最終解決へ進むという構想でしたが、この「段階的和平」こそが、後の行き詰まりの原因ともなります。
4.和平プロセスが行き詰まった理由
和平が進むにつれ、双方の不満はむしろ強まっていきました。
イスラエル側では、自治が進んでも治安が安定しないことへの不信感が高まり、入植地問題をめぐる国内対立も激化します。
パレスチナ側では、自治政府が十分な主権を持たず、占領の実態が大きく変わらないことへの失望が広がりました。
合意を守っても現実が改善しないという感覚が、「交渉は意味がないのではないか」という疑念を生んでいきます。
5.和平挫折が生んだ暴力の再拡大
オスロ合意後、和平プロセスは停滞し、最終的な国家承認や占領の終結は実現しませんでした。
この行き詰まりの中で、2000年以降に再び激しい衝突が広がったのが、第二次インティファーダです。
第一次インティファーダが大衆的な抗議運動の性格を強く持っていたのに対し、第二次インティファーダでは、自爆攻撃や軍事作戦など、武力の応酬が前面に出る形となりました。その結果、イスラエル側・パレスチナ側の双方で多数の犠牲者が出て、社会全体に深い不信と恐怖が広がります。
この時期の衝突は、「交渉を続けても占領は終わらない」というパレスチナ側の失望と、「譲歩は安全を損なう」というイスラエル側の警戒感を同時に強めました。
その結果、オスロ合意が前提としていた相互信頼は事実上崩壊し、和平プロセスは長期的な停滞状態へと入っていきます。
また、この混乱の中で、武装抵抗を重視する勢力が支持を広げ、パレスチナ社会の分断がさらに深まることになりました。
6.ハマスの台頭とパレスチナ社会の分断
こうした空気の中で存在感を高めたのが、ハマスです。ハマスは、イスラエル承認そのものを拒否し、オスロ合意を正面から否定しました。
和平の成果が見えない中で、「交渉では何も得られない」という不満がガザ地区を中心に広がり、ハマスは支持を拡大していきます。
その結果、
- ヨルダン川西岸:PLO(ファタハ)主導の自治
- ガザ地区:ハマスの実効支配
という分断構造が固定化されました。
7.交渉主体のねじれという決定的問題
ここで、パレスチナ問題は決定的な矛盾を抱えます。
国際社会が交渉主体と認めているのはPLOであり、マドリード和平会議以降の和平プロセスも、最終的にはPLOを相手に設計されてきました。
しかし、現実の衝突や停戦を左右する力を持つのは、ガザ地区を実効支配するハマスです。
つまり現在のパレスチナ問題は、「和平を語れる主体」と「現実を動かす主体」が一致しないという構造的矛盾を抱えたまま、現在に至っています。
第4章のまとめ
マドリード和平会議は、パレスチナ問題を戦争ではなく交渉で扱う時代の出発点でした。オスロ合意は、その流れを具体的な形にした歴史的合意です。
しかし、核心問題の先送り、和平の成果が見えない現実、パレスチナ社会の分断によって、和平プロセスは定着しませんでした。
次章では、この構造が固定化した後のガザ地区・ヨルダン川西岸・イスラエルの関係と、2023年のハマス奇襲を含む現在のパレスチナ問題の姿を整理します。
第5章 現在のパレスチナ問題と和平が見えない理由
― 分断された主体と固定化する対立
マドリード和平会議とオスロ合意によって、パレスチナ問題は一度は「交渉による解決」の段階に入りました。
しかし現在、この問題は再び深刻な停滞状態にあります。
その背景には、パレスチナ社会の分断、交渉主体のねじれ、そして安全保障をめぐる不信の固定化があります。
1.現在の基本構図 ― 三つの主体
現在のパレスチナ問題は、次の三者関係を軸に成り立っています。
- イスラエル
国家として存続し、軍事・外交面で圧倒的な優位を持つ存在 - ヨルダン川西岸
PLO(主流派ファタハ)を母体とするパレスチナ自治政府が統治 - ガザ地区
ハマス が実効支配
この構図は、単なる地域分断ではなく、パレスチナ人の代表性と統治の正統性が分裂している状態を意味します。
2.交渉主体のねじれが生む停滞
国際社会が正式な交渉主体として認めているのはPLOです。オスロ合意の当事者もPLOであり、国家承認や最終的な和平を語れる主体もPLOしか存在しません。
しかし現実には、ガザ地区を実効支配し、イスラエルとの軍事衝突や停戦を左右しているのはハマスです。
その結果、
- 和平を語れる主体(PLO)
- 戦争と停戦を動かす主体(ハマス)
が一致しないという構造が固定化しました。
このねじれこそが、現在のパレスチナ問題を最も解決困難にしている要因です。
3.2023年のハマス奇襲がもたらした決定的変化
2023年、ハマスはイスラエルに対して大規模な奇襲攻撃を行いました。多数の民間人犠牲者と人質を伴ったこの攻撃は、イスラエル社会に深刻な衝撃を与えます。
この出来事によって、イスラエル側では「交渉や譲歩は安全をもたらさない」という認識が急速に広がりました。
結果として、和平交渉を前提とした政治的空間そのものが大きく縮小し、問題は国家間交渉ではなく、戦争管理と治安対策の次元へと引き戻されました。
4.パレスチナ側が抱える二重の行き詰まり
パレスチナ側も、深刻な行き詰まりを抱えています。
PLOと自治政府は、国際的な正統性を持ちながらも、占領の現実を変えられないことで支持を失いつつあります。
一方、ハマスは、抵抗の象徴として一定の支持を集めるものの、イスラエルを承認せず、和平の枠組みに入れないため、最終的な解決を提示できません。
この結果、パレスチナ社会は「交渉しても変わらない」「抵抗しても未来が見えない」という二重の閉塞に直面しています。
5.なぜ和平はこれほど難しいのか
現在のパレスチナ問題が解決に向かわない理由は、単一ではありません。
- イスラエル側の強い安全保障意識
- パレスチナ社会の分断と代表性の欠如
- 難民問題・エルサレム・国境といった核心問題の未解決
- 周辺国や国際社会の利害の錯綜
これらが重なり合い、「誰と、何を、どこまで交渉すればよいのか」という出発点すら定まりにくい状況が続いています。
第5章のまとめ(記事全体の結論)
パレスチナ問題は、イスラエル建国から始まった国家建設の問題であり、四度の中東戦争を経て、交渉による解決が模索されてきました。
しかし現在、この問題は正統な交渉主体と現実の当事者が一致しない構造的矛盾を抱えたまま、長期化しています。
戦争でも、交渉でも、容易に解決できない。それが、現在のパレスチナ問題の姿です。
補足章① パレスチナ問題 年表
このパレスチナ問題は、単発の戦争や事件として理解すると、全体像を見失いがちです。
イスラエル建国から中東戦争、インティファーダ、和平交渉、そして現在の分断に至るまで、問題は段階ごとに姿を変えながら積み重なってきました。
また、この過程では、パレスチナ人とイスラエルだけでなく、エジプト・ヨルダン・レバノンといった周辺国の関与と距離の取り方も大きな影響を与えています。
以下の年表では、パレスチナ問題の主要な出来事を時系列で整理し、中東問題の中でこの問題がどのように形成・変化してきたのかを俯瞰します。
| 年代 | 出来事 | 内容・ポイント |
|---|---|---|
| 19世紀末 | シオニズム運動の広がり | 欧州で反ユダヤ主義が強まり、ユダヤ人国家建設運動が拡大 |
| 1914–18年 | 第一次世界大戦 | オスマン帝国崩壊、イギリスが中東支配を強める |
| 1917年 | バルフォア宣言 | ユダヤ人の「民族的郷土」支持、アラブ人の反発を招く |
| 1920年代 | 英国委任統治 | ユダヤ人移民増加、パレスチナ社会の緊張が高まる |
| 1930年代 | パレスチナ・アラブ反乱 | 移民と英支配への抵抗、民族対立が深刻化 |
| 1947年 | 国連パレスチナ分割決議 | 分割案提示、アラブ側が反発 |
| 1948年 | イスラエル建国 | 第一次中東戦争勃発 |
| 1948–49年 | 第一次中東戦争 | イスラエル勝利、大量のパレスチナ難民が発生 |
| 1956年 | 第二次中東戦争 | エジプトのスエズ運河国有化、イスラエルが軍事介入 |
| 1964年 | PLO結成 | 周辺国の影響下でパレスチナ民族運動が組織化 |
| 1967年 | 第三次中東戦争 | イスラエルがガザ・ヨルダン川西岸を占領、占領問題が固定化 |
| 1970年 | 黒い九月事件 | ヨルダンがPLOを排除、周辺国との緊張が表面化 |
| 1973年 | 第四次中東戦争 | 戦争路線の限界が明確化、交渉への模索が始まる |
| 1978–79年 | エジプト=イスラエル和平 | エジプトがイスラエルと和平、戦争の時代に終止符 |
| 1981年 | サダト大統領暗殺 | 和平を進めたアンワル・サダトが暗殺され、アラブ民族主義との緊張が表面化 |
| 1982年 | イスラエルのレバノン侵攻 | レバノンからPLOが追放、周辺国依存が限界に |
| 1987年 | 第一次インティファーダ | 占領下の大衆蜂起、戦争から交渉への転換点 |
| 1991年 | マドリード和平会議 | パレスチナ側が交渉枠組みに初参加 |
| 1993年 | オスロ合意 | イスラエルとPLOが相互承認、自治開始 |
| 1994年 | イスラエル=ヨルダン和平 | ヨルダンが正式和平、難民問題に慎重姿勢 |
| 2000年 | 第二次インティファーダ | 和平挫折、武力衝突が再拡大 |
| 2007年 | パレスチナ分裂 | ガザ(ハマス)/西岸(PLO)に分断 |
| 2010年代 | 和平停滞 | 入植問題と安全保障で交渉は進展せず |
| 2023年 | ハマスの大規模攻撃 | ガザ戦争、和平は大きく後退 |
| 現在 | 問題の長期固定化 | 分断と不信が続き、中東問題の中核として残存 |
この年表から分かるように、パレスチナ問題はイスラエルとパレスチナ人だけの対立ではなく、レバノン、ヨルダン、エジプトといった周辺国の選択と距離の取り方によって、その性格を変えながら中東問題として固定化されてきました。
補足章② パレスチナ問題Q&A
ここまで、パレスチナ問題の歴史的背景から現在に至るまでの流れを見てきました。
しかし、この問題は出来事の流れを追うだけでは、理解しきれない側面が多くあります。
たとえば、
「なぜサウジアラビアは前面に出ないのか」
「なぜイランはアラブの国ではないのに関与するのか」
「なぜアメリカは一貫してイスラエルを支援するのか」
といった疑問は、記事本文ではあえて深掘りしませんでした。
以下では、こうした本文では触れきれなかったが、理解を深めるために重要な疑問をQ&A形式で整理します。
歴史の流れを押さえた上で読むことで、パレスチナ問題が中東問題、さらには国際政治全体とどのようにつながっているのかが、より立体的に見えてくるはずです。
ここで取り上げたQ&Aが示すように、パレスチナ問題は、単にイスラエルとパレスチナの対立だけで説明できる問題ではありません。
周辺国の立場の違い、アラブ民族主義や宗教的感情、イランやアメリカといった地域外大国の関与、そして難民問題や分断されたパレスチナ社会の現実が重なり合い、問題は中東問題、さらには国際政治の一部として固定化されています。
そのため、出来事の一つ一つに「簡単な解決策」を求めても、現実は必ずしもその通りには動きません。
パレスチナ問題を理解することは、なぜこの地域で妥協がこれほど難しいのかを理解することでもあります。
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