ウマイヤ朝は、ムアーウィヤによって成立したイスラーム最初の世襲王朝であり、正統カリフ時代の共同体的統治から、官僚制と軍事力を備えた帝国国家へと転換した政権です。
首都ダマスクスを中心に、西は西ゴート王国の旧領イベリア半島、東は中央アジアにまで勢力を広げ、トゥール・ポワティエ間の戦いに象徴されるように、ヨーロッパ世界とも直接向き合う巨大国家を築き上げました。
第5代カリフのアブド=アルマリクのもとでアラビア語が公用語とされ、ディーナール金貨やディルハム銀貨が整備されるなど、国家としての制度化が本格的に進められました。
また各地にミスル(軍営都市)が建設され、征服地の農地にはハラージュ(土地税)が課されることで国家財政の基盤が整えられました。
一方で、アラブ人を中心とする支配体制の下、非アラブ系ムスリムであるマワーリーに対してもジズヤが課され、さらにアラブ人地主はハラージュを免除されるなど、税制における不公平が拡大していきます。
こうしてマワーリーやジンミーを中心に負担が集中し、社会的な差別構造が次第に固定化されていきました。
第6代カリフのワリード1世の時代には征服が最盛期を迎え、帝国は地中海世界と西アジアを結ぶ広大なイスラーム圏として完成します。
しかし、その急成長の裏側では、民族的格差や宗派対立、財政負担が静かに蓄積され、やがてアッバース革命によって王朝は倒されることになります。
本記事では、ムアーウィヤによる王朝成立から、アブド=アルマリクの制度改革、ワリード1世期の大征服、マワーリーやジンミーをめぐる社会構造、そしてアッバース革命による滅亡までを通して、ウマイヤ朝がどのように帝国化し、なぜ支持を失っていったのかを、因果関係を重視しながらわかりやすく整理していきます。
ウマイヤ朝(661〜750年)俯瞰チャート
【成立】
ムアーウィヤがカリフ位を世襲化
↓
首都をダマスクスに置き、王朝体制を確立
【制度化(アブド=アルマリク期)】
アラビア語を公用語化
ディーワーン制度整備
ディーナール金貨・ディルハム銀貨を鋳造
ミスル(クーファ・バスラ・カイラワーンなど軍営都市)建設
↓
軍事・行政・財政の中央集権化が進む
【領土拡大(ワリード1世期)】
西方:711年イベリア半島進出(西ゴート王国滅亡)
東方:中央アジア・インド方面へ拡張
↓
地中海世界+イラン世界を含む大帝国成立
【経済構造】
征服地農民 → ハラージュ(土地税)
非ムスリム(ジンミー) → ジズヤ(人頭税)
国家財政 → アラブ軍団へアター(俸給)
↓
非アラブ住民が支え、アラブ支配層が受け取る構造
【制度的矛盾】
非アラブ系ムスリム(マワーリー)にもジズヤ課税
アラブ人地主はハラージュ免除
↓
ムスリム平等原則と現実統治の乖離
税制の二重不公平(ジズヤ+ハラージュ)
【改革の試み(ウマル2世)】
マワーリーへのジズヤ是正を試みる
しかしアラブ支配層の反発と財政構造の制約で失敗
【結果】
マワーリーを中心に不満拡大
ホラーサーンで反ウマイヤ運動が高揚
↓
750年 アッバース革命
ウマイヤ朝滅亡
【意義】
イスラーム国家を初めて制度化した王朝
一方で、アラブ人優位の統治構造が崩壊を招いた
ウマイヤ朝は、貨幣・行政・軍事制度を整え、地中海世界とイラン世界を統合する巨大なイスラーム帝国を築きました。
しかし同時に、ジズヤとハラージュをめぐる税制の不公平とアラブ人優位の支配構造が社会の分断を深め、最終的にアッバース革命によって王朝は終焉を迎えます。
ウマイヤ朝の歩みは、制度化の成功とその裏側で進行した矛盾が、いかに密接に結びついていたかを示しています。
第1章 ウマイヤ朝成立の背景
― 正統カリフ体制の限界とムアーウィヤの台頭
預言者ムハンマドの死後に成立した正統カリフ体制は、信仰共同体の合意を基盤とする統治形態でした。
しかし征服が進み、国家の領域が急速に拡大すると、もはや部族的結束と宗教的権威だけでは統治が成り立たなくなっていきます。
この章では、正統カリフ体制が抱えた構造的限界と、その中でムアーウィヤがどのように権力を掌握したのかを整理します。
1.急拡大する領土と共同体統治の崩れ
正統カリフ時代、イスラーム勢力はシリア、エジプト、イラク、イラン方面へと急速に進出しました。征服地には軍営都市であるミスルが建設され、駐屯軍を基盤とする統治が行われますが、領域の拡大とともに中央の統制は次第に弱まっていきます。
各地では税収の確保と治安維持が重視されるようになり、宗教的平等を掲げていた初期イスラームの理念と、現実の行政運営との間にずれが生じ始めました。
とくに非アラブ系改宗者であるマワーリーは、ムスリムでありながら周縁的な扱いを受けることが多く、社会的な不満が蓄積されていきます。
こうした状況の中で、地方総督や軍司令官の発言力が増大し、共同体的統治は徐々に実質を失っていきました。
2.内乱の発生とアリー政権の動揺
第3代カリフ・ウスマーンの暗殺をきっかけに、イスラーム共同体は深刻な内乱へと突入します。後継者となったアリーは預言者の血縁という正統性を持っていましたが、暗殺への対応をめぐって反発を招き、各地で対立が激化しました。
シリア総督ムアーウィヤはウスマーンの親族として復讐を掲げ、アリー政権に対抗します。両者の衝突は大規模な内戦へと発展し、「誰が共同体を導く正統な指導者なのか」という問題が初めて武力を伴って争われることになりました。
この内乱は、後の宗派対立の出発点となると同時に、政治的安定を最優先する現実主義的な統治への転換を促す契機ともなります。
3.ハサンの譲位と王朝国家への転換
アリーの暗殺後、その長男ハサンが一時的にカリフとなりますが、内戦の長期化による疲弊を前に、ハサンは流血を避けるためムアーウィヤに権力を譲ります。こうして交渉によって指導権が移行し、ムアーウィヤは単独支配を確立しました。
ムアーウィヤは首都をダマスクスに置き、官僚制と常備軍を整備することで中央集権的体制を構築します。さらに自らの子を後継者に指名し、合議による選出という伝統を終わらせ、世襲制を導入しました。
ここに誕生したウマイヤ朝は、信仰共同体を基盤とする体制から、王族を頂点とする国家へとイスラーム世界を転換させた最初の政権でした。
第2章 アブド=アルマリクの改革と帝国体制の確立
― 制度化されたウマイヤ国家
ムアーウィヤによって成立したウマイヤ朝は、当初は軍事的支配色の強い政権でした。
しかし第5代カリフ・アブド=アルマリクの時代になると、イスラーム国家は本格的な制度国家へと転換していきます。
本章では、行政・軍事・財政・宗教の各分野で進められた改革と、その社会的影響を整理します。
1.アラビア語公用語化と貨幣制度の整備
アブド=アルマリクは、それまで各地で用いられていたギリシア語やペルシア語を廃し、行政文書をアラビア語に統一しました。これは帝国内の統治を一元化するための決定的な制度改革でした。
あわせてディーナール金貨とディルハム銀貨を発行し、ビザンツ貨幣やササン朝系貨幣への依存を断ち切ります。これにより税収管理と軍事費支出が容易になり、ウマイヤ朝は独自の経済圏を確立しました。
ウマイヤ朝が導入したディーナール金貨とディルハム銀貨は、まったく新しく生まれた貨幣というより、征服地ですでに流通していた既存の貨幣体系を引き継ぎ、イスラーム国家仕様に置き換えたものでした。
イスラーム勢力が拡大した7世紀、シリアやエジプトなど西方の地中海世界では東ローマ帝国の金貨ソリドゥスが流通し、一方イラクやイランなど東方地域ではササン朝の銀貨ドラクマが経済の基盤となっていました。
すなわち、西方経済圏は金貨文化、東方経済圏は銀貨文化という二つの異なる貨幣世界が存在していたのです。
第5代カリフ・アブド=アルマリクは、これらをそのまま使い続けるのではなく、東ローマ金貨に代わるディーナール金貨と、ササン朝ドラクマに代わるディルハム銀貨を鋳造しました。
人物像を排し、クルアーン文句を刻んだこれらの貨幣は、地中海世界とイラン世界という二つの経済圏を統合したイスラーム帝国の成立を象徴するものであり、ウマイヤ朝が軍事だけでなく経済面でも自立した国家であることを示していました。
2.ミスル(軍営都市)による支配構造の固定化
領土拡大を支えたのがミスルと呼ばれる軍営都市です。クーファやバスラ(イラク)、カイラワーン(北アフリカ)などが代表例で、これらは軍事拠点であると同時に行政と徴税の中枢として機能しました。
ミスルにはアラブ軍団が定住し、征服地社会を直接統治します。この仕組みによってウマイヤ朝は広大な領域を管理できるようになりましたが、同時にアラブ人支配層と現地住民との隔たりも固定化されていきます。
3.岩のドームとイスラーム帝国の象徴化
アブド=アルマリクは制度改革だけでなく、宗教的象徴の整備にも力を入れました。
その代表がエルサレムの岩のドームです。7世紀末に完成したこの建築は、イスラーム世界最古級の記念的建造物であり、アラビア語碑文によってイスラームの普遍性と国家の正統性を可視化しました。
岩のドームは単なる宗教施設ではなく、ビザンツ文化圏の中心地においてイスラーム支配を示す政治的モニュメントでもあり、アラビア語公用語化や貨幣改革と並んで「帝国の完成」を象徴する存在でした。
4.ジズヤとハラージュ――制度化された差別構造
ジズヤは本来、イスラーム国家に服属しながら改宗しない人々(ジンミー)に課される人頭税で、軍役を免除される代わりに、信仰の自由と生命・財産の保護を保障されることへの対価でした。
イスラーム国家では、ムスリムが軍役の義務を負う一方、非ムスリムは軍役を免除され、その代わりにジズヤを納めるという役割分担が成り立っており、ジズヤはムスリムには課されないのが原則でした。
ところがウマイヤ朝では、イスラームへ改宗した非アラブ系ムスリムであるマワーリーに対しても、ジズヤが課され続けました。マワーリーはムスリムでありながら人頭税を負担させられ、信仰の平等というイスラームの根本原則が踏みにじられることになります。
一方、ハラージュは農地そのものに課される土地税であり、本来は土地所有者であれば民族を問わず負担する仕組みでした。しかしウマイヤ朝では、アラブ人地主はハラージュを免除される一方、非アラブ住民には引き続き課税が行われ、土地税であるはずのハラージュが人種によって左右される制度へと変質していきます。
第3章 ワリード1世の大征服と帝国の最盛期
― 拡張の完成とその代償
アブド=アルマリクの改革によって国家基盤が整うと、ウマイヤ朝は再び外征を加速させます。その頂点に立ったのがワリード1世でした。
1.西ゴート王国の崩壊とイベリア半島進出
8世紀初頭の711年、ウマイヤ朝軍は北アフリカを拠点としてジブラルタル海峡を渡り、イベリア半島へと進出しました。当時の半島では西ゴート王国が内紛と政治的混乱に陥っており、これが征服を容易にします。
イスラーム軍は短期間で主要都市を制圧し、711年には西ゴート王国を滅ぼし、半島の大部分を勢力下に収めました。
この進出は単なる軍事的勝利にとどまらず、西地中海世界をイスラーム圏に組み込む決定的な転換点となります。
2.トゥール・ポワティエ間の戦いと西方拡張の限界
イベリア半島を制圧したイスラーム軍はさらに北へ進み、フランク王国との衝突に至ります。その象徴が732年のトゥール・ポワティエ間の戦いです。この戦いでイスラーム軍は敗北し、西ヨーロッパへの本格的拡張はここで食い止められました。
この出来事はしばしば「イスラームのヨーロッパ進出の阻止」として語られますが、実際には補給線の限界や遠征軍の規模といった現実的要因も大きく作用していました。とはいえ、この敗北はウマイヤ朝の西方拡張が一つの到達点に達したことを示しています。
3.最大領域達成と拡張国家の矛盾
ワリード1世の治世下で、ウマイヤ朝は西はイベリア半島、東は中央アジアに至る史上最大級の領土を支配する帝国となりました。しかしこの急拡大は、同時に統治コストの増大と社会的緊張をもたらします。
広大な領土を維持するための軍事費は膨張し、各地のミスルを支える財政負担も重くなりました。また、アラブ人支配層とマワーリーとの格差、ジンミーへの課税構造など、制度改革によって覆い隠されていた矛盾が再び表面化していきます。
こうしてウマイヤ朝は、外見上は最盛期を迎えながらも、その内部ではすでに崩壊の芽を抱え込んでいました。
第4章 差別構造とアッバース革命
― マワーリーの不満が帝国を転覆させる
ウマイヤ朝は巨大帝国の基盤を築いた一方で、アラブ人優位の支配構造という深刻な矛盾を内包していました。
本章では、マワーリーへの課税と差別がどのように政治運動へと転化し、最終的にアッバース革命として結実したのかを、社会・地域・宗教の三つの視点から整理します。
1.ハラージュとジズヤが生んだ社会的緊張
本来、イスラームでは信徒は民族に関係なく平等とされます。しかしウマイヤ朝の統治下では、この原則が現実の制度運用の中で大きく歪められていきました。
具体的には、税制において次のような矛盾が生じていました。
ハラージュ(土地税)
・本来は農地そのものに課される税であり、土地所有者であれば人種を問わず負担する仕組み
☞ しかしウマイヤ朝では、アラブ人地主は免除され、非アラブ住民だけが課税対象となる
ジズヤ(人頭税)
・本来はイスラームに改宗しない異教徒が、軍役を免除される代わりに支払う税
☞しかしウマイヤ朝では、非アラブ系ムスリム(マワーリー)に対しても課され続ける
その結果、
・アラブ人ムスリムは両税から実質的に解放され
・非アラブ系ムスリムは、ムスリムでありながらジズヤを課され
・さらに土地を持つ者はハラージュも負担する
という構造が生まれました。
徴収されたハラージュやジズヤは、アラブ軍団への俸給であるアターとして分配されており、非アラブ住民が負担した税がアラブ支配層の生活を支える構造が固定化されていきました。
こうしてマワーリーは、同じイスラーム教徒であるにもかかわらず二重の税負担を強いられ、経済的不満と差別意識が急速に拡大していきます。
これは信仰の平等を掲げるイスラームの理念と、現実の国家運営との深刻な乖離を示しており、この制度的矛盾こそが後の反ウマイヤ運動とアッバース革命を生み出す重要な背景となりました。
2.ウマル2世の改革とその限界
ウマイヤ朝の中でも、ウマル2世はマワーリーへのジズヤ課税の是正など、差別緩和を試みた数少ない改革派のカリフでした。
しかし国家財政はハラージュとジズヤを原資としてアラブ軍団にアターを支給する仕組みに依存しており、改革は支配層の強い反発に遭います。
制度そのものを変えることはできず、短い治世ののち改革は頓挫しました。こうして不満は解消されないまま蓄積され、後のアッバース革命へとつながっていきます。
3.ホラーサーンを中心とする反ウマイヤ運動の形成
こうした不満は、帝国東方、とくにホラーサーン地方で政治運動へと発展します。この地域には非アラブ系ムスリムが多く居住しており、アラブ支配層への反発が集中していました。
ここでアッバース家は、マワーリーの不満と「預言者一族の正統な後継者」という宗教的主張を結びつけ、秘密組織的なネットワークを構築します。反ウマイヤ運動は単なる地方反乱ではなく、帝国全体の秩序を転換する革命運動へと成長していきました。
4.アッバース革命と帝国構造の転換
750年、反乱軍は決定的勝利を収め、ウマイヤ朝は滅亡します。新たに成立したアッバース朝は首都をバグダードに移し、非アラブ系ムスリムを積極的に登用することで、ウマイヤ朝時代に固定化された民族的格差の是正を打ち出しました。
これは、アラブ人中心の征服国家から、多民族的イスラーム帝国への転換を意味します。ウマイヤ朝は制度国家の基盤を築いた一方で、その制度自体が革命を生み出す構造を内包していたのです。
5.まとめ
ウマイヤ朝は、イスラーム国家を初めて制度化し、地中海世界とイラン世界を統合した巨大帝国を築きました。
しかし同時に、アラブ人優位の統治構造と税制の不公平という深刻な矛盾を抱え込みます。こうして成立した差別構造は、やがてマワーリーを中心とする反ウマイヤ運動へと転化し、アッバース革命によって王朝は終焉を迎えました。
ウマイヤ朝の歴史は、拡張と制度化の成功と、その裏側で進行した社会的分断がいかに密接に結びついていたかを示しています。
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