アッバース朝とは、8世紀半ばに成立し、イスラーム世界を史上最大規模の「イスラーム帝国」へと発展させた王朝です。
首都バグダードを中心に、政治・経済・学問が高度に結びつき、ムスリム商人の活動や駅伝制による交通網、大食と呼ばれる国際交易圏が広がることで、前近代最大級の世界システムが形成されました。
その一方で、この時代は単なる繁栄の時代ではありません。シーア派の支持を受けて成立した王朝でありながら、次第にペルシア人官僚やマムルークといった非アラブ勢力が政治の中枢に入り込み、やがてカリフ権威は形骸化していきます。
さらに後期にはザンジュの乱などの社会不安が頻発し、最終的には「三カリフの並立」という分裂状態へと向かっていきました。
対外的にも、唐と衝突したタラス河畔の戦い(高仙芝)、西方ではカール大帝との外交関係など、アッバース朝はユーラシア規模の国際秩序の中で動いていた点が大きな特徴です。また知恵の館を中心とする翻訳活動や、スーフィー信仰の広がりは、イスラーム文明の精神的・学問的基盤を形づくりました。
本記事では、アブー=アッバースとマンスールによる王朝創設から出発し、アッバース朝がいかにしてイスラーム帝国を完成させたのか、そしてなぜ分裂へと向かったのかを、政治・社会・経済・文化の流れを整理しながらわかりやすく解説していきます。
【アッバース朝の全体像俯瞰チャート】
― 革命・繁栄・多民族化・分裂
ウマイヤ朝末期
・アラブ人中心支配への不満
・非アラブ系ムスリム(マワーリー)の不満
・シーア派の反体制運動
・ホラーサーン地方で反乱が拡大
↓
アッバース革命(750年)
・アブー=アッバース即位
・ウマイヤ朝滅亡
・多民族的イスラーム国家へ転換
↓
マンスール(第2代カリフ)
・バグダード建設
・中央集権体制の整備
・ペルシア人官僚登用
・駅伝制による統治網形成
↓
帝国の最盛期(8〜9世紀)
マフディー
・政治的安定の確立
ハールーン=アッラシード
・ムスリム商人の活躍
・大食(国際交易圏)の形成
・駅伝制の完成
・カール大帝と外交
マアムーン
・知恵の館の拡充
・翻訳運動の推進
・イスラーム学問の体系化
↓
多民族帝国の深化と変質
・ペルシア人官僚が実務を掌握
・マムルーク(軍事奴隷)の台頭
・カリフは宗教的象徴へ
・スーフィー信仰の広がり
↓
社会不安の表面化
・ザンジュの乱(黒人奴隷反乱)
・地方政権の自立
↓
対外関係
東方
・タラス河畔の戦い(751年)
・高仙芝率いる唐軍敗北
・中央アジアがイスラーム圏へ
西方
・ハールーン=アッラシードとカール大帝の外交
↓
カリフ権威の形骸化(10世紀以降)
・地方王朝の分立
・シーア派ファーティマ朝成立(北アフリカ→エジプト)
↓
三カリフの並立
・バグダード:アッバース朝
・カイロ:ファーティマ朝(シーア派)
・コルドバ:後ウマイヤ朝
↓
統一イスラーム帝国の終焉
・アッバース朝は名目的存続
・イスラーム世界は複数政治圏へ分裂
第1章 アブー=アッバースとマンスール
― アッバース革命と新しい帝国の出発点
この章では、アッバース朝がどのように成立したのか、その原点となるアブー=アッバースの即位と、実質的な国家建設者であるマンスールの政策を整理します。
ウマイヤ朝末期に蓄積していた社会的不満、シーア派やペルシア人の支持、そして新首都バグダードの建設までを一連の流れとして理解することが重要です。
1.ウマイヤ朝への不満とアッバース革命
ウマイヤ朝後期、イスラーム帝国は急速に拡大した一方で、内部には深刻な矛盾を抱えていました。アラブ人中心の支配体制のもと、非アラブ系ムスリムであるマワーリーは差別的な扱いを受け、ジズヤやハラージュをめぐる不満も広がっていました。
さらに、預言者ムハンマドの血統を重視するシーア派の人々は、ウマイヤ家の世襲支配を正統とは認めず、反体制運動を続けていました。こうした不満は東方のホラーサーン地方で結集し、アッバース家を旗印とする反乱へと発展します。
750年、この運動を背景にアブー=アッバースがカリフに即位し、ウマイヤ朝は滅亡しました。これがいわゆるアッバース革命です。アブー=アッバースはシーア派の支持を受けて権力を握りましたが、即位後は特定宗派に偏らない統治を志向し、幅広い勢力を取り込む姿勢を見せました。
この革命は単なる王朝交代ではなく、「アラブ人中心国家」から「多民族イスラーム帝国」への転換点でもあったのです。
2.マンスールによる体制整備とバグダード建設
アッバース朝の基盤を本格的に築いたのが、第2代カリフのマンスールです。彼は反対勢力を抑え込みつつ、中央集権的な統治体制を整え、帝国経営を安定させていきました。
とくに重要なのが、新首都バグダードの建設です。チグリス川流域に築かれたこの都市は、東西交易の結節点に位置し、ムスリム商人の活動を通じて急速に発展しました。ここを政治の中心としたことで、アッバース朝はアラブ世界だけでなく、ペルシア世界や中央アジアを含む広大な領域を効率的に統治できるようになります。
またマンスールは、ペルシア人官僚を積極的に登用し、行政制度を整備しました。駅伝制を活用した情報伝達網の構築も進められ、広大なイスラーム帝国を結ぶ統治インフラが形成されていきます。
こうしてアッバース朝は、軍事的征服による拡大の時代から、制度と行政によって支えられる帝国へと姿を変えていきました。
3.「革命国家」から「帝国国家」へ
アブー=アッバースの即位とマンスールの改革によって、アッバース朝はようやく安定した王朝国家として歩み始めます。しかし同時に、この段階ですでに後の変質の芽も生まれていました。
シーア派の期待を完全には満たせなかったこと、ペルシア人官僚の影響力が増大したことは、やがて政治構造の複雑化を招きます。また、中央集権化の進展は、地方社会との緊張関係も内包していました。
つまり第1章の段階で、アッバース朝は「理想を掲げた革命政権」から「現実を統治する帝国国家」へと転換したのです。この転換こそが、後の繁栄と分裂の両方を生み出す出発点となりました。
第2章 イスラーム帝国の完成
― ハールーン=アッラシードとマアムーンの時代
この章では、アッバース朝が最盛期を迎えた8〜9世紀の政治・経済・文化の発展を整理します。
とくにハールーン=アッラシードとマアムーンの治世は、ムスリム商人による大食の形成、駅伝制による統治網の完成、そして知恵の館を核とする学問の隆盛という三つの側面から理解することが重要です。
1.マフディーとハールーン=アッラシード
― 商業帝国としての完成
第3代カリフのマフディーの時代から、アッバース朝は安定期に入り、経済と行政の整備が進みました。この流れを決定的な繁栄へ導いたのが、第5代カリフのハールーン=アッラシードです。
ハールーン=アッラシード期、バグダードは国際商業都市として発展し、ムスリム商人が地中海からインド洋、中国沿岸まで活動範囲を広げました。こうして形成された広域交易圏は「大食」と呼ばれ、アッバース朝は軍事国家であると同時に、巨大な商業帝国として機能するようになります。
この時代、共通のイスラーム法とアラビア語が商取引の基盤となり、遠隔地間でも信用取引が可能となりました。宗教と法が経済活動を支える仕組みが整った点は、アッバース朝の大きな特徴です。
またハールーン=アッラシードは駅伝制を整備し、帝国全体に張り巡らされた通信網を通じて中央集権的な統治を実現しました。これにより、広大な領域を一体として管理できる体制が完成します。
なお彼は西欧世界とも外交関係を築き、フランク王国のカール大帝と使節を交換したことでも知られています。
2.マアムーンと知恵の館
― 学問国家への転換
ハールーン=アッラシードの死後、内紛を経て即位したのが第7代カリフのマアムーンです。彼の治世は、アッバース朝が「学問国家」として頂点に達した時代と位置づけられます。
マアムーンはバグダードの知恵の館を拡充し、大規模な翻訳事業を推進しました。ギリシア哲学、医学、数学、天文学などの文献がアラビア語に訳され、イスラーム世界の学問体系が飛躍的に発展します。
この翻訳運動によって保存・発展した古代ギリシアの知は、後にヨーロッパへ伝えられ、ルネサンスの基盤ともなりました。アッバース朝は単なる宗教国家ではなく、ユーラシア規模の知的ハブだったのです。
またこの時代、個人の内面を重視するスーフィー信仰も広がり、宮廷文化と民衆信仰の両面でイスラーム文明が成熟していきました。
3.最盛期の完成と、その裏に潜む変質
マフディー、ハールーン=アッラシード、マアムーンの三代にわたって、アッバース朝は経済・行政・文化のすべてにおいて最盛期を迎えました。
しかし同時に、この繁栄は巨大官僚制と軍事力に支えられており、後にマムルークの台頭や地方勢力の自立を招く土台ともなります。
第2章で見た完成された帝国像は、次章で扱う「多民族帝国の矛盾」へと静かにつながっていくのです。
第3章 多民族帝国の矛盾
― ペルシア人官僚とマムルークが変えた国家のかたち
この章では、アッバース朝が最盛期を迎えた後、内部構造の変化によって次第に不安定化していく過程を見ていきます。
ペルシア人官僚の台頭、マムルークの軍事的影響力、ザンジュの乱に象徴される社会不安、そしてスーフィー信仰の広がりを通して、「多民族帝国」が抱えた構造的矛盾を整理します。
1.ペルシア人官僚の台頭と政治構造の変質
アッバース朝は成立当初から、アラブ人だけでなくペルシア人を積極的に登用する体制をとっていました。とくに行政分野では、サーサーン朝以来の統治経験をもつペルシア系官僚が重要な役割を担います。
その代表が宰相制度です。カリフの下で実務を担当する宰相にはペルシア系が多く、財政・人事・地方統治を実質的に掌握しました。これにより国家運営は効率化されましたが、一方でカリフ自身の政治的主導権は次第に弱まっていきます。
この段階で、カリフは宗教的権威の象徴となり、実権は官僚機構へと移り始めました。ここに、後のカリフ権威の形骸化の出発点があります。
2.マムルークの登場と軍事権力の独立
9世紀以降、アッバース朝は軍事力を維持するため、トルコ系を中心とする奴隷兵士マムルークを大量に採用します。
当初マムルークは、血縁や地縁を持たないため、カリフに忠実な軍隊として期待されました。しかし次第に彼らは独自の軍事集団として組織化され、政治に介入するようになります。
その結果、軍事力を握るマムルークが政権の実権を左右し、カリフは彼らに擁立される存在へと変わっていきました。ここでもまた、名目上の君主と実際の権力者が分離する構造が強まります。
3.ザンジュの乱に見る社会的不安
帝国の周縁部では、社会的緊張も高まっていました。その象徴が9世紀後半に起きたザンジュの乱です。
これはイラク南部で、塩田労働に従事させられていた黒人奴隷(ザンジュ)が大規模蜂起を起こした事件です。反乱は十数年にわたって続き、バスラなどの重要都市が占拠されるなど、アッバース朝に深刻な打撃を与えました。
この反乱は単なる奴隷暴動ではなく、巨大帝国の経済構造と社会格差が限界に達していたことを示しています。
4.スーフィー信仰の広がりと民衆社会
政治が官僚と軍人の手に移る一方で、民衆の間ではスーフィー信仰が広がっていきました。スーフィー信仰は、神との直接的な結びつきを重視する神秘主義的なイスラームの実践形態です。
国家や法による統治が遠い存在になる中で、人々は個人的な救済や精神的安定を求め、スーフィーの修行者や聖者を慕うようになります。こうした動きは、アッバース朝後期の社会が中央権力から距離を取り始めていたことを示しています。
第4章 対外関係と軍事的転換
― タラス河畔の戦いとカール大帝外交
この章では、アッバース朝が周辺世界とどのように関わっていたのかを見ていきます。
唐との衝突、西欧との外交という二つの方向から、アッバース朝が単なる地域国家ではなく、ユーラシア規模の大国だったことを確認します。
1.タラス河畔の戦いと東方進出の限界
751年、中央アジアのタラス河畔で、アッバース朝軍と唐軍が激突しました。これがタラス河畔の戦いです。唐側の将軍は高仙芝で、中央アジア支配をめぐる両勢力の対立が背景にありました。
戦闘の結果、唐軍は敗北し、以後、中国王朝が中央アジアへ本格的に進出することはなくなります。この戦いによって、中央アジアはイスラーム勢力圏に組み込まれ、アッバース朝の東方支配は決定的となりました。
またこの戦いの捕虜を通じて製紙技術がイスラーム世界に伝わったとされ、後の学問発展や文書行政を支える重要な基盤が築かれます。知恵の館に代表される学術活動の背景にも、こうした技術的基盤がありました。
2.カール大帝との外交と西方世界
東方で唐と対峙する一方、西方ではフランク王国のカール大帝と外交関係を結びました。ハールーン=アッラシードの時代、両者は使節を交換し、贈答品のやり取りも行っています。
この関係は、単なる友好交流ではなく、共通の敵であるビザンツ帝国を意識した戦略的接近でもありました。アッバース朝とフランク王国は、地中海世界を挟んで東西からビザンツを牽制する構図を作り出したのです。
この事実は、アッバース朝がイスラーム世界の枠を超え、ヨーロッパ政治とも連動していたことを示しています。
3.軍事拡張から国際秩序の一角へ
ウマイヤ朝時代のような連続的な領土拡張は、アッバース朝初期を最後に次第に落ち着いていきます。その代わり、アッバース朝は外交と経済を通じて国際秩序の中核を担う国家へと変化しました。
タラス河畔の戦いは東方の勢力圏を確定させ、カール大帝との外交は西方世界との接点を築きました。こうしてアッバース朝は、ユーラシア大陸を横断する政治・経済・文化ネットワークの中心として機能するようになります。
しかしこの「世界帝国」としての地位は、同時に内部の統制を難しくし、次章で扱うカリフ権威の分裂へとつながっていきます。
第5章 カリフ権威の崩壊と三カリフの並立
― 統一イスラーム世界の終焉
この章では、アッバース朝後期に進行したカリフ権威の形骸化と、最終的に出現した「三カリフの並立」という分裂状態を整理します。ここは入試でも頻出で、「なぜカリフが複数存在するようになったのか」という因果関係を押さえることが重要です。
1.地方政権の自立とカリフの名目化
9世紀以降、アッバース朝では中央政府の統制力が急速に低下していきました。ペルシア人官僚とマムルークが政治と軍事を握る中で、カリフは宗教的象徴へと後退します。
同時に、各地で地方政権が次々と自立しました。エジプトやイラン、中央アジアでは半独立国家が成立し、名目上はアッバース朝の支配を認めつつ、実際には独自の統治を行うようになります。
こうしてイスラーム帝国は、表向きの統一とは裏腹に、実態としては分権的な世界へと変質していきました。
2.シーア派政権の成立と対抗カリフ
この分裂を決定づけたのが、シーア派勢力による独自カリフ政権の出現です。
10世紀初頭、北アフリカでファーティマ朝が成立し、シーア派の立場から独自のカリフを名乗りました。さらにファーティマ朝は後にエジプトへ進出し、カイロを拠点とする強力な国家へ発展します。
これにより、バグダードのアッバース朝カリフとは別系統の「正統」を主張するカリフが並立する状況が生まれました。宗派対立が、政治的分裂として表面化した瞬間です。
3.三カリフの並立という歴史的転換点
やがて10世紀には、以下の三つのカリフ政権が同時に存在する状態となります。
バグダードのアッバース朝カリフ
カイロのファーティマ朝カリフ(シーア派)
後ウマイヤ朝のコルドバ・カリフ(イベリア半島)
これがいわゆる三カリフの並立です。
この状況は、「イスラーム世界は本来一人のカリフのもとで統一される」という原則が完全に崩れたことを意味します。以後、イスラーム世界は宗派・地域・王朝ごとに分裂した複数の政治圏として展開していくことになります。
アッバース朝はなお存続しましたが、そのカリフは実権を持たない象徴的存在となり、かつてのイスラーム帝国の統一的性格は失われました。
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