十字軍とイスラーム勢力の戦いの中で、もっとも強烈な存在感を放った人物が、サラディン(サラーフ=アッディーン)です。
彼は第3回十字軍の相手として有名であり、リチャード1世(獅子心王)との対決は歴史的名場面として語り継がれています。しかし、サラディンの真の偉大さは単なる軍事的勝利だけではありません。
彼は分裂状態にあったイスラーム世界を統一し、アイユーブ朝を築いたことで、十字軍に対抗しうる体制を整えたのです。
本記事では、サラディンの台頭からアイユーブ朝の活躍、エルサレム奪回、そしてその後の展開までを受験生向けにわかりやすく解説します。
大学入試でも頻出の重要ポイントを押さえながら、論述問題や一問一答形式で実力を固めていきましょう。
第1章 サラディンの台頭とアイユーブ朝の成立
1-1 サラディンの出自と若き日の活躍
サラディン(1137〜1193)は、クルド人の出自をもつ将軍でした。
彼は最初、シリアのザンギー朝に仕えていましたが、のちにエジプトへ派遣され、ファーティマ朝の宰相の地位に就きます。
このとき、サラディンは巧みに軍事と政治の実権を掌握し、弱体化していたファーティマ朝を事実上支配下に置くことに成功しました。これが彼の台頭の第一歩でした。
1-2 アイユーブ朝の成立
サラディンは1171年、ついにファーティマ朝を正式に滅ぼし、スンナ派の権威を復活させます。
ここに彼の一族による王朝であるアイユーブ朝(首都カイロ)が成立しました。
これは、シーア派のファーティマ朝にかわってスンナ派政権がエジプトに復活したという点で、イスラーム史上大きな転換点とされます。
以後、サラディンはシリア・メソポタミア方面にも勢力を拡大し、エジプトとシリアを統一しました。イスラーム世界は、長らく続いた分裂状態から解放され、十字軍に対抗する強力な勢力が登場したのです。
1-3 十字軍との対決の準備
サラディンはイスラーム統一を進めると同時に、エルサレム王国を中心とする十字軍国家に圧力を加えていきました。
彼はジハード(聖戦)を掲げてイスラーム勢力を結集させ、1170年代後半からパレスチナ方面で攻勢を強めます。
その過程で、十字軍諸侯との間に戦闘が繰り返され、やがてヒッティーンの戦い(1187年)へとつながっていくのです。
1章で入試に狙われるポイント
- サラディンの出自と経歴(クルド人、ファーティマ朝宰相→実権掌握)
- 1171年にファーティマ朝を滅ぼしてアイユーブ朝を建国したこと
- アイユーブ朝がスンナ派王朝であること
- エジプトとシリアを統一し、十字軍国家に対抗する体制を築いたこと
- サラディンがアイユーブ朝を建国し、イスラーム世界を統一した意義について、十字軍との関係に触れながら説明せよ。(200字程度)
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サラディンは1171年にファーティマ朝を滅ぼし、スンナ派王朝であるアイユーブ朝を建国した。これによりエジプトとシリアを統一し、長らく分裂していたイスラーム世界に強力な政治的基盤をもたらした。その結果、十字軍国家に対抗しうる体制が整い、後のヒッティーンの戦いでの勝利やエルサレム奪回へとつながった。サラディンの統一は、十字軍にとって最大の脅威となり、第3回十字軍を招く要因ともなった。
第1章: サラディンとアイユーブ朝の活躍 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
サラディンの出自はどの民族か。
解答:クルド人
問2
サラディンが当初仕えたシリアの王朝は何か。
解答:ザンギー朝
問3
サラディンが宰相を務めた当時のエジプトの王朝は何か。
解答:ファーティマ朝
問4
サラディンが滅ぼした王朝は何か。
解答:ファーティマ朝
問5
サラディンが建てた王朝の名と首都は何か。
解答:アイユーブ朝、カイロ
問6
アイユーブ朝はスンナ派か、シーア派か。
解答:スンナ派
問7
サラディンが統一した地域はどことどこか。
解答:エジプトとシリア
問8
サラディンが十字軍との戦いに掲げた理念は何か。
解答:ジハード(聖戦)
問9
サラディンがエルサレムを奪回するきっかけとなった戦いは何か。
解答:ヒッティーンの戦い
問10
サラディンの活躍が引き金となった十字軍は第何回か。
解答:第3回十字軍
正誤問題(5問)
問1
サラディンはもともとシーア派の出自で、スンナ派に改宗した。
解答:誤(サラディンはクルド人でスンナ派)
問2
サラディンは1171年にファーティマ朝を滅ぼしてアイユーブ朝を建てた。
解答:正
問3
アイユーブ朝の首都はバグダードであった。
解答:誤(首都はカイロ)
問4
サラディンはエジプトとシリアを統一し、十字軍国家に対抗した。
解答:正
問5
サラディンの活躍によって第3回十字軍が派遣された。
解答:正
よくある誤答パターンまとめ
- サラディンが建てたのは「マムルーク朝」と混同する。→正しくは「アイユーブ朝」。
- アイユーブ朝の首都を「ダマスクス」と答える。→正しくは「カイロ」。
- サラディンを「トルコ人」と誤解する。→正しくは「クルド人」。
- ファーティマ朝を滅ぼしたのを「オスマン朝」と混同する。→正しくは「サラディン」。
- サラディンの活動を第2回十字軍と関連づける誤答。→実際は第3回十字軍の要因。
第2章 ヒッティーンの戦いとエルサレム奪回
2-1 ヒッティーンの戦い(1187年)
1187年、サラディン率いるイスラーム軍は、パレスチナのヒッティーンの丘で十字軍国家エルサレム王国の軍と激突しました。
この戦いで、サラディンは十字軍を徹底的に打ち破り、その象徴的存在であった聖十字架(キリスト磔刑に使われたとされる木片)を奪取しました。これは十字軍にとって精神的にも大きな打撃となりました。
2-2 エルサレムの奪回
ヒッティーンでの勝利を足がかりに、サラディンは十字軍国家を次々と攻略し、同年10月にはエルサレムを奪回しました。
1099年の第1回十字軍以来、十字軍の支配下にあった聖地が、再びイスラームの手に戻ったのです。
サラディンは、かつて第1回十字軍が行ったような大虐殺を行わず、寛大な処置で市民や捕虜を扱ったと伝えられています。
このことは彼の名声を高め、ヨーロッパにおいても「騎士道的な敵将」として尊敬される要因となりました。
2-3 第3回十字軍を招く
エルサレムの陥落は、キリスト教世界に衝撃を与えました。
これにより、ローマ教皇の呼びかけで第3回十字軍(1189〜92)が派遣されます。
ヨーロッパからはイングランド王リチャード1世(獅子心王)、フランス王フィリップ2世、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世など、そうそうたる君主が参加しました。
以後、サラディンはリチャード1世との戦いを通じてさらに名声を高めていくのです。
2章で入試に狙われるポイント
- 1187年のヒッティーンの戦いでサラディンが十字軍を破ったこと
- 聖十字架の奪取という象徴的事件
- エルサレムを奪回した年とその意義(1099年以来の十字軍支配から解放)
- サラディンの寛大な処置と名声
- これが第3回十字軍派遣の契機になったこと
- 1187年のヒッティーンの戦いとエルサレム奪回の意義について、第3回十字軍との関連も含めて説明せよ。(200字程度)
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1187年、サラディンはヒッティーンの戦いで十字軍国家のエルサレム王国を破り、聖十字架を奪取した。その勢いでエルサレムを奪回し、1099年以来続いた十字軍支配を終わらせた。この出来事はキリスト教世界に大きな衝撃を与え、ローマ教皇の呼びかけによって第3回十字軍が派遣される契機となった。また、サラディンは寛大な処置で市民や捕虜を扱い、敵国からも尊敬を集めた点で、彼の歴史的評価を高めた。
第2章: サラディンとアイユーブ朝の活躍 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
サラディンが十字軍を破った戦いは何か。
解答:ヒッティーンの戦い
問2
ヒッティーンの戦いは西暦何年か。
解答:1187年
問3
ヒッティーンの戦いで奪われたキリスト教の象徴は何か。
解答:聖十字架
問4
サラディンが1187年に奪回した都市はどこか。
解答:エルサレム
問5
第1回十字軍によるエルサレム占領は西暦何年か。
解答:1099年
問6
サラディンがエルサレムを奪回した際、市民に対してどのような態度をとったか。
解答:寛大な処置をとった
問7
エルサレム奪回によって派遣された十字軍は第何回か。
解答:第3回十字軍
問8
第3回十字軍に参加したイングランド王は誰か。
解答:リチャード1世(獅子心王)
問9
第3回十字軍に参加したフランス王は誰か。
解答:フィリップ2世
問10
第3回十字軍に参加した神聖ローマ皇帝は誰か。
解答:フリードリヒ1世(赤髭王)
正誤問題(5問)
問1
ヒッティーンの戦いで十字軍を破ったのは第1回十字軍の指導者ゴドフロワである。
解答:誤(勝利したのはサラディン)
問2
エルサレムは1187年にサラディンによって奪回された。
解答:正
問3
サラディンはエルサレム占領後、市民を虐殺した。
解答:誤(寛大な処置をとった)
問4
エルサレム奪回が第3回十字軍派遣の契機となった。
解答:正
問5
第3回十字軍に参加した神聖ローマ皇帝はフリードリヒ2世であった。
解答:誤(フリードリヒ1世)
よくある誤答パターンまとめ
- ヒッティーンの戦いを「第3回十字軍の戦い」と混同する。→正しくは第3回十字軍前の戦い。
- サラディンがエルサレム奪回時に「虐殺を行った」と誤解する。→正しくは寛大な処置。
- 聖十字架を奪ったのは「第1回十字軍」と混同する。→実際はサラディンが1187年に奪取。
- 第3回十字軍の参加者をフリードリヒ2世やルイ9世と混同。→正しくはフリードリヒ1世、フィリップ2世、リチャード1世。
- エルサレム奪回の年を「1099年」と逆に答える誤り。→正しくは1187年。
3章 第3回十字軍とサラディンの評価
3-1 第3回十字軍の派遣
エルサレム奪回(1187年)はキリスト教世界に大きな衝撃を与えました。
ローマ教皇の呼びかけにより、第3回十字軍(1189〜92年)が組織されます。
参加者は当時のヨーロッパの最強クラスの王たちであり、イングランド王リチャード1世(獅子心王)、フランス王フィリップ2世、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(赤髭王)が名を連ねました。
とくにリチャード1世とサラディンの対決は、後世に語り継がれる歴史的なライバル関係となります。
3-2 サラディンとリチャード1世の戦い
第3回十字軍は、当初から困難を抱えていました。フリードリヒ1世は途中で事故死し、フィリップ2世も途中で帰国してしまいます。
そのため、実質的にサラディンと戦ったのはリチャード1世でした。
リチャードは海上輸送を駆使して地中海東岸に到着し、アッコン包囲戦(1191年)などで善戦しました。
しかしサラディンは粘り強く抵抗し、決定的な勝利を許しませんでした。両者の戦いは互いに譲らぬ名将同士の戦いとして有名であり、戦場では時に互いを尊敬し合う騎士道的なエピソードも伝わっています。
3-3 和平とその後の評価
最終的に1192年、サラディンとリチャード1世は講和(ヤッファの和約)を結びました。
この講和により、エルサレムはイスラーム側の支配下に残るものの、キリスト教徒の聖地巡礼は認められることとなりました。
サラディンは1193年に死去しましたが、彼の名声は生前からヨーロッパでも高まり、リチャード1世からも「尊敬すべき敵」と評されました。
サラディンの死後、アイユーブ朝は衰退の兆しを見せますが、彼の功績は「イスラーム統一と聖地防衛に尽力した英雄」として長く記憶されることになりました。
3章で入試に狙われるポイント
- 第3回十字軍の主要参加者(リチャード1世、フィリップ2世、フリードリヒ1世)
- アッコン包囲戦などでの十字軍とサラディンの戦い
- 1192年のヤッファの和約の内容(エルサレムはイスラーム支配、巡礼は許可)
- サラディンとリチャード1世の「騎士道的関係」
- サラディンの死去(1193年)と歴史的評価
- 第3回十字軍におけるサラディンとリチャード1世の戦いを説明し、その結果がもたらした意義について述べよ。(200字程度)
-
第3回十字軍はリチャード1世、フィリップ2世、フリードリヒ1世らが参加したが、実際にサラディンと戦ったのは主にリチャード1世であった。アッコン包囲戦などで激戦が繰り広げられたが、決定的勝利は得られず、1192年に講和が成立した。このヤッファの和約により、エルサレムはイスラーム支配下に残る一方で、キリスト教徒の巡礼が認められた。これは聖地をめぐる妥協的解決であり、サラディンはイスラーム世界の英雄として、またヨーロッパでも尊敬される人物として評価された
第3章: サラディンとアイユーブ朝の活躍 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
第3回十字軍が派遣された契機となった出来事は何か。
解答:サラディンによるエルサレム奪回
問2
第3回十字軍に参加したイングランド王は誰か。
解答:リチャード1世(獅子心王)
問3
第3回十字軍に参加したフランス王は誰か。
解答:フィリップ2世
問4
第3回十字軍に参加した神聖ローマ皇帝は誰か。
解答:フリードリヒ1世(赤髭王)
問5
フリードリヒ1世はどのような最期を迎えたか。
解答:遠征中に事故死
問6
第3回十字軍で十字軍側が奪った重要な港湾都市はどこか。
解答:アッコン
問7
1192年に結ばれた和平条約を何というか。
解答:ヤッファの和約
問8
ヤッファの和約でエルサレムはどちらの支配下に残ったか。
解答:イスラーム側
問9
ヤッファの和約でキリスト教徒に認められたことは何か。
解答:聖地巡礼
問10
サラディンが死去したのは西暦何年か。
解答:1193年
正誤問題(5問)
問1
第3回十字軍において、サラディンと最も激しく戦ったのはフィリップ2世である。
解答:誤(リチャード1世)
問2
第3回十字軍の結果、エルサレムは再び十字軍側の支配下に入った。
解答:誤(イスラーム支配のまま)
問3
ヤッファの和約ではキリスト教徒の聖地巡礼が認められた。
解答:正
問4
リチャード1世はサラディンを尊敬すべき敵将と見なした。
解答:正
問5
サラディンは1193年に死去し、その死後アイユーブ朝は衰退していった。
解答:正
よくある誤答パターンまとめ
- 第3回十字軍の中心人物をフィリップ2世と答える誤り → 実際はリチャード1世。
- エルサレムが「ヤッファの和約」で十字軍に返還されたと誤答 → 実際はイスラーム支配のまま。
- フリードリヒ1世と2世を混同する誤り → 第3回十字軍はフリードリヒ1世。
- サラディンの死去を「1200年以降」と勘違い → 実際は1193年。
- アッコン攻略を「第2回十字軍の成果」と混同 → 実際は第3回十字軍。
まとめ サラディンとアイユーブ朝の歴史的意義
サラディンとアイユーブ朝の活躍は、十字軍とイスラームの長期にわたる対立の中で極めて大きな意味を持ちました
サラディンは分裂状態にあったイスラーム世界を再統一し、1171年にファーティマ朝を滅ぼしてアイユーブ朝を建国しました。
そして、1187年のヒッティーンの戦いで十字軍を破り、聖地エルサレムを奪回したことは、中世のキリスト教世界に深い衝撃を与えました。
その後の第3回十字軍では、リチャード1世との対決を通じて「尊敬すべき敵」として知られるようになり、イスラーム世界だけでなくヨーロッパでも高い評価を受けました。
彼の死後、アイユーブ朝は衰退の兆しを見せますが、サラディンの統一と抵抗の精神はその後もイスラーム世界の象徴的な遺産となりました。
サラディンとアイユーブ朝 関連年表
年代 | 出来事 |
---|---|
1137頃 | サラディン誕生(クルド人の家系) |
1169 | エジプト・ファーティマ朝の宰相に就任 |
1171 | ファーティマ朝を滅ぼし、アイユーブ朝成立(首都カイロ) |
1187 | ヒッティーンの戦いで十字軍を破る、エルサレム奪回 |
1189〜92 | 第3回十字軍(リチャード1世らが遠征) |
1192 | ヤッファの和約(イスラーム支配継続、巡礼は容認) |
1193 | サラディン死去 |
サラディンと十字軍の流れ(フローチャート)
サラディン台頭(ファーティマ朝宰相)
↓
1171 ファーティマ朝滅亡 → アイユーブ朝成立
↓
エジプト+シリア統一 → 十字軍国家へ圧力
↓
1187 ヒッティーンの戦い → 十字軍大敗・聖十字架奪取
↓
同年 エルサレム奪回
↓
第3回十字軍派遣(リチャード1世ら)
↓
1192 ヤッファの和約(エルサレムはイスラーム支配、巡礼は容認)
↓
1193 サラディン死去 → アイユーブ朝衰退へ
まとめのポイント
- サラディンはイスラーム世界を再統一し、十字軍に対抗する体制を築いた。
- 1187年ヒッティーンの戦い → エルサレム奪回は世界史の大転換点。
- 第3回十字軍との対決で、リチャード1世とのライバル関係は後世に語り継がれた。
- サラディンは「イスラームの英雄」であると同時に、「ヨーロッパからも尊敬された敵将」。
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