15世紀に最初に海外進出へ踏み出したのは小国ポルトガルでした。
アフリカ西岸の探検から始まったその挑戦は、ヴァスコ=ダ=ガマによるインド航路の開拓やマラッカ・マカオの拠点確保へと発展し、アジア交易を支配する「点と線の帝国」を形成します。
ポルトガルは航海技術と王室の積極的支援を武器に、世界史の先駆者として大航海時代を牽引しました。
しかし、16世紀後半にはスペインへの併合(イベリア連合)やオランダの台頭によって勢力を失い、やがてブラジルを中心に植民地を維持する存在へと変わっていきます。
本記事では、ポルトガル植民地帝国の成立から衰退までを整理し、大学入試で頻出する重要ポイントを解説していきます。
第1章 航海王子エンリケと海外進出の始まり
ポルトガルの海外進出は、王子エンリケ(航海王子)の尽力によって大きく進展しました。
彼は自ら航海に出ることはありませんでしたが、航海学校を設立し、地理学者や航海士を集めて航路の開拓を支援しました。
アフリカ西岸の探検を積み重ねることで、ポルトガルはやがてインド航路への挑戦に進むことになります。
1-1. 航海王子エンリケの役割
エンリケは1415年のセウタ攻略を契機に、大西洋航海の可能性を模索しました。
彼の指導のもと、カラベル船や改良された羅針盤、アストロラーベなどが整備され、航海技術が飛躍的に向上しました。
これは後の大航海時代を支える基盤となります。
1-2. アフリカ西岸の探検
ポルトガルはアフリカ西岸に進出し、黄金・胡椒・奴隷をリスボンに持ち帰りました。
この活動はやがて大西洋奴隷貿易の原型となり、新大陸植民地経営とも結びついていきます。
1-3. インド航路の開拓
1498年、ヴァスコ=ダ=ガマが喜望峰を経由してインドのカリカットに到達しました。
これによりポルトガルは香辛料貿易を直接支配できるようになり、リスボンは世界商業の中心地として繁栄しました。

1-4. アジアの拠点確立
16世紀前半、ポルトガルはゴア(インド)、マラッカ(東南アジア)、マカオ(中国)といった拠点を確保しました。
これらは軍事拠点と商館を兼ね備え、「点と線の帝国」と呼ばれる独特の植民地体制を築きました。
入試で狙われるポイント
- 航海王子エンリケと航海学校の役割
- セウタ攻略(1415年)とアフリカ西岸進出
- ヴァスコ=ダ=ガマのインド航路到達(1498年)
- ゴア・マラッカ・マカオを中心とした「点と線の帝国」
- ポルトガルが築いた「点と線の帝国」の特徴と意義について200字程度で説明せよ。
-
ポルトガルは航海王子エンリケのもとで航海技術を発展させ、アフリカ西岸を探検して黄金・奴隷を獲得した。ヴァスコ=ダ=ガマのインド航路開拓後は、ゴア・マラッカ・マカオなどに拠点を確立し、海路を結ぶ形の「点と線の帝国」を形成した。これは人口と国力の限界を補う現実的な支配方法であり、香辛料貿易を独占してリスボンを世界商業の中心地へと成長させた。こうしてポルトガルは大航海時代の先駆者として歴史に大きな役割を果たした。
第1章:ポルトガル植民地帝国 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
「航海王子」と呼ばれたポルトガル王子は誰か。
解答:エンリケ
問2
1415年にポルトガルが攻略した北アフリカの都市はどこか。
解答:セウタ
問3
エンリケが設立した航海学校があった地はどこか。
解答:サグレス
問4
航海技術の進歩に貢献した新型船を何というか。
解答:カラベル船
問5
ヴァスコ=ダ=ガマが到達したインドの港市はどこか。
解答:カリカット
問6
ポルトガルがインド洋貿易の拠点とした都市はどこか。
解答:ゴア
問7
東南アジアでポルトガルが拠点とした交易都市はどこか。
解答:マラッカ
問8
中国でポルトガルが獲得した居留地はどこか。
解答:マカオ
問9
ポルトガルの植民地帝国を形容する呼称は何か。
解答:点と線の帝国
問10
16世紀にリスボンが果たした役割は何か。
解答:香辛料貿易の集散地・世界商業の中心地
正誤問題(5問)
問11
エンリケ航海王子は自らインド航路を発見した。
解答:誤(実際に航海には出ず、航海学校を設立した)
問12
1415年、ポルトガルは北アフリカのセウタを攻略して海外進出を開始した。
解答:正
問13
ヴァスコ=ダ=ガマは1498年にインドのカリカットに到達した。
解答:正
問14
ポルトガルはアジアで広大な「面の帝国」を形成した。
解答:誤(点と線で結ぶ拠点支配を行った)
問15
ポルトガルのマカオ拠点はヨーロッパと中国の交易を結びつける役割を果たした。
解答:正
第2章 香辛料貿易の独占とポルトガルの限界
ヴァスコ=ダ=ガマのインド到達以降、ポルトガルは香辛料貿易を直接支配し、16世紀前半には世界商業の中心に躍り出ました。
ゴア・マラッカ・マカオといった拠点を押さえたことにより、アジアとヨーロッパを結ぶ巨大な貿易ネットワークを築き上げます。
しかし、ポルトガルは人口や国力の限界から、その覇権を持続することは困難でした。やがてスペインとの併合やオランダ・イギリスの台頭によって、ポルトガルの優位は失われていきます。
2-1. 香辛料貿易の独占
インド航路開拓後、ポルトガルはインド洋の香辛料貿易を掌握しました。
ゴアを拠点とし、胡椒・ナツメグ・クローヴなどをヨーロッパ市場に供給し、リスボンは16世紀初頭には世界有数の交易都市となりました。
2-2. 「点と線の帝国」の繁栄
ポルトガルは東南アジアのマラッカ、中国のマカオといった拠点を押さえ、「航路を結ぶ点と点」を支配しました。
面での支配は不可能であったため、要所をおさえて交易路をコントロールする体制をとりました。
これにより一時的には香辛料市場を独占しました。
2-3. 国力の限界と競争相手の台頭
しかし、ポルトガルは人口規模が小さく、支配に必要な兵力や財力を持ちませんでした。
16世紀後半になるとオランダやイギリスが新たに進出し、香辛料貿易のシェアを奪われていきました。
2-4. イベリア連合と衰退の始まり
1580年、ポルトガル王家が断絶したことによりスペインがポルトガルを併合し、「イベリア連合」が成立しました。
これによりポルトガルの拠点もスペイン支配下に置かれましたが、オランダはこの隙を突いてセイロン島やマラッカを奪取しました。
1640年にポルトガルは独立を回復しましたが、アジアでの勢力は大幅に後退し、以後はブラジルを中心とした植民地帝国に変質していきます。
入試で狙われるポイント
- インド航路開拓後の香辛料貿易独占とリスボンの繁栄
- 「点と線の帝国」の仕組み(ゴア・マラッカ・マカオ)
- ポルトガルの国力的限界とオランダ・イギリスの台頭
- イベリア連合(1580年)とポルトガル衰退の流れ
- ポルトガルが香辛料貿易を独占できた要因と、その独占が崩壊した理由について200字程度で説明せよ。
-
ポルトガルはヴァスコ=ダ=ガマによるインド航路開拓後、ゴアやマラッカを拠点に香辛料貿易を独占した。小国ながら「点と線の帝国」を形成し、リスボンは世界商業の中心となった。しかし、ポルトガルは人口と国力が小さく、広大な海域を持続的に支配する力に欠けた。1580年にはスペインに併合され、オランダやイギリスが台頭すると次々に拠点を奪われた。その結果、香辛料貿易の主導権は失われ、ポルトガルの植民地帝国は衰退に向かった。
第2章:ポルトガル植民地帝国 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
インド航路開拓後、ポルトガルが貿易の中心とした都市はどこか。
解答:リスボン
問2
ポルトガルがインド洋貿易を支配するために拠点とした都市はどこか。
解答:ゴア
問3
ポルトガルが東南アジアで拠点とした交易の要衝はどこか。
解答:マラッカ
問4
1557年にポルトガルが獲得し、中国との交易拠点となった都市はどこか。
解答:マカオ
問5
香辛料貿易の代表的な品目を2つ挙げよ。
解答:胡椒・クローヴ(ナツメグでも可)
問6
ポルトガルの植民地帝国が「点と線の帝国」と呼ばれる理由は何か。
解答:要所の拠点都市を結んで支配したから
問7
1580年にスペインがポルトガルを併合して成立した体制を何というか。
解答:イベリア連合
問8
イベリア連合の時期にポルトガル拠点を奪った国はどこか。
解答:オランダ
問9
1640年に独立を回復した後、ポルトガルが中心的に支配した植民地はどこか。
解答:ブラジル
問10
イベリア連合期にポルトガルから奪われたアジアの拠点の一例を挙げよ。
解答:マラッカ(またはセイロン島など)
正誤問題(5問)
問11
リスボンは16世紀初頭、世界商業の中心地として繁栄した。
解答:正
問12
ポルトガルの植民地帝国はアメリカ大陸全域を支配する「面の帝国」であった。
解答:誤(点と線の帝国であった)
問13
イベリア連合はスペインがポルトガルを併合して成立した。
解答:正
問14
イベリア連合期、オランダはポルトガル拠点を次々に奪取した。
解答:正
問15
1640年の独立回復後、ポルトガルは再びアジアで覇権を確立した。
解答:誤(アジアでの勢力は衰退し、ブラジル中心へ移行した)
第3章 ブラジル支配とポルトガル帝国の後期展開
アジアでの勢力をオランダやイギリスに奪われた後、ポルトガルは南米のブラジルに植民地支配の重点を移しました。
広大なブラジルではサトウキビや後にコーヒーのプランテーションが展開され、アフリカから大量の黒人奴隷が導入されました。
これによりポルトガル帝国はアジアでの「点と線の帝国」から、ブラジルを中心とする「単一大陸植民地帝国」へと変質していきます。
ポルトガルは大航海時代の先駆者としての役割を終えつつも、南大西洋の一角に拠点を維持し続けたのです。
3-1. ブラジル植民地の拡大
1500年にカブラルがブラジルに到達して以降、ポルトガルは徐々にこの地域の開発を進めました。
16世紀後半からはサトウキビの大規模プランテーションが始まり、ブラジルは砂糖の一大供給地として発展しました。
3-2. 奴隷貿易の拡大
プランテーションの労働力として、ポルトガルはアフリカ西岸から黒人奴隷を大量に輸入しました。
ブラジルはアフリカと結びついた大西洋三角貿易の重要な一角を占めるようになりました。
3-3. コーヒー生産と長期的影響
18世紀以降、ブラジルは世界最大のコーヒー生産地へと変化しました。
このコーヒーと砂糖の輸出は、ポルトガル経済を支える重要な柱となり、19世紀のブラジル独立まで続きました。
3-4. ポルトガル帝国の位置づけ
ポルトガルはアジアにおける覇権を失ったものの、ブラジルを中心に植民地帝国を維持しました。この「後期ポルトガル帝国」は規模の縮小こそあれ、ヨーロッパに砂糖やコーヒーを供給し続ける存在となりました。
入試で狙われるポイント
- カブラルのブラジル到達(1500年)
- サトウキビ・コーヒーのプランテーション経済
- アフリカ奴隷貿易と大西洋三角貿易との関係
- ブラジル中心へ移行したポルトガル植民地帝国の特徴
- ポルトガルがアジアでの拠点を失った後、ブラジルを中心に展開した植民地経営の特徴について200字程度で説明せよ。
-
ポルトガルはオランダ・イギリスの台頭によりアジアでの拠点を喪失したが、南米のブラジルを中心に植民地帝国を再編した。16世紀末からサトウキビ栽培が広がり、アフリカから黒人奴隷を大量に導入してプランテーションを形成した。18世紀以降はコーヒー生産も加わり、ブラジルはヨーロッパ市場への主要供給地となった。これによりポルトガルは大航海時代の「点と線の帝国」から、ブラジルを基盤とする大陸植民地帝国へと変質し、近世以降も一定の影響力を保持した。
第3章:ポルトガル植民地帝国 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
1500年にブラジルに到達したポルトガルの航海者は誰か。
解答:カブラル
問2
ブラジルで16世紀以降大規模に展開した農産物は何か。
解答:サトウキビ
問3
ブラジルのプランテーション労働力として導入されたのは誰か。
解答:アフリカ黒人奴隷
問4
ブラジル経済を支えた2大輸出品は何か。
解答:砂糖・コーヒー
問5
ブラジルがポルトガル植民地として発展した主な理由は何か。
解答:肥沃な土地と大西洋交易の地理的有利さ
問6
ブラジルは大西洋三角貿易においてどの役割を担ったか。
解答:農産物(砂糖・コーヒー)の供給地
問7
18世紀以降、ブラジルが世界最大の生産地となった商品は何か。
解答:コーヒー
問8
ポルトガルがアジアで勢力を失った主要な原因は何か。
解答:オランダ・イギリスの進出と拠点奪取
問9
1640年にポルトガルが独立を回復した際、植民地経営の中心はどこに移ったか。
解答:ブラジル
問10
ブラジルがポルトガルから独立を果たすのは西暦何年か。
解答:1822年
正誤問題(5問)
問11
ブラジルは16世紀からコーヒーの主要生産地であった。
解答:誤(16世紀はサトウキビ中心で、18世紀以降にコーヒーが拡大)
問12
ブラジルのプランテーションにはアフリカ奴隷が多数投入された。
解答:正
問13
大西洋三角貿易はヨーロッパ・アフリカ・南米を結ぶ交易システムであった。
解答:正
問14
ポルトガルはアジアでの拠点を失っても、ブラジルを基盤に植民地帝国を維持した。
解答:正
問15
ブラジルは19世紀初頭までスペインの支配下にあった。
解答:誤(ポルトガルの植民地で、1822年に独立)
まとめ ポルトガル植民地帝国の歴史的意義
ポルトガルは小国ながらも、大航海時代の先駆者として世界史に大きな足跡を残しました。
航海王子エンリケの支援によって航海技術を発展させ、セウタ攻略やアフリカ西岸進出を経て、ヴァスコ=ダ=ガマがインド航路を開拓しました。
その後、ゴア・マラッカ・マカオを結ぶ「点と線の帝国」を築き、香辛料貿易を独占することで一時的に世界商業の中心となりました。
しかし国力の限界やスペイン併合(イベリア連合)、オランダ・イギリスの台頭によりアジアでの勢力は衰退しました。
その後はブラジルを中心とするプランテーション経済に依存し、砂糖やコーヒーを供給する植民地帝国へと変質しました。
ポルトガルの歴史は、ヨーロッパが「世界の一体化」を進める過程における最初の段階を示す好例であり、入試でも頻出テーマとなっています。
ポルトガル植民地帝国 年表
年代 | 出来事 | 意義 |
---|---|---|
1415 | セウタ攻略 | ポルトガル海外進出の始まり |
15世紀 | 航海王子エンリケが航海学校設立 | 航海技術の発展 |
1498 | ヴァスコ=ダ=ガマ、インド到達 | インド航路の開拓 |
1510 | ゴア占領 | インド洋支配の拠点化 |
1511 | マラッカ占領 | 東南アジア交易路の掌握 |
1557 | マカオ拠点化 | 中国との交易拠点確保 |
1580 | イベリア連合成立 | スペインに併合、衰退の始まり |
1640 | ポルトガル独立回復 | ブラジル中心の植民地経営へ移行 |
16〜18世紀 | ブラジルで砂糖・コーヒー生産 | プランテーションと奴隷貿易 |
1822 | ブラジル独立 | ポルトガル帝国の後退 |
フローチャート:ポルトガル植民地帝国の流れ
航海王子エンリケの支援(航海学校・技術発展)
↓
セウタ攻略(1415)・アフリカ西岸進出
↓
ヴァスコ=ダ=ガマのインド航路到達(1498)
↓
ゴア・マラッカ・マカオ確保 → 「点と線の帝国」
↓
香辛料貿易独占・リスボン繁栄
↓
国力の限界・イベリア連合(1580)
↓
オランダ・イギリスに拠点を奪われ衰退
↓
ブラジル中心のプランテーション経済へ
↓
砂糖・コーヒー生産拡大 → 奴隷貿易依存
↓
1822年ブラジル独立 → ポルトガル帝国の後退
まとめのポイント
- ポルトガルは大航海時代の先駆者としてアジア貿易を独占した。
- 「点と線の帝国」という独特の植民地体制が特徴。
- 国力の制約とイベリア連合で衰退、オランダ・イギリスが台頭。
- 以後はブラジル中心のプランテーション経済へ転換。
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