15世紀後半から16世紀にかけて、ヨーロッパの小国スペインとポルトガルは、大航海時代の波に乗って世界史の表舞台に躍り出ました。
航海技術の発達と新しい交易ルートの開拓は、アジア・アフリカ・アメリカを結びつけ、やがて「世界の一体化」と呼ばれるグローバルな歴史の始まりを告げます。
特にスペインとポルトガルは、パイオニアとして植民地帝国を築き上げ、銀・香辛料・奴隷貿易などを通じて世界経済に強烈な影響を与えました。
しかしその栄光は永遠ではなく、17世紀以降はオランダ・イギリスなど新興勢力に押されて衰退していきます。
本記事では、スペイン・ポルトガルの植民地帝国の成立から発展、そして衰退までを体系的に整理し、大学入試に頻出するキーワードや流れをわかりやすく解説していきます。
第1章 ポルトガルの海外進出と植民地帝国の成立
植民地帝国の歴史は、まずポルトガルから始まりました。
大西洋に面する小国ポルトガルは、イベリア半島でのレコンキスタを終えると同時に、アフリカ西岸へと航海を進め、香辛料貿易のルート開拓に挑戦しました。
その成果はインド洋への進出、アジアへの拠点確保、さらにアフリカ奴隷貿易の独占へとつながります。
ここでは、ポルトガルがどのように「海の帝国」を築いたのかを見ていきましょう。

1-1. 航海技術とエンリケ航海王子
15世紀初頭、ポルトガル王子エンリケ(航海王子)はサグレスに航海学校を設立し、地理学者や航海士を集めて研究を進めました。
アストロラーベ(天体観測器)や改良された羅針盤、三角帆を備えたカラベル船の利用により、大西洋航海の技術は飛躍的に向上しました。
これがポルトガルの海外進出を支える土台となります。
1-2. アフリカ西岸進出と奴隷貿易
ポルトガル人は1415年に北アフリカのセウタを攻略し、以後アフリカ西岸を南下していきました。
やがてギニア湾沿岸で黄金・胡椒・奴隷を獲得し、リスボンは黒人奴隷貿易の拠点となりました。
奴隷は新大陸植民地での労働力需要とも結びつき、後の「大西洋三角貿易」の原型を形成します。

1-3. インド航路の発見と香辛料貿易
1498年、ヴァスコ=ダ=ガマが喜望峰をまわりインドのカリカットに到達すると、ポルトガルは香辛料貿易を直接支配できるようになりました。
リスボンは香辛料の集散地として急速に繁栄し、「世界商業の中心」となりました。
1-4. アジア拠点の確立
ポルトガルはアフリカのモザンビーク、インドのゴア、マラッカ、さらに1557年にはマカオを拠点化しました。
これらは軍事拠点と商館を兼ね備え、「航路を結ぶ点と点の帝国」と呼ばれる特異な植民地形態を築きました。
入試で狙われるポイント
- 航海王子エンリケの役割と航海技術の革新
- ヴァスコ=ダ=ガマのインド航路開拓(1498年)
- ポルトガルが築いた「点と線の帝国」の特徴(ゴア・マラッカ・マカオなど)
- 奴隷貿易と新大陸植民地の関係性
- 15世紀から16世紀にかけてポルトガルが築いた植民地帝国の特徴と、その意義を200字程度で説明せよ。
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ポルトガルは航海王子エンリケの支援の下で航海技術を進歩させ、アフリカ西岸へ進出して黄金・奴隷貿易を展開した。ヴァスコ=ダ=ガマのインド航路開拓後は、ゴア・マラッカ・マカオなどに拠点を築き、点と線で結ばれた海上帝国を形成した。リスボンは香辛料の集散地として繁栄し、ヨーロッパの消費とアジアの産物を直結させることで世界商業の中心地となり、「世界の一体化」の先駆けとなった。
第1章:スペイン・ポルトガル植民地帝国 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
ポルトガルの海外進出を支援し、「航海王子」と呼ばれた王子は誰か。
解答:エンリケ
問2
ポルトガルが最初に攻略した北アフリカの都市はどこか。
解答:セウタ
問3
ポルトガルが15世紀以降に進出したアフリカ西岸で盛んに行った交易は何か。
解答:奴隷貿易
問4
喜望峰を経由してインドのカリカットに到達した航海者は誰か。
解答:ヴァスコ=ダ=ガマ
問5
ヴァスコ=ダ=ガマがインドに到達したのは西暦何年か。
解答:1498年
問6
ポルトガルがインド洋で拠点とした都市はどこか。
解答:ゴア
問7
ポルトガルが東南アジアで拠点化した香辛料交易の要地はどこか。
解答:マラッカ
問8
ポルトガルが中国で獲得した居留地で、ヨーロッパ唯一の中国拠点となった場所はどこか。
解答:マカオ
問9
ポルトガルの植民地帝国は、点と点を結ぶ形で構成されたため何と呼ばれるか。
解答:点と線の帝国
問10
16世紀にリスボンが果たした役割は何か。
解答:香辛料貿易の集散地・世界商業の中心地
正誤問題(5問)
問11
ポルトガルは1415年に北アフリカのセウタを攻略して海外進出を開始した。
解答:正
問12
航海王子エンリケは自ら航海に出てインド航路を発見した。
解答:誤(実際に航海には出ず、航海学校を設立して技術研究を推進した)
問13
ヴァスコ=ダ=ガマが到達したのはインドのカリカットである。
解答:正
問14
ポルトガルは「面」として広大な植民地を支配した。
解答:誤(点と線を結ぶ拠点支配の帝国であった)
問15
ポルトガルのマカオ拠点は、中国とヨーロッパの交易を結びつける役割を果たした。
解答:正
第2章 スペインの植民地帝国と世界の一体化
ポルトガルに続いて、スペインも大航海時代に本格的に参入しました。
特にコロンブスのアメリカ大陸到達(1492年)は歴史の大転換点となり、大西洋世界が形成されていきます。
スペインはアメリカ大陸に広大な植民地を建設し、銀や金をヨーロッパに流入させることで世界経済に大きな変化をもたらしました。
同時に、先住民の征服とキリスト教布教、さらにはコロンブス交換による新しい文明交流が始まりました。ここではスペイン帝国の拡大とその世界史的意義を整理します。

2-1. コロンブスの航海とアメリカ大陸到達
1492年、ジェノヴァ出身の航海者コロンブスがスペイン女王イサベルの支援を受け、西回りでアジアを目指しました。
その結果、バハマ諸島に到達し、新大陸を「発見」しました。これを契機に、スペインはアメリカ大陸への征服と植民を開始します。
2-2. 新大陸征服とエンコミエンダ制
16世紀前半、コルテスがアステカ帝国を、ピサロがインカ帝国を征服し、スペインはメキシコからアンデスにかけて広大な領土を獲得しました。
現地では先住民の労働を利用するエンコミエンダ制が導入され、鉱山や農園での生産が拡大しました。
2-3. 銀の流入と世界経済
特にポトシ銀山(ボリビア)やメキシコ銀山から大量の銀が採掘され、セビリアを経由してヨーロッパへ流入しました。
さらにアカプルコからマニラへのガレオン船貿易によって、中国に銀が輸出され、世界規模の交易網が完成しました。これが「世界の一体化」を象徴する現象です。
2-4. コロンブス交換と文明交流
スペインの植民活動は、作物・家畜・病原菌などの大規模な移動を引き起こしました。
トウモロコシやジャガイモはヨーロッパやアジアに広まり、人口増加を促進しました。一方で、天然痘などの感染症は先住民社会を壊滅的に破壊しました。この「コロンブス交換」は入試でも頻出の重要テーマです。

入試で狙われるポイント
- コロンブスの航海(1492年)とスペイン王室の支援
- アステカ帝国・インカ帝国の征服とコルテス・ピサロ
- エンコミエンダ制の仕組みと問題点
- ポトシ銀山とガレオン貿易による「世界の一体化」
- コロンブス交換(作物・家畜・病原菌の移動)
- スペインがアメリカ大陸に築いた植民地帝国の特徴と、それが世界史に与えた影響について200字程度で説明せよ。
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コロンブスの航海以後、スペインはアステカ・インカ帝国を征服し、広大な植民地を建設した。現地ではエンコミエンダ制のもと先住民労働が利用され、ポトシなどの銀山から大量の銀が採掘された。この銀はヨーロッパ経済を潤し、さらにマニラ経由で中国に流入し、世界的な交易網を形成した。また、トウモロコシやジャガイモの伝播、天然痘の流行など「コロンブス交換」による文明交流は世界人口や社会構造に決定的な影響を与えた。
第2章:スペイン・ポルトガル植民地帝国 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
1492年、西回り航路でアジアを目指し新大陸に到達した航海者は誰か。
解答:コロンブス
問2
コロンブスに航海を支援したスペイン女王は誰か。
解答:イサベル
問3
アステカ帝国を滅ぼした征服者(コンキスタドール)は誰か。
解答:コルテス
問4
インカ帝国を征服した征服者は誰か。
解答:ピサロ
問5
新大陸で先住民を労働力として酷使した制度を何というか。
解答:エンコミエンダ制
問6
南米ボリビアの大銀山で、スペインの財政を支えたのはどこか。
解答:ポトシ銀山
問7
メキシコからマニラを経由し、中国に銀を運んだ貿易路は何と呼ばれるか。
解答:ガレオン貿易
問8
スペイン植民地帝国の中心的な港湾都市で、貿易独占港となったのはどこか。
解答:セビリア
問9
新大陸から旧大陸へトウモロコシやジャガイモが伝わり、逆に天然痘が伝播した現象を何というか。
解答:コロンブス交換
問10
スペインの植民地支配で中心的役割を果たした征服者たちの総称を何というか。
解答:コンキスタドール
正誤問題(5問)
問11
コロンブスはイギリス王室の支援を受けて航海を行った。
解答:誤(スペイン王室の支援)
問12
アステカ帝国はピサロによって征服された。
解答:誤(アステカはコルテス、インカはピサロ)
問13
エンコミエンダ制は先住民の保護を目的とした制度であった。
解答:誤(表向きは保護とされたが、実際は労働力搾取の制度)
問14
ポトシ銀山からの銀はヨーロッパだけでなくアジアへも流通した。
解答:正
問15
コロンブス交換は作物・家畜・病原菌の大規模な移動を指す。
解答:正
第3章 スペイン・ポルトガル植民地帝国の衰退と覇権の移行
16世紀に世界の覇権を握ったスペインとポルトガル。しかし、その繁栄は長く続きませんでした。
宗教戦争や財政破綻、植民地経営の非効率さに加え、新興国オランダやイギリスが台頭し、覇権は移り変わっていきました。
特にスペインの「銀依存経済」は物価騰貴(価格革命)を引き起こし、長期的には経済の停滞を招きました。
一方、オランダやイギリスは新しい形の「商業帝国」「海上覇権」を築き、近世ヨーロッパの世界秩序を再編していきます。
3-1. ポルトガルの衰退
ポルトガルは小国で人口も少なく、広大な海外領土を支配する力に乏しかったため、16世紀後半から衰退が顕著になりました。
さらに1580年には王位継承問題からスペインに併合され(イベリア連合)、事実上独自の植民地政策を維持できなくなりました。
3-2. スペインの衰退
スペインはアメリカ銀に依存した経済を展開しましたが、大量の銀流入は価格革命をもたらし、国内産業の衰退を招きました。
さらに17世紀にはネーデルラント独立戦争でオランダを失い、1588年のアルマダの海戦でイギリスに敗北するなど、海上覇権を喪失していきました。
3-3. 覇権の移行:オランダ・イギリスの台頭
17世紀にはオランダがアムステルダムを中心に世界貿易を独占し、「オランダ東インド会社(1602)」を設立してアジア貿易を支配しました。
さらに18世紀以降はイギリスがフランスとの植民地戦争に勝利し、インドや北米で覇権を確立しました。
この覇権交代は「大航海時代から近代世界システム」への大きな転換点となります。
入試で狙われるポイント
- ポルトガルの衰退とイベリア連合(1580〜1640年)
- スペインの「銀依存」と価格革命の影響
- アルマダの海戦(1588年)の敗北と海上覇権喪失
- ネーデルラント独立戦争とオランダの台頭
- オランダ東インド会社(1602)・イギリス東インド会社(1600)の設立
- スペイン・ポルトガルの植民地帝国が衰退した原因と、その後の覇権移行について200字程度で説明せよ。
-
ポルトガルは人口の少なさと国力の限界から広大な海外領土を維持できず、1580年にスペインに併合された。スペインはアメリカ銀に依存した結果、価格革命を引き起こして産業が衰退し、財政難に陥った。さらにアルマダの海戦の敗北やネーデルラント独立により海上覇権を失った。その後はオランダがアムステルダムを中心に商業覇権を握り、17世紀末からはイギリスがインド・北米で優位に立ち、近代的な世界システムの主導者となった。
第3章:スペイン・ポルトガル植民地帝国 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
1580年、ポルトガルがスペインに併合されて成立した政治的枠組みを何というか。
解答:イベリア連合
問2
スペイン経済の基盤となった南米の代表的な銀山はどこか。
解答:ポトシ銀山
問3
16〜17世紀にヨーロッパで生じた物価上昇の現象を何というか。
解答:価格革命
問4
スペイン無敵艦隊(アルマダ)がイギリスに敗れた海戦は何か。
解答:アルマダの海戦
問5
アルマダの海戦は西暦何年に起こったか。
解答:1588年
問6
16世紀後半にスペインから独立した北ヨーロッパの国はどこか。
解答:ネーデルラント(オランダ)
問7
1602年に設立され、アジア貿易を支配した会社は何か。
解答:オランダ東インド会社
問8
オランダが世界貿易の中心地とした都市はどこか。
解答:アムステルダム
問9
イギリス東インド会社が設立されたのは西暦何年か。
解答:1600年
問10
17〜18世紀にかけて、スペイン・ポルトガルに代わって植民地支配を拡大した二国はどこか。
解答:オランダとイギリス
正誤問題(5問)
問11
ポルトガルは人口と国力の不足により、1580年にスペインに併合された。
解答:正
問12
価格革命は銀の流入によって物価が下落する現象を指す。
解答:誤(物価が上昇する現象を指す)
問13
アルマダの海戦でスペインがイギリスを撃破し、覇権を強化した。
解答:誤(スペインが敗北し、海上覇権を失った)
問14
オランダ東インド会社は1602年に設立され、アジア貿易を独占した。
解答:正
問15
イベリア連合はスペインとポルトガルが対立して結成された同盟を指す。
解答:誤(スペインによるポルトガル併合)
まとめ スペイン・ポルトガル植民地帝国の歴史的意義
15〜16世紀に登場したスペインとポルトガルの植民地帝国は、大航海時代の中心的存在でした。
ポルトガルは「点と線の帝国」としてアフリカ・インド洋・東南アジア・中国まで拠点を広げ、香辛料貿易を支配しました。
一方スペインはアメリカ大陸を広大に支配し、銀や金をヨーロッパへ流入させ、「世界の一体化」を加速させました。
しかし、両国は国力の限界や銀依存経済の問題から徐々に衰退し、17世紀以降はオランダ・イギリスが新たな覇権国として台頭しました。
この流れを理解することで、近世ヨーロッパが「世界の主導者」へと変貌していく過程がつかめます。
植民地帝国関連 年表
年代 | 出来事 | 関連国・人物 |
---|---|---|
1415 | ポルトガル、セウタ攻略 | ポルトガル |
1492 | コロンブス、新大陸到達 | スペイン(イサベル女王) |
1498 | ヴァスコ=ダ=ガマ、インド航路開拓 | ポルトガル |
1521 | コルテス、アステカ帝国征服 | スペイン |
1533 | ピサロ、インカ帝国征服 | スペイン |
1557 | マカオ拠点化 | ポルトガル |
1580 | イベリア連合成立 | スペイン+ポルトガル |
1588 | アルマダの海戦、スペイン敗北 | スペイン vs イギリス |
1600 | イギリス東インド会社設立 | イギリス |
1602 | オランダ東インド会社設立 | オランダ |
フローチャート:大航海時代と植民地帝国の流れ
航海技術の発展(羅針盤・カラベル船)
↓
ポルトガルの進出(セウタ→インド航路→マカオ)
↓
スペインの進出(コロンブス→アステカ・インカ征服→銀流入)
↓
世界の一体化(ガレオン貿易・コロンブス交換)
↓
スペイン・ポルトガルの衰退(銀依存・財政難・戦争)
↓
覇権移行(オランダ東インド会社→イギリス東インド会社)
まとめのポイント
- ポルトガル=アジアの香辛料貿易を「点と線の帝国」で支配
- スペイン=アメリカ大陸支配と銀の流入による「世界の一体化」
- 銀依存経済 → 価格革命 → 衰退の流れ
- 17世紀以降はオランダ・イギリスが覇権を奪取
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