ウィーン体制の全体像をつかむ|成立から崩壊まで(1814〜1856)の流れ

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ウィーン体制とは、ナポレオン戦争後のヨーロッパに平和と秩序を取り戻すために、列強が協調して築いた国際体制のことです。

1815年のウィーン会議で定められた正統主義(旧王朝の復位)と勢力均衡(列強のバランス維持)を原則に、オーストリア外相メッテルニヒを中心として、五大国(英・露・墺・普・仏)が協調を図りました。

この体制はおよそ40年間、ヨーロッパを大規模戦争から遠ざけることに成功しましたが、やがて各地で自由と民族の運動が高まり、次第にその綻びが露わになっていきます。

本記事では、ウィーン体制を「事件の羅列」ではなく「時代の流れ」としてとらえ、1814年の会議から1856年の崩壊までを五つの時期に分けて俯瞰します。

体制の全体像を把握することで、個別の事件や国ごとの動きも、より立体的に理解できるようになります。

目次

序章:ウィーン体制とは何か――革命の時代を封じた「会議による平和」

19世紀前半のヨーロッパは、フランス革命とナポレオン戦争によって国境も支配者も揺らぎ、混乱の中にありました。

この不安定な状況を収めるため、1814〜1815年に開かれたウィーン会議では、列強が協力して新たな秩序を設計しました。

その基本理念は、

  • 正統主義:革命によって倒された旧王朝を「正当な支配者」として復位させる。
  • 勢力均衡:どの国も突出せず、力の均衡によって平和を維持する。

この2原則のもと、ヨーロッパは「戦争によらず、会議によって調整する」という新しい国際秩序を手に入れます。

これがウィーン体制(会議体制)と呼ばれるものです。

主導したのは、オーストリア外相メッテルニヒです。

彼のもとで、五大国(英・露・墺・普・仏)が協調し、自由主義や民族運動を抑え込みながら、旧体制の安定を守ろうとしました。

一方で、この体制は保守的で、変化を求める民衆の声とは相容れませんでした。

19世紀が進むにつれて、自由・平等・民族自決を求める運動が広がり、ウィーン体制は少しずつその理念と現実の間で矛盾を抱えていきます。

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ウィーン体制の流れをつかむ時系列チャート(1814〜1856)

下のチャートは、体制の成立から崩壊までの大きな流れを五期に分けて整理したものです。

各時期の詳細は章ごとに解説し、関連する事件(クリミア戦争など)は別記事にリンクします。

ここでは、ウィーン体制がどのように生まれ、どのように揺らぎ、終焉を迎えたのかを一望で把握することを目的とします。

🟢【第Ⅰ期:体制の成立と安定】1814〜1819

1814〜15 ウィーン会議
 ナポレオン戦争後の秩序を再建。
 体制の2本柱は、
 → 正統主義(旧王朝の復位)
 → 勢力均衡(列強の均衡による平和維持)
 この原則のもとで、
 ・ドイツ連邦の再編
 ・スイス永世中立化
 ・オランダ強化
 ・イタリア再分割(ロンバルド=ヴェネツィアを墺へ)
 → 神聖同盟(1815:露・墺・普)と四国同盟(1815:英・露・墺・普)で協調体制が成立。
 この時期は、五国協調による安定期
  ↓
1817 ワルトブルク祭(独)
 自由と統一を求める学生運動。
 → 「体制への初の挑戦」。
  ↓
1819 カールスバート決議(独)
 大学監視・検閲を強化し、自由主義を封じ込める。
 → 一時的に体制は安定化

🟡【第Ⅱ期:干渉主義の確立と二極化の始まり】1820〜1823

1820〜22 トロッパウ〜ヴェローナ会議
 南欧で相次ぐ革命(ナポリ・ピエモンテ・スペイン)に対し、
 メッテルニヒとロシア皇帝は「革命は国際秩序の脅威」とみなし、
 → トロッパウ宣言(1820)で「革命国への干渉権」を主張。
 オーストリアはナポリ・ピエモンテへ出兵、
 フランスも1823年スペインに介入。
🔻ここで分岐:
 - 墺・露・普(大陸派):革命抑圧のための干渉主義を支持
 - 英(海洋派):干渉に反対。経済自由主義と不干渉を主張
  ☞ この時期を境に、体制は「大陸派 vs 海洋派」へ二極化。
 (後の英露対立の原型)
  ↓
1821〜30 ギリシア独立戦争
 オスマン帝国からの独立運動。
 → 欧州列強(英・仏・露)が介入し、1827年ナヴァリノ海戦で勝利。
 → ロンドン議定書(1830)で独立承認。
 ※「民族自決」を一部容認=体制理念の例外。
  ↓
1823 モンロー宣言(米)
 「ヨーロッパの干渉を拒否、新大陸の独立を守る」
 → ウィーン体制の干渉主義に対し、不干渉・自主独立の原則を掲げる。
 → 旧世界(ヨーロッパ)と新世界(アメリカ)の分離を象徴。

🟠【第Ⅲ期:体制の動揺と国民運動の台頭】1830〜1834

1830 七月革命(仏)
 フランスでブルボン朝が倒れ、七月王政へ。
 → ベルギー独立(1830–31)も連鎖。
 → ポーランド・イタリアでも蜂起が起こるが墺露が鎮圧。
 → 体制の動揺期へ突入
  ↓
1834 ドイツ関税同盟(プロイセン主導)
 経済的統合が進み、自由主義的潮流が台頭。
 → 政治抑圧との矛盾が深まる。

🟣【第Ⅳ期:協調の限界と理念崩壊】1839〜1848

1839〜41 エジプト問題・海峡協定
 ムハンマド=アリーの台頭をめぐり、英露仏墺が対立。
 → 列強の利害不一致が顕在化、協調の限界が明らかに。
  ↓
1848 諸国民の春(1848年革命)
 フランス・ドイツ・オーストリア・イタリアで蜂起。
 → メッテルニヒ失脚。
 → 「正統主義」「干渉主義」など体制理念が崩壊。
 → 理念的崩壊期へ。

🔴【第Ⅴ期:外交的終焉】1853〜1856

1853〜56 クリミア戦争
 ロシアの南下に英・仏が反発。
 → 墺露協調の崩壊
 → パリ条約(1856)で戦争終結。
 → 外交的枠組みとしてのウィーン体制も終焉。

時期のイメージまとめ

時期概要状態イメージ
1814〜1819五国協調による安定🟢 安定期
1820〜1823干渉主義の確立・英露対立の芽生え🟡 二極化期(大陸派vs海洋派)
1821〜1834民族運動・独立戦争🟠 動揺期
1839〜1848協調の限界・革命🟣 崩壊期
1853〜1856露墺対立・戦争🔴 終焉


ウィーン体制は、国際秩序としての「ウィーン体制」と、それを維持するための国内統制としての「メッテルニヒ体制」が連動することで成り立っていました。

外交面では勢力均衡、内政面では検閲と弾圧による安定維持が図られ、一時的な平和は保たれたものの、やがて自由と民族の潮流を抑えきれなくなっていきます。
☞ 両者の違いと関係性は別記事の【第5章 ウィーン体制とメッテルニヒ体制の違い】で詳しく解説しています。

そして、この体制は約40年の間、「五国協調による平和」から「革命による理念の崩壊」へとゆるやかに変化していきました。

次章からは、それぞれの時期を追いながら、この体制がどのように誕生し、揺らぎ、崩れたのかを見ていきましょう。

第1章 第Ⅰ期:体制の成立と安定(1814〜1819)

ウィーン体制の出発点は、ナポレオン戦争後の混乱を収拾し、ヨーロッパに新たな秩序を築くことでした。

1814〜15年のウィーン会議では、革命によって崩れた旧体制を立て直し、戦争を繰り返さないための国際的ルール――正統主義と勢力均衡――が定められます。

この時期、五大国の協調による「会議の時代」が始まり、ヨーロッパはおよそ数十年ぶりに安定を取り戻しました。

しかし、その安定は自由や民意の抑圧によって成り立つものであり、やがて次の時代の動揺を孕んでいました。

1. ナポレオン戦争後の秩序再建へ

1814年、ナポレオンが退位すると、ヨーロッパは再び国境と権力の再編に直面しました。

20年以上続いた革命と戦争の混乱を終わらせ、「平和と秩序の再構築」が急務となります。

そこで列強(イギリス・ロシア・オーストリア・プロイセン・フランス)はウィーン会議(1814〜15)を開催。

この会議を主導したのが、オーストリア外相メッテルニヒでした。

彼は「革命が再び起こらないようにすること」を最優先課題とし、ウィーン会議は保守的・反革命的な秩序の再建を目指して進められます。

2. 体制を支える二つの原則

ウィーン会議の成果は、ウィーン議定書(1815)として結実しました。

そこに貫かれていたのが、以下の二大原則です。

  • 正統主義:革命で倒れた王政(ブルボン家など)を「正当な支配者」として復位させる。
     → 社会の安定は王権によって保たれるという思想。
  • 勢力均衡:どの国も突出せず、列強が力を釣り合わせて戦争を防ぐ。
     → ナポレオンのような覇権国家の再出現を防ぐ仕組み。

これらは「戦争のないヨーロッパ」を維持するための根幹理念となり、以後40年にわたって、列強の外交方針を縛る枠組みとなっていきます。

3. 五国協調の仕組み――神聖同盟と四国同盟

体制の基盤を固めるため、列強は二つの同盟を結びます。

  • 神聖同盟(1815):ロシア皇帝アレクサンドル1世の提唱で成立。
     キリスト教的道徳と兄弟愛を掲げ、「王は民の父である」と説く理想主義的同盟。
     → 加盟は広範だが、実際の政治力は弱く、象徴的意味が強い。
  • 四国同盟(1815):イギリス・ロシア・オーストリア・プロイセンの4か国が結成。
     戦後秩序を監視し、フランスの再侵略を防ぐための現実的な安全保障体制。
     → こちらが実際の外交上の力を持ち、後の「会議体制」の基盤となる。

この二つの同盟によって、列強は相互監視と協調の枠組みを整えました。

革命の再発を防ぐため、ヨーロッパは「戦争ではなく会議による調整」へと舵を切ります。

4. 自由主義・民族運動の芽生えと抑圧

しかし、ウィーン会議が描いた秩序は、民衆の意思を無視した上からの再建でした。

革命を経験した人々のなかには、「王のためではなく、国民のための政治を」という声が根強く残っていたのです。

1817年、ドイツの学生たちが自由と統一を訴えたワルトブルク祭を開催。

この動きを危険視したメッテルニヒは、1819年にカールスバート決議を発し、大学・出版を監視下に置いて自由主義の芽を徹底的に弾圧しました。

こうして、1810年代後半のヨーロッパは、一見すると平和で安定しているものの、内側では自由と抑圧がせめぎ合う静かな緊張状態をはらんでいました。

5. 安定期の評価:平和と抑圧の同居

1815年からの数年間、ウィーン体制は見かけ上、安定していました。

列強のバランスが保たれ、戦争もなく、外交は会議によって調整されていました。

しかし、この「平和」は同時に、自由の抑圧によって成り立つ安定でもありました。

メッテルニヒ体制は、秩序の維持を最優先とするあまり、民衆の声を封じ、各国の改革を遅らせる結果をもたらしました。

この「平和と抑圧の均衡」は、やがて1820年代の干渉主義と分裂(第Ⅱ期)へとつながっていきます。

第Ⅱ期では、南欧の革命をきっかけに、メッテルニヒが「革命国への干渉」を主張。
この時期、イギリスが不干渉を唱えたことで、体制は「大陸派」と「海洋派」に二極化していきます。

重要論述問題にチャレンジ

ウィーン会議において、正統主義と勢力均衡がどのような理念のもとに導入されたかを200字程度で説明せよ。

フランス革命とナポレオン戦争によって秩序が崩壊したヨーロッパでは、再び王権を正当とみなす正統主義と、どの国も突出しないように均衡を保つ勢力均衡が新たな秩序理念として採用された。これにより列強は相互牽制の体制を築き、戦争を防ぐ「会議による平和」を目指した。しかし、この体制は民衆の意思を無視した上からの安定であり、後に自由主義との衝突を生む要因となった。

第2章 第Ⅱ期:干渉主義の確立と二極化の始まり(1820〜1823)

1810年代後半、ヨーロッパは表面上の安定を取り戻したかに見えました。

しかし、その裏側では、自由を求める声と保守体制との間に小さなひびが生まれていました。

1820年代に入ると、南欧で革命が相次ぎ、ウィーン体制は初めて「秩序を乱す国内革命をどう扱うか」という根本的課題に直面します。

この問題をめぐり、オーストリアやロシアは「干渉してでも抑えるべき」と主張する一方、イギリスは「他国の内政には立ち入るべきでない」と異議を唱えました。

ここに、ウィーン体制の内部における初の分裂(大陸派 vs 海洋派)が生まれます。五国協調で始まった体制は、この時期を境に「価値観の亀裂」を抱え始めたのです。

1. 南欧に広がる革命の波

1820年前後、スペインやイタリアでは、自由主義者たちが立ち上がりました。

彼らは絶対王政の復活を拒み、憲法の復活や議会政治の実現を求めたのです。

  • スペイン革命(1820):国王フェルナンド7世に憲法の復活を要求。
  • ナポリ・ピエモンテ革命(1820〜21):自由憲法の制定を求める軍人・市民が蜂起。

これらの運動は「国民による政治」を志向しており、君主制の秩序に基づくウィーン体制とは相容れないものでした。

メッテルニヒはこれを「革命の再燃」と捉え、早急に国際的な対応を取る必要があると判断します。

2. トロッパウ会議(1820)――干渉主義の原則を確認

1820年、オーストリアのトロッパウ(現チェコ)で五大国の代表が集まりました。
この会議での最大の争点は、

「ある国で革命が起こったとき、他国が軍事的に干渉してよいのか」
という問題でした。

メッテルニヒとロシア皇帝の立場

オーストリア外相メッテルニヒとロシア皇帝アレクサンドル1世は、

「革命は一国の問題ではなく、ヨーロッパ全体の秩序を脅かす現象だ」
と主張。

革命国に対しては、他国が軍事的に干渉してでも鎮圧する権利があると明言しました。

これがいわゆるトロッパウ宣言(1820)です。

この宣言により、ウィーン体制は「革命=国際秩序の敵」と公式に位置づけ、干渉主義の原則を確立しました。

3. イギリスの離脱――不干渉の原則を主張

しかし、この方針にイギリスが強く反対しました。

イギリスの代表は、

「革命はその国の国内問題であり、他国が軍事的に介入するのは主権の侵害だ」
と主張。

産業革命を経験したイギリスは、自由主義や議会政治をある程度容認しており、他国の王政を守るための軍事行動には賛同できませんでした。

この立場の違いにより、イギリスは以後、会議体制の決定から距離を置くようになります。

ここに、体制内の価値観の分岐――

すなわち「大陸派(墺・露・普)」と「海洋派(英)」の二極化が始まります。

4. ライバッハ・ヴェローナ会議と干渉の実行

  • ライバッハ会議(1821)
    トロッパウ宣言に基づき、オーストリアはナポリ・ピエモンテに出兵。
    → 革命を鎮圧し、旧体制を復活。
  • ヴェローナ会議(1822)
    スペイン革命への対応を協議。
    フランスが介入を主張し、翌1823年にはスペイン遠征を実行。
    → ブルボン王政を回復させ、革命勢力を抑圧。

これらの干渉は短期的には秩序を保ちましたが、長期的には「列強による他国支配」という不信を生み、自由主義者の反発をより強める結果となりました。

5. 二極化の定着と体制の変質

1820年代初頭、ウィーン体制は干渉主義による秩序維持という段階に入りました。

メッテルニヒの構想どおり、革命は鎮圧され、表面上は「体制の勝利」に見えました。

しかしその裏では、次のような変化が起きていました:

陣営主な国方針特徴
大陸派オーストリア・ロシア・プロイセン革命を国際的に抑圧干渉主義・保守連帯
海洋派イギリス干渉に反対、自由貿易を重視不干渉主義・自由主義的

五国協調で出発した体制は、この時期を境に「協調」から「対立」へと変化します。

これ以降、イギリスは大陸政治からやや距離を取り、代わりに海上貿易と海外植民地に軸足を移していきました。

6. 次なる転換への伏線

この二極化は、のちにウィーン体制全体を揺るがす要因となります。

列強が一枚岩でなくなったことで、次の時代には「民族運動」や「独立戦争」を前に足並みが乱れ、体制の統制力が徐々に失われていきます。

次の「第Ⅲ期」では、ギリシア独立戦争をきっかけに、「民族自決」の理念がヨーロッパ外交に割り込みます。干渉主義の原則に“ほころび”が生じ、体制は本格的な動揺期に入ります。

重要論述問題にチャレンジ

トロッパウ宣言に示された干渉主義の意義と、それがイギリス離脱の要因となった理由を200字程度で説明せよ。

1820年のトロッパウ会議では、メッテルニヒとロシア皇帝が「革命は国際秩序を脅かす」とみなし、革命国への干渉権を明文化した。しかし、イギリスは革命をその国の内政問題と考え、干渉は主権侵害にあたると主張した。この対立により、体制は「干渉を容認する大陸諸国」と「不干渉を掲げるイギリス」という二極化に分裂し、五国協調の原則は揺らぎ始めた。

第3章 第Ⅲ期:体制の動揺と国民運動の台頭(1821〜1834)

1820年代初頭、ウィーン体制は干渉主義の原則によって一時的に秩序を取り戻しました。

しかし、体制が他国の革命にまで介入するようになると、その「安定」は次第に民衆の自由や民族意識との衝突を招いていきます。

この時期、ヨーロッパでは新たに「民族の独立」や「自由主義的な経済改革」を求める動きが広がり、それはもはや単なる国内反乱ではなく、国際秩序そのものを揺るがすうねりへと発展しました。

特に、オスマン帝国支配下にあったギリシアの独立戦争(1821〜30)は、列強の介入を通じて「民族自決」という新たな理念を国際政治に持ち込み、それまでの保守的な体制に大きな試練を与えました。

1. 干渉主義の限界と矛盾

第Ⅱ期に確立された干渉主義は、革命を抑えるうえで有効でしたが、同時に「民衆の意思を無視する体制」としての矛盾を抱えていました。

特に、自由主義や民族運動は、もはや一部の急進派だけのものではなく、中産階級・知識人・軍人など社会の広い層に浸透していきます。

こうした変化の中、革命鎮圧を正当化するメッテルニヒ体制の論理は、現実の社会変動に対応しきれなくなっていきました。

2. ギリシア独立戦争(1821〜1830)――体制に挑む民族運動

1821年、オスマン帝国(トルコ)支配下のギリシアで独立戦争が勃発しました。

この運動は、古代ギリシアへの尊敬を抱くヨーロッパの知識人たち(フィルヘレニズム=ギリシア擁護運動)の支持を集め、単なる国内反乱ではなく「文明と自由の戦い」として国際世論の関心を呼びます。

列強の動きも次第に変化し、当初は干渉を避けていたイギリスフランスも、ロシアとともにギリシア側を支援するようになります。

  • ナヴァリノ海戦(1827):英・仏・露の連合艦隊がオスマン艦隊を撃破。
  • ロンドン議定書(1830):列強がギリシアの独立を正式に承認。

意義
これは、ウィーン体制の原則(正統主義・干渉主義)に反して、「民族の独立」を列強が公認した初めての事例でした。つまり、保守秩序の内部から、民族自決の理念が芽生えたのです。

3. モンロー宣言(1823)――新世界の秩序との対比

同じ頃、大西洋を隔てたアメリカでは、
1823年にアメリカ大統領モンローが次のように宣言します。

「アメリカ大陸は今後、ヨーロッパ諸国の干渉の対象とはならない」

これは、ウィーン体制の「干渉主義」と真っ向から対立する理念でした。

ヨーロッパが「旧王政の安定」を追求するのに対し、アメリカは「新興独立国の自由」を守る立場を明確にし、旧世界と新世界の分離を象徴する転換点となります。

結果
ウィーン体制はヨーロッパ内部では続いたものの、その影響力は「旧大陸限定」にとどまり、世界的普遍性を失いつつありました。

4. 七月革命(1830)――フランスが再び動揺の中心に

1820年代後半、フランスではブルボン朝の再建王政が民衆の支持を失い、1830年、ついに七月革命が勃発しました。

革命は国王シャルル10世を追放し、自由主義的な七月王政(ルイ=フィリップ)を樹立。

フランスは再び立憲君主制を採用し、自由主義的な方向へ転じます。

この変化はヨーロッパ全体に波及し、

  • ベルギー独立(1830〜31):オランダ王国から分離、1839年ロンドン条約で中立を承認。
  • ポーランド蜂起(1830〜31):ロシアによって鎮圧。
  • イタリア各地の蜂起:オーストリア軍が出動し鎮圧。

体制は次々に発生する革命・独立運動への対応に追われ、もはや「抑える」だけでは秩序を維持できなくなっていきました。

5. ドイツ関税同盟(1834)――経済からの統一への道

この時期、政治的には分裂していたドイツ諸邦の間で、経済面からの統合が進みます。

1834年、プロイセンを中心にドイツ関税同盟が成立。

関税障壁を取り除き、国内市場を統一することで、自由主義的経済の発展を促しました。

意義
これは政治的な統一を直接目指すものではなかったものの、「経済の一体化=国家統一への布石」となり、のちのドイツ統一運動へとつながる重要な流れです。

6. 動揺期の特徴と評価

1820年代後半から1830年代前半にかけて、ウィーン体制は「干渉主義による秩序維持」から「民族運動とのせめぎ合い」へと局面が変化しました。

体制を支えた五国協調は次第に利害が対立し、列強の間には「秩序維持」よりも「自国の利益」を優先する動きが目立ち始めます。

時期特徴象徴的出来事
1821〜30民族運動の国際化ギリシア独立戦争
1823旧大陸と新大陸の分離モンロー宣言
1830〜34体制の動揺・自由主義の拡大七月革命/関税同盟

ウィーン体制はまだ崩壊してはいませんが、すでに「抑圧による安定」から「変化を抑えきれない時代」へと移行していました。

次の「第Ⅳ期」では、列強間の協調がほころび、エジプト問題や東方問題などの外交的対立が表面化します。そして最終的に、1848年のヨーロッパ革命によって、体制の理念そのものが崩れ去ることになります。

重要論述問題にチャレンジ

ギリシア独立戦争がウィーン体制に与えた影響を、理念面と外交面の両側から200字程度で論ぜよ

ギリシア独立戦争は、オスマン帝国支配下のギリシア人が民族自決を求めて起こした運動であった。当初、列強は干渉を避けたが、世論の高まりに押されて英・仏・露が介入し、独立を承認した。この結果、体制の根幹である正統主義は崩れ、民族自決の理念が国際政治に初めて認められた。外交的にも、列強が共同で革命側を支援したことにより、従来の革命が敵という構図が揺らぎ、体制の一体性が失われた。

第4章 第Ⅳ期:協調の限界と理念の崩壊(1839〜1848)

1830年代に入ると、ウィーン体制は表面的には維持されながらも、その内部ではすでに「五国協調」の足並みが乱れ始めていました。

ギリシア独立や七月革命を経て、列強の間には「秩序を守る」よりも、自国の利益を優先する外交的思惑が強まっていきます。

この時期の象徴的な出来事が、エジプト問題(1839〜41)です。

列強がそれぞれの思惑で動いた結果、協調体制の限界が明らかになり、ウィーン体制の「調和的秩序」は次第に形骸化していきます。

そして1848年――

フランスで二月革命が起こると、その波は瞬く間にヨーロッパ全土に広がり、ついにウィーン体制の理念(正統主義・干渉主義・保守秩序)は崩壊します。

1. エジプト問題(1839〜41)――協調のほころび

19世紀前半、オスマン帝国内で台頭した総督ムハンマド=アリーは、近代化と軍事改革を進め、実質的な独立勢力として成長していました。

1831年・1839年と二度にわたるエジプト=トルコ戦争をきっかけに、ヨーロッパ列強はオスマン帝国の分裂を恐れ、介入を開始します。

  • ロシア:オスマン帝国を支援(伝統的な南下政策の一環)
  • イギリス:中東の通商路を重視し、エジプトの勢力拡大に反対
  • フランス:ムハンマド=アリーを支援(北アフリカ政策の延長)
  • オーストリア・プロイセン:英露との調整を模索

結果として、

  • ロンドン条約(1840):英・露・墺・普がムハンマド=アリーを抑制
  • 海峡協定(1841):黒海海峡の軍艦通航を禁止

この過程で、フランスだけが条約から排除される形となり、五国協調はついに完全な調和を失います。

意義
エジプト問題は、

「ウィーン体制の協調は、共通の敵がいる間だけ機能する」
という現実を示した出来事でした。
以後、列強は秩序維持よりも、利害対立の中で自国の影響力を競い合うようになります。

2. 各国で進む自由主義・民族運動

外交的な協調が崩れつつある一方、ヨーロッパ内部では再び自由と民族のうねりが強まっていました。

  • イギリス:1832年選挙法改正を経て、漸進的な民主化を推進
  • フランス:七月王政が次第にブルジョワ寄りとなり、労働者階級の不満が拡大
  • ドイツ・イタリア:知識人や学生の間で、統一と自由を求める運動が広がる
  • オーストリア帝国:多民族国家ゆえに、民族独立運動の火種を抱える

ウィーン体制が想定した「静的な秩序」は、急速に進む社会変動の中で、もはや現実に合わなくなっていました。

3. 1848年革命(諸国民の春)――体制理念の崩壊

1848年、フランスで発生した二月革命が引き金となり、ヨーロッパ各地で一斉に革命の嵐が吹き荒れます。

「自由を求める民衆」「民族の独立を求める人々」「旧体制を守ろうとする支配者」
それぞれの思惑がぶつかり合い、ヨーロッパは再び激動の時代に突入します。

フランス:二月革命と第二共和政

七月王政下での格差と不況に不満を募らせた労働者・学生が蜂起。

ルイ=フィリップ王が退位し、第二共和政が成立します。
→ 王政が再び崩れたことで、正統主義の理念が実質的に崩壊

ドイツ:三月革命とフランクフルト国民議会

ドイツ連邦各地で自由主義・民族統一を求める運動が高まり、
1848年3月、各邦で蜂起が相次ぎます。

  • フランクフルト国民議会(1848〜49):全ドイツ統一を議論
  • しかし、小ドイツ主義/大ドイツ主義で対立し、最終的に失敗

「理念先行の理想主義的統一」が挫折し、後のビスマルク主導の現実主義へと道を譲る。

オーストリア:三月革命とメッテルニヒの失脚

ウィーンでも市民が蜂起し、長年体制を支えてきたメッテルニヒが失脚・亡命。
→ これはウィーン体制の象徴的終焉を意味します。

多民族国家オーストリアでは、チェコ・ハンガリー・イタリアなどで民族運動が連鎖的に広がり、「帝国」という枠組みそのものが揺らぎ始めました。

イタリア:第一次独立戦争

ロンバルディア・ヴェネツィアの反乱を皮切りに、サルデーニャ王国がオーストリアと戦うも敗北。
→ しかしこの経験が、のちのイタリア統一の原動力となる。

4. 1848年革命の意味――「理念的崩壊」

1848年革命の波は、最終的にほとんどの国で鎮圧されました。

しかし、革命の成果よりも重要なのは、

「もはや体制の理念では時代を止められない」
という現実が明らかになったことです。

項目崩壊した理念具体的出来事
正統主義王政の復位は不可能に仏二月革命/墺の動揺
干渉主義列強が革命鎮圧で協調できず英の傍観/仏の分岐
保守秩序民衆運動が社会を動かす各地での民族蜂起

ウィーン体制を象徴してきた「メッテルニヒ体制」はここで崩れ、体制は理念的にも、象徴的にも、終焉を迎えたといえます。

5. 崩壊後の世界へ

1848年革命によって、ヨーロッパは新たな時代(近代国家形成期)へ移行します。

その中で、各国は以下のような道を歩み始めました。

  • フランス:ナポレオン3世の登場 → 第二帝政へ
  • ドイツ・イタリア:現実主義外交による統一の道へ
  • オーストリア:ハプスブルク帝国の再編と二重帝国への布石
  • イギリス:漸進的改革により、革命を回避しつつ民主化を進行

このように、ウィーン体制は理念的に崩壊したものの、「戦争回避の仕組み」「会議による外交」という発想は、のちの国際連盟・国際連合へと受け継がれていくことになります。

次の「第Ⅴ期」では、体制の崩壊後に表面化した列強間の利害対立――
特に、オスマン帝国をめぐる東方問題クリミア戦争――を通じて、
体制の外交的終焉を見ていきます。

重要論述問題にチャレンジ

1848年革命がウィーン体制の理念をどのように崩壊させたかを250字程度で説明せよ。

1848年の諸国民の春は、自由と民族の理念がヨーロッパ全土で爆発した革命であり、体制の理念である正統主義・干渉主義・保守秩序を根本から揺るがせた。フランスでは王政が再び倒れ、正統主義は完全に崩壊。ドイツやオーストリアでは民族運動が連鎖し、干渉による抑圧も限界に達した。ウィーンではメッテルニヒが失脚し、体制の象徴が消滅した。これにより、ウィーン体制は理念的にも象徴的にも終焉を迎えた。

第5章 第Ⅴ期:外交的終焉(1853〜1856)

1848年革命によって、ウィーン体制の理念――正統主義・干渉主義・保守秩序――はすでに崩壊していました。

しかし、外交面ではなお「列強協調」という枠組みが名目上は残されていました。

この最後の時期に、体制の命運を決定づけたのがクリミア戦争(1853〜1856)です。

ウィーン体制の中心であったオーストリアとロシアが、この戦争を機に決定的に対立したことで、体制は外交的にも完全に崩壊しました。

この戦争は単なる軍事衝突ではなく、40年以上にわたってヨーロッパを支えてきた「協調の時代」の幕引きを意味していたのです。

1. 東方問題の深刻化とロシアの南下政策

19世紀半ば、衰退するオスマン帝国をめぐって列強の思惑が激しく交錯していました。

この「オスマン帝国の分割をめぐる対立」は、東方問題と呼ばれます。

特にロシアは、黒海から地中海へ進出し、スラヴ系民族の保護を口実にバルカン半島への影響力を強めようとしていました。

しかし、

  • イギリスはスエズ航路を守るためにオスマン帝国の領土保全を支持。
  • フランスはカトリックの保護権を主張し、オスマンとの関係維持を重視。

こうして、ロシアの南下政策は英仏の警戒を招き、1840年代末には列強協調がもはや成り立たない構図が明確になります。

2. クリミア戦争(1853〜1856)――体制を壊した最後の戦争

1853年、聖地の保護権をめぐる対立を契機に、ロシア軍がオスマン帝国領に侵入。

これに対し、オスマン帝国は英・仏の支援を受けて反撃します。

  • 英・仏・オスマン vs ロシアという構図で開戦。
  • 主戦場は黒海北岸のクリミア半島

この戦争は、ウィーン体制の根幹であった「列強の協調」を完全に破壊しました。

オーストリアの中立とロシアの孤立

体制の中核を担ってきたオーストリアは、当初ロシアを支援する立場でした。

しかし革命後の国内不安を抱える中で、結局どちらの陣営にも加担できず「中立」を選択。

ロシアはこれを「裏切り」とみなし、両国関係は決定的に悪化します。

結果

かつて「体制の柱」であった墺露協調は崩壊し、
ウィーン体制の外交的基盤が完全に失われました。

3. パリ条約(1856)――ウィーン体制の終焉

1856年、戦争の講和として結ばれたのがパリ条約です。

条項内容
オスマン帝国の独立と領土保全を列強が共同保証ロシアの南下政策を抑制
黒海の中立化ロシアの軍艦・要塞を禁止
ドナウ河航行の自由化国際的管理体制の確立

この講和により、ロシアは国際的に孤立し、オーストリアも外交的信頼を失うこととなりました。

かつて「会議による平和」を築いた五大国は、もはや互いに不信と競争関係に陥り、ウィーン体制の「協調外交」は終焉を迎えます。

4. 戦後の国際秩序――「協調」から「対立」へ

クリミア戦争は、ウィーン体制の崩壊を決定づけただけでなく、
次の時代――国民国家の形成と帝国主義の幕開け――を導きました。

  • ロシア:近代化(農奴解放など)を進め、失地回復を図る。
  • オーストリア:民族問題と外交孤立に苦しみ、のちに二重帝国へ。
  • イギリス:海上覇権を維持しつつ、孤立主義へ転換。
  • フランス:ナポレオン3世のもとで第二帝政を展開。

意義

ウィーン体制が築いた「王と貴族の秩序」は崩れ、
代わって「国民国家の時代」が始まる。

体制の終焉は、ヨーロッパの「旧秩序」から「近代国家システム」への移行を意味していました。

5. 総括:ウィーン体制の40年

1815年に成立したウィーン体制は、約40年間にわたりヨーロッパの戦争を抑止し、一定の平和をもたらしました。

しかし、その安定は「自由の抑圧」と「協調の脆さ」に支えられたものであり、時代が進むにつれて矛盾を抱え込んでいきました。

時期特徴崩壊の要因
第Ⅰ期正統主義と勢力均衡による秩序再建自由主義の芽生え
第Ⅱ期干渉主義による安定イギリスの離脱と二極化
第Ⅲ期民族運動と体制動揺列強利害の対立
第Ⅳ期協調の限界と理念崩壊1848年革命の衝撃
第Ⅴ期外交的終焉クリミア戦争での墺露対立

6. ウィーン体制の歴史的意義

  • 戦争抑止の先駆的モデル
     → 会議による調整・勢力均衡の思想は、後の国際秩序の基盤に。
  • 近代外交の出発点
     → 外交官・外相を中心とする多国間交渉の制度化。
  • 保守と自由の対立を可視化
     → 19世紀の政治思想(自由主義・民族主義・社会主義)の出発点を形成。

まとめ

ウィーン体制は、ヨーロッパが「革命の時代」を超えて、「秩序の時代」へ移行するための過渡的な枠組みだった。

しかし、変化を抑え続けたことが、最終的には自らを崩壊に導いた。

こうして、1815年のウィーン会議から始まった体制は、1856年のパリ条約をもって、その歴史的役割を終える。

次の時代、ヨーロッパは国民国家の形成と帝国主義の競争へと進んでいく。

重要論述問題にチャレンジ

クリミア戦争がウィーン体制を外交的に終焉させた要因を250字以内で説明せよ。

クリミア戦争は、衰退するオスマン帝国をめぐる列強の利害対立から勃発した。ロシアの南下政策に対し、イギリスとフランスがオスマン帝国を支援、一方のオーストリアは中立を選び、かつての盟友ロシアとの関係が決裂した。この墺露協調の崩壊によって、40年間体制を支えてきた五国協調の枠組みは完全に失われた。1856年のパリ条約は戦争を終結させたが、その時すでに「会議による平和」は形骸化し、ウィーン体制は外交的にも幕を閉じた。

まとめ:ウィーン体制の流れを整理する

ウィーン体制の主要な流れ(1814〜1856)

年代主な出来事体制の動き備考
1814〜15ウィーン会議/ウィーン議定書正統主義・勢力均衡を原則に秩序再建体制成立
1815神聖同盟・四国同盟五国協調の枠組み形成会議体制の出発点
1817ワルトブルク祭自由・統一を訴える運動民衆意識の萌芽
1819カールスバート決議自由主義弾圧安定期の完成
1820〜22トロッパウ・ライバッハ・ヴェローナ会議干渉主義を確立イギリスが離脱
1821〜30ギリシア独立戦争民族運動の台頭列強が独立を承認
1823モンロー宣言新大陸での不干渉宣言欧米分離の始まり
1830七月革命/ベルギー独立体制動揺・自由主義の拡大
1834ドイツ関税同盟経済統合の進展政治的統一への布石
1839〜41エジプト問題列強の利害対立協調の限界露呈
1848二月革命・三月革命体制理念の崩壊メッテルニヒ失脚
1853〜56クリミア戦争墺露対立で体制崩壊外交的終焉
1856パリ条約協調体制の最終幕ウィーン体制の終焉

要点
ウィーン体制は「革命の再発防止」を目的に出発したが、40年の間に「自由主義」「民族運動」「列強対立」によって内側から崩壊していった。

ウィーン体制の五期区分と構造整理

時期期間特徴象徴的出来事崩壊の要因
第Ⅰ期
体制の成立と安定
1814〜1819正統主義・勢力均衡による秩序再建ウィーン会議/カールスバート決議自由主義抑圧の矛盾
第Ⅱ期
干渉主義と二極化
1820〜1823干渉主義の確立/英の離脱トロッパウ宣言/ヴェローナ会議海洋派と大陸派の分裂
第Ⅲ期
体制の動揺
1821〜1834民族運動・自由主義の台頭ギリシア独立戦争/七月革命民族・自由の理念の拡散
第Ⅳ期
協調の限界
1839〜1848外交利害の対立・体制理念の崩壊エジプト問題/1848年革命メッテルニヒ体制の終焉
第Ⅴ期
外交的終焉
1853〜1856墺露対立・協調崩壊クリミア戦争/パリ条約協調外交の完全崩壊

分析ポイント

  • 「正統主義」と「勢力均衡」は戦争防止には有効だったが、民衆の政治参加を抑圧。
  • 干渉主義による秩序維持は、やがて各国の主権や国民感情と衝突。
  • 列強の協調は、共通の敵(革命)が消えると瓦解した。

ウィーン体制の歴史的位置づけ

視点内容
政治的意義「会議による平和」の先駆。戦争抑止の制度化。
外交的意義勢力均衡と多国間協議の概念を確立。
社会的背景自由・民族運動の抑圧と共存。
歴史的転換革命の時代(1789〜1815)→秩序の時代(1815〜1848)への移行。

総まとめ

ウィーン体制とは、革命を封じ込めるために築かれた保守的秩序であり、
戦争を防いだ一方で、変化を拒んだがゆえに崩壊した体制である。

1815年から1856年までの40年間、ヨーロッパは「協調による平和」と「自由への渇望」の間で揺れ続けました。

その経験は、のちの国際秩序――国際連盟・国際連合――へと受け継がれていきます。

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