19世紀末から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパはビスマルク体制の崩壊を契機に、次第に対立と緊張が高まっていきました。
ビスマルクが築いた勢力均衡は、ヴィルヘルム2世の即位とともに崩れ、列強は植民地をめぐる帝国主義的競争に突入します。
やがて英仏協商・英露協商の成立によって「三国協商」が形成され、これに対抗する「三国同盟」との対立構造が生まれました。
さらに、バルカン半島では民族主義が高揚し、パン=スラヴ主義とパン=ゲルマン主義が衝突する中で、ヨーロッパは“火薬庫”と化していきます。
サラエヴォ事件を引き金に、ついに第一次世界大戦が勃発しました。
本記事では、「ビスマルク体制崩壊から第一次世界大戦勃発まで」の流れを、チャートで一望できるよう整理します。全体像をつかみ、各事件の位置づけを理解したうえで、次章以降で個別の動きを見ていきましょう。
第1章 ビスマルク体制崩壊から第一次世界大戦までの流れ(チャートで一望)
以下のチャートは、ビスマルク外交の崩壊から第一次世界大戦の勃発までを、時系列で整理したものです。
ここでは、細部の説明よりも「事件のつながり」や「対立構造の変化」に注目してください。
【ビスマルク体制の崩壊】
↓
1888年 ヴィルヘルム2世即位(世界政策を推進)
↓
1890年 ビスマルク辞職 → 再保障条約破棄
↓
ロシアが孤立 → 1891〜94年 露仏同盟(露仏接近)
【帝国主義時代の到来】
↓
列強による植民地分割競争の激化
↓
1898年 米西戦争(アメリカの海外進出)
↓
1899〜1902年 南アフリカ戦争(英・ブール戦争)
↓
ドイツ:世界政策(植民地拡大+海軍力強化)
→ ティルピッツ艦隊法(1898年、1900年)
→ イギリスとの対立激化(建艦競争)
【英仏接近と協商の形成】
↓
1904年 英仏協商(エジプト⇔モロッコの相互承認)
↓
1905年 第一次モロッコ事件(アルヘシラス会議:独孤立)
↓
1907年 英露協商(イラン・アフガン・チベットの分割)
↓
三国協商(英・仏・露)成立 ⇔ 三国同盟(独・墺・伊)
【バルカン半島の火薬庫化】
↓
1908年 ボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合(オーストリア)
→ セルビア・ロシアが反発(パン=スラヴ主義 vs パン=ゲルマン主義)
↓
1911〜12年 伊土戦争(イタリアがトリポリ・キレナイカを獲得)
↓
1912〜13年 バルカン戦争(第1・第2次)
第1次:バルカン同盟 vs オスマン帝国
第2次:ブルガリア vs セルビア・ギリシアなど
→ セルビアの拡大、オーストリアの危機感増大
【サラエヴォ事件と第一次世界大戦】
↓
1914年6月28日 サラエヴォ事件
オーストリア皇太子フランツ=フェルディナント暗殺
犯人:セルビア系青年(秘密結社「黒手組」)
↓
オーストリア、セルビアへ最後通牒 → 受諾拒否
↓
7月28日 オーストリア、セルビアに宣戦布告
↓
ロシア:セルビア支援で動員開始
↓
ドイツ:ロシアに宣戦 → 8月1日
↓
ドイツ:フランスへ宣戦 → シュリーフェン計画発動
↓
8月4日 ドイツ、ベルギー侵攻 → イギリス参戦
↓
第一次世界大戦勃発(1914〜1918)
【主要キーワードまとめ】
- 再保障条約破棄 - 露仏同盟 - 英仏協商 - 英露協商
- 三国同盟 vs 三国協商
- 世界政策(ヴィルヘルム2世) - ティルピッツ艦隊法
- モロッコ事件(第1・第2) - ボスニア併合
- 伊土戦争 - バルカン戦争
- パン=スラヴ主義 - パン=ゲルマン主義
- サラエヴォ事件 - シュリーフェン計画
- 総力戦 - 同盟国(独・墺・オスマン・ブルガリア) vs 協商国(英・仏・露・伊・日・米)
チャートの読み方
このチャートは、「外交関係の変化」と「地域紛争の連鎖」を軸に整理しています。
ポイントは次の3つです。
- 外交の転換点:1890年の再保障条約破棄
ここからロシアが孤立し、フランスへ接近。ビスマルク時代の均衡が崩れました。 - 帝国主義競争が外交対立を助長
植民地や海軍拡張をめぐって英独対立が深まり、協商と同盟の二極構造が形成されました。 - バルカン半島の民族主義が導火線に
ボスニア併合・バルカン戦争・サラエヴォ事件を経て、ヨーロッパ全体が戦争へと突入します。
第2章 再保障条約の破棄と露仏同盟の成立
ビスマルクが築いたヨーロッパの安定は、1890年に彼が退陣すると同時に崩れ始めました。
新皇帝ヴィルヘルム2世は「世界政策」を掲げ、ドイツを大陸外交の枠を超えた帝国主義国家へ導こうとします。
その結果、ロシアとの再保障条約が更新されず、フランスとロシアが接近。ヨーロッパの勢力均衡は根本から変化しました。
1. 再保障条約の意義と破棄の背景
ビスマルクは、ロシアとの再保障条約(1887)を通じて、フランスを孤立させる外交体制を維持していました。
この条約によって、ドイツはロシアの南下政策を黙認しつつ、二正面戦争を回避していたのです。
しかし、1890年にヴィルヘルム2世が即位すると、世界政策を掲げて海軍拡張・植民地進出を推進し、ロシアとの妥協よりも国際的地位の拡大を優先しました。
新皇帝はビスマルクを更迭し、再保障条約の更新を拒否します。
2. ロシアの孤立と露仏接近
ロシアはドイツとの関係悪化により孤立し、資金調達や安全保障の面で新たな同盟相手を求めるようになります。
一方、孤立していたフランスもドイツに対抗するために協力を模索しました。こうして1891年に仏露間の軍事協定が締結され、1894年には正式に露仏同盟が成立します。
この同盟は、ドイツの「フランス孤立政策」を根本から覆すものであり、ヨーロッパの勢力均衡を崩す転換点となりました。
入試で狙われるポイント
- 再保障条約破棄(1890)の外交的影響
- 露仏同盟成立(1894)の背景と意義
- 「フランス孤立政策」の終焉
- 世界政策によるドイツ外交の転換
- ビスマルク外交の特徴と、ヴィルヘルム2世の世界政策との違いを200字程度で説明せよ。
-
ビスマルクはフランスを孤立させるため、ロシアやオーストリアと協調し、ヨーロッパの勢力均衡を維持した。これにより大陸での安定を保ちつつ、ドイツの安全を確保していた。これに対し、ヴィルヘルム2世は植民地獲得や海軍拡張を進める世界政策を推進し、再保障条約を破棄した。結果としてロシアがフランスへ接近し、ドイツ包囲網が形成され、ヨーロッパの緊張が高まった。
第2章:ビスマルク体制の崩壊と列強対立の激化 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
ビスマルクがロシアと結んだ再保障条約は西暦何年に締結されたか。
解答:1887年
問2
再保障条約でドイツはロシアのどの政策を黙認したか。
解答:南下政策
問3
ヴィルヘルム2世が即位したのは西暦何年か。
解答:1888年
問4
再保障条約を破棄したのは誰の方針によるか。
解答:ヴィルヘルム2世
問5
ロシアがフランスと同盟を結んだのはなぜか。
解答:孤立を脱し、安全保障と資金援助を得るため
問6
露仏同盟が正式に成立したのは西暦何年か。
解答:1894年
問7
露仏同盟の形成で崩れたビスマルクの外交方針は何か。
解答:フランス孤立政策
問8
ヴィルヘルム2世の外交方針を何というか。
解答:世界政策(Weltpolitik)
問9
世界政策で特に強化された軍事力は何か。
解答:海軍
問10
露仏同盟の成立がもたらしたヨーロッパの変化を一言で表すと何か。
解答:勢力均衡の崩壊
正誤問題(5問)
問1
再保障条約はドイツとフランスの間で結ばれた。
解答:誤(正しくはドイツとロシア)
問2
再保障条約破棄後もドイツとロシアは協調関係を維持した。
解答:誤(破棄後に関係は悪化)
問3
ヴィルヘルム2世はフランス孤立政策を継承した。
解答:誤(破棄し、世界政策へ転換)
問4
露仏同盟は1890年に成立した。
解答:誤(1894年)
問5
世界政策はビスマルク時代から一貫して行われていた。
解答:誤(ヴィルヘルム2世の方針)
よくある誤答パターンまとめ
- 「再保障条約=三帝同盟」と混同する。
- 「露仏同盟はビスマルク時代」と誤記。
- 「世界政策=植民地拡大」だけで終わらせ、外交転換を説明しない。
第3章 帝国主義の進展と列強対立の激化
19世紀末のヨーロッパは、経済力・軍事力を背景に、アジア・アフリカへの進出を競う「帝国主義時代」に突入しました。
とくに、イギリス・フランス・ドイツなどの列強は、植民地拡大を通じて国力を示そうとし、世界各地で利権争いが起こります。
この過程で、英独対立が決定的となり、のちの協商と同盟の分裂構造へとつながっていきました。
1. 帝国主義時代の到来と背景
19世紀後半、第二次産業革命の進展により、各国は新たな資源・市場を求めて海外へ進出しました。
こうした動きは「帝国主義」と呼ばれ、列強はアジア・アフリカを舞台に植民地獲得をめぐって競争を繰り広げます。
特に、イギリスは「世界の工場」としての地位を維持するため、広大な植民地帝国の形成を進め、インド・アフリカ・オセアニアに勢力を拡大しました。
一方、統一を果たしたばかりのドイツやイタリアも、新興勢力として海外進出を志向します。
2. 世界政策とティルピッツ艦隊法
ヴィルヘルム2世は、ドイツを世界列強の中心に押し上げるため、「世界政策」を掲げました。その柱が、海軍力の強化による世界的影響力の拡大です。
1898年と1900年には、海軍大臣ティルピッツの提案により「艦隊法」が制定され、強力な海軍建設計画が始動しました。
これにより、ドイツはイギリスと覇権を争う存在となり、「建艦競争」が激化していきます。
3. 列強の植民地競争と対立
帝国主義時代の列強は、世界各地で衝突を繰り返しました。
- 1898年:米西戦争 — アメリカがフィリピン・キューバ・プエルトリコなどを獲得し、列強の一角へ
- 1899〜1902年:南アフリカ戦争 — イギリスがオランダ系ボーア人の国を征服し、南アフリカを支配
- 中国分割 — 義和団事件(1900)後、各国が中国での勢力圏を拡大
これらの事件は、列強の利害関係を複雑化させ、「植民地をめぐる国際政治」を大戦前夜の舞台に押し上げました。
入試で狙われるポイント
- 世界政策(Weltpolitik)の目的と影響
- ティルピッツ艦隊法(1898・1900)と英独対立
- 米西戦争・南アフリカ戦争の国際的意義
- 植民地分割と列強の対立構図
- ドイツの世界政策が英独関係に及ぼした影響について200字程度で説明せよ。
-
ヴィルヘルム2世はドイツを世界的強国にするため、世界政策を推進し、海軍拡張と植民地獲得を目指した。1898年と1900年のティルピッツ艦隊法によって大規模な海軍建設が進められると、制海権を握っていたイギリスは警戒を強めた。その結果、英独間に建艦競争が生じ、両国の対立は深まった。やがてイギリスは孤立政策を放棄し、フランス・ロシアと協商関係を築くきっかけとなった。
第3章:ビスマルク体制の崩壊と列強対立の激化 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
帝国主義とはどのような政策を指すか。
解答:植民地や勢力圏を拡大して国力を高めようとする政策
問2
19世紀末に起きた産業上の変化を何というか。
解答:第二次産業革命
問3
ヴィルヘルム2世が掲げた外交方針を何というか。
解答:世界政策(Weltpolitik)
問4
ドイツの海軍力強化を定めた法律を何というか。
解答:ティルピッツ艦隊法
問5
ティルピッツ艦隊法は何年に制定されたか(最初の法)。
解答:1898年
問6
1898年の米西戦争でアメリカが獲得したアジアの領土はどこか。
解答:フィリピン
問7
南アフリカ戦争はどの国とどの民族の対立で起きたか。
解答:イギリスとオランダ系ボーア人
問8
帝国主義競争の結果、イギリスが放棄した外交方針を何というか。
解答:光栄ある孤立(栄光ある孤立)
問9
義和団事件後、中国を分割した列強の一国を挙げよ。
解答:イギリス/フランス/ドイツ/ロシア/日本(いずれか)
問10
帝国主義の進展がもたらした国際情勢の特徴を一言で。
解答:列強間の対立の激化
正誤問題(5問)
問1
帝国主義は国内の資源開発を目的とした政策である。
解答:誤(海外植民地の獲得を目的とする)
問2
ティルピッツ艦隊法は、陸軍の強化を目的とした法律である。
解答:誤(海軍力の増強が目的)
問3
米西戦争の結果、スペインはアジアとアメリカの植民地を失った。
解答:正
問4
南アフリカ戦争では、ドイツがボーア人側を支援した。
解答:正(反英感情からドイツはボーア側を支持)
問5
帝国主義の競争は、英独対立の緩和につながった。
解答:誤(むしろ激化させた)
よくある誤答パターンまとめ
- 「帝国主義=植民地支配の正当化」と誤解する。
- 「世界政策=内政改革」と混同。
- 「ティルピッツ艦隊法=陸軍拡張」と誤答。
- 「南ア戦争は英仏対立」と誤記。
第4章 英仏協商と三国協商の成立
帝国主義の時代、列強は植民地をめぐる競争を繰り広げ、各地で利害が衝突しました。
当初、イギリスとフランスもアフリカ・アジアで対立していましたが、ドイツの急速な海軍拡張と攻勢的な外交が共通の脅威となり、両国は次第に歩み寄ります。
こうして1904年、両国は植民地の相互承認による英仏協商を結びました。
この協調関係は、1907年の英露協商を経て、ついに「三国協商」体制へと発展します。
1. 英仏協商の成立(1904)
19世紀末、イギリスは「光栄ある孤立(栄光ある孤立)」を維持し、いずれの同盟にも加わらない外交方針をとっていました。
しかし、ヴィルヘルム2世の世界政策が進展し、ドイツが海軍力を拡大させると、イギリスは孤立外交を見直す必要に迫られます。
一方、フランスもドイツとの対立を抱えており、アフリカ分割をめぐる紛争(ファショダ事件)を乗り越えてイギリスと接近。
1904年、両国は英仏協商を締結し、互いの植民地(エジプトとモロッコ)の支配を承認しました。
これにより、英仏間の長年の対立は終結し、ドイツの孤立が始まります。
2. 第一次モロッコ事件とドイツの孤立化
英仏接近を警戒したドイツは、1905年、フランスのモロッコ支配に異議を唱えました。
ヴィルヘルム2世はモロッコに上陸し、現地の独立を支持してフランスを挑発。
この問題はアルヘシラス会議(1906)で国際的に討議されましたが、ドイツを支持したのはオーストリアとイタリアのみ。
イギリスやロシアはフランスを支援し、結果としてドイツは外交的に孤立しました。
この事件を通じて、英仏協調はさらに強化され、ドイツは自ら孤立を深めていくことになります。
3. 英露協商と三国協商の形成
1907年、イギリスとロシアの間で、アジアにおける勢力分割を定めた英露協商が成立します。
イラン・アフガニスタン・チベットの分割協定によって、長年の対立関係が解消されました。
これにより、
- 英仏協商(1904)
- 英露協商(1907)
- 露仏同盟(1894)
の三本柱が完成し、ヨーロッパには「三国協商」が成立しました。
これに対抗する形で、ドイツ・オーストリア・イタリアの「三国同盟」が存在し、両陣営の対立構造が固定化します。
入試で狙われるポイント
- 英仏協商(1904)の内容と意義
- 第一次モロッコ事件(1905)とアルヘシラス会議
- 英露協商(1907)とアジア分割
- 三国協商と三国同盟の対立構図
- 英仏協商および英露協商の成立が、ヨーロッパの国際関係にどのような影響を与えたか。(200字程度)
-
ドイツの世界政策と海軍拡張に対抗するため、イギリスは孤立政策を放棄し、1904年にフランスと英仏協商を結んだ。両国は互いの植民地支配を承認し、関係を改善した。さらに1907年、イギリスはロシアと英露協商を結び、アジアの勢力圏を整理した。これにより、英仏露三国の協調体制が生まれ、三国同盟のドイツ・オーストリア・イタリアと対立。ヨーロッパは二大陣営に分裂し、第一次世界大戦への布石となった
第4章:ビスマルク体制の崩壊と列強対立の激化 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
「光栄ある孤立」を放棄した国はどこか。
解答:イギリス
問2
英仏協商が成立したのは西暦何年か。
解答:1904年
問3
英仏協商では、イギリスがどの地域の支配を承認されたか。
解答:エジプト
問4
英仏協商でフランスが承認された地域はどこか。
解答:モロッコ
問5
第一次モロッコ事件で開かれた国際会議の名称は何か。
解答:アルヘシラス会議
問6
アルヘシラス会議でドイツを支持した国を一つ挙げよ。
解答:オーストリアまたはイタリア
問7
英露協商が結ばれたのは西暦何年か。
解答:1907年
問8
英露協商では、どの地域の分割が定められたか。
解答:イラン・アフガニスタン・チベット
問9
三国協商を構成した三国を答えよ。
解答:イギリス・フランス・ロシア
問10
三国協商と対立した同盟を何というか。
解答:三国同盟
正誤問題(5問)
問1
英仏協商は、ドイツとフランスの間で結ばれた。
解答:誤(正しくはイギリスとフランス)
問2
第一次モロッコ事件では、ドイツが国際的に孤立した。
解答:正
問3
英露協商では、アフリカの分割について協定が結ばれた。
解答:誤(アジア分割が目的)
問4
三国協商は軍事同盟であり、三国同盟と同じ性質を持つ。
解答:誤(三国協商は明確な軍事同盟ではない)
問5
三国協商の形成は、ヨーロッパの勢力均衡を安定させた。
解答:誤(むしろ対立を固定化した)
よくある誤答パターンまとめ
- 英仏協商の承認地域を逆にする(エジプト⇔モロッコ)。
- 三国協商を「軍事同盟」と誤解する。
- モロッコ事件を「植民地獲得戦争」と誤記。
- 英露協商の対象をアフリカと勘違いする。
第5章 バルカン半島の火薬庫化と戦争の連鎖
20世紀初頭のヨーロッパにおいて、最も不安定な地域が「バルカン半島」でした。
ここは、オスマン帝国の衰退に伴い、多民族・多宗教が入り乱れる地域となり、列強の思惑と民族運動が複雑に絡み合っていました。
特に、スラヴ系諸民族の独立運動は、ロシアのパン=スラヴ主義とオーストリアのパン=ゲルマン主義が対立する構図を生み出し、バルカン半島を「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばせる要因となります。
ここでは、ボスニア併合・伊土戦争・バルカン戦争を通じて、戦争の連鎖がどのように第一次世界大戦へつながっていったのかを整理していきましょう。
1. ボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合(1908)
1908年、オーストリアはバルカン半島のボスニア・ヘルツェゴヴィナを正式に併合しました。
この地域はオスマン帝国の支配下にありながら、実際にはオーストリアの管理下にあったため、形式的な統合でした。
しかし、スラヴ民族の統一を目指すセルビアや、それを支援するロシアは強く反発します。
この出来事は、パン=スラヴ主義とパン=ゲルマン主義の対立を鮮明にし、以後のバルカン情勢の緊張を決定づけました。
ロシアは1905年の敗北(日露戦争)の影響で軍事的行動を取れず、この危機は「ボスニア危機」として一応の終息を迎えますが、セルビアの対墺感情は一層高まります。
2. 伊土戦争(1911〜12)
オスマン帝国の衰退を背景に、イタリアは北アフリカのリビア地方(トリポリ・キレナイカ)を狙い、1911年に伊土戦争を開始しました。
この戦争でイタリアは勝利し、オスマン帝国は北アフリカの拠点を失います。
伊土戦争は、帝国の弱体化をさらに明らかにし、バルカン諸国の独立・拡張の機運を高めました。
「いまこそオスマンから領土を奪う時」と考えたバルカン諸国が次々に行動を起こすことになります。
3. 第一次バルカン戦争(1912)
ロシアの支援を受けたセルビア・ブルガリア・ギリシア・モンテネグロは、オスマン帝国に対抗するため「バルカン同盟」を結成しました。
1912年、この同盟はオスマン帝国に宣戦を布告し、これを圧倒。
ロンドン条約でオスマン帝国はヨーロッパ領の大部分を失い、バルカン半島からの撤退を余儀なくされました。
この勝利によりセルビアは領土を拡大しましたが、勢力の拡大を警戒したオーストリアは強く反発し、両国関係はさらに悪化します。
4. 第二次バルカン戦争(1913)
第一次バルカン戦争の講和で得た領土分配をめぐり、ブルガリアが不満を抱き、かつての同盟国であるセルビア・ギリシアに攻撃を仕掛けます。
しかし、ブルガリアは逆に敗北し、領土を失いました。
この内戦的な争いにより、バルカン半島の秩序はさらに混乱し、列強の介入が進む結果となります。
セルビアは南スラヴ地域の統合を志向し、パン=スラヴ主義を掲げるロシアと一体化する傾向を強め、オーストリアとの対立は決定的となりました。
入試で狙われるポイント
- ボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合(1908)の国際的影響
- 伊土戦争(1911〜12)とバルカン戦争の連鎖
- パン=スラヴ主義とパン=ゲルマン主義の対立構図
- 「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれた背景
- バルカン半島が「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれた理由を200字程度で説明せよ。
-
オスマン帝国の衰退により、バルカン半島では多くの民族が独立を求めて対立した。特にスラヴ系諸民族の独立運動は、セルビアの指導のもとで強まり、これを支援するロシアのパン=スラヴ主義が広がった。一方、オーストリアはパン=ゲルマン主義を掲げてバルカンへの影響拡大を図り、両者の利害が衝突した。ボスニア併合やバルカン戦争などを経て、地域の緊張は高まり、ヨーロッパ全体の戦争へとつながった。
第5章:ビスマルク体制の崩壊と列強対立の激化 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
ボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合を行った国はどこか。
解答:オーストリア
問2
ボスニア併合に反発した国を2つ挙げよ。
解答:セルビア・ロシア
問3
ロシアが支援したスラヴ系統一運動の理念を何というか。
解答:パン=スラヴ主義
問4
オーストリアが掲げた対抗理念は何か。
解答:パン=ゲルマン主義
問5
伊土戦争の結果、イタリアが獲得した地域はどこか。
解答:トリポリ・キレナイカ
問6
第一次バルカン戦争でオスマン帝国に対抗した同盟を何というか。
解答:バルカン同盟
問7
第一次バルカン戦争の結果、オスマン帝国はどの地域からほぼ撤退したか。
解答:ヨーロッパ
問8
第二次バルカン戦争の原因は何か。
解答:領土分配をめぐるブルガリアの不満
問9
バルカン半島が「火薬庫」と呼ばれた要因の一つにあたる民族主義的潮流は何か。
解答:パン=スラヴ主義
問10
バルカン戦争後、オーストリアが最も警戒した国はどこか。
解答:セルビア
正誤問題(5問)
問1
ボスニア併合は、ロシアの支持のもとに行われた。
解答:誤(ロシアは反発した)
問2
伊土戦争は、オスマン帝国がイタリアの植民地を奪った戦争である。
解答:誤(イタリアがオスマン領を奪った)
問3
バルカン同盟は、オーストリアを攻撃するために結成された。
解答:誤(オスマン帝国を攻撃するため)
問4
第二次バルカン戦争では、ブルガリアが敗北した。
解答:正
問5
バルカン戦争の結果、セルビアの勢力は縮小した。
解答:誤(むしろ拡大した)
よくある誤答パターンまとめ
- 「ボスニア併合=セルビアによるもの」と誤答。
- 「伊土戦争=アフリカの独立戦争」と混同。
- 「バルカン同盟=三国協商の一部」と誤解。
- 「パン=スラヴ主義=オーストリアの思想」と逆に記す。
第6章 サラエヴォ事件と第一次世界大戦の勃発
1914年6月、ヨーロッパの緊張はついに臨界点に達しました。
オーストリア皇太子フランツ=フェルディナントが暗殺されたサラエヴォ事件は、一見すれば地域的なテロ事件でしたが、背後にあったのは長年くすぶっていた民族対立と列強の同盟関係でした。
この事件をきっかけに、オーストリアはセルビアへ最後通牒を突きつけ、ロシアがセルビアを支援して動員を開始すると、ドイツ・フランス・イギリスが次々と参戦。
やがてヨーロッパ全体を巻き込む第一次世界大戦(1914〜1918)へと発展します。
ここでは、事件から戦争勃発までの「連鎖の構図」をたどり、なぜこの戦争が世界規模に拡大したのかを見ていきましょう。
1. サラエヴォ事件(1914年6月28日)
1914年6月28日、オーストリア皇太子フランツ=フェルディナント夫妻が、ボスニアのサラエヴォでセルビア系青年に暗殺されました。
犯人は秘密結社「黒手組」のメンバーで、セルビア民族主義に影響を受けていました。
オーストリア政府はこの事件の背後にセルビア政府が関与していると断定し、ロシアが支援するスラヴ民族運動に対抗する姿勢を強めます。
これがヨーロッパ外交の引き金となり、短期間のうちに連鎖的な宣戦布告が続くことになります。
2. 最後通牒とオーストリアの宣戦布告
オーストリアはセルビアに対して厳しい最後通牒を突きつけ、事実上の内政干渉を要求しました。
セルビアは一部を受け入れましたが、すべてには同意せず。これを口実に、7月28日、オーストリアはセルビアに宣戦布告しました。
これにより、列強の同盟関係が一気に作動します。
ロシアはスラヴ民族を支援するために動員を開始し、ドイツがこれに対抗。
瞬く間にヨーロッパ全体が戦争の渦へと巻き込まれていきました。
3. 連鎖する宣戦布告 ― シュリーフェン計画の発動
ロシアの動員に対し、ドイツは8月1日にロシアへ宣戦布告。
続いて8月3日にはフランスにも宣戦し、「シュリーフェン計画」に基づいて、フランスを早期に打倒する作戦を実行します。
この計画では、フランス正面の要塞を避けて中立国ベルギーを通過する戦略が採られました。
しかし、ベルギーへの侵攻は中立侵害であり、8月4日、イギリスがドイツに宣戦布告。
こうしてヨーロッパの主要国が次々と参戦し、全面戦争となります。
4. 世界戦争への拡大
当初はヨーロッパの地域戦争に見えた第一次世界大戦でしたが、各国が持つ植民地・同盟国が参戦したことで、戦火はアジア・アフリカ・中東にまで拡大しました。
日本は日英同盟を理由に連合国側として参戦し、太平洋のドイツ領を占領。
アメリカも当初は中立を保ちましたが、ドイツの無制限潜水艦作戦をきっかけに参戦し、世界規模の戦争となりました。
入試で狙われるポイント
- サラエヴォ事件の内容と背景
- オーストリアの最後通牒とセルビアの対応
- シュリーフェン計画の意図と中立国侵攻
- 戦争が世界規模へ拡大した要因
- サラエヴォ事件が第一次世界大戦の引き金となった理由を200字程度で説明せよ。
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サラエヴォ事件は、オーストリア皇太子がセルビア系青年に暗殺された事件であり、民族主義の対立を象徴していた。オーストリアはセルビアに最後通牒を突きつけ、これを口実に宣戦布告した。ロシアはスラヴ民族支援のため動員を開始し、ドイツがロシアとフランスに宣戦。さらにベルギー侵攻を理由にイギリスが参戦した。こうして各国の同盟関係が連鎖的に作動し、局地的事件が世界大戦へと発展した。
第6章:ビスマルク体制の崩壊と列強対立の激化 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
サラエヴォ事件が起きたのは西暦何年か。
解答:1914年
問2
暗殺されたオーストリア皇太子の名前を答えよ。
解答:フランツ=フェルディナント
問3
事件の犯人が所属していた秘密結社の名称は何か。
解答:黒手組
問4
サラエヴォ事件に関連してオーストリアが宣戦を布告した国はどこか。
解答:セルビア
問5
オーストリアがセルビアに出した文書を何というか。
解答:最後通牒
問6
ロシアがセルビア支援のため動員を開始した結果、宣戦を布告した国はどこか。
解答:ドイツ
問7
ドイツがフランスへ侵攻する際に採用した作戦名は何か。
解答:シュリーフェン計画
問8
ドイツが侵攻した中立国はどこか。
解答:ベルギー
問9
ドイツのベルギー侵攻を理由に参戦した国はどこか。
解答:イギリス
問10
第一次世界大戦はどの期間に行われたか。
解答:1914〜1918年
正誤問題(5問)
問1
サラエヴォ事件は、オーストリア皇帝が暗殺された事件である。
解答:誤(暗殺されたのは皇太子)
問2
黒手組は、オーストリアの民族主義団体であった。
解答:誤(セルビア系の秘密結社)
問3
シュリーフェン計画では、ベルギーを経由してフランスを攻撃する計画だった。
解答:正
問4
第一次世界大戦は、オーストリアとロシアの二国間戦争として始まった。
解答:誤(連鎖的に多国間戦争に発展)
問5
日本は第一次世界大戦でドイツ側として参戦した。
解答:誤(日英同盟により協商側として参戦)
よくある誤答パターンまとめ
- 「暗殺されたのは皇帝」と誤答。
- 「黒手組=オーストリア組織」と逆に記す。
- 「シュリーフェン計画=ロシア攻撃」と混同。
- 「第一次世界大戦=ヨーロッパ限定」と誤解。
まとめ ビスマルク体制崩壊から第一次世界大戦への道を振り返る
本記事では、ビスマルク体制の崩壊から第一次世界大戦の勃発までの流れを、5つの段階で追ってきました。
ここでは、改めてその因果関係を振り返りましょう。
1. ビスマルク体制の崩壊と外交バランスの崩れ
ビスマルクはフランスを孤立させ、ヨーロッパの平和と勢力均衡を保ってきました。
しかし、1890年の再保障条約破棄によって、ロシアがフランスへ接近。
これが露仏同盟(1894)の成立を招き、ドイツの包囲網形成が始まりました。
2. 帝国主義時代の到来と英独対立
ドイツはヴィルヘルム2世のもとで「世界政策」を推進し、海軍力を拡張。
ティルピッツ艦隊法(1898・1900)により、海上覇権を握るイギリスとの対立が深まりました。
同時に、アジア・アフリカを舞台とする植民地競争が激化し、列強は世界的な利害衝突に巻き込まれていきます。
3. 英仏協商から三国協商へ
イギリスは孤立政策を放棄し、1904年の英仏協商、1907年の英露協商を通じて、フランス・ロシアと協調関係を築きます。
こうして「三国協商」が成立し、ドイツ・オーストリア・イタリアの「三国同盟」と対立する二大陣営構造が完成しました。
4. バルカン半島の火薬庫化
オスマン帝国の衰退によってバルカン半島は不安定化し、スラヴ民族の独立を支援するロシアと、影響力拡大を狙うオーストリアが対立。
ボスニア併合(1908)、バルカン戦争(1912〜13)などが続発し、地域の緊張は頂点に達しました。
5. サラエヴォ事件と大戦の勃発
1914年、オーストリア皇太子暗殺事件をきっかけに、オーストリア・ロシア・ドイツ・フランス・イギリスの宣戦布告が連鎖。
同盟網が一気に作動し、ヨーロッパ全土を巻き込む第一次世界大戦へと突入しました。
因果関係のフローチャート
再保障条約破棄(1890)
↓
露仏同盟(1894) → ドイツ包囲の始まり
↓
世界政策・艦隊法 → 英独対立
↓
英仏協商(1904)・英露協商(1907) → 三国協商完成
↓
ボスニア併合(1908)・バルカン戦争(1912〜13)
↓
サラエヴォ事件(1914) → 第一次世界大戦勃発
総括
ビスマルクの巧みな外交が崩れたことで、ヨーロッパは再び勢力均衡の罠に陥りました。
帝国主義競争・民族運動・軍拡・同盟網の固定化が複雑に絡み合い、「偶発的な事件」が瞬時に世界大戦へと拡大したのです。
この過程を理解することは、単なる暗記ではなく、歴史の構造的理解につながります。
事件の順序だけでなく、「なぜそうなったのか」を意識して学ぶことが、入試でも高得点を取るための鍵となります。
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