19世紀初頭、ウィーン体制のもとでヨーロッパは一時的な安定を取り戻しました。
しかし、その裏側では「民族の自立」と「自由の追求」を掲げる運動が各地で芽生え始めます。その先駆けとなったのが、オスマン帝国の支配下にあったギリシア人たちによる独立運動でした。
ギリシア独立戦争は、単なる一地域の反乱ではなく、ヨーロッパ全体を巻き込む政治・宗教・文化の衝突でもありました。
西欧諸国の「古代ギリシアへの憧れ」や「キリスト教徒救済」の感情が結びつき、列強の介入を招いたのです。
本記事では、この戦争の経過と意義、そしてそれが示したオスマン帝国の衰退の始まりを詳しく解説します。
第1章 ギリシア独立戦争の背景と展開
ギリシア独立戦争(1821〜1829年)は、ウィーン体制下で初めて成功した民族独立運動として知られます。
その背景には、啓蒙思想の影響による民族意識の高揚、オスマン帝国の衰退、そしてヨーロッパ列強の思惑が複雑に絡み合っていました。
この章では、ギリシアがいかにして独立への道を歩み、どのようにして国際的な支援を得たのかをたどります。
1.1 オスマン帝国支配と民族意識の芽生え
ギリシアは15世紀以来、オスマン帝国の支配下にありました。
トルコ系イスラームの支配は、ギリシア正教徒にとって宗教的・文化的な抑圧を意味しました。
しかし、18世紀後半から19世紀初頭にかけて、啓蒙思想やフランス革命の理念がバルカン半島にも広がり、民族意識の覚醒を促します。
特に商業活動を通じて西欧と交流をもったギリシア商人層は、教育・出版を通じて民族文化の復興を推進しました。
彼らは「古代ギリシアの栄光」を再び取り戻すという理念を掲げ、やがて独立運動を組織していきます。
1.2 フィリアキ・エテリアと蜂起の開始
1814年、ロシア帝国のオデッサで設立された秘密結社「フィリアキ・エテリア(友愛協会)」が、ギリシア独立の中心的役割を担いました。
この組織は亡命者・商人・軍人などを結集し、オスマン帝国への反乱を準備します。1821年、モルダヴィア地方で蜂起が始まり、まもなくギリシア本土でも反乱が拡大しました。
しかし、当初の反乱はオスマン帝国の強大な軍事力によって鎮圧され、戦況は劣勢に立たされます。
ここで転機となったのが、ヨーロッパ列強による「介入」でした。
1.3 列強の介入とナヴァリノの海戦
ギリシア独立戦争は、当初はオスマン帝国の内乱にすぎませんでしたが、やがて西欧列強が関与する国際問題へと発展します。
イギリス・フランス・ロシアの三国は、それぞれの思惑からギリシア支援に動きました。
イギリスとフランスは、東地中海の影響力拡大を狙い、ロシアは正教徒の保護を名目に介入します。
1827年、三国連合艦隊はナヴァリノ沖でオスマン=エジプト連合艦隊を撃破し、戦局は決定的にギリシア側へ傾きました。
1.4 ロンドン会議とギリシアの独立承認
ナヴァリノの勝利を受け、列強は外交交渉を進展させます。
1829年のアドリアノープル条約でロシアがオスマン帝国に優位を確立すると、1830年のロンドン会議でギリシアの独立が正式に承認されました。
こうしてギリシア王国が誕生しますが、当初は完全な主権国家ではなく、列強の保護下に置かれた「半独立国家」でした。
それでもこの独立は、ウィーン体制の秩序を初めて揺るがした民族運動の成功例として、後のヨーロッパ諸国に大きな影響を与えました。
1.5 文化的共感とフィルヘレニズム
ギリシア独立戦争は、ヨーロッパ市民にも強い共感を呼びました。
詩人バイロン卿をはじめとする知識人・芸術家たちは、古代ギリシア文化への敬意とキリスト教徒への連帯感から、義勇兵として戦いに参加したり、募金活動を行ったりしました。
この「フィルヘレニズム(ギリシア愛好主義)」は、単なる感情的支援を超えて、近代ヨーロッパにおける「民族自決」や「人道主義」の理念の萌芽を象徴するものでした。
入試で狙われるポイント
- フィリアキ・エテリア(友愛協会)の設立と蜂起の開始(1821年)
- ナヴァリノの海戦(1827年)の結果と意義
- ロンドン会議(1830年)によるギリシア独立承認
- フィルヘレニズムの文化的背景と意義
- 列強介入の動機(イギリス・フランス・ロシアの利害)
第1章: ギリシア独立戦争 一問一答&正誤問題15問 問題演習
- ギリシア独立戦争がウィーン体制に与えた影響を、ヨーロッパ列強の対応と民族運動の観点から200字程度で説明せよ。
-
ギリシア独立戦争は、ウィーン体制下で初めて成功した民族運動であり、「正統主義」と「民族自決」の原理が衝突した事例である。列強は当初、体制維持を優先したが、ロシアの正教徒保護やイギリス・フランスの東地中海政策、さらに市民のフィルヘレニズムの高まりにより介入に転じた。これにより体制の一枚岩は崩れ、後のベルギー独立やイタリア・ドイツ統一運動の先例となった。
第1章: ギリシア独立戦争とオスマン帝国の衰退 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
ギリシア独立戦争の発端となった年はいつか。
解答:1821年
問2
ギリシア独立のために設立された秘密結社の名称は何か。
解答:フィリアキ・エテリア(友愛協会)
問3
ナヴァリノの海戦で連合艦隊を組んだ3国を挙げよ。
解答:イギリス・フランス・ロシア
問4
ナヴァリノの海戦でオスマン=エジプト連合艦隊を撃破した年はいつか。
解答:1827年
問5
ギリシア独立を承認した会議の名称を答えよ。
解答:ロンドン会議
問6
ギリシア独立を正式に認めた条約は何か。
解答:アドリアノープル条約
問7
ギリシア独立運動を支援したイギリスの詩人は誰か。
解答:バイロン
問8
オスマン帝国の支配下でギリシア人が信仰していた宗教は何か。
解答:ギリシア正教
問9
フィルヘレニズムとはどのような思想・運動を指すか。
解答:古代ギリシア文化への憧れとキリスト教徒救済の情熱からギリシア独立を支持した運動
問10
ギリシア独立戦争はウィーン体制におけるどのような原理との対立を示したか。
解答:正統主義と民族自決の対立
正誤問題(5問)
問11
ギリシア独立戦争はオスマン帝国の支援を受けて成功した。
解答:誤り(オスマン帝国からの独立を目指した)
問12
ロシアはカトリック保護を名目にギリシア独立を支援した。
解答:誤り(正教徒保護を名目に介入した)
問13
ナヴァリノの海戦はギリシア独立戦争の決定的勝利となった。
解答:正しい
問14
ロンドン会議でギリシアの独立が承認された。
解答:正しい
問15
ギリシア独立戦争は民族運動としては失敗に終わった。
解答:誤り(成功し、民族自決運動の先駆となった)
- 「フィリアキ・エテリア」を「フィルヘレニズム」と混同する。
- 「ナヴァリノの海戦」の年を1829年と誤記する。
- ロンドン会議とアドリアノープル条約の順序を混同する。
- ギリシア独立をフランス革命期の出来事と誤認する。
第2章 オスマン帝国の衰退と東方問題の始まり
ギリシア独立戦争の勝利は、単に一国の独立にとどまらず、オスマン帝国が「ヨーロッパの病人」と呼ばれる時代の幕開けを告げる出来事でした。
帝国内では民族・宗教の多様性が火種となり、バルカン諸民族の独立運動が次々と勃発します。そして、この地域の不安定化は列強の干渉を招き、「東方問題」として19世紀の国際政治を左右していきました。
この章では、オスマン帝国衰退の要因と、その過程で生じた列強の対立構造を見ていきます。
2.1 多民族国家としての限界
オスマン帝国は、広大な領土と多様な民族・宗教を抱えるイスラーム国家でした。
支配下にはアラブ人、ギリシア人、セルビア人、ブルガリア人、アルメニア人など、多数の民族が共存していましたが、19世紀に入ると各民族の「独立の動き」が活発化します。
特に、啓蒙思想やフランス革命の影響を受けた知識層は、民族の自己決定を求めるようになりました。
ギリシアの独立はその象徴であり、以後セルビア・ルーマニア・ブルガリアなども次々と蜂起していきます。
2.2 軍事的・経済的停滞と近代化の遅れ
オスマン帝国の衰退は、軍事・経済の両面での停滞によって加速しました。
かつてヨーロッパを脅かした常備軍イェニチェリは、次第に保守化し、近代的な軍制改革を拒絶します。結果として帝国は西欧諸国の軍事技術に大きく遅れをとることになりました。
また、産業革命による世界経済の変化にも対応できず、ヨーロッパ列強の経済的従属関係に陥ります。
帝国内では税収が減少し、地方の反乱が頻発するようになりました。
2.3 列強の思惑と「東方問題」
19世紀以降、オスマン帝国の弱体化は「東方問題」と呼ばれる国際政治上の課題となります。
東地中海やバルカン半島をめぐって列強が介入し、オスマン領の分割をめぐる駆け引きが激化しました。
- ロシア:黒海・バルカンへの進出を目指し、正教徒保護を名目に干渉。
- イギリス:スエズ運河・インド航路の安全確保のため、オスマン領の保全を支持。
- フランス:宗教的影響力(カトリック保護)を背景に、地中海世界での地位を確保。
このように、列強は「体制維持」と「勢力拡大」という相反する目的のもと、オスマン問題に深く関与していきます。
2.4 「ヨーロッパの病人」と呼ばれた帝国
19世紀半ば、オスマン帝国は「ヨーロッパの病人」と揶揄されるようになります。これは、ロシア皇帝ニコライ1世が英国首相に宛てて述べた言葉として有名です。
ギリシア独立戦争以降、帝国の弱体化は明白であり、クリミア戦争(1853〜1856年)では列強の支援を受けてようやくロシアの南下を食い止めました。以後も帝国は列強の干渉なしには生存できない「半独立的存在」と化していきます。
2.5 民族運動の拡大と近代化の試み
ギリシアの成功は、他のバルカン諸民族を刺激しました。セルビア・ブルガリア・ルーマニアなどで独立運動が広がり、オスマン帝国は次々と領土を失います。
一方、帝国側も改革の必要性を痛感し、スルタンは「タンジマート(恩恵改革)」と呼ばれる近代化政策を開始しました。行政・軍制・教育の改革を進めましたが、欧化政策は保守派の反発を招き、統一的な近代国家の形成には至りませんでした。
入試で狙われるポイント
- 東方問題の定義と背景(オスマン帝国の衰退と列強の介入)
- ナショナリズムと啓蒙思想の影響
- ロシア・イギリス・フランスの対立構造
- 「ヨーロッパの病人」という表現の由来と文脈
- タンジマート改革の内容と限界
- 19世紀におけるオスマン帝国の衰退が「東方問題」と呼ばれた理由を、列強の関与と民族運動の観点から200字程度で説明せよ。
-
オスマン帝国の衰退は、バルカン半島の民族独立運動を活発化させる一方、列強による勢力争いを引き起こした。ロシアは正教徒保護を掲げて南下を進め、イギリスはインド航路を守るためにオスマンの領土保全を支持した。フランスも宗教的影響力を求めて介入し、帝国の弱体化は国際政治問題化した。このように帝国の衰退が列強間の対立を招いたため、「東方問題」と呼ばれた。
第2章: ギリシア独立戦争とオスマン帝国の衰退 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
オスマン帝国が「ヨーロッパの病人」と呼ばれるようになったのは、どのような文脈においてか。
解答:帝国の衰退と列強依存の進行を指して、ロシア皇帝ニコライ1世が用いた
問2
オスマン帝国内で最初に独立した民族国家はどこか。
解答:ギリシア
問3
オスマン帝国の近代化政策「タンジマート」は何世紀に行われたか。
解答:19世紀
問4
タンジマートの中心となったスルタンの名を挙げよ。
解答:アブデュルメジト1世
問5
オスマン帝国の衰退に関する国際問題を何と呼ぶか。
解答:東方問題
問6
東方問題で南下政策を進めた国はどこか。
解答:ロシア
問7
ロシアがオスマン帝国への介入を正当化するために掲げた名目は何か。
解答:正教徒の保護
問8
イギリスがオスマン帝国を支援した理由は何か。
解答:インド航路・スエズ運河の安全を確保するため
問9
オスマン帝国の軍事停滞の象徴とされる軍団の名称を答えよ。
解答:イェニチェリ
問10
19世紀の産業革命がオスマン経済に与えた影響を述べよ。
解答:列強への経済的従属を深め、帝国の財政を悪化させた
正誤問題(5問)
問11
オスマン帝国は多民族国家であったため、民族運動が発生しなかった。
解答:誤り(多民族ゆえに各地で独立運動が起こった)
問12
イギリスはロシアの南下を警戒してオスマン帝国を支援した。
解答:正しい
問13
タンジマート改革は近代国家形成に成功した代表的事例である。
解答:誤り(保守派の抵抗により限界があった)
問14
「ヨーロッパの病人」という表現はフランス皇帝ナポレオン3世の言葉である。
解答:誤り(ロシア皇帝ニコライ1世の発言)
問15
東方問題はロシア・イギリス・フランスなど列強の対立を激化させた。
解答:正しい
よくある誤答パターンまとめ
- 「東方問題」を単なるバルカン独立運動と混同する。
- 「ヨーロッパの病人」の発言者を誤認(ナポレオン3世など)。
- タンジマートを「成功した改革」と誤解する。
- イギリスの介入目的を「正教徒保護」と誤答する。
まとめ:ギリシア独立戦争とオスマン帝国衰退の流れ
年表で整理する:独立戦争と東方問題の進行
年代 | 出来事 | 意義・ポイント |
---|---|---|
1814年 | フィリアキ・エテリア(友愛協会)設立 | ギリシア独立の準備を進めた秘密結社。民族意識の高揚を象徴。 |
1821年 | ギリシア独立戦争勃発 | オスマン帝国支配への反乱。ウィーン体制の動揺が始まる。 |
1827年 | ナヴァリノの海戦 | イギリス・フランス・ロシアが連合艦隊でオスマンを撃破。列強の介入が決定的に。 |
1829年 | アドリアノープル条約 | ロシアがオスマン帝国に優位を確立。ギリシア独立への道が開かれる。 |
1830年 | ロンドン会議 | ギリシア独立を正式承認。民族運動の成功例として後世に影響。 |
1839年 | タンジマート(恩恵改革)開始 | オスマン帝国の近代化政策。西欧化を進めるが内部矛盾も拡大。 |
1853〜56年 | クリミア戦争 | 東方問題が国際的対立として顕在化。オスマンは列強の支援で延命。 |
1877〜78年 | ロシア=トルコ戦争 | バルカン諸民族の独立が進行。オスマンはさらに領土を失う。 |
1908年 | 青年トルコ革命 | 立憲制の復活を目指す改革運動。帝国の近代化と統一の試み。 |
1912〜13年 | バルカン戦争 | 帝国はヨーロッパ領の大半を喪失し、衰退が決定的となる。 |
フローチャートで理解する:ギリシア独立戦争から東方問題へ
オスマン帝国の広大な支配
↓
民族・宗教の多様性 → 啓蒙思想の波及
↓
ギリシア人が独立運動を開始(1821年)
↓
列強の介入(ナヴァリノ海戦1827年)
↓
ギリシア独立(1830年)
↓
民族運動の拡大(セルビア・ブルガリアなど)
↓
オスマン帝国の弱体化・改革(タンジマート)
↓
列強がオスマン領をめぐって対立
↓
「東方問題」化(ロシア南下 vs 英国の防衛)
↓
クリミア戦争・バルカン戦争など国際紛争へ発展
↓
最終的にオスマン帝国崩壊(第一次世界大戦後)
総まとめポイント
- ギリシア独立戦争は、ウィーン体制の秩序に初めて風穴を開けた民族運動。
- 列強の介入は、「民族自決と勢力均衡の両立の難しさ」を象徴。
- オスマン帝国の衰退は、東方問題として19世紀国際政治の焦点に。
- バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と化し、やがて第一次世界大戦の引き金となる。
このように、ギリシア独立戦争は19世紀ヨーロッパの国際秩序を変える分岐点でした。
ギリシャ独立戦争のまとめ
ギリシア独立戦争は、19世紀初頭のヨーロッパにおける「自由」と「民族自決」の理念を初めて現実化させた出来事でした。それは、ウィーン体制のもとで一時的に安定していたヨーロッパに新たな緊張をもたらし、やがて「民族の世紀」と呼ばれる時代を切り開く契機となります。
一方で、この戦争はオスマン帝国の衰退を世界に印象づけるものでした。帝国の支配下で抑圧されてきた諸民族は次々と独立を求め、列強はそれを利用しながら勢力拡大を図ります。こうして、バルカン半島をめぐる介入と対立が「東方問題」として国際政治の中心に浮上しました。
つまり、ギリシア独立戦争とは単なる地域紛争ではなく、民族運動の出発点であり、列強主導の国際秩序が揺らぎ始めた象徴的事件でもあったのです。以下の年表とフローチャートで、19世紀初頭のヨーロッパ情勢の流れを整理しておきましょう。
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