19世紀のヨーロッパは、「ウィーン体制」のもとで一応の安定を保っていたものの、その均衡はやがて脆くも崩れていきました。その象徴的な出来事がクリミア戦争(1853〜56年)です。
この戦争は単なるロシアとオスマン帝国の紛争にとどまらず、イギリス・フランス・サルデーニャといった列強が介入したことで、国際秩序を大きく揺るがす転換点となりました。
背景には、「東方問題」と呼ばれるオスマン帝国の衰退をめぐる列強の思惑があります。
「ヨーロッパの病人」とまで呼ばれたオスマン帝国の領土をめぐり、ロシアの南下政策と英仏の勢力均衡外交が衝突。結果として、19世紀の国際政治に新たな段階が訪れることになります。
本記事では、クリミア戦争の原因・経過・結果を通じて、ウィーン体制の崩壊と列強関係の再編を丁寧にたどっていきます。
第1章 クリミア戦争の背景と勃発
クリミア戦争は、オスマン帝国の衰退とロシアの南下政策が直接の火種となりました。
しかし、その背後には、ウィーン体制下での「保守的秩序」が崩れつつあるという構造的な変化がありました。ここでは、戦争の発端を政治・宗教・外交の三側面から整理します。
1. 東方問題の局地化 ― オスマン帝国の衰退
18世紀末から衰退の一途をたどっていたオスマン帝国は、19世紀に入ると独立運動や列強の干渉にさらされました。
ギリシア独立戦争(1821〜29)やエジプトのムハンマド=アリーの台頭は、もはや「イスラーム世界の盟主」としてのオスマン帝国の威信を保てなくなったことを示しています。
ロシアはこの空白を突き、黒海から地中海への南下を進めました。とりわけ、コンスタンティノープル(現イスタンブル)と海峡支配は、正教保護を名目にロシアが執拗に狙った地域です。
2. 聖地問題とロシアの正教保護権
直接の引き金は、エルサレム聖地の保護権をめぐる対立でした。
ロシアは正教徒の保護を、フランスはカトリック教会の権益を主張し、双方の宗教的要求がオスマン帝国内で衝突します。
1853年、ロシア皇帝ニコライ1世はオスマン帝国に対し、正教徒の保護権承認を強硬に迫り、拒否されると軍をドナウ公国に進駐させました。
これに対し、イギリスとフランスは、ロシアの南下を「勢力均衡の破壊」とみなして反発。こうして紛争は、単なる地域問題からヨーロッパ列強の戦争へと発展していきます。
3. ウィーン体制の崩壊と列強関係の変化
ウィーン体制期、列強は「正統主義」「勢力均衡」の理念のもとで協調を保ってきました。
しかし、クリミア戦争では、かつて神聖同盟を組んだロシア・オーストリア間の協力関係が崩壊します。オーストリアはロシアに感謝されるどころか中立を選び、両国関係は決定的に悪化しました。
この対立は、のちのイタリア統一戦争・ドイツ統一戦争でロシアがオーストリアを支援しない遠因ともなり、ヨーロッパの勢力図を塗り替える契機となりました。
入試で狙われるポイント
- 東方問題の中心は「オスマン帝国の衰退」と「ロシアの南下政策」
- 聖地保護権争い(正教vsカトリック)が直接の引き金
- ロシアの南下を阻止する英仏の介入
- オーストリアの中立が神聖同盟を瓦解させた
- クリミア戦争はウィーン体制崩壊の象徴的事件
- クリミア戦争がウィーン体制に与えた影響について、列強関係の変化を中心に200字程度で説明せよ。
-
クリミア戦争は、ウィーン体制下の列強協調を根底から崩した。ロシアの南下を阻止するために英仏が介入し、オーストリアは中立を選択した結果、かつての神聖同盟関係は解体された。ロシアは外交的に孤立し、オーストリアもロシアの支援を失い、のちのイタリア統一・ドイツ統一戦争で孤立を深めた。この戦争は、勢力均衡外交から国益優先の外交へと転換する契機となった。
第1章:クリミア戦争 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
クリミア戦争が勃発した年はいつか。
解答:1853年
問2
クリミア戦争の直接の原因となった宗教問題は何か。
解答:聖地エルサレムの保護権争い
問3
クリミア戦争でロシアの南下を阻止した列強を2つ挙げよ。
解答:イギリス、フランス
問4
クリミア戦争でロシアに宣戦したイタリア統一運動の拠点国はどこか。
解答:サルデーニャ王国
問5
戦争の講和条約は何と呼ばれるか。
解答:パリ条約
問6
パリ条約によって中立化された海域はどこか。
解答:黒海
問7
クリミア戦争時のロシア皇帝は誰か。
解答:ニコライ1世
問8
看護制度の近代化に貢献した人物を答えよ。
解答:ナイチンゲール
問9
オーストリアが中立を選んだことで崩壊した同盟を何というか。
解答:神聖同盟
問10
クリミア戦争後、ロシアが進めた国内改革の代表例を1つ挙げよ。
解答:農奴解放令(1861)
正誤問題(5問)
問11
クリミア戦争は、フランスとオスマン帝国がロシアに侵攻して始まった。
解答:誤 → ロシアがオスマン帝国に侵攻して勃発した。
問12
パリ条約では、ロシアの黒海支配権が強化された。
解答:誤 → 黒海は中立化され、ロシアの軍艦は進入禁止となった。
問13
サルデーニャ王国の参戦は、イタリア統一を国際的にアピールする狙いがあった。
解答:正
問14
オーストリアはロシアを支援して参戦した。
解答:誤 → 中立を保ったため、ロシアとの関係を悪化させた。
問15
クリミア戦争は、19世紀ヨーロッパにおける初の近代的戦争といわれる。
解答:正
よくある誤答パターンまとめ
- 聖地問題を「エルサレム奪還戦争」と混同
- パリ条約を「ウィーン議定書」と誤記
- サルデーニャ参戦を見落としがち
- 黒海中立化を「ロシアの海軍強化」と逆に理解
- ウィーン体制の崩壊を「フランス革命の結果」と誤解
第2章 戦争の経過とパリ条約 — ウィーン体制の終焉
クリミア戦争は、黒海沿岸のセヴァストーポリ要塞をめぐる激戦を中心に、約3年にわたり続きました。
しかし、ロシア国内の後進性や補給の困難、さらには国際的孤立が影響し、最終的には敗北を余儀なくされます。
ここでは、戦争の経過と講和内容、さらにその後の国際秩序への影響を整理します。
1. セヴァストーポリ攻防戦と近代戦の幕開け
戦闘の中心となったのは、黒海北岸のセヴァストーポリ要塞でした。ロシア軍はここを死守しようとしたものの、イギリス・フランス・サルデーニャ・オスマン帝国の連合軍に包囲され、激しい攻防が続きました。
この戦争では、鉄道・電信・蒸気船・ライフル銃といった新技術が初めて本格的に使用され、近代戦の先駆けと位置づけられます。
また、戦場の惨状が新聞報道を通じてヨーロッパ全土に伝えられ、世論が外交に影響を与える時代の到来を象徴しました。
さらに、負傷兵の悲惨な状況を目の当たりにしたナイチンゲールが看護活動を展開し、近代看護制度の礎を築いたことも重要です。
2. パリ条約(1856年)の内容
1856年、戦争はパリ条約によって終結します。ここでのポイントは、ロシアの南下政策が大きく制限されたことです。
- 黒海の中立化:黒海における軍艦の航行・軍事施設の建設を禁止。ロシアの南下を封じた。
- オスマン帝国の独立尊重:列強はオスマン帝国の領土保全と主権を承認。
- 航行の自由化:ドナウ川航行の自由を保証。
- モルダヴィア・ワラキアの自治承認:オスマン宗主権下の自治を強化。
この条約によって、ロシアは黒海での軍事的影響力を失い、国際的孤立を深めることになりました。
3. クリミア戦争の国際的影響
ロシアの後進性と改革の始まり
ロシアは、工業化の遅れや社会制度の硬直が敗因の一つであることを痛感しました。
これを受けて即位したアレクサンドル2世は、国内改革を推進します。なかでも代表的なのが農奴解放令(1861)であり、ロシア社会の近代化の第一歩となりました。
オーストリアの孤立化
ロシアを支援せず中立を選んだオーストリアは、戦後ロシアからの信頼を失いました。
のちにイタリア統一戦争(1859)や普墺戦争(1866)でロシアが中立を保ち、オーストリアが敗北する要因となります。
勢力均衡の変質と列強再編
クリミア戦争を機に、ウィーン体制期の「協調と均衡」から、「国益重視の外交」へと転換が進みました。
英仏の協調が一時的に強まる一方、ロシアとオーストリアの対立が顕在化し、結果的にプロイセンやサルデーニャが統一運動を進める余地を生み出しました。
4. 「ヨーロッパの病人」と国際政治
オスマン帝国は戦勝国側に立ったものの、内部の弱体化は進行しており、列強の保護がなければ存続できない状況でした。
このためロシア皇帝ニコライ1世がかつて発した「オスマン帝国はヨーロッパの病人である」という言葉は、19世紀後半の国際政治を象徴する表現として広まりました。
やがてこの「病人」をめぐる争いは、バルカン問題や露土戦争(1877〜78)、さらにベルリン会議(1878)へと続いていきます。
クリミア戦争は、その長い「東方問題」の連鎖の始まりにすぎなかったのです。
入試で狙われるポイント
- パリ条約(1856)で黒海が中立化された
- オスマン帝国の領土保全と独立が国際的に承認された
- ロシアの敗北により、農奴解放令など国内改革が進む
- オーストリアの中立によって神聖同盟が事実上崩壊
- 戦争を通じて近代報道と看護制度が発展
- パリ条約(1856年)の内容とその国際的影響について、200字程度で説明せよ。
-
パリ条約では、黒海が中立化され、ロシアは南下政策を制限された。オスマン帝国の領土保全が国際的に確認され、東方問題は列強全体の関心事項となった。ロシアは敗北により孤立し、国内改革を迫られた。一方、オーストリアは中立によってロシアの信頼を失い、のちの戦争で支援を得られなくなった。これによりウィーン体制期の協調体制は崩壊し、国益優先の外交が進展した。
第2章:クリミア戦争 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
パリ条約が結ばれた年はいつか。
解答:1856年
問2
パリ条約によって中立化された海域はどこか。
解答:黒海
問3
パリ条約によって独立と領土保全が承認された国はどこか。
解答:オスマン帝国
問4
パリ条約で航行の自由が認められた河川は何か。
解答:ドナウ川
問5
パリ条約の結果、ロシアが失った主な政策的目標は何か。
解答:南下政策の推進
問6
クリミア戦争後に即位し、改革を推進したロシア皇帝は誰か。
解答:アレクサンドル2世
問7
ロシアが敗北を契機に発布した代表的な改革法令は何か。
解答:農奴解放令
問8
戦場報道が発達し、世論形成が外交に影響した最初の戦争とされるのは何か。
解答:クリミア戦争
問9
看護制度の確立に貢献したイギリス人女性は誰か。
解答:ナイチンゲール
問10
「ヨーロッパの病人」という表現を最初に用いたとされるのは誰か。
解答:ロシア皇帝ニコライ1世
正誤問題(5問)
問11
パリ条約で黒海の軍事化が進み、ロシアは海軍力を増強した。
解答:誤 → 黒海は中立化され、軍艦の進入は禁止された。
問12
ロシアはクリミア戦争後、農奴制の強化によって国家の安定を図った。
解答:誤 → 農奴制はむしろ廃止され、近代化改革が進められた。
問13
オスマン帝国は戦勝国側として列強の保護を受けた。
解答:正
問14
パリ条約によってウィーン体制下の協調関係は一層強化された。
解答:誤 → 協調関係は崩壊し、勢力均衡体制が終焉した。
問15
「ヨーロッパの病人」という表現は、オスマン帝国の衰退を示す言葉である。
解答:正
よくある誤答パターンまとめ
- 黒海「封鎖」と中立化を混同
- パリ条約を「ウィーン議定書」と誤記
- ドナウ川航行の自由化を見落とす
- アレクサンドル2世の改革を「農業強化政策」と誤解
- 「ヨーロッパの病人」をロシアと勘違い
第3章 東方問題の連鎖とバルカン民族運動の高まり導入文
クリミア戦争によってロシアの南下政策はいったん挫かれたものの、東方問題そのものが解決されたわけではありませんでした。
むしろ、戦後のオスマン帝国の弱体化と民族主義の高揚が相まって、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるほどの緊張地帯へと変貌していきます。
ここでは、クリミア戦争後の東方問題の再燃と、民族運動・列強関係の変化をたどります。
1. オスマン帝国の衰退とタンジマート改革
クリミア戦争の戦勝国であったオスマン帝国は、一見すると国際的地位を保ったかのように見えました。
しかし実際には、軍事・財政両面で疲弊し、国内の民族・宗教対立を抑えられない状況にありました。
そこで政府は、1839年のギュルハネ勅令、1856年の改革勅令などにより、イスラーム法体制を修正し、ヨーロッパ型の行政・司法制度を導入しました。
これがいわゆるタンジマート(恩恵改革)であり、帝国の近代化をめざした試みでした。
しかし、改革は中央政府の権力強化を意図したものであり、結果的には民族自治の要求を抑えることができず、各地で反乱が続発します。
2. バルカン民族主義の台頭
19世紀後半、ギリシア独立に刺激を受けたセルビア・ルーマニア・ブルガリアなどの諸民族が、オスマン支配からの自立を求めて蜂起しました。
この動きの背後には、スラヴ系民族の保護を掲げるロシアの支援がありました。
ロシアはクリミア戦争で失った影響力を回復しようと、再びバルカン方面に進出します。その結果、露土戦争(1877〜78)が勃発し、ロシア軍はコンスタンティノープル近郊まで迫りました。
この戦争の講和であるサン=ステファノ条約(1878)では、ブルガリアが実質的独立を獲得し、ロシアの影響下に入ることが定められました。
しかし、英仏・オーストリアはこれをロシアの南下と見なして強く反発します。
3. ベルリン会議とバルカンの再分割
ヨーロッパの勢力均衡を保つため、1878年にベルリン会議が開催されました。
議長はドイツの宰相ビスマルクであり、彼は「誠実な仲介者」を自称して各国の利害を調整しました。
この会議の結果、ベルリン条約が締結され、サン=ステファノ条約は修正されます。
- ブルガリアの領土縮小・分割(北部のみ自治、南部はオスマン支配下へ)
- セルビア・モンテネグロ・ルーマニアの独立承認
- ボスニア・ヘルツェゴヴィナをオーストリアが占領・統治
これにより、ロシアの影響拡大は阻止されたものの、バルカンの民族問題はむしろ複雑化しました。
特にボスニアのオーストリア支配は、後のサラエヴォ事件(1914)へとつながる火種となります。
4. 東方問題からバルカン問題へ
19世紀中葉の東方問題は、もはや単なる「オスマン帝国の衰退」ではなく、民族自決と列強の勢力争いが交錯する構造的問題へと発展していきました。
ロシアはスラヴ民族を利用し、オーストリアはバルカン進出を進め、英仏は地中海経路を死守するというように、各国の利害が衝突します。
その帰結が、20世紀初頭のバルカン戦争(1912〜13)であり、最終的には第一次世界大戦の導火線となりました。
クリミア戦争は、その長い国際的対立の序章であったといえるでしょう。
入試で狙われるポイント
- オスマン帝国の近代化改革=タンジマート(恩恵改革)
- 露土戦争(1877〜78)とサン=ステファノ条約
- ベルリン会議(1878)とビスマルクの仲介
- ブルガリアの分割・独立国の誕生
- ボスニア占領が第一次世界大戦の遠因となる
- クリミア戦争後の東方問題がどのように展開し、バルカン民族運動や列強関係にどのような影響を与えたか、200字程度で説明せよ。
-
クリミア戦争後、オスマン帝国は改革勅令を発して近代化を試みたが、諸民族の独立要求を抑えられず、バルカンで民族運動が高揚した。ロシアはスラヴ系民族を支援して南下を再開し、露土戦争でブルガリアの自治を実現した。これに対し英・墺は反発し、ベルリン会議でロシアの影響力を削減した。結果としてバルカンは列強の角逐の舞台となり、第一次世界大戦の遠因となった。
第3章:クリミア戦争 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
オスマン帝国が近代化をめざして実施した改革政策を何というか。
解答:タンジマート(恩恵改革)
問2
1856年の改革勅令は何の戦争後に発布されたか。
解答:クリミア戦争
問3
露土戦争(1877〜78年)の講和条約は何か。
解答:サン=ステファノ条約
問4
サン=ステファノ条約で自治国化された国はどこか。
解答:ブルガリア
問5
サン=ステファノ条約を修正した会議は何か。
解答:ベルリン会議
問6
ベルリン会議の議長を務めたドイツ宰相は誰か。
解答:ビスマルク
問7
ベルリン条約で独立を承認されたバルカン諸国を2つ挙げよ。
解答:セルビア、ルーマニア(またはモンテネグロも可)
問8
ベルリン条約でオーストリアが占領統治を認められた地域はどこか。
解答:ボスニア・ヘルツェゴヴィナ
問9
バルカン半島が「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれた理由を簡潔に述べよ。
解答:民族運動と列強の干渉が重なり、紛争が頻発したため
問10
バルカン問題が第一次世界大戦に直結する契機となった事件は何か。
解答:サラエヴォ事件
正誤問題(5問)
問11
タンジマートはイスラーム教法を強化し、キリスト教徒の権利を制限した改革である。
解答:誤 → イスラーム法を緩和し、キリスト教徒にも平等権を認めた。
問12
露土戦争では、オスマン帝国がロシアに勝利した。
解答:誤 → ロシアが勝利し、ブルガリアの自治が認められた。
問13
ベルリン会議は、ロシアの南下政策を抑える目的で開かれた。
解答:正
問14
ベルリン条約でブルガリアは完全独立国となった。
解答:誤 → 北部自治・南部オスマン支配とされた。
問15
ボスニア・ヘルツェゴヴィナを占領したのはロシアである。
解答:誤 → オーストリアが占領した。
よくある誤答パターンまとめ
- タンジマートを「イスラーム強化」と誤解
- サン=ステファノ条約とベルリン条約の順序を逆に覚える
- ベルリン会議の議長をビスマルク以外と混同
- ブルガリア完全独立と誤記
- ボスニア支配をロシアと誤認
次章では、東方問題の終着点としての第一次世界大戦とのつながりを総括し、19世紀国際秩序の崩壊過程を総合的に見ていきます。
第4章 第一次世界大戦への道 ― 東方問題の帰結
クリミア戦争にはじまった東方問題の連鎖は、19世紀後半のベルリン会議を経て、ついに20世紀初頭のバルカン戦争、そして第一次世界大戦へとつながります。
オスマン帝国の衰退は止まらず、列強はバルカンを舞台に激しく勢力を争いました。
この章では、東方問題がどのように大戦の導火線へと変化していったのかを、外交関係と民族主義の観点から整理します。
1. バルカン戦争と列強の対立激化
19世紀末になると、ロシアはバルカン方面での影響力回復を目指し、スラヴ民族の保護を掲げて再び南下政策を強化します。
これに対し、オーストリア=ハンガリー帝国はバルカン進出を進め、両国の対立は決定的なものとなりました。
1912年には、オスマン帝国の残存領を分割しようとする第一次バルカン戦争が勃発し、セルビア・ブルガリア・ギリシア・モンテネグロが「バルカン同盟」を結成してオスマン帝国を攻撃しました。
戦争の結果、オスマン帝国はヨーロッパ領の大半を失います。
しかし、戦後の領土分配をめぐってブルガリアとセルビア・ギリシアが対立し、第二次バルカン戦争(1913)が発生。
ブルガリアが敗北したことで、列強がバルカン諸国にさらに介入する余地が生まれました。
2. サラエヴォ事件とヨーロッパ外交の連鎖
1914年6月、オーストリア皇太子フランツ=フェルディナント夫妻が、サラエヴォでセルビア系青年ガヴリロ=プリンツィプによって暗殺されました。
これは、オーストリアによるボスニア併合(1908)への反発が背景にありました。
オーストリアはセルビア政府の関与を疑い、ドイツの「無制限の支持(空手形外交)」を得て宣戦を布告。
これに対し、ロシアがスラヴ民族擁護の立場からセルビアを支援し、連鎖的に英仏も参戦。
こうして、東方問題の延長線上で発生した地域紛争は、第一次世界大戦(1914〜18)という世界規模の戦争へと発展しました。
3. 東方問題の終焉とオスマン帝国の崩壊
第一次世界大戦の結果、オスマン帝国は敗戦国側に立ち、戦後のセーヴル条約(1920)によって領土の大半を失いました。
さらに、トルコ革命(ムスタファ=ケマルによるトルコ共和国の樹立)により、イスラーム王朝としてのオスマン帝国は滅亡します。
つまり、18世紀以来の「オスマン帝国の衰退」をめぐる東方問題は、ついに国家そのものの消滅という形で終結したのです。
4. 東方問題の歴史的意義
東方問題は、19世紀ヨーロッパの国際秩序を映し出す鏡でした。
当初はウィーン体制のもとでの勢力均衡問題として存在しましたが、次第に民族自決・列強の利害・宗教問題が複雑に絡み合い、国際政治の火薬庫と化しました。
最終的には、バルカン地域をめぐる争いがヨーロッパ全体を巻き込み、世界大戦へとつながりました。
この過程を通じて、「一国の問題が全ヨーロッパに波及する」構造が形成され、国際政治の連鎖反応という近代的特徴が顕在化したのです。
入試で狙われるポイント
- 第一次バルカン戦争(1912)と第二次バルカン戦争(1913)の区別
- サラエヴォ事件と第一次世界大戦の発端
- ボスニア併合(1908)によるセルビアとの対立
- 東方問題の終結=オスマン帝国の滅亡
- 国際政治における地域紛争の連鎖構造
- 東方問題が最終的に第一次世界大戦へとつながった経緯を、バルカン半島を中心に200字程度で説明せよ。
-
19世紀後半、オスマン帝国の衰退によってバルカン諸国の民族運動が高揚し、ロシアとオーストリアが介入した。ベルリン会議後も緊張は続き、ボスニア併合やバルカン戦争によって両国の対立が深まった。1914年のサラエヴォ事件を契機に、オーストリアはセルビアへ宣戦し、ロシアが支援、さらに英仏独が参戦した。こうして東方問題は地域紛争から世界戦争へと転化し、ウィーン体制以来の国際秩序は崩壊した。
第4章:クリミア戦争 一問一答&正誤問題15問 問題演習
一問一答(10問)
問1
第一次バルカン戦争が勃発した年はいつか。
解答:1912年
問2
第一次バルカン戦争で結成された同盟を何というか。
解答:バルカン同盟
問3
第二次バルカン戦争は何をめぐって起こったか。
解答:領土分配問題(ブルガリアとセルビア・ギリシアの対立)
問4
1908年、ボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合した国はどこか。
解答:オーストリア=ハンガリー帝国
問5
サラエヴォ事件で暗殺された人物は誰か。
解答:オーストリア皇太子フランツ=フェルディナント
問6
サラエヴォ事件の実行犯の民族的背景を答えよ。
解答:セルビア系青年(汎スラヴ主義者)
問7
サラエヴォ事件を契機に勃発した戦争は何か。
解答:第一次世界大戦
問8
第一次世界大戦でオスマン帝国はどちら側に参戦したか。
解答:同盟国側(ドイツ・オーストリア側)
問9
第一次世界大戦後、オスマン帝国はどの条約で領土を失ったか。
解答:セーヴル条約
問10
オスマン帝国崩壊後、トルコ共和国を建国した人物は誰か。
解答:ムスタファ=ケマル
正誤問題(5問)
問11
第一次バルカン戦争は、オスマン帝国がバルカン同盟を攻撃して始まった。
解答:誤 → バルカン同盟がオスマン帝国を攻撃して始まった。
問12
ボスニア併合はセルビアの民族運動を刺激し、サラエヴォ事件の遠因となった。
解答:正
問13
サラエヴォ事件は、ロシア皇太子の暗殺事件である。
解答:誤 → オーストリア皇太子フランツ=フェルディナントの暗殺。
問14
セーヴル条約ではオスマン帝国の領土が拡大された。
解答:誤 → 領土は大幅に削減され、国家は事実上崩壊した。
問15
トルコ共和国の建国により、オスマン帝国は正式に消滅した。
解答:正
よくある誤答パターンまとめ
- バルカン戦争の順序を逆に覚える
- サラエヴォ事件を「第一次世界大戦の終結原因」と誤解
- ボスニア併合をロシアの行動と混同
- セーヴル条約とローザンヌ条約の混同
- ムスタファ=ケマルの役割を「軍事クーデター」と誤認
まとめ:クリミア戦争から第一次世界大戦へ
- クリミア戦争:ウィーン体制の崩壊
- ベルリン会議:バルカン秩序の再編
- バルカン戦争:民族主義と列強対立の爆発
- 第一次世界大戦:東方問題の最終帰結
この一連の流れを理解することで、19〜20世紀の国際政治のダイナミズムを体系的に把握できます。
年表まとめ
年代 | 出来事 | 意義 |
---|---|---|
1853〜56 | クリミア戦争 | ウィーン体制の崩壊 |
1856 | パリ条約 | 黒海中立化、ロシア孤立 |
1877〜78 | 露土戦争 | サン=ステファノ条約 |
1878 | ベルリン会議 | バルカン再分割 |
1908 | ボスニア併合 | バルカン緊張激化 |
1912〜13 | バルカン戦争 | 民族衝突の激化 |
1914 | サラエヴォ事件 | 第一次世界大戦勃発 |
1920 | セーヴル条約 | オスマン帝国の崩壊 |
フローチャート:東方問題の展開
オスマン帝国の衰退
↓
東方問題(ロシア南下政策)
↓
クリミア戦争(1853〜56)
↓
ベルリン会議(1878)
↓
バルカン民族運動の高揚
↓
バルカン戦争(1912〜13)
↓
サラエヴォ事件(1914)
↓
第一次世界大戦勃発
↓
オスマン帝国崩壊(1920)
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