教皇権の盛衰 ― カールの戴冠から宗教改革前夜までの精神的権威の軌跡

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教皇権の盛衰は、ヨーロッパ中世史の中でも最も重要なテーマの一つであり、大学入試でも頻出の分野です。

王権との主導権争いや、封建制度と並行して進んだ社会構造の変化を理解することは、中世ヨーロッパの「信仰と権力」の関係を読み解くうえで欠かせません。

封建社会が土地と忠誠によって成り立っていたように、中世の教会もまた「信仰と秩序」を結びつける装置として機能していました。

農業技術の普及や慈善活動、写本による知識の保存を通じて、教会は人々の生活に深く根づき、やがて「神の秩序」が社会秩序そのものを意味するようになります。

その中心に立ったローマ教皇は、やがて精神的指導者を超えて、ヨーロッパ全体を統べる政治的・象徴的存在となりました。

この転換を決定づけたのが、800年のカールの戴冠です。

ローマ教皇レオ3世がフランク王カールに皇帝の冠を授けたことで、「教皇が皇帝を立てる」という構図が誕生し、以後のヨーロッパ史を貫く政教関係の原型が生まれました。

その後、叙任権闘争やカノッサの屈辱を経て教皇権は絶頂期を迎えますが、十字軍の失敗、王権国家の形成、そしてアヴィニョン捕囚やルネサンス期の世俗化によって次第に衰退していきます。

こうした流れは、単なる宗教の浮沈ではなく、ヨーロッパ社会の価値観そのものの変容を映し出しています。

中世ヨーロッパにおける教皇権の盛衰をたどることは、「信仰の秩序」がどのようにして「政治の秩序」へと移り変わっていったかを理解する鍵となります。

本記事では、カールの戴冠から宗教改革前夜まで、約700年にわたる教皇権の形成・絶頂・転換・衰退の過程を、修道院運動・十字軍・王権国家・ルネサンスなどの動きとともにたどります。

目次

序章:教皇権の盛衰チャート ― カールの戴冠から宗教改革前夜まで

中世ヨーロッパにおいて、教皇は単なる宗教指導者ではなく、「神の秩序」を代弁する権威でした。

しかしその力は、社会の変化とともに形を変え、やがて“精神的支配”から“世俗化”へと移り変わっていきます。

以下のチャートでは、カールの戴冠(800年)から宗教改革前夜(16世紀)までの教皇権の形成・絶頂・転換・衰退の流れをまとめています。

【Ⅰ.形成期(カールの戴冠〜11世紀)】

〈背景〉
西ローマ帝国滅亡後、ヨーロッパは政治的空白期に入る。

教会は農業技術・救済活動・写本文化を通じて、民衆から信頼を獲得。
修道院(特にベネディクト派・シトー派)が文化と信仰の中心となる。

8世紀後半、ローマ教皇はフランク王国と結びつき、保護を得る。
(ピピンの寄進 → 教皇領の成立)

800年、カールの戴冠により、「教皇が皇帝を戴冠する」構図が成立。
教皇が“神の代理人”としての地位を確立。

11世紀、教会改革(クリュニー修道院運動・グレゴリウス改革)が進展。
聖職売買(シモニア)や聖職者の妻帯を禁止し、教会の純化を図る。

この過程で「叙任権」をめぐり皇帝と衝突し、叙任権闘争が勃発。
(グレゴリウス7世 vs ハインリヒ4世 → カノッサの屈辱)

【Ⅱ.絶頂期(11〜13世紀:十字軍の時代)】

〈展開〉
叙任権闘争で勝利した教皇は、皇帝を上回る権威を獲得。

1095年、ウルバヌス2世が十字軍を提唱。
“信仰の名の下に”ヨーロッパの諸王・諸侯を動員することに成功。

以後、教皇は「キリスト教世界の統合者」として政治・軍事にも介入。
(例:教皇の仲裁による国際紛争の調停)

13世紀初頭、インノケンティウス3世の時代に教皇権は頂点へ。
皇帝・王・諸侯をも裁く“普遍王国”を実現。

教会裁判・異端審問・大学設立などを通じて、教会が知的・精神的支配を強化。

【Ⅲ.転換期(13〜14世紀:十字軍の失敗後)】

〈展開〉
十字軍の長期化・失敗により、教皇権の威信が低下。

一方、ヨーロッパ各地で国王が力を増す。
封建諸侯を統合し、中央集権国家(フランス・イギリスなど)が成立。

1296年、フランス王フィリップ4世と教皇ボニファティウス8世が対立。
→ 教皇が捕らえられる「アナーニ事件」。

その後、フランス王により教皇庁がアヴィニョンへ移転(アヴィニョン捕囚)。
教皇が国家の支配下に置かれる。

さらに、1378年にはローマとアヴィニョンに二人の教皇が並立(教会大分裂/シスマ)。
ヨーロッパの宗教的統一は崩壊。

【Ⅳ.衰退・終焉期(15〜16世紀:ルネサンス〜宗教改革前夜)】

〈展開〉
教皇権は政治的独立を失い、信仰よりも政治・芸術に傾斜。

ルネサンス期の教皇(ユリウス2世・レオ10世など)は、
ローマ再建・芸術保護(ミケランジェロ・ラファエロ)に力を注ぐ。

一方で、教皇庁の贅沢と免罪符販売などが信徒の不信を招く。

ルネサンス人文主義が「理性」と「個人」を尊重する思想を広め、
信仰の個人化が進行。

やがてルターの宗教改革(1517年)へとつながり、中世的教皇支配は完全に終焉を迎える。

教皇権の盛衰は、単なる宗教史ではなく、「信仰・社会・文化・政治の総合現象」として理解する必要があります。

修道院の勤労・教育・慈善活動が人々の信頼を支え、それが中世社会の秩序形成につながった一方で、十字軍・王権国家・ルネサンスといった潮流が、教皇権を普遍的権威から一国家的存在へと押し戻していきました。

第1章:教皇権の形成 ― 修道院と信頼の秩序(カール戴冠まで)

西ローマ帝国の滅亡後、ヨーロッパは長く政治的混乱に包まれました。

その中で、農業や教育、救済活動を担った教会と修道院は、信仰と勤労によって社会を支える中心的存在となります。

こうして教会は人々の信頼を集め、やがて王権に代わる秩序の象徴へとなりました。

フランク王国との結びつきによって政治的地位を得た教皇は、800年のカール戴冠を通じて「神の代理人」としての権威を確立していきました。

1. 教会と修道院の役割 ― 社会の再生装置

ローマ帝国崩壊後の混乱したヨーロッパで、修道院は「祈り」と「労働」を結びつける共同体として、文明の火を絶やさなかった。

ベネディクト派修道士たちは、開墾・農耕・医療・教育に携わり、「信仰に根ざした社会的実践」を広めていきました。

特にシトー派は、質素と勤勉を重んじる生活を通じて労働の価値を高め、農業技術の革新(例:水車の導入・排水技術)によって地域経済を再生させました。

修道院の経済活動は単なる生産ではなく、神への奉仕そのものとみなされ、やがて人々の尊敬と信頼を集めることになります。

2. 教皇とフランク王国 ― 信仰と政治の同盟

西ローマ帝国の崩壊後、教皇は自らを守る政治的後ろ盾を必要としていました。

一方、フランク王国の王たちは、ローマの宗教的権威を自らの統治に利用しようと考えます。

この利害の一致から、教会と王権の同盟が始まりました。

ピピンの寄進によって成立した教皇領は、「神の国」としてのローマ教会を現実政治の舞台に押し上げました。

このとき教会は単なる精神的支柱を超え、土地を所有する政治勢力となります。

さらに、カール大帝の時代には、教会と帝権が完全に融合します。

カールは異教徒を征服し、キリスト教を広め、帝国の統一を信仰で支えました。

その功績に報いる形で、800年にレオ3世が彼に皇帝の冠を授け、「ローマ帝国の復活」が宣言されます。

3. 教皇権の理念の確立 ― 神の代理人としての自覚

カールの戴冠は、「皇帝が神から権力を与えられる」のではなく、「教皇を通じて神の権威を授かる」という思想を確立しました。

この発想は、後の叙任権闘争の理論的土台となり、教皇が皇帝の上に立つ可能性を生み出します。

11世紀のグレゴリウス改革では、教会の浄化運動(聖職売買の禁止・聖職者の独身制・叙任権の教皇専属化)が進み、
「神の代理人としての教皇」という理念が制度的に形づくられました。

この改革の延長線上に、カノッサの屈辱やヴォルムス協約といった事件が生まれていきます。

入試で狙われるポイント

  • ピピンの寄進によって「教皇領」が成立し、教会が土地を持つ政治勢力となったこと。
  • カールの戴冠が「教皇が皇帝を立てる」という思想を確立したこと。
  • 修道院の活動が信頼と秩序の基盤を築いたこと。
  • グレゴリウス改革が教皇権の理念的頂点の準備段階となったこと。

第2章:叙任権闘争とカノッサの屈辱 ― 教皇権が皇帝を屈服させた瞬間

11世紀、教皇は「神の代理人」としての理念を確立した一方で、その権威を現実の政治にまで及ぼそうとしました。

聖職者の任命(叙任)をめぐる皇帝との対立は、やがて中世ヨーロッパ全体を揺るがす大事件へと発展します。

それが、教皇グレゴリウス7世と皇帝ハインリヒ4世による叙任権闘争でした。

1. 背景 ― 教会改革と教皇権の強化

10世紀末から11世紀にかけて、教会内部では腐敗が進み、聖職売買(シモニア)や聖職者の妻帯が問題視されていました。

これを正すために始まったのがグレゴリウス改革です。

クリュニー修道院運動の精神を受け継ぎ、教会の純化と独立を目指すこの改革は、やがて教皇が「王や皇帝の上に立つ存在」であるという思想を生み出しました。

2. 叙任権闘争 ― 皇帝と教皇の真っ向対立

当時、司教や修道院長の任命権(叙任権)は、教会の職に伴う土地(封土)をも支配する力を意味しました。

つまり、それを握る者が実質的に政治支配の主導権を握るのです。

グレゴリウス7世は1075年、「教皇勅令(ディクタトゥス・パパエ)」で「教皇は皇帝を廃位できる」と宣言し、王権に明確な挑戦を突きつけました。

これに激怒したハインリヒ4世が教皇を破門すると、両者の対立はヨーロッパ全土を巻き込む政教戦争へと発展します。

3. カノッサの屈辱 ― 精神が権力を打ち負かす瞬間

1077年、雪のカノッサ城前。

破門によって孤立したハインリヒ4世は、教皇の許しを得るために裸足で3日間雪上に立ち尽くしました。

このカノッサの屈辱は、教皇が皇帝に勝利した象徴的事件として知られ、「神の代理人」が「王の上に立つ」思想を現実の政治に示しました。

4. ヴォルムス協約 ― 政教の住み分けへ

しかし、教皇の完全勝利が永続したわけではありません。

皇帝はその後も勢力を回復し、長期の対立の末、1122年にヴォルムス協約が結ばれます。

ここでは、宗教的権威(聖職授与)は教皇、世俗的権威(封土授与)は皇帝が担うという折衷案が採用され、ヨーロッパ社会は「教会と国家の二重構造」に落ち着きました。

この協約は、両者の権限を明確に分ける最初の試みであり、後の政教分離の原型ともいえる重要な転換点でした。

入試で狙われるポイント

  • グレゴリウス改革が教会の浄化と独立を目指した運動であること。
  • 叙任権闘争は、宗教的問題にとどまらず「政治支配権」をめぐる争いであったこと。
  • カノッサの屈辱が教皇権の絶頂を象徴する事件であること。
  • ヴォルムス協約によって「政教の住み分け」が制度化されたこと。

第3章:十字軍とインノケンティウス3世 ― 教皇権の絶頂と普遍支配

叙任権闘争を経て、教皇は精神的にも政治的にもヨーロッパの頂点に立ちました。

その力を背景に、教皇は「信仰による世界統一」を目指します。

それが、キリスト教世界を一つに結集させた十字軍運動と、教皇インノケンティウス3世による「普遍王国(ユニウム・クリスティアヌム)」の構想でした。

1. 十字軍の提唱 ― 信仰が政治を動かした瞬間

1095年、クレルモン教会会議でウルバヌス2世が十字軍の派遣を呼びかけました。

目的は、イスラーム勢力から聖地エルサレムを奪還すること。

しかしその背後には、信仰によるヨーロッパ統合という大きな狙いがありました。

当時のヨーロッパは封建的に分裂し、各地の王や諸侯が抗争を続けていました。

教皇はその混乱を「共通の敵=異教徒」に向けさせることで、キリスト教世界の一体化を実現しようとしたのです。

十字軍の提唱は宗教的使命と同時に、教皇権が軍事・外交・経済を動かす実質的な政治的統合の力を示すものでした。

2. 十字軍の広がりと影響 ― 信仰から現実へ

第1回十字軍(1096〜99)はエルサレム奪還に成功し、教皇の権威はヨーロッパ全土に広まりました。

各地の諸侯や騎士は「神の軍」として戦い、戦争が信仰行為と結びつくという新しい価値観が生まれます。

しかし、第2回以降の十字軍は次第に失敗を重ね、「聖地奪還の理想」と「現実の利害」が乖離していきました。

遠征は莫大な資金と犠牲を伴い、商人や都市国家(ヴェネツィア・ジェノヴァなど)が経済的利益を得る一方で、
宗教的意義は薄れていきます。

それでも十字軍がもたらした影響は計り知れません。

イスラーム圏との接触により、古代ギリシアの学問や東方の技術がヨーロッパにもたらされ、後のスコラ学やルネサンスの発展へとつながりました。

3. インノケンティウス3世の時代 ― 教皇権の頂点

13世紀初頭、教皇インノケンティウス3世のもとで教皇権は絶頂を迎えます。

彼は教会改革と十字軍運動を積極的に進め、皇帝オットー4世を破門し、フランス王フィリップ2世を調停するなど、
ヨーロッパの裁定者としての教皇像を確立しました。

さらに、第四ラテラノ公会議(1215年)を開催し、信仰生活・教育・婚姻・異端審問など社会全体に関わる制度を整備しました。

「信仰を中心にした普遍的秩序」を具体的な形に制度化しました。

この時代、教皇はまさに「世界を導く存在」として機能し、

ヨーロッパの王たちを従える普遍王国の頂点に立っていました。

4. 普遍王国の限界 ― 十字軍の失敗と教皇権の変質

しかし、栄光の頂点にはすでに陰りが見えていました。

十字軍国家は長続きせず、内部の対立や商業都市の台頭によって、「信仰による統一」は徐々に現実性を失っていきます。

特に第4回十字軍(1202〜04)が、本来の目的を離れてコンスタンティノープルを略奪したことで、キリスト教世界の理想は決定的に損なわれました。

その後、イスラーム勢力が再び聖地を支配し、教皇の呼びかけに応じる熱意も薄れていきます。

この頃から、信仰の力で支えられた教皇権は、政治的現実の中でその純粋性を失い始めていきました。

入試で狙われるポイント

  • 十字軍の提唱が「宗教統一」と「政治統合」の両面を持つこと。
  • 第1回十字軍の成功が教皇権の絶頂を象徴したこと。
  • インノケンティウス3世が教皇権を制度的に頂点へ導いたこと。
  • 第4回十字軍以降、信仰の理想と現実が乖離し、教皇権が変質したこと。

第4章:教皇権の衰退 ― 十字軍の失敗と封建社会の変容

十字軍の理想が崩れ始めた13世紀後半、ヨーロッパ社会そのものも大きな転換点を迎えていました。

商業の発展と貨幣経済の浸透により、人々の生活も価値観も「信仰」から「現実」へと移り始めます。

この変化は、封建制度の揺らぎと歩調を合わせて、教皇権の支配構造を根底から動かしていきました。

1. 十字軍の挫折と教皇の威信低下

第4回十字軍以降、聖地奪還の試みは相次いで失敗に終わりました。

戦争は信仰の使命から商業的・政治的利害に変わり、「神の軍」だったはずの十字軍は、次第に「利権の軍」へと変質します。

教皇が掲げた「普遍王国」の理想は失われ、信徒の心からも、かつての絶対的な信頼が薄れていきました。

こうしてヨーロッパの宗教的中心だったローマ教皇庁は、政治的現実の中で徐々に孤立し、やがて王権国家の勢力に押されるようになります。

2. 王権国家の台頭 ― 教皇を凌ぐ新たな統一権力

13〜14世紀には、イギリスやフランスを中心に「国民」意識の芽生えとともに王権の集中が進みました。

とくにフランス王フィリップ4世は、教皇ボニファティウス8世と真っ向から対立します。

1296年の聖職者課税問題をきっかけに両者は衝突し、ついに1303年、教皇が捕らえられる「アナーニ事件」が発生。

この事件は、王権が教皇権に勝利した象徴として歴史に刻まれました。

翌年、教皇庁はフランス王の意向に従いアヴィニョンへ移転(アヴィニョン捕囚)。

この間、教皇は事実上フランス王の支配下に置かれ、「神の代理人」は国家の道具へと転落していきます。

3. 封建制度の崩壊と社会構造の変化

同じ時期、ヨーロッパでは経済と社会の構造が大きく変わっていました。

十字軍を契機に商業や貨幣経済が発展し、荘園に縛られていた農民たちは都市へ移動し始めます。

この流れは、封建的な身分秩序と相互関係を揺るがし、領主の支配力を弱め、王権の集中を後押ししました。

つまり、教皇権の衰退と封建制度の崩壊は同じ地殻変動の上にあったのです。

4. 教会大分裂(シスマ)と信仰の混乱

さらに追い打ちをかけたのが、1378年に始まる教会大分裂(シスマ)です。

ローマとアヴィニョンに二人の教皇が並立し、ヨーロッパ各国がそれぞれの教皇を支持して対立しました。

「神の代理人」が二人存在するという矛盾は、教会の威信を決定的に失墜させ、信徒たちの信仰を深く揺さぶりました。

この混乱の中で、ウィクリフやフスなど宗教改革の先駆者が現れ、「真の信仰とは何か」という問いが広がっていきます。

教皇の権威に代わり、個人の内面的信仰が重視される時代の幕開けでした。

5. ルネサンスと教皇の世俗化 ― 終焉への道

15世紀以降、ルネサンスの到来によって教会はさらに変質しました。

ユリウス2世やレオ10世らルネサンス教皇は、芸術と政治を愛し、ローマを文化と権力の中心に作り変えました。

しかしその華やかさの裏で、免罪符の販売や贅沢な生活が信徒の反発を招き、やがてルターの宗教改革(1517年)へとつながっていきます。

この瞬間、中世的教皇権は完全に終焉を迎えました。

それは単なる宗教の衰退ではなく、「信仰の秩序」から「理性と個人の秩序」への時代の移行を意味します。

入試で狙われるポイント

  • アナーニ事件・アヴィニョン捕囚による教皇権の実質的没落。
  • 十字軍以後の商業・貨幣経済の発展と封建社会の崩壊の連動。
  • 教会大分裂(シスマ)がもたらした信仰の混乱と宗教改革の前兆。
  • ルネサンス期の教皇の世俗化が中世教皇制の終焉を象徴すること。

第5章:信仰から理性へ ― 教皇権の盛衰が示すヨーロッパ中世の終焉

カールの戴冠から約700年、教皇は「神の代理人」としてヨーロッパの精神的秩序を支えてきました。

しかしルネサンスと宗教改革を経て、その秩序はついに人間中心の新しい時代へと移り変わります。

教皇権の盛衰は、ヨーロッパ中世そのものの誕生と終焉の軌跡でした。

1. 封建社会から国家へ ― 統一権力の再生

教皇権の衰退は、同時に封建社会の崩壊と軌を一にしていました。

土地を介した主従関係が力を失い、貨幣経済と都市の発展によって、ヨーロッパは次第に中央集権的な国家へと変化していきます。

こうして、かつて信仰と忠誠によって結ばれていた社会は、国王と国民の契約による政治的共同体へと姿を変えました。

中世的秩序の「精神的中心=教会」は、「政治的中心=国家」へとその役割を譲ることになります。

【関連記事】
教皇権の衰退と封建制度の終焉は、まさに車の両輪のような関係にあります。
詳しくは、以下の記事をご参照ください。
封建制度とは何か ― ヨーロッパ中世を動かした「土地と忠誠」の契約社会

2. ルネサンスと人文主義 ― 「神の秩序」から「人間の秩序」へ

15世紀、ルネサンスは「神を中心とする世界観」を根底から揺さぶりました。

人文主義(ヒューマニズム)は、人間の理性と自由を重んじ、信仰よりも知と感性による真理探究を尊びました。

教皇庁もこの潮流に飲み込まれ、ユリウス2世やレオ10世らルネサンス教皇は、政治・芸術・文化の守護者としてローマを再建します。

だがその世俗化こそが、教会の精神的正統性を損ない、やがて信仰の純粋性を求める新たな運動を生み出すことになります。

3. 宗教改革 ― 「個人の信仰」が中世を終わらせた

1517年、ルターが95か条の論題を掲げ、免罪符の販売を批判したことから宗教改革が始まりました。

この運動は、信仰の中心を教会から個人へ戻す試みであり、同時に「神の国」を仲介する権威そのものを問い直すものでした。

中世を通じて築かれた教皇権の体系はここで崩壊し、キリスト教世界はカトリックとプロテスタントに分裂します。

しかし、この分裂こそが、近代ヨーロッパの多様な精神的基盤を生み出しました。

4. 教皇権の盛衰が残したもの ― 「秩序の連鎖」の終焉と再生

教皇権の歴史は、単なる権力の興亡ではなく、ヨーロッパ文明が「何によって秩序を保つか」を問い続けた記録です。

🔹時代ごとの「秩序」の軸を整理すると

段階主な時代中心的価値・秩序の源泉代表的出来事・制度
① 信仰による秩序中世(〜15世紀)神・教会・信仰教皇権・スコラ学・十字軍
② 理性による秩序近世(16〜18世紀)理性・自然法・啓蒙思想ルネサンス・宗教改革・啓蒙専制
③ 法と国民による秩序近代(18世紀末〜)法・主権・国民国家フランス革命・ナポレオン法典・国民国家の形成

この変化の原点に、教皇と皇帝の対立、そして信仰と現実のせめぎ合いがありました。

中世の終焉とは、「神の秩序」が崩れ、「人間の秩序」が誕生することだったのです。

入試で狙われるポイント

  • 教皇権の盛衰は中世社会の構造変化(封建制崩壊・王権国家形成)と並行して進行したこと。
  • ルネサンスによる人文主義の台頭が教皇の世俗化を加速させたこと。
  • 宗教改革が中世的教皇権の終焉を決定づけ、近代の精神的転換を象徴したこと。

結び

教皇権の盛衰は、ヨーロッパ史における「精神の変遷」を映す鏡です。

信仰によって世界を秩序づけようとした千年の試みは、やがて人間の理性と自由の時代に道を譲りました。

しかしその遺産―「権威を超えて秩序を求める精神」は、現代にも静かに受け継がれています。

【参考】教皇権の盛衰と中世ヨーロッパの流れ(年表まとめ)

年代出来事教皇権・社会の動き
476西ローマ帝国滅亡政治的空白、教会が秩序の中心へ
756ピピンの寄進教皇領成立、教会が政治勢力化
800カールの戴冠教皇が皇帝を立てる構図誕生
910クリュニー修道院創設教会改革・修道院運動の始まり
1059教皇選挙令教皇が皇帝から独立する体制を確立
1075教皇勅令(ディクタトゥス・パパエ)教皇の至上権を宣言
1077カノッサの屈辱教皇が皇帝に勝利、権威の頂点へ
1095第1回十字軍の提唱教皇がヨーロッパ統合の中心に
1215第四ラテラノ公会議インノケンティウス3世期、制度的頂点
1296聖職者課税問題王権と教皇権の対立再燃
1303アナーニ事件教皇がフランス王に屈服
1309〜77アヴィニョン捕囚教皇が国家支配下に置かれる
1378〜1417教会大分裂(シスマ)教会の信頼崩壊、宗教改革の前兆
1450頃ルネサンスの隆盛人文主義が信仰中心社会を揺るがす
1517ルターの宗教改革中世的教皇権の終焉
1789フランス革命封建的特権と聖職者特権の廃止

教皇権の盛衰と封建社会の変容(フローチャート)

ここで押さえたいポイント

  • 教皇権の盛衰は、封建制度の興亡と完全に重なる。
     両者は「土地と信仰」を媒介とした中世的秩序の両輪であった。
  • 十字軍以後の商業発展と貨幣経済の浸透が、
     教会・荘園・封建領主の支配構造を同時に揺るがした。
  • 宗教改革は、封建社会を精神面から終わらせた最後の一撃。
     理性・個人・国家という新たな秩序が誕生した。

【教皇権の盛衰と封建社会の変容(流れ図)】

西ローマ帝国の滅亡(476年)
 ↓
教会が秩序の中心へ。修道院が社会再生の拠点となる
 ↓
ピピンの寄進・カールの戴冠
 → 教皇が政治的権威を獲得
 ↓
叙任権闘争・カノッサの屈辱
 → 教皇権が精神的頂点へ
 ↓
十字軍の提唱(ウルバヌス2世)
 → ヨーロッパ統合の象徴
 ↓
インノケンティウス3世期の普遍王国
 → 教皇権の絶頂
 ↓
十字軍の失敗・商業の発展・貨幣経済の拡大
 → 封建社会が動揺
 ↓
王権国家の台頭(アナーニ事件・アヴィニョン捕囚)
 → 教皇権の政治的敗北
 ↓
教会大分裂(シスマ)
 → 信仰の危機
 ↓
ルネサンス・宗教改革
 → 個人信仰と理性の時代へ
 ↓
封建制度と中世秩序の終焉
 → 近代国家と主権の誕生

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